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amazarashiの「デスゲーム」と京極夏彦の「邪魅の雫」は似てる説

 amazarashiの好きな歌のひとつに「デスゲーム」があるんですけど、この曲が歌っているものは京極夏彦の小説「邪魅の雫」で描かれているものと同じなのではないか?と思ったので、その話を書きます。

 

 邪魅の雫のネタバレが入るので、読みたくない人は読まないでください。

 

 邪魅の雫は、複数の人間の視点で進行する物語です。その主観は客観とは乖離しています。しかしながら、乖離した客観を構成する別の一人の主観もまた、客観とは乖離しているというような作りの物語になっています。

 つまり、あらゆる人間は、世界を構成する中のたった一人でしかなく、世界を砂浜とするならば、一粒の砂、いや、その一粒の砂にすら吸い込まれて消えてしまうほどの雫でしかないということを見せつけられます。

 読者は最初に読んだ複数の人間の主観的な物語が、実は客観的な視点では全て掛け違いでしかないことを後に知り、そこで起こったことは客観的には愚かなことではあったものの、主観的にはとても辻褄のあったものであったことも認識できるようになるのです。

 ただ、そこには、それぞれの人をそのように誘導した人と、人の殺意をそのまま殺人に転換できる魔法のような「雫」もあったわけなのですが。

 

 ひとりの人間の認知には限界があり、その視野に大きく欠けた部分は想像力で埋められます。自分が認識した論理的機序や因果関係は、その一滴の雫でしかないひとりの人間が、そう認識したというだけでしかなく、世界の在りようを決めるようなものではないのです。

 ここで問題なのは、自分が世界の中の一滴の雫でしかなかったとしても、それでも、自分自身にとってみれば、自分の認識は世界そのものであるという点です。自分にとっては1は全であるが、他人にとっては1は1でしかないというギャップに、人は悩み苦しんだりもします。

 

 さて、amazarashiのデスゲームは、「悪い奴は誰だ?」という繰り返される歌詞が象徴するように、人と人が疑心暗鬼になり他人を攻撃してしまうということ、例えば誰か悪い奴を見つけることで今目の前に広がる不協和を、上手く並べ替えて理解し、安心して納得するというような状況を歌っています。

 その「悪い奴」は客観的な意味で「悪い奴」でなくてもかまいません。その人間が悪い奴であったのなら、全ての辻褄が合うと認識できればそれでよいのです。

 

 「こう考えれば辻褄が合う」ということと「これが世界の真相だという認識」の差には、少なくともひとりの人間の中では大きな距離はないのではないかと僕は思います。なぜなら、僕自身にそういう経験が結構あるからです。

 

 デスゲームでは、テレビやラジオ、ネットや週刊誌で得た断片的な情報だけを元にして、実態があるのかもわからない悪い奴を探しては、それを攻撃することを止められない人々の様子を歌ったあと、こう続きます。

 

ああ 一滴の涙が 海に勝るとは知らなかったな

 

 誰かに与えられた断片的な情報から作り上げた、歪で不完全な主観の一滴が、この世界全てに勝るかのように思えてしまうということ、これは現代的な感覚でしょうか?

 ネットの情報を鵜呑みにして、歪な理解を元に誰かを攻撃するということ、それだけを見れば現代的と言えるかもしれません、でも、僕が思うに、これは普遍的な話です。類似の事例を色んな時代に探せることから、人間にはそういう性質があると思うからです。確かに、ネットやメディアがそれを増幅している部分もあると思いますが。

 

 誰かが誰かを悪者として見つけ、その首を絞める様子、そして、それは一方的ではなく順繰りで、誰しもが誰しもの首を緩やかに絞めているような人間社会に対する厭世感をデスゲームと表現し、自分の主観と異なる認識を持った正気な人を滑稽と評し、一番正しいと主観的に思える人が実は悪かもしれない。可能性を想像すれば無限に想像できるように、疑おうと思えば無限に疑うことができる世の中で、自分の頭の中という密室の中で何らかの答えを出すことを求められます。

 

 そのストレスとプレッシャーの中で、自分にとって都合が良い想像を事実と混同して飛びついてしまうことは、悪いことでしょうか?悪いことかもしれません。でも、その主観にシンクロできるとしたら、そこにはある程度の理解が生じるかもしれません。そこが悲しく、そしてやるせない気持ちにもなります。

 

正義も悪もない 事実は物語よりもくだらない

悪意で悪事を働く 悪人の影さえ見えない

エピローグ間近のこの世界で生き残るなら

一番正しい奴を疑え まず自分自身を疑え

 

 これはデスゲームの終盤に歌い上げられる歌詞で、実はくだらないだけかもしれないことに、悪意を見いだし、実在しない悪人と戦うつもりで首を絞め合っている人間の様子に見る悲しさから、その中で首を絞められたくないのならば、自分が今信じていることを疑うこと、常に疑い続けることを主張します。

 

 邪魅の雫でも、ある人が殺した人は、その人が想像した悪事を実際に犯した人ではなく、そうだと思い込まされていたがゆえに発生した犯行でした。京極堂がそれらの主観をまとめて客観を作り、事実を突き合わせてみれば、そこにあったのはくだらない勘違いです。くだらない勘違いが引き起こした殺人の連鎖であって、デスゲームです。

 

 自分は一滴の雫でしかないということを完全に徹底できる人はそうはいないでしょう。だからこれは他人事ではない話です。一番正しい奴を疑うことができず、自分自身も疑うことができなかった人たちが、取り返しのつかないことを引き起こし、引き起こされてしまったあとに流れる虚しい風のような物語であり、歌ではないでしょうか?

 

 このようなデスゲームの話を聞くと、もしかすると、「今のインターネットだ」とか思ったりしてしまうかもしれません。

 しかしながら、デスゲームが収録された「千年幸福論」は2011年の発売されたアルバム、邪魅の雫は2006年に発売された小説です。それ以前の歴史の中でも、流言から起きた殺人や暴動の連鎖などは枚挙に暇がありません。

 これは人間という不完全な認知しか持たない存在が、ときに引き起こしてしまうバグのようなもので、目の前に存在するものを情報が欠けていてもなんとか理解しようとする能力と、そして、理解できないものが目の前にあるときに感じてしまう不安の組み合わせで起こるような気がしています。

 そして、それはそんなことがあると認識していたとしてもハマってしまうことがあるという恐ろしいことです。

 

 常に自分が本当に正しいのかどうかを疑い続けるということは容易ではありません。どこからかいい加減な自分の方が正しい証拠を見つけ出してきては、補強してしまったりもするわけです。

 何かの情報Aが開示され、それに反する別の情報Bが遅れてきたときに、Aが自分にとって不都合なら、それを否定できるBに深く疑いもせずに飛びついてしまったりもするわけです。逆にAが自分にとって都合がいいなら、なんらかの理屈付けをしてBを否定してしまったりもするでしょう。

 その背後にあるのは自分の損得であって、人は正しくも損をする選択よりも、間違っていても得をする選択を選んでしまったりもします。後者の行動は間違っているでしょうか?では、正しいけれど損をし続けるということが正しいなら、その人は正しさの名のもとに損をし続けなければならないのでしょうか?

 

 そのような環境の中では、人はうすうす間違っていると知りながらも、自分に都合が良いだけのいい加減な情報をまるで事実であるかのように取り扱ってしまったりもするわけです。繰り返しますけど他人事ではないですよ。自分だってやってしまうことです。

 「このようなことをしてしまうのは愚かな人だけである」というように、誰かを悪い奴として探してしまうことそのものが、その入り口になるということを認識しておかなければなりません。

 

 デスゲームと邪魅の雫、まあ似てないっちゃ似てなくて、自分や自分が信頼している人を疑えない人が、勘違いで起こしてしまう悲劇や、それを海の中の一滴の雫や、砂浜の砂一粒のように表現してしまうこと、あとピックアップするなら「人殺しの道具が 人一人の価値に勝る」という歌詞あたりですかね。

 箇条書きすれば似ているものなんて無数にあるので、その程度の似ている具合です。でも、その根底には、人間が逃れようとしても逃れきれない問題があるような気がしていて、これは普遍的な話ではないかと思ったので、そういうことを書きました。

人間が機能しか求められないことの気楽さとしんどさの話

 昔なんかの研修かなんかで聞いたのは、人間が顔と名前とパーソナリティーを把握して、コミュニケーションをとれる人数の限界が200人ぐらいという話です。これは実感と合うようには思っています。ただ、僕個人の能力としてはもっと人数が少ないようにも思いますが。

 

 でも、都会で暮らしていると一日ですれ違う人の数は200人どころではありません。だから、もしかすると、人間は他人をそれぞれ意志を持った個人として捉えないことで都会の生活をやっているのではないかと思ったりします。

 なぜなら、僕もまた多くの場合、「人間」を「人間でない」と思っておかないと生活するのが厳しい感じがするからです。例えば、休日に偶然知り合い(そんなに親しくない)を見かけると、その場をこそこそ逃げ出してしまうこともあります。それは、人間に見られてしまうと、自分が自然体ではなく、他人の目を意識した自分になってしまうことがストレスだと感じるからです。せめて仕事のとき以外は、そのモードにならずに済むようにしたいと思ってしまうのです。

 つまり、僕が休日にひとりで街をぶらぶらしていても平気なのは、周囲にいる人たちが知らない人だからでしょう。個体識別した人間ではないことが安心の理由です。街にいる人の全てが知り合いだったとしたら、僕は休日に街には出て行かないかもしれません。満員電車に乗れるのも、周りが知らない人たちばかりだからではないかと思います。もし、知り合いしかいない満員電車なら、その中での押し合いへし合いのストレスが強過ぎて乗ることができないかもしれません。

 

 僕が都会で生活をしていて話す相手は、仕事以外ではほぼお店の人です。話すと言っても、僕はお店の人には、お店の人という機能しか求めていません。レジに商品や伝票を持っていき、お金を渡して会計をしてもらうという機能です。その事務的なこと以上のことは求めていないわけですよ。だから、お店の人に、個体識別されて何かを言われてしまうと、その店に行く足が遠のいてしまいます。それは、人と人としてコミュニケーションになってしまうからです。コミュニケーションが必要なら、コミュニケーションをとれるという気合があるときしか行くことができません。

 そういう意味では、最近はちょこちょこ見るセルフレジなんかも好きですね。楽だからです。

 

 一方、人間に対して、そのような形で機能しか求めないということは、その人がその機能以外に持っている沢山の部分を意図的に無視しているということでもあります。それは場合によっては失礼なことにもなるでしょう。目の前にいる人は機能を提供してくれる人かもしれないけれど、別の側面では、自分と同等の権利を持った人間でもあるということが抜け落ちているからです。

 たとえ、人がその担う機能を満足に果たせなかったとしても、体調不良とか、家庭の心配とか、仕事が多くてパニックになっているとか、まだ仕事を始めたばかりで慣れていないとか、事故や災害で緊急事態であるとか、他にも様々な個別の事情を抱えていることがあるはずです。人間なのだから。でも、機能としてでしか人しか見ていないと、それを意図的に無視してしまいます。それはよいことでしょうか?

 そんなことは客である自分には関係ない、そちらは店で、こちらは客なのだから、個別に事情があろうが、言い訳せずにさっさと機能としての役割を果たせ!などと言ってしまうこともあるかもしれません。そこにはある程度の正しさもあるでしょう。でも、やっぱり人間と人間ですよ。それを無視して、お前は人間としてではなく、機能としてしか求められていないということは、人の尊厳に関係することなのではないでしょうか?

 

 僕は人間関係があまり得意ではないですが、他人と機能としてなら接することはそれよりはましにできます。そのとき、人間と自動販売機はほぼほぼ同じ意味であって、自動販売機に対してまで恐縮することはないので大丈夫な感じです。でも、そこから少しの人間臭さを読み取ってしまうと、無理になってしまうこともあります。

 例えば、店員さんが忙しそうにしているときに、お会計お願いします伝えるのを、やっている途中の作業の切れ目ができるまで待ってしまったりします。それは、作業中に中断させられるのは嫌かもしれないなという想像があるからです。でも、そんなことをいちいち想像してまごまごせずに、さっさと金払って出て行けやという方が向こうからしても良いのかもしれません。

 分からないですよ。人間なんだから。ちゃんとコミュニケーションをとらないと分からないです。機能なら分かります。何をどうすれば一番都合が良いかが決まっているからです。

 

 僕は自分の少ない許容限界が無理にならないように、他人とはできるだけ機能としてでしか接さないようにしています。でも、その機能が十分満たされないときには、相手を人間として捉えないといけないなと思うこともあって、それは人間は人間だから機械じゃないし、やっぱり色々あるよと思っちゃうからなんですよね。実際、機械にだって色々あって上手く動かないときがあるわけですよ。いわんや人間をやですよ。

 

 まとめると、僕には「人間を機能でしか見ないことでようやく社会でやっていける」という困った性質があって、でも一方で人間に機能しか求めないことは相手に過度の負担をかけたり、尊厳を傷つける可能性もあるんじゃないかと危惧していたりもします。

 

 この機能というのは役割と言い換えてもいいかもしれません。ここまで例示したのはお客とお店との関係性ですが、家族や会社でもそういうことはあります。例えば、親も同じ人間ですが、親としての機能しか求めないということはよいことでしょうか?それが会社で、上司としてのとか、部下としてのとか、そういう役割だけを求めることはよいことでしょうか?そこからいつの間にか人間としての意味合いが剥奪されていたりはしないでしょうか?

 

 僕はやっぱり人付き合いが苦手過ぎるので、他人との連携は機能的な部分だけにして、社会を回す機能としての歯車にはなるけれど、人として人の中にはあまり参加せずにやり過ごそうとしてしまいがちです。ですが、自分はそれを全うするにしても、他人がそれを全うしてくれないときに、はて、自分はどうするんだろう?という疑問が湧いてきます。

 

 親であるのに、親が果たすべきことをしないであるだとか、上司や部下であるのに、果たすべきことをしないとかいうことになると、やっぱりそこには不満が出てくるのかもしれません。でも、それぞれの人は、その担った機能としての役割を、本当に喜んで受け入れているのだろうか?という疑問も残ります。

 本当はそんな機能を担いたくないのに、そうせざるを得ないだけかもしれないじゃないですか。

 

 僕が仕事をしているのは生きるためにお金が必要だからで、上司の部下であったり、部下の上司であったりという機能は、特に望んでいるわけではありません。それを全うすることが、自分が今足を置いてもいい場所を維持すると思っているだけです。そこに足を置く以上は、その機能を演じるしかないと思い込んでいるだけなのかもしれません。

 だから、その機能を求められることが苦痛であるならば、別の居場所を探せばいいかなというような気持ちもあります。

 

 僕自身がそれから逃れることが困難であるように、僕が求められている機能を全うしないと、他人から責められることがあります。あなたはそうすべきなのにそうしない、なぜそうしないのか?そうしろ!と責められることがあります。

 僕は若い頃、早くおっさんになりたかったんですよ。それは僕が若い男として求められる機能に対して、ちっとも応えたくなかったからです。知り合いの若い女の人に(当時は僕の方も若かったですが)、ざっくり言えば「私は若い女であなたは若い男なのだから、当然こうすべきだ」ということを求められ、そうしないことに文句を言われることも頻繁にありました。僕はそれがかなり辛かったんですよ。なんで、この人たちは僕が当たり前にそうするべきだと思い込んでいるんだろうと思ったからです。だから、そういう機能を求められる対象から、早く外れたくて仕方がありませんでした。

 

 ネットとかでも同じ種類のことを感じることがあって、知らない人がなぜだか、僕がその人に評価されたいはずだと思い込んでいることがあります。だから、「私に評価されたければ、あなたはこのように振る舞うべきだ」という言葉を投げかけられることがあります。僕にはその人に評価されたいなんて気持ちがありませんから、そのように振る舞う必要なんてないわけですけど、それはつまり「ネット上に何かを発表している人は、当然より多くの人に評価されたいはずだから、そのような意見を伝えれば作っているものに喜んで反映する」という機能が求められているということだと思うんですよね。

 作っている人は、より多くの人に褒められたいはずだという定型的な人間像が設定され、そこにある像から乖離した反応が想定されていません。。

 褒められたら喜ばないといけないし、不快にさせたら謝らないといけないし、要望を受けたら応えないといけないしということが、暗黙の正しい行動として勝手に理解されていることがあって、作ったものを見て貰えれば嬉しがるべきだし、より多くのRTやいいねが付けば当然喜ぶはずだろうしで、その機能にそぐわない行動をとると、なぜそうしないのか?と言われたりもします。

 

 答えは単純で「僕はそうしたくないから」ですよ。前提とされている条件は、ある種の傾向としてはあるのかもしれませんが、個別具体の人にとって当てはまるかどうかは分かりません。

 

 相手が自分と同じひとりの人間であるということが分かっていれば、容易に推察できることを、他人を自分の生活の中における機能のひとつとしてしか認知していないと、その機能を全うしないということについて否定的な態度をとられることがあるわけです。

 

 ただ、最初に書いたように、人が自分の認知の限界を超えた大量の人の中で生きるには、あらゆる人を人として認識することはあきらめて、人を機能として単純化して取り扱わざるを得ないことがあります。僕は自分自身がそうであることから、それは仕方がないと思う側面と、とはいえ、その定型化された機能から外れる行動を咎められることの不快感の両面を持ち合わせているなということを思うわけです。

 

 人間が何らかの属性を元に、単純化されて理解され、その定型化された機能のみを求められ、それに応える以外の反応が認めれないということの辛さを理解するにもかかわらず、他人に対しては同じことをしてしまうという悲しい状況が世の中にはあると思っていて、それは人間が周囲の人間の認知に割ける能力の限界があるからなんじゃないかなと思ったりします。

 ほら、僕はその能力がたぶん他の人より低いので、それがより分かるような気もするんですよ。

 

 こんな人がいるはずがないなという想定は、いつも実際よりは狭くて、例えば、白米が嫌いな人なんていないと以前の僕は思っていましたが、そうでもない人がいることを知って、よかれと思ってご飯を勧めてたのが間違いだったと気づいたことがあります。

 僕は相手を実態よりも単純化したものとして理解していたために、だから喜ぶはずだし、喜ばないのはおかしいなんて思っちゃったりしたのは、完全に僕の間違いでした。

 でも、もし僕のが最初に思った偏見による勘違いが世の中の全てだったとしたら、同じ行動には同じ結果が返ってくることが想定できるので楽でしょう?だから、そんな楽にすがって、良くないこともしちゃったりするわけですよ。

 

 自分が気楽にやることが他人へのしんどさを生み出しているのだろうし、自分のしんどさは他人が気楽にやりたいがためだったりします。部下に仕事を言いつけたら、はいと元気よく返事して、期日までに完璧にやってくれたら楽でしょう?だから、そうすることが部下のつとめだなんて、機能しか見ていないことを思っちゃったりもするわけですよ。それ以外の反応なんて求めてなかったりするわけですよ。

 でも、それってやっぱりおかしいですよね。人はそれぞれ個別の人なのだし。

 

 色々そういうことを考えるにつけ、自分が社会で生活することには向いていないのだろうなという実感ばかりを深めていきますが、それでも気楽に生きていきたい気持ちが強いので、なあなんとか上手い具合にやっていこうという曖昧なことを思いました。

「めしにしましょう」と料理漫画の競争領域関連

 「めしにしましょう」は、イブニングで連載されている料理漫画ですが、毎回何かしらの意味で極端なレシピの料理が作られる様子が描かれていて、すごく面白いです。

 

 漫画の特徴とは何か?という問いには色々な答え方があると思いますが、僕が思うにそのひとつの答え方は「誇張と省略」ではないかと思います。描くべきことを誇張し、描く必要のないことを省略するということが、漫画的であると言えるのではないかと僕は思うからです。

 これは分かりやすいところでは絵に対するもので、日本の漫画では、写実的な絵と比較して目が大きく描かれ、鼻が省略されることが多い傾向があるでしょう。それはつまり、人の顔を漫画の中で表現する上で、目は誇張すべき部分ですが、鼻は省略すべき部分であると思われがちだからだと思います。例えば感情を表情の絵で表現をしたい場合に目ですることが多く、鼻ですることが少なければ、目をより大きく描き、微細な表現をしやすくすることに有用性があると言えるのではないでしょうか?

 このように何を誇張して何を省略するかは、表現したいものをより明確に読者に伝えるために重要なことです。

 

 これは絵だけでなく物語自体にも適用されることだと思います。その漫画が何を描きたいかは、何を誇張して描き、何を省略して描かないかに見て取ることができるはずです。その意味で「めしにしましょう」はめちゃくちゃ思い切りのよい取捨選択をしているように思うんですよね。

 

 料理漫画でありがちな要素を考えてみると、

  1. 料理を作る理由の提示
  2. 食材を手に入れる工程
  3. 調理の手順
  4. 食べたときのリアクション
  5. 料理による問題の解決

 以上、5つが思い当たります。

 

 つまり、(1)まずはなぜその料理を作らなければならないのかという状況が提示され、(2)そのために必要な材料を調達する必要があります。(3)手に入れた材料を調理して料理が完成すると、(4)それを食べた人のリアクションによる美味さの説明があり、最後に(5)その料理を作ったことで当初の問題が解決されたりします。

 

 よくある漫画の物語では1と5が重要視されます。それはその部分が人間の物語だからだと思います。それは僕が思うに、人間が鼻よりも目からより多くの感情を読み取りやすいように、人間は人間の物語からより微細な感情を読み取れるからなのではないでしょうか?今風に言えば「解像度が高い」ということだと思います。

 この例で言えば擬人化などがあります。例えば宇宙探査の「はやぶさ」は機械であって、人が飛ばしたものですが、このはやぶさ自身を人に見立てて、頑張れと応援するような光景を目にすることがあります。なぜそうするのかと言えば、対象が機械ではなく、人であった方が解像度が高くより多くの情報を読み取れるからなのだと思うのです。

 だから漫画では少ない描写からより解像度の高い情報を提示するため、人の物語が描かれがちです。

 

 しかしながら、めしにしましょうで描かれるものは主に3です。それと0です。0というのは、料理そのものにはあまり関係のないことも多いギャグパートです。そしてなにより、2の食材調達を過激な方法で省略するのがすごい。過激な方法で省略とはつまり、なんだか分からない謎の物の中に手を突っ込むと必要な食材が出てきたり、無の空中からいきなり食材が出てきたりします。

 

 この思い切り、なかなかできることではありません。

 

 もちろん、回によっては食材を手に入れるところをじっくり描くこともあります。しかし、そこにコマを割く必要がないとなったら、バシバシ過程を省略していきなり結果だけを得ていく(ジョジョの奇妙な冒険第五部のキングクリムゾンの能力のように)のがこの漫画の面白いところで、それは描くべき部分がはっきりしているからなんじゃないかと思うんですよね。だからこそ、描く必要がないこともはっきりします。

 必要なものを誇張し、不要なものを省略することを漫画的と言うならば、この漫画はとても漫画的な漫画だと言えます。

 

 3の調理の過程をじっくり描くということは、それがこの漫画の武器であるということでしょう。実際に試作した経験を踏まえた、何らかの意味でやりすぎな料理を作るということが、他の料理漫画との差別化要素になるということだと思います。

 0の料理漫画にはありがちではないギャグパートが入ってくるのは、これもまたこの漫画の個性で、他の漫画にはない風合いを出している部分がここに凝縮されています。極端な思考を持ったキャラクター性が、漫画全体に極端な進行をさせることを許容する背景を作り上げているように思うからです。

 

 さて以前、作者の小林銅蟲氏が料理対決をするイベントに行ったとき、審査員としてゲストに来ていた寺沢大介氏が印象深いコメントをしていました。

 ご自身が少年誌で料理漫画を描いていたときは、とにかくわかりやすくということを第一に置いており、料理の知識が全くない人でも読めるようにと、ときには編集者によって説明台詞を追加されることさえもあったそうです。

 

 これはそのときはそれが必要なことであったため、省略することができなかったということだと思います。料理漫画を数々読んできた我々としては、今となっては当然のようなことで作中の登場人物たちが驚いていたとしても、今となっては分かり切っていることを長々と説明されたとしても、それは料理の知識が全くない人でも読めるようにするための必要な工程であって、少なくとも当時にそれを省略することは対象となる読者を減らしてしまう可能性が高いことだったのではないでしょうか?

 しかしながら、昨今の料理漫画では、こんなことは読者は当然知っているよね?で省略されて、そのまま進んでおり、それに読者がついて行っているということが感慨深いとコメントをしていたのです。

 

 前述の料理漫画にありがちな5要素、寺沢大介氏の漫画では、その全てが非常に丁寧に描かれています。レーダーチャートを描くなら、全ての要素が高い数値を示しているということが、料理漫画というジャンルを切り開いてきた一人として出す凄みのように思います。

 しかしながら、一人の作者の中でもそのチャートの変化は時間の経過に従ってあるもので、例えば「将太の寿司」と「将太の寿司 全国大会編」、そして「将太の寿司2」のそれぞれでは分かりやすくそのバランスに変化が生じています。

 

 以下、直接は関係ないですが寿司の文章です。

mgkkk.hatenablog.com

 

 寿司を知らない人に対しても分かりやすく描かれた内容だとしても、漫画を読み続けた読者にとっては自明の領域がどんどん広がっていくため、全国大会編では明確に寿司そのもの以外の面白い要素が増加していますし、2ではその過程に様々な料理漫画があったことを踏まえての、未来の物語となっています。

 

 漫画を取り巻く時代性によって、何を誇張し、何を省略すべきかは変わっていきます。かつての正解が、今も正解かは分かりません。

 

 料理漫画の料理部分に対する主要なウンチクが、出そろってしまった後には、料理に対するリアクションを誇張した漫画が増えたり(4を誇張)、「僕は君を太らせたい」のように、山に海においそれとは出会えない特殊な食材を採りに行く部分が誇張される漫画が生まれたり(2を誇張)します。「きのう何食べた」では、めしにしましょうと同様に調理の過程を丁寧に描くことで(3を誇張)、漫画を読んでいるだけなのにその味を頭の中で具体的に想像できたりもします。1や5の誇張として、料理で世界征服をしたり、人間の精神を直接救済したりする漫画もありますね。

 前に以下のような文章も書きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 料理漫画は、王道的なものを構成する材料が結構出そろっているために、昨今ではその中でどの部分を売りにするかが、その個性を決めるための重要な競争領域になっているように思います。レーダーチャートで描くなら、槍のように一部分が強烈に突出したものでなければ目立つことは難しいのかもしれません。

 であるならば、その強調する部分を強烈に協調するためにも、限られたページ数の中で何を描かないで済ますかが重要な部分があると僕は思っていて、こともなげに食材調達の要素を全省略してきたのはすごいなと思った次第です。

 

 上述の1~5の要素の中で何を全省略しても物語が描けるのか、考えてみるのも面白いかもしれませんね。

なぜオタクは自分が好きなものを世の中に広めようとしてしまうのか?

 オタクなので、自分が好きなものを世の中に広めたいという気持ちが湧いてしまいます。

 

 これ、昔からなんでかなあと思い続けていて、だって、別にそれが広まったところで、自分にお金が入ってくるわけでもないし、その作品の評価が自分の評価になるわけでもないじゃないですか。別にメリットはないわけですよ。じゃあなんでわざわざ労力をかけてまでそんなことをしてしまうのかなと思ってしまいます。

 

 その対象があまり世間的に知名度のない漫画であれば、それが広まることで連載が長く続いてくれるというようなメリットもあるように思いますが、自分の胸に手を当てて考えてみて、それは核心ではないような気がするわけです。

 だってそれじゃあ、既にそこそこ売れている漫画なんかに関してはその気持ちが湧かないはずですけど、ぜんぜん湧いて出ますからね。

 

 で、一応今の結論が出たんですけど、これは「自分の頭の外が、自分の頭の中と同じであって欲しいという願望」なんじゃないかと思いました。これは最近よく考えていることの延長の話です。

 

 人間は、自分の頭の中を生きているわけですが、生きる中では自分の頭の外とも接する機会が沢山あります。その時、自分の頭の外が、頭の中と違っているとストレスを感じてしまうんだと思うんですよね。

 「お米はおいしいな」という認識が自分の頭の中にあったとして、自分の頭の外にいる他の人たちが、「いや、お米は不味いよ」と言ってきたとしたらどうでしょうか?ストレスなんじゃないでしょうか?

 そんな時、「そんなことはない!お米は美味しいよ!!」と相手に食ってかかったり、「そうだよね、言われてみればお米は不味いのかもしれない」と自分の認識をそちらに合わせたり、「はー、この人はお米を不味いと思っちゃうんだな」と自分と切り離したりをしなければならなくなります。つまり、自分が単純にあるがままではいられないので、こういうのが頻繁にあるとしんどいように思います。

 だから、「最初からみんながお米を大好きであってくれ!!」って思っちゃったりしませんか?だから、そうなるように行動しちゃったりするんじゃないかと思うんですよ。

 

 自分が好きなものは、みんなも好きであってほしいし、自分が嫌いなものは、みんなも嫌いであってほしいなんて思っちゃったりします。このような、最初から自分の頭の中と外が一致しておいて欲しいという願いが、自分にはあるような気がするんですよ。

 だから、少しでもそうなるように、これが面白いよって話をしてしまったりしてる気がします。

 

 ただ実際には、自分の頭の中と外にギャップがある方が当たり前なので、そう簡単にはいかないですよね?だから、自分の頭の中ほどに外で評価されていないと思ったものには「もっと評価されるべき」と言ってしまったり、自分の頭の中では評価が低いものが世間的に評価されていると「世間は分かっていない」みたいな話を延々してしまったりします。

 でもそれってまとめると、「自分の頭の外が自分の頭の中のようになっていないこと」が嫌で嫌で仕方がないみたいな感情で、それって実は不毛なことなのかもしれません。だって、頭の中は人の数だけあるので、全員の願望が同時に全部満たされることってないじゃないですか。

 

 そう考えてみると、世の中の全部を無理やりにでも自分色に染めてやる!!みたいなことをし続けるには無限の力が必要だと思ってしまいますから、早めに諦めて、なんかぼんやりと、へえ、みんなはそうなんだね、僕はこれをこう思うけど…みたいに、自分の頭の中と外は違うものだということを受け入れてしまって、自分の頭の中だけで辻褄があっていればもうそれでいいじゃないか…みたいな気持ちも生まれてきます。

 

 別にそれでいいんですよ。自分が楽しめりゃそれ以上望むところはないですからね。僕は。個人的には。これはおそらく老化なのではないかとも思いますが。

 

 なお、自分に対してこう思うということは、他人に対しても同じ目線を持ってしまうということです。なので、自分の好きなものを必死で広めようとしていたり、自分が嫌いなものが世間でウケているときに怒ってしまったいるする人については、今の状態がギャップがあって辛いんだろうなという解釈をしてしまいます。だから、それをなんとか解消したいのだと。

 

 オタクがとりわけそんな感じになるというのは、オタクって基本的にはマイノリティですから、自然な状態だとそのギャップが大きく見えてしまうんだと思うんですよね。だって、自分が好きなものが最初から世間でウケているものと概ね一致していれば、その感情自体が最初から生まれないじゃないですか。

 どうして自分が好きなもの、嫌いなものは、世の中で大勢のそれと一致していないんだろう?という気持ちを解消するための活動が、これが面白いよってみんなに言ってしまったりすることであって、それが上手く行けばギャップが減って生活がしやすくなりますし、失敗すれば余計にしんどいみたいな感じなるでしょうね。きっと。

 

 僕はそういうのはもう疲れたので、そういうオタクの気持ちはひとりで抱えてりゃそれで充分だな、みたいな感じに落ち着きつつありますけど、それは僕がそういう方法を選んだだけで、正解ってわけでもないと思います。

 

 人は、日々、自分がどうあるかということと、それに対して世間はどうであるかということをすごく気にしてしまったりして、それぞれの人がそれぞれのやり方で、そのギャップを解消しようとしているんじゃないでしょうか?

 そして、そのやり方が人と人との間で矛盾してしまうと、喧嘩になってしまったりもするのでしょう。でも、それはたぶんもう仕方ないんですよ。全員の気持ちが一意に解決されることなんてありえないからです。

 

 それぞれの人が、歳を食うにつれてそれぞれのやり方で、その上手い折り合いのつけ方を得ていくのかもしれませんし、元気いっぱいなら生涯戦い続けるのかもしれません。

 結論としては、僕はそういう気持ちはあるにはあっても周りをどうにかしようと息巻く元気はもうないな、ということを思いました。

「からくりサーカス」のアニメでジョージ・ラローシュはピアノをまた弾いてねと言ってもらえるのか??

 「からくりサーカス」のアニメは全43巻をたった36話でやりきるという厳しい前提のもとに作られているアニメで、当然その全てをやりきることはできませんから、原作漫画の中から取捨選択をし、爆速で話が進められるという感じになっています。

 これは正直、原作ファンとしては辛いところもあるところはあって、なぜなら気づいてしまうからです。原作を知っているがゆえにその中から「何が省略されているか」ということにです。

 

 人間は期待をしてしまう生き物だと思うのです。そして、その期待が達されなかったときに、がっかりしてしまうのだと思うのです。それは、生理的なレベルの話なので、きっと仕方がないんですよ。だからそうなりそうなときには、期待をしないでおくことが重要です。

 

 しかしながら、そうは簡単にいかない事情もあります。

 僕が思うに、物語を読むのは2回目以降がより感動してしまったりするんですよ。なぜなら、自分からそれを受け止めに行けるからです。この次に何が起こるのか?それを既に知っているがゆえに、笑いたいときは笑う準備をし、泣きたいときは泣く準備をします。全力で。

 もしここで笑ってしまうと、次悲しくなるんじゃないだろうか?とか、ここで泣いてしまっても肩透かしになってしまうんじゃないだろうか?とか、先の展開への不明の不安から、自分の選択に迷いを残し、おっかなびっくりドキドキ見てしまう…そんな1回目も新鮮な感情で楽しいですが、先が分かっているからこそ思う存分に感情を解放する2回目以降があるわけです。それはそれでめちゃくちゃよくて、だから僕は同じ漫画を何回も何回も読みます。なぜなら、それがめちゃくちゃ気持ちいいからです。

 

 何かが省略されるかもしれないアニメではその2回目以降に作用する気持ちが逆に働く可能性があります。あの言葉や、あの表情や、あの行動が、次に来ると思い、「来るぞ来るぞ…」と思う存分味わう気まんまんでいると、省略されていて来なかったりするわけです。となると、おいおいおい!!この感情どないしたらええんや!!となってしまうじゃないですか。

 

 だから、それを期待はしてはいけないわけですよ。意識的に精神をその状態に持っていかなければなりません。まるで初めて漫画を読んだときのように、自分の中で記憶を切り離して、アニメに集中します。そうしなければ、あれがなかった、これがなかったという話をするしかないじゃないですか。で、それって個人的にはつまらない気持ちなんですよね。だからやりたくない。

 

 そんな気持ちを抱えながらアニメを見ているわけですが、でも、今のところアニメを見ていてよかったなという気持ちは十分あって、特に古川登志夫の演じるキャラがめちゃくちゃいいですね。これが聞けただけで、それだけでももう十分アニメを見てよかったなという気持ちがあります。自分が好きな場面が、映像となり、音や声がつくの、めちゃくちゃ嬉しいじゃないですか。

 そんな感じに楽しく見ているわけなんですよ。

 

 さて、からくりサーカスがアニメ化されると聞いたとき、これはどこかを省略するしかないよなあというのは分かったので、じゃあ、何が削られるのかな?と思うわけです。黒賀村での勝の修行編などは、本編の進行上は削られても仕方ないだろうなと思っていて、いや、でもいいエピソードあるんですよ。シルベストリとかね、最後に日常が崩壊するときの絶望感とかね、パンツとか、ビッグサクセスとか、アンラッキーとかあるわけですけど、でも、削られるならここかな?という感じもしました。そして、案の定、全部省略されていることを確認しました。

 

 でもね、省略されるかされないか、微妙なところにいる人がいるわけですよ。僕は彼のことがめちゃくちゃ好きで、その名前はジョージ・ラローシュと言います。

 

 彼は生命の水を飲んだ不死の超越者ことしろがねになっただけでなく、その身を機械で改造したしろがね-Oとして最初に登場した男です。彼はその身の一部を機械に置き換えたときに、心までそうしたように感情を排除した合理的な男で、それゆえにかつては自分も疾患していたゾナハ病患者の子供にも辛く当たります。彼にとってはその子供から憎き自動人形の情報を得ることこそが重要だからです。

 彼は自分は優れた存在であって、優れているからこそ価値があると思いあがった男ですが、その思い上がりは人間味を人間味のスープに入れて煮込んだような男、鳴海によって否定されてしまいます。

 襲い来る自動人形に無残にも負けてしまったジョージは、その身を悪魔と化し、圧倒的な暴力によって人形破壊者、それそのものの権化となった鳴海の姿を目にします。自分には価値がある、なぜなら強いのだからという考えは、自分が弱き者であることを自覚したときに脆くも崩れ去ってしまいます。

 

 人間とは何か?人形とは何か?人形に敵対するために超越者となったジョージは、人形と戦うために、人間よりも人形に近い存在となり、そうしてまで強くあろうとしたのに、結果は敗北なわけですよ。ジョージは、他のしろがね-Oたちからも戦力外通告されてしまうわけです。悲しいですね。悲しいでしょう?そう思いませんか??

 

 そしてアニメでは、そんなジョージの最初の登場時の役割がギィに取って代わられてしまいます。これを見たときには、ショックがありましたね。ジョージがいなかったことになるのか??と思ったからです。でも、すぐに気を持ち直したのは、ネットで見た声優情報の中にジョージの声の情報があったからですね。よかった、いる、重要な役割はギィにとられてしまったけれど、彼は存在しているんだ!!と希望が持てました。

 

 ジョージはあんまりいいところがないです。自信満々で登場したのに、いいところないんですよ。でもね、彼はひょっとすると、このからくりサーカスという物語そのものを体現しているかのような存在じゃないかと思ったりもするんですよ。

 それは誰かに操られる人形と、自分の意志で生きる人間の狭間で思い悩む男だからです。

 

 子供の頃、ピアノを練習していたジョージは厳しい指導の中で自信を奪われました。お前は譜面を再生するだけの機械でしかないと言われてしまうからです。譜面が運命であるならば、彼の人生もまた、それに翻弄されるしかないか弱い男ですよ。彼はそんな機械であり、機械でありながら精一杯の虚勢と、張りぼての自信とともに生きますが、そんなものは脆くも崩れてしまうわけです。

 

 彼は阿紫花という男に出会います。彼は人形繰りの暗殺者でありながら、幸運にも得た仕事で大金を手にした男です。しかしながら、そんな刺激のない毎日は彼を退屈させました。ジョージは阿紫花の前に現れ、自動人形との戦いへの参加を促します。阿紫花は目に光を戻し、その姿はジョージにも刺激を与えます。

 それは、ただひたすらに合理的であろうとしたジョージが、道の外にある非合理に足を踏み出すための意味ある刺激でした。

 

 自動人形たちが迫りくる中、子供たちは怯えました。自分たちにゾナハ病をもたらした自動人形たちが、再びやってくるのですから。それを紛らわせようと下手くそなサーカスを演じようとしたのが法安というジジイで、その姿を見て、ジョージは気まぐれにピアノの伴奏を買って出ます。

 かつては自分が怯えさせた子供たちの前で、下手くそな綱渡りが終わり、ピアノを弾く手を止めたジョージにもたらされたのは喝采でした。かつて機械でしかないと罵られたジョージのピアノは、子供たちにはとても魅力的に感じられたのです。

 

 「ピアノをまた弾いてね」

 

 子供たちからはこんな言葉がでました。それはジョージが今まで何をしても手に入れることができなかった、自分が喝采の中で求められるという体験です。

 ジョージは変わります。変わろうとする意志を持ちます。自動人形とともにやってきた、もはやしろがねですらなくなったOの男を前にして、ジョージは立ちふさがります。Oの男の装備はジョージの上位互換で、正面から戦っても勝ち目はありません。しかし、そんな勝てないはずの相手の前にジョージは立ち、非合理な行動をとるのです。ジョージは、阿紫花からもらった煙草を吸い、合理的に生きることを止めたことを宣言するのです。

 

 合理的とは何でしょうか?それはひょっとして誰かが決めた物差しに従って生きていただけじゃないのでしょうか?いや、それは生きていたとも言えないかもしれません。生きているフリだった、そうは言えないでしょうか?煙草を吸うことに合理的なメリットはありません。ならやらない方がいい。合理的な意見です。でも、その合理は、自分の人生から煙草を吸うという選択肢を奪ってしまいます。

 

 もしかして、その合理性というものは誰かが書いた譜面でしかないのではないでしょうか?

 

 自身が愚かであることも奪われ、誰かが決めた正しいことに寄り添わされて生きるということが、誰かに操られた人形でしかなかったのだとしたら、優れた人間であるために人形に近づいてしまったジョージはまさにそれです。でも、ジョージは人間でしょう?自らの意志を持ち、自分の行き先を自分で決めることができる人間じゃないですか。

 運命という地獄の機械に逆らい、たとえそれが愚かだとしても自分の進むべき道を切り開く人間の姿が、そこにはあるんじゃないでしょうか?

 

 「ピアノをまた弾いてね、と言われたんだ」

 

 ジョージはその言葉を何度も何度も反芻します。これまで自分がどれだけ望んでも手に入れられなかった言葉が、少しの気まぐれで脇道に逸れた場所で、まるで事故のように手に入ってしまったのです。それならば、これまでの合理的であることから一歩も踏み外せずに生きてしまっていた人生は何だったのでしょうか?ジョージは、ジョージの人生は、今この場からやっと始まったのではないでしょうか?

 

 「こんな私にだぞ!!」

 

 ジョージのこの言葉は何よりも悲しい。自分の価値を低く見積もってきたわけですよ。人間を超越したしろがねだと、しろがねをも超越したしろがね-Oだと、自分の外にあった価値を提供してくれる何かにすがって生きてきたのは全てそれを覆い隠すための虚勢だったわけですよ。自分は誰にも求められず、それゆえに、自分の外にある何かにすがって生きるしかなかった弱くて悲しい男の人生が、生まれて初めてやりたいことを見つけることができたかのように、輝き始めるわけですよ。

 

 最古のしろがねであるルシールは言いました。人生はスケッチブックのようだと。やっと描きたいものが決まった時には、それを取り上げられてしまうのだと。ジョージ・ラローシュの人生もまた同じです。彼の人生は、今まさに始まったところで、終焉を迎えます。

 結局死ぬのならば、生きることに意味はなかったのか?いや違うでしょう?鳴海の師匠、梁剣峰は爆薬による自爆を選択しながら、笑って死にました。

 

 「私は本物の人生を生きた」のだと。

 

 死は誰にでも訪れます。しろがねの人生は、それを考えれば長いぐらいです。でも、他人の人生を長く生きながらえるより、短く終わるとしても自分の人生を生きる方がいい。そんな不合理な選択をすることもできるわけですよ。自分の人生なら。ジョージ・ラローシュもやっと自分の人生に辿り着けたわけじゃないですか。

 

 だから、これは悲しい話であると同時に、幸福な話でもあります。

 

 で!!!明日あたりは時系列的に言えば、この話がアニメになるかどうかというところなわけですが、最初に書いたように期待はしてはいけないわけですよ。期待しちゃうとなかったときにがっかりしちゃいますからね。がっかりはしたくないんですよね。なぜならがっかりするからです。だからがっかりはしたくないので、気持ちを無に保ちます。

 

 果たしてアニメのジョージ・ラローシュは自分の人生を掴むことができるのか??できなくてもいいです。だって僕は知っています。原作漫画を読んでいますからね。だからどっちでもいい!どっちでもいいが、ジョージ・ラローシュにはこのような人生があったということを、皆も認識してくれ!!認識してくれよな!!という強い気持ちがあることを、ここに書き残しておくことにします。

 

【2019/3/28 22:55追記】

 ジョージ・ラローシュの最期!!全部やってくれたぞ!!!!やったー!!!!!よかった!!!!!!!!!最高!!!!!!!!!

 次はパンタローネの「歌も…歌えるんだ…」を楽しみにします!!!!!!

「スプリガン」はオリハルコンだ!!関連

 超古代文明の遺産を秘密裏に発掘調査したり、悪い人間に利用されないように封印したりしている組織ことアーカムで活躍するエージェントは、スプリガンと呼ばれています。「スプリガン」はそんなスプリガンの一人であるところの御神苗優くんを主人公にした漫画です。

 

 超古代文明とは、正式な歴史には記載されていない、かつて存在した高度な文明で、現代以上の科学力で栄華を誇ったものの、何らかの理由で滅んでしまったという感じのやつです。その存在は、歴史書としては採用できないあやしげな文献や、当時の科学力では作ることができないような物体(オーパーツ)が存在することから喚起されたりしているものです。

 僕が子供の頃を過ごした90年代はオカルトブームもあり、僕個人の記憶では「三つ目がとおる」や「MMR」や「超頭脳シルバーウルフ」などなどがあって、「ムー」も読んでいて、超古代文明大好きっ子という感じでした。そんな中で読んだのがこのスプリガンで、僕はもう夢中だったわけなんですよね。

 

 スプリガンという漫画の特徴として僕が感じていたのは、その「受け入れる力」の強さです。超古代文明の超科学なオーパーツだけでなく、軍事大国のサイボーグ兵士やサイキック兵士、魔術や精霊や気功のようなものを全てそのまま同じ土俵で受け入れるだけの土壌がありました。

 超古代文明の話で出てきがちな理屈で、僕も当然好きなのは「神話の中に登場する超自然的な現象は、実は科学の文脈で説明できる」というもので、それが疑似科学的なものであったとしても、それによって不思議な現象に説明がつき、僕たちが生きているこの世界と同じ世界観に回収できるという面白みがあります。

 

 しかしながら、このような魔法的なものを疑似科学で回収するという試みは、とても面白い一方で、逆にその体系による制約も受けてしまいます。理屈があればあるほど、その理屈に反するものは存在できず、それが自由を縛ってしまう側面もあると思うからです。

 僕が関連すると思っている話ですが、ゲームの「レイトン教授vs逆転裁判」では、魔法が存在するという世界観の中での裁判(魔女裁判)が行われました。魔法という超自然的な概念が存在したとしても、そこに発動条件や効果における明確な理屈が存在すれば、それはマジックをロジックで取り扱えるということになります。このゲームは魔法の矛盾を追及して真実に至ることができるというとても面白いゲームでした。そしてそれはまた、何でもできそうな魔法なのに理屈で追及されて逃れられないという不自由さもあるということだったと思います。

 

 スプリガンでは、そのような超自然的なものを疑似科学的文脈で解釈すると同時に、魔法を魔法のままで取り扱うことも併存しています。分からないものは分からないままでよく、もし科学がさらに発展すれば、解明もできるかもしれないわね?的なところで受け止めているのです。

 それにより、魔術師や仙人vsサイボーグ兵士みたいな異色な戦いが成立しますし、科学で作られた強化服を着た主人公が、サイボーグ兵士に人間を豹に変える魔術を加えた科学と魔法のキメラのような存在と戦うというようなのも問題なく成立してしまうわけです。そして、その魔術の大本は、古代に地球に飛来した宇宙人だったりもします。それぞれ位相の異なる属性を持つ概念が、同じ土俵の上に乗るということ、それがこの何でも取り込む化け物のような面白い漫画の根底にあるのではないでしょうか?

 

 これはさながら作中に登場するオリハルコンのようです。スプリガンにおけるオリハルコンは、遺跡からまれに発掘される賢者の石と呼ばれるものから作り出される鉱物で、様々な別の金属と合金化することで全く異なる性質を発揮する不思議な存在です。例えば、人間の精神に感応したり、ものすごい硬度を発揮したりします。このオーパーツは、現代の科学力では到達できない未知の領域に、人間の手を届かせることができる踏み台となっています。

 スプリガンもまた同じです。失われた古代の超科学から、魔法、呪い、精霊、気、仙人、霊魂、宇宙人、そして現代の科学と、あらゆるものと違和感の壁を溶かして結合し、そこに物語が生まれていきます。

 

 なんかそういうのが似ている感じがしませんか??スプリガンオリハルコンは似ている気がしませんか??これは、なんとなくそういう感じがすると僕が思ったというとても曖昧な話です。

 

 「十分に発達した科学は魔法と区別がつかない」とはアーサー・C・クラークの言葉ですが、既知の科学と、魔法の間に、疑似科学や超科学で説明可能な領域あり、フィクションのリアリティは、その中のどこに点で設定されるかという個性があるように思います。スプリガンはそれを幅をとって、ここからここまで全部オッケーとなっているところが面白くて、この世にあるあらゆる神話は、なんらかの形でスプリガンの世界に取り込める感じがするんですよね。

 

 なんか、そういうところが好きな理由のひとつな感じがしています。

怒りという感情との付き合い方について

 漫画を読んでいて、感情が動く場面があり、その中でも強いものは「怒り」の感情です。僕自身の日常生活の中では少なくとも表面上は怒りが出ないように心掛けていて、そうなるように調整して生きているので、漫画を読んでいると、自分の中にまだまだこんなに強烈な怒の感情があるのか…と思ってびっくりしてしまいます。

 

 例えば「ホーリーランド」で、主人公のユウは、自分に声をかけてくれた唯一の友達であるシンちゃんが、集団リンチを受けたことに怒ります。それは、自分が身に降りかかった危険を迎え撃ってきただけとはいえ、成り行き上「ヤンキー狩り」として有名になったユウが招いたことでした。自分のせいで友達が傷ついたということにショックを受け、狼狽したユウは暗い部屋で一人で膝を抱えながら身に沸き立つ感情に気づきます。それは「怒り」だと。

 ここ、めちゃくちゃ胸に来たんですよね。自分で自分の感情を自覚することは、迷いを減らし、自分の進むべき方向性を明確にします。だからこの後、ユウは自らの意志で能動的なヤンキー狩りを開始するのです。復讐のため、自分が辿り着くべき相手に辿り着くために。ユウが狩る対象は無作為で、そこに正義はありません。

 正誤で言えば、ユウは間違っているのでしょう。でも、僕はこのくだりにものすごく胸を躍らせて読んでいました。

 

 このように怒りを起因にした暴力の描写に、心がざわめくことがよくあります。例えば三国志の時代に現代の少年少女がタイムスリップする「龍狼伝」では、竜が連れてきた子として劉備軍で活躍することになった志狼が、長坂の戦いで、自分が守ろうとしていた人々が曹操軍に虐殺されるのを目にしてしまいます。

 戦争や人殺しは悪いことであるという現代の倫理観を抱えながらも、それでは助けられなかったという悔恨と敵に心に植え付けられた邪悪な種により、怒りに飲まれ、たったひとりで敵軍を全滅させてしまいます。

 そこには薄暗い破壊の快楽を感じる読者としての僕がいました。

 

 怒りに任せた暴力は気持ちよい。それを感じる回路が自分の中にあることを自覚するからです。

 

 もうひとつ例示します。「狂四郎2030」は近未来を舞台にした物語で、人間を遺伝子で判断するゲノム党が日本を牛耳っている世の中を舞台にしています。主人公の狂四郎は、人格に関係する(という説がある)M型遺伝子の異常と診断され、収容所のようなところで子供の頃から兵士としての厳しい訓練を受けて育ち、戦争の中では暗殺者として活躍した人物です。そんな過去があるにもかかわらず、今は馬鹿でスケベな様子を見せるのですが、それでも、時折過去の顔が覗かせるときがあります。

 狂四郎が同じ収容所で育った白鳥と再会するというエピソードがあります。白鳥は優秀な能力を持つもののどうしても人を殺せない軍人として、狂四郎は大戦で活躍した英雄であるもののしがない警官となったのちに、今では反逆者として旅をしているという異なる立場での再会です。そして、2人はそれゆえに対立することになってしまうのです。

 このエピソードの最後では、白鳥と狂四郎は共闘することとなり、彼らたった2人は軍を相手に戦うことになります。幼い頃から差別され、厳しい訓練の中を生き延びてきた二人の戦争の戦闘能力には、凡百の一般兵たちは敵うはずがなく、大勢の軍人を前にしても身じろぐことはありません。そんな中、ひとりの軍人が負け惜しみのように言いました。

 

 「このできそこないが」

 

 これは遺伝子を理由として異常者として差別され、過酷な状況の中を生き延びてきた2人に対しての「正常」な人間が投げかけた言葉です。

 

 「いいなー、おたくらできがよろしくて」

 

 狂四郎はそう返すと、「正常」な軍人たちを殺していきます。異常な遺伝子を持つ人間は、社会にとって害悪であるために、自由を奪われ、いいように扱われても仕方がない、という差別が存在しました。その中で生きてきた狂四郎が、吐き捨てるように口にした言葉の持つ悲しみは、皮肉なことに人を殺すことを楽しんでいるような顔によって曖昧になります。なぜなら、その姿は危惧された異常者そのものであるようにも見えてしまうからです。

 ここも、めちゃくちゃ僕の気持ちに来てしまったんですよ。これもきっと「怒り」です。

 

 さて、そもそも怒りとはなんでしょうか?

 僕のの考えでは、「怒り」とは「自分の頭の外にあるものを、自分の頭の中にあるものに合わせようとする情動」です。つまり、他人や社会やあるいは自然など、「自分ではないもの」が、「自分の思った通りにならないことが我慢ならない」ということだと思っています。なので、たとえ表面上荒げた言葉が出なかったとしても、そしてそれが合法的なプロセスに基づき、理性的に見える行動で実行されたとしても、今ある何かに不満を抱え、それを自分が思った通りに変えようとする感情は「怒り」に分類されるのではないかと僕は思っているのです。

 そういう意味で言うと、僕自身は日々の生活であまり他人に対して強い口調で怒ったりはしていないと思うんですが、怒りという感情自体は抱えているんだと思うんですよ。なぜなら、今が最良で、何も変える必要がないとは思っていないからです。

 自分の怒りに気づいてしまうということは、その解消をしたいと思ってしまうことで、それが解消されるということは、あったはずの差がなくなり、もう怒る必要がなくなるということです。人はそこに快楽を感じてしまうのではないでしょうか?

 

 漫画を読んでいると、僕自身の実生活では最小化されていると思っているその感情が、結構出てくるんですよ。それはメディアの特性というか、僕は物語の部外者である読者としてでしか作中に関わることができないからかもしれません。物語に存在する理不尽に対して、僕自身は全くの無力で、怒りの感情を抱くぐらいしかできないからです。そして、その差を埋めるための行動は作中の登場人物に仮託されます。僕の感情は登場人物たちによって何らかの結末を迎えます。

 このように、怒りを自分とその外にある世界の差分を埋めるための情動として捉えたとき、怒りを抱えないようになる方法は4つしかないと思います。つまり、(1)世界に合わせて自分を変えるか、(2)自分に合わせて世界を変えるか、(3)世界と自分を比較することをやめるか、(4)そもそも世界と自分が最初から完全に一致しているか、です。

 これらの方法はどれかひとつが正しいわけではなく、場合によって使い分けることで、自分と世界の差分を減らすことをみんなしているんじゃないでしょうか?

 

 怒りを表明し、他人にぶつける方法は2番に属します。それで世界の在り方を変えることができれば、差は減りますし、怒らなくて済むようになるからです。しかし、その変えられた世界が、今度は別の誰かにとっての差分を増やしているかもしれません。自分の怒りを減らすための行動が、そのような無数の人々によるあくなき闘争を生み出し、維持してしまうかもしれません。

 一方、世の中には怒るということが苦手な人もいます。それは1番に属する傾向が強く、2番のように「自分に合わせて世界を変えよう」として起こるかもしれない様々を想像して、「自分の方を変えて納得した方がいいや」という結論に落ち着くものです。このような1番の傾向の人が2番の人と同じ場所にいると、1番の人はどんどん居心地が悪くなりがちです。自分の内面を2番の人に合わせて変え続けなければならないからです。

 それが耐えきれないならば、3番の方法への道が開かれています。それは自分が属する世界と自分を切り離すことで、もう比較をしなくてよくなるという方法です。社会や人間関係から離れ、ひとりで過ごすようになれば、自分と自分以外を比較する必要は減り、怒りの感情は薄れるはずです。これを突き詰めていけば、自分だけに都合がよい世界を構築し、そこに引きこもるということになり、4番に至ることもできるかもしれません。

 

 僕の考えでは、漫画を読む場合は2番になりがちだと思うわけです。そしてその解決は物語の登場人物たちにお任せするしかありません。そして、物語上のその理不尽が解消されなかった場合、1番としてその展開を受け入れるか、3番として読むのを止めるという方法があります。そもそも物語上の理不尽の起こらない4番みたいな漫画もあるかもしれません。

 こういうことを思うと、僕は漫画を読んでいるときは、漫画を読んでいないときよりも怒っちゃうんだよなあというような認識になります。漫画を読むということを選んだ以上、3番や4番の選択をすることができず、2番を願うことしかできないからです。自分の頭の中にある、あるべき理想と違う物語上の理不尽に怒り、登場人物たちの奮闘によりそれが解消されたとき、自分の中の怒りも解消され、穏やかな心を取り戻します。

 

 一方、実生活では選択肢は無数にあるので、1から4番までを上手い具合に使い分けて、自分が怒らなくても済むような生活環境を構築することもできると思います。そこで重要なのは、3番を目的として人間関係を薄くするということで、これは結構ネガティブな行動なのかもしれませんが、仮に他人と自分の間に決定的な差分が認識できたとき、その人が身近な人であれば、その差を高頻度で認識しなければならず、これは怒りに繋がります。解消するためには相手を変える2にならなければなりません。でも、相手だって変えられたくなければ抵抗がありますし、ここを調整するのは利害関係の調整が必要です。

 しかし、たまにしか会わない程度にとどめておけば、基本的には意識しないで済む3なので、会うときのそのときその瞬間だけ自分を曲げて1になればいいだけで、怒りの感情が発生する可能性を簡単に抑えることができると思うのです。

 理想は4かもしれません。自分と周囲の人たちの間に差がなければ、そもそもの怒りの感情なんて存在しないで済むのですから。

 

 このように僕は怒らないということをテクニックとして捉えているので、上手い具合にそうできるように気を遣っているところがあります。怒りで他人を動かすのは子供のやり方、みたいな話がネットではバズったりしますけど、その警句の行き着く先は1です。

 自分が周りに合わせて我慢し続けるということを選ばされているわけで、これ、逆側の視点からすると2を使われて1であることを強いられているんですよね。それってひょっとして理不尽じゃないですか?そんなの解消したくありませんか?その理不尽を解消したいと願う気持ち、「怒り」なんじゃないですか??

 

 僕は怒ることは悪いことじゃないと思うんですよ。というか、怒りの感情が生まれてしまうのは仕方ないじゃないですか。なぜなら、自分を取り巻く世界は、自分の頭の中と同じ形をしていないからです。しかしながら、それを解消するための行動は、自分の頭の中に世界を合わせたいがために、他人の頭の中を自分に合わせようとする、他人にとっての新たな怒りの種になり得ます。それがままならないと思うわけですよ。

 だから、どれが一番正しい方法というのではなくて、場面場面で色んな選択をしながら、自分と世界の間の差分について、自分だけでなく他人を含めて上手い具合の落としどころを見つけてやっていくしかないなというのが僕の考えです。

 

 それをやっていると怒らなくて済むシチュエーションが増えてくるので、ああ、もしかして自分は怒りから解放された、霊的に高いステージに上がった上等な人間なんじゃ??なんて妄想も抱くわけですが、それはきっと全然勘違いで、今はたまたま怒らなくて済むように折り合いがついている場所にいられているってだけなんだと思うんですよね。

 そういう自分から怒りがなくなったわけではないことを、漫画を読んで怒っているときに、あるじゃん!!怒り!!ここに!!あるじゃん!!って思って確認したりをしています。