漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

大好きなアーティストに帯コメントを貰ってめちゃくちゃうれしい関連

 8/28に「ひとでなしのエチカ」の2巻が出ました。そして、驚くべきことに僕がずっと大好きなアーティストであるところのamazarashiの秋田ひろむさんに帯文を頂いています。

 

 

 これは個人的にはもうありえないほど嬉しくて、一昨日池袋のジュンク堂で、自分の漫画がその帯文付きで平積みされているのを見て、おい!こんな良いこともう人生にないぞ!!と思って、めちゃくちゃな嬉しさで人生が満たされてしまいました。

 

 amazarashiの曲との出会いは、「0.6」というアルバムが出たときに、たまたま池袋のタワーレコードで視聴をしたことでした。僕は声から歌を好きになることが多くて、聞いた瞬間、この声は買わないとなと思って買いました。

 最初にすごく好きになったのは、そのアルバムに収録されている「つじつま合わせに生まれた僕等」という曲です。新しいCDが出れば買って一人で聞いています。ライブにも行っています。

 

 amazarashiの曲は、世の中に単純な期待を持てない厭世的なところが自分の気持ちと合うなと当時から思っていて、それでいて、それでも「生きること」を歌っているのがすごく好きだと思っています。世の中に対する絶望的な気持ちと、そして、自分だって別にろくでもないことも分かっていて、そこから目を逸らすこともできないというところに共感的な気持ちがあって、でも、別にだから死にたいという自罰的な結論にも、世の中をめちゃくちゃにぶち壊してやりたい破滅的な結論にもならず、それでもその中で自分の人生を生きて行くしかないという様子が、すごく良いなと思っています。

 聞いている時間は、「弱い自分」と「とげとげしていると感じる社会」との間における膜となってくれているように思えて、イヤホンでずっと聞きながら、色々しんどいことのある生きることを受け流せていたように思います。

 

 昔ずっと聞いていたのは「爆弾の作り方」という曲で、この曲はもしかすると、「爆弾の作り方」という言葉でネット検索をしてしまうような、自分の鬱憤を周囲を破壊することに向けてしまいかねない人のために歌われているのではないかと思っています。この歌では、自分と自分を取り巻く社会の間に齟齬を感じる中でどのように生きたいかが歌われています。

 「僕等は常に武器を探してる、それがナイフじゃないことを祈る」という歌詞はそこでのスタンスを表していると思っていて、自分を守るためには世界とやりとりをしないといけないけれど、それがナイフのような暴力でないことを祈るしかなく、amazarashiの場合は、それが歌であるという意志が歌われています。

 そのままの自分を守りたい、でも世の中は自分に対して尖っている、自分を守らなければいけない、戦うための武器が必要だ、それでも、それは他人を暴力で傷つけるようなものではいけなくて、ここでは歌がそれを実現する祈りであることが歌われています。

 それがすごく良かったんですよ。

 

 7年ほど前に、自分の初めての同人誌を作ろうと思って漫画を描いていたとき、どうしてもお話を終わらせることができなくて、お話ってどうやったら終わるんだろうとか思っていたときに、「つじつま合わせに生まれた僕等」のことを思って、この歌は、「遠い国の山のふもと、この世で一番綺麗な水が湧いた」という言葉から始まり、出来事が連なる中で、そこでは良いことも悪いことも何もかも繋がっていることが歌われます。

 世の中には、綺麗なだけで満たされたことも、汚いだけで満たされたこともなくて、その入り混じった連なりの中で、前と後ろの繋がりの一つのピースとして自分を含めた人間が存在しているということが歌われているのだと思っています。

 

 それは物語はもっとそうだなと思うところがあって、なぜなら物語は現実以上に繋がりが重視されるからです。善人が物語上の意味など全くなる死ぬことは求められないし、悪人が正しく罰せられないことにも不満の声が上がります。そこで登場人物にどれだけのことができるんだ?という疑問があって、善人は報われるために、悪人は罰せられるために物語に存在しなければならないのか?と思うと、それこそが苦しいことなんじゃないか?と思ったところがあって、そんなのを全部すっとばして、悪人が勝ったっていいんだって思ったり、そこに理不尽を感じた怒りだけが描かれたりしてもいいんじゃないかと思いました。

 

 僕がそれまで物語を完成させられなかったのは、そういったつじつま合わせしかない物語の窮屈さによるものだったんじゃないかと思います。つまりそれは、描いている途中にもう結論は決まっていると思ってしまうという窮屈さで、じゃあ描かなくてもいいじゃないかという歩みを止めてしまうことで、だから、最後にいきなり何かが起こったっていいんだと思ったら、その後は物語が描けるようになりました。だって実際の人生だってそうじゃないかと思うからです。

 

 その同人誌のタイトルも「つじつま合わせに生まれた僕等」にしてしまいました。好きな曲を漫画のタイトルにするのには憧れもあったので、その後の、その同人誌のシリーズは、タイトルをamazarashiの曲名やアルバム名を最初に設定してそれが主題歌になったとして成立する物語を描こうと思って何作も描いていました。

 僕は別に人気同人作家だったというわけではないので、コミティアに出ても、友達を含めても30冊程度しか売れない規模で何年も活動していて、ただ、それをたまたま漫画雑誌の編集さんが買ってくれたことで、その本をそのまま賞に出して受賞に至ります。

 

 それが「ねえママ あなたの言うとおり」という漫画です。投稿するにあたってタイトルを変えることも考えたのすが、タイトルは内容にとって重要な要素だと思うので、そのままにしてもらいました。これには後悔もあって、なぜならその後、漫画がWeb公開されたためにネットの検索結果に、ノイズとして僕の漫画が紛れてしまうからです。

 

 漫画の仕事はその後、ぼちぼち始めることになり、コミックビームでの「ゴクシンカ」の連載が始まってほどなくして、ヤングキングの編集さんから、今同時にできることとして、過去の同人誌の商業化をしてみないか?と提案を受けました。それは全然考えもしていなかったのですが、せっかくだからやってみようと思いました。新たに「ひとでなしのエチカ」というシリーズタイトルをつけましたが、各話のタイトルは同人誌のままです。

 出版するにあたり、amazarashiの事務所に出版社から問い合わせて貰うことにしました。自分の言葉で聞いてみようと思い、絵を添えた手紙も書いて送りました。

 

 今回、帯に言葉を頂いたりはしましたが、この頃からずっと僕は、amazarashiサイドからは公認されているわけでは全然なく、タイアップをしているなんかでも全然なく、ただ黙認されているだけです。それぐらいの距離感です。ただし、ライブに行ったときに事務所の方に挨拶させてもらったり、雑誌に掲載されると送ったりを続けていた繋がりの中で、図々しくも帯文を頂けないかと聞くことができ、それがご厚意により実現してしまったという話です。

 

 OKが出たときの僕の狼狽ぶりを編集さんが笑って話しますが、だって断ってもらって当然で、ただ迷惑だけはかけたくない(じゃあ聞くなや…)という状態だったので、これが本当に現実だとは思えなくて、浮かれ過ぎて中年の肉体でスキップしながら会社から家に帰りました。後日、帯用の言葉が届いたときに、何回も読み直しまくって、こんな、自分の漫画に合わせた言葉を秋田さんい書いて貰うなんて、そんなことあるのか??と思って、編集さんに、もう人生思い残すことはないかもしれない…などと言って笑われたりしました。

 

 2巻で同人誌として描いていた漫画の再録は終わたのですが、その締めくくりが、自分が人生のしんどい時期にずっと聞いていたアーティストに言葉を頂いたことになるのは、はちゃめちゃに嬉しい締めくくりのエンディングだなと思っていて、ありがとうございますという気持ちになりました。

 

 「ひとでなしのエチカ」は今後新作を描いていきます。各エピソードのタイトルは相変わらずですが、それはこれからもただ黙認して頂いているだけです。