漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

コミティア必勝法関連

 しばらく前から同人誌即売会コミティアの冊子、ティアズマガジンの中で連載を持っています。僕個人が持っているわけではなくて、参加しているWebラジオ「人生思考囲い」の出張版として1ページ貰っている感じです。

 

 その第一回の話題が「コミティア必勝法」だったのですが、ここには我々は常にコミティアで勝ってきたという自負のもとに答えを出しています。結論から言えば、僕が思う「コミティアで勝つ」ということは「コミティアが終わったときに、また参加したいと思う」ということです。

 

 コミティアに参加して良かったな、また参加したいなと思うということがある種の勝利であり、参加をし続けている我々は常に勝ち続けていると言っていい。

 

 この「また参加したい」と思うという部分は、いくらでも細かく分類することができると思います。

 本が沢山売れて嬉しかったとかでもいいですし、逆に全然売れずに悔しかったから次こそはと思うとかでもいいです。知り合いが来てくれて嬉しかったり、知らない人が来てくれて嬉しかったり、知らない人が知り合いになって嬉しかったりがあると思います。商業誌の編集さんから声をかけてもらったり、同人誌の合同誌に声をかけてもらったりして嬉しかったりもあるかもしれません。はたまたサークル参加していれば早く会場に入ることができるので、開場前に知り合いと本の交換をできて便利だったりするかもしれません。打ち上げに参加するのが楽しいとかもあったりするでしょう。スペースでの雑談や、打ち上げの席で、次はこんな本を作りたいと盛り上がってモチベーションがあがったりもするかもしれません。

 

 色んな嬉しいことがあったり、色んなやりたいことがあったりして、人はそれを得るためにまた同人誌即売会に参加するのだと思います。

 

 逆を言えば、それがなければ参加を継続することができません。今まで見てきた中でも、参加を辞めてしまった人もいます。たった一回で辞めてしまった人も知っています。本人の気持ちは本人にしか分からないですが、それは参加した結果、期待していたものが得られなかったからかもなとも思います。

 例えば、誰にも手に取って貰えなかったとか、誰とも知り合いになることができなかったとか、それまで一生懸命時間をかけて作ってきた本が、他人にとってみれば手に取ることすらされないものであるため、これまでの頑張りが無意味であったかのように思ってしまうとか。

 

 でも、世の中は一回で上手くいくことなんてあんまりないんじゃないかなと思います。僕が初めて参加したときも、知らない人が手に取ってくれることなんてほぼなくて、ネットで知り合いに買いに来てくれ!!と頼み込んで来てもらい、なんとか多少本を減らすことに成功したという感じです。

 でも、二回目参加したんですよね。それは、初めてストーリー漫画をひとつ描き上げられたという達成感と、自分だけのお話ができたという充足感と、会場搬入を頼んだ同人誌のダンボールを開けたときに、自分だけの紙の本がそこにあるということの喜びがあったのが大きいです。

 

 また本を作って嬉しい気持ちになりたいということの繰り返しで参加を続けています。参加を続けていると、徐々に買ってくれる人が増えて、徐々に知り合いが増えて、本が出来たということに加えて、嬉しいことがひとつずつ増えていきました。

 

 続けることが大事と言いたいわけでは別になく、自分の中の勝利条件を決めておくことが大事だと思います。できそうなことを目標にして、そこにちゃんと意味を見出していれば、自然とずっとやるようになります。しかし、その目標の設定次第では、やってもやっても勝利条件が満たされないことになり、やる意味を喪失して、出来なくなるかもしれません。

 

 僕はTwitterとかでよく、「餃子の王将に行きたい!」みたいなことを言ったあと、餃子の王将に行って「やったー」と喜んだりしているのですが、冗談としてやっているのと同時に、達成できる程度のやりたいことを口にして、それを達成してみるという小さなサイクルを回すことが、自分の精神衛生にとって良いことだと感じているからやっています。

 

 やりたいことを短期、中期、長期の何層にも渡って同時に抱えておき、とりあえずできそうな短期のやりたいことをやって嬉しくなりつつ、ちょっとずつ中期や長期のやりたいことができるようになっていくというような、自分にとっての報酬をコントロールすることが、日々楽しくやっていくコツかなと思っています。

 

 だから、初めて作った漫画の本を机にどんと置いて、知り合いがたまに来てくれる以外はずっと座っているだけで、別に打ち上げとかがあるわけでもなく、刷った本の半分以上をカバンに詰め込んで帰ったあの日も、本が出来て嬉しかった僕は勝利していましたし、その後もずっと勝利し続けています。

 今ではコミティアで沢山の友達ができて、買いに来てくれる人がいて、新しい人とも知り合えて、ずっと大好きだった漫画家さんに、会場で漫画面白かったよと伝えて貰って舞い上がったりして、時間がなくてもちょっとしたペーパーを作って、それができたのが嬉しくて、人に配って、まあホント楽しいですし、昨日のコミティアも完全に勝利しました。

 

 なので、次のコミティア(5月)も出ます。コミティアで勝とう!!

月曜日の朝、iPadを忘れた関連

 ここのところ会社の仕事が大量にある状態で、漫画の仕事のスケジューリングもやらないといけないため、どれだけ淡々と漫画の作業を進めて行けるのかが重要になっています。

 漫画の仕事、特に作画は進め方がシンプルなので、〆切までの日数で残りのコマ数を割って、出てきた数字の分だけ毎日作画を進められれば完成します。さらに言うと、一日の時間の中でも、何時までに何コマ終わっていれば間に合うかというスケジューリングもあり、僕は朝の通勤時間、昼休み、夜の帰り時間、家に帰ってからの4つの時間でそれぞれ何コマできているといいかで進捗を見ています。

 

 なのですが、本日、珍しくiPadを家に忘れて出勤してしまったため、そのスケジュールが全て壊れてしまいました。漫画の仕事はイレギュラーがあまりないので会社の仕事と比べて進めやすかったのですが、こういうイレギュラーがあったか…という気持ちになりました。

 なぜ忘れてしまったかというと、iPadを仕事のカバンの近くまで持って行ったところで、忘れ物を思い出してiPadをその辺に置いて一旦寝室に戻り、結局カバンにiPadを入れないままに家を出てしまったからです。こういうことが最近はよくあり、複数のことをやろうとしたときに、後から入ったタスクをやっているうちに先のタスクのことを忘れてしまい、脳の記憶領域の加齢による(?)劣化を感じています。

 会社の仕事でこれがあると致命的なので、やらないといけないことはとにかくなんでもメモにとっておき、それを外部記憶として参照することでなんとかしています。

 

 さて、今月はそれ以外にも管理上の問題があって、大きなのは、スプレッドシートで作画の進捗を日々管理しているのですが、今やっている原稿が36ページあるのに、計算範囲が28ページになっていて(前後編で前編が28ページ後編が36ページだったので設定ミスでした)、8ページ分の作画がスケジュールから漏れていることに先週気づき、線を引き直して、土日でなんとか巻いて間に合わせたり、単行本の表紙を描く作業や、連載以外でなんか色々やっているあれこれなどもやっていて、それぞれの様々な様々で軽微なミスがあり、それによりスケジュールの考え直しがあり、淡々とやるはずが…と自分の管理能力のダメなところを直視するはめになっています。

 

 要所要所にバッファを設けているので、スケジュール的にはまだ無理せずとも間に合うペースですが、今週末のコミティアに何か持って行きたかったものの、それをやる時間はどんどん減っています。コミティア会場でも漫画を描いている僕の姿が見れる可能性もあります。

 

 今は「いじめ撲滅プログラム」という原作付きの漫画の最後のエピソードを描いて、単行本にしようとしているのですが、そのために連載を休むことなく前後編で計64ページ描くためのスケジューリングをしていて、さらに、その合間にスペリオールに載せる読切を描いたり、正直かなり限界に近い漫画の仕事の詰め込み方をしています。

 詰め込んだのはできると思ったからなのですが、その「できる」は、「時間を限界まで絞り出せばできる」なので、今は飲みに行ってもカラオケに行っても、家で料理や洗濯をする合間にも、ずっと漫画を描いている感じになっています。

 

 会社員としてそこそこ忙しく働きながら、なぜ漫画の連載ができるのか?という話はよく言われますが、ずっと描いているからです。生活の中のわずかな時間、例えば外食して注文した料理が届くまでとか、本来スマホを見るぐらいしかできないような時間でも、全て漫画を描くことに割り当てているのでなんとかなっている感じです。

 

 つまり、僕の漫画家活動はどこでも漫画を描けるiPadの存在によって成り立っていて、そして、iPadを忘れてきたらそれが何にもできない!!

 

 なので、本日はすごい焦燥感があって、本来なら何コマか進められていたはずなのに漫画が描けていない、こんなにも描きたいのに、と描けないからこそめちゃくちゃ描きたくなっていて、この気持ちのモメンタムを維持したままで、家に帰ったら速攻で漫画に手をつけ進めなければマズい。

 昨日一昨日でせっかくリカバリしたスケジュールをまた崩すことはまかりならんので、頑張らなければなりません。帰りの電車でスマホでこれを書いていますが、本来なら漫画を描いていたはずなのに!という気持ちがあります。

 

 漫画を描きたいです。これは漫画を描くことが楽しいというよりは、スケジュールが崩れることに対する恐怖から逃げようとするためには早く沢山描かないといけない、という気持ちです。

商業活動と同人活動の違い関連

 商業誌から原稿料を貰って読切が掲載されたのが2021年7月、初連載を持ったのが2022年4月だったので、商業活動を始めてから2年半、連載を持つようになってからもうすぐ2年という感じになります。

 

 それまでの5年ぐらいは同人活動をしていて、僕は同人で漫画を描いているだけでまずは楽しかったので、商業活動を辞めたらまた同人活動に戻っていくと思うのですが、商業活動は結構楽しいので、できるだけ続けたいなと思っています。

 

 商業活動は同人活動よりも多くのメリットがあるなと思ってやってるので、その辺を書きます。

 

(1)紙の本を出すためのあれこれを引き受けてくれる

 即売会主体での同人活動をするのであれば、本の在庫を抱えるということには非常にセンシティブになってしまいます。家にまだ売れてない本が数百冊あるだけで圧迫感がありますし、数千冊を保管するのは現実的ではありません。なので同人活動ではせいぜい数百冊程度を刷って増刷は基本的にしない感じです。

 また、同人誌の場合、続き物の話をやりにくいという問題もあります。なぜなら繋がっている漫画の10冊目を作った時に1冊目から在庫を保持していないと、最初から読んで貰うことができないからです。家がその漫画の在庫でいっぱいになってしまいます。在庫管理がとてもしんどい。

 在庫のなくなった既刊は電子で、新刊は紙もあるというやり方もありますが、あとから買い始めた人が紙を手に入れられないのに新刊は紙で買ってくれるのだろうか?という悩みもありますし、判断が難しいんですよね。

 

 これは規模の大小は違えど、商業出版も抱えている難しさでもあり、ただし、商業出版の場合はそのしんどさを出版社にやってもらうことができるのでとても気持ちが楽です。その代わり、出版社には採算の合わない連載を打ち切るという判断があります。

 まとめると一定以上の量の紙の本を売りたければ、個人のレベルでは在庫管理が大変なので、商業出版の方が現実的です。それは続き物のお話をする場合はなおのことそうなります。個人で紙で発行する連載漫画を長く続けることは、よほどのことがないとできないと思った方がいいでしょう。

 

 なので、何十巻も続くバトルものやスポーツものの少年漫画を同人活動で続けることは基本的にできないと思った方がよく、同人活動に向いたジャンルの向いた構成のお話をするという縛りができてしまうと思います。

 一方で、紙の本を出すことを諦めて電子のみにしてしまえば在庫問題は解決するため、同人と商業出版の違いかなり少なくなるかもしれません。複数の電子書籍ストアに登録するのが面倒という問題はありますが、そこは電子取次などを利用するという方法もあります。

 紙の本を作ることにこだわっているか、どのような漫画を作りたいかによって商業活動と同人活動を選ぶという考えかたがあります。

 

(2)本を作る上での描く以外のことを担ってくれる

 同人誌で本を作るには、表紙やロゴのデザインや入稿データの作成、各種チェックなどを自分でやる必要があります。商業出版の場合は、それを出版社側がやってくれるというメリットがあります。デザイン費や入稿データの作成費も自分で支払う必要はありません。それは漫画を描くことに集中したいときにはとても便利なことです。

 一方で、本を出すと言うことを他人に頼むと言うことは、その人が本を出す上での必要経費や利益の一部を持って行くことになります。そのため、全てを自分でやる場合と比べて、1冊の本を売ったときの利益は少なくなると思います。この辺は同人誌でもデザインを外注したり、フリーの編集さんに個人で色んなことを依頼するというケースもありますが、それぞれ料金の支払いが当然必要で、他人の手を借りる以上はその人たちにお金を払う必要があります。

 

 本の売れる規模が少なければ、すべて自分でやった方が利益が多く、活動を続けやすいかもしれません。

 

(3)原稿料が出る

 商業活動では雑誌掲載用の原稿を納品すると枚数に応じてお金がもらえます。同人活動ではそれがないため、本が出て売れるまでは一円も入りません。無給で働くことはリスクがあるので、商業活動をしている方が漫画を描く環境としては安定する可能性が高いです。

 同人活動で時間をかけて描いた長大な原稿が全然売れなかったときには大変なことになりますが、商業活動であれば、少なくとも原稿料は入ってくるためリスクが低いです(アシスタントを頼むと原稿料が残らないこともありますが、同人ではアシスタントを頼むとまだお金が入らないのにお金が出て行くのでさらに難しい)。

 

 まだ利益の出る本になってないものにお金を払うリスクは出版社がとっており、雑誌は基本的に赤字で発行しているため、彼らは単行本を出してその赤字を埋め、黒字にすることを目指す必要があります。なので、単行本が紙と電子を足してそこそこ売れる限りは、あるいはそのうち売れるという期待が持てる限りはリスクをとって原稿料を支払い続けてくれます。これは連載を続け、長いお話を作る上ではとても漫画家にメリットがあることだと思います。

 

 一方で、最近はpixiv fanboxなど一定のファンから月額で支援のお金を貰えるサービスがあります。こちらの場合、その支援者たちに月額で支援をして貰いながらまず最初に原稿を見せるというメリットを与えて連載のような形式を出版社を介さずに維持することもできます。実際このような形で連載された漫画が一定量たまったところで、電子書籍として出版されるというケースも増えており、これは漫画の連載に近いことを出版社を介さずともできる環境があるということになります。

 支援者に支えられて生活を安定させながら漫画を描けることには夢がありますが、そのためには一定数のファンをまず集めるということが必要で、一定数のファンを集めるには、まず売れて知られておかないといけないという前提があると思うので、新人漫画家にはなかなかできないことでもあると思います。

 

(4)真剣に読んでコメントをくれる最初の読者がいる

 編集者は最初の読者で、かつ漫画を読んでどのように思ったかのリアクションを確実に返してくれる存在でもあります。それが精神的負荷になる人もいると思いますが、そのような読者がどのように感じたかを知ることができるのは、自分の漫画をよりよくする上では便利に使うことができるものでもあります。

 なおかつ、ネーム状態のまだ漫画になっていない時点でもコメントを返してくれるため、作画を始めて取り返しがつきにくくなる前に色んな方針転換などをしやすく、効率が良くなります。

 

 編集者には色んなタイプがいて、読んでどう思ったかをコメントしてくれる人、直し方を提案してくれる人、とにかく褒めてくれる人など様々なタイプがいて、それぞれいてくれてよかったなと思うことが多いです。

 自由に描けることの良さももちろんあり、僕も同人誌では好き勝手描いていますが、それはあくまで売れなくてもいい本として同人誌を作っているからなので、読者の反応がまだ見えない暗闇の中で本を売らないといけないときに、編集者という最初の読者がリアクションを返してくれるのはその指針になります。

 

 リスクとしては、変な編集者に当たってしまった場合、リアクションが売れる上での参考にならず、自分の調子が狂ってしまうかもしれません。そこには運の要素もあると思います。

 

(5)多くの人が関わっているので真面目にやりやすい

 自分にしか関係ない同人誌だと、どれだけ適当にしていても自分が納得していればいいですが、商業出版の中でやっていると、これだけ色んな人が動いてくれているのだからちゃんとしなくては…という意識が働きます。そのため、コンスタントに連載をすることができていますし、スケジュール管理も同人誌とは比べ物にならないぐらいちゃんとやっています。

 ただし、これは人によるとも思っていて、僕は外面を良く取り繕おうとしがちなので、他の人の目があった方がちゃんとやれるのですが、そういう効果がない人にとっては何の関係もないかもしれません。

 

 さて、このように商業活動と同人活動には様々な違いがあり、商業活動の方がなにかと便利である一方で、一冊の本あたりの利益は少なかったりはします。一定規模以上の出版になってくると商業活動でなければ届かない領域があるため、商業活動をした方がいいですが、ある程度の規模で活動を続けられればいいのであれば同人活動の方がバランスをとりやすいでしょう。

 

 また、紙の出版にこだわっているかも大きなポイントです。紙で出すことを諦めるだけで、出版社の仕事をすることのメリットの多くはなくなってしまい、気の知れた人たちとの同人活動の方がずっとコスパがよくなることもあります。

 短いページかつ読者の誘因力の強いエロ漫画の領域では、おそらく電子の同人活動の方が商業出版よりもずっと実入りがよかったりするのではないでしょうか?それも競争が激しくなってくるとどうなるか分かりませんが。

 

 とにかく自分がやりたいことと合う形で選択をすればいいと思っていて、僕は今は商業活動だからやりやすい続き物の話を描きたい上に、できればこの先、大きな規模で本を売れるようになりたいと思っているので、商業活動をやっていますが、どこかのタイミングでバランスが変われば、同人活動の方がいいと感じるようになるかもしれません。

 

 そのため、自分にとっての正解を選ぶためには、今の自分がどのような形でどのような漫画を描きたいかを把握するのが大切なのではないかと思います。

次号のビッグコミックスペリオールに漫画が載ります関連

 小学館の編集さんからは結構前(商業の仕事を本格的に始める前)から声をかけてもらっていて、描けるものなら描きたいがという気持ちがあったものの、他の連載があるので特に何もできないままに時間が過ぎていて、昨年、ゴクシンカの連載が終わったあとに、何かやりたいですね、短いページなら何かできないですか?って提案してもらったので、やりますと言ってやりました。

 なので次号に「サポーター」という10ページの短い漫画が掲載されます。

 

 短いページの漫画は同人誌でやっているように印象的な場面がひとつあればいいだろうと思って、ひとつやりたかったところのために話を作ったのですが、僕が描きたかったものが読んだ人にとって面白いものとして伝わるのかは不安な感じです。でも、今まであんまり描いたことのなかった絵をいっぱい描けたので、お金を貰いながらチャレンジが出来て良かったなとまず思いました。

 

 スペリオールは、毎号楽しみにしているマジで好きな雑誌なので、載せて貰えることになってよかったなと思いました。

 

 また何か描けるものなら描きたいですが、会社の仕事で日々忙殺されており、自由時間は連載関係のところに全突っ込みをしている状況なので、なかなか時間が作れないし、会社を辞めるしかいっぱい漫画を描く方法がないという状況です。今使っているのが界王拳十倍なので、今の状態ではこれ以上は無理って感じなんですよね。

 ネームをやる速度が速くなれば、もう少し詰め込める可能性もあるので、そこは改善の余地のあるところして、今色んなやり方を試してみていはいます。

 

 ともあれ、これによって講談社(受賞)、集英社(読切掲載)、小学館(読切掲載)の大手漫画出版社に漫画を載せてもらったので、僕の八方美人感がすごく感じ取れますね。

 また、今連載仕事をさせて貰っている少年画報社には本当に良くしてもらっていますし、商業誌でやっていくきっかけを作ってくれたKADOKAWAともまた次の仕事ができればいいなと思っています。

 

 漫画をいっぱい描きたいな。

価値観に所属するという感覚関連

 近年意識しているのは、「価値観に所属する」という感覚です。その感覚が個人の損得よりも上位にあるので、傍から見ると、個人の損得レベルで不合理のような選択をしていると思われることがあり、でも、僕の中では合理的に自分が一番得をするように振る舞っているので、これはその辺の話です。

 

 価値観に所属するということがどういうことかというと、例えば「人に親切にするということは良いことだ」という価値観があるとします。その価値観に至るのは、他人に親切にされて嬉しかった経験に根ざしていたり、人が互いに親切にし合える世の中っていいよねという思いだったり、色々な理由があると思いますが、自分が人に親切にすることによって、その価値観に所属することができるようになります。

 人に親切にするっていいよねという価値観に所属することで、自分が過去他人から受けた親切も肯定することができますし、その価値観の中で自分が生きていることで嬉しくなります。そのため、自分には自分のこれまでのよかったことや今の自分の状態を肯定的に捉えられるという、とても大きなメリットがあります。

 

 見知らぬ人に特に見返りもなく親切にするということは、個人レベルでは損かもしれません。その人に親切にするために支払った労力が返って来ないことも多いからです。なので、僕が感じているような価値観に所属するということの良さが理解できない場合、自分の持っている何かを他人にただばらまいているという愚かな人に思えるかもしれません。

 僕がそういうことをしていると、「そんなに頑張らなくていいんだよ」とか、「もっと自分を大切にして」とか、「親切にされたのに返して来ないなんて酷い奴ら」だとか、そういう言葉が僕を心配して出てくることがあり、心配してくれているのは良いことだなと思う一方で、僕自身は十分得たいものを得られているので、得をしており、得をするために行動をしているだけなので、何も問題はないという状態です。

 

 これは価値観に所属し続けるために、何かをしないという影響もあります。例えば、困っている人を見捨てるということは、自分が大切にしたい価値観に砂をかけているようなもので、そんなことを続けていたら、もう人に親切にすることっていいよねと思いにくくなってくると思います。自分の中で辻褄があっていることを優先させるなら、そこで助ける方がいいという判断が自分の中で出てきます。

 

 こういう自分の中の価値観の一貫性については、特にネットなんかを見ていると思うことが多くて、例えば「イジメはいけない」と憤ったとして、その時に思うのは自分はちゃんと「イジメはいけない」という価値観に所属で来ているかどうかということが気になってきます。

 つまり、「自分がしている行動の中にイジメと判断できるものがないだろうか?」ということが気になってしまいます。自分がイジメをしているのに、イジメに憤っているということは辻褄があいません。そうなってくると、イジメは良くないと思ったという自分の感情を、自分で貶めていることになってくるので、とても居心地が悪くなってきます。

 

 なので、イジメが良くないと思い続けるためにも、自分がやっていることはイジメではないのか?ということを考え続ける必要があることになりました。

 

 自分が大切にしたいものを大切にできているということは、とても良いと感じられることで、その状態に自分がなっていると安心します。そして、自分が大切だと思っていることを自分で馬鹿にするような態度をとってしまうと、自分の中の辻褄が合わず、例えば、自分を傷つけたような価値観を自分で肯定しているようなことになり、自分という存在には価値がないように思えてしまいます。

 

 殴られて言うことを聞かされた悔しさを、誰かを殴ることで解消しようとするなら、自分が最初に殴られたという手段は正しかったということになってしまいます。そんなものは正しくなかったと言い続けるためには、殴るという方法を使ってはいけないでしょう。

 

 世の中にいる人が大体そうであるように、僕も色んな嫌な目に今まであってきましたし、色んな人に親切にされて生きて来ることができました。自分に親切にしてくれた人を肯定するためにも、自分も同様に親切であった方がいいなと思いますし、自分があった嫌な目を自分で肯定しないためにも、嫌なことを自分ではしないようにしていきたいと感じています。

 

 自分じゃない人が馬鹿にされているときに、なんで我がことのように腹を立てているのか?と聞かれることがあって、それはその人に対しては別に興味があるわけではなくとも、そこに存在している価値観に、自分が苦しめられきたのであれば、それに対する反発はしておいた方がいいと思うからです。優しくしようと思うのもその逆で同様です。

 

 僕はそれが良いと思った価値観に、自分の行動の中で良いと取り扱っていくことで所属していきたいし、自分が嫌だなと思った価値観には所属しないで済むために、そのようなことをしないでいようと思います。

 

 ただ、最近このようなことをしようと思えているのは、今の自分が肉体的精神的金銭的にそこそこ満ち足りて暮らしているため、多少の損になることを支払ったところで大したことではないと思えているからだと思います。

 余裕がなければ、その場その時だけの損得に拘らなければ生きて行くことができませんし、自分がこのようなことを思えているのは、たまたま自分が恵まれているからだなという理解もあります。なので、恵まれた状態を維持することで、この状態を保ちたいなということを思っています。

SDガンダム外伝ラクロアンヒーローズを遊んでいる関連

 analogue pocketというゲームボーイ互換機をしばらく前に買ったので、SDガンダム外伝ラクロアンヒーローズを遊んでいます。子供の頃に何度もクリアしたゲームを今また遊んでいる感じです。

 

 ラクロアンヒーローズは騎士ガンダムRPGです。33年前に作られたゲームボーイRPGが今も面白いのか?と聞かれると、なんかこれが面白いんですよね。この33年の間にゲームの技術はとてつもなく進歩していて、ゲームを面白くする技術も沢山生み出されて共有されているのに、こんなに昔のゲームが今なお面白いとはどういうことだ??という気持ちがあります。

 

 この面白さは、僕が子供の頃にRPGに求めていたものが何であるのか?ということを思い出させてくれました。

 

 ラクロアンヒーローズの良さは、ほどよい緊張感と、リソース管理、そしてレベルアップの気持ちよさのサイクルにあると思います。別に取り立てた特殊なシステムがあるとかではないんですよね。ただ気持ちよく遊んでいるだけです。

 ここで言うほどよい緊張感というのは、死んでしまうとセーブしているところからやり直しになるため、死なないために頑張らないといけないということと、にもかかわらずボスでもない通常の敵が結構強いというところにあります。そのため、ちょっとでも危険を感じると台無しにならないように一回ダンジョンの外に戻ったりをする判断があります。
 そこで重要なのが、レベルアップするとHPMPが全快するという仕様で、なおかつレベルは比較的上がりやすいので、一回戻るか、レベルを上げて回復して先に進むかという選択肢が生まれ、この場所で自分がどうすべきかを細かく考えるのが楽しいです。あとは休息という一定期間ごとにHPMPを回復できるコマンドがあって、遠出をするときにも重宝します。

 

 また、戦闘も今のゲームと比べると不親切で、指定した敵が攻撃前に死んでしまうと、自動的に別の敵を攻撃してくれるという仕様がなく、一回の攻撃が無駄になってしまいます。なので、敵の残りHPを考えて攻撃を振り分けないといけません。なので攻撃をどのように振り分けるかが大事なのですが、そこで出てくるのが、グループ攻撃や全体攻撃が出来る呪文の存在で、どのような組み合わせをすれば敵を効率よく倒せるのか、残りMPとレベルアップのマネジメントをして、効率よくゲームを進められるのか?ということを考えて進めるのが楽しいです。

 

 また、レベルアップによる呪文の増え方などがとてもよくて、全体攻撃ができる呪文を覚えると、これまで苦戦していたような敵を倒す組み合わせがとても簡単になり、全体攻撃を繰り返してくる敵が5体出てきたりするとこれまでめちゃくちゃ怖かったのが、その前に倒しやすくなるので、レベルアップの実感が強く、めちゃくちゃ気持ちよくなってしまいます。

 

 昨今の不快感を減らすように至れり尽くせりのゲームにはあるような仕様があまりなく、道具の整理も面倒くさいし、すぐ死んでしまうし、冒険のヒントの出し方も分かりにくかったりする部分はあるのですが、限られたリソースをやりくりして目的地まで到達し、その過程で、強くなって、これまで苦戦していたものをあっさり乗り越えられるようになったりするという気持ちのよいサイクルがとてもあって、今やっても面白いなと思っています。なおかつ小学生の頃の僕にもクリアできていたので、これは広く人を楽しませられるゲームだなと思いました。

 

 あ、あと、この時期のRPGには珍しくBボタンを押すとダッシュができるんですよね。その部分も移動が遅くてイライラすることが少なくていいです。その代わり敵に遭遇する頻度が高くてイライラすることもありますが。

 大きな話で言うとなんか遊んでてほどよい頭の使い方と、達成感があって気持ちいいループがあるので、気分転換にちょっとだけやったりを繰り返しています。

 

 あ、そうそう、analogue pocketのいいところにハードウェア敵にスリープ機能があるので、セーブできなくてもすぐに中断できるのとの組み合わせがいいんですよね。互換機ですが、ゲームボーイで遊ぶよりも便利だし、画面も綺麗だしバックライトもついているので、めちゃくちゃオススメのハードウェアです。

 ゲームやりたいけど、何時間もやってる余裕が今ないので、今はこれが遊べて気が紛れます。でもそろそろクリアしそうなので、次は何を遊ぼうかな。

アニメ映画「窓ぎわのトットちゃん」を観た関連

 観た人たちからの評判がよく、上映中に観に行かなければと思っていた「窓ぎわのトットちゃん」のアニメ映画をやっと観に行けました。すごく良かったです。観て良かった。

 

 原作は黒柳徹子さんの自伝本で、僕も子供の頃に一度手に取ったようなおぼえはあるのですが、その内容は全然覚えていませんでした。

 

 この物語は、あまりに自由奔放に振る舞い過ぎるために通っていた小学校を出て行ってほしいと言われてしまったトットちゃんの、転校した先のトモエ学園での日々を、戦争が始まり青森に疎開するまで描いたものです。

 この映画で僕が感じたものは大きく2つあり、1つは「変化」、もう1つは「二面性」です。

 

 この物語はトットちゃんの変化を描いています。最初、学校の授業を無視して外の道を行くチンドン屋を招き入れていたトットちゃんは、最後の疎開先へと向かう列車の中で、チンドン屋(の幻だと思いますが)を見かけても、もうそちらへは行きません。そして、誰もが疲れ切った列車の中でなく赤ちゃんに大して、かつて自分がかけてもらったように「あなたはいい子」であると声をかけます。

 その変化の背後にあるのは、学校という環境による変化と、戦争という環境による変化、そしてその変わりゆく環境の中で、トットちゃんが出会った人々による変化です。そこで何があったのかをアニメーションという表現を最大限活用して、描いているのが本作の素晴らしいところだと思います。


 トットちゃんは自分の中にあるものが自分にとって大きすぎて、周りに上手く合わせられない子供です。大人の作る空気を読んで合わせるのではなく、自分がよいと思ったものをよいと思い、それを行動に移すような子供です。だからこそエネルギーに満ち溢れていて、しかしながら、そのエネルギーに付き合い切れる大人は少ないです。トットちゃんの持つとてつもないエネルギーはその動きと言葉の多さでアニメーションとして表現されていて、そして、ときに現実と乖離したのような自分の世界を持っていることは、特別なアニメーションによって表現されています。

 

 自分の中のことだけでいっぱいになるのは子供の特権ですが、多くの場合、空気を読んで周りに合わせていきます。それは小さなころからあることで、その中で自分のが我を通し続けられるトットちゃんはやはり特異な人なのだと思います。それはそれを受け入れてくれるトモエ学園という学校があったことによって肯定的に捉えられます。

 

 この物語に感じた二面性は、同語反復ですが一面的な正しさを描かないという部分だと思います。トットちゃんはすごい女の子で、トットちゃんがいることによって起こる良いこともありますが、その危険性も同時に描かれていると感じました。象徴的なのは、小児麻痺で片手片足が上手く動かせない泰明ちゃんを、自分が登っている木に招待するところでしょう。そこで、ハシゴや脚立を使って、泰明ちゃんを押し上げ引っ張り上げてなんとか木の上に乗せるところですが、この場面は危険なことをしていると見ている人に思わせるような描写をしていると思いました。たまたま上手くいったからよかったものの、下手をすると大事故になっていたかもしれないという場面です。

 まともな安全意識のある現代の大人なら、やめておきなさいと言ってしまうでしょうし、目にすれば止めに入るような光景です。しかしながら、その出来事は泰明ちゃんにとっての特別で大切な出来事になります。

 

 自分には登ることなんてできないと最初から諦めていた木に、登ることに成功するからです。危険なことだ、やめた方が良い、それは正しい意見です。そして僕は、この光景を実際に見たらすぐに止めに入ると思います。でも、それが人にとってとても大切なことになったりする、それがなかったら生まれなかったかもしれないものがあるというという二面性があることに思うことがありました。

 

 アニメーションは人間にはできないようなアクションを、安全に面白く描くことができます。カリオストロの城で、ルパンが屋根の上を助走をつけてジャンプするとき、そこに危険性を感じたでしょうか?アニメーションは、本当にやったら危険でたまらないようなことも面白く描き、安心して見ることができます。でも、トットちゃんで描かれたのはその逆で、観ている人がハラハラするような光景で、そして観ている人でしかない自分たちにはそこに手助けをすることはできません。

 

 トットちゃんは素晴らしい子供であると同時に、やはり危険な子供でもあります。冒頭の小学校を辞めさせられるときにもそれは明確に描かれていたと感じていて、なぜならばトットちゃんの振る舞いに先生が本当に困っていたからです。「自由な子供に対する理解のない悪い大人」ではなく、「奔放な子供の取り扱いに限界になって音を上げてしまう大人」です。

 

 この映画は良いものも悪いものも二面両方描いていて、そこが単純に良いことと悪いことがあり、その中から良いことだけ集めればいい、みたいな感じではないのがとても良かったなと思いました。何かの側面では良いことが、何かの側面では悪いことであり、どちらかだけをとることができないのが人生であり社会であるように思うからです。

 トットちゃんのお父さんは戦争に対する非協力の立場をとりますが、それでも結局戦争には行きます。トットちゃんを受け入れてくれたトモエ学園は、近所の子供達からおかしな学校として揶揄されますが、トットちゃんたちは良い学校であると主張し、そこで非暴力で戦います。近所の子供たちが悪いのはそうですが、そこで目に入るのはそれぞれの衣服の差です。トモエ学園の生徒たちは裕福な家庭の子が多いように見え、近所の子は貧乏な家の子のように思えました。その背後にそれぞれの生活水準の格差もまた想像してしまいます。

 

 戦争は大きな変化で、もちろん良くないことをたくさんもたらしましたが、直接的な戦争は良くないメッセージがあるわけではなく、その変化の中で人々の生活がまた変わっていくことを、ある程度引いた目線で描いているように思えました。戦争に協力した人が愚かで、反対した人が正しかった、そこで人が正しくありさえすればよかった、というようなものではなく、誰しもが戦争に巻き込まれ、変化をせざるを得なかったということが描かれていたように思います。

 その中で、トモエ学園の様子もどんどん変わっていきます。戦争に合わせて服装やオブジェや食べ物や何かしらが変わっていき、ついには学園そのものが空襲で燃えてしまいます。特異だったのは校長の小林先生で、彼の目はその中で新しい学校を作ることを見ていました。変わりゆく世の中の中で、変わらず理想を追い求めることは、ある種の狂気であることが感じられ、そこにトモエ学園という場所が良くも悪くも成立したのだと思いました。

 

 この物語のもう一人の主人公は泰明ちゃんだと思いました。彼は小児麻痺で不自由な身体を持ち、そして、物語の中で死んでしまいます。彼は実在の人物でもあるので、その事実は覆りません。

 物語に登場した泰明ちゃんは走ったりすることができず、それゆえに色んなことを諦めています。みんなに迷惑がかかるからと、散歩にもついていかずに本を読んでいます。彼は可哀想な子でしょうか?この物語の中ではそうは描かれていなかったように思えて、彼は不得意なことがあるだけの普通の子です。トットちゃんが落ち着いて授業を受けれないように、泰明ちゃんは飛んだり跳ねたり走ったりが苦手なだけの普通の子供です。

 

 トットちゃんとの木登りの成功体験を経て、泰明ちゃんはよりそのようになっていきます。腕相撲でトットちゃんに手加減をされたことに怒り、それは自分が特別扱いされる可哀想な子ではなく対等な友達であるということの表明です。

 

 泰明ちゃんには苦手なことはあります。戦争の社会への影響が強くなり、雨の中で歌うトットちゃんが大人に怒られ、傘を落とし、泰明ちゃんは片手と片足が不自由だから、その傘を拾って差してあげることも簡単にはできません。自分が好きな女の子に、優しくしてあげることすらできないのが泰明ちゃんの身体です。

 でも、泰明ちゃんは学校で習ったように片足でも足を踏み鳴らし、口に出せない歌を、全身で歌い続けてみせます。歌えないことで泣いていたトットちゃんと一緒に身体で歌って見せます。それは泰明ちゃんの変化で、物語の最初であれば自分にはできないと諦めてしまっていたかもしれない泰明ちゃんが、自分にできることで、自分がしたいことを掴み取っていく様子がとてもよくて、彼は程なく亡くなり、それは悲しいことですが、その事実に相殺されることのない嬉しいこともちゃんとあって、その場面があったことがとても良かったなと思いました。

 

 本作はとにかくうるさい映画でした。うるさいというのは登場人物の動きに、演出に、色んな意味が見てとれる気がして、情報の洪水のようなものを浴びせ続けられたように感じたということです。

 それがトットちゃんという存在とも重なる気がして、映画そのものがトットちゃんの魅力が最初から最後まで詰まったような内容だったなと思いました。

 

 上映回数は減ってきていそうですが、まだまだ上映しているのでめっちゃオススメです。