漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「レディプレイヤー1」をさっき観て来た関連

 1時間ぐらい前に「レディプレイヤー1」を観たので、感想を書きます。

 

 「バーチャルリアリティ」という言葉は日本では「仮想現実」と訳されますが、これは誤訳とは言わないまでも不適切ではないかという話があって、バーチャルという言葉を辞書で引いてみると「事実上の」とか「実質上の」というような訳語が出て来ます。

 つまり、日本語におけるバーチャルは「あるようでない」ですが、英語におけるバーチャルは「ないようである」というような意味なのでニュアンスが異なります。

 この訳し方の違いが日米でのバーチャリリアリティの受け取り方に差を生んでいるというような話を聞いたことがあるのですが、レディプレイヤー1を観る限り、それはあるのかもしれないですけど、そんなに大した差ではなくて、アメリカでもバーチャルリアリティは現実ではないのに、それにのめり込んでしまう人間に対する危惧という日本と変わらぬ認識が全然あるんだなと思いました。

 

 レディプレイヤー1は、「OASIS」という仮想現実空間をプラットフォームとして、様々なゲームをやれるようになった近未来のお話で、人々はときに現実の生活をおろそかにしつつゲームにのめり込んだりしています。

 この状況をさらにややこしくするのはOASISを作り上げた人物、ハリデーの遺言です。ハリデーはゲームの中に3つのイースターエッグを埋め込み、それを全て手に入れた人物にOASISの所有権を譲渡すると言ったのです。OASISの資産価値は天文学的な数字であり、人々は宝探しのために、よりいっそうゲームにのめり込んでしまうのでした。

 

 この映画を観ていて、なんだか大変満たされた気分になっていたのですが、それは、この映画の中にたくさんの「好き」が詰め込まれているからじゃないかと思います。この映画の中には多数の実在のキャラクターやアイテムが借用されて登場し、それらはおそらくはユーザがOASIS上で使うために自分で作ったり誰かに作ってもらったりしたものでしょう。なぜ、そんなことをするかといえば、そのキャラクターやアイテムが好きだからでしょう。

 それが後半に物量でおしよせてくる場面があります。これは未来の話ですから、僕が知っているようなキャラクターたちは作中の彼ら彼女らにとってとても古いものでしょう。しかしながら、それをなお愛して手間ひまかけて作ってまで使いたいと思う人たちがいるというあの状況が、とてもいいなと思ったわけです。

 

 この物語は虚構と現実の境目のまたぎ方についても描いているように思いました。ハリデーがOASISを作ったのは、社会が苦手だったからだと語られます。だから、他人と触れ合わなくてもいいゲームの世界に耽溺していたのだと。それはとてもよくわかる話です。なぜなら僕もまた同じような人間だからです。

 しかしながら、自分の死期を悟ったハリデーは少し考えを変えます。それが彼がOASISに仕込んだイースターエッグであり、彼がそのとき何を思ったのかが、ゲームの中で語られるわけです。

 

 それはつまり、リアルとリアリティの話です。僕たちが生きるこの世界はリアル(現実)で、ゲームの中はアンリアル(虚構)です。ではリアリティ(現実感)とは何かと言えば、それはどちらもそうなのだというわけです。リアルの中にもアンリアルの中にもリアリティはあり、大事なのはそれが現実なのか虚構ではなく、そこにリアリティがあるかどうかだというわけです。

 これは個人的にとても得心がいく話で、大切なのがリアリティだとするならば、虚構も現実も同じです。虚構というのは現実の代替ではなく地続きであって、その中で生きて来た作中の人々も、同じように生きて来た僕も、そしてゲームを一切せずに生きて来たような人々も、同じリアリティの中で生きているということです。

 現実に生きる中で虚構が無意味と言えないように、虚構で生きていたとしても現実は無意味とは言えません。虚構があれば現実は要らないのではなく、現実があれば虚構が要らないのではなく、どちらも同じリアリティの中の話であって、その両方を生きることをしているのだなと思いました。

 

 とはいえ、映画の中の人たちはゲームでも立派にコミュニケーションしているように思えて、ネットゲームを向こうに人がいるという事実に辛くなってしまって続けられないような自分のような人間はどうすればいいのか…と思ってしまうということもあります。

 そういえば昔、友達に誘われてウルティマオンラインを始めたとき、友達に導かれるままに高価な装備を融通してもらい、他のプレイヤーを狩ったりしてなんとなくやっていたら、友達の友達に、「君はよくない人のせいでよくないプレイをしている」と諭されたことがあり、ああ、少年兵とかってこんな感じなのかなとか思って、その後、なんか辛くなってやめてしまったりしたこととかがありましたね。

 

 あと、僕といえば漫画ばっかり読んでいて、他の人たちがちゃんと人付き合いして社会に参入しているときに、ひとりで物語の世界に潜り続けて育ってきたわけじゃないですか。これが悪いのかというと悪いのかもなと思っていましたが、前述の考え方で言えば、これでもちゃんとリアリティの中で生きて来たようにも思うんですよ。

 僕は漫画もコミュニケーションの一形態だと思っていて、描いている人は、何らかを他人に伝えようと思ってそれを描いているわけでしょう。それは、言葉で直接やりとりするのと比べれば回りくどくてややこしいのかもしれませんが、本質的には言葉を交わすことと漫画を読むことにはあまり差がないのではないかと思っていて、そういうリアルタイム性も単純な双方向性もない、ゆるやかなコミュニケーションをすることが、自分にとっては大切だったんだなとか思うわけですよ。そこにもリアリティはあったと思うからです。

 

 そして、ゆるやかながらも社会に参画するようにもなり、自分自身の経験が増えてくると、描かれていたのに読み取れていなかったものにも気づけるようになってきます。

 このように現実と虚構は補完関係にもあるという感覚は個人的にすごくあって、現実があるから虚構はいらないとか、虚構があるから現実はいらないとかは極端な考えであって、両方とも地続きで同じリアリティのあるものという中で生きて来たんだなと思ったりします。そして、この映画はそんな人が数多くいるということを示してくれているようにも思えて、それがすげえよかったような気がしました。

漫画を描いたのでコミティア124にでます

 漫画を描いたのでコミティア124に出ます。

  • 日時:5/5(土)11:00〜16:00
  • 場所:東京ビッグサイト 東4・5・6ホール
  • スペース番号:し35b
  • サークル名:七妖会

  今回の新刊は、以下のエントリでも書いた全部消えてしまったやつを、イチから描き直したものです。描き直せてよかったですね(…3週間かかりました)。

mgkkk.hatenablog.com

 

 タイトルは「千年幸福論」。例によってamazarashiの曲からタイトルをとったヤクザ漫画です。以下に途中まで上げました。

 この漫画がどういう漫画かというと、僕の頭の中の漫画です。自分を外から見ると明白な判断をしていても、自分の中としてはぐちゃぐちゃに迷っていたりすることも多々あります。例えばAとBという対立する結論があったとき、Aを選ぶかBを選ぶかの決断はできるじゃないですか。でも、仮にAを選んだとしても、自分の頭の中ではAが100のBが0というわけではなく、場合によってはAが55のBが45みたいなことだってあります。

 このようなときに、自分の頭の中のAを選ぶ人と、Bを選ぶ人を別々のキャラクターとして分離してみて、言い争いをさせてみたらどのような結論に至るんだろう?ということを考えながらやってみたのが今回の漫画なのです。なので、漫画としての出来はともかく、僕の日記としては描けたと思っていて、たぶん何年かあとに読み直したら、このときはこういうことを考えていたんだなということが封じ込められた感じだなと思います。

 

 入稿も振込も終わったので、僕が5秒後に死んでも本はでます(…印刷所が爆発したらでないかもしれない)。よかったら、5/5(土)に東京ビッグサイトまで来て下さいよ。な?

「好き」と「嫌い」は等価な裏表かどうか問題

 何かが好きという感情を僕が大事にしていて、同時に何かが嫌いという感情も大事にしています。自分には好きなものとか嫌いなものとかあるわけですが、嫌いなのに好きと言わないといけないとか、好きなのに嫌いと言わないといけないことが多いとストレスがあるので、それをできるだけしないようにしたいと思っています。

 

 これはハンターハンターにおける念能力の系統のようなもので、自分の特性とは異なる系統の能力を身に着けようとすると、自分の容量を無駄遣いしてしまい、そのように居続けるだけで手一杯となってしまい、疲弊してしまうのではないかと思っているのです。なので、自分が対外的に発揮する能力は、できるだけ自分の特性と一致させておきたい気がしています。

 つまり、好きなものを嫌いと言ったり、嫌いなものを好きといったりしたくないわけです。

 

 それは別にそれでいい話じゃないですか。好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言うだけのことです。しかしながら、そこに他人が関わってくると厄介なことが起きる可能性があります。なぜなら、自分の好きと他人の好き、自分の嫌いと他人の嫌いが一致する保証はないからです。

 

 自分の嫌いが他人の好きの否定ととられてしまったり、自分の好きが他人の嫌いの否定ととられてしまったりするとそこに摩擦が生じます。人は別に他人と一緒である必要はないので、それぞれの人が別々の何かを好きだったり何かを嫌いだったりすることはしょうがないじゃないですか。でも、そこで摩擦が生じてしまうことは実際には多々あって、お互いに相手に「わたしの感性をあなたは否定するのか?」と言ってしまったりすることもあります。

 

 自分の好きなものを嫌いな人と一緒にいたり、自分の嫌いなものを好きな人と一緒にいることが苦痛と感じてしまうなら、一緒にいること自体が苦痛になってしまいます。そういうとき、相手に自分が好きなものを好きになり、自分が嫌いなものを嫌いになってほしいと思ってしまうことは、悪とまでは言い切れないでしょう。でも、それが結果的に相手に、自分の本心とは異なる態度を強いるのであれば、それは何かしら暴力として捉えられるのではないでしょうか?なぜなら、その行為は、自分の感性を曲げたくないからという理由で生じ、相手の感性を曲げさせるという行為となるからです。

 つまり、相手と自分が対等ではありません。自分が主であり、相手は従であるという考え方です。

 

 このように考えたとき、ひとつ気づくことがあります。自分の中で「好き」と「嫌い」は等価な概念でしょうか?何かを好きということと何かを嫌いということが同等ではない場合、他人の「好き」と「嫌い」との接し方にも歪さが生まれてしまうのではないかと危惧します。

 例えば「好き」が100万パワーで「嫌い」も100万パワーだとすれば、相手の「好き」と自分の「嫌い」は相殺されるものですが、「好き」が1200万パワー(両手に好き、2倍のジャンプ、3倍の回転)で「嫌い」が100万パワーだったとしたら、相手の嫌いが自分の好きの12倍の熱量でない限りは、自分の「好き」で相手の「嫌い」を塗りつぶしてしまうでしょう。

 

 こういうことを具体例を挙げて考えてみると、自分の中の「好き」と「嫌い」が等価の概念ではなさそうだということに気づきます。

 

 自分が何かを「好き」と表明したときに他人に「えー、俺はそれ嫌い」と言われたら、すごく嫌な人だなって思ってしまいませんか?少なくとも僕は思ってしまうんですけど、一方、他人が何かを「嫌い」って表明したときに「えー、僕はそれ好きだけど…」って言ってしまうことがあります。でも、これ、「好き」と「嫌い」を等価な概念だとしたら、同じ行為じゃないですか?でも、片方は嫌だと思って、もう片方がやってしまうのだとしたら、つまりきっと自分の中では「好き」と「嫌い」は等価じゃないんだなって思うんですよね。

 

 このように自分の感覚として、「好き」の方が「嫌い」より強い概念だとすると、これを利用したハラスメントを意識せずにしてしまうかもしれません。自分がそういうことをしていることに気づかないと、反省するきっかけがありませんから、歯止めが効かず、やり過ぎてしまったりするじゃないですか。

 

 前述のようなシチュエーションでは、他人の「嫌い」に対して「好き」で反論をしているわけですが、こういうときの意図としては、自分が好きなものについて、嫌いという話題で場が盛り上がったりする状況にいるのが耐えられないという気持ちがあるからです。そのために釘をさしてしまうような行動をとっているわけですが、じゃあ、逆に何かが好きで盛り上がっているときに、それが嫌いでたまらない人もまた耐えられないんじゃないかと思うわけですよ。

 何だか嫌だなと思う行為も、自分の感覚を逆転させて考えてみたらその人も辛いのかもなあと思ってしまうわけです。

 

 好きと嫌いがそれぞれ人にとってどれぐらいの重みを持ってるかとか分からないじゃないですか。自分の感覚を正解にしてしまうと、無意識に他人にそれを強いてしまうというおそれがあるわけですよ。もちろん、自分が他人に強いられるのも嫌です。

 

 でも、じゃあ、そのときの正解ってなんなんでしょうね?自分の感性と異なる話題で盛り上がっていたら、水を差すのも無粋だとその場を立ち去ればいいのかもしれませんが、実際そういう感じのことも多いんですけど、それは仕方なくそうしているだけであって、満場一致で選べる正解じゃないような気がするんですよね。

 

 こういうことを考えながら、僕はだんだんとオタク集団のようなものから遠ざかるようになり(何故なら他のオタクと感性が完全に一致するということはないから)、一人で好きな漫画読んで一人で好きなように漫画の話をネットに書いたりしてりゃいいやという気持ちになって暮らしています…。

 どうですか?これは正解ですか?全然正解じゃないと思うんですけど、これが一番ましだと思ってそういう感じになっています。

メタルギアサヴァイブはいいゲームだった

 この前、「メタルギアサヴァイブ」をクリアしました。既に買うことを決めていた「北斗が如く」の発売までのつなぎで何かゲームをしようと思って買ったんですけど、買う前は「メタルギアソリッドV」で使われたゲームエンジンであるFOX ENGINEや各種素材を再利用して作られたゾンビゲームという2つの印象だけしか持っていませんでした。

 

 思ったよりも難しいゲームだったので(僕にとっては)、なかなかクリアまで行かず、結局北斗が如くが発売してからもそちらに移らずにしばらく遊んでいたのですが、クリアしたときに、いい思い出がたくさんできたなと思ったので、これはいいゲームだったと思います。

 

 最近、僕がゲームに求めているのは思い出という感じがしています。以前、探偵ナイトスクープかなんかのテレビ番組にゲームが大好きなおじいちゃんが出ていました。そのおじいちゃんがゲームの話をするとき、ゲームの中であった出来事について、あんなことがあった、こんなことがあったと嬉しそうに思い出として語るのがすごくよくて、僕もそういう感じに遊ぶようにできるといいなと常々思っています。そういう意味で、メタルギアサヴァイブは、いい思い出がたくさんできたのでいいゲームだと思ったんですよ。

 

 メタルギアサヴァイブは、その名の通りサバイバルのゲームです。ワームホールに吸い込まれてやってきた謎の土地で、なんとか生き延びながら元の世界に帰るために奮闘するゲームです。このゲームの緊張するところは、装備を選んだり、クラフトをしたり、拠点を開発したりと、ゲームを操作しているあらゆる時間の中で、腹が減り、喉が渇いていくということでしょう。常に落ち着きません。そしてそれはゲームを開始してすぐが一番落ち着きません。

 なぜなら、ゲームを開始してすぐは、安定して食料を調達する方法も、安全な飲み水を用意する方法もまだ持ち得ていないからです。

 拠点の近くで仕留めた羊の肉を加工した数少ない食料を頼りに、飲めば嘔吐を繰り返す汚れた水を飲みながら周辺地域を探索します。そのうち、まともに呼吸できない塵の中を探索する必要があり、そこでは酸素すらも絶えず減少するリソースです。あらゆるものが減っていく中で、目的のものに辿り着き、入手し、加工し、生き延びなければなりません。塵の中では最初は地図も役に立ちません。なので、遠くに見えるわずかな明かりなどを目印に歩き回るしかないのです。留まることはそのままの死を意味します。であれば、先の見えない状況でも待ち続けるわけにはいきません。進むしかありません。これは、明確に設計されたゲームの作りでしょう。生き延びるためには、進み続けなければならないのです。

 

 空腹とのどの渇き、それに伴って落ちる体力、武器も損耗し、道具は消耗し、探索の中で戦う力はどんどんなくなっていきます。方角も分からず、迷ってしまい、なんとかその塵の海を抜け出そうと無作為に歩き回る時間、塵の海の中を徘徊し、見つかれば襲ってくるゾンビのような存在たち。その中で生き延びるということ、それは大変辛い時間でした。でも、なぜか、終わってみるとその時間のことをよく思い出すわけです。あれはとても楽しかったと。

 

 このゲームは最近のゲームにしては不親切です。探索先で死んでしまえば、近隣からすぐにやり直せるわけではなく、旅立つ前の拠点まで戻されてしまいます。これが辛いわけですよ。同じミッションに何度も失敗したときには、またそこに辿り着き、資源を回収しつつ深く潜るまでの同じ行動を何度も繰り返さなくてはいけません。にもかかわらず、初めて探索する場所には未知の仕掛けがあり、うっかり死んでしまうこともしばしばです。

 僕はゲームが下手なので、このゲームの上手い進め方を習得できるまで、何度も何度も死んでしまったりしており、これがかなり辛かったんですけど、これも今思い返せば、あれが面白かったと思っていることに気づきます。

 また、実は救済策はちゃんとあり、その場で復活できる蘇生薬がログインボーナスなどでまれに手に入るので、それに気づいてからはかなり気持ちが楽になりました。

 

 あと資源が足りない系の問題はシングルプレイと並行して、マルチプレイの方にも行くことで報酬として手に入ったりします。

 

 水を浄化する設備や、安定して食料を供給できる設備は、ゲームをそこそこ進めなければ手に入りません。それまでは、ずっと食糧の不安に苛まれ、走り回るネズミを見つけては嬉々として捕まえて焼き、リスクのある水を飲んでしまってトシャトシャしながら、健康不良優良傭兵として元気に探索して、地図を埋め、設備を発見し、資源を集めて拠点を強化していきます。新しい武器レシピを発見し、レベルを上げてスキルを開放して、どんどん効率よくゾンビのような生物を倒していけるようになります。

 進めていけば仲間も見つかります。でも、増えた仲間と生きていくには、さらなる食料や水の確保、医療品の確保なども必要です。

 

 メタルギアサヴァイブの遊びはその繰り返しです。だんだんとできることが増え、ある問題が気にならなくなると新たな問題が発生し、段階的に悩みが変化していきます。新たな武器の入手やスキルの開放で自分のも強くなりますが、敵の種類もだんだん増え、新しい戦い方を考える必要があります。また、強い武器は修繕にレアな資源が必要だったりするので、その考慮も必要です。ゲームの中に仕込まれている全部の要素が開放され、悩みがなくなってくる頃には、ストーリーは終了になります(クリア後にはさらなる能力開放や、強く巨大な敵と戦えるミッションもあります)。

 

 このゲームに何か他のゲームにはない特別な特徴があったか?というと、正直「これだ!」とは結構言いにくいんですが、でも、遊んでいた時間を今思い出すと、面白かったなという思い出がたくさんあるんですよ。

 食料資源を確保して生き延び続けるというループと、少しずつ探索して活動範囲を広げるというループ、スキルやレシピで段々と出来ることが増えるというループに、それに対応した新たな課題が出てくるというループが重なり合って生まれるハーモニーが心地よく、浸っている時間が良かったなと思う感じです。

 色んな失敗をして、からがら生き延びたこともあれば、死んで台無しになったりもしました。何度もチャレンジして前に進み、それを繰り返してエンディングまで辿り着くわけですよ。そこからこれまで歩いた道のりを振り返ったとき、その時の気持ちこそが、ある種のゲームの良さだと思うわけですよ。ゲームは思い出です。

 

 ワームホールに飲み込まれて別の世界に来たというトンデモナイ始まり方の物語も、このトンデモなさと従来のメタルギアシリーズに整合をとる形での終結を見ます。メタルギアソリッドVで登場したマップも廃墟として登場し、あれやそれやも登場し、メタルギアソリッドVを遊んでいたときの思い出もそこに重畳されます。

 

 メインストーリー上の最後の戦いは、結局5回ぐらいチャレンジしてやっと勝つことができました。大量にやってくるゾンビ的な存在を、たったひとりで殲滅しなくてはなりません。

 一体一体の敵はそんなに強くありませんが、大量にやってくると脅威となります。それをワームホール技術で金網を転送して足止めし、停滞させ、ダッシュで後ろから回り込んで槍の回転斬りで一気に攻撃するのが僕は好きで、大量に迫りくる敵を走り回りながら分断し、個別撃破し、大きなうねりになることをさせないようにします。それでも一人では無理な量が来ます。大量の資源を投入して機関銃で掃討したり、グレネードで爆破したりを繰り返し、拠点を防衛するわけです。弾は枯渇し、使えるものは何でも使ってひたすら敵を倒し続けます。

 最後の戦いは時間表示もなく、自分がいつまで戦い続けなければいけないのかもわかりません。これまで蓄えてきた資源と能力を全て使い、ボーナス的に与えられた資源も総動員して、とにかく大量の敵を倒す。一人で倒す。一人で殲滅します。でも、それは孤独ではありません。これまで歩んできた道で様々な人たちの協力を得て、獲得してきた力です。

 

 それを全部総動員するような形で倒し切り、物語も終わりました。かつてビッグボスとともに戦った名も知れぬ一人の兵士が、あるかもしれず、なかったことになった物語を生き延びていくゲーム体験でした。されど、クリア後もゲームはまだ続きます。

 

 とりあえず一旦やめて今は次のゲームを遊んでいる状況ですが、マルチプレイも楽しいので、まだまだちょくちょくやっていこうと思っています。

刃牙シリーズのこれまでのテーマとこれからへの勝手な期待

 板垣恵介刃牙シリーズは、「グラップラー刃牙「バキ」範馬刃牙」「刃牙道」と四シリーズ続いており、昨日第五シリーズの開始が示唆されつつ「刃牙道」が完結しました。

 では次に描かれるものは何であるか?ということの期待をしつつ、これまでのそれぞれのシリーズでは描いているものが明確に違うのではないか?と感じているので、その話をします。

 

 グラップラー刃牙は、地下格闘場でチャンピオンとして君臨する少年である範馬刃牙が、様々な格闘家と戦いつつ話が進み、最終的に世界中から様々な種類の格闘家を集めた最大トーナメントに繋がっていきます。このシリーズで描かれているのは、「誰が一番強いのか?」ということではないかと思いました。そしてそれは「勝った奴が強い」ということを裏付けとします。

 様々な勝利があり、様々な敗北があります。そしてトーナメントを勝ち進み、優勝者となった男が一番強いという結末です。ただし、それはトーナメントに参加した男の中では、という条件つきではありますが。

 もちろん優勝者は範馬刃牙、様々な格闘家の様々な強さが、プライドが描かれ、勝者の、そして敗者の美学が描かれました。

 

 これが次のバキになると、新しいテーマに移っていると思います。僕が思うに、そのテーマとは「勝利とは(あるいは敗北とは)何か?」というものです。試合形式で勝ちと負けがはっきりつく戦いと異なり、いつ始まりいつ終わるかも分からない戦いでは、勝利と敗北の条件が曖昧です。その日負けても、次の日に仕返しをして勝てば、それは勝ちでしょうか?あるいは負けや引き分けでしょうか?では、その次の日にまた負けてしまってはどうなるでしょうか?

 ここで、これまであった試合という形式は、格闘家たちにルールと明確な勝利条件という強い制約を与えたことで、物事の捉え方を分かりやすくするという特殊な状況であったことが分かります。本シリーズでは、とにかく勝ちと負けが分かりにくく、あるとき勝ったものも、そのあとで負けたりします。そして、あるとき負けたものも、その後勝ったりもします。強さは単純な不等号で表せるものでもなくなってしまいます。

 ずっと勝ち続けていたように見えたものが、実は負けを認めていなかっただけということが分かったりします。むしろ、負けることの方が勝ちよりも価値があるということが分かることだってあります。勝負で負けても、その際に与えた毒で相手が衰弱してしまえば、それは勝ちでしょうか?勝負に負けても、明らかに死ぬようなシチュエーションで、死なずに生き延びることができればそれは何らか勝ちなのでしょうか?

 勝ちと負けというのは、ある条件から見た判定に過ぎません。ルールが異なれば、勝ち負けの解釈は変わるかもしれません。同じ人々を見ても、誰が見るかによって勝ちと負けの解釈が反転することだってあるでしょう?強さを求め、勝ちを求めますが、ではそもそも勝ちとは何かと真面目に向き合ったとき、その勝ちという概念が意外と曖昧なものであることに気づきます。

 それゆえ、このシリーズは難しいシリーズだなと思いました。

 

 その点、次の範馬刃牙のテーマは、もう少しシンプルです。それはつまり「強さとは何か?」です。このテーマは、刃牙が父親である範馬勇次郎と戦うことを物語の到達地点として設定していることから来ていると思います。範馬勇次郎は本作の中で例外的に強い存在であり、その強さは本作でさらに加速しています。本来縮めなければ勝てないはずの勇次郎と刃牙の差は、むしろ開いているかのように表現され、とてもではありませんが、勝てる道筋が見えないままに最後の戦いに雪崩れ込みました。

 そこで出てくるのは「強さとは何か?」という問いです。何をどうすれば刃牙は勇次郎よりも強くあることができるのか?作中では「強さの最小単位」、つまり強さからできるだけ多くのものを剥ぎ取って、それでも最後に残るもの、それは「我が儘を通す力」であると語られます。相手よりも腕力が弱くてもいい、何度倒されてもいい、それでも自分の我が儘を相手に飲ませることができさえすれば、それは何らかの意味で強いわけです。

 刃牙は勇次郎に我が儘を通して見せ、そして、地上最強の称号を名乗ることを許されました。

 

 さて、ひとまずの終わりを迎えた刃牙シリーズが、さらに刃牙道として再開します。この物語は、クローンの技術と霊媒の技術により、現代に宮本武蔵が甦ったというところから話が始まりました。ある種の史上最強の存在である宮本武蔵が、現代の世の中で何をするのか?この物語のテーマは「強さの先に何があるのか?」ではないかと僕は思いました。

 現代の世の中の価値観に沿わない宮本武蔵がその強さ、つまり、我が儘を通す力を発揮したとき、その先に何があるのか?ということではないかと思います。

 武蔵はその強さゆえに、現代社会に様々な我が儘を通します。それにより人が死にました。そして、人を死なせないために守護(まも)ろうとするものもいました。

 この物語の結末について、僕はまだ整理がついていないのですが、結局のところ、人を殺す力に秀でた宮本武蔵は、現代の平和な日本では生きる場所がないということなのではないかと思いました。なので刃牙は、宮本武蔵をまた現代日本から追放します。

 

 人は強さを求めますが、強いことにどれほどの意味があるのでしょうか?強すぎることで何でも我が儘が通ってしまうということは本当に幸せでしょうか?そして、その周辺にいる人たちはどうでしょうか?刃牙道の宮本武蔵が強かったことには、何か意味があったのでしょうか?ひょっとするとこれは、とても悲しい話だったのかもしれません。

 

 さて、次のシリーズの鍵となるのは二代目野見宿禰だそうです。神話的な存在である野見宿禰を長い世代の果てに襲名できるほどの力を持った存在です。もしかすると、次のシリーズでは、「強くある」ということの意味を野見宿禰が見せてくれるのかもしれません。武蔵のときのような悲劇ではなく、今度は別の結末に辿りつくことを期待してしまいます。

 力があるということが、周囲に悲劇をもたらすのではないのだとしたら、そこには何があるのか?例えば範馬勇次郎は、世界中の強きものたちと戦うことで、ある種の神格化をされていました。勇次郎は弱きものを守ろうとしたわけではありません。しかし、強きものが弱きものを蹂躙しようとするとき、その強きものと戦う勇次郎の背中を弱きものが見ることになります。それはひとつの強さの在り方でしょう。

 しかしながらそれは、力が強いが悪いものたちとの対比でなければ証明できない種類のものでもあります。「ただ強くある」ということがもたらすポジティブな何かがそこに存在しているのならば見てみたい、僕はそういう期待をしてしまったりしていますが、全然そういう話ではないかもしれません…。

内輪ウケは世の中で最も面白いことのひとつという話

 何かの話をするときに内輪ウケの話をするっていうのは、嫌がられることが多い感じがするんですけど、僕が思うに内輪ウケは世の中で最も面白いことのひとつなので、やっちゃうことも多いです。

 

 僕の感覚として、興味を惹かれてしまうものは「ぎりぎり分かるもの」という気がしていて、明らかに分かるものや、全然分からないものはあまり夢中になれません。

 リンゴが目の前にあるときに「これはリンゴです」というのは明らかに分かるものですし、「これはバルモッサ(僕が今考えた意味不明の言葉)です」と言われても何がなんだかわからないというだけですが、「これはアダムとイブが食べたというリンゴと同じ品種なんですよ」とか言われたら、ちょっと興味を持ってしまったりしませんか?なんとなく聞いたことがあるけれど、自分はまだよく知らないぐらいのものがちょうどよく感じてしまったりします。

 

 つまり、興味を惹くためには、知り過ぎずか知らな過ぎずのギリギリの線を攻めることが重要になりますが、何を知っていて、何を知らないかというのは人それぞれなので、この辺りを攻めていくとしたら、必然的に内輪ウケに近くなっていくんじゃないでしょうか?なぜなら、ある集団に属していれば、ちょっとは聞いたことがあるぐらいのものというのを選びやすくなるからです。そのある集団とは、例えばオタクであったり、何らかの漫画やゲームなんかが好きであったり、というようなものです。

 

 内輪ウケはその内輪が狭くなればなるほど、ピンポイントでそのラインを突くことができるので、おもしろくなっていくと思います。しかしながら、内輪が小さくなれば、逆に内輪の外にいる人の割合もどんどん増えていきます。内輪の外の人が内輪ウケを見ると、ちっとも聞いたことないことなので、理解できないし、わけが分からないし、おもしろさはまるで伝わらないと思うんですよ。つまりバルモッサ(意味不明の言葉)ということです。

 

 内輪ウケがつまらないと思うのは、つまり内輪の外にいるときで、それは当たり前です。なぜなら意味が分からないのですから。意味が分からないのに、内輪の中にいる人達だけが面白がっているので、それは奇妙に思えるでしょう。こんな面白くないものを喜んでいる人たちはどこかおかしいとさえ思ってしまうかもしれません。

 

 では、そんな内輪ウケのものを楽しめるようになるとしたら、どのような方法があるかというと、これはもう内輪の中に入るしかありません。内輪の中で、その内輪の中だけで通用することを知っていけば、それまで意味不明だったものの意味が分かりますし、意味が分かれば面白くなってくるかもしれません。

 例えば、パロディにはそういう部分があると思っていて、分かる人には分かるんですけど、分からない人には分からないわけじゃないですか。それは知っているか知っていないかというだけの話なので、知っているから偉いとか、そんなものを知る必要があるのか?とかそういう話ではないと思うんですよ。ただ、たまたま知っていれば面白いし、知らなければ面白くないものだったりするというだけです。もちろん、別にそれを面白いと感じる必要もないわけですから、内輪の外にいてもいいはずです。その辺は人それぞれ好きな内輪に入ったり入らなかったりすればいいと思うんですよね。

 で、そういうことを考えると、世の中には入りたい内輪と入りたくない内輪というものがあると思います。その内輪の中にいる人たちが楽しそうで、自分も同じように楽しくなりたいと思えば入っていくでしょうし、その内輪が非常に排他的で、外から入ってくる人に冷たければ入りたくないと思ってしまうかもしれません。

 

 例えば最近では「ポプテピピック」なんかはすごく内輪ウケなものだなと思っていて、作中に登場するパロディにせよ、特に説明なくいきなり分かっているものとして出てきたりするわけじゃないですか。漫画やゲームならまだしも、インターネットで一瞬だけ流行ったもののパロディなんかは、同じ時期に同じものを見ていなければ、何年か経てば、何が元ネタであったかも分からなくなってしまうかもしれません。

 これも、内輪に入れば楽しいけれど、内輪に入らなければ意味不明、そういうものだと思っていて、それが楽しめるのは内輪にいるからだと思うわけです。なので、内輪の外にいる人たちが面白くないといってもそりゃそうだな、バルモッサだなと思う感じです。

 

 バルモッサ、適当に出した適当な言葉を繰り返し使っているものの、別に皆さんは面白くもないと思いますが、同じ文章の中で繰り返し見ていると、僕が適当な言葉に何かの意味を固着させて繰り返したら面白いと思っているんじゃないかということぐらいは伝わりますよね?これも小さな内輪です。

 そういえば、西原理恵子の「できるかな」シリーズのどれかで(鳥頭紀行の間違いでした)、「くそげろでばっこし」というギャグを漫画に入れたら、編集者から「意味不明」という校正コメントが入ったということがありましたね。でも、実際、ここだけ見たら誰にとっても意味不明ではあると思います。つまりそれは内輪の外にいるからで、内輪の中に入りさえすれば楽しかったりするんですよ。これが内輪ウケだと思います。

 

 内輪ウケの話、しちゃいけないみたいな雰囲気もあるとは思いますが、それはもちろん内輪の外から見たら明確につまらないからじゃないかなと思います。でも、一方、皆が入りたいと思える内輪を作れるなら勝利だなと思えるところもあり、どうにかコミュニケーションをとっている相手を共犯関係に持ち込んで内輪に引き込み、内輪ウケの話ばっかりしてやりたいなというような気持ちがあったりします。

いちご狩りと人生、あと若干の漫画関連

 人生をそこそこ生きて中年男性となり、自分の欲求と自分の外にある社会を上手く軋轢ないように適合させることも割とできるようになった昨今、どうしてもいちご狩りに行きたいという内発的衝動を社会と齟齬なく解消するために、この前いちご狩りツアーに行ってきました。なぜいちご狩りに行きたかったかというと、いちごが好きなんです。いちごをもいで食べたかったんです。

 

 

 いちご狩り自体はおなか一杯いちごを食べられたのですごく満足しました。ただ、ツアーに参加する中で、はぁー、いちご狩りはビジネスなんだなーと思い、そしていちご狩りは人生なのでは??とも思ったので、それも面白かったです。

 

 いちご狩りをビジネスとして継続するためには、いちごを食べ放題にするということにかかる費用が、参加費を下回る必要があります。また、毎日のように行われているいちご狩りに対して、いちごを供給可能な状態を保ち続けるという設備的な制約もあります。これらのことについてまず感じたのは、バスの中で行われた「いちごはヘタの付け根の部分が一番おいしい」というレクチャーでした。これは不思議に思ったのですが、根元の部分は赤くなるのも遅いですし、自分の実感としては先の部分と比べてそんなにおいしいということはないと思うんですよ。

 であれば、これは嘘です。無意味な嘘をつくとは思えませんから、これはきっとヘタの付け根の部分をちゃんと食べさせようとする戦略ではないかと思いました。つまり、甘みの強いいちごの先っぽの部分だけを食べて、残りを捨てるというようなことをさせないようにするための方便です。食べ放題を謳いつつも一人当たりが食べられる量をさりげなく制限することが重要なんだなと思ったということです。

 

 僕が参加したいちご狩りツアーでは、30分の時間制限とともに、場所もビニールハウスの半分だけに区切られていました。なので、今回の参加者がどれだけ食べたとしても、その範囲にあるものがゼロになるまで食べ尽くされるだけということになります。これはリソース管理上、重要なポイントでしょう。いちごの成長速度を考え、どれだけのいちごをどれだけ食べていいかということを上手くコントロールする必要があります。とはいえ、そこを重視しすぎて、時間がまだ残っていて参加者の腹もまだ膨れていないのに、いちごがゼロになってしまえば参加者に不満が残ります。となれば今後の集客に影響があるでしょう。なので、継続するためには、参加者に満足してもらわなければいけません。つまり、いちごの量と参加者の満足につり合いが取れるように調整しなければいけません。

 

 僕が参加したツアーには、いちご狩りの前に昼食の時間があり、そこである程度お腹を膨らませてからの参加となりました。これは重要なポイントで、僕が大学生のときの先輩のFさんも同じ技の使い手でした。居酒屋で何でもおごってやる!という太っ腹な話をしたあと、いったん松屋に寄って、まず牛めしを一杯食べさせられたのです。このように、あらかじめ参加者のお腹をある程度満たすことによって、少量のいちごでも満足し、自分から食べるのをやめさせるようにするというテクニックがあります。

 

 また、僕が言ったいちごのビニールハウスでは、畝にいちごが生えており、畝と畝の隙間が通路のようになっていて、そこを移動するという作りになっていました。これはどこまで意図したことかはわかりませんが、食い気の強い人が縦横無尽に移動していちごを先に食い散らかしてしまうということを避ける効果があったように思います。移動が多少不自由な分、自分が今立っている回りで食べるしかありませんし、移動するときには他の人が動いてくれるのを待ったりする必要もあります。とはいえ、畝を跨ぐように移動する人もちらほらいましたが。

 時間は30分ありましたが、25分ぐらいの時点で、大体の食べられそうないちごは食べ尽くされ、だいたいみんな満足して外に出ていたように思います。食べられなかったまだ青いいちごは残され、成長したのちにまた別の人たちに食べられるのでしょう。

 

 時間と場所が限られ、食べなきゃ損という状態で提示されると、食べられそうないちごは食べ尽くされてしまうということが人間の業のようなものを感じてしまってよかったです。絶滅動物の情報を図鑑などで読んでいて、人間が食べ尽くすってどうよ?って思っていましたけど、目の前でいちごがあっという間に食べ尽くされるのを見て、そして、自分自身が、食べられそうないちごはないかをうろうろ探して、ちょっとでも食べられそうであったなら食べてしまっていたのを思い出し、人間、マジやべえなという気持ちになりました。

 今回食べられていたいちごの中には、店頭にあったら食べられないようないちごも含まれていたと思います。きっと出荷する際には、見栄えのよいものだけが選ばれて、他は加工品などのような別の用途に使われたりするのではないでしょうか?でも、こと食べ放題のいちご狩りということになると、そんないちごも問題なく食べられていました。だって形がよくなかろうが、おいしいし、食べられるんだものという理由ですが、じゃあ、なんで店頭では選ばれにくいかって話ですよ。

 人間の心理は難しいなと思いました。

 

 また、綺麗に赤くなっていて一見おいしそうないちごがいつまでも残っていることがあります。それを手に取って確認してみると、裏側に虫食いのような穴があったりして、ああ、なるほどと思いました。一見よさそうなので、きっと何人もの人が一度手に取ってみて、それを確認し、食べるのをやめたということが推察されます。

 あと、状態がよさそうなのに、ちぎるだけちぎってそのまま置かれているいちごがあって、全然食べられそうなのですが、なぜか食べる気になりませんでした。誰かがちぎったのに、食べなかったということが、理由は分からないが自分も食べない方がいいのではないかという想像力を喚起するからです。

 

 いちごと「食べる」「食べない」という価値判断には、色々な要素があり、環境や状態や情報によって、結構食べる食べないに差が出てくるんだなという感じがしました。これって割と人生じゃないですか??

 人間が別の人間に対して、何らかの評価を下すとき、いちご狩りっぽいことになってしまったりしてるんじゃないかと連想してしまったりします。

 

 あるいは、これは漫画だったりもしませんか?出荷され、店頭で売られているいちごを、商業誌の漫画とすれば、いちご狩りのいちごは同人誌即売会の漫画かもしれません。商業誌と同人誌を比べれば、平均的な完成度は、様々な人の目を潜り抜けて出てくる商業誌の方が高いように思いますが、商業のシーンには出てこないようなタイプの漫画が同人誌即売会にはあったりします。それは劣っているというわけではなく、商業的なルールに合致しないだけの特別な漫画かもしれません。

 店頭にならんでいるのに人の目に留まらない漫画もあるでしょうし、店頭に並ぶことはないですが、即売会ではたくさん手に取られる漫画もあるでしょう。

 

 人が何かを選ぶということには、様々な条件があり、それぞれの特性に合致する適切な条件を成立されないと選ばれないということは一般的にあるんじゃないかと思います。実際いちご狩りツアーに参加するのと同じお金で、もっと赤くて大きい、立派ないちごをスーパーで大量に買えたりもします。でも、狩りたかったんですよ。その場でもいで食べたかったんですよ。そして、おいしかったし、満足してしまったわけじゃないですか。

 

 人生ですが、食べればおいしいいちごを、何らかの条件で手に取らなかったりすることも多々あります。でも、手に取るときもあるんですよ。それはそういう状況だったということで、手に取ったものが良いもので、手に取らなかったものが悪いものとも限りません。僕はそれを縁あったと思うことにしていて、おもしろいけど買ってない漫画とか、なんとなく買ってしまった漫画とかありますが、買ったのはただ縁があっただけ、そして縁があることは素晴らしいことだなと思っていて、この世にはまだ縁がないので手にとってはいないけれど、良い漫画がたくさんあるんだろうなと思ったりします。

 

 適当にいい話っぽくまとめましたが、いちご狩り楽しかったのでまた行きたいですね。中年男性がうきうきいちご狩りに行くの、世間的にはアレかもしれませんが、僕は一度経験したので、次からはさらに気楽に行けます。

 人生というものは何をするでも2回目が楽という傾向があり、そのためにも1回目を早めに経験しておくといいよなという知見がありますね。みなさんもまだ経験してない人は一回行ってみたらいいんじゃないですか?いちご狩り。