漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

社会における「役割」という憑きものについて

 ある会社の経営層の人が、めちゃくちゃワイルドで厳しい感じの印象だったのに、第一線を退いて会長職みたいなのになったら、いつの間にか気のいいお爺ちゃんになってしまっているという事例を何度か目にしました。それを見て僕が思ったのは、ああ、あの厳しい顔は、あの人本来の特性のみによるものではなく、あの人がいた立場の要請に従って役割として背負っていたものなのかもなということです。事実、その人の後釜に座った人は、かつてのその人と同じような厳しい顔を周囲に対して見せています。会社の業績を上げるためにある種の鬼に憑りつかれてしまうのだとすれば、それは会社の役職というある種の憑きものなのではないでしょうか?

 

 例えば、ある家に移り住んだ人が自殺するということが続いたとき、その家は呪われた家と呼ばれるでしょう。とすると、ある会社に就職した人が自殺するということが続いたとすれば、それは呪われた会社とも言えるのではないでしょうか?そんな会社は多くの場合、「呪われた」という表現ではなく、もっと別の呼ばれ方をすると思いますが、ある切り口では同じ現象と捉えることもできるのです。

 ある人をある行動に促す主体は、その人、本人にではなく、その人がいる場所や立場にあると言えるかもしれません。

 

 人間は仕事や家族や、あるいはその他の人間関係の中で様々な役割を背負っており、その役割は憑きものとしてそれぞれの人の人格に影響を与えるものだと僕は思っています。ある人が何らかの態度を示しているとき、それがその人本来の人格なのか、そのような憑きもののしわざなのかを区別することは意外と難しいことです。しかし、それらは確実に混ざっているものだと僕は思うのです。

 

 僕個人の事例で言えば、非常に憑かれやすい体質だと思うので、様々な場所で背負っている様々な役割の方が、僕自身の本来の人格よりも前面に出てきます。

 それゆえに、仕事や家族や、友人や、その他人間関係において、僕が見せている人格は、多重人格を疑うほどにまちまちに変化しています。僕個人がどうしたいかよりも、その場でどう振る舞うべきかという役割を果たしてしまい、本来の人格が消えてしまうことが多いと感じています。ある役割を担っているときと、それとは別の役割を担っているときでは、同じものに対してでも異なる判断をしていることを自覚しています。

 それゆえに、それぞれ異なる役割が求められているいくつかの人間関係が一堂に会する機会があった場合、僕はその場でどの役割を果たす人格を表に出せばいいのか判断できなくて、無人格となり、口数が少なくなってしまったりもします(例えば子供の頃、家族と一緒に出掛けている先で、偶然学校の友達と出会ったような感じです)。

 

 高校生の頃、歳の離れた妹(当時幼稚園児)が僕に対して「なんで大人と話するときだけ賢そうなん?」と聞いてきたことがあります。妹と遊んでいるときは、遊び相手としての幼稚園児レベルの人格で応対しているものの、大人と話すときは、兄弟の中での年長者としての人格で応対しているので、その変化を不思議に思ったということでしょう。明らかに異なりますし、今でも下の兄弟と接するときは普段よりも精神年齢が若くなっていると思います。

 僕の中には、接する他人の数だけその人に合わせた微妙に違う人格が存在しています。それらの中には似通ったものも多くあるのですが、少なく分類しても5つのかなり異なる人格が僕の中に混在しています。それを多重人格と呼ぶには頭の中で一貫しています。そして、それらをシチュエーションに合わせて演じ分けているつもりは全くありません。あくまで自然にそうなってしまい、状況に合わせて違う自分が出てきて、自分でもどうにもならないのです。

 

 僕はこの状態を「憑かれている」と捉えています。この種の憑きものから完全に解放されるのは一人でいるときだけです。インターネットに接続しているときは、たいてい一人なのでかなり素に近いと思われます。憑かれていないので、疲れない感じです。駄洒落です。ただ、これが真の自分と呼べるものなのかというと、この状態が表に出ていることは社会生活の中でまずないので、そんなめったに表にでてこないものが真の自分なのか?と思うと不思議な気持ちになります。

 僕は社会に属して生きているので、その中の役割との合わせ技で生まれたそれぞれの人格も、きっと僕自身であることには違いありません。その中には自分がその人格を表に出していることがしんどくなってしまうものもあります。なので、その人格が嫌だと思ったら、社会の中で立ち位置を移動するなりして背負う役割を変化させ、憑きものを落とすことにしています。

 

 これは別に僕が特殊なわけではなく、誰でも多かれ少なかれ背負っているものだと思っています。例えば、僕の考えでは、「大人」という存在は、庇護すべき「子供」あるいはそれに相当する何かしらが存在する場合に、役割として生まれてくるもので、大人は子供に相対することによって大人になるのであり、庇護すべき子供がいないのならば自分も子供のまま(自然のまま)なのではないかと思っています。大人になるということは成長したということではなく、役割を得たことで一時的にそういうモードになっているだけなのではないでしょうか?それも僕は憑きものだと捉えているのです。

 だからこそ、僕は子供の面倒をよく見ていた頃の自分の方が、今の自分よりも大人であったと思っていて、今となっては、彼ら彼女らも僕の手も金銭的補助も必要なく一人立ちし、僕はやっと大人という役割を背負うことを止めることができました。

 

 また、このような憑きものの存在は、嘘をよくつく人に対しても感じることがあります。例えば嘘の報告を受けたとき、何故いずれはバレることがわかりきっている嘘をこの人はついてしまうんだろう?と疑問に感じたりします。最後まで隠し通せるならまだしも、それは絶対にバレることでもその場しのぎの嘘を答えられたりすることには違和感があるのです。

 もしかするとそれもまた憑きものなのかもしれません。当人の本来の人格とは別に、何らかの憑きものが、その状態のときに嘘をつくという行動を促しているのかもしれないと思っているのです。

 人に質問をすれば事実が返って来ると期待しがちですが、その手の憑きものに憑依されてしまった人が相手の場合、事実ではなく、その状況に対してその人ができるだけ責められないような理由が回答されたりします。

 

 具体例を挙げるなら「〆切は過ぎていますがいつできますか?」という僕の質問に「明日にはできます!」と答えがあるものの、実は全然出来ておらず、実際に出来上がるのは3日後だったりすることがあります。

 僕は結構こういう立場になることでつらい思いをしているんですけど、なぜなら、そういうとき、僕はそこから後工程の人たちにすごく頭を下げていて、「明日には…明日にはできますので…あと1日だけ待ってください…」などと何度も頭を下げているわけなのです。しかし、実際はそこからさらに2日かかるわけです。僕が言って言葉は嘘になってしまいます。

 その後も、その嘘の進捗報告をした人は(おそらくは)怒られたくなくて、本当の想定よりも早めの時間を何度も小出しに僕に報告してくれるわけじゃないですか。僕はそのたびに都度、色んな方面の人に謝ることになり、「昨日と言っていたことが違うじゃないか」というお叱りを受け、申し訳ございませんと連呼するわけですが、言葉は連呼すると重要度が薄まるので、いくら言葉を尽くして謝っても意味はなくなり、僕が平気で嘘をつく人ということになります。これらの言葉も僕が憑かれているために発せられたのかもしれません。

 僕はこのように大変つらい思いをするので、どうにか解消しようと、それらの人に対して、僕は怒らないし、今まで怒ったことも一度もないじゃないですか、最初から、この時間ならできるというのを正確に答えてくださいよ。それなら僕が1回謝るだけで済むわけじゃないですか。あなたが、嘘をついているという認識はなく、本当に早めにできるならやりたいと思っているのも信じていますから、必要な十分な時間を最初から言ってください…という気持ちを2、3枚オブラートに包んで伝える感じになるという経験を重ねてきました。でも、なかなか改善することはありませんでした。

 

 こういう経験を重ねてきて思ったのが、こういうのも憑きもののしわざと捉えることで、それを落とさないことには、人間にどんな言葉を送っても、人間が強く反省してくれたとしても、憑きもののしわざで繰り返しになるわけです。

 ものごとは人の責任にしてもめったに解決しません(憑きものをモノともしないタイプの人間もいるので、メンバーが変わると解決することもありますが)。やり方は色々あるんですが、遅れているということを報告することが、その人にとってダメージにならない状況を作り上げること、つまり場の状況と役割の状況を変化させることが基本的な指針です。そして、そもそも〆切を守らない大人がいる問題を解決しないといけないので(大人は意外と〆切を守らない)、それを十分リカバリできるタイミングで気づけるように、日ごろから気を配っておく必要があるわけです。場所や仕組みの問題と捉えて、人の問題と捉えないことが重要だという結論に今のところ至っています。

 具体例は長くなるので省きますが、色々と憑きものの落とし方を考案していて、自分の環境で人体実験しまくってきた結果、最近はだいぶプロジェクトマネジメントが問題なくいくようになってきましたが、対人関係が異様に苦手である僕がこういうことをしている時点で、今は僕の人生の中でかなり異常な状況です。

 

 なぜこの異常な状況が生まれているかというと、これもまた憑きものであって、これがお仕事でなければ僕は決してやらないでしょう。仕事をするという上で、自分に憑依している憑きものが、素の自分ならば決してやらないことに足を踏み出すためのきっかけと原動力となっているだけの状態なのです。つまり、経営者はある種の憑きもの筋の人々で、部下に様々なものを憑依させることで行動を促します。僕も彼らに促されてしまっています。

 それとの付き合い方のバランスが今のところ上手くいっているので、僕はこの場に留まっているわけですが、それがおかしなことになれば自分で憑きものを落として、その役割を放棄し、別のところに行くことになるでしょう。

 このような憑きものを自分自身で落とせないと、追い詰められやすくなる可能性が高い思っています。自分自身の憑きものを落とすためには、まず自分が何かの行動に至るとき、それが本当に自分の意志が決めたことか、自分の役割が決めたことかを切り分けて認識することが大事でしょう。他人に対しても同じで、その人の問題なのか、憑きものの問題なのかを区別した方がいいような気がしています。

 

 例えば、人間は金に困ると色んな変な行動をしてしまうんですよ。僕も昔に経験がありますが、金がないと本当にやばいときには、どうにかして金を作らないといけないので、金に困っていなければ決してしないようなかなり変な行動をとってしまいます。

 で、それはしょうがないと思っているわけです。貧乏神に憑かれているのです。だから、他人が変な行動をとったときにも、よく、ああ、金に困っているのかな?と思ったりします。金に困っている人は、金に困っているがゆえに変な行動をとってしまうので、金に困っていない人の基準でどうこう言ったところで、解決しないことが多いですし、金に困らないようになればこの行動もなくなることだろうなと思います。

 

 大塚英志原作の漫画では、「多重人格探偵サイコ」を始めとして色々な作品で、「多重人格は民俗学の中では憑きものとして処理されていた」という話が登場します。中学生ぐらいのときにこの話を初めて読んだときには、なんじゃそりゃって思ったような記憶がありますが、二十年ぐらいの年月を経て、自分が似たようなことを考えているようになったので感慨深い感じですね。

 久しぶりに「多重人格探偵サイコ」を最初から読み返してみたいと思います。