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「三才山先輩は生きづらい」と自意識2周目関連

 中野でいちの「三才山先輩は生きづらい」の単行本がでました(電子版のみなので電子書籍のストアで探そう)。

 

 この漫画は、自意識過剰な三才山先輩が、色んなことを過剰に気にしては「悩乱しちゃう」と騒ぐ漫画です。悩乱というのは、例えば「ズボンのことをパンツと呼ぶのが恥ずかしい」というような、自分の行動が他人にどのように思われるのか?の意識に囚われた状態のことです。

 

 ズボンのことは昔から呼んできたようにズボンと言えばいいのに、ファッション誌などではパンツと呼ばれているのを参考に言い方を変えたら、「あ、コイツ、ファッション誌なんかを参考に言い方を変えてきたな」と周囲に理解されてしまい、その意識の変化が理解されてしまう想像に気恥ずかしさを覚えてしまうというような感じです。

 宇宙的に広い視野を持てば、別に気にせんでもええやろ…と思うようなことをどうしても気にしてしまい、そうしたいのにそうできないというような、あるいは、そうせざるを得ないのにそうしたくないというような、自分の行動に様々な制約を勝手につけてしまい、不自由で、あー!!!!ってなってしまうのです。

 

 三才山先輩は、その悩乱を鬼怒川くんに話しては、鬼怒川くんがめんどくさそうに諭してくれるというのがこの漫画の基本的な構成です。

 

 それぞれの話は一言で言えば「気にしすぎ」で終わる話ですが、それは分かっていてもその一言で終わらず、どうしても気にしてしまうのが人間の辛い話で、そして、そんな悩乱しちゃう三才山先輩を可愛いなと思って読むことになります。

 

 僕がこう思えるのは、自意識過剰ね…生まれたときから感じてたぜ!って感じなので、自意識についてはもうとっくに2周目に入っていると思うからだと思います。なので三才山先輩に対しては、おいおい、お前、自意識初めてか?って思うので、初心者を優しく見守るポジション取りができるわけです。

 とはいえ、今の自分がそういうのを全く感じなくなったか?というと、ずっと同じように感じてはいて、自分ひとりの中に三才山先輩だけでなく、鬼怒川くんもいることでコントロールしているのではないかと思うわけですが。

 

 こういう自意識過剰さは人間に昔からあるのだと思いますが、僕の感覚では今30歳前後ぐらいの人が、自意識のハンドリングについて手慣れた手つきを見せることが多いように思います。これも適当なことを言っているんですが、その辺の世代は物心ついたときからネットが割とそばにある生活だったんだと思うんですよね。

 

 自意識過剰というのは、つまり、他人からの目線を内面化してしまい、直接言われたわけではなかったとしても、自分の行動に影響を与えてしまう状態だと思います。そこにはまず内面化させるための他人の目線のインストールが必要なわけじゃないですか。インターネットには、他人の動向の細かい部分についてコメントする人がたくさんいるので、様々な種類の他人の目線をめちゃくちゃ収集できる環境だと思うわけです。

 

 そこにどっぷりいると、こういうことをしたら他人がどういうコメントをするだろうか?という想像は、すぐにつくようになると思います。僕もその想像を内面化しているので、ネットに出す文章は、出す前にそういう引っかかりを減らすためのやすりがけをすることも多いです。でも、そのコメント予想にも、様々な角度のものがあって、お互いに打ち消し合うような方向性のものもあります。

 つまり、他人の目線は、結局その人たち個人個人の偏りであって、絶対的に正しい何かではないという価値観の相対化です。その相対化が進むのも結構早いわけです。ネットから大量に摂取していれば。

 

 そういう経験から、自意識過剰さを抱えていても、ああ、自分は今自意識過剰になってしまっているなと冷静に見ている自分もいるというのが自分にとってのリアルです。三才山先輩は生きづらいで描かれているのは、その部分をなかったことにせず追いかけていくことだなと思いました。自分の中の鬼怒川くんに打ち消されて、自分の表面には出てこなかったとしても、自分の中には三才山先輩が確実にいて、いないわけじゃない、ちゃんとまだいるじゃないかと自覚することがとても愛おしくなるわけです。

 

 自意識過剰さ、実際、他人の目線の網目をかいくぐるようにして生きなければいけないのなら、それは本当に生きづらいと思います。でも、自分がすることについて、他人が何を考えているかを想像するということは、他人と上手くやっていく上では役立つ能力でもあるんだろうなとも思います。

 その察しが正確でなければ誤解でトラブルも起きますし、察し過ぎて一歩も動けなくなってしまうと辛いですが、でも、自分がこうしたとき、相手がどう思うんだろうって考えるのは、優しさの一種でもあるなと思っていて、その過敏さを意図的に鈍麻させるテクニックを身につけながら、社会の中で上手く流れていく方法を得ていくのは、僕自身がやっていることでもあると思っているので、そう悪いことじゃないなと思っています。

 

 ということで、三才山先輩に対しては自意識の先輩として、先輩面して見ているわけですが、今の自分も何年後かの自分からすると、まだまだ自意識過剰で、それにあまり気づいてないから助かっているだけかもしれないし、自意識はいったい何周目までやればいいのかは分かりません。

 皆さんは今自意識何周目な感じですか?

 

 あと、前作の「hなhとA子の呪い」についての感想も前に書いてるので、よかったら読んでください。

mgkkk.hatenablog.com

「ディザインズ」に出てくる楽譜と音楽の喩え関連

 ディザインズはHA(ヒューマナイズドアニマル)という、その名の通り人間化された動物を巡る物語です。HAたちは体の一部が人間のようであったり、あるいは体の一部だけが動物のようであったりする見た目をしていますが、遺伝子上は紛れもなく人間ではなく別の動物です。つまり、蛙のHAなら、見た目がどれだけ人間に似ていたとしても、遺伝子的にはただの蛙なのです。

 

comic-days.com

 

 彼らを産みだした男、オクダは、動物の遺伝子から人間に似た存在を生み出すその行為を音楽に喩えました。遺伝子は楽譜、生命は音楽です。遺伝子にはその生命の設計図が描いてありますが、楽譜は音楽そのものではないように、その記載をどのように解釈して奏でるかによって無数の可能性を持ったものだと言うのです。そして、オクダはその楽譜を音楽としてとても上手に奏でることができるのでした。

 

 オクダは「病」が好きだと言いました。ある種の病は、生命の形を本来想定されているものとは異なるものにしてしまいます。普通の人間なら忌避すべきその病を、オクダは生命の持つ可能性だと表現しました。遺伝子の中には何にでもなれる可能性が眠っています。そしてそんな様々な可能性の中から、必要なもの以外を閉ざすことで、生命は今の形に収められています。

 そのような「病」が発現してしまうことは一個体としてみれば不幸なことでしょう。ただそれは見方を変えれば、今この場所ではなく、いつかのどこか別の場所に適応できる可能性の示唆かもしれません。生命は世代を重ねながら様々な環境に適応した者が生き残っていく力強い存在であることの示唆です。そして、やはり、その「病」は一個体としてはおぞましくも映ります。なぜなら、今この場所は、自分が適応できる場所ではないことが表現されてしまうからです。

 

 さて、遺伝子は楽譜、生命は音楽という捉え方は、ディザインズという漫画そのもののようだと僕は思いました。

 

 例えば、楽譜をストーリー、音楽を漫画をのものに置き換えてみます。この漫画がどのような漫画であったかをストーリーで語ることはできますが、その語りからは抜け落ちてしまう無数のものがあるでしょう。そのように情報が抜け落ちてしまうため、ディザインズのストーリーとして出来事を要約したものを元に、別の人が漫画を描いたとしたら、きっとそれは全く違う漫画になってしまうはずです。

 

 例えば、谷口ジロー版の「餓狼伝」と、板垣恵介版の「餓狼伝」は同じ小説を原作にしておきながら、読めば異なる漫画だと思うはずです(板垣恵介版はストーリーやキャラクターにも手が加わっているので、そもそも別だろという話もありますが)。他には、林信康の「毒狼」では、最後の2回分は原作者の猿渡哲也自らが作画も担当しているバージョンがあります。つまり、そこからストーリーは共通でも作画における演出の違いによって異なる体験が存在することなどを見て取ることができます。

 同じ場面の人の顔の絵でも、描いた人が異なれば、その絵から想像する描かれた人の内面は異なるかもしれません。同じセリフであっても、どのような間で、どのような動きで、どのように言うかで、印象は全く異なってしまうのではないでしょうか?

 

 ある漫画がどのようなものであるかについて語られるとき、どうしてもストーリーが出てくる頻度が多いと思っています。例えば、桃太郎がどのような話かを表現するときには、桃から生まれた子供が犬猿雉をお伴に鬼退治に行く話、などと言われがちなのではないでしょうか?

 ストーリーが選ばれる理由は、物語の構成要素の中でも言語化しやすい領域であるということが関係していると思っています。また、物語が持つ全体の情報量の中でも、ストーリーを語ることが抜け落ちる情報量が比較的少なくて済むという判断もあるかもしれません。つまり、ある映画のWikipediaに描かれたネタバレのあらすじを読めば、その映画を観たフリがしやすいというような話です。

 

 でも、実際は漫画のような物語の構成要素はストーリーだけではないわけです。特に五十嵐大介の漫画は、ストーリーという言語化しやすいものだけでは語れない領域が大きいことが多いと感じています。例えば、デビュー連載である「はなしっぱなし」は、そのタイトルの通り、前振りや謎の解明や明確なオチがあるとも限らない、不思議な場面を描いた、感覚的表現そのもののような漫画でしたし、少し前にアニメ映画化された「海獣の子供」も言葉では表せない体験そのものを映像として表現しようとしたものでした。

 起承転結のような明確な何かが起こって、それがどうなって、どう変わって、どう終わるかという枠組みでは解釈することが難しく、それをわざわざ言葉に置き換えて表現するならば全て冗長になり、そのものを読んだ方がよほど簡潔になるような描かれ方がそこにあるわけです。

 

 このように言葉にしにくい領域では、言語化自体を最初から避けるという方法もあります。例えば、ある印象的な場面を挙げて「ここが良かった」と、しおりを挟むように共有する方法です。それだって立派な感想だと思います。ただし、それができるのは、複数の人がその場面を簡単に共有できるという前提で、それでなければ、上手く伝わらないかもしれません。

 つまり、テレビで放送しているものを同じ時間に見ているとか、ネットの配信とか、Web漫画の公開時間に一斉に読み始めるというような、対象そのものを共有できている状況が必要ということです。

 

 このように言語化が容易ではない領域では、とにかくそのものを共有することで伝えるということが、一旦自分の中で言語に置き換えて再配信するよりも早くて正確で伝わりやすいという認識があるのではないでしょうか?それが、最近のインターネットで求められている速度なのかもしれないなと思っているところがあります。

 Twitterなんかでは、作者が漫画そのものを貼っていったり、前提の共有が不要なぐらいに一コマで分かる印象的な面白い画像が広がっていったりするということについては、そういう解釈ができると思います。情報を反復する人々が、一旦自分の言葉に置き換えることをやめることによって、より効率よく広まっていくということです。

 

 さて、話を戻しますが、僕は自分が漫画を描くときにも前述の楽譜と音楽のようなことを考えています。どういう話を作ろうと最初に考えているとき、自分の中にあるのはまだ楽譜だなと思うからです。例えばプロットを作ったときに、それはまだ楽譜なので、最終的にお話として出力したいものとしての完成度は5%ぐらいなのではないかという印象があります(この割合は人によるでしょうが)。

 なので、こういう話を描こうというプロットができたという進捗だと、実質ほとんど何もできてないんですよね。ここからお話が出来上がっていくまでの距離がめちゃくちゃ遠くて、とにかくどうすればその間が埋まるのかで悩んでいるみたいな感じです。そして、出来上がったものは、そのプロットとは大体ことなるものになってしまいます。楽譜を無視して、その場その場で楽しく演奏した方が作ってて楽しいからでしょう。

 その楽譜と音楽の間を埋めるプロセスに創作の秘密があるような気がしているのですが、僕には今のところそこがどうなっているのかよく分かりません。同人誌を作っているときに、なぜそこが埋まって完成できるのかが本当によく分かっていません。ただ、一旦描いてみて、それを読者として読んでみたときに自分がどう思うかということだけが手がかりなので、とりあえず描いてみたあと、やすり掛けのように自分で何度もなぞりながら調整するということが有効なんだろうなと思っています。それを延々繰り返しているとそのプロセスを言語化できていませんが、経験的には出来上がることが知られています。

 

 ディザインズの物語では、その姿は人に似ていても、人とは決定的に異なる感覚器を持つ動物が、世界をどのように感じるかを想像することで、この世界の捉えなおしをする様子が描かれています。その裏側には作者が世界をどのように感じているかを描いているということがあると思っていて、作中のオクダがHAの感覚器を移植することで、新たな感じ方を得ていくように、読者の僕も、この漫画で描かれる世界の捉え方を取り込むことで、自分が感じていることを捉えなおすことができるように思いました。

 それが例えば、上記のようなことです。

 

 遺伝子と生命の関係性を楽譜と音楽のように捉えなおしたように、漫画の作り方も実は音楽的に捉えることができるのではないかと思うと、自分の中で曖昧になっていたことの少し理解が進んだように思いました。そういえば「魔女」に収録されている「うたぬすびと」という一作の中でも、音楽のように感じられる絵の話が出てきていましたね。

 

 読んだあとに、世界の見え方が少し変わるような漫画が好きです。そしてディザインズはそのような漫画のひとつだなと僕は感じています。

何かを選択することにストレスがあるの分かります関連

 インターネットを見てたら、「最近の若者は何かを選ぶこと自体がストレスなので、選ばないで済む方法を提供した方がいい」という話題を目にしました。

 これは別に最近の若者に限った話ではなく、時代や年齢に関わらずずっと言われている話だとも思うのですが、特に最近は無料やサブスクで無数の漫画やアニメやゲームや映画などなどに接する機会があり、その大量の中から選ぶという機会に遭遇しがちなので、意識することが増えているのかもしれません。

 

 僕自身、選ぶことのストレスを感じることはあります。それは、自分が馴染みのない分野で何かを選ばないといけないときです。例えば電動ドリルが必要なときにホームセンターに買いに行ったとして、そこに100種類の電動ドリルあったとしたら、どれを選んだらいいのか分かりません。そういうときには、そこから選ぶのが辛いし、自分がやりたいことに一番最適なものをひとつだけ向こうが提示してくれよと思ったりもするでしょう。

 一方で、漫画を選ぶことについては個人的にはあまりそれがありません。どれだけ無数の漫画があったとしても、僕は自分が読める量の中でどれを読むかを明確に選択していますし、そこに苦痛もありません。電動ドリルとの違いは、自分が欲しいものを見つけるためのだいたいの方法論が既にあるということだと思います。

 そしてもうひとつは、何かの漫画を読むことを選ぶということにあまり大きな意味を見出していないからでしょう。

 

 選ぶことの困難さは、基本的に、何を手掛かりに選んだらいいかが分からないということだと思います。つまり、優先順位がつけられないということです。例えば、一番大事なのが値段だとしたら迷う要素がありません。選ぶ必要がなく、一番安いものを選べばいいからです。そして、同じ値段で一番安いものが複数あったときに、また、どれを選んだらいいか分からなくなります。

 そういえば、僕はここ半年ぐらいゲーミングPCが欲しいなと思っていたのですが、色んな販売サイトで構成を変えて値段を眺めては、そのまま閉じるということを繰り返していました。これも選択できなかったから先延ばししていた事例です。

 それはつまり、どういうスペックのゲーミングPCが自分にとっていいのかが分からなかったということです。そこには、何か特定のゲームが欲しくて、それを遊ぶためのゲーミングPCが欲しかったわけではなく、なんとなくゲーミングPCがあれば欲しいゲームができたときにすぐに遊べて便利かも?と思っただけだったことが関係しているでしょう。

 そしてもうひとつの問題は、ゲーミングPCが高くてデカくて捨てにくいということです。つまり一回選択をしたら、取り返しがつきにくいということが関係しています。何かを選ぶ基準があいまいなのに、失敗したと思っても、家にその失敗したものがあり続けるということは厳しい気持ちになるので、一回の選択をするということに責任を感じてしまいます。

 なので、その責任を引き受けれるぐらいの気持ちになれるかという問題と、その気持ちになれるほどに何かを選ぶための基準が自分の中で明確に定まることが必要なのではないかと思います。

 

 で、結局この前注文したのですが、にもかかわらずそれは上記のことが定まったわけではありません。ちなみに注文したのは「GPD WIN Max」という独立したGPUも積んでいない小さなゲーミングノートPCです。

 

 結局、選ぶ基準は決まってないわけです。そして、選択の責任をとる覚悟ができたわけでもありません。ただ、「GPD WIN Max」は比較的安く、小さく、捨てなくてもそんなに邪魔にならないという、選択の責任が小さいものだったので頼むことができました。とりあえず買ってみて、それで動くゲームを遊んでみて、それで動かないゲームがやりたければ、改めてゴツいゲーミングPCを買えばいいかなと思ったわけです。

 つまり、失敗してもいいと思える範囲で一旦買ってみることで、自分の中に選択の基準を作ることから始めようと思ったのでした。

 

 言いたいこととしては、選ぶことが困難な場合、「最適解を提示してもらうことで選ばないで済ます」という解決方法の他に、「選ぶことの意味を軽くすることで、とりあえず選んでみることができる」という解決方法もあるということです。

 つまり、漫画であればとりあえず読んでみるということが気楽であれば、読んでみてから考えればいいと思うという話です。でも、それが簡単じゃないから困るという話なんでしょうね。

 

 そこには、何を手掛かりにして絞り込んだらいいのか分からないという話もあるでしょうが、僕が思うに、そこでは「選択する」ということには意味が見いだされ過ぎているのではないでしょうか?

 何かを選ぶということは、別の何かを選ばなかったということを意味するかもしれませんし、何かを選んだということは、それを意志をもって選んだのだろう?と逆引きされて何かを背負わされる可能性があります。

 例えば「自業自得」という言葉が世の中では便利に使われ過ぎている気がしていて、自分で選んだことについては、救済が不要という理屈が引き出されることも多々あるじゃないですか。例えば、詐欺にあったとしても、そこにお金を出すと選択したのは自分なのだから、貴方にも責任の一端はあるという論法が使われたりします。

 

 何かを自分の意志で選んだ人と、選ぶことがなかった人が同じ不幸に遭遇したとして、選んだ人が救済されにくい風潮があるのであれば、選ぶということそのものを拒否した方が得ということになります。世間的に、なんかぼんやりとそういう風潮があって、それが色んなところに反映されているのかもしれないなという気もしていますが、めちゃくちゃ雑な話だな。これは。

 

 いや、言いたかったのは、「選択をすることにストレスがある」ということは分かると思っていて、誰にでもあることだと思っていて、それは現時点で選択するための手がかりが足りないということと、選択をしたことによる責任が重くてできればしたくないという気持ちがあるんじゃないかと思うということです。

 そこを解消するための方法は、「ストレスがあるのだから選択をしなくて済むという方法を提供する」ことだけではなくて、「選択するために必要な価値観を得られる環境を提供する」とか、「選択そのものを気楽にさせる」という方法もあるよなと思っているということです。

 

 自分が好きなものに自分で辿り着けたときというのは、すごくいい気持ちになると僕は思っていて、その選択するということそのものを最初から拒否してしまうのは、なんか悲しいなあと思うんですよね。

 だから今はストレスがあっても、上手いこと選べる手段を提供できるようなのがあると方がストレスそのものを単純に切り離すより、結果的に良いんじゃないかなと思っているんですけど、それは自分が好きな分野だからそう思うだけであって、一般的に言うとしたらそうでもないのかもしれない…。

「螺旋じかけの海」の「烏を屠る旅」について

 「螺旋じかけの海」は当たり前が壊れてしまう世界の物語だと思う。

 世の中には沢山の当たり前とされていることがある。当たり前のことというのは、そのまま受け入れていいことで、疑わなくてもいいことだ。それがなぜそうなのかを考えなくていいし、ただ受け入れればいい。でも、ふと我に立ち返ったとき、それはなぜそうなんだろうか?ということが引っかかることがある。

 

 1+1は2であるということを疑うことがあるだろうか?なぜそうなのだ?と問われたときに、疑うことは難しい。だって1+1は2だからだ。それを数学的に証明しようとする人は数学者だけだろうし、大半の人はただそうなんだろうと思うだけだ。そうなんだと思って特に問題がないのだから疑う必要がない。かくして、世の中には当たり前のことが沢山ある。信じるだけでいいことが沢山ある。

 でも、ときおり、それはなぜそうなんだろう?と考えてしまうことがある。それがなぜそうなのかも考えずに、自分がそれを受け入れてしまっているのはなぜだろうと考えてしまう。

 

 螺旋じかけの海の物語は、異種化ウィルスによって、生物同士の遺伝子が混じり合う世界を舞台にしている。だから、人が人以外の生物の遺伝子と混じり合い、体の一部に他の生物のような形質が発現することがあり得る。人が人であるという証拠はどこにあるだろうか?それが遺伝子にあるとしたなら、他の生物の遺伝子が混じり合った存在はもはや人ではないのだろうか?

 

 この世界では、一定の割合で人以外の遺伝子が混じった人間は、もはや法的に人ではないとされる。人でなければ人権もない。世の中には人が平等であるということを証明するために戦ってきた歴史がある。しかし、人が平等であったとしても、人でなかったとしたらどうだろう?そこに人権はあるのだろうか?そこに同じ人間んだいう仲間意識があるのだろうか?一体、どこからが人でどこからが人ではないのだろうか?

 

 イルカやクジラが高度な知能を持っていたとしても、人ではないのだから保護の対象となるのはあり得ないという考えを受け入れている人も多いだろう。でも、もし、そのイルカやクジラが人のような顔をしていたらどうだろうか?そこにはやはり、何かしらの違う考えが生まれるのではないだろうか?もし、そのイルカやクジラが人のような心を持っていたらどうだろうか?果たして、人はどこまでそれを人間と同じ存在として扱えるのだろうか?

 

 家畜を育てては殺し、その肉を食べて生きている。それをしないと決めている人たちもいる。それをしない人たちを、おかしな人たちだと揶揄する人もいる。でも、その違いは本当にそこまで明確だろうか?それは当たり前なんだろうか?現実の世の中には遺伝子という明確な違いを見出せるものがある。だから、その認識は強固で安心できるかもしれない。

 

 しかしながら、螺旋じかけの海の世界ではそこが曖昧になる。

 

 他の生物の遺伝子が入り混じった人間は、果たして同じ人間だろうか?人は何をもってして何かの存在を同じ人間だと思うようになるのだろうか?それは、明確な線引きができない物語の中だからこそ、より意味を持つ強い問いかけとなる。

 

 螺旋じかけの海は、月刊アフタヌーンに掲載されていた漫画だが、この度、作者の永田礼路氏による個人出版という形で続刊が発売された。そこに収録されている新作が「烏を屠る旅」である。

 

 まずは買って読んでほしい(3巻の電子版も遠からず配信されるはず)。

ecs.toranoana.jp

 

 「烏を屠る旅」は、主人公の音喜多の相棒である雪晴の過去を描く物語だ。

 ここで描かれていることは、家族という存在は何によって家族となるのか?という問いかけではないかと思う。父と母がいて、子供がいる。子供は双子で同じ遺伝子を持っている。だから家族である。でも、ここにあるのは家族ではない。

 少なくとも雪晴にとってそこは帰れる家ではなかった。

 

 父が求めているのは自分の後継者という役割であって、個別の人格ではない。母が求めているのは、自分の存在や価値の証明であって、子への愛は自分への愛にかけられたベールだ。その違いは曖昧かもしれないが、子はそう気づいている。胎児の時点でカラスの遺伝子が混じり、ほどなく法的に人ではないものとなった兄の晴臣は、弟の雪晴の人間のままの姿に自分にはなかった可能性を見てしまう。

 この家族は家族のていをなしている。父と母がいて、その間に生まれた子供がいる。だが、それを繋ぎとめているのは、愛情ではなく、役割と体面と執着だ。だからそこは雪晴にとっては帰れる家ではない。兄の体はカラスになったが、弟の心もまたカラスだ。帰れる家を探している。

 

 どこにも帰れる場所がなく、死という形でそこから逃げ出すことしか考えられなくなった雪晴を助けてくれた人物がいる。彼女と雪晴の繋がりはか細いものだ。それでも彼女は雪晴を家族だと言う。それはわずかでも彼女の遺伝子が雪晴に受け継がれているからだろうか?確かに、それはきっかけであったかもしれない。彼女はそこに自分という物語の辻褄を求め、それを埋めるように行動した。

 だが、雪晴にとってそれが家族となり得たのは、その遺伝子の繋がりがあったからではないだろう。なぜなら、それでいいのであれば、父とも母とも兄とも家族になれたはずなのだから。

 

 彼女は雪晴に、別の誰かを助けることを求める。そしてその助けられた誰かが、また別の誰かを助けることを願う。それは彼女が雪晴にしてあげたことそのものだ。その助けが受け継がれ、連なれば、それは繋がりになる。その繋がりは遺伝子に少し似ているかもしれない。

 

 家族は遺伝的な家族の条件が満たされていれば家族になるのだろうか?そうであったのなら、そんな単純な話であれば、そこに苦しみが生まれることはなかったのではないだろうか?これは螺旋じかけの海という物語全体が抱えるものの一部であると考えられる。家族を家族たらしめるものが、もし遺伝子でなかったのなら、それはいったい何なのだろうか?

 人を家族たらしめる繋がりを雪晴は受け取り、そして、それを同じ人物から別の形で受け取っていたのが音喜多である。だから、音喜多と雪晴は家族になる。同じ人間から繋がった先にいるからだ。血は繋がっていなくとも、法律の裏付けがなくとも、彼らが家族となったということ。雪晴がついに帰れる家を見つけることができたということ。それが、この何もかも曖昧にしてしまう物語の中だからこそ、むしろくっきりと浮かび上がった信じられるものだろう。

「プリパラ」における「み~んなトモダチ、み~んなアイドル」という言葉について

 プリティーシリーズを一気に観た話の第五弾。月5本書くことにしてるブログを、今月は全部プリティーシリーズの内容にしようと思ってやってたので目標達成です。

 

 「プリパラ」はゲーム筐体をベースにしたアニメです。

 アニメだけの視聴者にしてみると、プリパラのアイドルたちはライブを外から見ている存在ですが、ゲームでは、プレイヤー自身がアイドルになり、プリパラのライブを自分でやることになります。だからプリパラにおけるアイドルとは、「見て応援する存在」であると同時に、「見られて応援される存在」でもあるわけです。

 

 それを象徴する言葉が、主人公のらぁらちゃんの言う「み~んなトモダチ、み~んなアイドル」です。

 

 このことは物語の中で何度も語られています。第一期の最後では、ファルルの心に歌を届けるために、主人公のらぁらちゃんたち6人はライブを行います。ファルルはプリパラの内部にのみ実態を持つボーカルドールですが、トモダチを求めるという例外行動をとってしまったために、機能停止をしてしまっていました。しかし、6人の懸命のライブでも、それだけではファルルを起こすには力不足なのでした。

 ファルルの心に届いたのは、舞台上のアイドルたちだけではないライブ会場にいた皆の歌です。会場にいる皆は、それぞれ観衆であると同時にそれぞれが舞台に立つプリパラのアイドルでもあることを思い出させてくれます。

 

 僕はここで歌われる主題歌の「make it」という歌がめちゃくちゃ好きなんですが、歌い出しの「オシャレなあの子 マネするより 自分らしさが一番でしょ」というところからも分かる通り、自分自身が誰とも違う唯一無二のアイドルになるということの讃歌です。

 ライブにおけるメイキングドラマでは、サイリウムのように光り輝く沢山の帆船の上に、らぁらちゃんたちと一緒に沢山のアイドルたちが乗って、夜明けの海に向かって進むという光景を作り出します。そして、それぞれの船はプリチケの連なりによって繋がれていました。

 これは、人と人がアイドルとして互いに繋がる「み~んなトモダチ、み~んなアイドル」であるということが大きな力を持つということが印象付けられる場面でした。

 

 この段落は僕の脳内だけで起こったイカレた話なんで別に読まなくていいんですが、僕はこれを観たときに三国志演義赤壁の戦いを思い出していて、赤壁の戦いについて説明すると、曹操軍の船に対して、劉備軍と孫権軍が手を組んで火を放つんですね。そして、その前段階として龐統という男が連環の計を使います。赤壁の戦いにおける連環の計とは、船と船を鎖でつなぐことで、船酔い対策とするという嘘の情報を教えることなのですが、これに引っかかって簡単に離れることが難しくなった船団は一気に炎に包まれてしまいます。

 これがめちゃくちゃプリパラのこの絵面に似ているなと思ったのですが、曹操からすると最悪の状況が、「ドキドキするとき無敵でしょ」という歌詞とともに、こんなにも無敵感のある光景として類似して浮かび上がってくるのが、最悪と最高がひっくり返るようでめちゃくちゃおめでたく、あれだな!赤壁の戦いでいくら船が燃やされたとしても、曹操がもしあの船の上で「ドキドキするとき無敵でしょ」と「make it」を歌いながら踊っていたら、そこでどれだけ被害が出ていたとしても赤壁の戦い曹操の勝ちだっただろうな!!!と思いました。

 

 さて話を戻して、プリパラにおけるアイドルというものが何なのか?なのですが、僕はこれを「憧れの対象」なのではないかと思っていて、舞台上でライブをするアイドルを見て憧れるということが、応援をする側にも応援をされる側にも力を与えるものだと思っています。

 作中に登場する多くの曲の中でも憧れの気持ちということが象徴的に歌われているように、あんな風になりたいという憧れの気持ちの流れこそが、プリパラにおけるアイドルという存在に力がある根拠になっているのではないでしょうか。ボーカルドールのファルルは、そのような気持ちそのものが集まって実体化した存在でした。

 そして、この誰かに憧れを抱く気持ちを抱くこと、そして、その憧れの気持ちがもし相互になったとき、それはもしかすると、トモダチでもあるのではないでしょうか?

 

 もしかすると「み~んなトモダチ」と「み~んなアイドル」は同じ意味なのではないかということです。

 

 つまり、みんなが自分にとってアイドルであるということを認めることが、みんなとトモダチになっていくということ全く同じことです。だからこそ、トモダチができるということ、そしてトモダチの輪が広がっていくということが、プリパラにおけるアイドルという存在に一番の大きな力を与えます。

 第三期における最後、神アイドルになるための挑戦の最後の関門が女神との勝負でした。2人の女神は、全ての少女の憧れの気持ちの讃歌のような「Girl's Fantasy」という曲を歌います。それに対して、らぁらちゃん、みれぃちゃん、そふぃちゃんのSoLaMi SMILEの3人が歌う新曲「I Friend You」は、そこに対抗する曲ではなくその続きとなるような歌です。

 対立ではなく融和、敵ではなくトモダチということです。そして、歌には2人の女神も加わり、組曲へと変化していきます。

 

 試練を経て神アイドルとなったSoLaMi SIMLEの3人に対して、ガァルルちゃんが「ガァルルもいつかなるガル!」と声援を送ります。ガァルルちゃんはファルルちゃんとは真逆、自分はアイドルにはなれないという挫折の気持ちから生まれたボーカルドールです。憧れの真逆の気持ちから生まれたガァルルちゃんが、憧れを抱くということ。ひとりで孤独だったガァルルちゃんが、この物語の中で、憧れを抱き、アイドルを目指し、トモダチになっていくという変化が見て取れる場面でした。

 

 プリパラの物語は、全編通して、この誰もがトモダチ(=アイドル)となることの持つ力の強さが描かれていると思います。

 第二期の最後ではひびきさんがトモダチを拒絶し、ボーカルドールに転生しようとする一幕があります。その結果、プリパラのシステムが壊れ、トモダチという概念が消え去ってしまった世界が生じてしまいます。

 そこにはアイドルは存在していても、元のプリパラのようなエネルギーは存在していません。なぜなら、人と人との繋がりが存在していないからです。誰にも憧れを抱いていないアイドルからはあの湧き出るようなパワーがないという世界を目の当たりにしてしまいます。

 他の人の憧れを受けてアイドルになる道が開けていたそふぃちゃんはアイドルになれてすらいません。

 

 プリパラの物語は、みれぃちゃんがらぁらちゃんをプリパラのライブに誘うことから始まりました。それは最初は人数合わせのことでしかありませんでしたが、それでも、求められることで始まったのがこの物語です。しかし、このトモダチが消失したプリパラでは、それが存在しなかったことになってしまいます。

 トモダチが消失した世界で、今度はらぁらちゃんがみれぃちゃんをプリパラに誘いました。かつて求められた自分が今度は求め返すという双方向性が生まれます。このひとつの繋がりが、ひとつひとつの繋がりがどんどん増殖して広がっていったのがプリパラの物語です。

 

 プリパラ第三期の最後では、第一期の最初でみれぃちゃんがらぁらちゃんに確認し、第二期の最後でらぁらちゃんがみれぃちゃん確認した言葉が、今度はその場にいる全員に対して確認されます。

 

 「プリパラは好きぷり?」

 

 その答えがイエスなら「なら、大丈夫」なのです。かつてはひとりとひとりの関係性であったこの言葉が、双方向になり、その外にどんどん広がり、ついにはとてつもなく大きな力のうねりとなる様子が生まれる物語へとなりました。

 これはアイドルの話であり、トモダチの話でもあります。その2つは同一の力を示しています。その力の大きさの巻き起こす軌跡と奇跡を描いた物語であり、友情と憧れの気持ちを等しく讃歌となる物語だと思いました。

 

 だから、プリパラは「み~んなトモダチ、み~んなアイドル」の物語なんだなと思ったのでした。

「アイドルタイムプリパラ」でどうにもパックに味方したくなった関連

 プリティーシリーズのアニメを一気に観た話の第四弾です。

 

 「アイドルタイムプリパラ」の終盤の展開は、ガァララという少女を巡る物語になります。

 ガァララはファララと対を成す存在としてプリパラの世界にいる少女です。ファララが昼間起きている間はガァララが寝てしまうというのがこの世界のルールなのです。しかしながら、プリパラの世界には、昼間は外から沢山の人が来てくれますが、夜には誰もいません。なぜなら、プリパラの外からやってくる人たちは、夜には自分の家に帰ってしまうからです。しかし、プリパラの中だけに実態があるファララやガァララは違います。プリパラの外に出ることができません。

 だからガァララは孤独です。皆が家に帰り、誰もいない夜のプリパラの中で、相棒のマスコットであるパックと2人だけの生活をすることになります。それはとても寂しいことでした。

 

 しかし、その状況を打破する方法がありました。つまり、昼間にもファララが寝てしまえばいいのです。ファララが寝てしまえば、ガァララが起きることができます。そして、ファララが起きるために必要なのはプリパラのライブの力です。だから、誰もプリパラをやりたいと思わなければファララは目覚めることはありません。舞台に立ち、皆の注目を集め、歌って踊るライブをしたいと思うこと、見たいと思うこと、それは憧れです。夢です。だから、「人々が夢を持たなければいい」ということになります。人々が夢を持ちさえしなければ、ガァララは孤独ではなくなるのです。

 だからパックは、ガァララのために人々の夢を食べ始めました。夜中に家に忍び込み、こっそりと人々の心から夢を奪ったのです。そして、誰もが夢を持たなくなったその街ではプリパラは衰退し、そして、ずっと起きていられるようになったガァララはついに自由を手に入れました。多くの人が起きている時間に、自分も起きていられるようになったのです。

 

 アイドルタイムプリパラの物語は、そんな経緯でプリパラの無くなった街、パパラ宿に、ふたたびプリパラを作るところから始まります。

 

 ガァララの自由は、他人から夢を奪うこととセットです。ただ、人から夢を奪うことはとても残酷なことです。ですが、ガァララはそんなに悪いでしょうか?いや、やっていることが悪いのは間違いないでしょう。悪くないわけがありません。ですが、彼女が夢を奪うということにするのは、そうでなければ自分が孤独に暮らすしかないという事情があるからです。

 彼女が夢を奪わないようにするということは、また孤独に暮らすことを強いられることと同じです。みんなの夢のためにガァララが孤独を強いられることは受け入れてもいいことなのでしょうか?みんなの幸せのために誰かが虐げられることは肯定してもいいことなのでしょうか?そんなはずがないのではないでしょうか?

 ならば、本当に悪いのは、この世界の仕組みの方でしょう。ファララとガァララがどちらか一方だけしか起きることができないことが悪いのです。それを規定しているプリパラの世界の仕組みが変われば全ての問題は解決されるはずです。

 だから、アイドルタイムプリパラはガァララを罰するのではなく、システムの作りを変えることに希望を見いだす物語になりました。

 

 しかしながら、この物語のさらに最後に待ち受けていたのは、システムを対象にした共通の課題を解決するということだけではどうにもならないものでした。

 

 それがパックの心です。

 

 ガァララはついにシステムの制約から解放され、ファララへの恨みからも解放され、らぁらちゃん(この物語の主人公のひとり)を中心に、沢山の友達ができることになりました。ついにガァララは孤独ではなくなりました。ただその状況に、ただひとり不満を抱く存在がパックなのでした。

 なぜなら、パックには、そのことが、自分のたったひとりの友達であったガァララを、見知らぬ誰かたちに奪われたように感じられたからです。長い間、ガァララと自分の1対1の関係だったものが、自分がガァララにとっては沢山の友達の中の1人になってしまうと感じたからです。

 みんなはパックもこの友達の輪の中に入ろうと言います。でも、パックはそんなこと望んでいません。たくさんの友達が欲しかったわけではありません。ガァララがいればよかったのです。そして、そのガァララが自分から少し遠くなろうとしているのです。だから、パックは、それを受け入れることができませんでした。

 

 この状況は、システムが問題だったときよりも一段階難しい問題になっています。なぜならば、ガァララが新しい友達の輪の中に入ればパックが傷つき、ガァララがパックのために新しい友達の輪の中に入らないことはガァララが傷つくからです。どちらかが我慢をしなければなりません。両方が満たされる解が存在しないのです。

 

 でも、ここで考えなければならないと思うのは、果たしてそれは本当に単純な2択なのか?ということです。2つの異なる立場があるとき、どちらか一方の要望だけが通って終わるのかではなく、両方が納得できる落としどころを探すということだってできるはずです。そしてまた、自分の要望が通ったところで、その先に本当に自分が望んだ状態が訪れるとも限りません。

 人と人との関係性というのは、だいたいいつもそうなのではないでしょうか?異なる人格を持った人が一緒にいるためには、双方の歩み寄りと、どのような状態ならば一緒にいても大丈夫なのか?という模索が必要なはずです。もし、自分はそういうことをこれまで考えたことがないというのなら、代わりに別の誰かが黙って我慢しているのかもしれないという想像を持つ必要があるのではないかと思います。

 

 さて、ガァララとパックの要望の対立は、どう見てもパックが間違っています。ガァララは、新しい友達を受け入れないことを望むパックに、「自分のことばかりで、パックの気持ちを考えてなくてごめんなさい」という、パックがどう思い、どうしたいのか?ということを考えた上での言葉を投げかけました。しかし、パックの方は、自分の要望さえ通ればいいということを主張してしまいます。

 自分のためにガァララは別の友達を作らないでほしいという要望です。人間と人間が平等であるならば、誰しもが平等な権利を持つはずです。だから、どちらか一方の要望だけが通るということはおかしいはずです。

 ガァララは最初から良い落としどころになる場所を探ろうとしていますが、パックはそれを受け入れません。パックは自分のことばかりです。だからパックは間違っているわけです。その態度はガァララとの歩み寄りを拒否し、傷つけるものだからです。

 

 でも一方で、それだけパックが辛いと感じていることも想像できます。パックにだって正しいことが何なのかは分かっていたのかもしれません。何が正しいかはとっくに決まっていて、それは自分を抜きで勝手に決まっていて、それに合わせるのが大人の対応で、でも、それを受け入れると自分が損をしてしまうと思ったときでも、受け入れるしかないということは、悲しいことなのではないでしょうか?だって、それはこれまでガァララを苦しめてきたことと同じではないですか。

 みんなのために自分が我慢するのが一番いいんだということが、これまで自分の一番大切な人を苦しめてきたのに、それでも我慢することが一番いいんだという考えを肯定できるでしょうか?それを肯定できないことは本当に悪いだけのことでしょうか?

 

 その結果、「新しい友達なんていらない、あの楽しかった2人だけの毎日があればそれでよかった」と言って暴れるパックと、それ以外の全員という戦いが始まってしまいます。

 

 らぁらちゃんは「みんなトモダチ」という言葉とともにこれまでやってきた女の子です。だから当然、今回も友達になることの方が正しいと思っているはずです。らぁらちゃんはきっとパックとも友達になれるはずだと思っていますし、そうなるための行動をとります。それが正しいと思っているから当然です。

 しかし、そのせいでらぁらちゃんは塔と融合して巨大になったパックの中に閉じ込められてしまいました。そして、パックはそのまま自分の体を凍らせて、自分とらぁらちゃんに流れる時間を止めてしまいます。

 誰の声も聴きたくないということです。コミュニケーションの拒絶です。

 

 らぁらちゃんには沢山の友達がいます。止まった時間を動かそうとして、様々な仲間たちがやってきてライブをし、ファララの時間を動かしたように、パックの時間も動かそうとします。それは友情が生んだとても素晴らしい光景で、そして同時に、とても残酷な光景でもあるように思えました。

 誰とでも友達になるらぁらちゃんのために皆が必死で友情を発揮し、友達がいないパックを間違っていると証明しようとしているからです。

 

 その場にいる人間の誰一人として、パックの気持ちを考えようとしている人はいません。パックは間違っていて、そして間違っていることは誰の目にも明白で、観ている僕の目にも明白で、そして、だからこそ誰からも共感されることがありません。

 僕はそれを見て、パックはなんて可哀想なんだろうと思いました。

 

 誰もパックのことを考えてなんてくれないんだなということです。

 

 それがつまり友達がいないことの悲しみなのかもしれません。らぁらちゃんを想う皆のライブの力で、止まった時計はじりじりと動き出し、ついに氷が破壊される寸前にまで到達します。しかしそこで、パックの抵抗は時計を一気に巻き戻します。そのときの僕の心情はかなりパックの味方でした。なんで自分のことを考えてもくれない人たちのために、お前が望みを捨てなければならないんだよ、なあ?パック?ということです。負けるにしても、せめて必死で最後まで抵抗してやれよという気持ちになっていました(僕の歪んだ感情かもしれません)。

 

 皆の笑顔のために自分が我慢することが正しいとされる世の中ならば、そんなもの受け入れなくてもいいだろうよという歪んだ感情です。

 

 ここで僕が観ながら思っていたのは、このパックに届く言葉を発することができるとするならば、ガァララちゃんの言葉だけだろうなということです。だって、ガァララちゃんだけが苦しむパックの心を考えてやることができていたのだから。

 

 ここでガァララちゃんの発した言葉は、思い出の話です。かつて、自分が昼間眠らせられないために皆の夢を奪っていた時期のこと、沢山の人から奪った夢の結晶を飾りつけながら、夢というものはなんて綺麗なんだろうと2人で言ったじゃないかという思い出の話です。つまり、パックはとっくに知っていたということです。夢というものがとても綺麗だ価値のあるものであるということを。そして、それを人々から奪ってきたことは、とてつもなく残酷なことであったということを。

 

 僕が経験的に思うには、人は他人の言葉で変わることはありません。他人の説得に応じたとしても、それは表面上そう応じることが一番ましだと思っただけで、心の中ではやっぱり別のことを考えているんじゃないかと思います。人が変わるとしたら、自分で変わるしかないのではないかと思います。だからやっぱり、変わるきっかけは自分自身が心から発した言葉からでなければならないのではないでしょうか?

 夢は綺麗で価値があります。それをパックはとっくに知っていました。ただそれを忘れていただけで、とっくに知っていたわけじゃないですか。そして、その夢は他人だけでなく自分にもあるはずです。

 パックが自覚したパック自身の夢は「ガァララが笑っていること」でした。そうあって欲しいという願いでした。全ては、ひとりぼっちで悲しんでいたガァルルのために起こしたことです。だから、そんなことはとっくに分かっていたかもしれません。それでも、それと反発するような様々な欲求とぶつかって、まっすぐにその道を歩くことができなくなってしまっていたのではないでしょうか?

 自分のことばかりだったパックは、ガァララちゃんが自分にそうしてくれたように、自分にとってのたった一人の友達がどう感じるかを考える答えを出しました。

 

 世の中は必ずしも2つの対立する価値観が戦い、どちらかが勝利することが最良の結末とは限りません。対立する価値観は2つどころか、実際は方向性の違う価値観が無数にあり、それはひとりの人間の中ですらぶつかって、全てを満たすことは不可能なのかもしれません。

 

 だからきっと、誰もが望み、誰もが我慢をしています。この物語の結末も結局パックの少なくない我慢で成り立っているのかもしれません。結末はパックにとって最良ではなく、妥協した最善でしかないのかもしれません。

 皆は笑顔でパックの友達になりたいと言ってくれましたが、それは別にパックにとって救いではないようにも思えました。だって、パックは皆と友達になれなくて苦しんでいたのではないと思うからです。

 

 でも、パックの望みだけが全て叶うことは、他の誰かの望みを傷つけることでもあります。だから、パックの望みだけが通るというような道理はないわけです。多くの人が集まる場所では、そういったことは必ず起こってしまいます。皆の望みの全てが叶うことがありえないのは悲しいことかもしれません。

 そう、人の世は悲しいわけです。自分の抱える100の望みが、他の誰かの犠牲なしに100全て叶うことはありません。例えば、自分が働かずに暮らしたいと思っても、他の誰かには働いていて欲しいと思うわけでしょう?

 

 パックの選択は、そんな世の中で生きていくことを選択したということではないかと思いました。それは少し悲しいことで、そして少し希望があることだと思います。それが希望でないなら、人はひとりで生きていくしかないからです。

 

 「みんなトモダチ」であるということ、それはこのプリパラの物語の最初から最後にまで存在しています。そして、プリパラの物語が持つ誠実さは、パックのように、ただそれだけでは救いきれない存在がいることも描いたことではないでしょうか?

 疑いようなく最初から「正しい」と与えられているものなら、それだけで救われない存在は、最初から存在しないことになります。存在しないものとして扱われるということは、その気持ちをもし持ちえた人がいたとしても、表明する機会を与えられないということです。でも、気持ちはあるじゃないですか。ありますよ。ないわけがない。

 

 だから、それが「ある」という上で、それでも、みんなトモダチということを描いたということは、目を背けない誠実なことだなと思って、そして、この世の中はやっぱり少し悲しいなと思ったのでした。

「KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-」に見つける王のモチーフ関連

 これは、プリティーシリーズを一気に観たぞ話の第三弾です。

 

 「KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-」は、主にエーデルローズというアイドル養成学校に所属する、新世代のアイドルの卵たちを主軸にした物語です。この物語の流れは、ライバルであるシュワルツローズとのPRISM1という対抗戦に向かって、エーデルローズに所属する7人それぞれの背景と成長が描かれるというものです。そのため、各話では各登場人物にフォーカスが当てられ、最後にそれぞれがショーを行うことが基本構成となっています。

 

 僕はそれぞれのショーを観ながら、あ、これってもしかして「KING OF PRISM」だけにそれぞれのショーの中に「王」を意味するモチーフが組み込まれているのではないかな?と思いました。その話をTwitterでしていたら、「そんなこと言っている人初めて見た」とか「このこじつけがすごい」などの様々なご意見を頂き、いやあごもっともだなあと思ったのですが、僕がわずかな手がかりから、何かの法則性を見出し、そこに無理矢理道を舗装していくようなことを喜んでしてしまうことを、このブログを読んでいる人はご存知だと思うので、今回は僕がそう考えるようになった過程を説明したいと思います。

 

 最初のきっかけは、第6話の鷹梁ミナトくんのショーでした。ミナトくんは太平洋側の海のそばで育った大家族の長男で、エーデルローズの寮での食事も彼が作っています。ミナトくんのショーは、港と意味を舞台に、様々な料理を生み出していくという内容でした。ここで、注目すべきは、自分の身長ほどにもある大きなフォークを携えているところです。海を股にかける男が三叉の長物を持つということ、これは三叉の矛であるトライデントを携えた海王ポセイドンをモチーフにしているのだと思いました。

 え?「海王」?「王」?ということで、もしかしたら、これらのショーにはそれぞれ王を意味するモチーフが組み込まれているのではないか?という発想に至りました。そこで最初からどのようなショーが行われてきたのかを振り返る必要があるなと思ったのです。

 

 まずは第2話の太刀花ユキノジョウくんのショーを思い出します。このショーのモチーフは歌舞伎の連獅子です。「獅子」?つまり「百獣の王」ではないですか。王が見つかったぞとはしゃいでしまいましたが、この時点では第3話の香賀美タイガくんのねぶた祭をモチーフにしたショーや、第4話の十王院カケルくんのマダガスカルのフラミンゴをモチーフにしたショーの説明がつきません。

 でも、少し考えてフラミンゴという選択がまず不思議だなと思いました。なぜなら、マダガスカルがフラミンゴで有名だということを今まで聞いたことがなかったからです。わざわざここにフラミンゴを持ってくることには、何か意味があるのではないか?

 そこでやっと気づきました。フラミンゴ打法です。一本足打法の別名です。一本足打法王貞治の使った野球の打法です。

 

 「王貞治」!「王」!つながった!!!!!!!!!

 

 と思った時点で、かなり面白くなってしまい(ご存知の通り、世の中は見いだせた繋がりがむちゃくちゃであればあるほど面白い)、これはどうしても他のショーから王のモチーフを探すしかないという使命感を得てしまいました。だって、カケルくんの曲名は「オレンジフラミンゴ」なんですよ?オレンジは王貞治の所属した読売ジャイアンツのカラーじゃないですか。もうこれはそう考えるしかない。とにかくそうであってほしいという祈りにも似た感情が芽生えてしまいました。

 

 でも、どうしてもタイガくんのショーから王のモチーフを探すことができず、ねぶた祭の由来や党所する山車の由来などを色々調べていたのですが、これはのちに発想が悪かったのではないかと思い出されます。映像の中にヒントがあると思い過ぎていて、歌の歌詞を聞くことを忘れていました。

 タイガくんの歌「Fly in the sky」の歌詞の関連する部分を抜粋します。

自由に(Oh) 羽ばたけ(Oh)
大切な(Oh) 想いを(Oh)
大切な(Oh) 絆が(Oh)
煌めきを(Oh) 届けたい(Oh)

 そう、「Oh」なんです。「王」なんです!!!!また、歌詞には記載されていませんがイントロの部分からOhという声が入っているんですよね~。

 この辺でもう勝利を確信していったので、残りの話からどんな卑怯な手を使ってでも王のモチーフを見出す断固たる決意というものが生まれてしまいました。

 

 残りは、第7話の西園寺レオくん、第8話の涼野ユウくん、そして第11話の一条シンくんです。

 レオくんについては、ショーが始まる前にレオという名前はライオンのレオからとったと出てきたので、もうこの時点で「百獣の王」だなと既に勝利をしていたのですが、実際のショーはハートをモチーフにしたもので、とてもよかったです。このショーが終わったあと、ダメ押し気味に「ライオンハート」という言葉が出たので、もう完全に「百獣の王」で「王」だなと思っていたのですが、前述のようにユキノジョウくんも百獣の王なので被ってしまいますね。

 でも、大丈夫、ユキノジョウくんとレオくんは仲良しなので、モチーフが一緒でも仲良しの象徴だなと思うことができます。

 

 続くユウくんはゼウスをモチーフにしたショーを行います。その時点でゼウスは「天の王」であり「神々の王」なので、問題なく通過です。

 

 最後のシンくんの場合は、単独では解けない難しい問題だったんですよね。シンくんのショーのモチーフは「愛」です。それも、美しい愛というよりは禍々しい愛です。舞台は血を思わせる色をした流動的な雰囲気に占められています。これだけから王のモチーフを見出すのはとても難しいとこです。

 しかし、考えてみてください。ここまでポセイドンとゼウスをモチーフにしたショーが出てきました。となれば、ハデスが登場しなければおかしいとは思いませんか?

 ギリシャ神話において、ティターン族との戦いに勝利したゼウスとポセイドンとハデスの兄弟は、それぞれ天と海と冥界を司ることになります。そう、つまりシンくんのショーの場所は冥界を意味しているのではないでしょうか?となれば、「冥王ハデス」!つまり「王」ということになります。

 

 そもそもギリシャ神話はひとつ上の世代のアイドルであるオーバーザレインボーが、ギリシャ神話モチーフのショーをしていましたし、プリティーシリーズはギリシャ神話をモチーフにした聖闘士星矢と共通点が沢山ある(衣装に力があるなど)ので、これはもう共通点がありまくるなと思っています。

 

 なので、全てが綺麗に繋がったと思うのは僕だけでしょうか?僕だけかもしれません。なら、皆さんも是非ともこのように思ってくださいね。