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「HUNTER×HUNTER」のキメラアント編における人間と人間以外の話

 以下の記事を読んで、面白かったんですが、そういえば僕も以前書きかけて放置してたハンターハンターのキメラアント編についての感想文があったので、最後まで書いてみました。

 

d.hatena.ne.jp

 

 「HUNTER×HUNTER」のキメラアント編の物語は描いているものとして、「寄生獣」との共通する部分があると僕も思っています。また、「寄生獣」の物語とは「人間はなぜ人間であるか」を描いた物語ではないか?という解釈について以前軽く書きました。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 それはつまり、天才的な頭脳を持つ寄生生物である田村玲子が、その死の間際に、寄生生物でありながら人間性とも思えるものを獲得したように見えたからです。「この種を喰い殺せ」という寄生生物の本能に下された命令に相反するような性質を獲得した田村玲子は、果たして寄生生物として異常な存在だったのでしょうか?もしかすると、それは、人間がその長い歴史の中で獲得するに至った「獣から人間へと変化する過程」を、その高い学習能力で爆速でなぞり終えたということであったのかもしれません。多くの寄生生物たちはだんだんと人間社会に溶け込んでしまいました。彼らもまた様々な過程を経て、寄生生物でありながらある種の人間性を獲得したのかもしれません。

 さて、もし寄生生物が人間性を獲得したのだとすると、ここでいう「人間である」ということはどういうことでしょうか?「人間」であるかどうかは、遺伝子によって規定されるものであるならば、人間以外は人間になることは不可能です。だとすると、このような解釈はどうでしょう?「人間」とは「人間社会」という場の合意形成に参画できるということを意味するというものです。人間社会にその一員として参画し、その場におけるルールをはみ出さず、可能な範囲で貢献しさえすれば、遺伝子的に別の生物であれ、「人間」として捉えられるのかもしれません。それは逆説的に、人間社会の合意をはみ出してしまうならば、同じ遺伝子をもった生物としての人間であったとしても、「人間」とはみなされないということを意味します。

 

 ハンターハンターにおけるキメラアント編は、「キメラアント」という特殊な生物によって引き起こされた大規模な生物災害(バイオハザード)を取り扱っています。キメラアントは「自己の遺伝子」と「食料として摂取した別の生物の遺伝子」を混ぜ合わせることで前世代とは別の形質を持った次世代を形成するという特徴の生物です。その生物災害の元凶となったキメラアントの女王は、人間を捕食できるほどに大きな体を持ち、人間と自己と他の動物を混ぜ合わせたような特殊な次世代キメラアントを大量に生み出してしまいます。そして、人間の知性を持ちながら、もはや人間ではないキメラアントたちは、その欲望のままに効率よく人間を狩るのです。

 

 彼らの中には人間であったときの記憶を持つものも含まれます。しかし、果たして彼らは人間でしょうか?あるいは、人間以外なのでしょうか?

 

 キメラアント編の導入の部分で、先輩ハンターであるカイトに連れられた主人公ゴンは、知性を持った別種であるキメラアントを倒すことに対し「仲間をゴミって言うような奴等に同情なんかしない」と発言します。そしてそんなゴンに対し、カイトは思います、「仲間想いの奴がいたらどうするんだ?」と。これは前述の「人間社会における合意形成」の話として解釈することができると思います。「仲間を思いやること」が人間社会における規範と解釈すれば、彼らは人間ではないから倒せると言うゴンに対して、相手が人間だったとしても倒せるのか?とカイトは思うという構図になります。

 

 そんな、次世代のキメラアントたちの中で、注目すべき存在が3つあります。ジャイロ、レイナ、そしてメルエムです。

 

 まず、ジャイロはキメラアントが繁殖するきっかけとなったNGLという国の影の支配者であった男です。彼は幼少期の父親との関係性から、父に言われた「人に迷惑をかけるな」という言葉を「人間に迷惑をかけるな」と解釈します。つまり、自分は人間ではなかったのだと認識するに至るのです。人間でない存在は、人間の規範を守る必要がありません。ジャイロは世界に悪意をばらまきます。キメラアントになったことで、多くの人々は人間から人間以外に変わりましたが、ジャイロは違います。なぜなら、彼は最初から人間ではなかったからです。キメラアントになったことは、彼の認識を追認することでしかなく、劇的な価値観の変化をもたらすことはありませんでした。ジャイロはキメラアントに変えられたとしても、その強い自我からキメラアントの一軍の序列には加わらず、ゴンたちとも戦うことなく、その場を去ります。

 

 次に、レイナは、キメラアントに変えられてしまった年端もいかない少女です。全てが終わったあと、彼女は自分が生まれ育った村に帰ります。しかし、その姿は蟻の姿、人間であった頃の面影は残っていません。レイナは恐れていました。自分がかつての人間の姿ではなく蟻の姿であるということで、自分がかつてのように受け入れられないかもしれないということにです。蟻のままの姿で、Let It Goできるかどうか(という駄洒落が言いたかったんです)、その恐れと不安は、母親が彼女を見た瞬間の「レイナ!」の一言で崩れ去ります。「どうしてわかるの?」というレイナに、「わかるよお母さんだもん、レイナのお母さんだもん」と応えます。蟻の姿になったとしても、レイナは人間のままでした。そして、それは周囲がその事実を受け入れたからこそ達成できたものでもあるかもしれません。

 

 最期にメルエムです。人間をベースとした多くのキメラアントは人間⇒人間以外と変化しました。ジャイロは人間以外⇒人間以外であった存在です。そして、レイナは人間⇒人間でした。となれば、残るメルエムは何かと言うと、人間以外⇒人間となる存在です。女王が生んだ次世代のキメラアントの王メルエム、彼は何故、いかにして人間へと変化したのでしょうか?

 

 メルエムは東ゴルトー共和国を支配し、まずはそこを自分の国とします。そして、そこでコムギという少女と出会うのです。盲目の彼女の唯一の特技は「軍儀」というボードゲーム。彼女は軍儀の世界的なトッププレイヤーであることをその存在価値として生きていました。盲目の彼女はメルエムが人間ではなく蟻であることに気づきません。そして、溢れ出る才能から、急速に知性を身に着けるメルエムが、コムギにだけは決して軍儀で勝つことができないのです。

 お気づきでしょうが、「軍儀」というゲーム名は、メルエムが虫から人への変化することを象徴しています。軍蟻から軍儀へということです。軍儀を通じて、コムギと交流することで、メルエムは初めて自分以外の尊敬すべき存在を認識することができるようになります。メルエムはその王としての物腰から忘れがちですが、まだ生まれたばかりの何も知らない存在でもあります。虫は親から物を教わることなく自分のやるべきことを知っています。メルエムも親を必要とはしません。最初から自分のすべきことを知っています。メルエムはその本能から、人間を家畜のように扱い、食料や道具としか思いません。しかし、そんなメルエムが、そんな人間たちの中から、コムギという、守り、生かし、伴に歩みたい存在を見つけました。それはつまり、まずはひとりとはいえ人間を尊重することを始めたということです。寄生獣で言えば、人間の赤ちゃんを産み育てた田村玲子が、その過程で人間性のように見えるものを獲得したように。

 

 そんな人間になりつつある可能性を見せたメルエムを殺したのは、人間が作った非人道的兵器「貧者の薔薇」です。「貧者の薔薇」は、爆弾の直接的な威力だけでなく、それを受けた者たちを毒の媒介に変え、生き延びて逃げた先でも人を殺し続ける恐ろしい兵器です。この、人間以外(メルエム)を殺した人間(貧者の薔薇)は、見方を変えれば、人間(メルエム)を殺した人間以外(貧者の薔薇)と捉えることもできます。人間以外でありながら人間になろうとした存在は、人間の中にいた人間以外の存在に殺されてしまったのです。

 

 そして、そんな死ぬ行くメルエムを受け入れたのもまた人間コムギです。コムギは、メルエムの運んできた毒で自分も死ぬことを知りながらもその最期の時までメルエムと軍儀を打ち続けました。

 コムギは軍儀によってのみ社会に受け入れられた存在です。彼女が人間であると社会に認められたのは軍儀を打ち続けているときのみであったと言えるかもしれません。軍儀を眼前に、2人のかろうじて人間であった存在の命が尽きようとしています。そこにあったのは、2人だけの世界でしょう。それは2人だけの社会です。外の社会とは別に構築されたその社会において、もはや軍儀を媒介としなくても、メルエムとコムギは人間なのだと思いました。互いに認め合った人同士なのですから。その小さな最小単位の人間社会は2人の死をもってその短い歴史の幕を閉じます。

 

 このように、キメラアント編では、そもそも人間とは何をもって人間であるかということが問われているのではないか?と僕は解釈しました。それは、遺伝子という人間とそれ以外を容易に切り分けることができる便利なナイフを奪われたときに、より難しくなります。

 同じ生物であるから人間と言っていいのか?あるいは、違う生物だったとしても人間は存在するのか?人間というのが、同じ社会を構築する上での合意形成を行った集団の呼び名だとするならば、その人間社会は世界に唯一絶対のひとつなのでしょうか?人類の歴史を見ればおそらく違います。複数の人間社会がこの世に存在するのだとするならば、人間社会と人間社会が対立した場合にはどうなるのか?人間社会同士が戦い、人間の集団が別の人間の集団を殺すということもあったでしょう。それを内側から見るか外側から見るかで、「人間」の意味は変わるかもしれません。このキメラアント編の結末のように。

 

 「幽遊白書」の仙水編で、かつて霊界探偵であった仙水忍は、悪い妖怪を捕まえる仕事に従事しながらも、妖怪たちの命をもてあそんでいた人間たちの姿を目にして、その場にいた人間を皆殺しにしました。そして仙水は発言します、「ここに人間はいなかった」と。仙水はそこを起点として、人間界を滅ぼすために動き始めます。彼は人間の汚い部分を目にし、自分が人間であることに強い苦痛を感じます。仙水は、来世では妖怪に生まれることを望みました。そして、彼を倒した幽助は、先祖の大隔世遺伝によって人間ではなく既に妖怪となっているのでした。

 

 では、妖怪こそが善であり、人間は悪なのでしょうか?それも違うでしょう。やはり悪い妖怪もいれば、善い人間もいます。人間や妖怪というのは、最初から与えられた属性でしかなく、それ自体が何かを指し示すモノサシとしては不十分です。キメラアント編はその延長の物語なのかもしれません。妖怪と人間という綺麗に分かれるはずのモノサシでは測れなかった部分を、キメラアントと人間に置き換え、そして、キメラアントの性質は人間と人間以外の境界をひどく曖昧にします。

 ハンターハンターのキメラアント編は、「彼らは人間である、なぜなら人間として生まれたから」という強い理由を失ったとき、改めて見えてくる「人間とは何か?」という問いについて描かれた物語なのではないかと僕は思いました。

 さて、これは僕の一面的な解釈でしかありませんが、他のみなさんは、この物語の中で誰を人間と感じ、誰を人間以外と感じたでしょうか?

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