ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と言ったといいます。ちなみに、僕はこの言葉の登場する「論理哲学論考」を読んだことがありませんから、僕にとってはこの言葉自体が既に語りえぬものです。この語りえぬものという言葉の使い方が正しいのかも分かりません。
さて、都留秦作の「ナチュン」を連載で読んで、単行本で読んで、その後も定期的に読み返しているのですが、この漫画をどのように語っていいのかが僕には未だにさっぱり分かりません。ただ確信を持っているのは、この漫画が大変面白い漫画であったということです。それは、「ある意味」とか「考え方によっては」というようなものではなく、読後に「面白かった!!!」という感想を単純に持ったということです。しかし、その面白さがどのようなものであったかを言葉で言い表すことが全然できないのでした。これはおそらく僕だけの問題ではなく、インターネットで他の人の感想を検索してみても、内容に詳しく言及しているものはさっぱり見つかりません。もしかすると、この漫画は「語りえぬもの」であるがゆえに、みんな沈黙しているのかもしれません。今回はその語りえぬものについて、上手く言葉にならない中から、いくらかのかろうじて言葉になりかけているものをすくい上げて書いてみようと思います。
(漫画に関する重大なネタバレが入ると思うので、未読なら以下は読まずに漫画の方を読むべきと強く思います)
ナチュンの読み方は沢山ある気がする
この漫画は、
・一人の青年が世界を征服しようとする物語
・一人の青年が沖縄の海で、現地の漁師と交流する物語
・人間とは遥か昔に枝分かれした別の種族の存亡の物語
・左脳を失った科学者が、他人をその代わりとして使って研究を進める物語
・人類にとっての神とは何かを追究する物語
・近未来の海底における人身売買とタコ部屋の物語
・人類とは何かの根源を探る物語
・一人の青年が沖縄の島で一人の女性と出会う物語
・無防備な女性に男性が性欲を抑えられない物語
・海についての物語
・たった一人の死を全人類が体験することで戦争を終結させる物語
であると思いました。
考えれば、他にも沢山の切り口があると思いますが、これらの複数の物語が交互にあるいは同時に進行するため、最終的に一本の筋が通った物語として語ることがとても難しいのではないかと思いました。そして、それがこの漫画の語りにくさの原因ではないでしょうか。ただし、全体としては語れなくても、部分ならば語れるかもしれません。そこで、その中から試しに一つを切り出して取り上げてみます。
「人間とは遥か昔に枝分かれした別の種族の存亡の物語」として読む
例えばこちらの切り口を採用してみた場合、物語の筋はこういうものです。
沖縄のある島に、人間にとても良く似た人間とは異なる種族が暮らしていました。彼らは少数の仲間の中で、近親相姦によって血が濃くなりすぎないように計算しながら、細々と生活をしていました。そんな中、ある双子の兄妹が、禁忌である近親相姦を犯してしまいます。その結果、生まれた子供がミコトでした。ミコトは、その濃い血のせいで、人間にはない強い能力を発揮しつつ、その境遇により、言葉を失ってしまいます。そんなミコトが恋をしたのが漁師のゲンさんでした。様々な障害の果てにゲンさんとミコトは結婚に至ります。しかしながら、二人の間には子供ができません。なぜならばゲンさんは人間であり、ミコトは人間ではないからです。そこに、ある特別な力を持った青年が現れました。テルナリと名乗る彼は、その力により二人の間に子供を作ることに成功します。ミコトは愛する夫の子供を産み、そして死んでいくのでした。
これがこの物語の一つの読み方だと思います。しかし、物語の多くの部分は、ゲンさんとミコトの間の子供の話ではなく、彼らの間に子供をもたらすテルナリがいかにしてその能力を手に入れたかに費やされます。であるために上記の筋で物語を読み取った場合、大半の描写は特に必要のないものであるかのように思ってしまうかもしれません。ナチュンの中には、作者によって執拗に詳細に描かれる物語を構成しうる部品が沢山詰まっています。読者としての僕はその情報量に圧倒されてしまうわけですが、いざ、それらを使って物語を組み上げてみようとした場合に、ある整合性のありそうな形を組み上げてみると、横に大量の部品が余っていることに気づきます。残った部品を使って他の何かを組み上げてみると、今度はまた別の部品が余っていたりします。
さて、別の見方で組み上げればこうです。
ナチュンの物語は主人公の石井光成(親にはミツナリと呼ばれているものの本人はテルナリと自称)が、アメリカの大学に在学中に、図書館でデュラムビデオを見ることから始まります。デュラム教授は、ノーベル賞とフィールズ賞を両方受賞するような誰もが認める天才ですが、不幸な事故により左脳を失ってしまいます。そんな言葉を失った彼が、数学の論文として提出したのがデュラムビデオ、それはイルカを延々と撮影しただけのものでした。世間は、かの大天才も地に落ちたと評しましたが、そのビデオを見て、影響を受ける人々が現れたのです。テルナリくんもその一人、彼が得たものは人工知能の作り方、正確には人工知能が作れるという確信なのでした。人間を超える知能の発明は、彼に世界征服の妄想をもたらします。そんな彼が、さらなるイルカの情報を得ようと沖縄へ行き、紆余曲折あってついにはそれを完成させ、世界を征服しうる力を手に入れるのでした。というのもまた、この物語の筋なのです。
ナチュンの特異だと僕が感じた部分を説明するとすると、普通は、ある漫画を統一する方法はストーリーだと思うのですが、この漫画はそうではない点ではないかと思います。ストーリーは複数あり、統一されていません。この物語を統一しているのは、ストーリーではなく、その裏に流れているものではないかと思いました。
僕が感じた、複数のストーリーの裏側に流れているもの、それは「欠けたものを補完しようとするという行為」です。
デュラム教授は失った左脳を、イルカのビデオを見た人たちを使って補完しようとしました。ミコトはゲンさんとの遺伝子の差を(欠けていると言うべきではないかもしれませんが)を埋めようとしましたし、テルナリくんは、深海のタコ部屋で奪われた恋人と子供を取り戻そうとしました。作中に登場する多くの人が、胸に空いた欠けたもの埋めようと渇望し、その行為の結果が作中の出来事となっています。そして、それを象徴するのが作中で登場する「神」の概念ではないかと思いました。
神とは何か?(この漫画の中で)
人間の脳は機械として不完全であり、テルナリくんが作り上げた人工知能が人間の脳を模して導き出したパターンは、その構造の中に大きな穴(ブランク)を持ちます。これは、完璧な知性を作り上げる上で人間の脳に欠けた部分でありということで、人間の能力の限界で論理的に精緻に語ることが不可能な領域です。どのように埋めようと思っても決して埋めることができない、人間の能力を超えた何か。それさえ埋まれば、完璧な知性となることができる、最後の一歩。この、人間が人間である以上、決して埋められないものを埋めようとする絶望的な営みこそが神を崇めるという行為であり、あるいは、科学を探求するという行為であるということが語られます。
人間に空いている穴は、人間が人間である以上、人間の脳という道具を使っては決して埋められません。語りえぬものであるがゆえに、人間はその穴を偉大なる何かとして作り上げた偶像で埋めるか、決して到達することのない無限遠の先の究極の理想として探求を続けるしかないのです。しかしながら、我らがテルナリくんの考えは違いました。これは崇めるものでも、到達しない理想でもなく、ただの構造上の欠陥であり、バグであると断じます。そして、限界のある人間の脳以外の方法で、それを埋めようと試みるのでした。
日本人は自分たちのことを「無宗教」だと思っていることが多いそうです。それはおそらく一神教の教義のように、特定の存在を神として崇めたりする習慣がないからでしょう。しかしながら、ゲン担ぎやバチが当たるというようなものを気にしたり、長く使った道具に強い愛着を感じたりもすれば、暗闇や墓場などに説明のつかない恐怖を感じたりもします。論理では説明のつかない超自然的なもの、それはおそらくは本能に根差した何らかの感覚なのでしょうが、そのように論理だけでは説明のつかない感覚と言うものを人間は持っているのだと思います。そのわけのわからないものに対する畏怖こそが、神であり、それを埋める行為こそが、人間の文明の営みと言えるのではないでしょうか。
それは宗教における神という存在とは直接、比較するべきものではないかもしれませんが、もしかすると、人間がそのような「神という存在を必要とする理由」とは関連しているかもしれません。人間は完璧ではないがゆえに、その穴を埋めようとし、それを埋める行為こそが、宗教であり、芸術であり、科学であるのだということです。
作中では、デュラムビデオの構造が数学的に解析され、抽出された特定のパターンを豚に見せることで、豚に高度な知能を持たせようとする実験が行われます。そのビデオを見た豚たちの脳は、一部の情報が共有され、集団であることで、一体の「豚以上」となり、知性を育むこととなります。これはあるいは、霊長類の持つミラーニューロンに似たものかもしれません。霊長類は他の動物と違い、他の個体の動きを見て、自分の脳のそれと同一の行為を行った場合と同じ部分を発火させることができます。作中の豚たちの脳はリンクされ、あるいは道具を使い、あるいは堅牢な巣をつくるようになりました。
この豚の実験の部分が、個人的にこの漫画の中で最も心ひかれた部分でもあるのですが、今まさに高度な知能を獲得し、何かを創り始めた豚たちの姿は感動的ですらあります。そしてそれを下支えしているのが、作者の卓越した画力でしょう。少なくとも、僕には、知能を獲得した豚が絶望の中で自分の糞で作りあげた像や、拷問される仲間を想い描き上げた絵を描けと言われても、何を描けばよいのかがさっぱりわかりません。でも、本作では、その描写に説得力がある形で描写されるのです。
今、少し書きましたが、最も高度な芸術的才能を発揮する豚はたった一体の豚です。それまでの研究では、豚の数を増やせば、リンクされる脳の数も増え、より高度になると思われていましたが、たった二体で十分だったのです。その二体の豚の脳はリンクされ、片方が死なない程度に拷問を受けます。そして、残された片割れは、もう一体の豚の何かを感じ取って、芸術のようなものに目覚めたのです。それはまさに豚における欠けたものを補完しようとする行為。豚の中の神だったのではないでしょうか。
一方、この実験は、バチカンに叛旗し、アフリカでカリスマ的な人気を獲得した「黒い枢機卿」によって、人間を対象として行われます。しかし、豚よりも高度な知能(知能という言葉の定義にもよりますが)を持った人間を対象に行った実験は、失敗に終わってしまいます。それも豚と同じ、数ではなかったのです。絶望の深さと、渇望の強さこそが本当は重要でした。そして、その人間とは何か、それがテルナリくんなのでした。
テルナリくんの手によって、脳髄化された海の力により、人間は究極の知性を獲得し、そして世界は混乱へと向かいます。その後に待ち受けるのがこの物語のクライマックスです。
ナチュンから何を読み取るか?何を読み取ってもいいのではないか?
このように僕が読み取った物語は、背景にある「神」であり、それはつまりは、人間や豚が持っている、完璧ではない欠けた部分を埋めようとする行為です。それが複数の物語を生み出し、その奔流の中で、紡がれ、収束していくというのがナチュンという体験ではないかと思いました。それは、理屈として意識するのではなく、体感として感じるような種類のものです。
この漫画は作中のデュラムビデオと似た存在と言えるのではないかと思います。読んでいるうちには、何が何だか分からないものの、その中には非常に大量の情報が中に詰め込まれていて、それを通過することで、読後にある種の確信や全能感を得ることができます。読者は、そこで得た情報の中から、取捨選択と結合を行うことで、何かを見出すことになります。僕の読み取ったものは上記のようなものでしたが、他の人は他のものを読み取るかもしれません。なぜならば、僕が物語を組み上げる上で使わなかったピースがまだたくさん残っているからです。
読書は体験だ!書評や感想ではなく、自分でその本を読むべきだ!Let's read ナチュン!!