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自分の行動をルールで縛ることで判断のストレスから解放されたい関連

 「ニセモノの錬金術師」に登場したノルンさんの存在が面白くて、まずその話をします。

 

 なお、ニセモノの錬金術師についてはこちらを読んでください。

mgkkk.hatenablog.com

 ノルンさんは、その身に周囲の全てを破壊しつくしてしまうような強烈な怒りの感情を持ちながらも、社会の中で生きて行こうとしている人です。

 

 そのとき彼女が頼りにしたのは「法」でした。法を遵守するということが、どうしようもない怒りをその身に抱えたノルンさんが、社会の中にいるための効果的な方法となったのです。

 つまり、人間の怒りは、「どうしてもやり過ぎてしまうもの」だということです。右の頬を殴られたときに、殴った相手を拳銃で撃ちぬいてしまうようなバランスの悪さが、怒りにはあります。そこにあるのはどうしようもない主観的な話で、客観的なバランスは、主観的な怒りの奔流の中では忘れ去られてしまいます。

 

 ハンムラビ法典の有名な一節に、「目には目を、歯には歯を」というものがあります。それは傷つけられたなら同じだけ報復をしろという意味として捉えることができるかもしれません。しかし、目を傷つけられたときには、相手にしていい報復は目を傷つけることだけという、報復における暴力の際限なさに縛りを入れたものでもあります。

 そうでなければ、人間はどうしてもやり過ぎてしまうからでしょう。

 法律には、長い歴史の中で改善が繰り返されてきた、適切な量刑の決め方が書かれています。それはきっと、個人の感情に任せて行われる報復よりも、社会全体のことを考えたとき、妥当なものなのだろうと思います。

 

 暴力の報復合戦には際限がありません。それがエスカレートするものであるならばなおさらです。それを無制限に認めてしまえば、ほんの些細な切っ掛けから、お互いを取り返しがつかないぐらいに傷つけあう結果となってしまうかもしれません。

 

 近代の歴史は、個人が暴力性を手放し、社会へ委託する流れにあります。私的な制裁もまた法で禁じられ、犯罪者への制裁は、法に則って行われます。しかしながら、どこまで行っても法は完璧ではないかもしれません。法律が制定されたときには、想定していなかったことだって起きるかもしれないからです。

 それでも、この社会は、法をアップデートしながら、社会全体の便益のために、個人は暴力を放棄することとなっています。

 

 だからこそ、物語の中では、法で裁けない悪を私的に制裁するお話が喜ばれる土壌もあったりするのかもしれません。

 

 ノルンさんは、自分の抱えるどうしようもなさを理解しているからこそ、自ら法による縛りを受け入れました。それは必ずしも平和主義を意味するものではありません。法に則る暴力は彼女の許容するものだからです。そして、法による制裁もまた受け入れるのであれば、法への違反だって行うことができます。

 

 彼女の性格は初見ではとても風変りに見えて、一見すると価値判断の根拠が意味不明の理解できない人物に見えてしまうかもしれません。しかし、彼女の在り方を理解すれば、それは我々の生きる社会の相似形と理解することができます。社会が暴力をどのように取り扱ってきたかのように、彼女自身も、自分の抱える暴力を上手く取り扱おうとしています。いや、結局のところ、一個人のあり方が、社会との相似形となっていることそのものが不可思議に見えるのかもしれませんが。

 

 さて、ようやく本題なのですが、僕もノルンさんのようなことをして生活している部分があるなと思いました。自分自身の意思ではなく、ルールで行動を決めていたりするからです。何故そういうことをしているかというと、自分が決断をしたということの意味を重く受け取りたくなかったり、自分自身の考えでは決してやらないだろうけれど、やった方がいいことを無理矢理やるためです。

 つまり、自分のことを全く信用していません。自分がやりたいように色んなことをやっていると、絶対に良くないことが起きると思っています。なので、そうならないようにするために、自分の意思よりも一段高いところに予めルールを制定しておき、それに従うことで自分をしんどさから救おうとしているんですね。

 これは、そのルールがある部分を、外部の神さまなどに置き換えたりすると、宗教を信じることで人間が救われる話にも通じるかもしれません。

 

 しょうもない例で言えば、Twitterのフォローとかミュート、ブロックなんかは、それを実行することへのストレスが大きいので、僕は自分が信仰することにしているルール様に、その運用を任せています。とはいえ、そのルール自体は、僕自身がこれで上手くいけると思って設定したものなので、結局自分の考えのもとに行動しているとも言えるかもしれません。

 それでも、ひとつひとつの行動をするときのストレスは激減します。なぜならば、誰かをブロックするときって、その人のことをまた見れるようになるためのきっかけが限りなくゼロに近づくので、本当にそれをやってもいいのか?ということを悩んでしまうじゃないですか。悩んでしまうというのは、どっちにしたらいいのかがよく分からないということです。だから、中途半端な状態が継続してしまったり、いざ実行してしまったあとで、本当にそれでよかったのか?と悩んでしまったりします。

 こういう部分をルールに全て預けてしまえば、「ルール通りに行動した」というそれだけで全てが終わります。

 

 これによって困ったことも起こって、この人のツイート好きだからフォローしようかなと思っても、自分のルール上はフォローする条件に合致しないのでフォローできないとかがあります。そんなもの無視して、自分がしたいならしろやって話なのかもしれないですが、ルール違反をすることは、そもそも僕がルールに身を預けることでやりたかったことを無駄にしてしまいます。

 僕はルールに基づいて何かをやることで、自分が決断したというストレスから解放されたいのです。もう少し詳しく言うなら、決断をした結果起こったことを正面から引き受けることを避けようとしています。ルール違反をしてしまうと、違反したときとしないときという別の文脈が生じるので、自分へのダメージが通ってしまう口を作ってしまうんですよね。

 だから、大きなルールを変えることで同じことを達成するべきで、その場その場の都合でルール違反はしたくないみたいな気持ちがあります。

 

 こういう話をすると、いつも皆に呆れられてしまうんですが、でも僕こうなんですよ…。

 

 さらに連想したことで、「鬼滅の刃」で鱗滝さんが言う「判断が遅い」があります。鱗滝さんは、炭治郎くんが即座に問いに答えられなかったことについて、ビンタをして「判断が遅い」と言います。このくだりを読んでて思ったのは、遅いのは「判断そのもの」じゃないんじゃないかな?ということです。つまり、その瞬間に聞かれたことを、その場で判断できるために必要なことは、その場その場で瞬間的に価値判断をするのではなく、それを問われる以前に、あらかじめ十分、自分の中で優先順位について整理しておくことではないかと思うからです。

 例えば、2択を問われたとき、えいやでどっちかを選ぶことはできます。判断自体は拙速で無根拠にすること自体はできるわけです。でも、それでは意味がないわけでしょう?鱗滝さんに問われていたのは、覚悟が足りないということです。それはつまり、聞かれる前に十分にそのことについて考えていなかったことを責められているということだと思うんですよね。

 

 そういう意味で言うと、近年の僕は結構色んな判断が早くなりました。それは自分の意志で何かを決めることを放棄し、その代わり、もしこういうことが起こったらどうするか?ということをあらかじめルールとして設定しているからです。

 なので、仕事とかでは、判断根拠を明確に提示しながら、聞かれたことに即答できることも多いです。これはかなり役に立っています。しかし一方で、自分がそれについて全然考えていなくて、ルール化できていない部分については、いつまでも考え続けて答えが出せなかったりします。

 

 僕の人間としての基本的性質は優柔不断なので、特に若い頃はなかなか答えを出すことができない人生をずっと送ってきました。でも、答えを出せないことで、色んなタイミングを逸してきたことから、どうにかしないといけないぞ!!という考えのもとにこういうやり方が合っていたようなんですよね。自分の価値判断から、自分の今この場での感覚みたいなものを抜いていくことができたおかげで、人生の調子がかなりよくなりました。

 

 こういうことがあり、自分の人生から、その場その場で決断するということを取り除き、その代わりに、こういうことが起こったらどうするか?ということを事前によく考えてルールとして持っておくということをしています。そうすることで生活や仕事のかなりの部分を楽にしました。

 

 しかし、たまに困ったことが起こるのは、僕がルールに基づいて行っている行動を、感情によって行っていると誤解されるときがあることです。人が行動から逆算して他人の中で感情を再現して理解しようとすることはよくあることです。でも、僕は、行動原理から感情的なものをできるだけ排除しようとしてこういうことをしているので、そこで再現される人物像は、実態の僕とかなり乖離していたりします。

 

 「あなたはこのような行動をしたのだから、このように考えているに違いない」と誰かに思われたときに、僕はそうではないんですよとしか言うことしかできないんですよね。

 でも、そういうときまさしく僕が、他の人にとってノルンさんのように、一見すると奇異にも見え、つかみどころのない人のように捉えられてしまったりするんだろうなと、漫画を読みながら思ったりしました。