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評価することのメッセージ性関連

 会社の仕事の中で他の人を評価することが増えてきました。課長職をやるようになって、課メンバーの評価をするようになったということもありますが、しばらく前から360度評価による、周囲の人たちと相互に評価をするようになっていました。

 

 そういうことをやっていて思うのは、「評価をする」ということはメッセージを送ってることと同じだなと思うということです。例えば、評価指標に基づいて、足りないと低く評価するならば、足りるようにしてほしいというメッセージですし、非常に良いと高く評価するなら、それをもっとやって欲しいと思っているというメッセージを伝えていることになると思います。

 

 メッセージを伝えるということは一方通行ではなく、伝えられた側もそれに対して何かを感じた上で、そして、そのリアクションとして行動を変える、ということがあると思います。

 

 僕の認識では、高評価は「そのままそれを続けて欲しい」ということ、低評価は「それを続ける上でには何かを変えて欲しい」というメッセージです。

 なので例えば、今まで通り頑張って欲しいときに低評価をするというのは、コミュニケーションとして考えるとむちゃくちゃだなと思います。逆に、やり方を変えないといけない状況では、どんなに頑張りが見えていたとしても、高評価をつけるわけにはいかなくなったりします。

 

 その意味で、人のどこをどのように評価するかのシステム設計や指標は、それ自体が強いメッセージ性を持つものであって、そのシステムがどうであるかによってその場所で働くか働かないかを考えた方がいいほどの強さがあると思います。人は自分が適切に評価されていると感じる場所で働く方が良いと思うからです。

 評価がメッセージとして機能するということは、そのメッセージを自分に都合よく使おうとする人も出てくると思います。例えば、評価するということを、悪感情を持っている相手に対する懲罰的なメッセージを伝える手段として使うこともできます。

 

 誰かを辞めさせたい場合には、その人の実際的な働き方とは関係なく異様な低評価をしまくれば、その相手は、この場所で頑張って働くことの伝わらなさを感じて、自主的に辞めたいと感じるようになるかもしれません。それを個人の感情起因でやることはパワハラですが、それを社内評価のルールに合わせて巧みに行うことで脱臭することも可能ではないかと思います。

 

 評価を人間がやる以上、そこには様々な感情が吹き溜まっていたりして、歪んだりします。また、評価者に見えていることは全体の中の限定的な一部分でしかなく、そして被評価者が評価者に対して、自分のやっていることを上手くプレゼンできるとも限りません。さらには、そもそも評価指標自体が適切であるかどうかの問題もありまます。

 人は不当に低い評価をされ続ける人はやる気を失っていくでしょうし、不当に高い評価をされ続ける人は、そのときのやり方が実は悪かったとしてもそれを継続するための理由を得てしまいます。どちらも組織が上手く回るということを考えた場合には不適切で、そしてそれが適切であったかどうかを、いつなんどきでも正しく認識することはとても難しいことです。

 

 なので、世の中には客観的(というものがもしあるなら)に見れば不適切な評価が溢れているでしょうし、それらはメッセージとして機能するために人の行動に影響を与えます。一方で、それがメッセージとして機能することを意識しないというスタンスもあると思うんですよね。

 

 例えば何らかの商品や作品に点数をつけるレビューについては、メッセージとして利用している人と、メッセージとしては利用してない人がいると思います。

 例えば作者が気に食わないと感じている人が懲罰的な目的で、レビューに低い点数をつける場合、それはメッセージを伝えようとしているはずです。一方で、自分の中での良し悪しを評価結果で整理しようとしていた場合、その意図は薄いかもしれません。Aという作品とBという作品のどちらを好きかを考えたときに、Aの方が好きだという気持ちを、Bよりも高い点数をつけることで整理したいということはあると思います。

 それは別にBの作者に対して、Aに劣っていると伝えたいわけでも、だからもっと頑張れと言いたいわけではなかったりもすると思うんですよね。つまり、メッセージとしては使っていないつもりということです。

 

 一方で、評価される側がそのように受け取るとは限りません。低い点数をつけられるということは、何かが足りなかったとメッセージを伝えられていることに等しく感じてしまうことはあるでしょう。それはつまり、だから、「アナタは今のままではダメで、何かしら改善をしなければいけないと言われているように感じてしまうかもしれない」ということです。そういう部分で、すれ違いが起こって、悲しいことになることもある気がするんですよね。

 

 評価者はメッセージのつもりはなくとも、被評価者はそれをメッセージと受け止めて、そこから悪意を感じたり、ダメージを受けてしまったりするということです。

 

 何かを作っている人が、悪い部分を評価されることに嫌気がさして作ることを止めた実例もいくつも知っています。例えばフリーウェアを作っている人が、沢山使われているのに感謝の言葉はほとんど届かず、金も貰っていないのに、ここが悪い、ここが足りないという指摘ばかりを受けて嫌気がさしてやめてしまったという話を聞いたことがあります。それらは改善のための要望であったかもしれませんが、言われる側からすると、お前の作るものは不完全だと言われ続けたと捉えられるかもしれません。

 また仕事関係では、あるオープンソース系のコミュニティで「日本の企業から送られてくる意見は、欠点の指摘と改善をしてほしいという要望ばかりで、自分でその解決のためにコミットをしようとしていない」という話も聞きました。要望を伝えれば相手がやってくれて当たり前という謎の意識がそこに感じられたということです。改善を求める場合には最低限コードとセットで、自分たちがそこに貢献をするという意志と労力の支払いがないなら、ただ迷惑なだけだという意味合いのことを言っていました。

 

 僕自身も、ネットで何か活動をしているとご意見を貰うことがたまにあります。それは「私に評価されたければ、もっとこうしてください」というご意見です。そこに悪意があるわけではないことが多いので、それがあること自体は別にいいのですが。ただ、僕はそういうものに対して「そうなんだ」って思うだけで、その人の求めるように改めるかどうかは場合によります。しかし、低く評価されたくなくて、要望者の言うことを聞いてしまう人もいるでしょう。

 こういう要望意見については、そう思った人が一人いるんだなというだけの話でしかないと思います。つまり、その人にそう思われたからといってなんだと言うんだ?と思うだけの話です。

 

 立場を反転して、僕が要望を伝えてきた人に「僕に良いお客さんと思われたかったら、黙ってろ」と言ったして、その人は黙るでしょうか?黙ってくれるような素直な人もいるかもしれませんが、「お前に何の権利があって??」とムカつく人もいるでしょう。それでいいと思います。僕も相手も、同じ一人と一人の人間です。相手とどのような関係性を結びたいかによって、相手に合わせて自分を変えたり、変えなかったりすればいいだけの話です。

 

 話が逸れた気がしますが、評価はどうしてもメッセージとして機能すると思うので、どのように評価するかというところには、評価には人を刺すトゲにも受け止めるクッションにもなるということを意識し、その結果がどうなるかというという想像力があった方がいいのではないかと思います。また、自分が評価を受けるときにも、どういう意図でそれがやられているかという認識を持ち、いきなり受け入れるのではなく、適切に捌きながら受け取ることが重要なのではないかと思っています。

 

 他人にどのように評価されるかに怯えている人も目にすることがよくあります。だからこそ、その辺りをどのように取り扱うかが、ネットを通じて様々な人の評価に晒されやすく、また、自身も日常的に何かを評価してしまう世の中では大切なのかもしれません。

 あとはまあ、仕事上そういうことをたくさんしたりされたりしなければならないことで疲弊していますが、これもやらないといけなさそうです。