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「ドラゴンクエストユアストーリー」とミルドラースと僕関連

 「ドラゴンクエストユアストーリー」は劇場で初日に観たんですけど、最後に分かる真相で、あー、なるほどーと思って、この状態でもう一回最初から観たら、自分はどう思うかな?と思いました。このたびNetflixで配信が始まったことで2回目を観ましたので、その話をします。

 

 この物語における真相とは、これが実はVRゲームの中の出来事であったということが分かるというものです。それについて僕が初見で思ったのは、ある種の納得と、なかなか上手い落としどころやんけという気持ちでした。

 何故かというと、この映画のモチーフになっているドラクエ5には、ビアンカとフローラのどちらを花嫁として選ぶかということが、プレイヤーに委ねられた物語上の重要な選択として存在するからです。つまり、これがドラクエ5の単純な映像化であった場合、ビアンカとフローラのどちらかが選択の正解として決められてしまうということになります。とはいえ、選ばれなかった方が間違いとなることは、これまでゲームを遊んできた人からすると嫌なことですし、そこをどのように取り扱うのかということが観る前から気になっていました。

 

 それがこれが実はVRゲームであることが分かることで上手く整理されたと感じました。つまり、ここにおける選択は、あくまで作中の一人のプレイヤーがそう思ったというだけで、それ以外のプレイヤーにはそれぞれの正しい選択があるということと矛盾しないということだからです。なので、これは上手い解法だなと思ったわけです。

 

 このギミックは、遊ぶのに数十時間かかるゲームを、2時間程度の映画に落とし込む上で上手い作りになっていて、つまり、そのまま映画に置き換えるなら長大になり過ぎてしまう物語を、時短として省略することも、体感型ゲームであるために短時間で終わるVRゲームとして調整されるという形で、作中の設定として織り込むことができるようになるからです。

 なので、確かにこういう構造にしたら色んな問題が解決して、ゲームを一本の映画に置き換えることができるなと思いました。上手く考えるなと思って感心したところでもあります。

 

 この映画は、記号的なもので構成されたスーパーファミコン時代のゲームと、現実世界の間を埋めるという試みでもあります。そこには、映像上も様々な面白い表現がありました。例えば、奴隷生活を送ってきた主人公とヘンリー王子に無精ひげが生えていることや、戦闘の中で汚れがついていったり、生傷が増えたりしていきます。それはゲームをプレイする中では、想像はできても実際には見ることのないタイプのもので、ドット絵からの解像度を挙げて行く上で、その間を埋めるものとしてのポジションにこの映画があるんだなと思いました。

 ドラクエの世界を、実在性の辻褄合わせを含んだCGで描き直すという上では、呪文の表現や、モンスターが倒されるときの崩壊してチリになる表現など、映像的な現代的解釈はかなり観たかったものが見えてよかったです。

 

 ゲーム的な都合からくるお約束と、それをそのまま映像化するなら不自然になってしまう矛盾は昔からツッコミどころとしてよくあり、それをどのように埋めるか?という解釈はずっと行われてきていて、その現代的な映像表現として高度に行われたものが見られたように思ったということです。

 

 なので、全般としてはなかなかよく作られていて観て良かったなとは思うんですが、やっぱり気になるのは最後の下りです。そこで展開される話については、イマイチ納得がいっていません。

 

 この物語の最後は、魔王ミルドラースのゲーム的立場を乗っ取ったコンピュータウィルスが登場します。そのウィルスは天才プログラマーが作ったもので、彼はこのようなVRゲームの存在が気に食わないそうです。外の世界のことを忘れている主人公に対して、これはゲームであると教え、こんなものは虚無であり、「大人になれ」と伝えてきます。

 そして、それに対して主人公は、「お前には分からないだろうが、ゲームは自分にとってのもうひとつの現実だ」と主張し、アンチウィルスソフトの力を借りて、ミルドラースを倒し、エンディングを迎えるのでした。

 

 僕がここで何が納得がいかないか分かりますか?僕はこれがVRゲームであることは面白く思っていて、それが明かされる下りも、映像表現を含めて面白いと思いました。そして、VRゲームに興じている大人に対して、こんなものは虚無だと伝えてくる天才プログラマーの存在も、別に大丈夫です。

 

 何が納得いかないかというと、主人公の主張に対してです。この主人公は屈託がなさすぎると感じてしまいました。どちらかというとミルドラースの方がずっと屈託があり、ミルドラースの話の方を聞きたい気持ちになってしまいました。つまり、僕自身が仲間だと思った側が、仲間だと思えなかった側に負けてしまったので、ウッソでしょっていう気持ちになってしまったのだと思います。

 

 ミルドラースの言うところの、「VRゲームは虚無であると気づいて大人になれ」という主張は、作中に手がかりがないので実際のところは分かりませんが、「VRゲームに興味がない」というよりは、「以前はとても興味があって、ずぶずぶに遊んでいたのに、それをある日無意味だと気づいてしまった」と考える方が自分の中ではしっくりきます。なぜなら、ただなんとなく嫌いだからするというには、やっていることに手間がかかり過ぎるように思えるからです。

 自分がそれを虚無だと思うに至ってしまったがゆえに、それをまだ屈託なく遊べる人に対する怒りの感情や、そんなものは虚無であると知らしめたいという願望が出てくるという理路ならば、個人的な納得感があるように思います。

 

 そのような葛藤は、ゲームが大好きな僕自身についてもあることで、ゲームの存在が良いものだと簡単に言い切って本当に言っていいのか?という気持ちはどうしたってある程度はあるわけです。なぜなら、ゲームは楽しいので、ついゲームをやってしまいますが、そのせいで、他のやるべきことをおろそかにしてしまう経験があるからです。本来やるべき様々なことをやらずにゲームをやってしまっていたとき、ゲームそのものには罪はなくとも、他にやらないといけないことがあるのにゲームをやってしまった…という罪悪感が残ります。

 ゲームはやってしまうが、自分の不作為がゲームのせいになってしまうのはよくない。ゲームが悪く言われないためにも、ゲームとの適切な距離感を保っていこうという気持ちがあるので、ゲームをすることは無条件でいいことだよという主張を屈託なくすることができません。

 

 僕がそういう葛藤を抱えている一方で、主人公側は、ゲームを虚無だと言ってしまうミルドラースが、そもそも昔は好きであった可能性などは一切考えません。自分の分かっているものを、きっと相手は分かっていないに違いない、感じたこともないのだろうと即座に決めつけています。

 そして、自分の中で大切な思い出の一部で、「もうひとつの現実」であると主張するわけですが、その言葉を口にするには、ゲームを始めるときの下りが軽薄過ぎるように感じてしまって、「お前、どの程度の覚悟があって、それを言い切れるんや?ノリで調子のええこと言うとるんやないぞ?」みたいな気持ちにもなってしまいました。そこに葛藤はないのか?と思うからです。

 

 つまり、僕は主人公を自分にとっての外部者だと思ってしまったのだと思います。なので、知らん人の知らん話を見てしまったということを最後に思ったのだと思いました。知らない人の結婚式の生い立ちビデオを見てしまったような気持ちです。それをユアストーリーと言われてもな??と思いましたが、一方で、これを目の前に置かれることで、自分にとってのドラクエとは?みたいな気持ちがむくむく出てきてしまいました。

 人間は他人への反発が発生するとき、自分の立ち位置を強く認識しやすくなったりするからだと思います。まあ、それこそがユアストーリーだったのだよと言われたら、なんやと??と思ってしまうとは思いますが。

 

 色々思ったのですが、総論としては面白かったし見てよかったです。それは例えば、人間の孤独を歌うバンドの曲に強く共感して、ひとりでライブに行ってみたものの、周囲には友達と来てワイワイしている人の方が多数なのだ…と思ってしまうときのような気持ちです(これは実体験)。

 自分以外にも、これを好きな人はいて、それは決して自分ではないのだなと思ってしまうという認識があって、まあ、それはきっと正しいと思うんですよね。自分と何かの作品の関係性は、1対1ですが、世の中にはその無数の1対1が存在しています。

 だから、これは僕の話じゃないんだなと思ったということがとても面白かったです。そして、そんな他人がいることを否定できる権利は自分にはないだろうとも思います。世の中はそういうものです。

 

 結局、僕はどちらかというとミルドラースに興味がしんしんで、彼を作った天才プログラマーは、なぜそこまでVRゲームの世界を憎むようになったのかがとても気になったままです。あのゲームの中は、決まった動作をするだけのプログラムではなく、プレイヤーからのインタラクションに合わせて、自分を書き換えていくような機能があるように思えました。

 作中でのフローラの動きも、主人公がゲームを始めるときに最初にした設定を無視させるようなものであったり、マーサはゲームがゲームとして繰り返されていることや、ゲームの外の様子も少なからず理解していたように思えました。それはつまり、ゲームの中の人々には、ひょっとして自由意思として理解できるもの、あるいは、その種になるものが存在しているのでは?と思えたということです。

 

 人間は根源的には他人のことが分かりません。分かるのは相互のコミュニケーションの界面となるものだけで、自分と相手が触れ合ったときの響きから、その中身を類推しているに過ぎません。機械に対して自分と同じような内面を持っているのではないかと感じてしまうこともあるでしょうし、適切なリアクションを返さない相手の内面は、無いものと認識してしまったりもするでしょう。

 天才プログラマーは、VRゲームのキャラクターたちに内面を感じるほどにハマりこんでしまったものの、それらはやっぱり作られたものでしかないという限界を感じたのかもしれません。であれば、おじさんそこもうちょっと聞きたいな!というような気持ちにもなります。

 

 ドラゴンクエストユアストーリーには、2があって欲しい気持ちになってきました。そこは、最初からVRゲームの世界だと分かっていて、その中には、人間と同じように思えるか思えないかが曖昧な登場人物が存在します。ゲームの中のその存在を、虚構として捉えるのか現実として捉えるのかに悩んでしまう人が、今度は主人公であってほしいと思ってしまいます。

 

 僕自身にはゲームの中で起こったことが、十分自分自身の思い出と言っていいものになっているものが多々あります。だからこそ、虚構と現実の差について、切実な人の話も観たいなと思ってしまいました。

 

 結論としては、映画は面白く見たけど、主人公よりミルドラースの方が好きかもしれない。もし、2があるならミルドラース側?の人の話が観たい気がする!というものです。

SNSで疲れないやり方関連

 僕はTwitterがかなり好きで、ちょっと時間が空くと見ていることが多いのですが、でも、他人と交流するためにはほぼ使っていません。いや、むしろ、他人とあんまり交流をしなくて済むのでSNSでもTwitterだけが好きだと思える気もします。

 

 この前、Twitter疲れみたいな話を人としていて、そのとき僕が、「Twitterで疲れないコツはリプライをしないことですよ」ということを言ったら、他の人たちが、「でたよ…」みたいなリアクションだったので、僕がそのように振る舞っていることが既に理解されていたようでよかったです。

 僕は他人に対して直接話しかけることがほぼなく、話しかけられても返事をしたりしなかったりで、返事をした場合でもそっけなかったり、相手の言うことと微妙にずらした返事をしてしまったりします。それは意図的というか、もうちょっと厳密に言うと、「やらない」んじゃなくて「できない」という領域に近くて、他人とコミュニケーションの歩調を合わせることに、ものすごくエネルギーを使ってしまうので、使わないようにしなければならないという制約を抱えています。

 もし、話し込むぐらいにリプライの応酬をすることを義務付けられたとしたら、僕はTwitterに書く頻度は今の10分の1以下になると思います。なぜなら使えるエネルギーがなくなるから。つまり、SNSに疲れてしまうんだと思うんですよね。

 

 じゃあ、なんでエネルギーを消耗してしまうかというと、別に会話相手が嫌いなわけではないというか、普通に好きだったりもするんですけど、でも、その場合余計に、「ちゃんと返さないとな」という気持ちになり、「適切な返答とは何か?」ということを考え始めてしまったりします。

 「自分が書いた文章を相手が読んだらどう思うか?」と考えて、なおかつ、相手にも同じように考えさせてしまったら、もし忙しいとしたら迷惑がかかるのでは?もし、別のことしているからとタイムリーに返事できないと、向こうは返答に困っていると考えるかもしれない。特に存在もしていない裏を読まれたら嫌だな。早く返信できるようになんかするのはやめて待つか…。

 などという色んな想いが頭を巡ったあと、「今適当に返した方がよい」。あるいは、「返事をしない」という結論になります。あえて粗雑にすることで、それで頭がいっぱいになり、何もできなくなることを回避しています。

 

 他のケースでは、不用意にバズってしまったときに色んなコメントをもらったときにも同様に返せないのですが、それはそもそも別に向こうもちゃんとした返事を求めて話しかけてくれてるわけでもないだろうなと思うということと(そうでなかったらごめんなさい)、バズること自体は別にいいんですけど、その反応を見ることが苦手なので、早々とミュートにして通知が来ないようにしてしまうためです。

 でも、おかげで無視をするなと追加で怒られることもあり、怒られてしまうと、こちらも嫌な気分になるので、余計に全ての反応を見たくなくなってきます。

 他人との交流をしたくなくなってきます。

 

 このへんは感覚的なところなので、分かるって言ってくれる人と、全然分からないと言う人がいます。

 頑張って例えてみると、一人で狭い部屋にいるとします。狭いとはいえ、物がなければ寝転がったり飛び跳ねたりし放題ですが、物がたくさん増えてくると窮屈になります。例えば、机の上にコーヒーのなみなみと入ったカップがあったら、うっかり手が当たってこぼさないように気を使う必要があるでしょう。

 このようなことが、僕の場合は他人とのコミュニケーションでも起こります。自分の心の中に他人を入れて考えないといけない状況は、一人でいるのであれば使わなくてもいい気を、どうしても使ってしまいます。

 これは、気を使わせる他人が悪いと感じているわけではありません。他人がいると、どうしても僕が気を使いたくなってしまうわけです。僕がそういう性質の人間なのでどうしようもないという話です。そうして勝手に、自分が動いたら周りはどうなるかな?周りに変な影響を与えないようにコントロールするために、動き方をちょっと変えた方がいいかな?ということをぐるぐる自分の中でループでフィードバックしていくうちに、考え続けて行動には至らず、ずっと動かないままで時間が過ぎてしまったりします。

 

 それなら、何も気にせず動いた方がいいなと思ってしまったのが今の状態です。そのために、楽な状態でいたいなら、他人が自分の思考の中に入ってくることを、仕組みとして排除しなければなりません。

 話しかけたり、話しかけられたりするのは、自分の中と外に他人を出し入れする行為に他ならないため、それをやらないことで疲れないように心がけるわけです。

 

 じゃあ、コミュニケーションしたくなければ「手元のメモ帳にでも書いとけや」という話もあると思うんですが、違うんですよ。僕はTwitterで人が話しているのを読むのは好きだし、それを見て思ったこととかを書くのも好きなんですよ。疲れるのは直接的な交流だけです。

 

 なので、目にした話題に関しては何かを書くんですけど、ただし、そこからコミュニケーション性を排除しているので、誰の何について話しているかの文脈は消失していることも多く、なんでこの人は急にそんな話を始めたんだ?と思われているかもしれません。ただその代わり、それが誰かの何かについての話だとは分からなくても、意味が分かる文にしておくことでバランスを保つみたいなところはしています。

 

 僕のこのような使い方は、別にそれほど特殊ということもないと思っていて、僕はこれと近い感じの人と繋がっていることが多いです。それによって、うっすらとした繋がりが存在するものの、それぞれを独り言を言っているだけという空間が目の前に広がっているということがあって、僕にはそれがとても住み良く感じています。

 なので、僕がフォローしている人とは特に直接リプライのやり取りをしないままに何年も経過したりしますが、じゃあ、仲良くなる気はないのか?と言われると、この状態が、この距離感で仲良いと思っている感じなんですよね。

 そこから関係性をより近くすることに特段の意味を感じないというか。でも、何年もそういう状態で過ごしたあとで、別の場所(コミティアとか)で初めて話したことで、やりとりを始めるなんてこともあります。

 

 一方で、時間を区切ったりするとこのようなことはできないわけではないので、イベントで人に会ったり、通話をしたりするときには上記とはまた別の行動ができます。Twitterは、一日中見ることができるので、一日中はそういうことができないという話です。

 

 SNSで疲れてしまう場合、その人の許容できる以上に他人とのやり取りをし過ぎてしまっているのでは?と思っていて、それなら単純な話、他人とのやり取りを薄くするのが一番簡単な解決方法だと思います。なので、僕はそういうことをしていますが、人によってはそれを奇妙に感じることもあるようです。

 対人コミュニケーションについて、「あまり量をこなすことができない」という人はいて、例えば僕がそうですし、結構そういう人はいるような気がします。それでも、こういう使い方ならTwitterは楽しく使えるので、よかったなと思い、もっと人とやり取りをしないといけないSNSだと難しいなと思っています。

 

 言いたいのは、僕はTwitterとかでは反応が悪いですが、別にそれは話しかけてくれた人が嫌いとか嫌な気持ちになっているわけじゃないよということで、でも、そうなってしまうか使うのをやめてしまうかしか、今の僕にはないので仕方ないんだよなあということです。

少年漫画の兄ポジションの不遇と生存戦略関連

 昨日、日本のRPGビデオゲームで、恒常的な仲間として主人公の兄がいるケースが少ないという話を読みました。確かに、思い返してみればパッと出てくるものがなく、何故なのかを考えてみたのですが、おそらく兄というポジションは主人公と同じ立場で年長であるために、上位互換になってしまうからだと思います。

 つまり、主人公が一番強くなる上では、乗り越えないといけない存在となってしまうために、「常に身近にいられるとよくない」のではないかと思いました。

 

 そういうことを考えてから、漫画のことも考えてみたのですが、少年漫画でも主人公の兄やあるいは兄弟子などの存在(以下は面倒なので血縁に限らず全てポジション概念として、兄と呼称します)は、あまり良い立場ではないかもしれないなと思いました。理由はゲームの場合と同じで、主人公を最高の男に成長させる上で、邪魔だからです。

 なので、物語に登場する兄は、例えば、主人公よりもすごい才能を持っていたものの、敵側に寝返ってしまい、倒すことで、上位互換であったはずの存在を乗り越えるとともに、人間的成長を遂げるための糧とされてしまいがちなのではないでしょうか?

 

 そういえば直近では「鬼滅の刃」でも、善逸の兄弟子がそのような存在でしたね(善逸は主人公ではないですが)。他には「ロトの紋章」の剣王サーヴァイン(キラも主人公ではないな)や、「グラップラー刃牙」のジャックハンマー(寝返ったわけではないですが)、「北斗の拳」のラオウ(これも寝返ったわけではないですね)など、あるいは、「うしおととら」の秋葉流(上位互換ではないかも!)など、微妙に条件に合わないように思えて、なんとなくそういう感じに都合よく解釈できそうな存在を、僕の記憶から便利にピックアップすることができます。あ、「彼岸島」の篤は、かなり条件に合う気がしますね。他には「将太の寿司」では佐治や、鳳寿司の親方の兄弟子なんかも、主人公を引き立てるための糧にされてしまった気がします。

 他にも事例は大量に思い浮かんでいますが、キリがないので省略します。

 このようなタイプの兄は主人公の成長のための起爆剤や、マイルストーンとして消費されてしまいます。

 

 一方で、主人公の身近に魅力的で強い兄のような存在がいることは、主人公以上に魅力的に映ってしまうために、主人公の魅力を描く上では邪魔になってしまったりもするわけです。「からくりサーカス」では、そんな理由もあってか、物語は勝から鳴海を引き剥がし、鳴海のいない中で成長する勝の姿が描かれました。

 魅力的な兄は、主人公が将来なるはずの場所として存在し、そのポジションを空けるために死んでしまうことも多いです(鳴海は生きていますが勝と再び会うことがなく物語が進む)。

 

 死んでしまった兄は、主人公の理想を担いつつも、もう決して届かないポジションとして、物語上は存在し続けたりします。「修羅の門」では、主人公の九十九は、天才であった兄、冬弥を修行の中で自らの手で殺してしまいます。冬弥はその性格から修羅にはなり得なかった男ですが、九十九の心の中には、自分よりもずっと天才だった冬弥の姿が刻み込まれています。

 「シュート」の久保先輩は、主人公のトシを導くような存在でしたが、病気で命を落としてしまい、ラオウのように死後に理想的存在としていっそうの神格化が進んでいきました。

 

 このように、主人公の兄ポジションには、物語という化け物の食欲から逃れることができず、その牙から逃れて、幸福に生きていくことが難しいように思いました。

 そんな恐ろしい物語を目の前にして、兄がどうやれば生きていくことができるのかを書こうと思います。

 

 兄がその牙から逃れる構造的な方法のひとつが「学校」という概念です。学校の何が助かるかというと「卒業」が存在するということです。主人公の成長に合わせて卒業できることで、上位互換としての立場があったとしても、その座をスムーズに明け渡すことができるようになります(シュートの久保はそれでも間に合わず、逃れることはできませんでしたが)。

 例えば「弱虫ペダル」の3年生たちは、上手く格や命を失わされることなく、物語の中心から外れることができました。そればかりか、スピンオフでは主役を張れるという好待遇です。

 

 学校もそうですが、つまり、主人公と同じ土俵に上がらないということが生きていく上では重要なのではないかと思います。「はじめの一歩」の鷹村は、主人公の一歩とボクシングの階級が違うので、直接戦う必要がありません。常に強く主人公の目の前に存在していても、それが主人公の成長の邪魔になるわけではないので生きていけるわけです。

 

 同じ土俵に上がらないということは、そもそも主人公が身を投じている戦いに参加しない存在であったり(頭脳ポジションで後方支援役になるなど)、特異な能力があってピンポイントでのみ活躍する存在であったり、あるいは、体が弱くて長時間戦うことができないことが、むしろメインのポジションをはずせる理由となり、物語の登場人物としては寿命を伸ばす可能性もあります(北斗の拳のトキですね、結局最後は死にますが、人間は皆いずれ死ぬので)。

 

 そして、同じ土俵に上がったとしても格も命も失わない方法を使っている人物として印象的なのが「ダイの大冒険」のヒュンケルと、「聖闘士星矢」の一輝です。この2人は共通点が多く、例えば、主人公たちよりも年長のポジションであり、最初、敵として登場しつつも、その後、付かず離れずの味方になるという共通点があります。そして、ピンチになると、どこからともなく現れ、主人公たちを助け、それによって大ダメージを負ったり、これは死んだか?と思わせて死んでおらず、ピンチになると、再びどこからともなく現れます。

 この最初にイニシエーションとしての敗北を受けた上で、強く魅力的な味方のポジションを確保し、とはいえ、常に一緒に行動するわけではなく(一緒に行動すると邪魔ポイントが貯まって死の可能性が高まる)、ここぞというところにだけ登場するという行動は、そういう観点から見ると、命と格のマネジメントがとても上手だなと思ってしまいました。

 この2人の存在パターンに似通っている部分があるのは、少年漫画の中で命と格を守りつつ、兄として戦いに身を投じ続けるための生存戦略の結果のように感じたという話です。

 

 そう考えれば、「鬼滅の刃」の富岡義勇も、主人公と常に行動をともにしていなかったからこそ生き残れたとも言えると思います。代わりに煉獄杏寿郎が兄の立場の一部を担って死んでしまいました。

 

 兄が物語の中で、いかに生きようとしたという謎の見方をすると、色んな物語が別の見え方がしてくると思います。北斗の拳でジャギが言った「兄よりすぐれた弟なぞ存在しねえ」という台詞は、そんな不遇になりやすい兄が、物語の中でせめても生きようとした叫びのようにも聞こえてきました(幻聴)。

 

 最後に、これまで出てこなかった、主人公とその兄ポジションが最後まで一緒に戦い続けられた例としては「フルアヘッドココ」があると思います。主人公のココは、海賊バーツの船に乗り込みますが、そのままの関係性で2人は戦い続けることができるのです。

 それができた理由は、ココの方が、戦いの中心人物というより、特殊な力を持つ存在として、微妙に同じ土俵に乗らなかったということがあると思います。そして、バーツとココは十分に歳が離れていることも、兄だけでなく親子的な関係性があることとして作用してくれたのかもしれません。

 そして、近年始まった続編の「フルアヘッドココ ゼルヴァンス」ではココは成長し、バーツと対等に戦うことができる存在に成長しました。こうなってしまった以上、ココとバーツの関係性は今までのままでいることはできないかもしれません。海賊スイートマドンナのクレイジーバーツは、今後どのように物語の中で生きていくことができるのか?

 ドキドキしながら見守ることにしようと思います。

「BEASTARS」と加害性の苦しさと平等関連

 チャンピオンで連載していた「BEASTARS」が完結し、最終巻も今月出ました。よい物語だったなと思ったのでその話をします。

 

(免責:この文章には物語の核心部分のネタバレが含まれます)

 

 BEASTARSは様々な動物が人間のように生活をしている世界を舞台にした漫画です。この物語の主軸部分は、肉食動物と草食動物が同じ社会を営むということによって社会に発生するトラブルです。主要な登場人物は、主人公であるオオカミのレゴシ、かつて社会の裏側で食べ物として売られる運命にあったシカのルイ、レゴシと恋愛関係になるウサギのハルです。

 この物語を大きく2つに分けると前半の学園編と、後半の社会編になると思います。前半では、ヒグマのリズが肉食側の象徴として登場し、後半ではヒョウとガゼルのハーフであるメロンが肉食と草食の狭間に存在する社会の矛盾の象徴として登場します。

 

 この物語は、学園の中でアルパカのテムが何者かに喰い殺されたところから始まります(このような事件を食殺事件と作中では呼称)。加害者はその後も何食わぬ顔で学園生活を送っており、一見日常の平和な生活は薄氷の上のもので、その下には暗く広い水底が広がっていることを思わせます。

 肉食動物も草食動物もこの社会において、同等の権利と尊厳を有した平等な存在です。しかしながら、その根底には喰う者と喰われる者という不平等な関係性があり、社会はそれを覆い隠すベールを必要としているように見えました。

 

 そんな中でリズが起こした食殺事件の真相が描かれました。そこで描かれたことの驚いた部分は、「クマは体が大きく力が強いため、その筋肉の発達を抑える薬の服用を義務付けられている」ということです。この物語の世界では、様々な動物が存在するため、その筋力的な力に現実の人間社会以上に極端な差が存在しています。じゃれているぐらいのつもりが、例えばうっかり同級生の腕をもいでしまうほどの事故を引き起こす可能性もあるのです。

 だから、安全性の確保のために極端に強い力を持つ種族は、事故を避けるために薬の服用を求められました。もしかするとかつて、そのような事故が多発したことがあるのかもしれません。それは当たり前のこととして社会では受け入れられています。

 

 しかし、たまたま力が強く生まれてしまったために、その個性を無くすための薬の服用を求められることは、果たして本当に平等でしょうか?しかしながら、そのような不公平感はきっと、「現に沢山事故が起きているじゃないか?」という事実の前では大きな力は持てないのではないかと思います。

 クマ以外ではゾウもまた心を病みがちであることを知らされます。自分の体が大きくて強いために、必然的に自分の一挙手一投足が外部に与える影響を意識し続けなければならないからです。

 

 生来の肉体の持つ不平等さが、現実の世界の世界よりもより一層強調されているこの物語の世界の中では、平等であるということを達成するために、凸凹を均すための様々な、ときに残酷とも思える施策が行われているのでした。

 

 力が強く生まれてしまったがために、自分があるがままでいられないという苦しみを抱えていたリズは、テムにかけられた何気ない一言に影響を受けてしまいました。体が大きくて優しいクマさんという雰囲気の裏にあり、決して表に出してはならないと社会に求められたリズの暴力性に、テムが気づいたと感じたからです。

 リズの中では、これが「気づいてくれた」として機能してしまいます。社会の誰からも、あることを認めてはならないものとして、存在することすら認めて貰えなかったものとして存在する自身の暴力性を、テムだけが気づいてしまいました。そして、リズはその気づいてしまったものをもはや無視することができなくなってしまいます。

 そして、その先にあったのは悲劇でした。

 

 BEASTARSの物語の特徴的なところは、このような生来の特徴を、加害性として社会に忌避されている存在を、明確に描いたことではないかと思います。そこで起こった事件を悲劇は悲劇、犯した者の罪は罪として描きながらも、その背後にある、加害性として、自身が生まれ持った特性を抑圧された状態で生きることの苦しさもまた描くんだなと読んでいて思いました。

 

 もう一点、生まれ持ったの加害性の象徴として描かれているのは、コモドオオトカゲのゴーシャだと思います。コモドオオトカゲは口の中に毒管があるため、その唾液が常に、他人を傷つける可能性がある状態で生活をしています。彼は自分の存在が、同族以外を傷つけることに非常にセンシティブです。彼にとって、それは生まれながらのもので、どうしようもないものですが、それでも、自分が気遣いなく好き勝手に振る舞えば、それによって誰かが死んでしまうかもしれないという中で生きてきました。

 ゴーシャとトキの間に生まれた娘は、後にレゴシを生み、レゴシもそんなゴーシャの側面を受け継いでいるようにも思えます。

 

 そんな彼が、異種族であるオオカミと結婚をしたことは、驚くことでした。しかし、ゴーシャは同じ空間で生活する中で、自分の妻であるトキを自分の毒で傷付けてしまわないかを朝から晩まで気にしてしまいます。しかしながら、トキがとった行動は特異なものでした。トキがなぜそうまでしたのかを、僕は明確に理解することはできませんでしたが、彼女はゴーシャに自分との生活の中で、ゴーシャが生まれてからずっと気にし続けてきた、「毒という他者へのどうしようもない加害性」を、ついに忘れさせることに成功します。

 そして、その成功は、自分がその毒で死ぬという結果をもたらしてしまいました。

 

 トキはきっとやり遂げたのだと思います。自分の死の瞬間、やってのけたと思ったのででしょう。そして、そうなってしまったことが、その後もたらすことについて、何を思っていたのかは分かりませんでした。

 

 自分の中に他人を傷つけてしまう部分が備わっていることもまは、とても苦しいことかもしれません。肉食動物は、草食動物と社会をやっていく上で、それを隠すことにしました。大人は誰もが裏市の存在をしています。裏市では、死んだ草食動物の肉が売り買いされ、ときに生きている草食動物も肉として売り買いされます。

 肉食側の「喰いたくなってしまう」という気持ちは、そのような形で秘密裡に解消され、裏市の存在を知らないものとして振る舞うことによって、ギリギリ成り立っている薄氷の上に作られた社会です。

 

 この物語の中で描かれたことは、「反社会的な欲望がここにある」ということは認めることだと思います。そして、その欲望を持ってしまうことが、何も暴力的だと蔑まれることだけではなく、ときに「それを抱えてしまう人間の苦しさでもある」ということだということです。

 ある肉食動物は、裏市を初めて見てしまった草食動物に対して、それが存在するという恥ずかしさから、こんなものを見せていいはずがないと店を壊そうとします。それは存在しているものだが、だからといって見せたくなんてなかった、見られたくなかったという心です。

 

 ここにあるのは、肉食動物はどうしても草食動物に対する食欲を消すことはできないが、それでも草食動物と上手く社会をやっていきたいという願いがあるということでしょう。その「願いがある」ということがきっと希望です。仮に頭の中に反社会的な欲望が渦巻いいていたとしても、それを実行せずに一生を終える人は、やはり善人なのではないかと僕は思うからです。

 仮に反社会的なことを心の裏側で望んでいたとしても、同時にそれによって誰かを傷つけたくなんてないという希望があれば、それで人は社会はやっていけるのではないでしょうか?

 

 そして、それはその狭間における事件が全く起こらないということを意味しません。事件はきっとどこかで起こります。事件は起こり得るということを踏まえた上でやっていくのだというところが、強い物語だなと思いました。

 

 メロンは草食動物であるガゼルと肉食動物であるヒョウの間に生まれた子供です。彼は幼い頃からずっとストレスの中で生活してきました。仮に表面上は平等を謳っていても、その陰には、歴然とした違いがあることが認識される社会があります。子供というのは、その上にかけて覆い隠すベールが大人よりもずっと薄いものです。肉食でも草食でもない彼には居場所がありません。

 そして、彼は自分の母が、きっと父を食べたのだろうと確信しています。母が自分を見て父を思い出すのは、父の味を思い出しているのだろうと想像してしまいます。学校にメロンの居場所はありませんでした。そして、家庭もまたメロンの逃げ場ではありません。

 

 そのストレスの中で、彼の生き方は歪んでしまいます。

 

 社会が暗黙のうちに分断されているために、彼には居場所がありません。社会の歪みによって道を外してしまった哀れな人、というところならば居場所ができるかもしれません。でも、きっとメロンはそれを拒否するんじゃないかと思います。カテゴライズに上手く当てはまるか当てはまらないかということこそが、彼を傷つけてきたものであるからと思うからです。

 

 実際のところ、社会はほどよく分断されていた方が生活はしやすいことも多いはずです。異なる条件で生きていかざるを得ない人同士が同じ場所にいることは難しいことです。そうだった方がいいよねという気持ちだけで達成できるような簡単な話ではないのではないでしょうか?

 だから、似通った人たちだけで集まり、軋轢を最小化した上で、他の種類の人たちとは、交流用に作った窓口でだけやりとりをするということは、ある程度実績のある方法のはずです。例えば、国と国も似たようなものかもれしれません。

 でもそれは、人と人は綺麗に何らかのカテゴリーに分けられるはずだということを暗黙の前提としています。そして、その分けられたカテゴリーに属することに、人が負荷を感じることもあるはずです。

 

 そこから目を逸らさないのであれば、きっと、「多様な人々が、どうすれば一緒の社会を作っていけるか」という問題に取り組む必要があるはずです。

 

 そしてそれは、何らかの意味で強い立場にいるものが、その強さを社会からの要請によって抑え込むということだけでは達成できないのではないでしょうか?他人の加害性を押さえつけるその力は、社会からその人への新たな暴力性と捉えることもできるからです。

 

 レゴシは現在のビースター(動物社会の指導的立場にいる人)であるウマのヤフヤの前に立つにあたり、自らの牙を引っこ抜きました。そうすることで、レゴシは自分が肉食動物であるというくびきから自由になり、草食動物であるヤフヤと対等な立場となると思ったからです。

 生まれながらに持っているものなのに、それを否定することでようやくまともに話すことができるというレゴシの考えは、覚悟は感じられてもとても悲しものです。レゴシは優しい男です。それは誰よりも自分の加害性に気を遣ってきたゴーシャの孫であることも関係しているかもしれません。

 結果的に言えば、このレゴシの行動は、物語の中で正解としては描かれていないと思います。しいて言うなら半分だけ正解です。そこには、肉食動物側から草食動物といるためにはどうすればいいかの悩みだけしかないからです。それはきっと不完全な話で、草食動物側から肉食動物といるためにはどうすればいいかという悩みも、やはり存在していなければならないのではないでしょうか?つまり、残りの半分は、草食動物がただの虐げられる弱者としての立場しかとらないことが、本当に正しいのか?という疑問です。

 

 この物語は、レゴシとハルの恋愛をもって集結します。ハルはレゴシにプロポーズをし、そして即座に離婚することを提案します。それがハルにとってのレゴシと対等になるための方法だからです。

 捕食される者としての立場を自覚して生きてきたハルは、誰とでもすぐに性的関係になる女でした。それは、それが彼女にとっての数少ない武器だったからです。生物としての力関係は明確にあっても、男と女として接するときには対等の関係になります。奪われる者ではなく、与える者としての立場もそこにはあるからです。

 

 ハルがレゴシに対して提示するのは、レゴシが何もかもひとりで我慢し、自分のために様々なことを諦めることで向こうから対等になろうとする姿勢への不満です。ハルはレゴシと対等の存在になりたかったわけです。自分が弱い者でしかなく、周りの我慢によってようやく目線が合わせられることに我慢がならなかったわけです。それはきっと、ハルの感じるところの平等ではないからです。

 

 自分の生得的な強さに悩むオオカミと、自分の生得的な弱さに悩むウサギは、それぞれが互いに対等であろうとするために行動します。つまり、2人の関係性はここからが始まりです。全く性質の違う人同士が、寄り添って生きていくということは簡単な話ではないからです。

 全てが解決することでよかった話ではなく、自分たちの戦いはこれから始まり、終わりなく戦い続けるというゴングのような物語でした。

 

 最後に、ルイはかつて幼い頃、裏市で売られ、肉食動物に食べられるのを待つばかりでした。しかし、財閥の後継者として養子として引き取られ、裏市を巻き込んだ様々な出来事の結果、ルイは肉食動物たちとの仲間としての関係性を持つことができる男になりました。メロンの引き起こした事件を通じて、ルイとレゴシの友情は、肉食と草食のビースターズとして、人の目に触れることになります。でも、それで社会の問題が解決するわけではありません。

 でも、それを示すことが、そして、この先も戦い続けていくことこそが、彼らの辿り着いた道だと思うわけです。

 

 BEASTARSの世界は、現実の社会以上に多様性に満ちています。そして、そんな多様な人々が同じ社会を平等な権利と尊厳を持った存在としてやっていくということは、容易なことではありません。そこには軋轢があり、その隙間の苦しさがあり、登場人物たちの多くは、その矛盾の中で答えを探そうともがいています。

 そこにひとつの分かりやすい答えなんてないのかもしれません。ヤフヤは海の生物からの、魚肉ならば提供できるという提案を断りました。陸の者たちは、そのような答えではなく、悩み続け、関係性を続けるということを選ぶべきだと思ったからです。

 

 なので、この物語が、草食動物であるハルの強さと、肉食動物であるレゴシの優しさをもって締められたことは、とてもよかったなと思いました。

 その互いに対等であることを求め続ける心こそが、その先に繋がるものかもしれないと思わせてくれたからです。

歳をとると新しい漫画をなかなか読めなくなる話と老害の仕組み関連

 歳をとると、新しい漫画がなかなか読めないという話を、身近でも聞くようになってきました。

 

 僕自身も新しい漫画に手を付けて読み始めるまでが億劫になることは近年感じつつあって、子供の頃は、朝から晩まで新しい漫画をむさぼり読んでいたのに、今は買った本もその日のうちに読めないことも増えました(それは単純に自由時間の制約もあるのですが)。

 

 漫画に限らず、新しいゲームを始めることが億劫だったり、全然知らないことの勉強を始めることも億劫だったりします。いや、加齢が原因だとは限らず、もともと自分はそういう人間なのでは?という疑惑もありつつも、昔の自分と比べると、やっぱり加齢による変化もあるだろうなと思っています。

 

 そこにあるもののひとつは、「自分が完成してきた」ということではないかと思います。

 

 「完成してきた」というのは別にポジティブな意味とは限らなくて、「硬直してきた」と言い換えることができるかもしれません。外部的な刺激によって、自分の中にある考え方や情報を一旦ばらして組みなおすというようなことをどんどんとしなくなっていき、今既に自分の中にあるものを使って、周りの全てを理解しようとしてしまうということです。

 それは経験を積んできて、どういうときにどうすればいいかが分かってきたということですから、もちろんポジティブな側面もあります。一方で、周囲の環境に変化があったとしても、今手持ちの道具だけで全てを賄おうとして、変化に合わせた最適な行動をとることができないというネガティブな側面もあると思うのです。

 

 人は自分の経験を積み重ねることで、硬直化していくことがあります。僕の知っている話で言えば、ある研究開発で、若手が提案した手法について、元研究者の管理職が「それはかつてやったが上手くいかなかった」と、一蹴したことがありました。その経験は確かにそのかつての時点では正しいものでしたが、しかしそのかつてと今では、様々な実験環境が異なっており、実際には、若手のやり方で成果が出たりしました(出ない方のケースだってもちろん沢山あります)。

 個人の経験は、個人の中において強い影響を持つので、上手く取り扱わないと過度に囚われてしまうことがあります。このケースでは、実際には、「かつて上手くいかなかったときと今回では、どのような条件が異なるのか」を精査する必要があったのですが、「この方法は上手く行かない」という自分の中の経験を重要視し過ぎたために、条件の精査の前に、既に自分の中に確立していた価値判断に放り込んでしまったための判断ミスがあったのだと思います。

 

 人生を重ねていくと、自分の中に考え方や情報は積みあがってきます。頭の中の本棚は初めは空っぽですが、色んな経験を経て様々な本がみっしりと埋まっていきます。

 しかし、一回本棚にきれいに並べた本を、もう一回全部外に出して並べなおす必要があるときに、とても面倒でやりたくないな…と思ってしまうことと同じで、自分の頭の中の本棚にあるものがある程度整ってきてしまうと、「もう本を並べなおすことなしに、そのままで全てをやっていきたい」と思ってしまいがちなのではないでしょうか?

 とはいえ、自分の外の環境は常に変化しますし、今の正解がいつまでも正解とは限りません。なので、そのように硬直化した状態では判断を誤ってしまうことだってあるわけです。

 

 漫画を読んだりすることでも、そういうことはあると思っていて、何かを読んで影響を受けるということ自体にストレスを感じてしまう可能性があります。なので、それを回避するために、例えば強く感動して影響を受けてしまいそうなものを後回しにしてしまい、別にどうでもいいと思える感じのものの方を優先的に読んでしまったりすることはないでしょうか?

 あるいは、新しい登場人物を頭に覚えること、新しい漫画の中のルールを覚えることが億劫になってしまったりします。そのせいで、続編やリバイバルなどの、既に知っているキャラクターの出る漫画を優先的に読んでしまうかもしれません。

 さらには、何かを読む前から、自分の中に既にある「ああいう漫画」という分類箱に入れてしまったり、パラパラとしか読まず、ちゃんと読まない部分を自分の中に既にある部品で埋めて、「ああ、こういう漫画ね」と勝手に思って終わりにしてしまったりはしないでしょうか?

 

 自分の中に新しい何かを構築するのが億劫ということは、何を読んでも、自分の中にあるものを変えずに済むのであれば楽ということです。しかしながら一方で、結局読んだところで自分の頭の中のものが何も変わらないのであれば、最初から読まなくてもいいのでは??とも感じてしまうかもしれません。

 これが何かに飽きてしまうということにも通じているように思います。

 

 このようなことは漫画を読むことに限らず、新しいゲームをやってみるとか、何かの勉強を始めてみるとかについてでもあるはずです。自分はもう今の状態で完成していて、それを一回崩してまで手を入れたくないという気持ちがあると思います。

 例えば、鎌倉幕府の成立は、様々な議論の結果、今ではかつてのように1192年だと学校では教えていないそうですが、それでも「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせは印象的ですし、自分の生活にとって別に大して関係がないのだから、1192年と思ったままいでもいいじゃないか?なんて思ってしまうかもしれません。

 でも、そういう硬直化した完成形となってしまうことで、環境に合わせて自分を変えることができなくなってしまうことは不利に働くことがあると思います。自分が変えられない状態で周囲と軋轢が生じた場合、「周囲の方が自分に合わせて変わるべき」という考え方になってしまったりもするからです。

 

 これが「老害」として認識される存在のひとつの形だと僕は思っています。つまり、新しいものに触れることで、そこからフィードバックを受けて自分自身を変えていくということをやらなくなり、「自分の中に既にある完成した考えに合わせて周りの方が変わるべきだ」と考えてしまう性向です。

 こういうこと自体は別に年齢が若くてもあることです。しかし、それが若い頃であれば、その意見は周囲に通らないかもしれません。だから認識されないだけのことです。一方で、歳をとってそれなりに影響力を保持していたりすると、実際に周りの方を変えることができてしまったりします。

 そういう状況になってしまうと、自分が凝り固まっていることに対する正当性も生まれてきて、もはや自分を変えることはできず、そこから抜け出せなくなってしまったりすることもあるのではないでしょうか?

 

 人間が色んなものを積み上げていくことは別に悪いことではありません。今持っている考えとかを一回捨てて、またそれを再構築したりするのが面倒だなという気持ちも分かります。僕だって同じ気持ちを持ち合わせています。それでも、周りの変化に合わせて自分を変えていくことができるということこそが、人間の持ちえる強さのようにも思えるんですよね。

 

 このように考えると、新しいものに触れることができなくなるのは、結局まだ何もしないうちから、自分の頭の中をできるだけ変えたくないと思ってしまうということでしかないのかもしれません。ただ、それはまだ事前にそう思ってしまっているだけで、いざ読み始めてみると、するする読めてしまったりすることもあります。

 経験を重ねることで、省エネで生きられる方法を学んでしまったということです。でも、実はまだまだ何にもできないほどには老いてはいないだろうとも思うわけです。今そこそこ居心地がいい場所にいるからなんとなく動きたくないだけで。

 

 なので、新しいものに触れてみて自分をそのたびに作り直すことは、億劫な部分もありますけど、自宅でコタツに入って出たくないというぐらいのことなのかもなと思ったりします。

 コタツに入って出たくないだけのことで、自分は動かず、周囲の人を動かして何かしようとすることが老害みたいなやつのひとつだろうなと思いました。

 

 少々面倒くさかったり、えいやという気持ちが必要だったりもするかもしれませんが、新しいものに触れて自分を変えていければ、退屈しにくくなったり、環境変化についていけることで周囲との差がなくなってストレスを減らすこともできるかもしれません。

 なので、新しいものに触れていくことは結果的に今いる場所に居続けるためには役立つことのように思います。でなければ、日々退屈だなと思いながら、ただただ動けないことになってしまうように思ったりするからです。

 まあ別に、今の趣味にずっと拘る必要もなく、別のことを始めても同じことなので、人は退屈をしないように、人生の移り変わりとともに、自分を変えても良いと思える場所に移動したりするのかもしれませんね。

 

 ともあれ、今日買ってきた漫画の単行本を読みます。

漫画の登場人物に最高と最低が同居していると目が離せない関連

 「忍者と極道」の登場人物の中でガムテがかなり好きなのですが、その理由のひとつにその存在の受け止め方をどうしたらいいのかが分からなくする、最高の部分と最低の部分が同時に存在しているというところがあると思っています。

 

 ガムテは子供による暗殺集団「グラスチルドレン」のトップに立つ、破壊の八極道のひとりです。大人に傷つけられた子供たちは、その壊れかけた心を守るための象徴として、体にガムテープを巻き、極道の手先として、人を殺しています。

 

 ガムテは、その見た目の滑稽な様子と、自分以外が世界にいないように振る舞う幼さ、つまり社会性の未獲得を見せることで、周囲の人間からは侮られています。もちろん読者も彼を最初侮ります。いかに強くても、倫理観がないだけで、ただのバカだと思うからです。

 

 しかし、彼はグラスチルドレンの中ではヒーローであることが分かります。傷つけられた少年少女たちの前に立つ、イカレたヒーローこそがガムテです。忍者と極道では、敵役として登場する極道側の方が、「友情・努力・勝利」の祝福を受けています。それはガムテも例外ではありません。かつて存在し、死んでしまったグラスチルドレンの仲間たちの友情の後押しを受けるように、最悪な極道技巧(ゴクドウスキル)を繰り出します。

 

 ガムテは彼と同じ立場に足を置き、彼をヒーローとして見た場合には最高の男の一人です。一方で、そうではない場合には、彼は最低な男です。

 

 象徴的なのは、帝都八忍のひとり病田色(色姐)との戦いです。色姐は、忍者としての能力を身につけるために顔がひどくただれてしまい、髪で顔の上半分を隠して生きています。彼女はその選択を後悔していません。普通の人間であった自分が、戦う力を得るためには必要な代償だったと思っているからです。

 一方で、彼女は生活する上で顔を隠しているわけです。なぜなら、その顔が他人をギョッとさせてしまうことを想像してしまうからだと思います。たとえ表面上は気にしないように振る舞ってくれたとしても、人のそのような反応には気づいてしまうものです。そんな中、この物語の主人公である忍者(シノハ)くんは、その顔を、そうなるに至った色姐の生き様を肯定してくれます。それは、自分に必要なものを得るために、何でもやっていくという、前を向いた態度に対する憧れを持った肯定です。

 そこには、様々な諦めがありました。様々なものを諦めた結果、色姐は今戦いに身を投じています。でも、諦めなければ、そこにこだわって立ち止まっていたら、今ここに立つこともできませんでした。彼女は、自分が生きたいように生きるために、様々なことを諦めて来ました。そして、そうであるということの強さと美しさを忍者くんは肯定してくれます。

 

 そして、ガムテはそんな色姐の顔に全く心無い言葉吐き捨てます。醜悪(キッショ)と、化け物だと言ってのけます。そして、色姐を殺します。読者側からすると、全く受け入れがたいパーソナリティを全力で見せつけます。最低の人間であると思ってしまいます。

 

 ここについて、後にガムテは、戦う相手を全否定し罵倒することは礼儀だという独特の美学を語りますが、それは、ガムテの中だけで成立する話で、やってはいけないことをしたことを許容できる理由にはなりません。ただ、彼は色姐が強かったことも素直に認めます。彼女と戦ったからこそ、色姐が強かったということを誰よりも理解しているのもまたガムテであるということが描かれるわけです。

 

 悪い人間には一点の曇りもなく悪くあってほしいとか、良い人間には一点の曇りもなく悪くあってほしいという感覚は世の中にあるのではないかと思います。なぜならば、そうであるとその人に対する態度を一貫しやすくなって楽だからです。

 そのため、人は楽な状態でありたくて、自分が悪いと思っている人が良いことをしても、悪く解釈しようとしてしまったり、良いと思っている人が悪いことをしても、良く解釈しようとしてしまったりします。

 でも、人はそんなにその全てが良いと悪いのどちらかになるということはないですよね。

 

 ガムテは、最高の要素と最低の要素が両方が、矛盾しない状態でその中にある人間です。だからこそ、その理解を自分の中でひとところに定めることができずに、その動きから目を離すことができない魅力的な存在に見えるのかなと思います。

 この構造は、たまに優しいDV彼氏に対する気持ちと似通っている気がするので、いいのか??と思ってしまう部分もありますが、最高と最低のどちらかしか持たない人間と比べて、どうしてもその一挙手一投足から目を離せなくなってしまうので、めちゃくちゃ魅力的に見えてしまうなと感じています。

 

 そして、期限が本日までなのですが「ガムテ外伝」が今公開されているので、まずは最新の単行本まで読んでから(そうでないと致命的なネタバレがあるので…)、未読の人は読んで、どう受け止めたらいいのか気持ちをぐちゃぐちゃにしてしまったりしましょう(あなたがこの文を読むとき、このリンクはもう読めなくなっている可能性も高い…!!)。

comic-days.com

 ということが言いたかった。あと以下は僕が描いたガムテのファンアートです。

インターネットに最適化されたくない最近の気持ち関連

 世の中は、無数の小さな社会が重なり合っていて、それぞれの社会には正解とされる立ち振る舞いがあります。それは、ルールとして明文化されているものや、マナーとして共有されているもの、あるいは、構成員のそれぞれが暗黙のうちに読み取るものなどで、その立ち振る舞い方を獲得することで、その場所にいることが許容されるというようなことがあると思っています。

 

 それはインターネットでもそうで、インターネットもひとつの社会です。インターネット入り浸り人間として、自分が知らぬ間に見ているインターネットに最適化されている立ち振る舞いをしていることに気づくと、おっ、いつのまにか最適化された立ち振る舞いを身につけているなと思ってしまいます。

 

 それがなんか嫌だなと最近は思っている感じです。

 

 僕が認識しているインターネットの適切な立ち振る舞い方はいくつかあります。例えば、インターネットで攻撃性のある言葉を発すると反発が生まれます。反発があると、知らん人に怒られたりするので、怒られたくないなと思うと攻撃性を無くすような物言いをする必要があります。

 でも、目の前に出てきた情報があまりに自分の感覚と違いすぎて、そこにひとこと言ってしまいたいと思ってしまうということはあると思います。これはきっと誰にでもあります。全くないと言う人は嘘をついているのでは?と疑ってしまいます。

 とにかくそこで出てくるのが、表面上の攻撃性を排除した物言いです。一見良いことを言っているようなように見せることで、他人を攻撃しているように見せないことで、即物的な反発を避けることができるやり方です。でも、よくよく言っていることの向いている先を見てみると、自分とは異なる考え方の否定や排除であったりするものです。それはやっぱり他人の持つ価値観への攻撃性です。

 どれだけ丁寧にバリ取りをして、そうではないと見せかけたとしても、言っていることは他人の持つ価値観への否定なのだから、そこを見逃さない人もいます。そういう人は、自分たちが攻撃されているのだから当然反発をしますが、表面上の攻撃性を排除した物言いを支持する人たちは、自分たちには攻撃性がないように振る舞っているものだから、あいつらは攻撃的で自分たちは平和的であるかのようにしようとしてしまいます。

 これはボクシングがグローブを導入したことで、人を殴る技術が高度化したような話で、他人を殴っても自分の拳が痛む可能性が低くなるので、より人を殴りやすくなるというような話です。そして、このような防御方法を長く使っていると、自分は実際は攻撃的なことを言っているくせに、まるで自分には攻撃性がないように誤認してしまうのではないか?と思っています。自覚のない暴力性は、歯止めがないため、それをエスカレートさせてしまうのでは?という危惧があります。

 

 分かりますか?僕もいま攻撃性を排除したようでいて、特定の人を攻撃するようなことを書いています。僕はこういうことを誤魔化さないようにして、これは自分は誰かを攻撃しているんだという自覚を持ち、そこへの反発を受け止めることの方が誠実なんじゃないかと最近は思っているわけです。

 世の中を見回すと、言い争いをしている双方が、自分たちは平和的で理知的で論理的だが、相手は、攻撃的で乱暴で非論理的であると言い合っていることがよくあります。そういうことの不毛さみたいなのを最近は感じています。

 

 どうせなら、「自分は他人に対する攻撃性を抱えていて、それを定期的に外に出してしまうような人間なんだ」と思った方がましだなと思っていますが、とはいえ、やっぱり身近な人に過度に攻撃的な物言いをするのもどうかとも思っています。だって、わざわざ嫌な言い方をされるのは、実際自分がされたら嫌だなと思うからです。

 ただ、そこはやっぱり婉曲的に言うよりは、自分はそれをよくないと思っているが、それでもお互いにうまくやっていけるやり方を模索する方が、明示的に言わずにずっと違う違うとイライラし続けたりするよりは、少しでも違う在り方に到達できるかもしれないので、そっちの方が良い感じがするんですよね。

 身近でなければ、距離をとればいいだけですが。

 

 もうひとつ、代表的なインターネットでの振る舞いについては、自分の立ち位置を明確化するための他人を利用するというものがあります。

 例えば、自分の正しさを主張するためには、自分とは逆の立場の間違っている人を見つけてくれば簡単みたいな方法です。でも、間違っているものを否定しても、間違っているものを否定しているだけで正しいわけではないと思うんですよね。狂った人を笑っても、自分が狂っていないことの証明にはならなくて、自分もまた別の種類の狂った人かもしれないからです。

 

 ただ、間違っていることを否定することで正しくなるという方法は、とても流行していて、僕もそれをしてしまっていることもあって、そしておそらくは、インターネットで耳目を集めるために、意図的な嘘でそれをやっている人たちもいるように感じています。

 例えば、自分が作っているものについて、別の誰かにとてもひどい扱われ方をしたという主張をすれば、自分が作っているものが良いものであると主張するよりもずっと多くの耳目を集めやすいという状況があります。それを利用して、本当にはなかったひどい扱われ方をしたという情報を作り出しているような人がいるように感じてしまうんですよね。

 別にそれをすることがそんなに悪いとは思っていなくて、それにインターネットの社会が強く反応してしまう状況がある以上、どうしようもないのかなと思います。ただそれはきっと多重構造になっていて、「ひどい人がいて、それを否定する」ということには、その話を最初に作り出した人だけでなく、広めようとしている人たちにもメリットがあることだと思います。だから根深い話だと思っています。

 

 このように、「自分たちが正しいことを証明するための、一番簡単で効果的な方法が、自分たちとは真逆の立場の間違い方が分かりやすい人を否定する」ということになってしまうということは、実は共犯関係と言えるのではないのかなとも思ってしまいます。

 それは結局、いつまで経っても、自分達とは異なる側に分かりやすく間違っている人が必要になってしまうので、分断が存在し、問題が解決しないことが最適解になってしまうんじゃないかと思っていて、その状況がいいとは思えないなという気持ちがあります。

 

 そういうことを思ってから、自分が正しいことを証明するには、正しいことが世の中に増えるように行動して振る舞っていくしかないなという諦めのような感情があります。間違っている人を探すことをいくらしても、そういう人がただ見つかり続けるだけだし、自己主張に利用するために、むしろそういう人を優先的に探さなければならなかったりするように思ってしまいます。

 それはある種の最適解なのかもしれませんが、そんなことをずっと続けてもしかたがないなという疲れた気持ちが出てきました。

 

 誰も彼もをバカだと言い続けている人が一番賢い人でしょうか?そんなことないですよね。賢くあるためには、賢く行動をし続けなければならなくて、でも、それはコストの高い行動です。だからといって、それを他人を否定することによって達成しようとするのは、即物的には意味があっても、結局現状を維持をしてしまうだけで、自分が解決したいことを解決することには繋がらないのではないかと思うようになりました。

 

 これらのような最適化は、挙げれば他にもいくらでもあります。僕が見ている範囲のインターネットという社会にはある種の偏りがあって、そして、その偏りに合わせて無意識に最適解となる振る舞いをしてしまうようになっている自分に気づくことがあります。

 そして、同じように最適解を読み取っている人と、似通った発言をしてしまっていることもあって、これがこの社会ではきっと正しい振る舞い方なのだなと思ったりします。

 

 そうであることは別に何も悪くはないというか、それを悪いと言うのは、結局その自分の足場を別の社会に移しているというだけの意味しかないんじゃないかとも思います。

 でも、自分が最適化するのはここでいいんだろうか?という疑問が常々あって、そして、社会の側に自分の正しい振る舞いが規定されて、それを再生する装置にしか自分がなっていないんじゃないか?という疑問を持ってしまうと、色んなことを虚しく感じてしまうようにも思いました。

 

 なので、一回全ての社会性を捨ててみて、自分がどう振る舞いたいのかについて、それが今足を踏み入れている社会における最適解とは異なっていても、自分がどうしたいかの方を優先させて、ぶつかるところはぶつかってみてもいいんじゃないかということを思っています。

 でも、それで結局揉め事が生まれて疲弊してしまったりもするんだろうなとか、そういうこともぐるぐる思っています。

 

 インターネットへの最適化された振る舞いによって、僕の人間性が実態よりも良く見えてしまっていると、結局実際はそうではないことにがっかりされるのは自分だなと思って、ある程度内面を露悪的に出すことで牽制していきたいなという気持ちがあります。

 そして、矛盾するようですが、自分の内面が別に良くはないとしても、それでも他人と接する部分に対しては、良く見せていきたいと思うことが人間の祈りだなと思ったりもしています。結局、内面なんて直接見ることはできないのだから、その人が他人に対してどのように接したいかと思うことそのものと内面をそんなに切り分けることができるのか?と思うからです。

 あんまり良くない例示かもしれませんが、どれだけ人を殴りたいと日頃思っていたとしても、それでも殴らないと決めていることが人間性であって、そして、死ぬまでその内面を発露することがなければ、それはきっと人を外面が内面よりも強かったという話だと思うんですよね。

 

 このように、自分の中でもどのようにするべきかの考え方が一本筋に固まっているわけではありません。でも、考え方を変えてみれば、この揺らいでいる状態が一番いいのかもしれません。たったひとつの正しいやり方が決まってしまえば、それは結局その方法に最適化されるきっかけになってしまうからです。

 ある場所に最適化され過ぎると、別の場所には適応できなくなるかもしれません。僕の考える人間の強さは、その揺らぎを上手く使って、色んな社会の色んな状況にどこでもそれなりに対処できるようなものです。そういう風にやって行けると、一番自分が嫌な気持ちにならずにやって行けるような気がするからです。

 

 分かりませんが。