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ミスターサタンと嘘つきの発信力関連

 ドラゴンボールミスターサタンについてですが、歳をとるにつれていい役回りだなと思うようになりました。なぜなら、ミスターサタンは、ドラゴンボールの作中において主人公の悟空たちとは異なる世界観から登場した特異な人物だからです。

 

 ミスターサタンの初登場は、人造人間セルの主催する格闘大会、セルゲームへの参加者としてです。セルは放送局をジャックすることで世界に向けてその恐ろしい力を見せつけました。軍隊も歯が立たないほどの強さです。そして、ミスターサタンはそんなセルと戦うために登場しました。人類最強の救世主としての期待を背負って。しかし、もちろんその強さは普通の人間を逸脱しないレベルであり、セルに勝てるはずはありません。しかしながら、レベルが離れすぎているがゆえに、ミスターサタンやそれを支持する人たちにはその事実すら分からないのです。

 

 それはつまり、これまでのお話の中で悟空たちがやってきた戦いが、それがどれだけ世界の存亡を賭けた戦いであったとしても、世間からするとほとんど知られていないことであったということを意味します。例えばナッパが都市をひとつ戯れに破壊してしまったことなども、戦闘民族サイヤ人が地球に襲来したということを知らない普通の人々からすれば、ある日突然、謎の大爆発で都市がひとつ消え、そして、その原因は何も分からないということであったということです。世間でその理不尽で悲惨な出来事がどのように受容されたかが気になるところではあります。

 作中の世間で比較的知られていることと言えば、かつて世界を恐怖に陥れたピッコロ大魔王を倒した謎の少年がいたということぐらいでしょう。それにしたって、その少年の名前が孫悟空であったということは知られていません。

 

 ミスターサタンは、そんな普通の世界と悟空たちの戦う特殊な世界の橋渡しをするような存在です。

 

 ミスターサタンは虚栄心が強く、臆病で、都合が悪いことはセコくごまかすような格好の悪い男です。しかしながら、根は善良で正義感も強く、だから憎めない存在でもあります。

 ミスターサタンは、悟空と悟飯の親子が成し遂げたセルを倒したという功績を、虚栄心とお調子者感から奪ってしまい、そのため、世界の救世主と崇められるようになってしまいました。それはよくないことかもしれません。なぜなら嘘だからです。でも、悟空たちは世界の救世主として崇められるというようなことに価値を感じていないので、大した問題視もされず、なんとなく世の中的にはそういうことになってしまいました。

 

 魔人ブウ編では、このあたりの要素がより色濃く出てくることになります。つまり、ミスターサタンが普通の世界と悟空たちの世界の橋渡しをする存在であるということが物語の中で強く意味を持ち始めます。そして、ミスターサタンの虚栄心が生み出したものが、なんと世界を救う最後の一押しになってしまうということに皮肉と痛快さがあるように思いました。

 

 これはある種の「長靴を履いた猫」のお話です。最初は嘘であったことが、いつの間にか本当のことになってしまい、その本当になってしまったことによって、最初のただの嘘が不問にされてしまいます。これは嘘を推奨するよくない寓話でしょうか?でも実際の世の中にもそういうことがよくあります。

 例えば僕が仕事で何かを作るために他人にお金を出してもらうとき、金主に「何を作るか」と「それがどのような利益をもたらすか」という説明をします。それは乱暴に言えば嘘の話です。どんなに自信のある企画でも、その時点ではある程度嘘なんですよ。なぜなら、その時、まだ作っていないものが既にできているものであるかのように語るからです。その先、作る上でその時点では想定できていない未知の問題もあるかもしれません。なので、ちゃんとできあがるかもわかりません。そして、それが本当に利益を生み出すかどうかだってわかりません。でも、まだ作っていないそれがまるで事実存在しているかのように語られますし、そんな嘘を、予算と納期の範囲で本当にしてみせることがある種の仕事というものです。これは悪いことでしょうか?

 嘘が嘘のままになってしまうのが失敗したプロジェクトです。嘘が本当になってしまうのが成功したプロジェクトです。でも最初は同じレベルの嘘の話なんだと思うんですよ。結果が出たことが遡ってそれらの見方を変えてしまうというだけで。ただ、もちろん最初から騙す気まんまんの詐欺も存在し、それは確実に悪いですね。

 

 このように、世の中は意外と嘘で駆動していて、それがうっかり本当になってしまうことで大きく先に進んじゃったりします。ミスターサタンの嘘は人を騙す気まんまんの詐欺のような嘘ですが、それも最後に何故だか本当になってしまいます。それはたまたまとも言えますが、それでもその背後にはミスターサタンが積み上げてきたものがあるはずです。

 

 悟空たちの世界では、悪い敵をより強い力で撃退するということが当たり前です。それはそれで正しいことかもしれません。しかしそこには、少々の視野狭窄もあるでしょう。事実、ミスターサタン魔人ブウと友達になることに成功しました。誰もが力で撃退し、調伏しなければいけないと思っていた魔人ブウと、友達になることでもう人を殺さないという約束までさせてしまいます。

 これは悟空たちとは違う世界に生きてきた住人だったからこそ辿り着けた場所ではないでしょうか?ミスターサタンは弱いからこそ、強さで勝つ以外の選択肢に手をかけることができます。ただ、これも最初は嘘だったわけですよ。魔人ブウに嘘をついて取り入って、毒を食べさせ、爆弾で攻撃したりしたわけです。でも、そのどれも魔人ブウにダメージを与えることはできず、笑って流されてしまいます。でも、その交流の中で、魔人ブウミスターサタンは本当に仲良くなってしまい、これは結果的に役に立ってしまいました。正しくないことがうっかり役に立ってしまうのは面白い話です。

 その後、ミスターサタンが悪い人間に傷つけられてしまうことで、魔人ブウの中の憎悪が育ってしまうというのは皮肉な話ですが。

 

 世の正しさは、正しくあることを推奨しがちです。正しさを守り切れるなら、負けてもやむなしという価値観に至ったりしてしまうことだってあるでしょう?しかし、その考え方は、間違ったやり方で勝ってしまうということを許容してくれません。それは勝ったとしても悪いことということになります。

 でも、実際はあるじゃないですか、その間違ったやり方でも勝ってしまうということが。それについては、よい捉え方も悪い捉え方もあると思うんですけど、徹頭徹尾正しさに拘らなければいけないと思うことは、もしかして人の選択肢を狭めてしまうのではないでしょうか?

 そう、それは悟空たちが魔人ブウを力で倒すしかないと思ったようにです。

 

 ミスターサタンは、ことの善し悪しは別として、他人に自分の言葉が伝わる状況というのを作り、拡張し、維持してきました。これは悟空たちがあまりやってこなかったことです。やってる方が偉くて、やってない方が偉くないって話ではないんですよ。ただ、それをやっていなかった悟空たちに、やっていたミスターサタンがパズルのピースのようにがっちりハマってしまったことが面白いと思うわけです。

 魔人ブウを倒すために、地球人全体の力を借りる必要が生じたとき、悟空たちによる「地球を守るためにお前らが力を貸せ」という一方的な物言いは、むしろ反発を招いてしまいました。それも当然です。なぜなら、今まで伝えようとしてこなかったんですから。急には無理な話です。世の中でもよくあるじゃないですか。緊急時に必要なシステムが、緊急時以外に使われてこなかったことによって、いざ必要なときに使い方が分からないとか、上手く動かないとか、そういうことが。

 さらには悟空たちは正しいことをしているわけです。正しいことをしているとき、人は傲慢になってしまうことがあります。自分たちは正しいことをしているのだから、少々無礼な物言いをしても他の人は受け入れるべきだと。でも、正しさは無礼の免罪符ではないんですよ。

 そういう意味で、ミスターサタンは自分の言葉が伝わるように積み上げてきていたわけです。地域の防災無線が謎の音楽を定期的に流すように、それを日頃から使うことで動くことを確かめてきていたわけですよ。それは必要なときに安心して使えることを意味します。

 

 ミスターサタンの言葉によって、人々は悟空たちに力を貸す決断をし、その大きな力を得た元気玉魔人ブウを倒せるほどになりました。その栄誉はまたしても必死で戦った悟空たちではなくミスターサタンが得てしまいますが、今回は悟空もミスターサタンを本当に救世主かもしれないと表現しました。なぜなら、ミスターサタンの力によって、悟空たちだけでは成し遂げられなかったことを成し遂げられたからです。

 

 さて、これはよい話でしょうか?ミスターサタンがやってきたことはよいことでしょうか?僕が思うに、そうではないです。これがよく感じるのは、最終的によい結果に繋がったからであって、それがなければただのホラ吹き野郎の話じゃないですか。ただの名誉の簒奪者じゃないですか。これは悪いことですよ。でも、そんな悪いことが役に立ってしまう、世界を救ってしまうというところに個人的にある種の痛快なものを感じます。

 

 正しい考えのもとに、正しいやり方で、正しいことを積み上げてきても、それでも上手く行かないことが世の中には多々あります。そして、それをお世辞にも正しいとは言えない考えのもとに、正しくないやり方で、正しくないことを積み上げてきた結果が、そこになぜだかうっかり綺麗にハマりこんで上手くいってしまうなんてこともあり得るのが、世の中の多様さじゃないかと思います。

 世の中は多様で、それゆえにいい加減です。そして、そのいい加減な隙間にようやっと生きられる場所を確保できる人もいます。

 

 ミスターサタンというホラ吹きの積み上げてきた嘘が、たまたまの最高のタイミングで役に立ったということが、これまでの悟空たちが積み上げてきたことでハマりこんでしまった狭窄さから開放し、もっと自由でいい加減で大らかなものをドラゴンボールの物語にもたらしたように思いました。そこがなんだかいいなと思ったわけなんです。

 

 さて、なんでミスターサタンのことを考えていたかというと、「これからの漫画家は個人としての発信力も持つべき」というようなインターネットの話を見ていて、「漫画を描く」ということを極めるのは悟空の領域で、「個人としての発信力」というのはミスターサタンの領域だなと思ったからです。

 そして、そこで、作中に登場した悟空とミスターサタンポタラで合体した姿を思いだしました。作中では想像だけで終わりましたが、あれが実際に合体していたらどうなっていたんでしょうかね?どちらの能力も中途半端になってしまうのか、もしかすると両方を兼ね備えた存在が出来上がってしまうのか。

 

 合体して上手くいってもいいですが、人間は分業ができますから、そこを上手く連携できるといいのかもしれません。

 でも例えば、この場合の発信の担い手とはどんな人でしょうか?例えば、インターネットの人気者には、嘘情報ばかり流している人もいます。嘘はよくないことですが、そのような嘘がある種の面白さを持っているがゆえに、それを熱心に読んでいる人たちがたくさんいたりします。もし、その嘘ゆえの発信力が役に立ったとしたら、それを皆さんはどのように評価するでしょうか?

 つまり、嘘情報の継続発信によってたくさんのフォロワーを集め、強力な発信力を持ったインターネットの人がいたとして、もしそれが個人としての発信力は持たないがよい漫画を描いている人にスポットライトを当てたとき、それによって、その漫画がブレイクしてしまったとき、それを正しいと言っていいのか悪いと言っていいのか…それは判断が難しい話ですね。

 ある人は、役に立ったということを根拠に、その発信者を擁護するでしょうし、ある人は、普段の言動が嘘ばかりということを根拠に役に立っていたとしても非難するでしょう。でも、それが正しいゆえに人の目に触れず、間違っていたことによって人の目に触れるようになったとき、じゃあ、正しく人の目に触れない方がよかったと言っていいのでしょうか?僕にはここの捉え方に迷いがあります。

 

 ただ、現時点の僕がどうするだろうかというと、どちらかと言えば非難する側です。実際には具体的に非難はしなくても、よくないと心の中で思っているでしょうね。でも同時に、自分にその人たちを上回る発信力を持っていないということの無力さも感じてしまいます。この面白い漫画を色んな人に教えたいと思っても、僕が考える正しいやり方で発信してもそんなにたくさんの人に届いたりはしません。

 

 なので、僕は悟空ではないけれど、ミスターサタンにもなれないなと思います。別にどちらかになる必要なんてないわけですが、どちらにもなれないよなということを思ったりしたわけです。

 よいものが放っておいても見つけられて売れるなんていうのは、たまたま見つけられて売れたよいものしか見ていない人の感覚だと思います。僕がめちゃくちゃ好きで、めちゃくちゃよいと思っていても、大して注目されずになくなってしまったもののことを思ったりするわけです。

「辺獄のシュヴェスタ」に見る誠実さ関連

 辺獄のシュヴェスタ、めちゃくちゃよい漫画なんですけど、何がよいと感じるかというと、主人公エラの生き方です。

 

 彼女は幼い頃から、自分で考えた自分の正義に基づいて行動する子供でした。一方、世間では世間で共有された正義こそが正義であり、それに基づいて行動することが一般的です。であるがゆえに、自分たちとは異なる正義の原理に基づいて生きる人のことを、世間は狂人として扱ったりします。

 エラはその意味で狂っていたとも言えます。しかしながら、そのように自分の正義を執行するということ、その上でその正義にそぐわない他人をぞんざいに扱うということの暴力性を、義理の母親アンゲーリカが真剣に教えてくれ、社会との接点を獲得していきます。エラが義理の母に出会えたことは幸運です。実の母は、そんなエラの抱えるものを恐れるがゆえに、子を売りに出してしまいました。

 

 自分の目から見てどんなに憎むべき存在でも、その人の生を望む人が他にいるということ、それをないがしろにするということは、自分の大切にしているものを、他人に破壊されてしまう痛さと同じだということを学びます。粗末にしてよい命などない。それがエラが母から教わったことです。

 エラはそんな母を、人の命を粗末に扱う人々によって奪われてしまいます。

 

 魔女狩り、それは根拠がないものを根拠に仕立て上げるための正当化の手続きです。告発を受けた人は、どんなに弁明しようと、逃れられない手続きで魔女に仕立て上げられてしまいます。彼女は魔女である、なぜなら魔女であるから。バカバカしい同語反復によって、人間が魔女として殺されてしまいます。なぜ彼女たちは殺されてしまうことになったのか?それは彼女たちが何らかの意味で殺された方が都合がよいと考える人々がいたからでしょう。

 そしてそれは彼女たちが魔女だったからではありません。本当の理由は、もっともらしい理由に糊塗されて隠蔽されています。このように自分の都合を正義にすり替えることに躊躇がない、誠実ではない人々が優先的に利益を得ているのです。

 

 エラの母もまたその不誠実な流れに飲み込まれてしまいます。彼女は自分が魔女であると認めるのです。なぜなら、そうしなければエラが危険にさらされてしまうからです。彼女はまた、別の人物を魔女であると告発します。なぜなら、そうしなければエラが危険にさらされてしまうからです。彼女は魔女ではなかったし、別の人物も魔女ではありませんでした。それは嘘の話です。母にとっての本当の話は、エラに生きて欲しかったということでしょう?そのために彼女は嘘をつきました。自らを魔女と認め、罪なき他人を告発せざるを得なかった。

 この世は嘘にまみれ、自分の本心を丸裸で見せることがなかなかできません。それは悪いことでしょうか?そうせざるを得ないことは弱いことでしょうか?

 

 通称、「分水嶺」と呼ばれるその修道院には、親を魔女として殺された子供たちが集められ、過酷な生活を強いられます。エラもその中のひとりとなります。

 彼女の母を理不尽に殺した修道会の人々は、その少女たちを利用して、また別の人々を不幸に追い込もうとしています。それらは全て彼らの偉大で遠大なる目的のためです。彼らと同じ神への信仰によってこの世に安寧をもたらすため、一度人々に疫病という災厄をもたらし、そこからの自作自演の救済を演出しようとしているのです。

 

 その中で生きるエラの目的はただひとつ。修道会の実権をを握る総長、エーデルガルトを殺すこと。その目的のために彼女は様々な犠牲を払い、困難を乗り越えて行くのがこの物語です。

 

 辺獄のシュヴェスタが何を描いた物語かというと、僕の解釈では、「誠実であること」だと思っています。それはつまり、自分が成すことの意味を正しく捉え、ごまかさず、そのままに抱えて生きるということです。

 これは大変特異なことです。なぜなら、僕自身を含め、普通の人は自分の欲望をそのまま表には出さず、何かしら他人が受け入れやすくするための包み紙を用意した上で外に出すものだと思うからです。

 

 人と人との争いは、その大部分が「利害」の話だと思うのですが、語られるときはそれらがなぜか「正義」の話として表面上を塗り固められていると感じることが多々あります。それは誠実ではない話だと思うんですよ。ごまかしている話だと思うんですよ。そして、世の中は基本的にそういう感じなんだと思うんですよ。

 自分が利益を得るために主張していることを、社会的に正しい行為であるとすり替えて主張されるのは、その方が得だからだと思います。なぜなら、その正義が通るならば、他人に堂々と不利益を押し付けることが可能になるからです。

 ここで言う「正義」はとても狭い意味で、つまりは当人の中での辻褄です。どんなに客観的にわかる悪事をしている人でも、当人の中ではそれなりにそれを正当化する理屈が存在しているということです。つまり、多くの悪事は、正義の名のもとに行われます。例えば、それは法律違反かもしれない、例えばそれは、誰かを傷つけることかもしれない、だとしても、それをして十分と思える正しい理屈が当人の中にあるからするわけです。正しさは、行為を駆動するために焚きつける免罪符として機能します。

 注意しておくべきなのは、これは「だから正義が悪い」という話ではないんですよ。なぜなら、皆に利益をもたらす多くの善行だって、正義の名のもとに行われたりするからです。正義があるということは、ただの自己肯定であり、特にその行為の客観的な評価を意味しないということです。

 

 辺獄とは、洗礼を受けずに死んだ者が辿り着く場所です。洗礼を受けないということは人が原罪を抱えたままということです。エラは辺獄のシュヴェスタです。シュヴェスタ(女性修道士)でありながら、辺獄に辿り着く者です。それはつまり、神の御名のもとで罪を洗い流さず、そのまま罪として抱え続けているということではないでしょうか?そこにあるのは、自身が抱えた罪を、どのように取り扱うべきかを探求し続ける姿です。

 

 エラは総長エーデルガルトを殺すことを、何の正当化もしません。それは、ただの自分自身の「暴力」でしかないと結論します。その暴力は罪であり、彼女には自分自身が罪人であるということを受け入れる覚悟があります。エラはその場所に辿り着くまでに、いくつもの罪を犯します。それは、上手く理屈をつければ十分に正当化だってできるはずのものなのに、彼女は、それらを悪いことだと捉えます。それによって他人から憎まれ、恨まれても当然のことであると。

 その行為がたまたま価値あるものとして解釈できたとしても、それは自分の栄光ではなく、そのために犠牲になった人にせめてもの償いとして与えられてほしいと。

 

 この物語が洗い出しているのは、罪を犯さずに生きていくことなどほとんどできようがないということではないかと思います。生きている限り少なからず、誰かを傷つけ、誰かをないがしろにし、誰かを犠牲にしてしまうものではないでしょうか?果たして、それを完全に避けて生きることできるでしょうか?普通はそれを適当にごまかして生きているんじゃないでしょうか?

 それらはある種の洗礼と言えるかもしれません。誰しも、自分の抱えるはずの罪を洗い流してくれる便利な理屈を、生きてきた中でいくつも身に着けてきたているんじゃないでしょうか?

 

 便利な理屈の代表的なもので言えば「自業自得」という概念です。この言葉は自責の言葉に見えて、他人に対して使われるときには真逆に機能し、他責を強調する言葉になります。あなたが困難に陥るはめになったのは、あなたのこれまでの行いが原因であるという説明です。つまりそれは、「だから自分には全く責任がない」という意味になるのではないでしょうか?これにより、自業自得という言葉は、困難に直面する他人を助けないことを正当化する理屈として機能するようになりました。

 差別は悪いことだ、イジメは悪いことだ、当たり前です。みんな知っているでしょう?でも、差別やイジメに当たるかもしれない行為を全くせずに生きて来られた人がいるでしょうか?自分は全くしてこなかったという人は、別の人から見れば差別やイジメに見える行為に何らかの解釈を適用し、「だからこれは差別でもイジメでもない」と例外として正当化しているだけだったりしないでしょうか?

 

 自分が決定的な間違いを抱えた悪者として生きていくことは辛いことです。だからせめて、何らかの理屈をまとうことで、自分たちの行う行為をなんらか正当化し、罪を抱えることを避けるのが、気楽に人生をやっていくコツです。

 

 そしてそれは作中の修道会側の理屈でもあります。自分たちの崇高な目的が、そのために犯した罪を正当化してくれるという話です。そして、エラはそれをしようとしません。自分の正義のために犯した罪でも、罪は罪です。それは決して許されるものではないと抱えて生きる選択をします。これはそういう価値観の闘争だと思いました。

 この物語はエラの勝利で閉じますが、それは別にエラの考えが全てにおいて正しかったということは意味しないのではないかと思います。修道会の野望は潰えましたが、似たようなものは今後も生まれてくるでしょう。そして、誰しもがエラになれるわけではないのですから。

 

 この物語の救いは、罪を抱えるからといって、エラがその罪に相応なものとして自分の命を差し出すというようなことは全く考えないということでしょう。誰しも多かれ少なかれ罪を抱えているものだと思います。しかし、それを抱えたまま生きています(中には死を選ぶ人もいます)。ここにあるのは自分の抱えた罪をごまかして生きるか、認識して生きるかという違いです。

 死ぬか生きるかという選択では、僕は生きる以外が選べません。僕もたくさんの間違いを抱えて今までやってきたと思います。それでもやっていくわけじゃないですか。ただ、自分が何かを決断するとき、それを後押しする理屈は、自分の罪をごまかすものではないのか?を考えて、辺獄に片足だけでも踏み入れておくのもいいのではないかと思います。

 それがエラの生き方に感じ入ることがあった僕の心への誠実さだと思うからです。

人間は他人の仕事を適切に評価できるのか関連

 仕事をしていると人間の評価をどのようにするかという課題に突き当たります。なぜなら、その人の報酬はその人の仕事の評価に連動する形で決められた方がよいのではないかと思うからです。適切な報酬を支払うためには、適切な評価が必要ですが、果たして適切な評価とはどのようなものでしょうか?

 

 僕は人間から人間への評価というのは、ある種の意志表示だと思っていて、つまり、良い評価はその評価対象となることをもっとやってほしいということ、悪い評価はその評価対象となることをやってはいけないと表明していることと同じだと思います。でも、実際の評価ってそうなっているでしょうか?そうなっていないことも多いんじゃないでしょうか。

 仕事で人間の評価をする場合の辛いところは、全員が頑張ったからといって全員を高評価にできないということです。これがそもそもおかしいんじゃないか?と思うことがあるんですが、しかしながら基本的に人に報酬として払えるお金には限界があります。全員が頑張ったことで、事業収入もまた大きく増える種類の仕事なら別でしょうが、僕が関わってきた多くの仕事は、最初に予算がほぼ決まっており、その中でやりくりして利益を出す仕組みのことが大半でした。つまり、どれだけ頑張っても事業収入自体は固定的であり、その中から人に払えるお金の総額が決まってしまっています。赤字で続けるわけにはいかないからです。

 なので、同じ事業に関わった人の中でも、重要なことをした人に高い評価を、そうでもない人には高くない評価を付けざるを得ません。すごくよい仕事をしてくれた人がいたとしても、それ以上によい仕事をしてくれた人がいると、相対的には評価が低くなってしまいます。これはほんと良くないと常々思っているんですけど、全員に高い報酬を支払うことはお金の流れ的ににできないので、そこをなんとかしたいなら、そもそも事業でより大きく儲けることを考えなければいけません。

 

 やってほしいことは褒める、やってほしくないことは叱るというのは、他人に指示をする際の原理原則だと思うんですけど、世の中でたまに目にしてよく分からないと思うのは、やってほしいことをやってもらうために叱るというシチュエーションがあることです。叱るというのは基本的に行動を抑止する効果が強いと思うので、叱られたくないからやるというのは、つまり、「やる」ということよりも「やらなくて叱られるということを避ける」という目標設定ということになります。なので、「やってないことはないですよ?」というレベルのことしか結果は期待できないんじゃないかと感じてしまいます。

 

 やってほしいことをやってもらうためには、それをやってくれたことへの感謝を伝えるとか、褒めるとか、報酬を支払うとか、何かしら自分がそれを好ましく思っていて、もっとやってほしいと思っているということを当人に対して意志表明をする必要があるでしょう。また、それ以前のそもそもの問題として、相手がまずこちらにより高く評価されたいと思ってくれていることが重要です。

 これもたまに勘違いしている人を目にするんですけど、例えばインターネットでよく知らない人から「あなたがもっとこうしたら私は高く評価するのにな?」みたいなメッセージを貰ったとして、僕がだいたい思うのは、別にあなたに高く評価されたいとはちっとも思っていないですけど?ということです。だってよく知らない人だからです。もしそれが、僕が大好きな人であったとしたなら、ウワーッ!評価されたい!!この人にもっと好かれたい!!って思ってそうしてしまうかもしれません。でもそうでなければ、知らねえよ、お前誰だよって思うだけじゃないですか。

 

 報酬を支払うというのはそういう意味で分かりやすいです。人間関係的な下地がなかったとしても、より多くのお金を貰えることは、嬉しいと思ってくれる人は多いからです。なので、よい仕事をしてくれる人には、僕の裁量の範囲で多くのお金を支払えるように調整をしたいと思いますし、そこをちゃんとすることが次もまたいい仕事をしてくれることに繋がってくれるはずだという信仰を僕は持ち合わせています。

 

 余談ですが、事業が儲かっていないときには本当に精神的に辛くなることをしないといけなくなることがあって、例えば、その事業を継続するために、費用を削減することで採算性をアップしなければならない状況になります。そういう指示が経営層から来ます。そんなときに、すごくよい仕事をしてくれている人たちに対しても、何らか条件を従来から変更するなどして報酬額を少なくしてもよいか?という交渉をするはめになり、その窓口として立つはめになります。やりたくないです。でも、そんなやりたくないことを立場上やらざるを得ないので、その矛盾から精神的に負荷がかかります。でもやるし、やってきました。最悪だなと自分でも思うことがあります。

 

 人を評価するとき、その人の何を評価するか?ということが重要な部分です。それはよく人を見ておかなければならないことですが、ずっと監視しているわけにもいかないので、基本的には、与えた仕事をちゃんとやってくれているかということと、与えてないことでもやってくれたことを申告してくれたことの2本立てになります。申告してくれてないけど、やってくれていることというのも世の中には無数にあるんですけど、そこをよく見るのは結構難しくて、なぜなら、その人だけをじっくり見ているわけにはいかないからです。たくさんの人を見なければならないので、どうしても見落としも発生しますし、僕の場合は、やってくれたことは箇条書きでもいいのでできるだけ申告してほしいと伝えることにしています。もちろん、自主的にやってくれていることも見ようとはしています(でも、全部見れているとは言えない…)。

 できればやめてほしいのは、やってくれたことを一言も言ってくれないのに、その部分を評価してほしいとその人が思っていることなんです。僕自身もそういうところがあると思うのですが、自分がやったことをアピールすることが苦手だったりするケースもあると思うんですよね。でも、それはやっていかなければいけないし、その代わり、アピールしてもらったものは、ちゃんと考慮しなければいけないと思います。

 

 僕自身が評価される立場のときの話で言えば、僕が最初いた仕事場では、期末にする自己評価をベースにして賞与査定が行われる仕組みだったのですが、若い頃は自己評価の低さから、色々やっているのに平均ぐらいの点数しか自分につけていなくて、「おれは自分のよくないところも見えてしまうから、よい点はつけられないけれど、もし上の人がよいところも見つけてくれるなら、そこで加点してくれ~」というようなことを思っていたような気がします。でも、それはよくないわけですよ。そういうことをしてくれる上司もいますが、そうでない上司もいます。なんせ相対評価ですから、最初から低い自己評価をつけてくる人は、心理的な問題で低いままに据え置かれる可能性が高まるのです。高くつけてきた人を低くして、低くつけてきた人を高くするよりも、高くつけてきた人を高くして、低くつけた人を低くする方が気楽でしょう?

 結構一生懸命働いているのに、お給料があんまり上がって行かないな~と思っていましたが、それはそもそも自分が悪くて、まず自分が自分を低く評価してたらダメだ!!至らないところはあるにせよ、色々役に立つことをやってるやんけ!!とあるときやっと気づいたので、自分にバンバン良い点をつけるようにしたら、そこから年収がぐんぐん上がりました。馬鹿みたいな話ですね。仕事に取り組む姿勢はずっと変わらないんですよ?ただ他人に伝える自己評価の方法を変えただけです。

 

 黙って真面目にやっているから誰かが見ていて評価してほしいというのは、その環境ではあまり意味がないことであったと言えます。これがよくないのは、自分だけの問題ではなく、本当は重要な仕事をいくつもやっているのに、自己評価の低さから、その重要な仕事を大したことでないこととして申告しないので、それらの仕事が評価すべき重要なものとして仕事場の中で目に留まらない可能性があることです。

 全体の工程の中で、何が重要で、自分はいかにそれをやったかを明示するということは大切なことです。人が永遠に同じ場所にとどまることがない以上、人から人に仕事が引き継がれなければなりませんし、それらの仕事を大したことないことだ思って言わずに勝手にやっていたら、上手く引き継がれないですし、その後にやる人の評価まで落としてしまうかもしれません。

 評価される側は、評価する側に対して、自分はこれだけ重要なことをやっているのだから評価してくださいよ?されないならやりませんと明確に主張するぐらいでなければ、それが問題の火種に成りうるのではないでしょうか?そして、評価する側は、それを重要な評価対象項目として認識すべきだと思います(実は重要ではない場合もあるのかもしれませんが)。

 

 仕事は探せば無限に生まれますが、予算も人の稼働も有限しかありません。上手く仕事を進めるためには、取捨選択が必要です。つまり、その中でどの仕事が重要でどの仕事が重要でないかを考えなければなりません。そしてそれは、重要な仕事を評価し、重要でない仕事は評価しないということで達成すべきだと僕は思っています。でも、なかなかそうはならないですね。なぜなら、あらゆる仕事を全て把握して俯瞰して全工程を見るということは、プロジェクトが大きくなればなるほど人間の認知の限界を超えてしまったりするからです。

 

 仕事に従事している人をいかに評価するかということは、経営戦略や技術戦略そのものと言ってもいいぐらいに重要なことだと思いますが、それを上手くやることはとても手間がかかる上に難しいので、現実では、楽をしたいために適当な数値化しやすいKPIを定めて、それが達成されたかされてないかだけで評価してしまったりします。それもある程度はしかたないことです。評価する行為それ自体が大きなコストになる可能性もあるためです。なので、それ自体はそこまで悪いことであるとは思いませんが、では、数値化しにくいが重要な仕事というものはどのように評価すればよいのでしょう?そんな仕事だって沢山あるんです。

 多くの現場では、それらを責任感が強い人が評価もされないのに真面目にやっていたりするんじゃないでしょうか?あるいは、評価されないがゆえにおざなりになってしまい、それが原因で様々なトラブルが頻発したりすることもあるんじゃないかと思います。

 

 他人の仕事を適切に評価するということはとてつもなく重要なことで、そして、それを正しくやろうとするのはものすごく手間暇のかかることで、だからちゃんとやられていないような現場もよく目にします。でも、ここをちゃんとやらないと、どんどんおかしくなっていくと思うんですよ。特に昨今は働き方改革を求められている状況です。限られた時間で結果を出さなければなりません。そのためには、仕事の方針として、何をやるべきで、何をやらないで済ますかを決めることは、最も重要なことのひとつのはずです。それを規定する評価尺度が必要です。

 労働者はみんな賢いので、統計的に見れば、評価されないことを一生懸命やることはやめていきます。では、評価されることだけを一生懸命やったとき、そこから零れ落ちてしまう、本当は実際はとても重要だったことというのはないのでしょうか?

 

 それを最小限に留めるためにも適切な評価が必要です。そして、それをちゃんとやることはとても困難なことです。

 

 例えば、漫画や映画やゲームなんかでも同じ問題はあるのではないでしょうか?それらには良い要素と悪い要素があるはずで、それを体験した人たち個々人の価値観によってそれぞれ評価尺度があるはずです。全体だけを見て、おおざっぱな点数をつけて、神とかクソとか言われても分からないですよね?どの部分がその人の感性において良いと感じて、どの部分がその人の感性において悪いと感じたのか。それが精緻に表現されて初めて、それにどう対応するかということを考えることができます。

 その評価者により評価されたいと思えば、それをその人の感覚に合わせて直すでしょうし、その人に別に評価されたいと思わないと思えば無視してもよいでしょう。

 

 そういう思想があるので、僕は何かを読んだとき、観たとき、遊んだときなんかは、総じてのよいとかわるいとかいう話はあまりせず、この部分がこのように自分によく感じたとか、この部分がこのように自分には受け入れがたかったとかいう話をするようにしています。もちろんそれらは僕の感性でしかないので、それらの作品を作った人たちがその文を仮に読んだとしても、その僕の感性に合わせて直せばよいというものではないと思います。

 なぜなら。それは僕がそう感じたという話でしかなく、僕に合わせることで、他の人の感性から離れてしまうことだってあるからです。

 

 合わせてくれても嬉しいし、合わせてくれなくてもかまわないんですけど、それがどのように僕に響いたかということはできるだけ正確に表現したいということがあって、それが僕がやる評価ということになります。それを仕事でもやるんですよ。でも、それが本当に仕事を上手くやる上で正しい評価かどうかはいつもおっかなびっくりです。自分の評価尺度があまりにおかしくて、全てを破綻させてしまう可能性だってあるじゃないですか。

 

 できているかは分からない。でも、必要なのでやろうとはしているわけなんですよ。

「弱虫ペダル」の御堂筋くんが好きすぎる関連

 弱虫ペダルで一番好きな登場人物は誰?と聞かれたら断然御堂筋くんなんですけど、どこが好きかというと、セリフひとつに集約されます。

 

 「お前らには絶対分からん」

 

 この言葉が出てくる時点で、絶対に嫌いにはなれないという気持ちになります。

 これは運動も人付き合いも苦手な小学生時代の御堂筋くんが、初めて見つけた夢中になれるもの、自転車についての夢を授業で絵に描いたときの言葉です。そして、自転車の選手になりたいという小さな夢は、同級生たちに馬鹿にされてしまうのです。運動が苦手でひ弱な御堂筋くんが、そんなものになれるはずがないと。

 自転車の選手といっても競輪ぐらいしか知らない同級生たちが、自分の憧れるロードレースについて知りもしない同級生たちが、そんなものにお前のような運動が苦手な人間がなれるはずがないと侮辱してきます。そして、少年の抱える憧れに満ちた夢の絵の上に落書きをされてしまうのです。

 怒った御堂筋くんは体の大きな同級生を押します。でも、その同級生はびくとも動かない。代わりに押したはずの自分の方がこけてしまいます。力のない少年です。力がなくて、自分の意志を相手に追いとおすことすらできません。見下されているわけですよ。むかつくわけですよ。しかし、御堂筋くんは、自分の夢を侮辱した失礼で横暴な同級生に対して、その目をまっすぐ見返すことすらできません。そんな御堂筋くんが、吐き捨てるように言ったのがこの言葉です。

 

 「お前らには絶対分からん」

 

 それは自分と他人の決定的な断絶を意識せざるを得なかった子供の言葉です。それはこの世に誰一人として味方がいなかったとしても、ひとりで戦うことを決意した子供の言葉でしょう?

 そんな御堂筋少年にもたったひとりの理解者がいました。それはお母さんです。自分の気持ちをはっきりと表現することもできない内気な少年を、能動的に理解しようとしてくれた数少ない存在です。御堂筋くんはお母さんにだけは素直です。自分の夢を、望みを、決意を口にします。言葉だけじゃない、態度で、行動でそれを表現します。

 それは、病気のお母さんが入院する遠くの病院に、毎日のように自転車をこいで通い続けた日々の話です。

 

 そして、そんな御堂筋くんは、唯一の理解者であるお母さんすら失ってしまうのです。病気です。不幸です。何もすることができませんでした。お前らには絶対分からんことは、もはや、自分以外のこの世の誰にも絶対分からんことになってしまいました。御堂筋くんの背骨はその孤独でしょう。誰にも理解されなかったとしても、この世で唯一自分だけが自分を肯定するということ、その強烈なエゴイズムこそが、御堂筋くんのペダルを回す駆動力なのだと思います。

 

 弱虫ペダルにおける御堂筋くんの登場は、今泉くんのライバルとしてのものです。主人公の小野田くんを自転車に引き込むきっかけとなった今泉くんは、卑怯なやりくちで自分を負かした御堂筋くんを敵視しています。そして、作中に登場した御堂筋くんの第一印象は「嫌なやつ」です。いや、第一印象ではなく、登場時から今に至るまで、御堂筋くんは一貫して嫌なやつでしょう。

 そしてそれは、自分の目的を果たすためには、誰にどう思われてもかまわないという孤独の現れです。誰になんと思われようとも、「勝つ」という誰の目にも疑いようのない純然たる結果だけが、辿り着くべき場所となってしまっている、強さと悲しさの同居した人間性の発露です。

 

 誰に何と思われようと、自分の中にある一個の宝石が揺るぎなくあるわけでしょう?それを曇らせるぐらいなら、周囲の理解なんて全く無視してもいいということですよ。それが世間一般で正しいというわけではありません。ただ、御堂筋くんがそういう人間だということです。自分の中の大切なものを守り抜くことと、周囲の人々に理解されることが全く釣り合わないような価値観を獲得してしまった人間であるということです。そういう人生を歩んできたということです。

 お話を読み進めていけばいくほどに、御堂筋くんというこの嫌な男が、何にこだわってくるかが分かったような気持ちになってきます。すると、過去の嫌な発言も、嫌な行動も、その全てが理解できたような気持に変化してきます。あんなに嫌なやつだったのに、いつの間にか理解したような気持ちになるのです。

 御堂筋くんにとっては、勝つことこそが全てなのだと。

 その方法にこだわれるほど濁ってはいないわけです。方法にこだわってしまったからこそ、勝利を逃すことの方が恐ろしい話です。だから、勝てる確率を1%でもあげるために何でもします。それが、他人に卑怯と罵られることだとしても、正しくやって負けるより、卑怯でも勝つことの方が御堂筋くんには重要だからです。

 

 普通はこうはなり切れないわけですよ。レースには一握りの勝者と、それ以外の無数の敗者がいるだけです。勝つためには勝たなければいけません。それがどんなに他人に非難されるようなやり方だったとしても、それをやらずに、正しく負けるより、それをやって間違ってでも勝つことを望むことはそんなに悪いことでしょうか?

 それは見方を変えれば、決して諦めないということです。格好よく負けるよりも、無様でも勝とうとすること、それは笑われてしまうことでしょうか?ひょっとしたら、そんな御堂筋くんを笑うことは、小学生の御堂筋くんの夢を笑った同級生たちと同じことをしているのではないでしょうか?

 

 しかしながら、1年生のインターハイの最後、御堂筋くんは負けてしまいます。少しでも空気抵抗を減らすため、シャツもレーサーパンツもまくり上げ、異様に小さな自転車を使って奇妙な姿勢で必死で絞り出すように自転車を漕ぎ続けます。その姿を見た観客たちは、御堂筋くんを気持ち悪いと表現します。でも、それが何でしょうか?どんなに気持ち悪く見えたとしても、それをやらずして諦めなかったわけじゃないですか。最後の一滴を絞り出すまで、いや、それを絞り出し切ったとしても、それでもまだ勝とうとした姿じゃないですか。

 御堂筋くんは、他の選手に対して「キモい」という言葉を使って罵倒します。ひょっとしたら、それは自分自身が気持ち悪いと言われ続けてきたことの裏返しではないでしょうか?自分が言われた罵倒を、自分が他人に使ってしまう悲しみです。周囲の人々は御堂筋くんを気持ち悪いと思うかもしれません。でも、御堂筋くんからすれば、そうではない他の人々こそが気持ち悪いという話です。なぜ勝とうとしないのかと。

 

 かつて御堂筋くんが今泉くんに対して伝えた「お母さんが危篤である」という嘘は、今泉くんにショックを与えてしまいました。それで今泉くんは負け、御堂筋くんは勝ちました。それは卑怯でしょうか?卑怯かもしれません。いや卑怯ですよ。でも、御堂筋くんはそれでも走ったわけですよ。自分のお母さんが、それは嘘ではなく本当の話で、自分の唯一の理解者であったお母さんを失ったとしても、ペダルを漕ぐ力を緩めることなく勝ってきた過去があるわけじゃないですか。

 自分はお前たちとは違うということを御堂筋くんは全存在をかけて主張し続けます。その孤独と孤立こそが、御堂筋くんという存在そのものであるかのように思えます。

 

 御堂筋くんは京都伏見高校の自転車競技部を1年生でありながら乗っ取りました。他の部員を自分が優勝するための道具として使い、使い終わったらポイ捨てして、それでも勝利を目指します。そんな御堂筋くんと最後まで走ったのが3年生の石垣くんです。彼は自分たちがやってきた部活を乗っ取った御堂筋くんに思うところがあるでしょう。代々受け継がれてきた部活を、たったひとりの男の野心のために台無しにされてしまったからです。

 しかし、そんな石垣くんは、御堂筋くんと走りながらこう思うようになります。

 

 「お前は純粋やな」

 

 それは、誰よりも勝ちたいと願った御堂筋くんを理解した言葉です。ただ勝つということ、それだけのために動く穢れのない存在です。仲間と仲良くやりたいだとか、格好よく思われたいだとか、そういった穢れを何一つ持たず、ただ一心、勝つという目的のためだけに行動する御堂筋くんのことを、お母さんの次に理解した存在じゃないですか。

 石垣くんは自分たちの勝利への願いを、御堂筋くんに託します。そんな御堂筋くんの返答は「いややキモい」です。そう、それでこそ御堂筋くんです。誰かの思いを継ぐことが、勝つために役に立つのならやるかもしれません。でも、そうではなく、それは余分なものです。それらを全て捨て去って、最後に残る純粋な勝つという欲動こそが御堂筋くんの全存在じゃないですか。

 

 その、この世でたったひとりの我が存在していることこそが、この世の中では最も尊いと思うわけですよ。

 

 誰に何をどう思われてもいい、ただ勝とうとしたということは、実際なかなかできません。世の中に少数の勝者と多数の敗者がいるなら、多くの人が考えるのは、もしかしたら、いかに格好よく負けるかじゃないですか?無様でも勝ちに行こうとすることができる人はそうそういないんじゃないかと思います。そして、そんな必死な人を、多くの人は嘲笑うじゃないですか。

 そんな世の中で、御堂筋くんの無様な敗北にはとても価値があるものですよ。勝とうとしたんですよ。そして、2年目のインターハイでは、その日の完全勝利もやってのけますからね。観客たちは現金なものです。どんなに口が悪く、どんなに横暴に見えても、その勝ったということ、勝つために何でもしたということを、勝ったという事実が肯定していきます。その心情の変化は1年目の御堂筋くんを見ていた、読者のものに重なるはずです。

 

 別にそれが正しくはないわけですよ。でも、御堂筋くんがそうやって御堂筋くんであり続けるということで、僕はとても救われたような気持になります。それはきっと、御堂筋くんほどにはそうは成り切れない自分を自覚するからでしょう。

 自分の大切なものを理解してもらえなかったとき、それでも、それを自分だけは一生大事にすると思いたくて思いきれない自分がいます。だからこそ、どう思われようが自分の中の大切なものを守り切る御堂筋くんの姿勢に憧れてしまうことは仕方がない話だなと思ってしまいます。

 2年目のインターハイも最終局面、先週のチャンピオンの最後のページでは、箱根学園と総北高校の一騎打ちのように見えたレースにとうとう御堂筋くんの京都伏見が追いつきました。でも御堂筋くんは主人公じゃないんですよ。でも、でも、もしかしたら勝つかもしれないじゃないですか。だって御堂筋くんは勝つために走っているんですから。

 くそう勝ってほしいな!そう思いながらお話を追います。

 

「キャッチャーインザライム」と言葉による自己表現関連

 「キャッチャーインザライム」はスピリッツで連載している女子高生のラップバトル部のお話です。最近1巻が出ました。僕はラップのバトルについて全然詳しくないので、上手い具合に韻(ライム)の踏み方を脳内再生できず、ぎこちなく読んでいるところもあるんですけど、読み進めていると、おっ、踏んでるなというのが最初よりはわかるようになってきました。この漫画では、韻を踏んでいるところを太字で表現してくれているので、それも分かりやすいですね。

 

 さて、主人公の眼鏡の女の子、皐月ちゃんは、自己表現が苦手なタイプで、僕もまたそういう感じなので、思っていることが分かるような気がすごくしています。僕は自己表現が苦手なんですけど、そういうことを言うと、僕のお喋りなところを知っている人は、そんなことないだろうと言うこともあり、一方、あんまり喋らないところを見ている人は、そうだろうなと思うかもしれません。

 僕は地の部分は喋りたいことをたくさん抱え込んでいて、お喋りな人間なような気がするんですけど、喋りたいことはあっても全然喋れなくなるときがあるんですよね。それは、コミュニケーションにおいて、場に「正解」が規定されているときです。厳密には、本当に正解を言わないといけないかどうかは関係なく、僕自身がそう感じてしまい自縄自縛に陥ってしまっているときです。

 

 相手が求めている言葉を返さなければならないと思うとき、自分が今から発しようとする言葉が、その流れにおいて正しいかどうかを考えてしまいます。それによってどうしても頭の中で余分な一手が増えてしまいますから、それによって喋るタイミングを逸してしまったりして、上手くいきませんし、上手くいかないことを重ねると喋るのが不得手だなと思ってしまいます。

 文字ならまだいいんですよ。読む相手との間にタイムラグがありますから、十分に検討して返すこともできます。それが即時性を求められる声でのやりとりになるとき、どうしても自分の遅さが気になってしまいます。この少しの重さが会話のテンポを崩しますし、それが円滑なコミュニケーションを阻害します。

 

 実際のラップバトルの映像とかを見ていて想像してしまうのは、僕が同じ場所に立ったとしたら、何も喋れなくて黙りこくってしまうだろうということです。あるいは、喋ることをあらかじめ決めてきたことをなぞるだけになり、無視してしまったり、相手の言ったことに上手く返せず、ぱにくってしまうかもしれません。

 自分が今から発する言葉が正解かどうかを過剰に気にしてしまうために、それを発することができなかったり、それを発したとしても反応を見て、失敗したなと思うと、その巻き返し方が分からなくて困ってしまったり、もはや相手の反応など関係なく喋り続けたりしてしまいます(そして後で襲い来る強い後悔)。

 

 自意識過剰なだけかもしれません。でも、そうだったとしても、それは簡単に直るものじゃないじゃないですか。

 

 キャッチャーインザライムはそういう性質を女の子が、自分も声で言葉を発したいと思うような始まり方をしています。黙っているということは、自分の中の正解よりも、他人の中の正解を優先するということです。また、それらがぶつかることを避けているということです。僕もそんな感じに生きていますから、それだってひとつの選択だろうと自己肯定的に思うんですけど、そう思っているからこそ、つまり、逃げててもそれでいいやという自分と付き合っているからこそ、自分にない部分に対する憧憬もあるわけじゃないですか。そう、言葉のキャッチボールを上手にやれるということにです。

 

 ラップバトルは双方向でこそ生きるものなんじゃないかと思います。なんか偉そうなことを言っていますが、僕はよくわかってないので、よくわかってない僕から見て、ラップバトルに対して憧れを抱く部分がそうだということです。自分が言いたいことを自分勝手に言うだけではダメで、目の前の相手が言うことを汲み、それを踏まえて上回ることに意味があるわけでしょう?違いますか?違ったらごめんなさい。

 

 「何でも2回言ったらウケますよ」

 

 これはあらびき団におけるライト東野の言葉です。同じことを2回言ってスベるネタをやるガリガリガリクソンが、「あれ?吉本の養成所で何でも2回言ったらウケるって習ったのに!」と言ったときにライト東野がしたコメントです。

 そう、何でも2回言えばウケるわけです。僕もそう思います。そういう意味で言えば、韻を踏むということは同じ事を2回言うみたいなことじゃないですか。そして、相手の言ったことを受けて、それを踏まえた言葉を返すのだって2回言うことですよ。ウケたいなら2回言うしかないじゃないですか。それは自分自身とのキャッチボールと、目の前の相手とのキャッチボールの複合技ですよ。上手くやれるなら絶対ウケるやつじゃないですか。僕はそれが上手くできない。上手くできたい。

 

 自分の言葉が正解じゃないんじゃないかという恐怖は、他人とのコミュニケーションに対するモチベーションを阻害する要因です。でも、他人とのやり取りが少ない分、自分とのやり取りは多いはずです。今書いてるこれだってそうで、僕が読んで思ったことをだらりと書きなぐっているわけですが、これは自分と対話をしているわけです。根暗で陰湿な人間であるからこそ、ひとりでいる時間で、人と喋るとき用の話を大量に考えておくことができます。

 そんでもって、このように自分の中で対話を済ませておくことが、僕にとってのコミュニケーションを楽にする方法なんですよ。なぜなら、必要に応じて、既に考えたことのあることを返せるようになるからです。その場その場のインスピレーションで上手く話ができないような人間は、あらかじめ大量に話すことを考えておいて、必要なときにそこに合致するものを引き出してくるしかないと思っていて、そういうことをしています。

 

 キャッチャーインザライムの中でも、韻を踏める言葉を毎日考えている描写がたくさんでてきます。家でも、授業中でも、放課後でも。1巻に収録されているものでは、それを物量で見せられる見開きがあるんですけど、それがめっちゃくちゃいいんですよね。

 その場その場で観念的に反射神経でよい言葉を生み出せる人もいるのかもしれないですけれど、そうでない人だって言葉を発します。それは実は人に聞かせるまでのあいだに無数に一人で繰り返し考え続けていたものかもしれません。とっさにいい返し方ができない人が、無数のパターンをあらかじめ考えておいて、ようやく辿り着ける適切な一言です。

 それだって発するのは怖いわけですよ。だって、実際に発してみるまで、それが適切かどうかなんてわからないじゃないですか。それでも発しようと思ったのがこの物語だと思っていて、そこがとにかくよいなと思うわけなんです。

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 人と喋るとき、自分が正解を喋っているかどうかが気になってしまう人は、人とちょっと喋るだけでほんとしんどい気持ちを抱えてしまい、異様に疲れながら人と接してしまったり、それに疲れ切ってしまってひとりで過ごしたりします。というか僕がそうなりがちって話なんですけど、それでも、人と上手く話したいじゃないですか。自分が喋るだけでなく、相手の喋ることも上手く受け取って、キャッチボールをしたいわけですよ。じゃあそれはどうやったらできるようになるのか??

 わかりません。

 ただ、それは諦めたらゼロになってしまう話だと思うので、そこを繋げようとする漫画の中の皐月ちゃんの姿勢を見て、なんだかすごく勇気づけられるような気分になるんです。

記録と記憶と人生の一貫性について

 人間が80年生きるとして、生まれてから死ぬまでに音を32kbpsぐらいで残したらどれぐらいになるのかな?と考えてみると、

 32kbps × 60(秒) × 60(分) × 24(時間) × 365(日) × 80(年)= 約10TB

 になります。今は10TBのHDDが5万円ぐらいあれば買えそうなので、意外と量的には簡単に残せるなと思いました。

 

 生まれてから今まで自分が聞いてきた音が全部残っている世界になったとしたら、生活はどうなるでしょう?記録が残っているということは便利な部分もあり、同時に、記録が残ってしまうということの辛い部分もあるんじゃないかなあと思います。

 機械に記録した情報は正確なまま残りますが、人間の記憶は時間の経過とともに劣化するものだと感じています。そして、思い出すたびにその劣化した部分を補うように修正されていき、そのうちテセウス船のように同じ船の形のまま全ての部品が置き換えられてしまうかもしれません。

 いや、テセウスの船の思考実験が想定しているようにその部品が全て正確に置き換えられるのではなく、その場その場の都合に合わせたいい加減な部品で補修され、いつの間にか全く見栄えの違う船になってしまっていることも多いのではないでしょうか?記憶は特にそんなところがあるように感じていて、自分の記憶を他の何らかの記録を照合したとき、全然違うものに変わっていたことが分かるというような経験もしばしばです。

 

 人は忘れることができます。それだけでなく、自分にとって都合がよく過去の記憶を置き換えることもできます。しかもそれは、記憶を置き換えた人自身が意識せぬままに行われることもあるのです。それが人間の良いところであり、悪いところでもあるのではないかと思います。

 

 自動車に搭載するドライブレコーダーは、最近では一般的なものになってきました。それは記録を残すということが重要なことだからでしょう。事故が起こったときに、その事故は何が原因で起こったことなのか。人間による曖昧な語りを元に事実を追い求めることよりも、記録を確認した方が正確で間違いがありません。

 音の記録が残ったとしてもそうではないでしょうか?あの時、誰が何を言ったのか?あるいは、例えば何か機械が故障する前に異音がしていたりはしなかったのか?それらは何かが起こったあとに記憶から引っ張り出して思うよりも、実際の記録を確認した方が間違いのない話でしょう。

 そして、記録が残ってしまうということに対する恐怖もあるのではないでしょうか?なぜなら、一度口から出てしまった言葉は記録に残り、それを消すことはできなくなってしまうかもしれないからです。自分の言葉に後悔することなんてままあるじゃないですか。ウケると思って言ってスベってしまうこともあります。何気なく言ったことが他人を傷つけてしまうこともあります。肝心の場面で全く上手く喋れなくて、いやもっとちゃんと上手く喋れたはずなのに…と頭の中をぐるぐるさせながらトボトボと家に帰ったことも何度もあるわけですよ。それらが全て、正確に記録に残っていることは恐怖です。記録を確認するたびにその体験と向き合わなければならないからです。

 そう考えれば、人は忘れることで前に進めるということもあるのではないでしょうか?忘れられなければ、歩けば歩くほどに体にへばりつくフジツボのような後悔がそのうち歩みを止めてしまうかもしれません。

 

 年齢を重ねれば考え方に変化も生まれます。そんなとき、過去の自分自身ほどに意見の合わない相手もいないでしょう?なぜならその過去は、今の自分がよくないと思って捨て去ったものだったりするからです。今では否定し、捨て去った過去が、記録の中から甦ってずっと自分を追いかけてくるということは生きにくいことなんじゃないかと思います。

 僕が思うに、人生の整合性なんておいそれととれるものではありません。ある立場のときに主張していたことが、別の立場になったときに真逆の主張に変わることだってよくあります。それは整合性がとれないことですが、人間は基本的にそんなもんじゃないですかって思います。そこを無理に整合性をとろうとすればするほど、自分を追い込んでいくはめになったりします。人生をそのように縛りプレイしたいのでないのならば、人間の生き方において整合性はとりにくいものだということを受け入れ、一生を一貫して生きるなんてことを本当にやれる人はごく限られたすごい人だけだと思っておいた方が楽な気がしています。

 

 そして、自分もまたそうであるということは、他人のそういう振る舞いに対しても寛容になりやすいということではないですか?僕はそういう人間関係が楽だと思って生活しています。

 人間の人生がゲームの逆転裁判と同じシステムであったなら、相手の矛盾を追及していればいずれ真実に到達します。しかし、人生はどうやらそうではないのではないのかな?というのが僕の認識で、逆転裁判こそが人生の仕組みだと思い込んだ先にあるのは、矛盾できないがゆえに本来とるべきだった自分が得できる選択肢を封じられてしまう、悲しく辛い人が増える世の中のように思えます。僕はそういうのを悲しいなあと思ったりするんですよ。

 

 記録が残らなければ、知らないふりをできますから、そういうごまかしがやりやすいですね。しかしながら、一方、今はインターネットに無数のログが残っていたりします。ある人が強く主張しているものと大きく矛盾する過去の発言が検索によって掘り出されてしまうかもしれません。自分も同じことをしていたのに、他人が同じことをすると怒るのかよ?という指摘はそこそこ正当だと思いますし、そこそこ正当だからこそ、人の発言を封じるための便利な道具として使われます。

 そういうとき、記録が残っていなければよかったですね。なぜなら、記録が残ってさえいなければ、誰もそれを指摘できないからです。逆転裁判でも証拠がひとつもなければ、それを発言につきつけることはできません。

 

 記録は便利ですが、人間から矛盾を禁じる用途に使われがちで、窮屈でもあるんじゃないかと思います。そしてまた、記録が残ることで、自分の過去発言の統計もとれるかもしれません。つまり、自分が同じ話を何度しているのか?ということで、そして、もしかすると話すたびに細かい部分の言い方が変わってたりするのも可視化されてしまいます。

 これは音声が残れば、すべて正確に記録され数え上げられてしまうものです。厄介ですね。しかし、今既に文字情報でも個人的に可視化されてつつあって、弱った気持ちになったりします。

 

 例えば、Twitterです。僕は10年ぐらいやっている気がしますが、自分の人生で他人に話しても大丈夫なエピソードって増える量より、話す量の方が早い気がするので、一度も話したことのない話の量ってだんだん減ってくるのではないかと思います。となると、同じ話を何度もしてしまうわけですよ。自分の発言を特定のキーワードで検索すると、自分が定期的に同じ話を何度もしているのが目に入ります。そういうとき、この人は既にボケているのでは?と感じたりします。

 おかげで、最近ではもう一度書かずに、過去の発言を自分でRTして再掲するみたいなことをしたりもします。これが極まってくれば、人生において言うべきことは全て過去に発言済みで、それを再掲だけすればあらゆるコミュニケーションが終わってしまう可能性がありますね。人生が完成してしまいます。

 

 あらゆる音声が記録に残っていれば、一度言われたことは二度言ってもらう必要はありません。なぜなら、記録を聞き返せばいいのだから。でも、二度言いたいんですよね~。自分の好きな話は三回も四回も、無限にしたいみたいな気持ちがあり、ああ、こいつ同じ話をその自覚もなく何度もしまくってるな!という残念な気持ちになりつつも、でも、したかったんだよね~わかるわかるよって自分に思うわけですよ。

 この矛盾を避けるためには、記録は残っているわけですが、別の過去を振り返って検索とかしなければいいなって思うんですけど、つまり、あらゆる記録が残っていたとしても、結局そういうところに収束していくのかもしれませんね。何か特殊な目的があるときでない限り、過去の記録を全部振り替えるほど人生はあまり長くないのではないかということです。

 

 そういえば、僕はインターネットで自分の喋った音声を配信するという遊びを続けているので、過去11年分ぐらいの自分が喋った音声が残っているという特殊な状況です。この期間は僕の人生の三分の一近い長さわけです。でも、これはもう聞き返す気持ちが本当にないです。分量としては数百時間分はあると思うので、下手すると寝ずに聞き返しても一ヶ月とかかかる量なわけですが、そんな時間が人生にありますか?そして、前述のように過去の自分の発言なんて、下手すると最も嫌なものだったりするわけですよ。そんな記録が残ってしまっています。

 多分昔の自分は今の感覚で考えたら良くないこともたくさん言っているんだろうなあという気もするんですけど、幸い音声は検索対象にまだあまりなっていないので助かっているという気持ちがあり、僕が何かを発言するたびに、矛盾する音声を検索して抜き出してつきつけられたら、きっと完全に負けてしまいます。

 

 ああ、人生が逆転裁判ではなくてよかった(ゲームとしてはめちゃ好きですが)。

 

 さて、インターネットでは、ときおり上述の僕の音声を全部聞ききったという人と出会うことがあり、量を考えると結構びっくりしてしまうという気持ちと、たぶん初対面だが既に色々知られてしまっているというもう隠し事のしようがないという感じが生まれてしまい、なんか不思議な気持ちになるんですよね。

 でも、ありがたいというか、それを全部聞ききれた時点で、かなり僕という問題をたくさん抱えた人間を受け入れられる素養があるので、稀有だし、仲良くしてもらいたいというような気持ちも生まれますね。

 

 こういう経験を通じて、もし、あらゆる人が、自分の人生の記録を残すような世の中になったとしたら、自分が大切に思った人との思い出の記録の交換などをするのかもしれないなと思いました。相手がどんな音の中で生きてきたのかの追体験です。

 何も隠し事をせずそれを実際にできるのだとしたら、そこに全てを見せ合える、見せ合っても問題がないというような健全性があるような気がしていて、そして一方、そのため過去に不健全であったということが許されないのでは?記録さえ残っていなければ適当にごまかして上手い具合に隠蔽しているはずのものを、隠す余地がなくなるのでは?という恐ろしさも同時に感じてしまいます。

 それは良いことなんでしょうか?とはいえ、おそらく世の中は沢山の記録を残すように動いていくような気がします。最近流行りのAIスピーカーも、以前なら家庭の中で閉じて消えていたはずの音を、少なくとも遠くのサーバまで届けているわけじゃないですか。

 

 インターネットに情報を載せることで、皆さんの多くも何かしら情報を残してしまっているでしょう?その辺どう感じているでしょうか?

「児玉まりあ文学集成」について

 コミティア123で三島芳治さんの「児玉まりあ文学集成」という本を入手したのですが、めちゃくちゃ良かったので、読んだあとスペースに再度来訪し、他の既刊も全部ゲットしてきました。全部で7冊入手しましたが、全部よかったです。

 

 「児玉まりあ文学集成」はたった2人の文学部のお話です。より正確には、たったひとりの部員である児玉まりあさんと、入部希望者である笛田くんの2人のやりとりで物語が進行します。

 物語の冒頭、児玉さんは「木星のような葉っぱね」と、何の変哲もない葉っぱを木星に喩えました。その喩えの意味を笛田くんが問うと「意味はなかった。でも今私が喩えたから、この宇宙に今まで存在しなかった葉っぱと木星の間の関係が生まれたの。これが文学よ」と答えるのです。

 

 この台詞がばばーんと心に響いて、一気にのめり込んでしまいました。

 

 現実には存在し得ない関係性を、文学は生み出すことができます。それは言葉の上のことだけかもしれませんが、人間の心は認識はそのような言葉に影響を受けてしまうじゃあないですか。例えば人間の愛を物理現象として計測することは困難ですが、人は愛を認識し、愛を語ることができます。これも文学なのではないでしょうか?言葉が関係性を作り出し、認識し、語ることは、人間の営みにおいて重要な位置を占めていることなのではないかと思います。

 

 喩えるということにはとても強い力があります。何を何に喩えるかによって、仮に無からでも関係性を創出することができるからです。それによって、あるものに何かしらの認識を付与することが可能になります。でもだからこそ、何かを何かに喩えるということには、注意深さが必要なのでしょう。なぜなら、大いなる力を振るうことには、大いなる責任が伴うからです。

 

 児玉さんは笛田くんに「喩え」に関する例示とレクチャーをし、最後に文学部への入部試験としてあるものを喩えさせようとします。それはつまり、その対象と別の何かの間に関係性を生み出させるということです。そして同時に、それを喩えて生み出そうとする笛田くんとその対象の関係性を認識することでもあるのではないでしょうか?

 喩えることは愛情の表明にもなれば、強烈な呪いにもなり得ます。人が何かを何かに喩えるということ、そこにはその人間における人間の部分が表れてしまうのかもしれません。

 

 また、「児玉ありあ文学集成」は2冊あり、もう一方の方でも笛田くんと児玉さんの別のお話が書かれています。そこでは、児玉さんの姿は、実は目の悪い笛田くんが想像したものであるということが語られています。ロングヘアーの美少女の姿は児玉さんの客観的な姿そのものではなく、目が悪く児玉さんの姿をよく見ることができない笛田くんの心が投影された形であることが分かります。

 つまり、笛田くんが児玉さんを綺麗に見るということは、笛田くんが児玉さんを綺麗と思っているということの表明であり、その美しさの源泉は笛田くん自身の心であるということが分かるわけです。

 それは、他人を自分に都合がよく見るという身勝手な行為でもあると言えるかもしれません。でも、世界を美しく見る能力というものには、現実に囚われ過ぎないということも大切なのではないでしょうか?笛田くんは現実をくっきりと見ることができないがゆえにそこにはないものを生み出す文学的な素養を持ち得るのかもしれません。

 

 三島芳治さんの漫画は人間の思う力と現実の関係性における繊細な繋がりが強く描かれているように思えて、例えば「原子爆弾ノーツ」では、架空の世界における原子爆弾の誕生の秘密が描かれています。それは、原子爆弾が実際に生まれるよりずっと前に、スイスに原子爆弾という存在を想像した少女がいたというお話です。何かが世の中に生まれる前には、その前にそれを想像した人がいるということ、それ自体には、科学的に因果関係を見いだすことが困難でしょう。しかしながら、この本の中ではそれが事実として語られます。つまり、これもきっと文学だということです。

 

 文学によって、なかったはずのものがあるようになりました。

 

 僕も人の認識やそれを他人に伝わる形に表現する言葉に力はあると感じて生きています。しかし、その力は人間の認識の範囲に影響を及ぼす力でしかなく、直接その外の世界に影響を与えられるものではないとも感じてしまっています。いかに強く思い、願ったとしても、それをどれだけ言葉にしたとしても、無力であることも多いじゃないですか。思いによって人間の肉体からは無限の力は湧き出てはきません。どんなに強い願いも、綿ぼこりひとつ舞い上げることもできません。それは息を軽く吹けばくるくると飛んでいくようなものなのに。

 物語の中で量子力学が取り上げられやすいことは、人間が認識するということそのものが物質に影響するということを描くきっかけになりやすいからではないでしょうか?他にも例えば、赤ちゃんの手に、熱した火箸と思い込ませた鉄の棒を押し付けると、火ぶくれのようなものが浮き上がったという話が漫画などの中でよく引用されています。僕は明治期のオカルト本でもこのエピソードを読んだことがあり、つまりこれは百年使われているお話なのです。これも「思う」ということが「現実に影響を与える」という内容だからではないでしょうか?

 人間の精神は、とてつもない力を秘めているのに、それが現実に影響を及ぼさないなんて我慢がならないと感じる人間の思いが、それらを物語の中に取り込み、そこには科学的には証明されていない部類の関係性を生み出していきます。

 物語が現実に負けてなるものかという感じです。

 

 はじめに言葉ありきだそうです。人間の見る世界は、もしかすると素の世界そのものではなく、何らかの文学を通した世界かもしれません。であるならば、言葉の在り方は人間の営みと密接に関わります。文学を読むということは、そのような誰かが作った人間の営みを、自分の頭の中で再生するであるとも言えるかもしれません。

 というか、僕が言いたいことは、この本を読んで、自分の頭の中でそれを再生させてみてくださいよということで、とにかくそれが心地よく感じるということです。

 

 ここでゲットできます(児玉まりあ文学集成は2つありますが、最初に取り上げたのは2の方です)。

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