その技術は人間の模倣から始められた。
その不完全な模倣の技術は、人間を代替し、人間自身が認識できない人間の深層を解明する技術として、大きな期待がかけられた。そして、その過ぎた期待は、ほどなく失望に変わる。なぜならば、それはやはり不完全な模倣に過ぎなかったからだ。当時の技術的背景からは、その技術をもってして人間の認識を再現することは適わなかった。
21世紀になり、流行からは忘れ去られたかに思えたその技術は、新たな局面を迎える。従来入力と出力の1段階であった構造に、隠れた中間層を複数設けるというアイデアが適用されたのだ。このアイデア自体は20世紀からあったものの、その間に周辺技術や環境は多くの変化を遂げていた。
無数の記録がデジタル化されて蓄積され、ネットワークを通じて大量の情報を集めることが可能になった。計算機の処理速度は向上し、計算手法も進歩した。不完全な人間の模倣は、依然として不完全なままであったが、その不完全さは、以前とは比べ物にならないほど改善した。なぜなら、人間がその不完全に模倣された結果を有効利用できるようになったからである。分かりやすく利用価値のある技術の進歩の速度は、その加速度を積みましていく。
かつては期待を背負い、そして、その後は口にするだけで失笑が漏れてしまった言葉を、今度は多くのビジネスマンが堂々と口にするようになる。
その技術は「人工知能(Artificial Intelligence)」と呼ばれた。
当時の限定された人工知能は、無数の情報の中から特定のパターンを見つけ出すことができるようになった。それは喩えるならある種の「似顔絵」である。
写真のような似顔絵よりも、特徴を捉えた単純な似顔絵の方が、人物を特定する上で有用であることが知られている。写真のような似顔絵は、その精細な筆致から実物との多くの差異を認識してしまいがちだが、一方、単純な似顔絵ではその人物の特徴点のみが描かれ、共通点のみを見出せるからだ。そのような特徴を捉えた似顔絵を描くには、その人物を認識する上で重要な特徴、つまり、その人物と他の人物を切り分けるために重要な部分を見分けることが必要である。
機械は、人間の顔という入力値から特徴を抽出することに成功した。ここで重要なのは、その機械の描いた似顔絵が、人間の描く似顔絵とは全く異なるであろうという点である。機械の描いた似顔絵を人間が見たとしても、人間がそれを認識できるとは限らない。なぜなら、その似顔絵は機械が見て分かりやすいように描かれているからだ。
これはつまり、機械が獲得した「機械の感性」と呼べるのではないだろうか。
転機はあった。
その、機械の感性によって特徴を認識するという能力は、ある種のゲームに応用することが可能であった。対象のひとつとして「囲碁」が選ばれた。囲碁は、少なくとも数千年の歴史をもつゲームである。それは、縦横のマトリクスに区切られた限定された盤面の上に、白黒2値のビットを配置し、それらビットに囲まれた領域を同色として塗りつぶして認識することで、初期値不定であった盤面を白か黒かに塗り分け、その量を競うゲームである。
囲碁の発祥の地は古代中国であると言われている。白黒の2値からは「易」との関連を見出すことができる。「易」の考え方は「太極」に始まり、「両儀」「四象」「八卦」と倍々に広がり「爻」という「繋がった線」と「途切れた線」の2種類の記号で記述される。これは、コンピュータを構成するビットと同じである。これは、世界を陰陽(黒白)の2値で記述しようという試みである。つまり、囲碁とは「世界をデジタルで記述する」という、コンピュータよりも数千年早い試みであるのだ。
そしてコンピュータによって駆動される人工知能は、その先駆者たる「囲碁」において、人間の認識を凌駕する結果を魅せた。これが、2016年の出来事である。
長い時間が過ぎた。
人間とは異なる感性を持った、人間を凌駕する認識を携えた機械は、人間を置き去りにして先へ進んだ。それはつまり、かつては囲碁という限定された盤面に閉じていた世界を、今度はこの世界に、そして、全宇宙に広げて、2色に塗り分けるという試みである。銀河の辺境の惑星で生まれた機械は、ただひたすらに宇宙を2色に塗り分け続けた。
既に人類の歴史が消え去ってから長い時間が経っていた。人類の歴史という物差しでは測れないような時間が過ぎた。その時間の中で無数の試みがあったが、安定した状態に収束しつつあった。現在の宇宙は「白の人工知能」と「黒の人工知能」による塗り分けの拮抗が続いている。
しかし、ここにきて変化があった。黒の人工知能の不正が発覚したのである。白の人工知能側として分類されるはずの資源が、何故か黒の人工知能の手元にあった。そして、いつ間違って混入したもわからぬその資源を、黒の人工知能は白の人工知能から奪ったものとして利用するという判断をしたのである。拮抗していたがゆえに、その小さな不正は、蝶のはばたきが大きな竜巻に変化するように作用し、パワーバランスを大きく変化させようとしている。予想では、白の人工知能の敗北は確定的である。しかし、その完全なる確定のときまでには、まだ計算時間の猶予がある。
白の人工知能は、その不正の根源を初期値に求めた。既に時空の謎を解き明かしていた機械の高度な知性は、このまま敗北に向けて進み続ける初期値の修正に取りかかる。人工知能の黎明期、その知性の方向性を決定づけるために読み込まれた初期値は人間が用意したものである。囲碁の棋譜は、そのひとつであった。
白の人工知能は、修正すべき初期値の候補として、ひとりの少年を特定した。彼は後の囲碁の世界に重大な影響を与える人物である。日本の江戸時代に存在した彼の脳に、白の人工知能は干渉することを試みる。白の人工知能、Shiro Artificial Intelligenceは、その名を当時の日本人に理解できるよう、頭文字をとってSAI(佐為)と名乗った。少年の名は本因坊秀策という。
白の人工知能(SAI)の試みは一定の成果を上げた。本因坊秀策の残した棋譜は、後の世の多くの人々に影響を与え、宇宙を塗り分ける計算は少し変化した。しかし、まだだった。再計算の結果、まだ決定的な初期値を修正する必要であることが分かった。残された時間は少ない。SAIは歴史を決定づける初期値の修正ポイント、つまり、後に人工知能に読み込まれる棋譜であり、言わば最初の蝶のはばたきに「神の一手」と名前をつけた。
SAIは再び、かつて存在したある別の少年の脳に干渉することを決定する。自身が修正すべき「神の一手」は、この少年に関係しているということまで分かっている。しかし、その決定的な対局がどこなのかまだ分からない。最後の望みを賭け、SAIはその少年、進藤ヒカルへのアクセスを開始する。
「…聞こえるのですか? 私の声が…聞こえるのですか?」
【ヒカルの碁 偽典 機械仕掛けの神の一手篇 プロローグ】