漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

透明な傑作という概念について

 ジャンプで連載中の「タイムパラドクスゴーストライター」に、この前「透明な傑作」という概念が登場しました。タイムパラドクスゴーストライターは、何故か10年未来のジャンプが自宅に届く環境を手に入れた漫画家志望の主人公が、そこに掲載されていた漫画をパクることで連載を獲得するお話で、作中に登場する倫理観が特殊で、奇妙な漫画だなと思いながら読んでいます。

 

 「透明な傑作」というものは、「全人類が誰でも楽しめる漫画」のことです。これは主人公が目指すものであり、作中でパクられた傑作「ホワイトナイト」の作者が目指すものでもあります。

 

 主人公の佐々木くんは、まだ連載を獲得できなかった頃、編集者からのダメ出しに「僕はただ沢山の人を楽しませられればそれで」と答えます。そして編集者からの返答は「沢山の人って誰だよ」や「一部の読者層釣った方がいくらか読む価値ある漫画になる」でした。それでも、佐々木くんの目指すものは、「みんなが楽しめるような漫画」です。

 強い作家性があればあるほど、その偏りのせいで、楽しめる人が減るのではないかという考えがそこにあります。例えば、絵柄が独特だから読まないという話も聞きますし、作者の持つ思想性が受け付けないとか、作中の背後に流れる価値観が受け入れがたいので読みたくないというような話もあると思います。まさに本作自体が、作中における良い悪いの価値観が受け入れ難く、あまり読みたくないと言っている人もいました。

 だからこそ、全人類が楽しめる、つまり、楽しめない人がひとりも存在しない漫画が存在するならば、そのような強い作家性は、読者層を狭めてしまうために不利になるという考え方が本作には存在します。そういえば、昔、あるゲーム会社の人に、子供向けを意識したりして作ってるんですか?と聞いたところ、その人からは「できるだけ幅広い人に遊んでもらうために、結果的に子供が遊べるものになっている」という回答がありました。理屈は通っている思います。

 

 だから、作者側からわざわざ読者層を絞り込むことでは、それを楽しめない人を無視していると考えることもできますし、そのために強いクセのある作家性は不要、限りなく透明なものこそが正解という理屈は、そういう考え方は全然あるよなと思いました。

 例えばゲームだって、幅広い人が遊べるように推奨年齢のレーティングを下げるための表現の変更が発生したりしています。決して特異な発想ではありません。ポリティカルコレクトネスだってその一種だと思います。自分たちの表現を「誰が楽しむことができないか?」について自覚的になることは、現代の世の中では既にすごく求められることで、その上で、その表現をするかしないかを考えることが求められます。

 

 ならばきっと、「透明な傑作」というものは、「誰かがそれを楽しめない可能性を、完全に排したもの」としてのみ存在するだろうことができるのでしょう。

 

 さて、ここで思い出されるのは冒頭の編集者による「沢山の人って誰だよ」という問いです。

 僕の認識では、読書体験とは、「作者と読者の共同作業によって発生するもの」です。「何の漫画を読むか」と同等かそれ以上に、「それを誰が読むか」ということが読書体験には関わってきます。そして、世の中には本当に多様な人がいるわけです。
自分が絶対いいに決まっていると思ったものでも、その人の感性からすれば全く良くないと思ってしまうかもしれません。世の中には、炊き立てのほかほかご飯が嫌いな人だっているわけです。外国で、現地の人が喜んで食べる孵化寸前の鶏の卵を、多くの日本人は気持ち悪く感じて食べられないかもしれません。外国ではタコを食べる日本の文化を、気持ち悪いと感じることもあるようです。

 多様な人がいれば、多様な受け取り方があります。読書体験はその多様性の数だけ存在します。全く逆の感性を持つ人がいたとして、それぞれのどちらかが正しいのではなく、等しく価値があり、ただ真逆なだけです。だから、「全人類が楽しめる漫画」というのは、基本的には「ない」のだと僕は思います。その多様性の中には、互いに打ち消し合うようなものも含まれるからです。

 

 事実、日本で一番売れている漫画にだって、それを楽しめない人は当然います。「全ての読者に好かれたい」というのは、意地悪な言い方をすれば、「その中の一人一人の個性には目を向けるつもりがない」とも言えます。だとすれば、結局最初の編集者の言葉が正しかったということになってしまいますね。

 

 とはいえ、これは漫画の中に登場した概念なので、作中には存在してもいいはずです。他の作品でも、例えば「響-小説家になる方法-」に登場する「御伽の庭」という小説は、どれだけそれを書いた響を嫌っている人でも、読んでしまったからには響の存在を認めざるを得なくなってしまったり、普段は読書をしないヤンキーでも、読んだらすごいことが分かるというような、まさに誰もがその面白さを認めざるを得ない透明な傑作です(ただし作者のクセは強い)。響を認めたくない場合でも、読んだら負けてしまうので、勝ちたければ読まないで済ますしかありません。

 「将太の寿司」において将太くんを憎んでいた笹寿司の笹木も、最後の最後になるまで将太くんの寿司を食べずに来たからこそ敵でいられたのかもしれません。「おさまづま」で、妻の描く漫画を最後まで読まなかった夫は、最後まで妻の存在を認めない人でした。「BECK」のコユキの声を聴いたら、皆はあんぐりと口を開けて、その存在を認めざるを得ないわけです。

 

 物語の中であれば、そんな透明な何かしらが存在する余地があります。100人いたら、100人がそれを面白いと心から言えるものは人類の見果てぬ夢のようなところがあるのでしょう。全ての人間が心から面白いと思えるものが本当に存在するなら、その漫画で世界征服だってできてしまうかもしれません。あらゆる人の価値観の多様性を全て引き受けることができるか、あるいは、そのさらに奥にある根源に到達できているということだからです。

 これは冗談ですが、世界の人口をひとりまで減らせば全人類が楽しめる漫画は達成できますね。人類の多様性の方を減らすという最悪のアプローチもありますね。

 

 現実で考えた場合、100人いたら100人が楽しめるということはさすがに不可能に思えても、90人が楽しめることを考えることはできるかもしれません。一方で残りの10人はなぜ楽しめないのかについても、考えておくことはきっと必要でしょう。なぜなら、その90人の楽しさは、残りの10人を傷つけることによって成り立っているかもしれないからです。

 僕の価値観では10人を傷つけて90人を楽しませるものだってあっていいと思いますが、その時は、「10人を傷つける可能性は認識していたが、それでもその表現をしたかった」と認識することが誠実さだと思っていて、決して「傷つけるつもりはなかった」とは言わないでほしいなと思ってしまいます。

 そして、僕自身は100人いたら1人しか楽しめないようなものでも、全然あっていいと思っていて、だってその1人が自分かもしれないじゃないですか。他の99人に無視されたり、不快な思いをさせたとしても、ただ1人の自分のような人間のために作られたと感じられるものがあったとしたら、それは少なくともその1人のとっては救いになります。それを奪われたくないなとは思うわけですよ。どうしても。

 

 これは偏見ですが、「漫画が好きだ」という気持ちが強い人ほど、自分がその1人になっているということに何かしら救われてきた自覚があるんじゃないかなと思います。なぜそう思うかというと、僕がそうだと思ってるからです。

 だからこそ、その1作で100人全員が楽しめることって本当に必要?という疑念もあって、こういうことを色々考えてしまうんじゃなかなと思いました。例えばその理想に従って、99人が楽しめるところにまで到達できたとしても、残りの1人が自分だったらどうしようとか思うんですよね。

 その全人類というくくりに、本当に自分は含まれているのかな?と。

 

 どうですか?僕は人類ですか?

「女の園の星」と理解し難い女子高生関連

 和山やまの「女の園の星」の単行本がちょっと前に出ましたね。めちゃくちゃ面白いんですけど、これは女子高の先生である星先生をとりまくお話です。

 

 この漫画のどこを面白いと僕が感じているかというと、人の思考の流れや飛躍を追っていくのが、めちゃくちゃ心地よいんですよね。そこに、周囲の人々との、どうにも上手く取れていないコミュニケーションが加わることで、思考が変化したりさらに飛躍したりが激しくなってめちゃくちゃ面白くなってきます。

 

 このお話に出てくる人たち同士は、上手くコミュニケーションがとれていません。いや、そもそも人間は基本的に上手くコミュニケーションがとれないものだと思うので、そこがリアルに詳細に描かれていることにおかしみを感じてしまいます。

 でも人が自分は上手く取れていると思ってしまうのは、人間は主観でしか物事を見ることができないからです。他人の内心が分からないので、自分の中で勝手に想像で辻褄を合わせて納得してしまいます。

 

 それを色んな人を客観的に内心まで見ることができることが面白いというか、勘違いが面白いというのもありますけど、確かに、これしか知らなければこう考えても仕方ないなという面白さもあって、人間のやり取りって面白いんだなとおもっちゃうんですよね。人間が面白いということです。他人が面白いということです。

 

 さて、この漫画が他の漫画と違うように思うことは、女子高生という存在の取り扱い方かなと思ったりします。連載している雑誌が女性向けであり、なおかつ主人公が男性であるということもあると思うのですが、星先生にとって自分の教え子である女子高生たちは、理解が難しい外部者として描かれてるように見えるんですよね。

 なので、それぞれ個性的な存在でありながら、そこはかとないモブ感というか、味方で主役級の個性を発揮するというよりは、こんなに個性的なのに、脇役感がすごくて、このお話は星先生側に主観が置かれている漫画なんだなと思ってしまいます。

 

 漫画で女子高生というと、誘因材料として使われがちというか、女子高生が主役だからこそ、おっさんが主役だったら読まれにくいような漫画が成り立つというようなことがあると思っていて、でも、この漫画の場合は真逆です。

 読んでいて、こいつら理解不能だな、いや、理解はできても、その枠の外に自分の立場があるんだなと思ったりしてしまいます。

 

 それは例えば、彼女たちの中でつけられている先生のあだ名の容赦なさとかから読み取れるものです(「ポロシャツアンバサダー」という言葉がめちゃくちゃツボにハマって、そのページにしおりを挟んでしまいました)。

 先生たちと女子高生は仲間ではないですが、でも、先生たちは先生だから、そこのコミュニケーションから逃げることができません。その、先生と生徒という関係性から生まれる異文化コミュニケーションが、双方の物の考えにめちゃくちゃ影響し合っていて、そこがめちゃくちゃ面白いなと思っています。

 

 例えば、第五話はこっそりと星先生の観察日記をつけている生徒が出てくるのですが、星先生とその生徒の間の直接的なコミュニケーションって、宿題のノートと間違って提出してしまった観察日記ノートのやりとりだけなんですよね。それ以外は、星先生とその生徒の頭の中だけで起きたことです。双方が頭の中で相手をどのように理解したかの発散の仕方が面白くて、完全にすれ違っているんですが、でも、当人の中では辻褄が合っているわけです。

 

 ここで読者でよかったと思ってしまいます。読者である僕は全てを見通すことができるから。

 

 最後に、星先生と同僚の小林先生の関係性がめちゃくちゃ好きなんですよね。星先生は寡黙な人で、対人関係は半歩引いてやりとりするようなタイプなんですが(親近感がある)、一方で小林先生は、他人に平気で半歩踏み込んでくるような性格です。

 個人的な経験からも思うんですが、半歩引いている人ってそのままだとあんまりドラマがないというか、一人で自分の中だけでも十分なので、頭の中だけで色んなことが完結しちゃうんですが、そこにずけずけと入り込んでくる人がいると、行動に繋がったりします。半歩引いて生きている人は、他人に踏み込まれたことで「やれやれしかたがない」と動く性質があると思うんですよ。なぜなら僕がそうなので。

 

 その入り方が深すぎると引いてしまいますし、浅いとか入って来られないと何も起こらないので、半歩引いている人と半歩踏み込んでくる人が、ちょうどいいコンビで存在することで色んなことが起こります。とにかくそれが心地よくて、あー、居心地が良い!ここにずっと住みたいと思える世界が広がっていて、めちゃくちゃいいなと思います。

 

 この世界に住むときの方法ですが、別にどこかのキャラクターになりたいわけではなく、全体を見通せる神の視点でいたい感じなので、じゃあ読者じゃん。もう達成されてるじゃんと思って、完全に勝利してしまいました。

 

 皆さんも勝利するために、未読の人は読みましょう。フィールヤングで連載中の「女の園の星」。

生の映画を観ているようなモンだよ関連

 皆さんは「こづかい万歳」を読んでいますか?こづかい万歳は、おこづかい制で生活をしている作者の吉本浩二先生をとりまく、おこづかい制で生活する人々の節約生活を追ったドキュメンタリー的な漫画です。その中に、作者の子供の頃からの友人である村田さんという人が、駅の邪魔にならないところに立って、行き交う人を見ながらお酒を飲むという「ステーションバー」という概念が登場する回があります。

 

「生の映画を観ているようなモンだよ…」

 

 これはそんな村田さんの言葉です。駅を行き交う人々の様々な様子に個々人の人生を、想像しながら眺め、感動して涙ぐむのです。

 これはとても面白かったエピソードなんですが、これ以後、僕が人と話すときに、何か感動するような場面が話に出てくるたびに「生の映画を観ているようなモンだよ」と言っており、めちゃくちゃ影響を受けているんですが、でも、「生の映画」ってなんでしょうね?そんな言葉があるんでしょうか?

 

 僕が思うに、生というのは「加工されていない」ってことだと思うんですよね。基本的に僕らが普段目にする映画は加工されているじゃないですか。制作者の意図があって、観た人にどんな気持ちにさせたいかという気持ちがそこに込められていることが多いと思うんですよね。

 でも、生の映画は、その意図が最初からないんだと思います。なぜならそこに、監督も脚本家も撮影者もいないからです。加工しているとするならば、観ている人自身がやっていることだと思います。自分が目にする世界を自分で切り取って編集し、理解した内容で自分で感動しているんですよね。これはかなり高度な行動だと思いませんか?

 

 目の前で繰り広げられる他人の行動はどうしても断片でしかありません。足りないピースは自分の想像力で補って、感動できる感情回路やストーリーを見出してひとりで勝手に感動しているということなんですよ。物語の自給自足じゃないですか。

 

 でも、よく考えたら僕たちもこのような種類のことを普通にやっていますよね?例えば、野球を筋書きのないドラマだと表現した人がいました。例えば、身内の子供の成長を見たりして感動したりします。

 映画はそんな誰かの経験を生の映画として抜き出して加工し、固定化させている装置と捉えることができるかもしれません。つまり映画の感動は、元を辿れば誰かの個人的にしか分からない経験を、もっと誰にでも分かるように置き換えて編集し、パッケージングしたものです。世の中に沢山ある映画の、元の元にはその制作者が感じた生の映画があったりもするんじゃないでしょうか?

 

 そんな行為を、駅で行き交う人を見るだけで出来てしまうステーションバーの村田さんはすごいなと思いました。僕にはとてもできない。

 

 でもなんか、こういうのができるかできないかって、スポーツとかを楽しむうえで重要なスキルなんじゃないかと思うんですよね。何かを見て自分の中で感動を呼び起こす行為です。僕はこれが上手くできないので、スポーツ観戦とかで熱狂するのが難しいんだと思っています。

 そういうのが上手くできない人は結構いるように思います。なぜなら、例えば、スポーツの大会を見て興奮しても、頑張って何かを成し遂げているのは、他人であって自分ではないとか思ってしまうためです。

 ちなみに「最強伝説黒沢」と「ブルーピリオド」では、このようなスポーツへの熱狂から、これは自分の物語ではないと覚めてしまうという物語の始まり方をしていました。それも全然分かりますけど、でもまあ、それはそれとして、他人の人生に勝手に感動したりしてもいいじゃないですか。

 

 だって、そんなことを言い始めたら、漫画を読んで感動したりするのなんか、自分の人生でもなければ、そのように作られているって話ですよ。感動するように仕組まれた作り事を見てまんまと感動してしまうだって虚しくなってしまいませんか?でも、感動はするわけですよ。僕は現にしています。

 むしろ、僕のように共感性が乏しい人間にも分かるように作られているから、作者によってパッケージ化された物語に感動をしやすくなっているのかもしれません。。

 

 きっと世の中の多くの人が、程度の差はあれステーションバーなんですよ。自分の外側にあるものを見て、足りない部分は想像力で補って、その様子に一喜一憂したりするわけじゃないですか。

 人間社会は、どこもかしこも少なからず駅ですよ。人が行き交い、出会い、別れ、そこにドラマがあります。自分がその行き交う人になることもあれば、それを観ているステーションバーの人にもなるわけです。

 

 なんか上手いこと言おうとしてミスった気がしますが、こづかい万歳には色々詰まっているので、読んで色んなことを思いましょう。

Netflixの「呪怨:呪いの家」を観た関連

 Netflixで「呪怨:呪いの家」を観たのですが、面白かったです。

 

 呪怨のシリーズは、最初のビデオ版と映画版を何作か観た覚えがあり、ただ、怖い映画は怖くて苦手なので、あんまり直視せずに見ていたような記憶があるので、どれほどこれまでのことを分かっているかというと微妙なのですが。

 

 「呪怨:呪いの家」は、呪怨のシリーズにはモデルとなった実在事件があるという語り出しから始まる物語です。このお話の中では、呪怨の元ネタとなったとされる様々な事件が描かれます。これらの事件は、本当に実在した事件をモチーフとして構成されており、フィクションである呪怨の元ネタである実在事件という、フィクションの実在事件化という内容でありながら、実際には実在事件のフィクション化という逆方向のことが行われているのがなんか面白いなと思いました。

 呪怨といえば、家に憑りついた伽耶子の霊が巻き起こす霊障がその中心にある内容でしたが、本作はその立て付けからして、伽耶子は存在しませんし、伽耶子のモデルとなったのであろう霊についても、あまり直接的には人に何かの危害を与えることがありません。

 

 僕の印象では、霊は歪みのように思えました。その家に存在する歪みを象徴するような存在です。

 

 この物語の中で起こる惨劇の多くは、霊ではなく人間が巻き起こしたものです。しかしながら、それらの人間たちが、本当に正気であったのかどうかというところに疑問が残ります。つまり、そこにあった惨劇は、人間が家の持つ歪みに影響を受けて起こしてしまった出来事のように思えたということです。

 

 「場所の呪い」というのはあると思っていて、それは物理的な場所のこともありますし、立場のこともあります。その場所にいる人が同じようなことをしてしまうということは世の中にはよくあって、その場所にいさえしなければやらなかったことをやってしまったりします。

 例えば、ある会社の経営者の人が、会長職に退いてから、それまでとは人格が変わったかのような穏やかな物腰になったことがあり、その代わりに社長になった人が、それまでは言わなかったような厳しい物言いをするようになるようなことを目にしたことがあります。

 

 このように、場所には歪みがあります。それが人間に対して、認知に干渉したり、要請をする形で、人の行動を縛ってしまいます。これは身近にもある話です。人は様々なものに影響を受けて自分の行動を制御しており、さほど自由ではありません。

 

 この呪いの家の周辺にいる人たちは、家にある歪みに捻じ曲げられているように思えました。

 これが本作の嫌なところで、狂ってしまったそれぞれの人は、それぞれある程度の正気を保ち、それぞれある程度狂っています。その歪まされた結果だけが見えて、その奥にある何にどのように歪まされているのかは上手く見ることができません。二次創作だけを見せられて、元の作品を想像させらえているような状態です。だから、分かりそうで分からず、分からなそうで分かるという状態になってしまいます。

 

 これは、これまでの呪怨シリーズと本作の関係性と似ているとも考えることができます。これまでのシリーズを見ていた人からすると、今まで観てきたものの元ネタという建てつけの事件から、類似する部分を認識することができるということです。なので、知らないのに知っている事件を見ているという不思議な感覚がありました。

 

 僕は、人間は分かりそうで分からないものを恐怖し、分からなそうで分かるものを面白く思ってしまうのではないかと思っていて、断片的な情報と錯綜する時系列によって、分からなさそうで分かるものが、本作の中には充満しており、そして最後の方に家の歪みが思いもよらない方法で繋がってある種の理解に至ります。でも、それをもってしても最後の描写が意味するものには、想像する余地が残されているだけです。

 理解はできたようでいて、そうでない可能性もあり、もやもやとした不安は残ってしまうのでした。

 

 シーズン1と表記されているので、これはクリフハンガーで次のシーズンに続くのかもしれませんし、これで終わりというなら、終わりで納得することもできて、その辺は人気次第なのかなとも思いますが、不思議な感覚でした。

 

 本作は、シリーズのアイコンと化していた伽耶子や俊雄から脱却した話なのかなと思っていて、なぜなら、伽耶子や俊雄は既に分かっているものになってしまっていますから、分からない怖いものから、分かる面白いものに変化してしまっているきらいがあります。

 

 ある場所によって人が知らずに歪んでしまうということ、その原因が誰かの人格というよりは、自然現象のようにどうしようもないものとして描かれている恐ろしさのようなものを感じたところがあって、だからどうしようもなく、そこに近づかないようにするしかないというある種の穢れのようなものを感じました。

 

 なので、これで終わりなのが怖さの源泉なのかもなと思い、これで終わった方がホラーとしてはいいのかなと思ったりします。でも、それはそれとして、続きがあるならあるで観たいなあと思いました。

特定の誰かに好かれたいとき人はどうするのか関連

 僕は今までの人生の中で、あんまりこの人に好かれたいと強く思ったことがありません。記憶している限り、幼稚園入る前ぐらいの時点で、既にそういうことを思っても仕方がないなという感覚があったように思います。そこには自分の生育環境が関係しているのかもしれませんが、よく分かりません。

 ただ、他人に対して「この人、好きだな」と思うことはよくあります。でも、相手の好きが自分に向いてくれることについては、別にそうじゃなくてもいいと思ってしまうんですよね。確かに相手の好意が自分に向いてくれたら嬉しくは感じますが、だって、そうじゃなくても自分が相手のことを好きなことは自分の中で確定していて、それで十分に満たされるなと思ってしまいます。

 

 誰かに好かれたいと思うことがあまりないので、誰かに好かれる努力をした覚えもなく、それゆえに自分は友達が少ないのではないかと思います。ただ、そうであることにも特に不都合は感じていないのですが。

 ただ、今いる友達に好かれようと努力して友達になったわけではないので、なぜ友達になれたかの理由は分からず、再現性がないので、もし自分の人生がもう一度あったら、同じ人と仲良くなれないかもしれないなと想像して怖くなることがあります。

 

 「僕の心のヤバいやつ」を読んでいて面白く思った部分は、第1巻の終わりのあたりの、市川くんが山田さんのことを好きだと自覚する場面です。この物語は、天然ボケではあるものの目立つ美人で雑誌モデルもやっている山田さんを、陰キャ中二病で主人公の市川くんが殺す妄想を抱えているというところから始まるものなのですが、第1巻の終わりのあたりでは山田さんに対する市川くんの気持ちが、実は「殺意」ではなく「好意」であることを自覚する過程が描かれます。

 それは体育中の事故で、山田さんが怪我をしてしまい、決まっていたモデルの仕事を休まなければならなくなってしまったことで、泣いている様子を市川くんが見てしまったからです。自分の不注意で、周囲の期待に応えられなくなった悔しさと悲しさを抱える山田さんの様子を見て、我がことのように悲しくなってしまう自分に戸惑い、市川くんはこれが好意であることを自覚するのです。

 そりゃそうですよ。誰かの願いが叶って欲しいと願う行為が、好意でなくてなんなのでしょうか?

 

 しかしながら、世間一般の好意には、また別のニュアンスもあると思います。それはつまり、「だから相手に、自分のことを好きになって欲しい」と願うことでしょう。中学生男子なら、こちらのタイプの好意の抱き方の方が一般的かもしれません。

 「相手があるがままでいて欲しい」と願うことと、「相手に自分のことを好きになって欲しい」と願うことは、矛盾はしない解ももちろんありますが、「相手が変わらないで欲しい」ということと「相手に変わって欲しい」ということという、真逆の気持ちの発露であって、それが同じ「好意」という言葉に回収されているのが面白いと僕は感じています。

 

 市川くんにはもちろん山田さんに自分を好きになって欲しいという気持ちもあるでしょうが、それ以上に、山田さんが山田さんらしくあって欲しいと願う気持ちがあるように思えて、だから、自分が山田さんにより好かれ、自分のために変わって欲しいと願う気持ちを押し込めてしまっているのではないか?と思いながら僕はこの漫画を読んでいます。

 その結果、現在3巻まで出ているこの漫画は、市川くんに好意を抱くようになったと思える山田さんが、どうにかして市川くんの好意を自分に向けさせようとする展開になっています。それは実はとっくにそうなのですが、市川くんはその気持ちをあまり直接的に表に出さないので、匂わせはすれど伝わってはいなさそうです。この漫画、市川くんのモノローグが読める読者からすると自明のことが、山田さんにはその情報が解禁されてないので、ホントはっきりしない匂わせばかりの態度な市川くんの存在があり、めちゃくちゃもどかしいだろうなと思います。

 ただ、市川くんがそのように自然と押し込めてしまう「相手に自分を好きになって欲しい」と願う気持ちを、山田さん側は押し込めないのだなと思って、それが2人の対比となっていて面白いなと思っています。

 

 このような、好意を抱いている他人に自分を好きになって欲しいと願うかどうかは、別に願う人と願わない人のどちらが正しいということはなく、そうしてしまう人と、そうしない人が世の中にはいるよなと僕は思っているのです。

 

 ただ一方で思うのは、誰かに好かれたいと願うことはリスクもあることです。なぜならば、いくら相手に自分のことを好きになって欲しいと願っても、相手が思った通りに自分を好きになってくれるとは限らないからです(好きになって貰えないことの方が多いんじゃないでしょうか?)。その願いを持ってしまったことが罪だとすれば、拒絶と言う形の罰で自分が傷ついてしまうかもしれません。僕ヤバの市川くんには、それが怖くて踏み出せないところもあるように思います。そして、一方の山田さんは自分に自信があるので、自分が傷つく可能性、つまり市川くんに好かれずに終わってしまうことをあまり考えていないのかもしれません。

 

 でも、実際の話、自分がこの人に好かれたいと強く願ったのに好かれない結果になった場合、人はどういうことを思うのでしょうか?相手の自由意志なのだから仕方ないと思うでしょうか?そう思えるなら、そもそも相手に自分を好きになって欲しいなんて思わないかもしれません。自分には価値がない人間だと思って落ち込むでしょうか?それは仕方ないかもしれません。いつか立ち直ってまた別の好きな人ができたらいいですよね。

 ただ、自分を好きにならない相手が「悪い」と思ってしまったとしたら、それは怖い話になります。相手が自分を好きにならないことが悪いことであるから罰さなければならないと思ってしまう人は実際にいて、それが怖いことになったケースが身近でもいくつかあります。

 

 そのような、自分の思い通りにならないことに対する不満の矛先は、好きな相手自体に向かわない場合もあります。例えば、相手に他に好きな人がいる場合に、その相手が好きな人に対して不満が向かってしまう場合があります。この場合、相手のことが好きで大切であるという気持ちを維持したままで、自分の不満のぶつけ先を見つけることができるので、良かれと思ったままで悪い行為がエスカレートしてしまったりします。実際にあったことはあまり具体的には書くことはできないのですが。

 

 人間にはそれぞれに意志があり、自分と相手が対等な人間だと思うなら、自分の思った通りに相手がならないのは当たり前のことです。それを強制していい理由なんてないだろうという諦めのようなものがあり、僕が抱えている好かれたいとは特に思わないという気持ちの根っこも、実はそういうもなのかもしれません。

 

 誰かと仲が良くなることって、そんなにコントロールできないんじゃないかなと感じています。それは分かりやすい、何かしら秀でた特技があるだとか、お金持ちだとか、有名であるだとかということとはそんなに関係がなかったりすると思うからです。

 僕が誰かを好きだなと思うようになるのには、大体1年から3年ぐらいの時間がかかることが多くて、その間にその人が何に対してどのように反応したかとか、何を思ったとかを話してくれたとかの沢山の情報の積み重ねが段々と好意に変換されていくような感じがしています。

 

 だから、100億円持った人が「我は100億円持っておるぞ!好きになれ!」と言ってきたとして、いや、100億円が欲しくて「好きです!」と心にもないことを言ってしまうのかもしれないですけど、実際に好きにはなれないだろうなと思います。

 

 その立場が逆だったらどうですか?自分が誰かに好かれるように振る舞うのってどうですか?どうすればいいですか?もう分かんないですよね。そうしないといけないと思ったとしても、どうやればそうなるのか分からなくて、ただ苦しんでしまうのではないだろうかとネガティブな想像してしまいます。

 

 だから、好かれようなんて期待しない方がいいんじゃないですか?って思うんですけど、でも、そういうのって自分の意志で簡単にどうこうなる問題でもなく、どうしようもなく思ってしまう人は思ってしまうからしんどいんだろうなと思うので、それは辛いだろうなと思います。

 人間の苦しみは、基本的に自分以外のものが自分の思った通りにならないという枠組みに入ってしまうと思うので、これも同じですよ。辛い。好かれる好かれないとは関係なくともこの枠組みの中の苦しみは絶対どこかにあると思います。辛いなー。でも、辛い人生をやっていくしかない。

 一切皆苦。辛い人生をやっていきましょう。

自分の頭で考える関連

 皆さんは自分の頭で何かを考えていますか?

 

 僕自身は本当に自分が自分の頭で物を考えているのか疑問があります。というのも、「自分が考えたこと」と、「自分以外の誰かが言ったことに納得して内面化したこと」の区別が、考えるほどに自分の中で曖昧だからです。

 

 例えば、面白いことが好きなので、昔から面白いこととは何か?ということを考えているのですが、僕の自己認識では自分が考えた面白いと思うことには常に元ネタがあります。つまり、外部からインストールされたオモシロ回路によって出力したことを喋っているので、それは本当に自分が考えた面白だろうか?誰かの面白のパロディに過ぎないんじゃないだろうか?という疑問があるのです。

 なぜ、そのオモシロ回路を自分の中に導入したかというと、僕がそれを見たり聞いたりして笑った経験があるからです。自分が笑ったからには面白いものだろうという確信があり、その面白いものを自分で再生産すれば、きっとまた面白いに違いないということを信じてそうしているのだろうなと思います。

 

 つまり、パクリです。そのものズバリをパクっているわけではありませんが、何を面白いと考えるかという価値観と方法論をパクっています。パクる基準は自分が笑ったかどうかです。そして、僕が元ネタにしている人たちも、もしかするとまた、別の何かからパクっているのかもしれません。だとすれば、真のオモシロ回路のオリジンは誰なのか?もし誰もがパクリだとした場合、オモシロ回路は新しく生まれて広がることはないのだろうか?という謎がそこに残ります。

 多くの再生産とともに少しのオリジナルの歴史的な積み重ねと思えばいいんでしょか?

 

 ちなみに僕が面白の価値観として強く影響を受けているのは、ドラゴンクエスト4コママンガ劇場や、そこから派生した初期のガンガンの漫画です。さらに具体的に言うなら、南国少年パプワくん魔法陣グルグルがとりわけです。他には芸人の深夜ラジオをずっと聞き続けているので、深夜ラジオの投稿はがき群(無数)にも影響を受けています。他には、吉田戦車の漫画にも強く影響を受けていますし、古屋実の漫画にも強く影響を受けています。そして、田丸浩史平野耕太すがわらくにゆきG=ヒコロウの漫画にも影響を受けています。他にも沢山あると思います。

 僕の抱える面白には様々な元ネタがあり、それらの元ネタから必要な価値観を必要に応じて引っ張ってきて、再構成したものを喋っているので、自分にはオリジナリティがないなと常々思います。

 

 さて、自分の頭で考えていないということについては、科学的なことについても思い当たります。

 

 なぜなら、科学には人間がこれまで積み上げてきた歴史があり、僕はその巨人の肩の上に立っているに過ぎないからです。その状況において、今まで僕が学んできた科学を、僕自身がその全てについて検証実験をしたことはなく、最初からそれを正しいこととして学び、受け入れてきたという経緯があります。

 つまり僕の頭の中にある科学は僕自身が考えたことではなく、これは正しいことだということを外からまずインストールして受け入れるところから始めました。それはやっぱり自分の頭では考えていないのだと思います。しかしながら、このような自分の頭で考えないことはある程度仕方ないことでもあるのではないでしょうか?

 

 というか、自分の頭で考えた科学が、これまでの歴史の中での科学の積み上げよりも信じられるってことあります??

 

 そもそも、これまでの人が積み上げてきた科学の全てを自分自身の考えとするために、それぞれ最初から検証していくことは、それを行うだけで人生の全てを使っても足りない量のことです。確かに、科学とは検証可能なもので、再現可能なものであることが原則です。それでも、それができる可能性を維持したとしても、読んだ論文の全てを自分で検証することまではできません。

 人間一人の認知や時間には限界があるため、全ての科学的なものを自分が科学的に納得がいく形で検証できないということになってしまいます。だから、それらを検証するための枠組みが世の中にはあります。とはいえ、その枠組みだってどんな正しさを持っているかどうかを実際に確認しているでしょうか?

 

 世の中の教育の多くは、教科書に書いていることはそのまま信じてしまえばいいじゃないかというやり方で動いています。でも、もし科学的検証に耐えないようトンデモな内容のものが、教科書然として存在していたとしたらどうでしょうか?教科書の内容をそのまま受け入れるように、そういった科学的でないものもそのまま受け入れるということは危険ではないでしょうか?

 でも、信頼できる教科書と、信頼できない教科書はどのように見分ければいいのでしょうか?これは結構難しい話だと思うんですよ。信頼できる教科書は、多くの専門家の検証を乗り越えて存在しています。でも、専門知識がない人が、それらの専門家たちが信頼に足るかをどのように判断すればいいかが分かりません。

 

 こんな何も分からない世の中で使われている代表的な方法は、ある程度の検証ができそうな人を見つけて、その人間を信じることで、自分自身が検証する手間を省くというものです。

 例えば、その筋の専門家であるだとか、大学の先生だとかの肩書を見たり、その人がこれまでどのようなことを言ってきたかとか、その人が他からどのように言われているかとかを手掛かりにして判断したりします。僕も専門分野以外ではそんな感じです。

 

 でも、それってやっぱり科学ではないですよね?その人を信じていいかを疑うことはできても、科学的な部分そのものを批判的に検証ができていないからです。だから、この人は正しいぞと言われていると、そうかもしれない…と思い、この人は嘘つきだぞと言われていると、そうかもしれない…と思います。再現可能で検証可能でないものを、ろくな根拠もなく肩書や世の中の評判を手がかりに信じるか信じないかを決めているだけということです。

 その対象の本質的なところについては自分の頭で一切考えていないのに、そんな状況で、何かの専門的なことを分かったような顔をしてしまうというのが、悲しいことに世の中の基本なんだと思っています。

 

 実際にちゃんと検証できるのは、自分自身が専門的に取り扱っているごく狭い領域だけです。となれば、自分の頭で考えていると堂々と言えるのはそこでだけなのではないでしょうか?残りの部分では自分の頭では考えていないんじゃないでしょうか?

 

 ただ、科学を科学として捉えるのではなく、科学に詳しそうな人を信じることを選ぶという楽な方法で、生活における割とほとんどのことは特に問題ないのだと思いますが、でも、その信じた相手が間違っていたときに同時に自分も間違っちゃったりするのは怖いですよね?もし、その人が詐欺師だったらどうしますか?

 

 以前、声優の野沢雅子さんの偽物ツイッターアカウントができたとき、どう考えても偽物だと思ったのですが、「野沢雅子【公式】」という名前に反応して、沢山の人がフォローしているのを目にしました。「公式」と書いていると、「公式なんだ…」と思って信じてしまう人が大量にいたのが面白いなと思ったのですが、僕自身もスーパーで「おいしい牛乳」と書いてあるのを見ると「おいしいんだ…」と思って買ったりしています。

 人は何を見て何を信じているのかということの根拠を探っていくと、ホント信頼性のない情報に行き当たったりします。「AはBらしい」と思っていた根拠を自分の中で掘っていくと、「AはBらしい」とネットのどこかに誰かが書いてあった以外に根拠が見つからないこともあったりします。え!?そんなことだけを根拠に人は何かを信じるに足ると思ってしまうんだな…と思ったりするのは、わが身を振り返っても実際あるので、びっくりしてしまいますね。

 

 前出のツイッターアカウントの真贋見極めで言えば、そのアカウントを最初にフォローした人やその存在を広めた人が信頼できる人なのか、あるいは公式サイトからリンクが貼っているかなどの情報経路や周辺情報が自分の中で信頼できる水準にあるかどうかを元に信頼度が一定以上あるかで判断します。また、それを信じてしまって実は間違っていたときに、どれぐらいの問題があるのか?例えば取り返しのつかないようなことが起こる要素があるかなどを考えての判断になります。

 そういうことをして、何が信頼に足るのかという検証をしていますが、それでも騙されるときは騙されるでしょう。

 

 嘘を嘘と見抜くなんて、本当にできますかね?騙されるときは騙されるんじゃないですかね?だって、何かを信じるとき、結構雑な根拠から信じちゃったりするわけじゃないですか。

 自分の頭で考えているから大丈夫なんて本当に思えますか?本当に自分の頭で考えていることに自信がありますか?その考えを分解していくと、めちゃくちゃ雑な根拠しか出て来なかったりしませんか?誰かから手に入れた考え方に、誰かから手に入れたデータを当てはめたら自動的に出てきた答えを、自分の考えだなんて思い込んではいませんか?その区別はちゃんとついていますか?

 

 僕はもう、自分のそういうところを疑い続けています。そして、自分って何なんだろうって思ったりしています。自分の大部分ってひょっとして自分じゃなくないですか?誰か別の人の考え方を再生する装置のようでもあったりしませんか?

 そう考えると、僕はなにかとっても怖いなあと思いました。

「忍者と極道」と敬意・感謝・絆関連

 コミックDAYSで連載中の「忍者と極道」を皆さんは読んでいますか?

 

 この漫画は、江戸時代からの因縁のある忍者と極道の戦いの、現代に至る最先端の物語です。この漫画における忍者は、常人離れした強い肉体を持ち悪を討つために戦う存在です。そして極道は、手段を択ばず悪を成す存在です。そして現代では、忍者(しのは)くんと極道(きわみ)さんを中心としてその戦いが繰り広げられます。

 

 この漫画の基本構成は、山田風太郎の小説「甲賀忍法帖」を意識していると思われます。

 甲賀忍法帖は、能力バトルもののチーム戦という現代の少年漫画にも引き継がれ続けている構図の源流にあたるようなお話です。戦うのは甲賀と伊賀、そして甲賀の当主となる弦之介率いる卍谷衆、と伊賀の当主となる朧の率いる鍔隠れ衆です。甲賀と伊賀は、徳川の世継ぎを決めるための代理戦争として戦うことになります。ここで悲しいのは、弦之介と朧は恋仲であったということです。甲賀ロミオと伊賀ジュリエットというという章題にもあるとおり、惹かれ合う2人が、対立する組織の中で苦しむことになります。

 忍者くんと極道さんの2人の男も、戦いが始まる前に偶然出会います。彼らは同じアニメが好きであるということから意気投合し、忍者くんにとっては初めての友達、極道さんからすると、事故で失われたはずの感情を刺激する特別な存在として惹かれ合います。

 しかしながら、彼らはそれぞれが自分たちそれぞれの仇である忍者と極道であることをまだ知りません。いつか発覚するその爆弾を抱えながら、忍者と極道の戦いは激化していきます。

 

 この漫画の特徴的なところは、戦うにあたっての忍者と極道のそれぞれの特性のバランスだと思います。

 少数精鋭ながら圧倒的な肉体的な強さを誇る忍者と、数では勝れども常人でしかない極道では、単純には戦いになりません。しかし、そこにそのバランスを破壊するアイテムが生まれました。ヘルズクーポン、これは紙型のドラッグで、使用者の肉体を刃物や銃弾、爆発に耐えうるほどに強化してくれます。それでもまだ忍者が優勢だと思われるところに、忍者のどうしようもない弱点が存在しています。

 

 それが「情」です。

 

 強さでは圧倒的であったはずの忍者が、かつて極道たちに大敗北を喫したのは、忍者たちの情による判断間違いがあったからです。そしてそれは現代にも生きています。この物語は、忍者側に主人公視点、極道側に敵視点を置きながら、敬意・感謝・絆の力を積極的に使うのは、むしろ極道側です(もちろん忍者側にもありますが)。

 多くの物語で基本的に主人公側に割り振られる、友情の力を弱者である極道たちが発揮することで、忍者たちを追い詰める構図が存在します。

 

 ただ、極道たちの言っていることはおかしいんですよね。自分たちが人々を傷つけ、奪い、殺した罪を最大限軽く表現しながら、自分たちが忍者によって受けた痛みだけを強調しています。自分たちがいかに被害者であるかという認識をして怒りを燃やし、仲間内でだけ敬意・感謝・絆で結束を固めます。

 

 極道たちの行動原理は理解できる部分があり、理解できない部分があります。ここにひとつ補助線を引くならば、彼らは極道とそれ以外の人間を等価だとは思っていないのでしょう。だから他人を傷つけることと、自分たちが傷つけられることも等価ではありません。仲間のことを想い、厚く信頼関係を信仰しながらも、仲間ではない人々をゴミのように扱います。

 彼らは自分たちを孤独であると言います。社会に居場所がないと言います。だとすれば極道たちにとっての認識は逆なのかもしれません。極道でない人々たちは極道を仲間に入れてくれませんでした。仲間に入れて貰えないのであれば同じ人間ではないのです。

 

 これは例えば、「HUNTER×HUNTER」に登場したジャイロという男の行動原理を考えればより理解しやすいですね。自分は人間の枠組みに入れられていないと気づいた瞬間から、彼は人間たちへの暴力に目覚めました。

 

 世の中から居場所を奪われたはぐれ者たちが、力を手に入れて起こした大反逆という意味では、極道たちは自分たちを物語の主人公だと思っているのかもしれません。そして、その彼らの主人公性は読者にも分かる部分があるはずです。彼らはあんなにも間違っているのに。

 

 極道は忍者に恨みを抱えています。忍者も極道に恨みを抱えています。極道たちは悪いのに自分たちを主人公とする物語の中にいます。一方で、忍者たちだって本当に曇りのない正義でしょうか?彼らが正義のために行った殺しに、罪はないと言い切ることができるのでしょうか?これは憎しみの連鎖の物語です。互いに多かれ少なかれの視野狭窄であり、互いに自分たちを正義の主人公だと捉える2つの派閥の戦いです。

 

 だからこそ、「忍者と極道」は正義と悪の戦いであると同時に、悪と正義の戦いであり、悪と悪の、そして正義と正義の戦いであることが同時に重ね合わされた物語のように思えます。そこに矛盾があるからこそ、それはあるいは葛藤という形で感情の流れが入り組んで複雑になり、強いエネルギーが生み出しているのではないでしょうか?

 そして、その象徴たる忍者くんと極道さんの間には既に奇妙な友情があり、全てが発覚するときにその愛と憎しみの矛盾の前に立たされることだけが示唆されています。

 

 また、このお話には、他の沢山の漫画やアニメからの引用が存在します。忍者くんと極道さんを結び付けたものは「プリキュア」をモデルにしたアニメですし、極道たちは「特攻の拓」の台詞を引用します。特に説明なく登場する極道たち個々人が身につけた戦闘特性、極道技巧(ゴクドウスキル)にも他作品の影響が見て取れます。

 能力ものチームバトルの源流である甲賀忍法帖を下敷きとしながらも、その上には現代に至るまでの数々の漫画やアニメなどの物語の構成要素がてんこ盛りにされており、まるで人間の胎児が進化の過程をなぞるような形態変化を見せるように、一作の中に歴史が詰め込まれているようにも思えます。

 

 つまり、あの漫画で、あのアニメで、あの物語の中で、主人公たちをエンパワメントしたような要素が、多くの物語では主人公たち側だけに使うことが認められていたような要素が、忍者と極道のそれぞれに区別なく惜しみなく分け与えられ、彼らの精神に感動的に力を与えることができるのです。

 それが彼らをとにかく苛烈な戦いに駆り立てます。

 

 いやー、本当に毎週面白いですね。来週2巻が出ますが、今後もほんと楽しみですね。皆も読もう「忍者と極道」。

 

 あとこれは、最近描いたファンアートです。