漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

怒りという感情との付き合い方について

 漫画を読んでいて、感情が動く場面があり、その中でも強いものは「怒り」の感情です。僕自身の日常生活の中では少なくとも表面上は怒りが出ないように心掛けていて、そうなるように調整して生きているので、漫画を読んでいると、自分の中にまだまだこんなに強烈な怒の感情があるのか…と思ってびっくりしてしまいます。

 

 例えば「ホーリーランド」で、主人公のユウは、自分に声をかけてくれた唯一の友達であるシンちゃんが、集団リンチを受けたことに怒ります。それは、自分が身に降りかかった危険を迎え撃ってきただけとはいえ、成り行き上「ヤンキー狩り」として有名になったユウが招いたことでした。自分のせいで友達が傷ついたということにショックを受け、狼狽したユウは暗い部屋で一人で膝を抱えながら身に沸き立つ感情に気づきます。それは「怒り」だと。

 ここ、めちゃくちゃ胸に来たんですよね。自分で自分の感情を自覚することは、迷いを減らし、自分の進むべき方向性を明確にします。だからこの後、ユウは自らの意志で能動的なヤンキー狩りを開始するのです。復讐のため、自分が辿り着くべき相手に辿り着くために。ユウが狩る対象は無作為で、そこに正義はありません。

 正誤で言えば、ユウは間違っているのでしょう。でも、僕はこのくだりにものすごく胸を躍らせて読んでいました。

 

 このように怒りを起因にした暴力の描写に、心がざわめくことがよくあります。例えば三国志の時代に現代の少年少女がタイムスリップする「龍狼伝」では、竜が連れてきた子として劉備軍で活躍することになった志狼が、長坂の戦いで、自分が守ろうとしていた人々が曹操軍に虐殺されるのを目にしてしまいます。

 戦争や人殺しは悪いことであるという現代の倫理観を抱えながらも、それでは助けられなかったという悔恨と敵に心に植え付けられた邪悪な種により、怒りに飲まれ、たったひとりで敵軍を全滅させてしまいます。

 そこには薄暗い破壊の快楽を感じる読者としての僕がいました。

 

 怒りに任せた暴力は気持ちよい。それを感じる回路が自分の中にあることを自覚するからです。

 

 もうひとつ例示します。「狂四郎2030」は近未来を舞台にした物語で、人間を遺伝子で判断するゲノム党が日本を牛耳っている世の中を舞台にしています。主人公の狂四郎は、人格に関係する(という説がある)M型遺伝子の異常と診断され、収容所のようなところで子供の頃から兵士としての厳しい訓練を受けて育ち、戦争の中では暗殺者として活躍した人物です。そんな過去があるにもかかわらず、今は馬鹿でスケベな様子を見せるのですが、それでも、時折過去の顔が覗かせるときがあります。

 狂四郎が同じ収容所で育った白鳥と再会するというエピソードがあります。白鳥は優秀な能力を持つもののどうしても人を殺せない軍人として、狂四郎は大戦で活躍した英雄であるもののしがない警官となったのちに、今では反逆者として旅をしているという異なる立場での再会です。そして、2人はそれゆえに対立することになってしまうのです。

 このエピソードの最後では、白鳥と狂四郎は共闘することとなり、彼らたった2人は軍を相手に戦うことになります。幼い頃から差別され、厳しい訓練の中を生き延びてきた二人の戦争の戦闘能力には、凡百の一般兵たちは敵うはずがなく、大勢の軍人を前にしても身じろぐことはありません。そんな中、ひとりの軍人が負け惜しみのように言いました。

 

 「このできそこないが」

 

 これは遺伝子を理由として異常者として差別され、過酷な状況の中を生き延びてきた2人に対しての「正常」な人間が投げかけた言葉です。

 

 「いいなー、おたくらできがよろしくて」

 

 狂四郎はそう返すと、「正常」な軍人たちを殺していきます。異常な遺伝子を持つ人間は、社会にとって害悪であるために、自由を奪われ、いいように扱われても仕方がない、という差別が存在しました。その中で生きてきた狂四郎が、吐き捨てるように口にした言葉の持つ悲しみは、皮肉なことに人を殺すことを楽しんでいるような顔によって曖昧になります。なぜなら、その姿は危惧された異常者そのものであるようにも見えてしまうからです。

 ここも、めちゃくちゃ僕の気持ちに来てしまったんですよ。これもきっと「怒り」です。

 

 さて、そもそも怒りとはなんでしょうか?

 僕のの考えでは、「怒り」とは「自分の頭の外にあるものを、自分の頭の中にあるものに合わせようとする情動」です。つまり、他人や社会やあるいは自然など、「自分ではないもの」が、「自分の思った通りにならないことが我慢ならない」ということだと思っています。なので、たとえ表面上荒げた言葉が出なかったとしても、そしてそれが合法的なプロセスに基づき、理性的に見える行動で実行されたとしても、今ある何かに不満を抱え、それを自分が思った通りに変えようとする感情は「怒り」に分類されるのではないかと僕は思っているのです。

 そういう意味で言うと、僕自身は日々の生活であまり他人に対して強い口調で怒ったりはしていないと思うんですが、怒りという感情自体は抱えているんだと思うんですよ。なぜなら、今が最良で、何も変える必要がないとは思っていないからです。

 自分の怒りに気づいてしまうということは、その解消をしたいと思ってしまうことで、それが解消されるということは、あったはずの差がなくなり、もう怒る必要がなくなるということです。人はそこに快楽を感じてしまうのではないでしょうか?

 

 漫画を読んでいると、僕自身の実生活では最小化されていると思っているその感情が、結構出てくるんですよ。それはメディアの特性というか、僕は物語の部外者である読者としてでしか作中に関わることができないからかもしれません。物語に存在する理不尽に対して、僕自身は全くの無力で、怒りの感情を抱くぐらいしかできないからです。そして、その差を埋めるための行動は作中の登場人物に仮託されます。僕の感情は登場人物たちによって何らかの結末を迎えます。

 このように、怒りを自分とその外にある世界の差分を埋めるための情動として捉えたとき、怒りを抱えないようになる方法は4つしかないと思います。つまり、(1)世界に合わせて自分を変えるか、(2)自分に合わせて世界を変えるか、(3)世界と自分を比較することをやめるか、(4)そもそも世界と自分が最初から完全に一致しているか、です。

 これらの方法はどれかひとつが正しいわけではなく、場合によって使い分けることで、自分と世界の差分を減らすことをみんなしているんじゃないでしょうか?

 

 怒りを表明し、他人にぶつける方法は2番に属します。それで世界の在り方を変えることができれば、差は減りますし、怒らなくて済むようになるからです。しかし、その変えられた世界が、今度は別の誰かにとっての差分を増やしているかもしれません。自分の怒りを減らすための行動が、そのような無数の人々によるあくなき闘争を生み出し、維持してしまうかもしれません。

 一方、世の中には怒るということが苦手な人もいます。それは1番に属する傾向が強く、2番のように「自分に合わせて世界を変えよう」として起こるかもしれない様々を想像して、「自分の方を変えて納得した方がいいや」という結論に落ち着くものです。このような1番の傾向の人が2番の人と同じ場所にいると、1番の人はどんどん居心地が悪くなりがちです。自分の内面を2番の人に合わせて変え続けなければならないからです。

 それが耐えきれないならば、3番の方法への道が開かれています。それは自分が属する世界と自分を切り離すことで、もう比較をしなくてよくなるという方法です。社会や人間関係から離れ、ひとりで過ごすようになれば、自分と自分以外を比較する必要は減り、怒りの感情は薄れるはずです。これを突き詰めていけば、自分だけに都合がよい世界を構築し、そこに引きこもるということになり、4番に至ることもできるかもしれません。

 

 僕の考えでは、漫画を読む場合は2番になりがちだと思うわけです。そしてその解決は物語の登場人物たちにお任せするしかありません。そして、物語上のその理不尽が解消されなかった場合、1番としてその展開を受け入れるか、3番として読むのを止めるという方法があります。そもそも物語上の理不尽の起こらない4番みたいな漫画もあるかもしれません。

 こういうことを思うと、僕は漫画を読んでいるときは、漫画を読んでいないときよりも怒っちゃうんだよなあというような認識になります。漫画を読むということを選んだ以上、3番や4番の選択をすることができず、2番を願うことしかできないからです。自分の頭の中にある、あるべき理想と違う物語上の理不尽に怒り、登場人物たちの奮闘によりそれが解消されたとき、自分の中の怒りも解消され、穏やかな心を取り戻します。

 

 一方、実生活では選択肢は無数にあるので、1から4番までを上手い具合に使い分けて、自分が怒らなくても済むような生活環境を構築することもできると思います。そこで重要なのは、3番を目的として人間関係を薄くするということで、これは結構ネガティブな行動なのかもしれませんが、仮に他人と自分の間に決定的な差分が認識できたとき、その人が身近な人であれば、その差を高頻度で認識しなければならず、これは怒りに繋がります。解消するためには相手を変える2にならなければなりません。でも、相手だって変えられたくなければ抵抗がありますし、ここを調整するのは利害関係の調整が必要です。

 しかし、たまにしか会わない程度にとどめておけば、基本的には意識しないで済む3なので、会うときのそのときその瞬間だけ自分を曲げて1になればいいだけで、怒りの感情が発生する可能性を簡単に抑えることができると思うのです。

 理想は4かもしれません。自分と周囲の人たちの間に差がなければ、そもそもの怒りの感情なんて存在しないで済むのですから。

 

 このように僕は怒らないということをテクニックとして捉えているので、上手い具合にそうできるように気を遣っているところがあります。怒りで他人を動かすのは子供のやり方、みたいな話がネットではバズったりしますけど、その警句の行き着く先は1です。

 自分が周りに合わせて我慢し続けるということを選ばされているわけで、これ、逆側の視点からすると2を使われて1であることを強いられているんですよね。それってひょっとして理不尽じゃないですか?そんなの解消したくありませんか?その理不尽を解消したいと願う気持ち、「怒り」なんじゃないですか??

 

 僕は怒ることは悪いことじゃないと思うんですよ。というか、怒りの感情が生まれてしまうのは仕方ないじゃないですか。なぜなら、自分を取り巻く世界は、自分の頭の中と同じ形をしていないからです。しかしながら、それを解消するための行動は、自分の頭の中に世界を合わせたいがために、他人の頭の中を自分に合わせようとする、他人にとっての新たな怒りの種になり得ます。それがままならないと思うわけですよ。

 だから、どれが一番正しい方法というのではなくて、場面場面で色んな選択をしながら、自分と世界の間の差分について、自分だけでなく他人を含めて上手い具合の落としどころを見つけてやっていくしかないなというのが僕の考えです。

 

 それをやっていると怒らなくて済むシチュエーションが増えてくるので、ああ、もしかして自分は怒りから解放された、霊的に高いステージに上がった上等な人間なんじゃ??なんて妄想も抱くわけですが、それはきっと全然勘違いで、今はたまたま怒らなくて済むように折り合いがついている場所にいられているってだけなんだと思うんですよね。

 そういう自分から怒りがなくなったわけではないことを、漫画を読んで怒っているときに、あるじゃん!!怒り!!ここに!!あるじゃん!!って思って確認したりをしています。