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「孔子暗黒伝」について

 諸星大二郎の「孔子暗黒伝」がどのような漫画であるかを知る最良の方法は、「孔子暗黒伝」を読むことだと思います。この漫画には沢山の切り口があると思いますが、そのどれか一つだけでは、この漫画の魅力を説明できる気がしません。たった一冊にまとまって漫画であるのにです。

 物語を要約するということは、ある切り口において物語の中の重要な部分と無駄な部分を選り分け、無駄な部分を切り落とし、冗長と判断した部分を可能な限り単純なものに置き換えたりすることで、言うなれば情報を圧縮するという行為だと思います。しかしながら、諸星大二郎の漫画全般においては、その行為によって削減されようとする情報がとても重要なものであると感じる場合が多く、無理に切り落として出来上がったものを見ると、切り落とすべきではなかったと思ってしまいます。その理由のひとつは僕自身がこの物語が何であるか?という深い理解に到達できていないので、何が重要で何が重要でないかという判断がつかないということかもしれません。

 

 例えば、一つの切り口としては、この漫画は宇宙に対する統一理論の漫画であると言えます。古代より、宇宙とは何であるかということを説明しようとした人たちは沢山いました。古代インドでは「ヴェーダ」や「ウパニシャッド」、古代中国では「易」や「老子」、そして現代では科学によってそれを説明しようとしています。それは作中で「群盲、象をなでる」と表現されているように、目の見えない人が手触りから象の全体像を理解しようとするというような、いずれの説明でも、部分は説明できても全体は説明できないものということです。古代の人間の宇宙観が不完全であるように、科学による宇宙観もまだ不完全であり、本当の宇宙は分かりません。そこで、この漫画ではフィクションの世界の中で、現在になお残っている沢山の神話や科学を繋ぎ合わせ、ある一つの枠組みを作るということが行われています。

 それらを繋ぎ合わせる接合点のアイデアはとてもユニークです。一例を挙げると「易」の考え方は、「太極」に始まり、「両儀」「四象」「八卦」と倍々に広がり、それらは「爻」と呼ばれる繋がった線と途切れた線の二種類の記号で表されます。二つの表現を元に世界を記述する様子が、コンピュータにおけるbitと関連づけられ同質のものとして扱われます。

 このように沢山の神話や科学の沢山の接合部分をユニークに埋めることによって、古代インドや古代中国や古代日本や現代科学を統一し、この宇宙とは何故存在し、どこからきてどこへいくのかを語ることになります。

 

 さて、上記はこの物語のひとつの説明ではありますが、おそらく実際に読んだ後に上の説明を読み直してみると、「そんな物語ではなかった」と思ってしまうのではないかと思います。あれも入っていないし、これも入っていないしと次々と足していけば、最終的には、漫画の最初のコマから最後のコマまでを説明するのに近いものになってしまうのではないでしょうか?僕の考えとしてはこれが諸星大二郎の漫画の魅力であり、「理解出来ない何か」であり続けるために、何度読んでも面白いと感じてしまいます。

 

 人間が何かに飽きるということは、それを完全に理解したと感じることによって、それ以降それに接しても何ら新しい情報が得られなくなることと関連性が深いと思います。例えばあるゲームをやっていたとして、やる気を失わない限り無限にゲームオーバーにならずに続けられるほどに熟達したとすれば、もはやそれをやる意義は見いだせなくなるのではないでしょうか?そこから先は同じことの繰り返し、あとは根気の問題でしかありませんから、根気を試す以外の目的では、続けるモチベーションを保つのは難しいからです。

 大人になってから子供の頃のように何かに夢中になるのが難しくなったと感じている人は多くいるように思いますが、それは十分な経験をしてきたことによって、子供の頃のほどには新しい発見をすることが難しくなっているからではないかと思っています。

 

 「孔子暗黒伝」は何年かごとぐらいに読み返しているのですが、例えば「怪力乱神を語らず」と言われた孔子が「怪力乱神を大いに語る」物語としての読み方もあるでしょうし、周の遺跡から発見された少年「赤」とその半身である「アスラ」の、自身が何であるかを探求する旅の物語としての読み方もあると思います。また、この前作であるアートマンの物語でもあった「暗黒神話」との繋った、ブラフマンを語る本作という読み方もできそうです。そして、単純に絵物語としても面白く感じます。ですから、何度読んでも異なる面白さを見いだすことができるので、なんだかすごい漫画だと思う一方、これは一体何なのか?という気持ちを抱え続けているのです。

 

 なんだかよくわかりませんね。