漫画皇国

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アニメ映画「窓ぎわのトットちゃん」を観た関連

 観た人たちからの評判がよく、上映中に観に行かなければと思っていた「窓ぎわのトットちゃん」のアニメ映画をやっと観に行けました。すごく良かったです。観て良かった。

 

 原作は黒柳徹子さんの自伝本で、僕も子供の頃に一度手に取ったようなおぼえはあるのですが、その内容は全然覚えていませんでした。

 

 この物語は、あまりに自由奔放に振る舞い過ぎるために通っていた小学校を出て行ってほしいと言われてしまったトットちゃんの、転校した先のトモエ学園での日々を、戦争が始まり青森に疎開するまで描いたものです。

 この映画で僕が感じたものは大きく2つあり、1つは「変化」、もう1つは「二面性」です。

 

 この物語はトットちゃんの変化を描いています。最初、学校の授業を無視して外の道を行くチンドン屋を招き入れていたトットちゃんは、最後の疎開先へと向かう列車の中で、チンドン屋(の幻だと思いますが)を見かけても、もうそちらへは行きません。そして、誰もが疲れ切った列車の中でなく赤ちゃんに大して、かつて自分がかけてもらったように「あなたはいい子」であると声をかけます。

 その変化の背後にあるのは、学校という環境による変化と、戦争という環境による変化、そしてその変わりゆく環境の中で、トットちゃんが出会った人々による変化です。そこで何があったのかをアニメーションという表現を最大限活用して、描いているのが本作の素晴らしいところだと思います。


 トットちゃんは自分の中にあるものが自分にとって大きすぎて、周りに上手く合わせられない子供です。大人の作る空気を読んで合わせるのではなく、自分がよいと思ったものをよいと思い、それを行動に移すような子供です。だからこそエネルギーに満ち溢れていて、しかしながら、そのエネルギーに付き合い切れる大人は少ないです。トットちゃんの持つとてつもないエネルギーはその動きと言葉の多さでアニメーションとして表現されていて、そして、ときに現実と乖離したのような自分の世界を持っていることは、特別なアニメーションによって表現されています。

 

 自分の中のことだけでいっぱいになるのは子供の特権ですが、多くの場合、空気を読んで周りに合わせていきます。それは小さなころからあることで、その中で自分のが我を通し続けられるトットちゃんはやはり特異な人なのだと思います。それはそれを受け入れてくれるトモエ学園という学校があったことによって肯定的に捉えられます。

 

 この物語に感じた二面性は、同語反復ですが一面的な正しさを描かないという部分だと思います。トットちゃんはすごい女の子で、トットちゃんがいることによって起こる良いこともありますが、その危険性も同時に描かれていると感じました。象徴的なのは、小児麻痺で片手片足が上手く動かせない泰明ちゃんを、自分が登っている木に招待するところでしょう。そこで、ハシゴや脚立を使って、泰明ちゃんを押し上げ引っ張り上げてなんとか木の上に乗せるところですが、この場面は危険なことをしていると見ている人に思わせるような描写をしていると思いました。たまたま上手くいったからよかったものの、下手をすると大事故になっていたかもしれないという場面です。

 まともな安全意識のある現代の大人なら、やめておきなさいと言ってしまうでしょうし、目にすれば止めに入るような光景です。しかしながら、その出来事は泰明ちゃんにとっての特別で大切な出来事になります。

 

 自分には登ることなんてできないと最初から諦めていた木に、登ることに成功するからです。危険なことだ、やめた方が良い、それは正しい意見です。そして僕は、この光景を実際に見たらすぐに止めに入ると思います。でも、それが人にとってとても大切なことになったりする、それがなかったら生まれなかったかもしれないものがあるというという二面性があることに思うことがありました。

 

 アニメーションは人間にはできないようなアクションを、安全に面白く描くことができます。カリオストロの城で、ルパンが屋根の上を助走をつけてジャンプするとき、そこに危険性を感じたでしょうか?アニメーションは、本当にやったら危険でたまらないようなことも面白く描き、安心して見ることができます。でも、トットちゃんで描かれたのはその逆で、観ている人がハラハラするような光景で、そして観ている人でしかない自分たちにはそこに手助けをすることはできません。

 

 トットちゃんは素晴らしい子供であると同時に、やはり危険な子供でもあります。冒頭の小学校を辞めさせられるときにもそれは明確に描かれていたと感じていて、なぜならばトットちゃんの振る舞いに先生が本当に困っていたからです。「自由な子供に対する理解のない悪い大人」ではなく、「奔放な子供の取り扱いに限界になって音を上げてしまう大人」です。

 

 この映画は良いものも悪いものも二面両方描いていて、そこが単純に良いことと悪いことがあり、その中から良いことだけ集めればいい、みたいな感じではないのがとても良かったなと思いました。何かの側面では良いことが、何かの側面では悪いことであり、どちらかだけをとることができないのが人生であり社会であるように思うからです。

 トットちゃんのお父さんは戦争に対する非協力の立場をとりますが、それでも結局戦争には行きます。トットちゃんを受け入れてくれたトモエ学園は、近所の子供達からおかしな学校として揶揄されますが、トットちゃんたちは良い学校であると主張し、そこで非暴力で戦います。近所の子供たちが悪いのはそうですが、そこで目に入るのはそれぞれの衣服の差です。トモエ学園の生徒たちは裕福な家庭の子が多いように見え、近所の子は貧乏な家の子のように思えました。その背後にそれぞれの生活水準の格差もまた想像してしまいます。

 

 戦争は大きな変化で、もちろん良くないことをたくさんもたらしましたが、直接的な戦争は良くないメッセージがあるわけではなく、その変化の中で人々の生活がまた変わっていくことを、ある程度引いた目線で描いているように思えました。戦争に協力した人が愚かで、反対した人が正しかった、そこで人が正しくありさえすればよかった、というようなものではなく、誰しもが戦争に巻き込まれ、変化をせざるを得なかったということが描かれていたように思います。

 その中で、トモエ学園の様子もどんどん変わっていきます。戦争に合わせて服装やオブジェや食べ物や何かしらが変わっていき、ついには学園そのものが空襲で燃えてしまいます。特異だったのは校長の小林先生で、彼の目はその中で新しい学校を作ることを見ていました。変わりゆく世の中の中で、変わらず理想を追い求めることは、ある種の狂気であることが感じられ、そこにトモエ学園という場所が良くも悪くも成立したのだと思いました。

 

 この物語のもう一人の主人公は泰明ちゃんだと思いました。彼は小児麻痺で不自由な身体を持ち、そして、物語の中で死んでしまいます。彼は実在の人物でもあるので、その事実は覆りません。

 物語に登場した泰明ちゃんは走ったりすることができず、それゆえに色んなことを諦めています。みんなに迷惑がかかるからと、散歩にもついていかずに本を読んでいます。彼は可哀想な子でしょうか?この物語の中ではそうは描かれていなかったように思えて、彼は不得意なことがあるだけの普通の子です。トットちゃんが落ち着いて授業を受けれないように、泰明ちゃんは飛んだり跳ねたり走ったりが苦手なだけの普通の子供です。

 

 トットちゃんとの木登りの成功体験を経て、泰明ちゃんはよりそのようになっていきます。腕相撲でトットちゃんに手加減をされたことに怒り、それは自分が特別扱いされる可哀想な子ではなく対等な友達であるということの表明です。

 

 泰明ちゃんには苦手なことはあります。戦争の社会への影響が強くなり、雨の中で歌うトットちゃんが大人に怒られ、傘を落とし、泰明ちゃんは片手と片足が不自由だから、その傘を拾って差してあげることも簡単にはできません。自分が好きな女の子に、優しくしてあげることすらできないのが泰明ちゃんの身体です。

 でも、泰明ちゃんは学校で習ったように片足でも足を踏み鳴らし、口に出せない歌を、全身で歌い続けてみせます。歌えないことで泣いていたトットちゃんと一緒に身体で歌って見せます。それは泰明ちゃんの変化で、物語の最初であれば自分にはできないと諦めてしまっていたかもしれない泰明ちゃんが、自分にできることで、自分がしたいことを掴み取っていく様子がとてもよくて、彼は程なく亡くなり、それは悲しいことですが、その事実に相殺されることのない嬉しいこともちゃんとあって、その場面があったことがとても良かったなと思いました。

 

 本作はとにかくうるさい映画でした。うるさいというのは登場人物の動きに、演出に、色んな意味が見てとれる気がして、情報の洪水のようなものを浴びせ続けられたように感じたということです。

 それがトットちゃんという存在とも重なる気がして、映画そのものがトットちゃんの魅力が最初から最後まで詰まったような内容だったなと思いました。

 

 上映回数は減ってきていそうですが、まだまだ上映しているのでめっちゃオススメです。

2024年の抱負

 年末年始に珍しく人に会う予定が多くあり、色んな人に「健康を大切にしろ」「甘いパンばかり食うな」「いつもパンを見せてくれてありがとう」「仕事を辞めろ」「仕事は辞めるな」「長生きをしろ」「誰かと一緒に住め」「地元に帰ってこい」「この家をあげる」と色んなことを言われて、色々ご心配をおかけしているなと思ったりしました。

 

 しんどいこととか困っていることとかが結構あります。全て会社の仕事関係です。昨年もいろんなそれらが表出していました。そういうのはTwitterとかでは書かない方がいいという考えがあるのは分かります。身の回りのこまごまとしたことだけを書いてた以前と違い、今は商業仕事の宣伝とかもしているので、読んだ人に不安を与えるようなことをしても得がない感じもするからです。実際それでフォローを外されたりしているんじゃないかなと思います。マイナスですよ。

 

 でもしんどいときに、しんどいんだよなあと書ける場所としてTwitterを使い続けているため、書かないで抱えたままにしていると、余計に調子悪くなってしまったりしそうなんですよね。あと、ずっと元気で楽しいフリしていても、どこかでなんかあったあとで実はしんどくて…みたいな話をしても、それはそれでみんな嫌がるだろうなという気もします。なので、見ている皆にはスマンが僕の悲鳴は垂れ流されるし、見て貰うかミュートするかフォローを外して貰うことになります。

 

 会社の仕事は手元に本当に色んな仕事があって、これらを全部自分が統括者としてやり切らないといけないのかと思うと精神がピッキピキになってしまうのですが、幸い相談できる人もいるし、責任者として巻き込める人もいるので、色んな人の手も借りつつ、なんとか全部やり切りたいと思っています。

 今いるところは仕事量に対して組織の体制がちゃんとできないままに動いており、無理矢理リソースをやりくりして辻褄を合わせているので、まずはここを手厚くする必要があり、そのために本当に色々動いています。

 

 仕事辞めないの?という話は色んな人に本当に何度もされていて、別に辞めてもいいっちゃいいというか、ここ何年もめちゃめちゃ働いていて、成果が出ているので、給料もベースからグングン上がっているしそれを踏まえた賞与も出ていて、さらには漫画の仕事の収入もあるので、自分でびっくりする速度で貯蓄が増えており。今と同じ生活を続けるだけならここから十何年かは全く働かなくても生きられるぐらいになってきているので、今すぐ会社を辞めてもいいんじゃないかな、なんでこんな量を働いているのかな、という気持ちがすごく頭をもたげています。

 ずっと忙しくしているのでゆっくりしたいとは思っていて、だから辞めたいな、辞めようかなとTwitterにめちゃくちゃ書いていますが、でも結局まだ辞めてないし、頑張って働いているし、自分がいったい何なんだ??と思います。

 

 会社の仕事について思っていることを箇条書きにすると以下のような感じです。

  • 何かをやり残したなと思う状態で辞めると、今後それに囚われるから嫌
  • なので自分はやりきったぞと思うところまでやりたい
  • やり切れてないのは、誰かに応力が集中しないようなバランスのよい組織を作ること
  • それによって今手掛けている仕事がこの先も順調に回っていくようにしたい
  • でもそのために人を連れてきたり訓練してもらったりするのが本当に難しい
  • だからこそ、これをもしやり切れたら強い達成感があるだろう
  • その達成感を感じられるところまで頑張ろうかな

 これをやり切れたと思えたら会社を辞めていいことにしているので、今の仕事のスケジュールを見ると最短で3月末に辞めチャンスがありますが多分無理ですね。その次が7月末、その次が9月末ぐらいのあたりが辞めチャンスです。いつ辞めれるんだ??

 こういうこと言いながらずっと会社に居続けそうな感じもするし、自分がもう嫌だ。

 

 漫画の仕事は、とりあえずヤングキングが連載の仕事をくれているので、楽しくやっています。隔週16ページの3回やって1回休みというペースは余裕を作りやすくて、楽しくできているなと思っています。

 今はその余裕を消費して、あと1エピソード描けば単行本にできそうな「いじめ撲滅プログラム」の最後の話をそろそろやろうという話になっており(ひとでなしのエチカの1巻の最後に去年でるはずだった予告が載っていますが、すみません…)、その話を今ボチボチ描いています。他にも多分ちょっとした読切などが何らかに載る話もあり、それ以外にも色々声はかけてもらっているのもあるので、できそうな範囲で頑張りたいです。

 

 2024年は単行本3冊出ればベストで、それ以外に読切が何本か描けたりするといいですね。

 

 漫画はもっと売りたいと思っています。この前の編集さんと、めっちゃ売れる漫画の企画を立てましょうかという話をして、売れる漫画とは何か?と自問自答したところ、ろくな答えがでて来なくて頭を抱えましたが、何らかの答えを見つけていきたいですね。

 2024年も頑張るぞ!

2023年の振り返り

 2023年は大変でした。主に会社の仕事が。そしてそれはまだまだ続く。

 

 漫画の方は、ひとでなしのエチカとゴクシンカのそれぞれ2巻を出せて良かったです。ゴクシンカは去年の秋には完結が決まっていたので、規定の話数の中で、どこまで自分の描きたいことを描けるかを試し、満足いく形で描けたので良かったです。

 ただ、完結後の反応を見ていると、自分が思っていた本筋と考える話が、ぜんぜんそう思われていなかったケースもあるようで、その人たちに対しては上手く伝えられなかったなという反省の側面もありました。

 とにかく描きたいことは描けたのと、伝わるところには思った通りに伝わっていることも確認できたのでよしとします。

 

 より多くの人に満足して貰える漫画というのは、商業活動を続けていく上では、取り組まないと行けない課題だなと思いました。

 

 

 ひとでなしのエチカは、同人誌として描いていたエピソードを使い切ったので、新作を始めることができました。自分的に色々なチャレンジをしているので、面白く連載ができています。

 会社の仕事をしつつ、隔週誌で16ページずつ、3回掲載して1回休みというのは、今のところ無理なくできるペースなので、空いている時間に別の仕事も進めようとしています。皆さんにお知らせできるのは、もう少し先になると思いますが。

 

 エチカの2巻については、とにかくamazarashiの秋田ひろむさんから、帯の言葉を頂けたのが嬉しかったです。自分が好きな人に、自分の漫画を読んでもらい、リアクションを頂けるのはホントすごくて、頭がおかしくなりそうでした。

 

 去年は2冊単行本を出せたので、今年は3冊出せたらベストだなと思っていましたが、「NEEDY GIRL OVERDOSE」のアンソロに寄稿したのを数えれば3冊になりました。

 これもすごく面白かった仕事で、今までの自分の頭では考えなかった部分を使って描いたのと、ここで考えたことが、エチカの3巻に収録される予定の話の下地になっています。

 

 他にもたくさん色々ありました。コミティアにも出たし、寺沢大介先生がコミティアで本を出してくれて嬉しかったり、この前も忘年会に呼んでくれて嬉しかったり。

 他にも色んな好きな漫画家さんとお話できる機会があったり、自分の漫画も読んで貰えたりして、ほんと嬉しいことばかりでした。

 

 アイドルランドプリパラが始まったり、来年にはプリティーシリーズ新作アニメが開始するらしかったり、ゴールデンウイークには華倫変展というすごいものが開催されて、大阪まで行って楽しかったです。

 他には、コワすぎのお化け屋敷に行ったのもめちゃくちゃ楽しかったですね。

 

 漫画以外の活動だと、参加してるwebラジオ「人生思考囲い」がティアズマガジンで連載になったり、リアルイベントも人がいっぱい来てくれて、よかったです。

 

 よかったことは本当にたくさんあり、人にも環境にも恵まれていて、つらいのは会社の仕事だけです。その会社の仕事も、つらさと引き替えに成果はでていて、ボーナスもかつてない金額を貰ったので、多少はましな気分です。ただ、ここからもう一年頑張れるのかどうかは不安ですが。

 

 来年は会社を辞めているかもしれない。かつてないほど辞めたいからです。でも、頑張っている自分も想像できます。

 どうなるんだ!?どうなると思います?

実写ドラマ版の幽遊白書を観た関連

 幽遊白書は、自分の心の中にぬりかべのようにズドンといる漫画なので、何の話をしても関連付けて話してしまいますし、今でも、まだ連載中であるかのように日常的に幽遊白書の話をしてしまいます。

 

 実写ドラマ化がアナウンスされたときには、そんなこと可能なのか??という困惑がありつつも、でも、絶対観たいし自分はそれを楽しむことができるか、ある意味楽しむことができるという確信がありました。先日ついにNetflixで配信が開始され、ワクワクしながら再生し、その日のうちに一気に全5話を観終わりました。

 

 え?全5話??っていう感じじゃないですか。そして物語は100%の戸愚呂弟と倒すところ、単行本で言えば12巻あたりまでが入っています。それで全5話??っていう感じじゃないですか。原作の量に対して短すぎる。でも、面白かったんですよね。

 

 主に良かった部分は漫画を実写にするという表現の部分です。特にバトル描写については、人間の肉体で漫画的バトルを表現するということについてかなり突き詰められていて、とてもかっこよく気持ちよかったです。

 僕は、HIGH&LOW THE MOVIE 2 END OF SKYを観たときに、この動きができるなら色んな漫画の実写バトルが可能じゃん!と思って期待が膨らんだのですが、幽遊白書ではその先の一端が見せて貰えた気がして、この描写ができるなら、僕が大好きな漫画エアマスターのバトルシーンも実写で再現可能では??と思って新しい期待を抱いてしまいました。

 

 おそらくワイヤーの利用による空中を飛び跳ねる動きが結構あるのですが、そこで引っ張られて不自然に浮いている感じがなく、合理的な動きの中で超人的な格闘シーンが展開されます。これを観ると幽遊白書という原作はこの表現にちょうどよく、肉弾戦と超常的な戦いの組み合わせで描けるバトルが、少なくとも今回映像化された部分ではバッチリ合っているように思いました。

 この実在感との接続としては、序盤の剛鬼との戦いが、化け物と喧嘩自慢のヤンキーが戦っている感があってめちゃくちゃ良かったですね。

 

 さて、原作ファンとして面白かった部分は、その端折り方です。おそらく原作の暗黒武術会の最後までやることは分かっていたので、一体どうやって間を省いていくのか?という部分がこういうやり方があるのかと思って面白く感じました。お話の主軸を主人公の浦飯幽助という男と、戸愚呂弟という男の対比とその決着の部分に持ってくると、武術会の開催は別に必要ないというのが、確かにそうだなと思って面白かったです。

 霊界から盗まれた道具を取り返す部分も、飛影の部分は垂金の雪菜のエピソードがあるためその中で描けばよく、飛影が道具によって邪眼を手に入れたという設定改変もありましたが、この尺の中で妹の雪菜を探している兄としての飛影の姿を描く上では納得感がありました。蔵馬の戻ろうと思えばいつでも妖狐に戻れるという設定改変も、戻れるのに人の姿を選んでいるということを感じられたりして面白かったですね。

 とにかく背骨を決めたら、何を描かなくていいのか?何を繰り返さなくてもいいのかの部分がカリカリに削り込まれていて、5話によく収めたねと思って面白かったです。

 

 もちろん無茶な端折り方をしているので気になる部分もあって、幽助が短期間に異様に強くなりすぎだろうとか、本来時間をかけて育むはずだった関係性がダイジェストで仲間になっていく感じもあり、漫画で言えば四聖獣編ぐらいの時間感覚なのに、いきなり血を伴った戦友という感じのところまで行っているなと思いました。

 

 キャラクターで言えば、戸愚呂兄がとても良かったです。自在に変形できるという映像的に生える部分が最大限活用されていて、バトルも映像的に面白かったです。あとは、梶芽衣子演じる幻海も、配役としては完璧だなと思いました。他には戸愚呂弟がその身を妖怪に堕とすきっかけとなった潰煉のシーンが描かれたのもよかったですね。

 あと垂金!垂金も俗物の成金感が、屋敷の雰囲気も含めてめちゃくちゃ良かったです。

 

 良くなかったところは、主要登場人物のビジュアルの非実在感でしたが、でも、バトルシーンでの視認性の良さを考えると、リアリティを求めずにこっちの方に振り切ったのも良いのかもしれないと思います。

 少なくとも考えた結果こうしたという感じはしました。それでも妖狐蔵馬は優しい目で見る必要がありましたが。

 

 なので、色々気になるところもあるにはあるけれど観て良かったというのが僕の感想です。

 

 改めて見て、幽遊白書って面白い漫画なんですよね。序盤からそれは非凡で、世間と上手くやっていけない幽助が、死んだら死んだで別のいいと思っているところを、死んだ自分に対する周囲の人々の姿を見て、それまでの自分が見えていなかったものに気づき、生き返るという選択をするというところがホント胸にきます。

 

 5話という短さで描かれて改めて思ったのですが、幽助は助けたい子供を「助けられた代わりに死んでしまった人間」で(実はそれは無意味な行動だったとも原作では語られますが)、戸愚呂弟は、弟子を目の前で妖怪に喰われて殺されるのを見させられた、「助けることができずに自分だけ生き残ってしまった人間」であるという対比構造を見つけることができます。

 

 その後、幽助は生き返って霊界探偵になりますが、戸愚呂弟は妖怪になることを選びます。自らを忌むべき存在に変化させることは自分への罰だったのではないかとも推察されますが、100%になった戸愚呂弟の姿は、潰煉の姿に似ているのが悲しいです。幽助と戸愚呂弟の戦いでは「守れずに自分だけ生き残った」という構図の繰り返しになります。

 幽助は目の前で桑原を殺され、それになすすべがありません。戸愚呂弟は何を思ってそれをしたのでしょうか?自分と同じ境遇になった幽助に、同じ選択をして欲しかった?いや、自分と同じ境遇なのに、それを選ばない人間を見ることで救われたかったのかもしれません。なにせ、戸愚呂弟は桑原を殺さなかったのですから。

 

 全てが手遅れになったあとで潰煉を殺してももはや手遅れです。なぜなら、守りたかった人々は戻ってきません。戸愚呂弟の心の中には虚無があったのかもしれません。復讐の鬼となったところで、自分が失ったものは取り戻せないものだったからです。

 もしそれを取り戻すために、誰かに自分ができなかった選択をして貰いたかったのだとしたら、そんな人間が現れるまで強くあり続けなければならなかったのだとしたら、妖怪になるということは目的のために最善の選択です。

 

 そして、ついに現れた人間が幽助だったのかもしれません。幽助は、何かを守るために強い力を発揮できる男です。戸愚呂弟は、自分がされたのと同じように幽助を暗黒武術会に誘い、そして決勝戦で戦います。しかし幽助の力はまだ自分に及びません。かつての自分が潰煉におよばなかったように。その力の源泉は何か?憤怒です。これもかつての自分と同じです。そして、仲間の死。

 幽助は、強くなるためには何かを捨てなければならないという戸愚呂弟の言葉に反論します。「捨てねえ」と「しがみついてでも守る」と。このとき、ついに幽助こそが、戸愚呂弟が望んだ強敵であり、自分ができなかった選択を出来る者となったのではないでしょうか?戸愚呂弟は全力で戦いそして負けることこそが、かつて自分に出来なかった選択肢が、この世の中にはあるということの証明になります。

 

 力が全てだという価値観を否定するためにこそ、全てを捨てて自らが力が全てだという存在に成り代わり、その上で全力で戦ってそれでも負けることこそが、力が全てだということの何よりの否定になるということです。戸愚呂弟の傷ついた心は、守れなかった自分への罰と、そうではない選択がこの世の中にはあるということを確認することに費やされたのではないかとも考えることができます。

 

 あれ???なんでこんな話に。実写版の話をしていたはずですが??

 

 これは実写版が骨組みを残してそぎ落とし組み替える内容であったおかげで、また幽遊白書のことを考える切っ掛けになって良かったなという話です。

 実写ドラマは是非とも仙水編もやってほしいですね。

自分の漫画が「このマンガがすごい2024」のオトコ編で46位だった関連

 この前、このマンガがすごい2024が出て、載ってるよって人に教えて貰ったので電子版を買って読んだら46位に「ゴクシンカ」がありました。投票してくれた方々、まことにありがとうございます。

 マジで嬉しいのでマジでありがとうございます。

 

 このマンガがすごいは、毎年年末に発売されるムック本で、その年に単行本が出た漫画の中から、選者のアンケート投票の結果として、ランキング形式で上位ほど手厚く紹介される漫画ガイドです。

 毎年沢山出ている漫画の中から、どれを読んだらいいかで迷う人に対して、「これが面白いですよ!」と紹介してくれる本であると思います。

 

 このマンガがすごいは、投票企画としてはフェアな立て付けだなと思っていて、なぜなら選者が誰で、各自が何の漫画に投票したかが本の中でほぼ開示されているからです(ただし漫画家のタマゴが投票する枠は個人名非開示ですが)。それぞれの人や書店などの選者が、自分たちが人に薦めたいと考えた本を厳選し、その順位につけられたポイントが全体で合算されることで最終的なランキングが算出されています。

 

 その詳細を見ていて面白いと思うのは、投票される作品のばらけ方です。今回のオトコ編では、100人近い投票権をもつ人たちがそれぞれ5作品程度を選出し、300作品以上の名前が挙がっていると書かれています。つまり1票しか入っていない作品の方が多いということになります。

 

 なので、ランキングに入ってくるということは、「複数人が名前を挙げた」ということとほぼほぼ意味が重なってくるのではないかと思います。そう考えて過去のランキングを見てみると、各人の1位にはあまり選ばれていなくても、多くの人の印象に残り、名前が挙がった作品のポイントが複数人分合算されて、結果的にランキング上位となってくることもあったように思います。

 

 そういったとき、ランキングを見る人の中に「この作品が上位?」というような見方が出てくるかもしれません。なぜなら、この漫画が一番だ!と強く推している人の姿があまり見えない場合もあるからです。でも、一番ではなくとも沢山の漫画を読んでいる選者が限られた数しか選べない1作として、多くの人にひっかかるものがあったということは、それ自体意味のあることだとも思います。つまり、そこに問題があるとすればそれは、1軸の単純なランキングの中に様々な複雑なものが内包されていることが分かりにくいということでしょう。

 

 もう少し具体的に例示するなら、1位(10点)に選んだ人が3人いた30点と、5位(6点)に選んだ人が5人いた30点は同じ30点です。ここでどちらの点数の入りかたをした漫画が、このマンガがすごいという本の主旨に沿っているかということは単純には言えないと思います、ごく一部の人が強烈に薦めているものと、それよりも多くの人がそれなりに薦めているもののどちらがが、薦められる側にとって有効なオススメになるかは場合によるからです。選者との感覚がバッチリ合っていれば前者かもしませんが、レンジが狭く合わないかもしれません。そうなれば後者の方がレンジが広くて合いやすい可能性もあります。

 

 ランキングの結果に対する様々なコメントが例年見られますが、この本におけるランキングは投票結果としてこういうことになったというもので、それ以上の意味はないと思います。こだわりのある選者がそれぞれ独自の視点で作品を推し、たまたまそれが重なったところがランク上位となっているというだけのことです。

 そこで見るべきはランク外にも沢山の推されている漫画があるということではないかと思っていて、次に何を買えばいいかの参考になるのはそのランク外の部分も大きいように思います。

 

 一方で、本自体は買わずに発表されたランキングがどうであったかという情報の方が広まりやすく、その話だけする人にとっては、そこは不可視で不可知な領域になってしまうだろうなと思います。

 

 このへんの「ランキングとして見えるもの以外は見えにくい問題」は、切り口ごとに部門を分けたランキングにすれば解消しますが、それも結局、本を熟読するような人にとっては意味のあるランキングでも、結局この本自体は読まずに、ランキングだけ知ってコメントするタイプの人には届かないかもしれません。具体的な興味がないほどに数字しか気にされないので、「結局総合的に何が何位なのよ?」という部分しか広くは話題にされないのではないかと思うからです。

 その意味で、オトコ編とオンナ編が分かれていることについては意味があると思っていて、その分類名に関しては色々意見もありますが、結局オトコ編のランキングに出てくる漫画と、オンナ編に出てくる漫画の性質が異なるというところが重要で、一本化されたランキングだけでは見えないところが見えるようになっているという良さがあると思います。その意味で大きな切り口で二本あるのはいいところだなと思っています。

 

 46位になったことで、本が売れるということはそんなにないと思いますが(なぜならそれが大きく告知されることはないため人の目にそんなに触れないことだからです)、でも限りある投票権を僕の漫画に使いたいと思ってくれた人が複数人いたということが本当に嬉しいことでした。

 ランクインした「ゴクシンカ」も、ランクインはしませんでしたが連載中の「ひとでなしのエチカ」も、面白い漫画を描いているぞ!と思って描いているので、未読の人は読んでみてください。

 

 

 

 漫画活動は2023年も頑張ったので、来年も頑張りたいです。

何かを面白くないと感じる能力の存在関連

 何かの作品を面白くないと感じたとします。そのとき、自分の「面白さを感じる能力」がその作品から面白さを感じなかったという消極的な側面以外に、その作品に対して「面白くなさを感じる能力」を積極的に発揮したからそうなった、という側面もあるのではないかと思っています。

 

 面白くないと感じる能力って何?と思う人もいるかもしれません。例を挙げるなら、前世紀には同性愛者を滑稽に描くことで笑いものにする作品は当たり前にありました。そして僕も当時はそれで笑っていましたが、今では笑えないなと感じています。

 当事者の顔を思い浮かべて、これは笑っていいものではないなと今では思うからです。これが面白くないと感じる能力の一例です。これは面白くないものだと感じる能力が今はあるため笑うことはもうできません。

 

 何かしらの差別的なコンテンツを笑ってしまうということは、それを「面白いと感じる能力」が「ある」と同時に、それを「面白くないと感じる能力」が「ない」ということだと思います。能力が未発達であれば、色んなものが笑えてしまいます。

 

 ただしこれは、面白くないと思う能力がある方が正しいという話ではありません。そんな能力が発達しなければよかったのにねというシチュエーションだって他に沢山あると思います。例えば、作者の日頃の発言が気に食わないから、その作者の作品を面白くないと感じる能力が発達したり、自分が日頃から気に食わないと思っている人が褒めているから、その感性を肯定したくなくて、面白くないと感じることができるようになってしまうこともあります。

 そんな能力がなければ十分楽しめたものを、能力を獲得したことで楽しめなくなってしまったりします。

 

 つまり、僕がここで言いたいのは、何かを面白いと感じたり面白くないと感じたりするのは、面白さを感じる能力だけの1つの軸ではなく、それを面白くないと感じる能力というもう1つの軸との兼ね合いになるという認識を持っているということです。

 

 ある作品を面白さ0点と判定した人がいたとします。それはその作品から面白さを一切感じられなかったという可能性もありますが、面白さは50点感じていたけれど、面白くなさも50点感じたために、相殺されて0点になったりすることもあるのだと思います。

 特に商業的に展開している作品などは、一切面白い要素がないわけではなく、そこに何かしら許せない要素があるために、面白くないと感じることでマイナスされて、結果的に0点になっていることの方が多いのではないでしょうか?商業的に出てきている作品は、何かしら人の目を通過してから出てきているので、本当に虚無のように面白い要素が全くないということはあまり考えられません。

 

 そういうときに思うのは、自分が何かの作品を面白くないと判断したとき、果たして何の要素を面白くないと積極的に感じてマイナスした結果、面白くないものと判断したのかという点です。そこに自分の感性を詳しく知る手がかりもあるのかもしれません。

 

 人間は長く生きていると色んな経験を積むので、面白いと感じる能力も面白くないと感じる能力も、それぞれ発達していくものだと思います。なので例えば、目にする色んな作品の大半を面白くないと感じてしまうとき、面白くないと感じる能力だけを優先して鍛えてしまった可能性もあります。

 

 そこでもし自分が楽しめなくなっていることが不安になったら、自分が何を面白くないと感じる能力を鍛え過ぎてしまったのかを振り返ってみてもいいかもしれません。そして、何かを面白いと感じる能力も鍛えてみるのもいいですね。また、自分が好きな物を面白くないと言っている人がいたり、自分が嫌いなものを面白いと言っている人がいたときにも、その人が、何を面白いと感じ、何を面白くないと感じる能力をそれぞれ鍛えてるのかを想像してもいいかもしれません。

 

 そうすれば、自分と異なる感性の人がいたとしても、その人はそういう形でその人の能力を鍛えてきたからそうなっているのであって、その前提条件が異なるのだから、自分と至った答えが違っても別に気にするようなことではないと思えるようになるのではないかと思います。

 この人は、この作品の要素の中でこれを面白くないと感じる能力を鍛え上げたから全く楽しむことが出来ないんだなと思えたり、この人はこの作品の中でこの要素をめちゃくちゃ楽しむ能力を鍛え上げているから、これをすごく楽しめているんだなと思えたりするからです。

 

 僕は最近は割とそういう感じに自分の中での整理をしています。この認識は、自分と他人を切り分けるためにも有用ですし、何かを楽しめるようにとか楽しめないようにコントロールしたいときにも有用だと思っています。

人間の生きづらさ関連

 生きづらさを抱えた人がいるという話については、自分自身のことも考えて色々思うところがあるのですが、そもそも「生きづらい」というのがどういうことを言っているのかが曖昧なまま話されていることも多いなと思います。

 

 個人的な感覚としては、「生きづらい人」というのは「生きづらくない人」との対比なのかなと思っていて、つまり「他の多くの人がつらいと感じないところでつらいと感じてしまうこと」が、生きづらいということではないかと思います。そのように、多くの人がつまづかないような場所でつまづいてしまい、なぜ自分だけが上手く出来ないのかと悩んだり、つまづいてしまうせいで皆が普通にやっているような必要な行動が起こせず、起こせないからこそそこからずっと抜け出せない泥沼にハマってしまう、みたいなことがあり、それを生きづらいと感じるのかなと思います。

 

 もちろん、生きづらさについては他の理解もあると思いますが、ここではこういう種類の生きづらさについて思うことを書こうと思います。

 

 つまづく場所は人それぞれ様々にあると思います。色んなところでつまづくけれど、その結果、生きづらいと感じているということだと思うので、生きづらいと感じている人に一発こうすればいいと伝えられるような処方箋はないように思います。ただ、そのように一律な解決策がないからこそ、解決できないままにただただ時間が過ぎてしまうのかなとも思います。

 

 例えば、上手く声が出せない人がいたとします。そういう人は、何を言ったかを人に聞き返されることが多く、聞き返されるたびに言い直しても、それでも上手く伝わらないことを繰り返すと、そのうち疲れて人に言うことそのものを止めてしまうかもしれません。

 これにより生きづらさのひとつのケースが発生します。人に話すこのハードルが高いために、人に聞けば答えが返ってくるようなことを人に聞くことができず、自分だけで調べてやろうとして長時間がかかってしまい、能率の悪い人間と思われたりします。それにより自分はダメな奴だという認識が深まったりもするでしょう。

 これは例えば、生活圏内で使われている言語と自分の母語が異なる場合でも似たようなことになってしまうかもしれません。場所が変わるだけでそれまでは困ってなかった人も困ることがあります。他の理由でもいいですが、他者とのコミュニケーションのハードルが少し上がるだけで、人は何かが上手くできない状態に陥ってしまうことはあります。

 

 こういう言えばいいだけじゃないか、というようなことについて、もはや疲れて言うことができなくなっている場合、「言えばいいだけじゃないか」というだけのアドバイスをしてもあまり効果がありません。だって言うことについてとっくに疲れてしまっているからです。

 

 そういうときには、ゆっくり言いたいことを聞いてくれる人がいてくれれば解決するかもしれませんし、言わなくても伝えられる方法を選ぶこともいいと思います。自分がそのタイプの生きづらい人のそばにいるなら、言いたいことをゆっくりちゃんと聞こうとするだけでも変わることがあります。

 

 対人コミュニケーションが不得手な人が、それを回避するために、いつまで経っても不得意なままで、人とやり取りすることがなかなかできずに孤立してしまうことがあります。そのきっかけは非常に些細なものだったりすることだってあるのに、その状態が長期間継続することによってなかなか抜け出すことができなくなったりします。そういうのって悲しいことだなと思います。

 

 人間は色んな場所で色んな理由でづまづくんですよ。

 その中には、もっとちゃんとすればいいだけでは?と説教されそうなこともあります。

 

 例えば、「他人にお礼を言えない人の生きづらさ」などもあると思います。何かをしてもらったときにお礼を言うということ、その行為に感謝をするということが上手くできてない人が、それゆえに他人に何かをして貰えなくなっていくことがあります。

 お礼が言えないのは、「お礼を言った方がいいということを学ぶ機会を得られなかった」とか、「それを言うことで相手に強い負い目を感じてしまうから言いたくない」とか、色々な理由が考えられますが、誰かに何かをしてもらったときに、その行為に感謝することを表明できなかったために、助け合いの枠組みの中からだんだんと外されていくことがあります。助け合いの枠組みから外れてしまうと、他の人たちが助けて貰えていることもたった一人でやらないといけなくなるため、生きることに困難を抱えてしまうかもしれません。

 

 その場合、「ちゃんとお礼を言えるようにしよう」みたいな解決策もあると思います。生きづらい人が生きやすくなるためには、本人が変わることも選択肢のひとつです。でも、ちゃんとお礼が言えない人に対しても、ちゃんとお礼を言えるようにしましょうよ!と単純に伝えてもできるようにならないかもしれません。

 その人がなぜそれができないのか?ということを考えて、それができるためには何がハードルとなっているのかを考える必要があるのではないかと思います。例えば、その人が何かをやってくれたときにちゃんと感謝を表明することで、感謝を表明することの大切さを異なる立場で実感してもらうとか、感謝されたことを足場にして何かを要求したりしない関係性を示すとか、色々なやり方はあるわけです。

 

 でも、実際の世の中では他人の生きづらさなんかには興味がない人も多いですよね。「なぜ自分がわざわざ手間暇をかけてこんな奴のことを手助けしてやらなければならないんだ」と思ってしまう人も多いのではないでしょうか?運が良ければ生きづらい自分に向き合ってくれる人が出てくる人もいるかもしれません。でもいないかもしれません。

 

 結局、自分に対して特別に接してくれる理由のある唯一の存在は自分自身なのかなとも思います。誰かに期待して、期待通りにしてくれないことに腹を立てたりするのも、さらなる孤立を招いて、生きづらさを加速させてしまうかもしれません。

 

 僕も社会生活があまり得意ではありませんが、でも思っているのは、「仮に世界中の全ての人が僕を嫌いだったとしても、せめて自分自身ぐらいは自分のことを大切に考えてやろう」ということです。社会の中で生きて行くならば、他人の中に自分をうずめていくことは避けられません。でも苦手なんですよね。それをやるのは。失敗体験もたくさんありますし。

 それでも社会の中で生きて行くしかないならば、自分がその中でどうあればいいか?ということを考えて、そのために少しでもそのありたい形に近づくことをしていくしかないなと思います。何かができないなら、どうやればできるようになるのか?今自分がそれを出来ない理由は何で、どうすればそれを乗り越えたり回避したりして先に進めるのか?を考えていくしかないのかなと思っています。少なくとも自分の話としては。

 

 特にネットでは、非常にたくさんの人の目が集まる可能性があるため、「自分の抱えている困難さを開示し、そしてできれば他人にこうしてほしい」と求める行動にはリスクが伴います。その発言が目立てば目立つほどに、何かを求められることが嫌いな人たちが、「あなたの抱える困難はあなたの自業自得であり、こちらには関係ないので勝手に自分で解決しろ」という意味のことを言ってくる量が増えていくと思います。

 ただし、その求められることが嫌いな人たちもまた、困難を抱えたギリギリの人かもしれません。自分のことだけて手一杯だから、自分に求められても困るのかもしれません。だから、それがそういう人たちが悪い人とも思わないのですが、でも結果的に現象として、自分の困難の話をすると大量の人に突き放される言葉を向けられるため、「もう困難を開示したりしたくないな」と思ってしまうことはあると思うんですよね。それは悲しいことだなと思います。
どんな立ち場の人だって、困っているのなら、それによって生きることが困難に感じているのなら、まずは自分の困っていることを認識し、それを表明することが第一歩です。

 

 僕も以前ネットラジオで、自分が今本当に困っていることの話をしたら、そこに対する知らない人たちからの嘲笑の言葉をいくつも向けられたことがあります。そういう反応を見ると、うるせえボケがという気持ちと、本当のことなんて言わなきゃよかったな、という気持ちがごちゃまぜになったりしました。

 ただ、少し考えた結果、そういう反応を得ることで「こういうことを誰にも言わないようにすることが一番正しい」と思わされることもまたさらに生きづらいことかもしれないなと思いました。なので、言い方は考えますが、言っていくほうがいいだろうなというのが今のところの結論になっています。

 

 この文章もそういうことのひとつだということが分かると思います。

 

「一番弱い者が死なずにすむために社会というのはある」

という言葉が山口晃氏によるパラリンピックのポスターに書かれていました。ほんとうにそうだなと思ったので、自分の全ての考えの基礎のところにこの言葉を置いています。ただ、人は易きに流れるので、これを常に実現することは難しいことではないかと思います。少し自覚を怠けると「一番弱い者」という言葉の意味を好きなように読み替えて、「この人は弱い者ではないので、社会は(自分は)別に何もしなくてよい」ということにしてしまうんじゃないかと思います。そうなると良くないんじゃないかなと感じています。

 

 「生きづらさ」というのを社会の中にいることの困難さと捉えるのであれば、それはやはり弱い者なのではないかと思います。どんな種類の生きづらさでも、それが本人の自業自得と解釈できるものであったとしても、死なずにすむために社会はあった方がいいと思っています。

 

 こちらは社会の側からの視点ですが、個人の視点からで言えば工藤直子氏の「花」という好きな詩があります。

「わたしはわたしの人生から出て行くことはできない、ならばここに花を植えよう」

たとえどんな人生であったとしても、自分の人生から出て行くことはできません(それでも出て行きたくて自死を選ぶ人もいますが)。生きるのであれば、生きることが不得意であったとしても、それでも生きていくしかないのだから、せめて自分ぐらいは自分の人生の中に花を植えていくしかないという諦めにも似た気持ちが自分にはあります。

 

 自分と自分の外との間にある摩擦に目を奪われてしまうかもしれませんが、まずは自分の中だけでも、そこに花が植えることを考えてみるのがいいのではないかと思い、僕は以前からそういうことをして、少しずつましにできていると思います。

 

 もしこれを読んでいる人が「生きづらい」という気持ちを抱えているとしたら、色々たいへんなことはあると思いますが、まずは自分にとっての何らかの花を自分の人生に植えることを考えてみるのはオススメです。