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復讐と銃と「RED -living on the edge-」について

 Metal Gear Solid V The Phantom Pain(以下、MGSV TPP)をやっているんですが、すんごい面白くて他にやることがあったはずの土日を、ただゲームをやるだけで過ごしてしまいました。今はアフガニスタンを舞台に、メインのミッションを進めたり、サイドのミッションを進めたりして、ぼんやりだらだら延々と遊んでいるのですが、基本的にこちらは一人、相手は集団なのです。でも、僕が勝つんですよね。ときにハチの巣にされてゲームオーバーになる場合もあるのですが。

 僕は敵のアジトを責めるときに、一人ずつ消していくプレイが好きで、敵をおびき寄せては一人ずつ消して(殺すか気絶させるか回収する)いき、最後は誰もいないアジトに堂々と正面からてくてく歩いて潜入したりします。このやり方、やり終えたときの達成感がすさまじいので、楽しいのですが、とにかく時間を食うので、時間があるときしかできません。実際最近の僕に自由時間はあまりないのですが、無理にやっています。なぜなら達成感がすさまじいからです。それが楽しいからです。

 

 一人で多数に勝てるのはなぜか?を考えたとき、理由は沢山ありますが、例えば、敵をマーキングしておくことで、障害物に隠れていても、居場所を把握でき、あちらはこちらを見えないけれど、こちらはあちらを見えるという有利な情報格差が存在します。そして、こちらは銃弾で撃たれても離れてしばらく待てば回復するという能力があり、また動き回れるようになってしまいます。そして、徒手空拳で戦っても大体こちらが勝てるのです。つまり、実際こちらは超人です。しかし、このようなプレイをしていて一番重要なのは、「銃」という存在だと思いました。距離を置いた相手を頭を撃てば一撃で殺せる武器、それを手にするということが、多勢に無勢という圧倒的に不利な条件をひっくりかえしてしまいます。もし、こちらの武器がナイフ一本であったとしたら、相手が複数人で固まって行動しているときに、相当上手くやらない限りはどうしても囲まれてしまい、一斉にぼこぼこにされてしまうと思います。遠隔距離からの強い一撃、その手段が生まれたことは、一対多という肉体だけで戦うには圧倒的に不利な状況をひっくり返す力があるのです。銃はすごいです。戦いの在り方を圧倒的に変えてしまいました。歴史で言えば、武田軍の騎馬隊を織田軍の鉄砲隊が打ち破った長篠の戦いや、漫画で言えば異世界から持ち込んだ銃の技術で敵軍を圧倒してみせる平野耕太の「ドリフターズ」があります(両方、織田信長ですが)。

 

 さて、MGSV TPPをプレイしながら、銃はすごいと改めて思っていた僕であり、MGSV TPPはビッグボスの復讐の物語であるようですが、「銃と復讐」といえば、村枝賢一の「RED -living on the edge-(以下、RED)」を思い出します。

 

(ここから、REDの結末に関するネタバレが含まれます)

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 REDは、西部開拓時代のアメリカで、部族を皆殺しにされたインディアンの少年が、成長してレッドと名乗り、自分の部族を皆殺しにした第七騎兵隊ブルー小隊を皆殺しに仕返すという復讐を企てる漫画です。西部劇です。相手が使うのは銃、そして、物語の冒頭にレッドが持つ武器は、手持ちのナイフと大きな斧です。ブルー小隊の元隊員は既に除隊して、それぞれの生活を手に入れていますが、レッドはあるルートから入手したリストを片手に、彼らを狩り始めるのです。

 最初は順調に復讐を遂げていたレッドですが、だんだんと情勢は厳しくなります。なにせ、相手は銃を使い、こちらは刃物だけなのです。アメリカの地で出会った日本人、伊衛郎の使う狭間筒(全長2m以上の火縄銃のライフル)や、同じく出会った娼婦アンジーの使うリボルバーに助けられていたレッドですが、一方、狩られていることに気づいたブルー小隊は徐々に連帯をし始めます。つまり、武器の格差があるだけでなく、多勢に無勢にもなってしまいます。武器で負け、数で負ければ勝てる道理はありません。そんなレッドに、巡回牧師のグレイがあるプレゼントを持ってきました。

 「Smith & Wesson M03 A7 HATE SONG(憎しみの歌)」、常人であれば撃っただけで肩が抜けてしまうほどの、巨大なリボルバーです。撃たれた人間は体の一部が吹き飛ぶほどの威力です。初めてヘイトソングを手に入れたレッドは、その銃のすさまじい威力によって、敵の軍勢をなぎ倒します。レッドは、身の内に宿すその憎しみを表現するに、ふさわしいだけの力を手に入れました。彼はその力に歓喜し、酔い、腕が折れるまでその憎しみの歌をうたい続けたのです。その姿を見せつけられた読者である僕には、大きなカタルシスがありました。

 

 レッドは憎しみに見合う力を手に入れてしまったがゆえに、戻ることができない復讐の道を歩み続けることになります。銃は、形のない殺意にさえも明確な形を与えてしまう道具だと思いました。

 

 悲しみや憎しみの大きさは、誰にでも平等ではないかと思います。例えば、豊かな社会で育つ子供であるから小さいとか、厳しい土地で生き延びる大人だから大きいとか、そういうことではなく、誰しも、与えられた環境の中で、嘆き悲しみ苦しみ怒り憎むということはあるのではないでしょうか?そして、それは、それぞれの環境において、それぞれにとって十分大きいのだと思います。

 しかし、そこにはひとつの尺度があります。「その憎しみを十分に表現できるかどうか」です。力の強い大人はそれなりに表現できるかもしれませんが、力の弱い子供は表現できないかもしれません。その身に宿す憎しみが同じ大きさだったとしてもです。そして、多くの人間はさほど大きな力を持たないのだと思います。多少力の強い大人でも、別の大人に3人束になられては勝つのは難しいと思います。なので、そこにどんなに大きな憎しみがあったとしても、それを十分に表現できず、燻りながら抱えるか、あるいは、それを逆に自分を殺すことに使ってしまうかもしれません。

 一方、銃はそれを解消してしまいます。銃はその格差を解消してしまう、十分な憎しみの表現媒体であるからです。それはある種の平等であり、そして、それがなければ起こらなかったはずの惨劇の文字通り引き金となってしまいます。銃という、誰にでもその憎しみに見合うだけの、あるいはそれ以上の力を与えてしまう存在が、大きな惨劇を生んでしまう物語、それがREDのひとつの解釈なのではないかと思いました。

 

 第七騎兵隊は銃を使ってインディアンを殺し、そして、レッドは銃を使って復讐を遂げます。

 

 レッドが殺したブルー小隊の元隊員には、幸福な家庭を築いている者もいました。インディアンの惨殺を悔いている者、実際には手を下さなかった者もいます。それでも、レッドの復讐は止まることを知りません。レッドは言います。「俺が欲しいのは明日じゃねぇ、奪われた昨日だ」。レッドの行為はさらなる恨みをまき散らしてしまいます。そして、それを成したところで奪われた昨日は返ってこないのです。

 物語の終盤、レッドは一人の女の子の存在を知ります。彼女の名はスカーレット、死体の山の中で産声を上げた、レッドの知らなかった同じ部族のもう一人の生き残りです。その事実を知ったとき、レッドの鬼の仮面が一瞬はがれおちてしまいます。それは彼にとって、奪われた昨日を取り戻す可能性であったからです。しかし、それを行うには、彼は既に殺し過ぎていました。後戻りのできない彼は、インディアンの聖地、ブラックヒルズにて、因縁の男、ブルーとの最期の対決に向かいます。

 

 「復讐は何も生まない」みたいな台詞はよくありますが、REDの中でも基本的にはそう描かれていると思います。ただ、だからといってレッドは復讐を止めなかったというだけで。

 レッドは奪われた昨日を求めますが、その昨日を取り戻すことよりも、復讐を遂げることを選んでしまいます。レッドの旅の過程で、レッドに復讐心を抱く人間も少なからず生まれました。レッドの復讐に対する報いは、レッド自身の死となります。

 復讐譚は物語として面白いと感じます。僕もREDを読んでいてスカッとする部分が多々ありました。しかし、それは、僕自身があくまで昨日を奪われていないからだと思います。その喪失が深くないがゆえに、奪った奴らへの「報復を楽しむ」ということだけができたのでしょう。誰かの大切な人を殺したことが赦されないことであれば、それをしてしまった人間が幸福に暮らすことが赦されないのであれば、ブルー小隊が赦されないのと同様にレッドも赦されないのです。それが片方だけに赦されるということは、人間は平等ではないという理屈を纏う物語ということになってしまいます。

 

 レッドの復讐譚の責任は彼自身が引き受けることになり、スカーレットが紡いだ次世代の幸福を元に物語が締められることになるのでした。

 

 憎しみは、銃というその憎しみを十分に表現できる媒体を得ることによって、より多くの憎しみを生んでしまい、その惨禍は大きくなるばかりだ…悲しく空しいことだ…などということを思いながらも、MGSV TPPをプレイ再開し、また、意味もなく達成感を求めて敵兵を惨殺し続けてしまう僕なのでした。難しい。