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全部ビッグバンのせいだ

 世の中にはどうも因果関係というものあるらしく、何かしらの結果には何かしらの原因があるそうです。原因という概念が、結果とセットになる存在なのであれば、その意味するところはおそらく「その原因さえなければ同じ結果にはならなかった」ということでしょう。

 例えば、机の端に置いてあったペットボトルが床に落ちたという結果があったします。その原因は何でしょうか?「僕がうっかり肘を当ててしまったせい」ということは原因の条件を満たしていると思います。なぜならば、僕が肘を当てなければ、そのペットボトルは床に落ちなかったからだろうと考えられるからです。

 しかし、そう考え始めると、原因は他にも無数に選べるのではないでしょうか?例えば、僕という人間が誕生しなければ僕の肘が当たってペットボトルが落ちるという事象は存在しなかったでしょう。つまり、ペットボトルが床に落ちたのは、「僕の母と父が出会ってしまったから」と考えることもできます。そして、同様の考えによって「僕の祖母と祖父が出会ってしまったから」と考えることもでき、繰り返してどんどん昔に遡っていくことができます。

 最終的に到達するのは、宇宙開闢の大爆発ことビッグバンでしょう。つまり、ペットボトルが床に落ちたのは「ビッグバンのせい」ということも可能です。なぜなら、ビッグバンが起こらなければ、ペットボトルが落ちることはなかったと考えられるからです。

 

 このように、ビッグバンは全ての始まりであり最強の原因なので、あらゆることが起きたときに「その原因は何か?」と問われたら、「ビッグバンが起きたせいですね」と言っておけば、それは正しいのではないでしょうか?

 「なんで遅刻したの?」と怒られたときにも「僕という人間が存在し、今日遅刻するという事象が起こったことは、全て宇宙開闢のビッグバンがあったからです」と答えても間違いではないでしょう。そして、その原因を答えたときには、僕はきっと相手からさらに怒られてしまうだろうなと想像します。

 

 では、なぜ間違っていない原因を答えたはずなのに怒られてしまうのでしょうか?

 

 理由はいくつか考えられます。まずひとつ、ビッグバンという原因は「遅刻した」という個別の結果に対する理解や解決策として機能しないからです。遅刻したということを責められるのは、そのことによって「他人を待たせてしまい、迷惑をかけてしまった」からだと思います。そこで必要とされるのは、その遅刻が仕方のないことであったと相手が納得できる理由であったり、同じことを繰り返さないための対策となるものであったりするはずです。ビッグバンはその両方に対して不適格です。

 ビッグバンという事象はその日遅刻した僕にだけ起こったことではありませんし、ビッグバンが起こったという事実をなかったことにするという方法で、今後の遅刻が発生する可能性を消し去ることもできません。

 つまり、ビッグバンは遅刻という事象が発生した原因として選ばれうるものですが、それが原因であると遅刻に対して怒っている人に主張することは、問題視されている結果について何の効力も発揮しないがゆえに無意味なのです。

 このように、ある結果に対して原因は無数に選ぶことが可能であるものの、その中からどの原因が原因として選ばれるか?ということには、それを認識する主体がその問題をどのように取り扱いたいかという都合を加味する必要があるということが分かります。

 

 ビッグバンが原因だと主張すると怒られる他の理由としては、結果と原因が規模感として釣り合わないということもあるでしょう。原因が宇宙の全ての存在を巻き込むほどに大きいのに、結果は相手を「15分余計に待たせてしまった」というごく限定的なものです。その待たせてしまったということは積み重なって人間関係が壊れてしまう可能性もあるので、主観として小さい結果であるとは言いにくいですが、原因の方が極大であるためにバランスは悪いことは間違いないでしょう。

 つまり、原因とは結果とのバランスを考えて、大きくなり過ぎず、小さくなり過ぎないものが選ばれた方が納得感が高いということです。

 

 とはいえありますよね、ささいなきっかけが大きな不幸を舞い込んでしまうことも。例えば、少しの諍いが後々に大きな断絶となってしまったとき、ささいな原因は、ささいに見えるけれど実際はとても重要なことであったというように語られたりします。それは結果が大きくなってしまったことに引きずられて、小さな原因が大きな原因であるということに格上げされる瞬間です。

 世の中ではこのような形で因果のバランスがとられることも多いと感じています。なぜなら、原因と結果の格を合わせることができなければ、因果関係という説明行為には他人の納得が得られないことも多いからです。

 

 ちなみに、このバランス感覚を利用して、小さな結果に対してあえて大きな原因を挙げることで、その小さな結果を大きな結果であるかのように見せかけるテクニックもあります。

 なぜ遅刻したのか?という問いに対して、日本の交通機関の問題や、それが人口の過密によるものであったり、はたまた日本で表出されやすい時間の正確さに関する性質などなど、遅刻が起こったのは僕個人の怠慢によるものではなく、もっと大きな問題なのだということを説明することで、起きた事実の責任を自分個人ではなく、社会の連帯責任に仕向けることもできるのです。

 

 このように、ある結果に対して何かひとつを原因として選ぶということは、なんらかの意図をもってのことが多いと思います。原因と結果が一対一で対応するような理想的な状況は実在性が疑わしいため、因果の間を単純な一本の線だけで繋げることは普通はできないはずです。

 ある結果は無数の原因と繋がっていて、その繋がった原因も見方を変えればある種の結果であるため、マルチホップしてさらに別の原因と繋がります。それを繰り返していけば、因果は蜘蛛の巣のような形状になっているはずです。

 つまり、ある結果を説明する経路には無数に広がる選択肢があります。その中のひとつが選ばれてしまっている時点で、なぜそのひとつであったのかという理由があるはずなのです。そのひとつが選ばれるということは、裏返せば他のあり得る可能性が全て無視されているという非常に乱暴な行為だからです。そこにあるのはつまり、選んでいる側の何らかの意図だと思うわけです。

 ビッグバンはあらゆる結果に対して説明可能になる魔法のような原因ですが、そのような選ぶ側の意図に合致することはほぼありえないために選ばれることはありません。

 

 何を原因として選ばれ、何が原因として選ばれにくいかには、ある程度傾向があると考えおり、僕が思うに、原因に選ばれやすいのは「人間」です。なぜならば、人間を原因に選ぶことで、結果の責任をその人間に問うことを可能になるからです。原因に選ばれた人にその責任を問うことができるなら、その人に解決のための労力を支払わせることができます。

 これが人間以外ならばどうでしょう?例えば大雨による崖崩れの被害が起こったとして、「雨め!!」とか「崖め!!」と人間ではないものに原因と責任を求めても雨や崖が責任をとってくれることはないので、その被害が賠償されることはありませんし、泣き寝入りをするしかありません。

 しかし、それが「崖工事をした際の後処理がまずかった」とか、「その土地を住居区画として認可した行政が悪かった」とかになると、原因が人間に渡ってきます。人間が悪いという原因になれば、賠償請求が可能です。なので、雨が原因であるかもしれませんし、崖が原因であるかもしれませんが、それらは無視して人間が原因であるということにされてしまったりします。それは、被害を何らか補填してもらえることを望む人が、有効なものとしてそれを選んだということなのではないでしょうか?

 

 そのような仕組みで、色んな問題が起こったときには、その原因として人間が選ばれやすいのではないかと思います。

 

 最近あったことですが、ある仕事の〆切がありそれを受けた人がいて、〆切前に何も連絡がなく〆切を過ぎる頃に確認をしたら、「確かにその仕事は受けましたが、〆切前に催促がなかったので、やらなくていいのかと思いました」という回答がありました。

 これも、そのようなものだと思うのです。「〆切時間に物が出来ていない原因は、頼んだ僕の方にある」という原因の選び方を、その人がしたということで、その原因が僕にあるのだとすれば僕に責任があり、責任があるので僕の方が頑張ってどうにかしないといけないという感じの理屈になります。

 その件は別に普通になんとかなったのですが(結局、まんまと僕がなんとかしました)、原因の選び方を工夫すれば、僕側ではなく相手側が悪いという内容を選ぶことも僕には全然できたわけです。ただ、そこにあるのは原因を特定するという名を借りた責任の押し付け合いであって、解決のために誰が労力を払うべきかということを定めるための呪術のようなものでしかないと思います。

 「他人に責任を求める」行為とは、ことによると、自分には責任がないと主張することであって、「問題は認識しているが、その解決のための労力は自分は一切払う必要がなく、責任のあるあいつらが払うべきだ」というような主張であると捉えることができます。このようなことは、社会のそこかしこにあるお話です。

 

 世の中のあらゆることはビッグバンが原因であるということにもできるのに、人間はビッグバンではなく、別の人間をその原因として選んでしまったりします。ビッグバンに対して人間は無力である一方、別の人間ならまだ何とかできると思っているからかもしれません。

 しかし、無力であるからこそ、諦めがついてよいということもあるのではないでしょうか?僕はたまに色んなことをビッグバンのせいにしています。早起きしないといけない日に、めちゃくちゃ寝坊したとしても、「このやろう!ビッグバンめ!理由も分からず起きやがって!!その存在もあくまで仮説であって証明はされていないというのに!!」とビッグバンが悪いことにして、心理的な責任逃れをしています。

 とはいえ結局、寝坊してしまったことの責任は自分でとらないといけないんですけど、ビッグバンとの連帯責任となることで少し心が晴れます。しかし、ビッグバン自体は僕に何もしてくれません。ただそこに概念としてあるだけです。

 なんなんだビッグバンめ!と思いますね。この気持ちもまた全部ビッグバンのせいだ。