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これはゲームだと気づいてしまう話

拙者、龍が如く0はゲームだと気づくでござるの巻

 龍が如くシリーズが大好きなので、案の定、先週発売された、「龍が如く0」を買ってはひたすらプレイしているここのところです。

 龍が如くシリーズの好きなポイントは色々あるのですが、まず、僕はその物語が好きなのです。近年特にそうなのですが、ゲームによくあるファンタジー系の物語は、それはそれで好きではあるものの、どこか他人事として捉えてしまっていて、何か大変なことが起こっても、「うおおお、みなさん大変ですなー」という大変なみなさんを手助けしているというスタンスになってしまうのです。しかし、龍が如くの場合は、何故だか強く感情移入してしまい、「くそう!このやろう!!」と卑劣な敵に怒ったり、「なんやと!俺が助けてやるけんね!」と可哀想なことになった人を助けたく思ったりしてしまう感じです。つまり、龍が如くの物語は、僕の中の何がしかと合致しているようなので、個人的にとても没入感が高いゲームなのです。

 ちなみに、龍が如くシリーズとはヤクザだったり元ヤクザだったりする桐生一馬をメインの主人公として、歌舞伎町がモデルの神室町や、大阪、名古屋、博多、札幌などをモデルにした様々な土地を舞台に、ヤクザや警察や海外マフィアなどとの抗争に巻き込まれたり、その土地土地に住む人たちの悩みや揉め事を解決したり、ゲーム内のゲームセンターで、スペースハリアーハングオンなどをプレイしたりするゲームです。

 

 さて、このように、僕はこのゲームの中で主人公たちと同じ立場の同じ目線で、物語を体感しているのですが、プレイ中に現実に引き戻されてしまうこともちょいちょいあります。

 

 それがどういうときかというと「これがゲームだからだ!」という理由付けが、自分の頭の中で出てきてしまうときです。

 例えば、龍が如く0は1988年のバブル時代を舞台に、これまでのシリーズの前史を描くという物語なのですが、大阪のステージでは、本作の主人公の一人である真島吾郎が、ある女の子とデートをするという場面があります。そこでゲームセンターのUFOキャッチャーを見て、最近はこんなものがゲームセンターにあるのか!という感想を漏らすのですが、これは僕のプレイ上は矛盾する発言でした。何故かというと、僕はその前に別のイベントで、ぬいぐるみを欲しがる別の女の子のために、そのUFOキャッチャーを何度もプレイ済みだったからです。

 何度もプレイしたはずのUFOキャッチャーをまるで知らないように語る矛盾、これを説明するために出てくる理屈が「これがゲームだからだ!」というものです。つまり、ゲームのイベントは実行される順番がプレイヤーにゆだねられていることも多いので、ユーザの主観で「何を知っていて、何を知らないか」という情報をコントロールすることが、製作者側からは難しいということです。これを解決するには、それまでにUFOキャッチャーをプレイしたかどうかを判定するフラグを内部に持っておき、それに応じてイベントシーンを差し替えるという対応もあるはずです。しかしながら、他にも沢山あるイベントの全てでそれと同じことをやろうとしてしまうと、辻褄を合わせるのが大変な作業になりますし、微妙に違うイベントシーンも作りまくらなければいけません。それは労多くして功少なしなので、省かれることも多いのではないでしょうか?その結果、プレイヤーである僕の頭には辻褄合わせのために「これはゲームだから仕方ないなー」という考えが浮かぶことになるのです。

 

 ちなみに、これは「ゲームだから」と思いこまなくても辻褄を合わせる方法があります。方法は簡単で「真島が嘘をついている」という理解の仕方をすることです。真島の口から出る言葉は、その場を良い感じにもたせるためのいい加減なことも多いですから、デート相手との関係性の問題から、本当は知っているのに驚いてみせただけという解釈も可能なはずです。もし、龍が如く0がゲームでなく、映画であったのなら、僕はきっとそちらの解釈をしただろうと思うのです。しかし、これはそもそもゲームですから、隙あらばこれがゲームであると思ってやろうとしている自分がひょっこり顔を出し、前述のようにゲームだから仕方がないなと理解をしてしまうのでした。これは、いくつかある選択肢の中で、もっとも選びやすいものを選びとってしまうということです。

 

 念のため書いておきますが、「これはゲームだ」と気づいてしまうことは特に悪いことだとは僕は思ってはいない感じです。なぜなら、ゲームである!と思うからこそ受け入れられるというものも多々あるからです。ヤクザの抗争のゲームは好きですが、実際にヤクザの抗争に巻き込まれたくはありません。

 

ゲーム内のリアリティ

 こういうことを考えていて、「なぜなら、ゲームだから」という考えを出来るだけプレイヤーに思わせずにゲームシステムを組み上げることが、ゲームへの没入感を高め、逆に「なぜなら、ゲームだから」と思わせるように仕向けることで、ゲームとの適切な距離をとることが可能になるように思いました。これらは、ゲーム内のリアリティレベルをいかにコントロールするかという問題であるということです。

 没入させ過ぎると細かな矛盾が気になり始め、結果的に大きな開発リソース要求し始めたり、ゲームとしての便利さ楽しさを毀損したりします。一方、距離を取り過ぎるとそこで巻き起こる物語を茶番と捉えてしまうようになるかもしれません。曖昧で便利な言葉を使うなら、「バランスが難しい」ということでした。そのバランスの適切さはゲームごとに違うと思います。そこで、プレイヤーの感じている適切さと、製作者が考える適切さが、どこかのタイミングで乖離したりすると、おかしいのおかしくないのという話に発展したりするかもしれません。

 

 例えば、「龍が如く0」では、戦闘時の評価が現金で得られるというシステムがあります。これはとても良い作りだと思っていて、ゲームをプレイする上で、色んなものに交換できるポイントとしての現金と、戦闘を派手にすればするほど評価されるというものが一本の線で繋がることになります。つまり、街中でチンピラに絡まれたときでも、より面白く戦闘を行おうというモチベーションに繋がるのです。

 同じ戦うにしても、ひたすら攻撃ボタンを連打するだけではなく、物を使ってぶん殴ったり、必殺技を使ったりすればするほど、より多くの現金が手に入ります。また、本作では、自分の能力を現金でアップさせるという仕組み(自分に投資と呼ばれる)こともあり、さらには、他にもゲームをプレイする上で無尽蔵に現金を要求される(不動産バトルで店を買収したり、プレゼントや装備で高価な物品を買ったり)ので、それらを全て現金というポイントに一本化することには合理性があります。

 しかし、我に返ってみると、常識的に考えて実際街中のチンピラを殴っても数十万円から数百万円もの現金が得られるはずがないと思いますし、敵の数が多かったり敵の体力が高ければ数千万円も手に入ったりすることもあります。そのリアリティを考えて、おかしいかおかしくないかで言えばおかしいです。そして、自分に現金を投資することで、パラメータを上昇させたり、技を覚えたりすることも現実的に考えると理屈が分かりません。ここで、ゲームとしての合理性と、リアリティとしての矛盾を解決する方法が「なぜなら、ゲームだから」です。これが「龍が如く0」におけるバランス感覚なんだなと思いました。一方、これらのリアリティの無さを打ち消す方向の理屈もあって、それは「バブル時代」というキーワードです。金が溢れ、金が動き、金で何でも買えるという価値観を体現する仕組みこそが、このゲームシステムなのではないかと思いました。

 

 あくまでゲームであるということをちらちら見せることで、細かい矛盾なんかには目を瞑ってもらいつつ、開発リソースはエンターテイメントに徹するところにつぎ込むということが、龍が如く0のリアリティのバランス感覚なのだと思います。

 

 この辺のバランスについて、昔プレイしたものの中で、気になったものの中に「メタルギアソリッド2」があります。このゲームの終盤では、本作のプラント編の主人公である雷電が、本作のタンカー編の主人公であり、前作の主人公でもあるソリッド・スネークと共闘する場面があるのですが、惜しみなく弾薬を渡してくるスネークに、あなたの方は弾薬がなくて大丈夫なのか?と雷電が尋ねると、額のバンダナを指さし、「無限バンダナだ」と答えるシーンがあるのです。無限バンダナとは、メタルギアソリッドの隠しアイテムで、弾薬を無尽蔵に得られるという効果があるものなのですが、これはつまり「なぜなら、ゲームだから」という意味の言葉とも捉えられます。本作のこのシーンをプレイしている最中、没入していた僕の中のリアリティのレベルはかなり上がっていたので、このゲームですよという発言は、自分の中でひっかかってしまいました。

 しかし、それはきっと本作における僕の中のリアリティレベルの見誤りが原因だと感じていて、なぜなら、メタルギアソリッドは、そもそも「これはゲームである」という記号を大量に抱えたゲームであったからです。序盤から「アクションボタンを押すんだ」という指示が出たり、前作ではコントローラを1Pから2Pに付け替えたり、ゲームのパッケージの裏側の情報を使ったりと、メタなネタが多かったですし、メタルギアソリッド2の終盤も虚構であると虚構でないをメタに行き来するようなお話になっていました。このような、僕とゲーム内リアリティの間のバランス感覚のミスマッチさも制作者側が狙ったものなのかどうかは分かっていませんが、ゲームをプレイしつつ、そもそも自分が今まで信じてプレイしてきたものはなんだったのかと足元が揺らいでいく感覚は非常に貴重なゲーム体験であったように思います。

 つまり、「これはゲームである」ということを逆手にとった演出だったのではないかと思うのです。

 

まとめ

 人間には身近なあらゆる情報について、辻褄を合わせようとする性質があるんじゃないかと思います。矛盾を見つけたときには、その矛盾を解消するための理屈を考えだします。それがゲームの中での話の場合、これはゲームだから!と思うことで多くの問題が解決するように思いますが、ゲームだからという視点はゲームの外にあるものなので、ある種の冷めた視線をゲーム体験の中に引きこんでしまうのではないでしょうか?

 そこには、ゲームシステムをシナリオに取り込み、内部で解消することでゲームだからという矛盾を排除し、没入感を高めるというアプローチもありますし、ゲームだからということをハナから前面に押し出すことで、冷めた目線を持たせつつプレイしてもらうゲームもあると思います。あるいは、先ほど例に挙げたメタルギアソリッド2のように、ここぞという場面でゲームであるということを持ち出すことで、プレイヤーの心の隙を突くという方法を使うゲームも色々あります。

 変わったものでは、「かまいたちの夜」における隠しシナリオでは、ゲーム側からプレイヤーに語りかけるようなメッセージを用意することで、今までゲームをプレイしていると思っていたプレイヤーに実は逆に現実であると思わせるような作りとなっていたり、ブレイブリーデフォルトでは、ラスボスとの戦いに、3DSのフロントカメラで撮られた画像が合成され、作中で高次元の存在(神界)として語られていた場所が、実はプレイヤーのいるこの現実世界であるというようなドキリとするような演出(オープニングのARによる演出と対になっている)もありました。これらは、自分に関わりないゲームの世界だと思っていたものが、実は関わりがあると手を伸ばしてくる怖さです。

 

 僕は人間の認識の上で、現実と虚構の境界は割と曖昧だと思っているのですが、であるからこそ、現実に踏みとどまったり虚構に踏み入れたりする境界を意識するというゲームの体験に、なんだか心惹かれてしまったりすることもあるのではないかなあと思いましたと雑な締めを行いつつ、龍が如く0に続きをプレイしたいので、今回はこのへんで。