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AIを利用した表現とアナログとデジタル関連

 「文章を書く」や「絵を描く」というのは表現手段です。そして、その表現を他人が見る場合には、それらは伝達手段になります。人と人の頭の中を直接つなぐことはできないので、誰かの頭の中にしかないことは表現手段を経由することで、初めて別の人に伝達することができます。

 

 ここのところのAIによって生成される文章や絵の進歩が著しく、人間がそれを書いたり描いたりしなくとも、十分実用に足るものを生成することができるようになってきています。これにより、これまで上手く文章を書けなかったり、上手く絵を描けなかったりした人が、AIのツールによってそれらを簡単に生成できるようになるかもしれません。

 

 しかしながら、「自分の頭の中にあるものを伝達する手段」として「表現」があると考えた場合、AIの生成した結果は、支持者の意図に従った生成結果ではあるものの、直接的に頭の中を写し取ったような表現ではありません。つまり、指示をした人が「意図していたものと少し違うな」と思ってしまう可能性があるのではないかと思います。

 

 いや、もともとの人が作る文や絵だってそうだろう?というのもそう思います。表現力というのは訓練を積まないと身につかない能力だと思うので、自分が書いた文章や描いた絵が、自分が思った通りにならないことも多いです。

 しかしながら、人が自分でやることであれば、徐々にいずれ一致すると感じられる可能性もありますが、AIが生成したものはそうなりにくいと思います。

 違和感を修正するために事細かに指示をするのであれば、それは自分で作っているのと近くなってきますし、そういうことをやりたくないからAIに生成してもらっているのではないかと思います。

 

 つまり、自分で作るということを100の手間で100を作ることだとする場合、AI生成のいいところは1の手間で80を作れるところです。しかし、それが自分の意図とズレていると感じて修正指示を繰り返すと80が100に近づくと同時に、その手間もまた1より大きくなり、それはだんだんと100に近づいてしまうのではないでしょうか?

 その変化のどの部分で人が納得するのか?という話がある気がするんですよね。

 

 その場合、「自分の意図とは厳密に言えば違うが、大体の方向性は合っているので、少々の差異は目を瞑ってこれが自分の意図であることにしよう」ということになったりするのではないでしょうか?

 

 この辺のことを考えていると、アナログとデジタルの関係に似ているなと思いました。アナログとは情報を連続的なものとして捉えること、そして、デジタルとは情報を離散的な符号で表現する手法です。例えば、0か1で表現するデジタルにおいては、0.68のような値があると、切り上げて1と表現することになります。なぜならその世界には0と1しか表現手段がないからです。もちろん分解能を100倍にして、0.01を1として取り扱えば0.68は表現できます。しかし、その分解能より細かいところではまた同じことが起こります。

 世の中で観測されるものはアナログ的な連続したものですが、人はその正確な再現を犠牲にしてでも、デジタルとして離散的に扱うことの便利さを得ていることが多いです。

 

 「厳密に言うと異なるが、そうであるということにすると物事を取り扱いやすくなる」という意味で、人の頭の中とAIが生成する表現の関係は、このアナログとデジタルの関係に似ているように思いました。

 この文章は僕が「似ているなと思った」ということが言いたかっただけなので、ここでそもそも言いたかったこととしては終わりです。

 

 さて、AI生成に限らず、自分の頭の中にあるアナログ的なものをデジタルに置き換えるということは実は既に日常的にやっているように思います。例えば、LINEのスタンプによるやりとりなどはそうで、異なるシチュエーションに対しても、既に存在しているスタンプを選択することで伝えることをできるようになります。

 人には、文章を書いて返答するのがしんどいときでもスタンプによる返答ならできる場合があると思います。それはスタンプはいくつかの中から1つを選ぶというだけで終わる行為だからだと思います。

 

 自分でゼロから文章を書いて返事をしようとすると、どういう書き方が適切かや、相手にどう読まれるかを推敲する必要があり(そんなことをしない人もいると思いますが、する人はめちゃくちゃします)、その作業量を考えただけで、大変だから返事がどんどん後回しになったりします。そういった大変な作業量を、スタンプ1つ選ぶことでデジタルに返答できると楽です。そのスタンプが自分の意図と完全に一致していなかったとしても、まあ回答できるので便利ということを感じます。

 

 他にはTwitterで他人の意見をリツイートすることなども同じかもしれません。何かの話題に対して、自分の意見をいい感じの言葉にまとめるのは面倒ですが、自分と捉え方が一致している人の意見をリツイートすれば、それだけで大体の目的を達成できるので楽です。でもやっぱり細かい部分では差異があるかもしれません。でもそれでも、自分で書こうとして面倒だから書けないと思っているよりは、他人の意見をリツイートする方が目的には近いのではないかと思います。

 

 自分の頭の中を既成のパーツの組み合わせで大体表現できれば、色んなことが楽になります。その代わり、アナログからデジタルに変換する過程のように抜け落ちるものも出てきます。その抜け落ちたものをどれだけ重要視するかが、そういった表現の周辺において個性として出てくるのかもしれません。

 

 80点の再現度のものであれば1の労力で出来るものに対して、100点をどれほど目指す意味があるのか?そこに労力をかけるだけの価値を見いだせるかが、人が表現をする上でのポイントになってくるのではないかと思いました。

 

 この先、今以上に、自分の頭の中の方を既成のものに合わせていけばどんどん楽になっていくかもしれません。そうなれば、目の前にある選択肢から選ぶだけで、自分とはこういう人間であるということが極小の労力で簡単に決められるようになります。

 しかし、そこに、やっぱり少し違うんだよなあと思ってしまうとしたら、その差異を正確に表現する手段としてのアナログ的な表現は、ずっと残っていくのかもしれません。