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「天気の子」が「甘い水」のオルタナティブっぽく感じた関連

 天気の子を公開初日に観たんですが、その物語の最後に至るにつれて僕の記憶の中からのっそり出てくる漫画がありました。それが松本剛の「甘い水」です。

 

 「甘い水」は、父親の命令で家族を支えるために体を売らされる少女と、閉塞感のある田舎町で外に出る自由を夢想する少年の物語です。

 この物語は、「しょうがない」と戦う物語でもあります。少女の心の中には諦めがあり、起こってしまったことを受け入れる「しょうがない」と、それがこの先も続いていくことを受け入れる「しょうがない」が存在します。体を売ることは嫌なことではあるけれど、それを、好きな男の子に知られてしまうこともとても嫌ではあるけれど、自分がその様々を「しょうがない」と我慢して受け入れることが、今を続けていくためには必要だと、少女は思ってしまいます。

 少女のそんな様子に、そして彼女をそう追いこむ様々に、少年は怒りを覚えます。しかしながら、少年は無力です。自活することもまだできない少年です。だから、好きな少女とその妹を養うこともできやしません。それでも、目の前に起き続けている悲劇的な状況が、そのままであり続けることを受け入れることができなかった少年は、少女を解放するために暴力を辞さない覚悟で動きます。それは成功し、そして失敗します。

 少女を助けることができた成功と、まだ無力な少年には彼女たちと伴に生きていくことができなかった失敗です。彼女たちは安全に生きる場所を得るために大人たちに連れられて遠くに行ってしまいます。それは少年時代の彼に淡く苦く、少しだけ甘い記憶として残る物語です。

 

 そういえば、「甘い水」というタイトルには「agua doce」とも書かれていて、これは調べるとポルトガル語です。「agua」は「水」、「doce」は「甘い」ですが、繋げると「淡水」という意味があるようです。この漫画が、なぜこのタイトルなのか、僕はイマイチ得心のいく答えを持っていませんが、淡水→混じり物の少ない純水に近い水という意味なのかもしれません。つまり、しがらみという混じり物を排除した、純粋な気持ちが存在するという意味として。終盤に登場する、逃げ出した先で少女の手から少年が水を飲むシーンがそれを象徴しているとも解釈することができますね。

 他の解釈では、「こっちの水は甘いぞ」というホタルを呼ぶわらべ歌も思い当たります。ホタルが光るのは求愛行動のためと聞きますから、これは少年と少女になぞらえられるかもしれません。その場合、甘い水とは、惹かれ合う2人が誘われる先ということになります。

 

 さて、「天気の子」ですが、僕は「甘い水」に通じる部分が沢山あると感じました。「天気の子」も少女と少年の物語です。少女には責任が存在し、それゆえの「しょうがない」があります。周りのみんなのためを思うならば選択肢などないのです。しかしながら、彼女がその責任を背負うことになったのはたまたまです。つまり、彼女でなくてはならないいわれはないのです。それでも、彼女はその責任を全うすることを選びました。でも、少年はそれに怒りを覚えるわけでしょう?当然ですよ、しょうがなくなんてないのだから。

 何の責任もいわれもなかったはずの人間が、それが一番いい選択だからと、他人の幸福の肥料として食いつぶされていく状況に、もしかすると人は普通は慣れてしまうのかもしれません。犠牲となる人数が少なく縁遠く、益を得る人数が多く近しければ、人間は簡単にそれを受け入れてしまったりするのではないでしょうか?

 

 例えば、自分たちが購入している商品が、あるいは日々利用しているサービスが、どこかの誰かの心をすりつぶすような犠牲によって支えられていたと知ったとしても、人は割と受け入れてしまうんじゃないでしょうか?全員を助けることはできないとか、そんな状況に至ったのは個人の努力の問題とか、ただ運が悪かったとか、何かしらの理屈をつけて正当化し、それらをしょうがないと受け入れていったりするじゃないでしょうか?それは他人にそう仕向ける側でもそうかもしれませんし、それを他人に仕向けられる側でさえもそうかもしれません。

 でも、少年は蛮勇です。まだ少年であるがゆえに蛮勇です。見える範囲が狭く、背負うものが少ないからかもしれません。でもだからこそ、皆のために人知れずその身を犠牲にしようとする少女の姿に対して、たったひとり明確なノーを突き付けることができます。

 

 「甘い水」では、その結果に至ったのは別離であり、その直前の一瞬の純粋な時間だけを抱えてその後の人生を生きていく結末となりました。でも、燻っているわけじゃないですか。少年が望んだものは、それだけじゃなかったと思うからです。力及ばずと納得して、記憶の中に埋もれていくことが最良の結末ではないんじゃないかという気持ちがそこにはなかったでしょうか?

 そして、「天気の子」では違います。少年は少女に会いに行きます。少し大人になって会いにいくわけですよ。ただ、「甘い水」の終わり方が悪いわけではなく、僕はあちらもとても好きです。でも、やっぱり燻りは燻りでそこにあったわけですよ。そうではない未来だってあってよかったのではないか?という燻りが。

 それを「しょうがない」と思わなかったのか?ということです。

 

 なので、「天気の子」の終盤にさしかかったあたりで、十何年も前に読んだ漫画のせいで自分の中にあったその燻りがひょっこり顔を出したように思いました。ああ、僕はこんな光景も見たかったんだなと思ったからです。

 

 これは、ヱヴァンゲリヲン新劇場版の破を見たときにも思った感情です。「私が死んでも代わりはいるもの」と言う綾波レイに、「違う、綾波はひとりしかいない」と口にした碇シンジを見たときに、最初にその「代わりはいる」という言葉を聞いて十何年も経ってから、ああ、これも見たかったなと思ったからです。

 そして、そうすることがその場の全員に共有できる正しいことではなかったということも、「天気の子」と通じているかもしれませんね。

 

 ネットの他の人の感想を見てみたところ、「天気の子」からはそれぞれの人が、過去の自分の経験から、色んなものを引っ張り出してあれと同じだとかあれと違うとかいう話をしています。それはひょっとすると、そこにある感情が、ある種の普遍的なものだからなのかもしれません。

 色んな人が、それぞれの経験の中で、同じ感情を別々の作品や自分自身の経験から得ていて知っているのかもしれないということです。そして、映画を観て、その感情を知っているよと言われているような気がしたのではないでしょうか?

 僕の場合はそれが「甘い水」だったということです。

 

 松本剛の「ロッタレイン」の1巻が発売されたとき、帯が新海誠でした。そして、「甘い水」に強く衝撃を受けたということも語られていました。その覚えもあったことから、ああ、仲間だなというような勝手なシンパシーがあったような気がします。

 十何年前の僕らは、胸を痛めて「甘い水」なんて読んでたわけじゃないですか。そのときに同じ気持ちになった人が、これを作ったんじゃないのかなと思ったからです。

 

 だから、なんか良かったな、と僕は思ったわけです。