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「花束みたいな恋をした」を観た関連

 映画「花束みたいな恋をした」をしばらく前に観ました。事前に人の感想を聞いていたので、色々と警戒しながら見ましたが面白かったです。ただ、観ていて何を一番感じたかというと「不安」です。

 

 本作は、いわゆるサブカル的な趣味を持つ男女が出会いと別れを描く物語ですが、2人がそのようなサブカル趣味を持つことに対しては、あまり気持ち良くないものを感じました。それは、それらの趣味を持つということが、2人の中にある欠けたものを埋めることを目的とした行為であるように思えたからです。それだけならいいのですが、その埋め合わせの方法として、自分たちと異なる趣味嗜好を持つ人たちを凡俗なるものとして、それに対するアンチとして自分を規定することで、自分はそんなものと違って特別であるということを主張したいように見えて、しんどいなと思いました。

 

 こういった自分が特別ではないのではないか?という悩み苦しみはそのものは一般的なことで、特段愚かなことだとは思いません。自分は自分にとって特別であるという主観的な期待と、自分は70億人の中の1人でしかないという客観的な認識のギャップの取り扱い方に悩む時期は多くの若者にとってよくあるものだと思うからです。

 しかしながら、その欠落を、他者を程度の低いものだとして下に見ることによって達成しようとする行為には、いい感じの出口があるようには思えません。

 

 なので、この子たちは、この先きっとこういいった自意識の取り扱いによって、手ひどい目にあってしまうんじゃないかな?と思って不安になりました。そして、人がそうせざるを得ないほどに自分の中に確固たるものがない、という不安には共感する部分もありました。

 

 自分に価値があることを確認したいと思い、自分って価値がありますよね?と周囲に確認したがる行為は悲しく感じます。その背後に、そんな行動をとってしまうぐらいにこの人は欠けているものがあるんだなという苦しさが見えてしまうからです。

 人はそれぞれ幸せになった方がいいと思うので、その欠けている部分がどうにかして埋まればいいなと思いますが、一方で、そのやり方では失敗をするだけでは??という疑念が生まれてしまうと心配になります。

 

 そして、この物語の始まりの部分では、そこが出口のない迷路であることを誰も指摘してくれることがありません。だからこの子たちはこの先大丈夫なのか??とめちゃくちゃ不安になるわけですが、その出口の無さ明らかになるのは、2人がモラトリアムの終焉に、ついに社会との接点を持とうとするタイミングです。

 自分たちは社会から求められることがなく、何ら特別ではないという現実を突き付けられることによって幻想は壊されてしまいました。そして、社会に上手く居場所を確保できないことから、自分たちはむしろ劣っているという烙印を押されてしまうような体験をしてしまいます。

 

 こういうことは世の中に全然よくある話だと思います。よくある話を描いたことが映画になるのか?と思いますが、映画になっているなと思いました。菅田将暉有村架純の2人を起用したのは、それが成立している要因のひとつだと思います。剛腕!パワー!!

 

 欠けたものを埋めたいと感じる2人の男女が、結局それを埋めることができたのか?というと、別にそんなことはなかったという話であるように感じました。でも、それで悪いことはないですよね。

 そして、互いに特別なことが起きたと思った恋の時間は、それがいずれ終わってしまうようなものであったとしても、綺麗で価値のあるものとして、そのときその時間は存在していたなと思いました。

 

 ただ、ひとつの音楽をイヤホンを左右分けて聞く演出が象徴するように、ステレオで再生された恋(音楽)が左右で異なって聞こえていたということ、それはそれぞれ不完全であり、別れは当然の結末として描かれたように思いました。

 解決はなく、大きな成長はなく、反省はあり、受容もあり、それで人生は続いていくという物語は、実はある種の希望かもしれません。なぜなら人間の人生は基本的にそういうものだとも思うからです。何かが解決されたり、人間的成長によって乗り越えたりした人にのみ価値ある人生があるという物語であれば、そこから取りこぼされてしまう人がいるかもしれません。

 しかし、この物語はあまりにも凡なことを凡なこととして描いていて、そして、凡であることもまた物語であるという居場所を確保しているようにも思えました。

 

 そういうのがなんかすごい話だったなと思いました。