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「ダンジョン飯」とダンジョンの生態系の話

 九井諒子の「ダンジョン飯」、面白いですよね。ダンジョン飯というのはその名の通り、RPG的な世界のダンジョンで飯を食う漫画です。なぜダンジョンで飯を食うかというと、食わないとお腹が減ってしまうからです。お腹が減り過ぎるとなんと死んでしまうのです。そして、ダンジョンで飯を食うには、外から食べ物を持ち込むか、ダンジョンの中で食材を調達するかしかありません。ダンジョンで調達できる食事と言えば、そう、モンスターです。この漫画はモンスターを料理して食べる漫画です。

 

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 RPGにおけるモンスターという存在は、生物として見るには不自然です。なぜならば、RPGの世界ではモンスターには基本的に「役割」しかないからです。その役割とは、「冒険者たちの旅の障害となる」こと、そして、「障害を乗り越えた冒険者たちに経験値とお金を与える」というものです。RPGの中ではモンスターには、基本的にその役割しか認められないため、その他の部分が空白のままになっています。そして、それらのモンスターを生物として捉えるためには、その空白を埋める必要があるのです。この漫画のひとつの解釈は、生物としての情報が欠けているモンスターに残る、その空白部分を埋める漫画であると思います。

 そもそも「生物」とは何か?というのを定義するのは難しい問題ですが、ここでは、話の都合上「自己の生存を出来る限り追求し、死ぬ前に自分の子孫を残す存在」とすることにします。モンスターが「冒険者たちの障害」でしかない場合、この「生物の特徴」は満たす必要がありません。なぜならば、その役割だけであれば「冒険者たちに殺されるために存在し、無から無限に湧き出る」という条件であったとしても成立するからです。RPGのモンスターは生物でなくても成立しますが、もし、生物であったとしたら、という思考実験がこの漫画の中にはあると思います。そして、生物であるということの面白いところは、単体では存在することが難しく、そこに生態系が存在するということです。

 

 ここで言う生態系とは、「ある生物が生存し、子孫を残そうとするということと、別の生物が生存し、子孫を残そうとするということが絡み合うことで循環し続ける仕組み」のことを言っています。生物が何代にも渡って生きるには生態系が重要です。なぜならば、生態圏の循環がなければ、子孫を残せず、絶滅してしまうからです。

 ダンジョン飯の中では、例えば、RPGでお馴染みのミミックというモンスターが、「ヤドカリのような生物」として描写されます。ミミックは「宝箱の中に潜み、冒険者たちを急襲する」モンスターです。ヤドカリが貝殻などに入り込むのは、おそらく貝が作り出す強固な貝殻を、自分の外骨格のように利用するためのものでしょう。このようにミミックにヤドカリの性質が補完されることで、ミミックを生物として理解しやすくなります。宝箱という外骨格の中で守られて生育し、宝箱という冒険者を惹きつける存在となることで、生存のための獲物に有りつきやすくなる存在がミミックであることが分かるのです。

 また、ダンジョン飯にはコイン虫というモンスターも存在します。例えば、Wizardryシリーズのクリーピングコインのように、コインが何故か襲ってくるというモンスターがRPGには存在しますが、ダンジョン飯では、その正体はコインの姿をした虫のモンスターであると説明されるのです。彼らが擬態する理由もまた、その姿が冒険者たちを惹きつけるからでしょう。モンスターたちは自己の生存のために適した場所で適した形をしています。

 ダンジョン飯の中ではこのミミックとコイン虫の関係性が描かれます。コイン虫はミミックに卵を産み付け、宝箱の中でミミックを食べながら成長する特徴があるというのです。そうすることによってコイン虫は、宝箱の中で安定的に食料を確保しつつ守られて、コインに擬態して存在することが可能になります。そして、宝箱に入ったコインに擬態することで、冒険者の財布を通じて遠くに移動することが可能になるという寸法です。こういった性質の一部(他の生物に寄生して安全に生育する)は、実在の昆虫にも存在し、つまりは、生存のために最適な手段をとりながら生きているのです。

 

 RPGのダンジョンの中のモンスターはぶっちゃけたところ架空の存在ですから、生物としての辻褄はそもそもあっていないのです。しかし、ダンジョン飯では、実在の生物の特徴を上手く取り込むことで、たいへん分かりやすく辻褄が合わせられています。それにより、今まで疑問であったモンスターたちに新たな立ち位置が与えられ、「なるほど!」という気持ちとともに、見慣れた存在が改めて新鮮に思えるという面白さがあります。

 「ゲームの都合で存在する」というだけでもよいはずのモンスターたちが、実は互いに複雑に絡み合い、生存のために最適な行動をとっているということがわかるのです。そして、そこが埋められることでそれらモンスターを調理する場面でも、実際にある料理繋げて想像しやすくなるのです。前述のミミックであれば、ヤドカリなので、実在の甲殻類を食べるのと似せて理解することが可能になりました。

 

 このように、ゲームの中では省略されるか簡略化して描写されがちな冒険者たちの「食」について、リアリティをもって描写されるということは、また、同じく省略されがちな排泄に対しても描写されるということに繋がります(「ラサール石井チャイルズクエスト」には尿意という状態がありましたが)。ダンジョン飯では、ダンジョン内には冒険者たちが多数存在するため、トイレが整備されている場合もあるという描写が存在します。なぜトイレが整備されているか、誰がそれを維持管理しているかというと、そこにもある種の生態系のようなものが存在しているのです。実は、トイレから汲み取った排泄物から肥しを作り、農業をしている人が存在しているのです。ここに存在しているのも循環です。何かの存在があるならば、その理由があるはずです。理由があるから、継続しているというリアリティだと思います。

 

 ダンジョン飯の単行本は現在2巻まで出ていますが、3巻に入るはずのお話に「ダンジョンという生態系」に関する描写があります。ネタバレになるので詳細は割愛しますが、あるモンスターが倒されることで生態系の循環が壊されてしまうということが示唆されるのです。そのモンスターはあるものを摂取し、魔力を生み出すのですが、ダンジョンがダンジョンであることを保つためには、それを維持することが重要だということが分かります。循環がないダンジョンは短命でなくなってしまうでしょう。もしかすると、よいダンジョンとはそこに多数の冒険者がやってくることを含めて循環が成立している生態系なのかもしれません。地球をある種の生物として捉えるガイア仮説のように、ダンジョンもまたある種の生物として捉えることが可能かもしれません。冒険者たちをおびき寄せて食い、養分として取り込むことで、存続し続けるのがダンジョン、その場合、モンスターたちはその身の内で共生する微生物のような役割となるのです。

 

 さて、そんなダンジョンの生態系を題材にしたゲームは既にあります。「勇者のくせになまいきだ。」です。このゲームではプレイヤーは破壊神として、ダンジョンをその中のモンスターの生態系を上手に循環させながら作り上げることになります。ダンジョンに存在する養分を上手く誘導することでモンスターを生み出し、そして、そのモンスターが冒険者たちに殺されることで再び養分が分散し、また、それを使って新しいモンスターを生み出すのです。そして、このゲームでは、実はある種の魔力を必要とするモンスターを生み出すために冒険者たちの存在が不可欠なのです。養分はもともとダンジョン内にありますが、魔力は外部から持ち込むしかないのです。冒険者たちはモンスターを倒すためにダンジョン内で魔法を使います、それによって、魔力が初めて外部から持ち込まれるということです。ダンジョンの中で、豊潤な多様性を生み出すための生態系を作るには、実は冒険者がダンジョンを攻略しようとやってくることがそもそも織り込まれているのでした。

 

 ダンジョン飯でも、今後、話を畳むに向かって、あのダンジョンがどのような仕組みで生態系を循環しているのか?という大きな方向に話が進むのかもしれませんね。

 

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 以前、上記のエントリーでも書きましたが、ゲームは現実のシミュレーションではないので、現実の常識で考えると辻褄が合わず、不自然な部分が沢山存在します。それゆえ、そこは「ゲームの都合だなあ」と思ってしまったりします。そして、プレイヤーとしての僕はシミュレーションしたい!というわけでもないので、省略されたり抽象化されていようが、ゲームが面白ければそれでよいと思っています。

 また一方、補給物資が沢山出てくると、「そろそろボスが出てくるんだろうか?」と思ったりするような、ゲームの中だけで通用する別の常識も存在します。そういうゲーム内だけで通用する常識を認識して、プレイを効率化するという面白さもありますが、ゲームにはそれを現実の常識の範疇で考えていいのか、ゲーム内の常識で考えるべきなのかが明確でなくグレーゾーンになっている部分にも面白さを見出せる部分もあるように思っています。

 例えば、ドラゴンクエスト5でモンスターを仲間にしようとするとき、どのようにすれば仲間になりやすいかを考えていると、ゲームの側では用意していないような理屈を勝手に見つけ出し、それが間違っているのに信じて続けてしまったりします。目当てのモンスターを最後に倒せば仲間になりやすいんじゃないだろうか?とか、強さを見せつけるために強いキャラに集中して攻撃させればいいんじゃないか?とか、勝手に考えた理屈で効率よくモンスターを仲間にしようとしますが、実際は単純な確率で決まるらしいので、そのお気遣いには何の意味もありません(2015/12/11 一部訂正:仲間になる可能性があるモンスターが一回の戦闘に複数出現している場合は、最後に倒したモンスターのみが仲間になるかどうかの判定対象になるらしいです)。徒労です。この勘違いを生んだ原因は、「モンスターは強い冒険者に惹かれて仲間になりたがる」というのを何かで読んだからだと思います。その言葉の意味は、実際には「レベルが高い」とかそういうことだと思うのですが、子供の頃、モンスターを生物として捉えていた僕は、どういう戦い方をすればモンスターに強い!カッコいい!!憧れるぅ!!と思って貰えるかを考えてそういう勝手な考えに至っていたのでした。もし、モンスターが生物なら、こんな戦いをする冒険者たる僕の仲間になりたいはずだ!と。これもゲームが用意したゲームの都合以外の空白部分を埋める行為だと思っていて、こういうことを考えているときは楽しかったので、ダンジョン飯にあるのもそういった種類の面白さなのではないかと思いました。

 

 あと、現実の常識で考えると、レベル上げのためにモンスターを延々狩っていると、この地域で生態系が崩れたりしないんだろうか?この種は絶滅したりしないんだろうか?などと思ってしまったりしますが、あれ、しませんか?まあ、僕はしますので続けますが、普通はゲームの中ではモンスターは絶滅はしません。なので安心して狩りまくれます。ただ、例えば、ライトニングリターンズFF13ではモンスターの総数が決まっていて一定以上狩ってしまうと絶滅するという仕組みもあったりしました。最後の一匹のラストワンと呼ばれるモンスターを倒すといいことがあるので、僕は熱心に倒しまくりましたが、そうすると周回をリセットするまで、本当にゲームの中からそのモンスターがいなくなってしまうのです。それがなかなか背徳的で良かったですね。そういえば、FF13シリーズでは、モンスター同士が勝手に戦っているのとかもとてもよかったです。生態系感があるからです。

 

 範馬刃牙はかつてボクシングに対してこういう感じのことを言いました。「グラブをはめる、蹴り技がない、組み技がない、投げ技がない、極め技がない、以上の理由からボクシングは格闘技として不完全だ!」と。そして、僕は思うに、「何を食べるかわからない、どのように排泄するかが分からない、増殖の仕方がわからない、生態系の中での役割がわからない、以上の理由からRPGのモンスターは生物として不完全だ!」なのです。そして、RPGをプレイする上では生物である必要は全くないわけですが、そこを埋めてみたりすると、今までは見えなかった別の側面の面白みが生まれるように感じていて、ダンジョン飯はそういう漫画のひとつだなあと思いました。

 

 RPGの中の不自然さに対するツッコミみたいなのは「魔法陣グルグル」や、えんどコイチの「オリジナルクエスト」を始め、RPGが当たり前にある世代の中では漫画でも数限りなくやられてきたことです。そして、その次の世代では、その不自然さを自然に説明する理屈が生まれているような感じもします。ある種のミステリのトリック解説のように、「不可解」であるはずの部分が、その説明が足されることで、実のところ、何も不思議なことなどないのだと説明されて「可解」になってしまいます。僕は、その面白さを楽しみに、ダンジョン飯の連載を楽しみにしている感じであるのでした。

 おわり。