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「ロッタレイン」を読んで気づく自分の中の気持ち悪さ関連

 松本剛の「ロッタレイン」ですが、雑誌での連載が完結した後に、毎月1冊ずつ単行本が出て、最終3巻まで出おわりました。なぜこういうタイミングでの単行本化になったのかはよく分からないですが、連載が続いても単行本が出ずに終わるんじゃないかと少しハラハラしてしまいましたが、出てよかったですね(その間、掲載誌のIKKIが休刊し、後継のヒバナに移籍し、そしてそのヒバナも休刊しました)。

 

 さて、この漫画は、メンタル的なトラブルから事故を起こして、しばらく働けなくなった男性(三十歳)が、自分と母親を捨てて他の女のところに行った父親の元に身を寄せることになり、そちらの家庭の連れ子である少女(十三歳)と恋仲になってゆくというような物語です。倫理的な側面からすれば、三十歳の男性が十三歳の少女に恋愛感情を抱くということは、社会通念上よくないことであると思います。ただし、人間の感情は規範とは別の論理で動くものだと思うので、そのような感情を持つこと自体はどうしようもなく、止められないのではないかとも思います。しかしながら、そうであったとしても、それを表出させたり、行動に移すことは許されておらず、咎められるのが、現代の社会規範ではないでしょうか?

 

 この漫画のすごいと思うところと怖いと思うところは、その十三歳の少女をこれでもかと魅力的に、あるいは蠱惑的と言っていいほどに描くことで、戸惑いながらもその境界を一歩向こうに踏み越えてしまおうとする男性の心理状態を追体験させられるところではないかと思いました。

 

(以下、ネタバレが含まれます)

 

 ロッタレインとはlotta rain、つまりたくさんの雨のことでしょう。物語の中で象徴的に描かれるのは、少女がある日見た、晴れと雨の境界線で、今立っているこちらの場所には雨が降っていないのに、目の前のあの境界の先には大雨が降っているという不思議な情景です。そして少女は雨の中に足を踏み入れその中を歩いてしまうのでした。

 

 それはつまり、規範という境界の向こう側ということではないかと思いました。そちらに足を踏み入れ歩き始めた少女が、夜になっても家に帰ってこないことで、男性は車で追いかけ、見つけることができます。その後、帰りの道すがら、少女のワガママで寄った夜の海で、少女は波の先にざぶざぶと足を踏み入れ、男性にもこちらにくるように誘うのでした。果たして、砂浜から先の海へ、足を踏み入れるべきでしょうか?踏み入れるべきではないでしょうか?

 

 この物語は全編を通して美しい情景が描かれ、そして特別な少女の持つ特別な何かが描かれます。しかし、そこにもうひとつ見出してしまうのは、それを見る人間の気持ち悪さではないかと思いました。つまり、男性が抱いてしまった少女への執着心の気持ち悪さです。そして、その気持ち悪さを自覚しつつも、押しとどめておくことができないというさらなる気持ち悪さです。

 少女からの誘い水を言い訳に、それが漏れ出してしまうということの気持ち悪さが描かれていると思います。その感情は言うなれば、人間の精神の活動において循環する中の汚水にあたるものだと僕は思っていて、それは普通は外には出ないものだと思います。普段目にする水はきれいなものばかりです。それらがどこかで濾過され浄化され、処理されたものだけが目に入るように社会の表面はなっています。たとえそれが、塩素臭い杜撰な浄水であったとしても。

 そんな目に触れないように隠してある自分の精神の汚水が漏れ出してしまうことの自己嫌悪と、それを他人に見られてしまうことの恐怖が描かれていると思いました。しかし、それも間違いなく自分自身でもあるのだと思います。普段はないように振る舞っている、その気持ち悪い汚水の部分が、自分の中には確かにあり、それを確認させられてしまうということが、このロッタレインを読んだことの読後感でした。

 

 人間の他人への執着心、それが大人の男から幼い少女へのものであれば、なおのこと気持ち悪いでしょう。他人と自分とのお話は、どこに主役としてのピントを合わせるかによって、美しくも醜くもなります。そのピントがどちら側にも紙一重で合わさりうる危うさが、この漫画の魅力ではないかと思っています。

 

 さて、主人公の男性には喪失があります。子供の頃に家を出て行った父親の喪失、そして、残った母親も亡くなった喪失。事故を起こしたときには、恋人を失った喪失があり、心の中にがらんどうがあります。そのぽっかりと空いた穴を埋めることの欲と、恐怖があるのではないかと思いました。なぜなら、埋まることは次の喪失を意味するかもしれません。そして、それを埋めようとする自分の執着的な行為自体にも嫌悪感があるかもしれません。

 少女側にも喪失があります。自分の父親は、血がつながった親ではなく、一方、ある日、家にやってきた三十男は、その実の息子です。彼が来ることは、自分が父親と血が繋がっていないことを強く自覚させられることでもあり、そして、物語の半ばで、彼女はその母も病気で失ってしまいます。残った父と弟、ある日やってきた兄たちは血のつながりのある家族ですが、自分だけが違います(とはいえ、弟とはありますが)。彼女の居場所は、家の中で不安定になってしまいます。

 この状況において、血の繋がらない兄が、自分への好意を抱いていることは、その解決方法として都合がいいものでしょう。自分の中で欠けているものを埋め合わせるためにピタリと合わさるパズルのピースのようなものです。しかし、それは非対称です。少女から男性へは、それを拒絶する理由がなく、男性から少女へは、父親を含めた世間の目という躊躇する理由があります。

 

 そこを踏み越えてしまうこと、そして、それが必ずしも良い結果とならないだろうこと、その際に嫌でも直視させられてしまう、自分の中にある気持ちの悪い部分、読者である自分の中にもそれがあるということを自覚させられるところが、読んでいて心をかき乱されるなと感じたものです。

 それは主人公が半ば予期していたこと、それゆえ最初は押しとどめようとしたものであったはずですが、結局押しとどめることができなかったという悲劇であり、分かっていたはずなのに人がそうなってしまったという、ある種の滑稽な喜劇でもあると思いました。

 

 この物語の中には、少女に対する、ある種の性的な目線が何度も出てきます。例えば、少女の学校の担任の先生は、そのしぐさの端々にそれを見てとることができます。それが主人公の男性の目には非常に不快に写ります。それが不快なのはきっと、それを理解できるからでしょう。自分の中にある気持ちの悪い部分と同じものを目の前でまざまざと見せつけられてしまうからです。そして、それはきっと読者である僕が、主人公を見て感じるものと似ているのかもしれません。

 

 僕が思うには、人間には気持ちの悪い部分があるじゃないですか。それはあったとして、多くの場合は、表にはなかなか出てこないわけです。でも、それは「ないもの」ではなくて、「あるもの」であるという自覚はあった方がいいんじゃないかと思っていて、でも、それはおいそれと外に出していいものではないというのが、僕が抱えている社会規範のようなものだなあと思いました。

自分が無意識にやっていることを意識する関連

 何年か前に、シャーペンで文字を書いているとき、自分が無意識にペンを回していることに気づきました。ここでいう「回している」というのは、いわゆるペン回しではなく、芯を軸に見立てる方向の回転なのですが(伝わってください)、この動作に何の意味があるかというと、シャーペンの芯は紙に斜めに当たっているため、そのすり減り方も斜めになっていることに由来します。つまり書いていると断面が斜めに大きくなり線が太くなるんですね。だから、それを回転させることで、今度はとがった先が手前になりますから、よりシャープな線を書くことができるようになります。

 

 この動作自体は理にかなっているなと思うのですが、これの面白いとこは、僕は自分がそういう動作を常日頃からしていることを、気づいたときまで全く意識していなかったということです。なので、自分がシャーペンを回したのを見て、え?なんで今シャーペンを回したの?と思ってびっくりしました。そこで、人間は自分が何をしているかを意識していないことも多々あるんじゃないかと思うようになりました。

 

 こういった種類の経験は、僕が自分自身の行動の全てを自分で把握できているわけじゃないぞと気づき、自分という現象を観測する必要性を感じるきっかけになりました。なので、自分が日々当たり前にやっていることをゆっくりと確認しながらやってみては細かい要素に分解し、自分がなぜどのようなことをしているのか?ということを意識したりするようになったのです。

 

 一方、意識するということは結構厄介な側面もあって、なぜなら、意識した瞬間にそれが上手くできなくなることもあるからです。例えば楽器を弾くときに、なんとなくやっているときには詰まらずに弾けるのに、いざ、指の動きなどを強く意識してみると、途中で手が止まってしまうことがあります。

 それは動作に至る前に一旦意識するという工程が入ってしまうことで、限られた時間の中で動作を完了するということができなくなったんじゃないかと思っていて、だから、自分がやっていることを意識しつつも、なおかつ、それを意識の外に出して実行するという感覚も必要になりました。

 

 何かの物事を工程に分割してみるとき、意識している単位で分割してみると、比較的少ない工程で作業を記述することができます。しかし、その作業手順を、他人に渡して実行してもらうとき、無意識の部分が共有できていないことで問題が起こったりします。

 自分にとっては意識しなくともできることが、他人にとってはそうではないため、手順書の中身は実際はボロボロと歯の抜けた作りになってしまったりするのです。そのせいで他人が実行することができなかったり、他人が自分の判断で穴を埋めたことで問題が発生するということが生じました。

 

 人に対して何かを教えるということは、そういう失敗の繰り返しだなと思います。自分が伝えた通りに他人ができないとき、伝える情報が実は不十分だったのではないかということに目を向けるようになり、やり方を改善していくようになるからです。

 

 何かのやり方を「目で盗め」というのは、そのやり方の完全さを保証する責任を、教わる側に持ってくるやり方なんじゃないかと思います。それはある種の教える側の無責任ですが、ただ、その明示されていない無意識にやっていることを、他人に再現させるということが必ずしも正しくはない場合があり、そこが難しいところだと思います。なぜならば、自分と他人は、肉体と言うハードウェアに目に見えて差異があり、精神というソフトウェアにもきっと差異があると思うからです。

 自分にとって適切なタイミングや動かし方が、他人にとっても適切に合うものであるかどうかは保証ができません。

 

 なので、必要最小限の考え方だけを伝えて、あとは、自分に合うやり方を模索してもらいながら習得してもらうというのは、ある種の正しさも効率性もある教え方なんじゃないかと思ったりもしています。

 

 「魚を与えるのではなく、魚の採り方を教えるべき」みたいな話を聞くと、そこで教える魚の採り方は、いつまで正しい方法なんだろうかな?と考えます。もしそのうち、採り方を変えないといけない環境変化が生じたとき、その人は新しい採り方に辿り着くことができるのでしょうか?あるいは、また誰かに教えて貰わないといけないのでしょうか?

 新しい環境に適合したやり方を、自分で日々アップデートしてくということは、僕は仕事ではやっていますが、この方法も上手く言語化できていません。だからそのやり方を他人に教えるということも、まだ上手くできていない領域の話です。

 

 仕事でチームのリーダーとかをやるようになって(僕のようなコミュニケーション能力駄目太郎がリーダーをやっているの、完全に最悪の采配だなと思い続けています)、人を育てるということの難しさみたいなのに直面することが増えてきました。

 ただ、他人に気軽に質問したり頼ったりが上手くできないために、ひとりで黙々と考え続けてなんとかやってきた僕の人間的特性を、上手く生かせる部分もあるんじゃないかとも思っています。その、自分で獲得してきたやり方を他人に上手く説明できればいいんじゃないかとか、孤独に頑張ってしまうことの悪い部分もすごく分かっているので、自分以外にもそういうことになっている人がいたときに、上手くフォローしてやれるのは自分なんじゃないかなと思ったりもするからです。

 

 人間関係とか、ほんと上手くできないんですよ。平均的な人が当たり前にやっていることを意識しなければできなかったりします。それは、息を吸って吐いてを意識しないとできないようなもので、これを意識してやりつつ、そこから無意識にでも出来るようにできないとしんどいですね。なので、最近はそういうことに取り組んでいます。

 世の中には、色んな上手く人に伝えられる形式になっていないものが沢山あって、でも、それを認知できないからといって、無いものとしてうっかり取り扱うことは、大きな失敗に繋がる懸念があります。だから、そういうのをできるだけ解き明かして、自分が上手くやっていけるといいですし、それを他人に上手く伝えることで、他人とも上手くやっていけるといいよなと思っている最近です。

平成という時代の個人的な振り返り関連

 平成が終わって令和になった。何かが変わったかというと変わってない。この3月に免許を更新し、次回の更新は5年後なので、免許には平成36年まで有効と記載されている。そのときまで僕は平成とまだ微妙に関係がある生活をする。

 

 昭和が終わったのはまだ僕の記憶も曖昧な時期で、当時の天皇陛下が亡くなったということ、好きなテレビ番組が休止となったこと、どうやら平成というものが始まるらしいということなどが、断片的に思い出される。特に感慨はなく、というか、よく意味も分かっていなかった。それを言ったら、今回だって特に感慨はない。一時代が終わったとも思わないし、何か新しいものが始まったとも思わない。ああ、そうなのかと思っただけだ。

 

 でも、人の死をきっかけに元号が変わるわけではなかった今回は、おぼろげに憶えているあの昭和から平成に変わった時期の沈んだ雰囲気と比べれば、なんだか楽しい雰囲気がある感じがしていて、それは良いことなんじゃないかと何となく思う。

 

 個人的に、平成はなかなか良い時代だった。テクノロジーが進歩して、どんどん色んなことが便利になっていったし、社会もどんどん良くなった部分もあって、辛いことを我慢しないで表立って言っていいことになっていった。何より、僕の人生がどんどん良くなっていった。小さい頃は辛いことが多かったと思う。あと、将来に対する漠然とした不安ばかりがあった。今も辛いことがないわけじゃないし、将来が希望だけで満ち溢れているわけでもない。でも、小さい頃のようにそれに対して何にもできないわけじゃなく、まあ、自分は何とかやっていけるだろうという、気楽な気持ちがある。

 それは自分が中年になって、かつての鋭敏な感覚をもう持っていないからかもしれない。鈍麻した感覚は、自分から色んなものを失わせているかもしれないけれど、昔はこだわっていたことがどうでもよくなって気楽になったし、辛く悲しいことに対しても鈍くなってしまい、色んなことが平気になった。

 

 でも、理由はそれだけでもないと思う。今まで色んなことをやって生きてきて、その経験が自分を太くしているという気持ちもある。周囲からの強風に煽られながら、おっかなびっくり立って歩いているようなかつての自分から、少々の風では身じろぎもしないように歩くことができるような自分になったと思う。風の中に通り道をなんとか見つけるのではなく、自分の歩きたい道を風に逆らってでも歩くことが今はできている。

 

 子供の頃の自分が想像したような大人に、今の自分はなっていない。

 結婚もしていないし、子供もいない。子供の頃に想像していた、大人とはこういうものだという像と今の自分は随分違う。何かとてつもなくすごいものにはなったりはしていない。良くも悪くも子供の頃の自分と地続きの今だ。ただ、地続きだとは言っても、そこそこ長い道のりがあった。あの頃いた場所に、今僕はいないし、ここまで歩いて来られたことを振り返って、なかなか良い道を歩いてきたなと思っている。

 そもそも子供の頃に想像した将来の自分像なんて、結局そのとき抱えていた偏見でしかないんじゃないだろうか?「大人とはこういうものだ」という先入観が、それを裏付けする体験もろくにないのにただ存在していて、それはつまり、周囲が示しているものであったり、社会が要請しているものであったりするんじゃないかと思う。つまり、他人の話だ。

 そんなふうに他人の話を聞いて、他人の思う通りの自分にならなければならないと感じていたことが、僕の子供の頃の不幸だったところで、だけど今は違う。別にそうじゃなくてもいいと思ったこと、そして、それを周囲の人間関係が許容してくれていることが、僕が感じている今の生活の良さの裏側にはあるのだと思う。

 ただ、社会を維持していくためには子供が必要だろうし、自分がそこに貢献していないことにはスマンな…という気持ちが多少ある。でも、自分がその状態であることを問題なく許容してくれる世の中になっているということが良いところだと感じていて、一方で、そうであることが社会に影響を与えてしまう困った側面が少子化なのかもしれない。昔の感覚が維持されていれば、僕はとっくに結婚して子供がいただろうし、その関係性の中で辛い思いをしていたかもしれない(してないかもしれない)。

 

 ちょっと前に「孤独な中年は元気やでっ」って言ったらちょっとウケた。これは昔のジャンプでやってた漫画の台詞のもじりなんだけど、気持ちは本当で、僕は世間的に見れば孤独な人間なのかもしれないけれど、その状態が全然嫌じゃない。

 とはいえ、友達が全くいないわけじゃないし、ネットでもたまに人と交流もしている。でも、休日にカバンに何冊かの本を入れて、ぽかぽかする河川敷でひとりで本を読んでいる時間も好きだし落ち着く。思い返せば、中学生や高校生の頃の自分もそうだった。休日はひとりで自転車に乗って色んなところに行った。そして、ブックオフで立ち読みなんかをして、それだけで家に帰ってきた。

 あの頃と今はそんなに変わらない。しんどいことが山ほどあったときにそうしていたということは、そうしている時間が好きだったんだろう。それが好きなのは今でも同じだ。

 

 結局のところ、僕が苦手だったのは人間関係だったんだろうなと思う。自分で十分なお金を稼げなかった頃には、今よりもずっと沢山の人間関係があった。それは人間関係が自分にとってお金を得る手段のひとつだったからだろう。お金ほしさに、色んな人と一緒にいた(色んなところに失礼なので、ごめんなさいという気持ちもある)。相手との人間関係を維持することが重要だったので、その場にとどまるために色んなことを我慢した。

 今はそれはしていない。他人との繋がりを維持するために、嫌いな状態の自分になる必要はない。嫌になればどこにでも行ける。ひとりでいることが苦でないことは、自分の便利な特性だなと思う。

 

 平成はいい時代だった。それは僕がなりたい自分になるための時間だったから。そんなの僕の個人的な話で、他の人にしてみれば全然いい時代ではないかもしれない。でも、それだって各々の個人的な話じゃないのかなと思う。普遍的な時代性なんてあるのだろうか?どのレンズを通してみてもそれなりに歪んでいるんじゃないだろうか?

 

 最近は、生きることに問題がなくなってきたので、仕事以外にも何かを作ったりをしている。漫画を描き始めたのもそのひとつで、こういうことに取り組むのが面白いのは、自分が日々成長できていることを実感できるからだ。昨日の自分よりも、今日の自分の方が上達していることが確認できれば、数学的帰納法で遠い未来のすごく成長した自分を想像することができる。

 でも、将来の想像なんて、幻なんじゃないかとも思う。30年前に想像した30年後の自分の姿は、今と同じだろうか?そんなわきゃないよな。悲観的な未来も、楽観的な未来も、今まだ起きていないという意味では同じだし、どれだけ一生懸命想像したところで、それが本当にそうなる確証もない。僕が今良い感じの気持ちでいるのはたまたまだ。たまたま想像した楽観的な状態に、たまたまなっている。つまり、ただの運の問題だ。

 

 去年一回病気ですごい痛いことになったんだけど、痛みが始まってたった何時間かで人生に対する絶望が発生した。

 それ以外の全てのことに満足していても、終わらない痛みが少々の時間続くだけで、全てが幻のように消え去ってしまう。今は完治して痛みがなくなっているので、そんなこともあったなと思い出すだけだけど、一寸先は闇だ。ひょっとしたら明日にはまた世界に絶望しているかもしれない。

 

 まあでも、それでもいいよ。何も問題のない今現在を楽しくやっていこうと思う。

 僕が絶対になりたくないのは、小学生頃にあった宿題をしない夏休みの繰り返しだ。宿題をしなければと思うぐらいの真面目さは抱えているのに、宿題に手を付けるほどの行動力は持たずに、ただ毎日漫然と過ごしている夏休みのような状態が怖い。

 やらなければならないことをやっていないという漠然とした不安が、終了の期日が近づいてくるにつれてどんどん大きくなる。しまいにはその不安で身動きがとれなくなって、宿題はいっそうできないし、他の何にもできなくなっていく。ただ時間だけが過ぎ、抱える不安だけが大きくなる。

 一回や二回の失敗した夏休みならまだいいけど、自分の人生自体がそんな風になってしまうのはまっぴらごめんだ。

 

 そのための結論は地味で、ただ毎日をやっていくことだと思う。遠い将来のことなんてたまに考えるぐらいでもう十分で、昨日の自分に申し送りされたことを今日やって、明日の自分に引き継いでいく。それだけを淡々とやっていくのがいいと思ってそうしている。

 それが平成も終盤にさしかかって自分が辿り着いたところで、令和の初めもそれでやっていくんだろうなと思っている。令和の終わりまで生きていたら、どうなっているだろうかな?今の想像とは全く違うかもれしれない。でも、そこから振り返ってみたら、今と同じようにそこそこ納得感のある生き方をしているんじゃないかと思う。根拠はありません。ただ、今そう思ったから。

 

 この文章は、昨日なんとなく書こうと思って今日書いた。明日はまた別のことを考えているかもしれない。それもいいよ。こんなふうに、一日一日を具合よく調整しながらやっていくのがいいと僕は思っているから。

コミティア128に出ます情報

 コミティア128に出ます。よかったら来てくだされ~。

 

 ここのところ毎回参加して本を出してますが、なぜそんなことになっているかというとなんとなくです。なんとなく申し込んだら通ったので、じゃあ新しい本を作るかと思って本が出ています。でも、本が出ている理由はiPadのおかげかもしれません。iPadでいつでもどこでも漫画を描けるようになっていないと、自分の生活に漫画を描ける時間がないからです。

 

 技術を向上させるためにはどうしてもどこかで量が必要と思っていて、だから結果的に数をこなすことが近道だと思うんですが、今は描こうと思ったら描くような気持ちになっているので、やる気があるときにはそれを利用してなんかやっとくかなというような感じでいます。

 

 3年ぐらい前に初めて漫画の同人誌を作ったときと比べると、今はだいぶ技術が向上しましたよ。あくまで当社比ですけど、自分が昨日の自分より少しでも向上していると思えることは、毎日を具合よくする上で大切なんじゃないかなあと思います。

 一方、他人と比べたらダメだなと思うというか、怖いと思うところがあって、まあ、拙いわけじゃないですか、中年になってからいきなり漫画を描き始めた人の作るものなんて。もっと前からずっと一生懸命やっていて、すごい技術を持っている人たちが無数にいるわけですよ。だから比較対象は、過去の自分だけということにしています。それでよくなってりゃ自分に100点満点をあげるようにしています。

 

 そうなんですよ。ネットをちょいと検索すれば、誰かが誰かに向けて書いている、漫画を描くことに対する沢山のご意見やアドバイスが見つかるわけですよ。でも、それを、僕は見ないように心掛けているんですよね。だって、それを見ることは描く上で満たすべき条件を増やしてしまう行為だから。そんな色んな条件を満たさなければ描けないとなると、自分には上手い答えが見つからなくなる可能性が高まるわけじゃないですか。

 こういう漫画表現は良いとか悪いとか、こういう人には創作の資格があるとかないとか、誰が誰に言ってるんだか分からない無数の条件を自分に課して、結局至れる結論が「自分には答えが出せず、描けない」なのだとしたら本末転倒ですよ。

 だから、最初に言ったみたいに、技術の向上には量が必要と思っているので、出す結論は「描く」じゃないと損をしてしまいます。だからなんとなく即売会に申し込んでみては、「とりあえず描いてみるか」という結論になれるのが自分が一番得な感じがしていて、そうしています。

 

 今回描いた漫画は「TCPによろしく」というタイトルで、人間と人間のコミュニケーションに対して2人の人間が喋るという内容です。ここのところ作ってた同人誌のページがいつも想定より長くなってしまう問題があって、話を短くまとめる練習をしたいなと思って取り組んでみました。

 これまで描いている漫画は、最終的に2人の人間の会話がクライマックスになると思ったので、じゃあ、今回は最初から2人の会話にしてしまえばいいじゃん!!という非常に論理的な結論を得たのでそうしましたが、結局全く最初に思った通りの内容にはなりませんでした。でも、ここのところより短くまとまっています。31ページです。

 そういえば、ページ数を抑えられると、本の値段を上げなくて済むので助かる面もありますね。

 

 例によって途中までをpixivに上げてみました。

www.pixiv.net

 

 今回の漫画の内容は、僕が人間のコミュニケーションが苦手過ぎて、めちゃくちゃ苦しんでたことをお話にしてみようと思って描いたものです。僕が日銭を稼いでいる仕事はネットワークエンジニアとかリサーチャーとかなのですが(でも、必要なら何でもやるので自分が何屋なのかよくわからない)、機械は自分の伝えたいことが別の機械に正確に伝わるようにすごくしっかりコミュニケーションをしているなあとよく思っていて、僕よりも機械の方がちゃんとしてる!と思って、機械を尊敬しているところがあります。

 これは前に書いた関連の文章です。

mgkkk.hatenablog.com

 

 でも、それはそれとして、単純に機械に倣えばいいんだろうか?という気持ちもあって、だって、人間と人間のコミュニケーションは、「情報を早く正確に確実に伝えること」以外にも沢山種類があるわけじゃないですか。そういうもやもやしたものをお話にできないかなと思ったりして、こんな感じになりました。

 

 中年になると1年が爆速で過ぎていってしまうので、海軍が金曜にカレーを食べるみたいに、3ヶ月ごとぐらいになんかイベントがあり、そこで何か新しい自分が作ったものが発生するの、めちゃよくないですか?みたいな感じで今回もコミティアに参加します。

 よかったら来てくだされ~。

「かんかん橋をわたって」と社会の摩擦の解消方法関連

 「社会」とは何か?ということを以前から考えているんですが、僕の今のところの考えでは「同じルールを共有している集団」のことです。一対一の友人関係や家族、地域社会や会社、そして国家など、数の大小はあったとしても、そこには少なくとも1つ以上の共有するルールがあるはずです。ひとりひとり違う人格をもった人間たちが、共通のルールを守ることで、同じ利害を共有する営みが社会なのではないでしょうか?

 

 つまり、異なるルールを共有する集団同士では社会を作ることができません。異なるルール持った社会と社会の間には摩擦が起きるはずです。またひとつの社会の中でも、同じルールを共有できなくなったときに複数に分裂することもあります。

 異なるルールを持つ社会がぶつかるとき、その解消方法は3つしかありません。

 つまり、

  1. 片方の社会のルールをもう片方が受け入れる
  2. ルール同士がぶつからないように距離をとる
  3. 双方の社会が受け入れられる新しいルールを制定する

 です。

 これは社会の構成員の大小に関わらず共通して起こることです。

 対象が家庭であれ国家であれ、異なるルールを持つもの同士が接する必要が生じたとき、上記3つのいずれかの手段を使ってその解消を行います。

 

 さて、「かんかん橋をわたって」という漫画(全10巻)を読みました。Twitterの僕のタイムラインでスクリーンショットとともに情報があり、心惹かれたので読み始めたのですが、これがすげえ面白かったです。どんな漫画かと言えば嫁姑ものです。そしてそれが、だんだんと地域を巻き込んだ嫁姑ものになって行きます。

 読み進めるにつれて、どんどん漫画の種類が変わっていくような新鮮な体験でしたが、その背後に存在するものは前述の意味での社会の問題であるように思っていて、それは上記の3つで説明できるものではないかと思いました。

 

 物語の冒頭は1つの家族という社会が登場します。川南という地域から、かんかん橋を渡って川東という地域に嫁いできた主人公の萌は、姑の不二子との同居のなかでそんな社会の洗礼を受けてしまいます。同じ家族という社会の中で同じルールを共有して生きてきた家族の中で、萌は異分子です。そして、その家のルールを握っているのは不二子で、家に居続けるためには不二子の意地悪(おこんじょう)に耐えて、ルールを受け入れ続けなければならないという苦悩を抱えてしまいます。

 その苦悩を方法は上述のようにまだ2つあります。離婚や別居によりその家を出ることも、不二子との間に新しいルールを制定することも選択肢です。しかし、不二子という姑は強烈な人間性を持っており、萌にはおいそれとかなう存在ではありません。そして、そこから逃げ出すこともしない萌の姿が描かれるのでした。

 

 この時点で不二子という強いキャラクターによって既に面白い漫画なんですが、ここから強烈に面白くなる部分があります。これが僕がスクリーンショットで見て心惹かれた部分でもあるのですが、萌の元に謎の女が現れ「あなた今4位よ」と告げるのです。

 何の4位か?それは「嫁姑番付」です。この地域に存在する嫁姑の関係性で、いびられ度によってひそかに番付が行われており、不二子にいびられる萌はその4位であるというのです。それを告げた謎の女の正体は嫁姑番付5位の女、自分より不幸な女を見ることで癒されるという、悲しくも人間らしい存在です。

 

 「順位」、人間はその概念に惹かれてしまうのではないでしょうか?アイドルの人気投票では、結果に人が一喜一憂します。僕が大好きな漫画エアマスターでも、深道ランキング(ストリートファイトの強さランキング)において自分が何位であるかということの名乗りや、その入れ替えが起こることでぶち上がることがありました。あと、ごっつええ感じであったコントの、世界一位の人もめちゃくちゃ良かったですね。

 「かんかん橋をわたって」に登場する嫁たちが、自分の名乗りを嫁姑番付何位の○○と言い出すところがめちゃくちゃよく、まだ見ぬ順位の女にもワクワクしてしまいます。そしてこれもまた社会だなと思いました。

 自分が嫁姑番付の何位であるかということが、それまで面識のなかった嫁たちの中に、序列による優劣や、仲間意識を芽生えさせます。それによって、個別の家庭事情でしかなかった、各家庭の嫁姑の事情が、番付を意識する人たちの中で共有される問題と化していくのです。

 

 そしてこの物語は、クライマックスに向かってより大きな嫁姑関係へと発展していきます。それは地域を牛耳る姑、ご新造さまの存在です。ご新造さまは嫁姑番付1位の姑側であると同時にもっと大きなものでもあります。地域の男児の名付け親に無理矢理なることで、彼らを産んだ嫁たちの姑となってしまうのです。川東という地域の全てのルールを牛耳る姑こそがご新造さまで、川東で暮らす人々はご新造さまのルールを受け入れる以外の選択肢がありません。

 

 ここが、この「かんかん橋をわたって」という漫画の凄みではないかと思っています。ここで起こっていることは、どれだけ奇異に見え、漫画の種類が変わったように見えても、あくまで語られていることは嫁姑問題であり、問題とされていることの根っこは全て同じことなのです。

 つまり、嫁となってしまった人々は、その姑の強いるルールを受け入れるしかないのだろうか?ということです。この問題は、漫画の中の様々な場所で繰り返され、既に場にあるルールに無理矢理従わざるを得なくなることによって、人の心に亀裂が入ったり、不幸な事故が起こったりします。

 

 ならば、去ることも選択肢のひとつです。かんかん橋をわたって、川東という地域を去ってしまえば、その支配力は弱まります。でも、第三の選択肢はないのか?という話ですよ。姑に強制されるものではなく、地域の人々が共有できる新しいルールを制定することができないのか?という話です。

 

 不二子のおこんじょうによって鍛えられた萌は、徐々に、不二子に似た部分を獲得していきます。人の心を操り、自分の思った通りに動かすような行動を始めます。それは不二子のルールを受け入れてしまったことの影響かもしれません。例えば、ある嫁姑の間のいさかいを、萌はむしろ増幅させ爆発したところに、共通の敵としての嫁の旦那を設定することで和解に持ち込んだりしました。

 そして、この物語は、ご新造さまという共通の敵を、不二子と萌の嫁姑が共通の敵と認識し、共闘することでクライマックスに向かっていきます。

 

 かんかん橋は封鎖され、そこから去るという選択肢を奪われた中で、川東の最後の戦いが始まるのです。

 

 ご新造さまは川東を支配するほどの影響力を持った姑ですが、彼女もまた嫁であった時期がありました。それはこの地域の経済に絶大な影響力を持った女傑の元に嫁いできた嫁です。女傑は、嫁に一切何も強いることがありませんでした。ありのままに自分の幸せを追求することを認めたのです。それは、嫁姑番付の中で苦しめられる人々とは真逆の姿でした。ともすれば素晴らしい試みであるとも思えるかもしれません。しかし、皮肉なことにその果てに生まれたものが稀代の嫁であり、なおかつ絶対的な姑であるご新造さまです。

 自分がルールを強いることと、相手のルールを無条件で受け入れることは、同じ選択肢の裏表でしかないのかもしれません。女傑は自分が生み出したご新造さまによって、哀れな末路を迎えました。

 それ自体が、川東にとっての呪いとして機能しているのです。嫁をあるがままにしていれば、姑は哀れに捨てられる。その恐怖が川東の嫁姑のいさかいの根底に存在しているのです。

 

 支配し、支配されるという関係性のどちらに嫁姑がなるかという権力闘争、それが一見何の変哲もない田舎で巻き起こっていた闘争です。それを根本から解消できる存在とは誰なのか?

 

 不二子は女傑の右腕と呼ばれるような存在でした。不二子の目的はご新造さまによる支配の体制を破壊することです。不二子はその名の通り、唯一無二の賢さと実行力と精神力を兼ね備えた姑でした。不二子がその気になれば、ご新造さまを失脚させることはできたはずです。でも、彼女は長い間それをすることをしませんでした。何故でしょうか?

 それは、たったひとりの孤高の強者である不二子がご新造さまに勝ったとしても、それは新しいルールの象徴が生まれるということに他ならないからです。頭がすげ代わるだけで、同じことが起こってしまうからです。誰かが与えるルールに、盲従する人々が、支配されてしまう人々が存在し続けます。

 だからこそ、不二子は求めました。第三の選択肢を作ることができる存在をです。それは、姑と戦いながら、地域の嫁たちとの絆を深め、その上の大姑大舅たちも味方につけることができる、孤高ではなく、集団をまとめ、皆で変革を起こすことができる存在です。

 だから、不二子は萌を嫁として鍛え上げることで、ついには自分に匹敵するほどの存在に仕立て上げたのです。

 

 はちゃめちゃに戦線が拡大してく様子が、めちゃくちゃ面白い「かんかん橋をわたって」ですが、その根底にあるのは、この思想ではないかと思いました。世の中には沢山の社会の間に、沢山の摩擦があります。ひとりで生きられれば、誰ともぶつからずそこから逃げられるかもしれませんが、人が効率よく生きるにはどこかの社会に所属しなければならないのもまた事実です。

 そこで生きるためには、その場に存在するルールを無条件で受け入れなければならないのか?人は結構そう思いがちなんじゃないでしょうか?苦しみに耐え、不満を噛み殺すことで、心を殺しながらしがみついてしまうことが苦しいなら、そこを去る以外にも方法はあるはずです。萌のように。

 

 だから、この漫画はすごく真っ当な漫画だと感じて、ストレートに心に響いてしまいました。でも、やっぱり順位が、順位がめっちゃ面白いんですよね。ついに分かる1位の女の謎や、最後まで不明だった9位の女の登場に、まあ興奮するわけじゃないですか。

 

 この物語の最後に至っても、不二子は別にいい人ではありません。嫁をいびっていた目的は分かりますが、それを萌が引き受けなければならない理由はありませんし、その中で取り返しのつかない事態も引き起こしてしまっているからです。

 でも、そんな、相容れない人間同士であったとしても、ご新造さまの支配を川東から取り払うという同じルールを共有している間は社会を作ることができるということが僕は希望だと思っていて、異なる人格を持った人と人とが社会を作る上では、そうであることが良いように思うんですよね。同じものに完全に染まって同化することなしに必要に応じて協力して生きられるということだからです。

 

 とにかくめちゃ良かったので、未読の皆さんも気になったら読んでみてください(めたくそネタバレ書いてしまいましたが…)。

「神クズ☆アイドル」とオタの欲目で見てくれ見てくれ関連

 とにかく顔がいい男なので、ただかっこいいだけでお金を稼げるかも??という理由からアイドルになった仁淀くんが、実際のアイドル活動は面倒くさくてやりたくないところに、うっかりやる気マンマンのアイドルの幽霊、最上アサヒちゃんがやってきて、憑依してアイドルをやったりする漫画、神クズ☆アイドルの2巻がでました。

 

 

 アイドルって、僕は自分から一番縁遠い存在だなと思うところがあって、それは僕が人の注目を集めると、自由に動けない性質の人間だからです。三十何年生きてきていると自分が何が原因でそうなるのかという自己分析はあって、つまり、僕は自分が何かを行動したときにそれが他人の目にどう映るかということを過剰に気にしてしまっているんですよね。だからとりわけ不特定多数の人に見られていると、色んな可能性を想像をしてしまい、一歩も動けなくなってしまいます。

 どのように他人の目に映りたいかをコントロールしたいのに最適解が見当たらず、むしろ何にもできなくなるという状況です。さながら、達人を目の前にして、どう動いても負ける予想しかできず、一歩も動けないままに参りましたと言ってしまう道場破りのようなものです。

 

 なので、僕はアイドルをやりたいと思う人の気持ちはよく分からないんです。でも、だからこそ、アイドルという存在に対して自分にはできないことをやっている人だなという畏敬の念があったりもします。

 自分が立っているだけでも十分めんどうくさいのに、なぜ他人に自分の元気を分け与えようとするほどに、無限のエネルギーが湧いてくるのか?永久機関を見せつけられたような気持にもなるわけですよ。そんなものがあり得るのかって思うわけですよ。そんなもの、自分の中をいくら探してもそれが出てこないのに。

 

 めんどくさいから何にもやりたくないという仁淀くんと、死してなおありあまる元気を仁淀くんの体で表現し続ける、天性のアイドルのアサヒちゃんのコンビは、その事情を知らないファンからすると元気だったり、元気じゃなかったりの寒暖差で竜巻でも起ころうかというもので、そのガチャ具合に困惑も引き起こしてしまいます。

 ここの仁淀オタの人たちの動きがすごくいいんですよね。パフォーマンスもやる気がない仁淀くんを推すことに決めた剛の者たちじゃないですか。やる気がないのが当たり前、でも、そこにガチャ的な確率で中身がアサヒちゃんの元気いっぱい、サービス精神満タンのパフォーマンスが出てきて、自分たちが好きなものを他人にも薦める好機だと捉えて動き始めるわけですよ。

 

 オタクは自分が好きなものを皆にも好きになってもらえると嬉しい(諸説あります)。

 

 この物語は2巻に入って加速するようなところがあります。それは同じくアイドルの瀬戸内くんの登場によってのことです。しかし、トップアイドルの瀬戸内くんは何故か仁淀くんに対して怒りを覚えているのです。その理由は仁淀くんのパフォーマンスにアサヒちゃんの影響を見ることができるからなのでした。それは中身がアサヒちゃんなので当たり前のことではあるのですが。

 

 瀬戸内くんはアサヒちゃんを見て、アイドルファンになり、自分もアサヒちゃんのように沢山の人に元気を与えたいと思って、アイドルになった男です。からっぽだった自分の中に、最上アサヒのような元気の永久機関が入ってくることで、生きる力が溢れてきたわけですよ。それと同じことを自分もファンの人たちにしようというわけです。

 瀬戸内くんは仁淀くんとは全く似ていませんが、仁淀くんと似たところもあります。それはこの2人、もともとからっぽだった2人だけが、この世界から死んで消えてしまったはずの最上アサヒというアイドルを、この世に再現しようとしているからです。

 もちろん、幽霊となったアサヒちゃんに出会ったことで、自分でアイドルをやりたくないから体を貸している仁淀くんと、ファンとして、アイドルとして、自分が最上アサヒから得たものを繋いでいこうとする瀬戸内くんは真逆ですが、これ、事情を知らない瀬戸内くん側からすると、違って見えてたりもしたんじゃないですかね?

 それはつまり、自分以外にも、自分と同じものを好きで、既に失われてしまったそれを再現しようとしている人が存在するという認識です。

 

 瀬戸内くんはそれを怒りとして表現しますが、マザーテレサが愛の反対は無関心と言ったように、その怒りは、それに注目して無視できないということですよ。だって、最上アサヒは瀬戸内くんにとってとても大切な自分の一部なのだから。

 

 僕の感覚では、人間の人格は、接する相手の数だけ存在しています。例えば親と接しているときの自分と、友達と接しているときの自分と、仕事場の人たちと接しているときの自分は違う人格でしょう?(それが一緒の人もいるかもしれませんが、僕は全然違うので、全然違うんですよ)。そうなってしまうのは、それぞれの場所おける自分の立場や、目の前の相手の人格に合わせて自然に出力されているものだと思っています。だから、人によって嘘の仮面をかぶっているというわけでもないと思うんですよ。

 そしてひとりでいるときには自分だけと接する人格があります。これを「本当の自分」なんて解釈もできるんですけど、僕はそれも違うと思っていて、自分とはきっと全部です。立場や人の数だけ存在する様々な人格のバリエーションを全部足したものが自分だと思っています。

 

 だから、「この人と接しているときの自分が好き」という感覚があります。ある人と一緒にいるときに、自分から自然と出てくる人格が、自分自身にとって心地よいかどうかという話があるんです。だから、この人のことは好きだけど、この人といるときの自分の人格が嫌いとか、この人のことはそこまで好きではないけど、この人といるときの自分の人格は心地よいとかがあるんですよね。

 具体的に言えば、すごく好きな人と一緒にいるけれど、その人が別の人の話をするときに嫉妬心が出てしまうとか、その人に嫌われたくなさ過ぎてキョドってしまう自分が好きではないみたいなことで、あるいは、長い付き合いの友達に対して、もはやめちゃくちゃ好きみたいな感情は出てこないけれど、気を張らなくても間が持つので、とにかく一緒にいて楽というというのが好きみたいな話です。

 

 これは実はアイドルに対してもそうなんじゃないでしょうか?

 

 アイドルのファンは、アイドルが好きなことはもちろんですけど、好きなアイドルを応援しているときの自分が好きというのもあるのではないかと思います。僕自身はアイドルにハマったことがないんですけど、好きな漫画に相対して感想を書いているときの自分が好きだったりします(今とか)。漫画はこっちを意識して見てくれるはずがないので、完全に僕からの一方通行な孤独な応援ですよ。でも、それが好きなんです。その状態の自分が好きなんです。

 だから、アイドルが好きという感情は、一個人と一個人としてファンがアイドルと接したいというようなものには限らず、アイドルとファンが存在する空間への帰属意識というか、その場にいることでなる自分の状態が自分で好きというのもあるんじゃないでしょうか?

 だとすれば、自分のそういう側面を引き出してくれるのがアイドルという在り方で、それはアサヒちゃんのように無限のエネルギーが溢れる天性のアイドルだけでなく、瀬戸内くんのように、ファンのために、ファンが自分を鏡としてよりよいファン自身を掴んでくれる環境を作り上げるみたいな仕事って感じのことを思いました。

 

 それは同時に、ファンを目の前にするアイドルとしての自分を作り上げるという、逆の目線もあるということじゃないかと思います。アイドルという概念は「ファンとアイドルの相互作用が作り上げる、人生において心地よい時間と空間」という感じがしています。

 そのような対象はアイドルじゃなくてもいいかもしれませんけど、人生において何かは必要じゃないですか!何かしらそういうものは!!必要じゃないですか!!それの方を向いているときの自分が好きなら、そっちを向いて生きるしかないじゃないですか!!貧困と将来の不安にまみれていた頃の僕なんかは、漫画を読むことがそれに当たって、それで救われてきたわけなんですよ。

 

 天然もののアサヒちゃんは特別として、アイドルが「アイドルとして生まれる」のではなく「アイドルになる」のが普通であれば、アイドルがアイドルになっていく過程はファンにとって代え難い体験なのかもしれません。それは、自分たちとアイドルが同じ方向を向いて、心地よい場所を作っていく時間だからです。共同作業とも思えるからです。それは永遠に続くものではないかもしれませんけど、今ここにそれがあり、それがなくなったあとでも胸の中には残るでしょう?

 瀬戸内くんは「最上アサヒのファンだった」という過去形で投げかけられた言葉を、「ファンだ」と現在形に訂正するわけなんですよ。

 

 仁淀くんも仁淀くんなりに、自分を応援するファンを見て、少しずつ変化をしていきます。人間と人間の相互作用で人間が変わっていくわけですよ。そして、ここで第一部完なんですよね…。

 

 僕は、この先もめちゃくちゃ読みたいので、単行本が爆売れするなどして第二部が始まってほしいという気持ちが強く、これを読んだ人も同じ気持ちになってくれよ…という感じになっています。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 最後に、めちゃ好きなシーンの話なんですけど、自分は人一倍やる気がないんだから、自分やるアイドルには人一倍やる気のあるアサヒちゃんがいてくれないと困ると言う仁淀くんに、「仁淀くん!私… 私 人一億倍やる気があります!」と嬉しそうに宣言するところで、僕は最初に書いたように、生きる上での元気があんまりないので、なんかそういう無限のエネルギーが湧いている存在を見ると、なんか泣いちゃうぐらいに嬉しくなっちゃうんですよね。

 たぶん、ハンターハンターでゴンを褒め称えるシュートみたいな感じですよ。もしくは、将太の寿司の大和寿司の親方が、父の日に将太くんに貰ったネクタイを締め、「見てくれ見てくれ」と嬉しそうに見せびらかして街を練り歩く感じですよ。

 

 これは自分じゃないけど、自分が好きなもので、それを皆もわかってくれよと思うということで、それがアイドルで、ゴンで、将太くんで、漫画だなあと思います。

抽象化された物語を具体例で解釈してしまう関連

 物語では現実に存在する問題を固有名詞もそのまま具体的に描くものと、一旦抽象化したあと何か別のものに置き換えて描くものがあると思います。どちらがいいかという話ではありませんが、具体的なものでは、現実と密連携されているため、描写の間違いにセンシティブであったり、実際にその問題に関係している人たちの心情にも配慮する必要もあるかもしれません。

 

 例えば、ある具体的な病気を漫画で取り扱ったとして、医学的な間違いを描いてしまうと問題もあるでしょうし、実際にその病気にかかっている人がその漫画を読んだときにショックを受けるような描写があるなら、少なからず人を傷つけてしまう可能性を織り込んだ上で描くことになると思います。傷つける意図はないかもしれません。でも、傷ついてしまう人がいるかもしれないことには目を向けた方がいいと僕は思います。その上で、描くか描かないかという話だと思うからです。

 

 一方、その問題を一旦抽象化して描く物語では、現実との連携が疎になるので、その辺が緩やかになります。病気で言うなら、架空の病気であれば医学的な間違いの厳密性は軽減されますし、実際にその病気にかかっている人は存在しませんから、人を傷つけてしまう可能性も小さくなります。

 つまり例えば物語の舞台が架空の世界ならば、そのような現実との間に起こり得る摩擦を考慮する範囲が狭まるということで、人間の集団の内外で起こることや各人間の心情を描くことに集中するためには、むしろ、そのように現実とのリンクが疎の方がいいのかもしれません。

 

 ただ、具体的に描くことにメリットがないのか?と言えば、そうでもないと思っていて、具体的だからこそ今実際にあるその問題についての理解が生じるかもしれませんし、読者側も実際に自分に関係あるものであったとしたら、人一倍心に響くかもしれません。個別具体なそれはときに届き過ぎる槍のようなものであるからこそ、リスクとの両面があると思うわけです。誰かの胸に強く突き刺さる可能性が高いからこそ、その強さは毒にも薬にもなると思います。

 

 さて、抽象化されて置き換えられたものについては、読んでいる個々人が、その抽象化された枠組みと似たものを自分の経験から見つけ出し、関連付けて理解したりします。僕が思うに、物語を読むことで得られる理解は、それを作った者ではなく、それを読んだ者の中にあるので、その抽象化されたものが普遍的なものであればあるほど、個々人の中から当てはまる経験が見つけやすく、きっと心に響きやすいでしょう。

 おそらく、その抽象化された物語に感じ入る個々人には、それに対応する個別の具体的な経験があるはずです。しかし、それは人によって当然違っているとも思います。同じ赤を見て、リンゴの色だと思う人もいれば、血の色だと思う人も、共産圏やカップのきつねうどんを思い浮かべる人もいるでしょう。それぞれが異なる具体的なものを思い浮かべているのに、それを同じ抽象化された枠組みで表現することができることの良さがあって、同時に怖さもあるかもしれません。

 

 ここで憶えていた方がいいと思うのは、そこで思い浮かべた具体的なものは、あくまで自分自身がそれに関連付けて理解したというだけであって、元となる抽象的なものは、そればかりではない無数の具体的なものになぞらえることができるものだということです。

 

 チャンピオンで連載中の「BEASTARS」では、肉食獣と草食獣が同じ社会を営む世界が描かれています。肉食獣には本能的な草食獣を食べたいという欲求があることが前提となっており、そのために草食獣が喰い殺される食殺事件が起こっては社会的な問題にもなっています。

 この物語の舞台は今僕たちが生きている現実の世界ではないですが、描かれている状況や感情には、自分が覚えがあるものが含まれていると僕は理解していて、この物語もまた、抽象化されたものを置き換えて描写されているものだと言えるでしょう。

 

 しかしながら前述のように、これはあくまで「BEASTARSの世界で起こっている問題を、一旦抽象的に捉えれば、自分の具体的な経験とリンクさせて理解することができる」というだけのことです。だから、BEASTARSの世界で起こっていることは、そこから自分が連想した具体的なものだけに閉じた話ではないと思った方がいいのではないかと思うのです。

 

 例えば「肉食獣が草食獣に感じる食欲」は「男から女への性欲」に置き換えて理解することが可能かもしれません。例えば、「肉食獣と草食獣の非対称な関係性」は「人種による差別」に置き換えて理解することも可能かもしれません。

 でも、他のものに置き換えることもできるはずです。草食獣に対する食欲を抱えてしまった肉食獣の苦悩が、もし男から女への性欲にしか変換して理解できないものだとしたら、では、この苦悩は女性には理解ができないものなのでしょうか?きっとそんなことはないはずです。自分がどうしても抱えてしまう欲求が他人を傷つける種類のものであるという抽象的な苦悩は、男の性欲以外にも存在するものだと思うからです。

 肉食獣と草食獣の関係性についても同様です。力が弱いために暴力に怯えながら暮らす生まれながらの弱者の苦悩や、力が強いがゆえにその行使を厳しく監視されてしまう生まれながらの強者の苦脳、その他にも色々な要素をその中に認めることができ、それらを現実の社会にある色々な具体的なものになぞらえて捉えることができるはずです。

 

 だから、この物語で描かれているこの描写は、実は現実に存在する○○を描いているのだという理解は、その読者一人の中の理解では真実かもしれませんが、その真実は実は人の数だけあるかもしれません。自分の中だけに閉じていれば間違いのない話を、その外にも適用しようとしてしまうということは、実はもともとの描写の持っていた豊かな枝葉について、一本を残して全てを切り落としてしまう行為かもしれないと思うわけです。

 

 ジェイムズ・ティプトリー・Jrの「接続された女」という小説があります。これは広告が禁止された未来のお話で、そこでは誰もの注目を集める魅力的な人間が、さりげなく商品を宣伝するという行為が横行しています。しかし、誰もの注目を集める魅力的な人たちに、こっそり広告を依頼するよりも効率的な方法を思いついた人たちがいました。それは、そんな魅力的な人間を意図的に創造することです。

 魅力的な容姿を伴ったボディに、別の女の精神だけが接続されることになります。その接続された女は、魅力的な振る舞いを演じることを求められます。

 広告塔となることを目的として、誰の目にも魅力的に映るように作られた彼女は、見事その意図通りに大衆の注目を集めることに成功します。さらには、ある大金持ちの御曹司に見初められることになるのですが、彼は彼女を理解しようとするあまりに、接続された女の真実の姿を見ることとなり…、というお話です。

 

 このあらすじを読んで、例えばCGの容姿で人間が活動する様子の動画を作っている「バーチャルユーチューバー」を思い出さなかったでしょうか?接続された女は1970年代に書かれた小説です。となれば、この小説は予言的ではないかと思わなかったでしょうか?

 

 この「接続された女」を、ジェイムズ・ティプトリー・Jrの母であるメアリー・ブラッドリーの著作「I Passed for White」と関連付けて評する文章を以前読んだことがあります(今調べたら「狭間の視線 ─メアリ・ヘイスティングス・ブラッドリー&ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア母娘に見るpassingの政治学小谷真理)」でした)。

 僕はこの「I Passed for White」を読んだことはありませんが、白人と黒人の混血である女性が主人公で、その見た目が白人にしか見えないことから問題が生じるお話だそうです。黒人差別が今よりもずっと色濃い時代に、見た目だけならば白人として取り扱われる女性が、その出自が周囲にバレないように奔走したり、自分の子に黒人の特徴が出ないかを危惧したり、そして、夫である白人男性が、黒人男性に向ける差別的な視線に気づいて傷ついたりする内容だというのです。

 これは確かに「接続された女」と似ている部分があります。魅力的な容姿と演じられた人格を備えた広告塔の裏には、醜い容姿と真実の人格を持った接続された女が隠れているからです。

 だとすれば、「接続された女」は予言的な物語ではなく、当時既に存在していた感覚を描いたものかもしれません。

 

 他人に求められるためには、その他人の物差しに見合う魅力的な容姿や人格を獲得しなければならないということ。しかしながら、その表にあるものは本当の自分自身ではなく、作り上げ演じた結果保っているものであって、その裏側には実はそうではないものが広がっており、その露見に対する恐怖があるということ。

 このような抽象的な枠組みについて、当時は混血児という具体になぞらえて理解したかもしれませんし、現代ではバーチャルユーチューバーという具体になぞらえて理解するのかもしれません。そしてもしかすると、何十年か先の未来には、別の理解も存在するかもしれないでしょう。

 

 だとすれば、「接続された女」が描いていたものは現代の予言ではなく、人間が抱える普遍的な課題への示唆と考えることもできます。その普遍的課題が一旦抽象的に捉えられたあと、「未来の物語」という形に置き換えて描かれたことが、当時と現代の生きる時代の異なる読者に対して、それぞれ異なる具体を対象にした理解を得られるという結果になったと考えることもできるのです。

 

 抽象的な物語にはその柔軟性があって、誰もが異なるものを思い浮かべながら、同じような気持ちになることができる余地があります。だから、その物語の持つ良さを社会で享受するためには、自分自身がある物語を具体的な何かになぞらえて理解したとして、それが唯一の解釈方法だとは思わない方がいいのではないかと思っているという話です(抽象的に書きました)。

 この文章は、せっかく様々な人が自分なりに解釈できる余地を残して抽象的に描かれている物語を、この物語は実はこの問題を描いていると解釈する方が正しい!と言っている人の文章を読んで、わざわざ狭く解釈することを他人にまで求めてやがるし、くそムカつくなあと思って書かれました(具体的に書きました)。