漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画の元ネタ提供を担う偽書関連

 1000年前から生き続けている人は、僕が知る限りいないので、1000年前にあったことを詳細に知る手段は基本的に書物です。人間は当時に書かれた書物(あるいはその写本)を読むことで、その時代にどのようなことがあったのかを知るしかありません。ただし、その書物に書かれたことが信頼できるかどうかは、また別途検討が必要です。現代に起こっている事件ですら、その正確な事実関係は報道を見ているだけでは把握できないこともしばしばなのですから、はるか昔に書かれた文書についてはなおのことです。そこに書かれていることが事実であるかどうかを判断することがとても難しいことでしょう。

 今、我々が把握している歴史は、そんな困難な問題において、何を事実とし、何を事実としないかを、沢山の人々が地道な努力により選り分けてきた積み重ねです。そして、それは今後も修正されたり覆されたりしながら積み重ねられ続けていくでしょう。

 

 そもそも文字で書き記された記録がなければ、子細な歴史は残りません(口頭で語りつがれる伝承もありはしますが)。先日完結した漫画「シュトヘル」では、昔の中国に存在した西夏という国の文字を巡る争いが繰り広げられました。この物語において、チンギスハーンの背中には「西夏の奴隷」という文字が刻まれているのです。その事実を無にするために、チンギスハーンは西夏文字の存在そのものを消し去ろうとします。文字で書かれた歴史は、人が生きた証です。時代と場所を飛び越えてその情報を伝えることができるある種のタイムマシンです。人は生まれて死にますが、文字として残ることで、情報は歴史の中を受け継がれるのです。そんな文字を無くそうとするものと生かそうとするものの争いが、シュトヘルの中では描かれていました。

 

 今我々が把握している歴史の多くは、国の公的な文書として残されてきた記載をベースにしています。しかしながら、国の主権が代替わりしたときに、代替わり前の歴史書は都合が悪いため焚書され、代替わり後に改めて都合がよい歴史書が作成されるということもあります。それゆえに、それらの公的な記載が本当に起こった事実と異なる可能性も十分あるのです。その場合、もし、公的ではない民間の文書に、別の事実が書かれていたらどうでしょうか?どちらが正しいと判断すべきでしょうか?他の遺物や、別の文書の記載などを比較検討することで、どうやら事実らしいことを確かめていくことになるでしょう。

 そこには、嘘と断じるほどの証拠もなく、事実と認定するほどの証拠もないものが多々あります。そして、その曖昧な部分には、何らかの意図を持って捏造された偽の文書も登場し得るのです。

 

 この辺の偽書がどのように生まれて流布されてきたのかという話は長くなるので書くのが面倒くさいので割愛して、漫画の中にはそういう偽書と判断されているものを元ネタとして採用した物語も数多くあります。そして、それらのような物語が大好きな人間もいるのです。例えば僕です。

 「捏造されたの歴史書」という全く存在価値がなさそうなものが、一転、多くの物語を生み出す種となっていることが面白く感じます。歴史という価値観では0点なのに、物語の世界の中では100点のものもあるのです。

 

 「スプリガン」は、僕が子供の頃に最も夢中になった漫画のひとつです。この物語は、正しい歴史の中には残っていない、現代をしのぐほどの科学力を持ちながらも滅びてしまった超古代文明の遺物を巡る人々のお話で、そこに登場する遺物は、何らかの伝説や偽書とされる書物を引用して解説されます。

 第一話で登場するのは富士文明という富士山麓にかつて存在した王朝という宮下文献に記載されていたお話に基づいており、この宮下文献は有名な偽書なのです。またヒヒイロカネという金属でつくられた剣も登場しますが、このヒヒイロカネ竹内文書という非常に有名な偽書に登場する金属です。

 宮下文献も竹内文書も、歴史書としては偽物と判定されているものですが、これらが引用されることによって面白い物語が生まれてしまっていると事実は見逃せません。厄介なことに、ときに嘘は事実よりも面白かったりするのです。

 

 偽書の役割のひとつは裏付けです。偽物の歴史書における「実は過去にこういうことがあった」という裏付けは、その書物を利用する人にとって都合よく機能したりします。例えば、偽の家系図を作りだし、自分はこの国の王の正当な血筋であると主張する人がいたとすればどうでしょう?その偽書がなければ、なんでもなかった人が、途端に自分にはこの国を統べる正当な権利があると主張する正当性を持つことができるようになります。

 つまり、偽書とは漫画における後付けの伏線のようなものです。漫画の中で、急に実は魔族の血を引いていたことが分かることでパワーアップすることができるように、理由を偽書という形で捏造することで、何らかの主張をしたい人はその語気をパワーアップできるようになります。

 

 このような偽物の書物による裏付けは、「魁!男塾」に登場する実在しない民明書房刊の本のように、1つの作品で完結する偽物の本としての引用でも成立するはずです。しかし、作品の外にある何らかの文献(偽物でないものを含む)が引用されることの方が多いのではないでしょうか?その裏には、Googleページランク(検索結果の順位を決める基本的な仕組み)のような作用があると思っています。つまり、多くの作品に参照される元ネタほど、価値があると判定されるということです。これにより、よく引用される元ネタには価値が加算され、価値が加算されるからこそ、より参照されるというスパイラルが発生します。

 つまり、元々は偽物の情報であったものも、その面白さゆえに様々な物語作品で参照され続けることで、その存在の強度が増していくのです。

 前述のヒヒイロカネは、今や様々なゲームに素材として登場します。竹内文書に記載のある、徳島県の剣山にソロモンの秘宝が眠っている話や、青森県にキリストの墓がある話、そして、日本の山の中に眠るピラミッドの話などは、「三つ目がとおる」や「MMR」や「超頭脳シルバーウルフ」などにも数々引用されています(ちなみに僕は剣山も、キリストの墓も、大石神ピラミッドも行ったことがあります)。

 様々な物語に元ネタとして引用され続けた結果、元々は捏造された歴史であるものも、ある種の文化のひとつとして現代に取り込まれてしまっているのです。

 

 他に例を挙げるなら、「日本文化は古代ユダヤ人の文化に基づくという話」は「赤い鳩」や「妖怪ハンター」に取り込まれていますし、「チンギスハーンの正体は源義経」も「王狼伝」などの漫画の中に取り込まれています。これらは事実としての証拠はありませんが、面白いという理由で文化にぐいぐい食い込んでしまっています。物語の中のギミックであることもあり、これらが信憑性のない説だからといって、咎める人もめったにいません。

 

 さて、よく出来た偽書というのは、単体で成立するのではなく、複数の偽書の重ねあわせで作られたりします。これは、ある書物の記載が正しいかどうかを判断する際に、別の書物の記載と矛盾がないかを確認するというやり方の裏をついた方法です。そして、様々な書物に孫引きを含めて引用され続けるうちに、元ネタすら分からなくなってしまい、記載だけが事実であるかのように残ってしまうこともあります。

 漫画で言えば「多重人格探偵サイコ」におけるルーシー・モノストーンという男は、あたかも実在する人物であるかのように関連本に沢山引用されて、その実在性を誤認させるような演出がされていました。実際、その実在を信じていた人も沢山いたように思います。

 

 間違った内容が、引用が重ねられることである種の事実のようなポジションを得てしまう例で言えば、「カマイタチとは真空が巻き起こす現象である」という解説もあります。これについては以前、元ネタを調べたことがありました。

 真空カマイタチは現代の漫画やゲームの中に依然として残る解説ですが、科学的立場から言えばあり得るとは思えない説です。この解説は少し調べれば妖怪学でお馴染みの井上円了の講演録にも登場していることが分かるため、非常に歴史の深いことがすぐに分かる説です。この説の僕が辿り着いた一番古い元ネタは福沢諭吉の「訓蒙窮理図解」なのですが、ここに「戦場で銃弾が当たっていないのに皮膚が裂ける」という事例が紹介されており、これは真空の作用であると記載されているのです(現象を考えると真空というよりは衝撃波のように思えますが)。この解説が曲解され、様々な書物に孫引きされ続けることで、現代でもまるで事実のように扱われてしまったりしているのではないかと僕は考えています。

 

 世の中には沢山の偽書が存在していますが、歴史を学術的に見る上では全く価値がないように見えるそれらの書物が、物語の元ネタとして作用してしまった場合に、不思議と輝きを持ってしまうことがあります。事実、僕は「スプリガン」が今でもとても好きなので、サンキュー宮下文献、サンキュー竹内文書という感じに思ってしまっています。

 他にも例えば、合気道の開祖こと植芝盛平が、大本教出口王仁三郎の大陸への布教活動に信者のひとりとして同行した際、銃による襲撃を受けたものの、弾が到達するより前に「光のつぶて」が見えたので、それを躱したら銃弾も避けれたというような証言をしました。完全に眉唾な話ですが、このお話があるからこそ、「闇のイージス」において金属の義手で銃弾を弾く護り屋、楯雁人という男が生まれたわけです。僕は「闇のイージス」がとても好きなので、植芝盛平が「光のつぶてを見た」と語ってくれてサンキューという気持ちがあります。

 

 偽書がこのような形で受容されるという現象は面白いですが、同時に少し怖くも感じてしまいます。つまり、事実関係のあやしい、いい加減な話にもかかわらず、お話としての面白さを兼ね備えていた場合、どれだけ学術的な観点で否定されたとしても、面白いという理由でフィクションの中には残ってしまう可能性があるということです。

 それこそ、現代の漫画やゲームの中に真空カマイタチ描写が生き残っているように、水に話しかけることで言葉の内容に応じた形の結晶が形成されるという必殺技もあるかもしれませんし、江戸っ子大虐殺を生き残った男による江戸しぐさ冒険譚だってあるかもしれません。抗がん剤を拒否して、気功で癌が治った漫画があったら果たしてどうでしょうか?

 これらは科学的事実や歴史的事実ではありませんが、漫画の中にはそれ以外にも非科学的で歴史学からすれば間違っているような描写が沢山あります。それは科学や歴史の話ではないため、そう描かれることが間違っているわけではありません。面白ければいいのです。一方、科学的な考えや歴史的な考えからすれば撲滅すべきかもしれないものが、フィクションという領域に足を踏み入れると生き生きと活躍の場があったりすることに、なんだか不思議な気持ちになったりします。

 聖徳太子の未来記は偽書ですが、漫画ゴラクでやっているヤクザ漫画の「白竜」には実在のものとして出て来るわけですよ。そして、僕はやっぱり、それを喜んじゃったりしているわけなのです。