漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「バスタード」における魔法とSNSの類似関連

 「バスタード」は連載が長らく止まっている漫画で、僕はそのずっと続きを待っています。バスタードは剣と魔法のファンタジーとして始まった漫画ですが、途中で世界のからくりが明らかになります。それは、この剣と魔法の世界は実は我々の世界の数百年後の姿であるというものでした。作中の「魔法」という概念は「霊子力」という科学の文脈で説明されるのです。

 漫画に登場する破壊神アンスラサクスは、霊子力が生み出した大量破壊兵器で、強大な魔力を持つ魔法使いの主人公、ダークシュナイダーもまた、霊子力が生み出した存在であることが示唆されます。

 

 バスタードが特異だと思うのは、「魔法は科学」だと解き明かされたあとに、その上でさらに天使と悪魔という神話上の存在が登場することです。魔法だと思っていたものは科学であったが、実はその根本には神話の世界があり、それらは全て一体のものであるという統一理論的な世界観が示されるのです。

 この世界には神が存在し、天使が存在し、堕落した天使が悪魔となり神に反逆し、神話の中で伝えられる出来事は全て事実であると示されます。その上で、彼らはまた物理的な存在でもあり、それらは重なっているのです。

 物理の視点において、天使は正のエネルギーフィールドであり、悪魔は負のエネルギーフィールドであって、例えば「天使が堕落する」ということは、あたかも恒星がブラックホールに転換するように、そのエネルギーが中心に向かって落ちていくことで反発力を崩壊させたときに、力場が正から負に反転する物理現象と同じであることが説明されます。

 

 神話を否定せず、魔法を否定せず、科学を否定しない、全てを飲み込むような大統一的な世界観がめちゃくちゃ十代の僕の心を掴んで離しませんでした。なおかつ、様々な漫画やらゲームやら特撮なんかのパロディーも盛りだくさんで、例えば天使という概念がウルトラマンと同一視されるような描き方をされたりしていて、本当に何でも飲み込み取り込む強烈な漫画で、僕の心も飲み込まれているわけです。

 

 そろそろ本題なのですが、バスタードの作中における「魔法」の概念についてのことです。魔法は霊子力によって説明される物理現象であると同時に、神の力の秘密でもあります。それは神や天使や悪魔は当たり前に使える力であり、その力を霊子力という文脈で解明した人間にも取り扱えるものとなっています。

 魔法における長大な儀式や複雑な象形は、人間と霊的に上位な世界とのチャンネルを開くためのもので、魔韻を含んだ言霊で組み上げた呪文は、さながらプログラミング言語のようにその魔法を記述します。これらは初心者向けの魔力制御方法とされています。弱い魔力しか持たない人間でも、神の力の秘密を再現することができるように作り上げられた技術体系なのです。

 

 これがSNSにおける人間の振る舞いと似ているなと僕が思ったという話です。

 

 SNSには、そもそもSNS外で有名な人もいれば、あるSNSの中だけで有名な人もいます。そして有名ではない大多数の人がいます。

 有名な人の振る舞いは、バスタードにおける天使や悪魔に似ていると思います。つまり、ただ手足を動かすことで魔法が使えるように、何気ない発言でも猛烈な勢いでシェアされ、いいねがつけられるということです。同じ発言を有名ではない人がやっても見向きもされないのではないでしょうか。そんな内容の発言でさえ、有名人ならばすぐに沢山の人に反応されるのです。

 

 一方、そもそも有名でなかった人ではそうはいきません。発言の内容にSNS韻の含まれた言霊を組み込んで、漫画や図解のような象形を活用し、そのとき注目が集まっている話題や猫の写真などという霊的上位世界とのチャンネルを開いて力を借りるようなことをしなければ、多くの人から反応を得ることはなかなかできません(ただ、多くの人から反応を得ることは副作用も大きいので僕個人はあんまりそうなりたいとは思いません…)。

 

 SNSの中で有名になろうとしてなった人は、そういう魔法を頑張っている感じに僕は見ています。流行りの話題にSNSウケのいい「韻」を組み込んだ魔法を繰り返し使ってきたことでフォロワーを増やし、魔法使いとしての立場を確立してきたのかな?と思うのです。

 そして、一方でやっぱり天使や悪魔に相当するような有名人ならば、そんな複雑な術式を使わなくとも大量の反応を得られるわけなんですよね。つまり、魔法を使うことを頑張っている時点で天使や悪魔ではなく、人間の魔法使いだな、あくまで人間の魔法使いの頑張り屋さんだな、と思ったりするわけです。

 

 人間の魔法使いが、流行りの話題にいっちょかみしつつ、ときに対立をあおって両側の神経を逆なでたりもしながら、SNSでウケる韻を意識したり、複雑な象形を駆使して漫画にしたり図にしたりして、やっと発動できた魔法により入手できるシェアやいいねの数を、有名人の天使や悪魔は「おはよう」の一言で悠然と超えていったりします。

 この歴然とした差があるという事実、皆さんも認識しているのではないでしょうか?

 

 例えば、インターネットの論客として日々色んな揉め事にコメントしている人が、それ以外の何気ない日常の発言には全然いいねがつかないなどという光景を皆さんも見ているのではないでしょうか?その魔法使いたちが、天使や悪魔に勝つ光景を想像できますか?

 

 そう、つまりバスタードで行われているのは、そのような絶望的な戦いです。

 

 天使と悪魔の戦いの中に、兵器として人工的に作り出された魔法使いダークシュナイダーが、その超絶美形(ハンサム)と、巨大なポコチンと、絶大なる自信と、人間離れした魔力と、悪魔たちから奪った力なんかを使って戦い挑んでいるわけです。この戦いの無謀さについて、皆さんもご存知かもしれないSNSの雰囲気を手掛かりにして理解していただけましたか??

 

 バスタードの続きが載らなくなってもう何年経ったかも曖昧ですが、あの戦いの先がどうなるのか?僕はいまだにずっと読める日を待っているわけです。皆も待とう!バスタードの再開。

「デスストランディング」と僕のインターネット感の一致関連

 「シェンムー3」の発売までの間にやれるだけやろうかなと思って「デスストランディング」を買いました。事前に、オンライン要素がゲームフィールドに反映されることは知っていたので、人が多いうちにやった方がいいかなと思ったりしたからです。

 

 まだ序盤でいくつかの目的地に到達したぐらいなので、あんまり遊べてないんですが、基本的なチュートリアルは終わってサブクエストも出てきたので、そういうのもちょっとずつぼちぼち遊んだりしています。

 さて、この先ゲームがどうなるのかも全く分からないんですが、今感じているゲームのコンセプトから、僕自身のインターネット感との一致を感じたので、とりあえずその話を書きます。

 

 「デスストランディング」は物を運ぶゲームです。ある地点から別の地点に物を運ぶことを頼まれ、また、道中で拾った落とし物をまた別の誰かに届けたりもします。途中に厄介な敵も出てきますが、目的はあくまで物を届けること。敵は、それを奪ったり道を阻んだりするだけで、倒すことそのものが目的にはなりません(今のところは…)。

 物を運ぶときには、その安全にも気を遣わなければなりません。敵に奪われることの警戒もありますが、何より、転んで荷物を傷めたりしてはいけないのです。転ばないためには、適切に足場を選ばなければなりません。障害物が少なく、坂道の角度が緩やかで、歩きやすい道を選ばなければ、ちょっとした拍子に転びやすくなってしまいます。

 あるいは、荷造りに気を配らなければなりません。物をバランス悪く大量に持ち過ぎると転びやすくなるからです。でも、できればより沢山のものを一度に運びたいですよね?2往復するよりも1往復で運べた方が楽なはずです。そして、楽になりたいために大量の荷物を持ち過ぎ、より困難な道程にしてしまったことに気づいたりします。それに、もう引き返すこともしんどい場所まで来てから気づいてしまったりします。その結果、この配達を早く終わらせたいと、悲鳴を上げながらなんとか目的地に急ごうとしますが、それでも転ばないようにゆっくり慎重に急がなければならないのです。

 

 そんな面倒くさいゲームが楽しいのかな?という話はあると思います。楽しいです。でも、やっぱり面倒くさいです。その微妙なバランスに加わるのがオンライン要素です。

 

 困難な地形を踏破するためには、上手くショートカットできる道を作る必要があります。ハシゴをかけたり、ローブを降ろしたり、橋を作ったり、道を作ったりすることができます。そして、自分が作ったその効率的に歩くための要素は、ネットワークを通じて、他のプレイヤーにもシェアされるのです。

 

 デスストランディングにおける我々の道程は孤独なものです。目的地まで、たったひとりで孤独に歩かなければなりません。しかしながら、その道には、誰かが通った跡や、誰かが残してくれたルート、誰かが残してくれたアイテムがあるわけです。もちろん自分も何かを残すことができ、それが、誰かに使われたということだけが知らされます。

 孤独と書きましたが、これは孤独ではないのかもしれません。ただ周りに誰もいないだけです。周りに誰もいなくとも、それでも顔も知らない誰かと協力しながらゲームを進めることができます。

 

 主人公のサムは、他人との接触を避ける人間です。そんな彼が巻き込まれることになったのが、謎の大災害によって分断された地域を繋ぐことです。人と接触をしないでいながらも、人と人を繋ぐ任務を担うということ、これは矛盾しているでしょうか?

 僕が思うにそれには矛盾しない解があって、つまり、他人との接触には適切な距離感があるという話だと思うんですよ。

 

 これは僕がインターネットに対して常日頃感じていること共通するなと思いました。

 

 何度か書いていると思いますが、僕の日常では、人とあまり密な人間関係を構築していません。それは意図的に避けていることです。僕はできるだけ他人を嫌わないでいたいと思っています。それは他人を嫌っているときの自分の心の在り方に、自分でダメージを受けてしまうからです。

 その結果、至った考え方が「人に対してどれぐらいの距離感なら嫌いにならないで済むか」というものです。毎日顔を突き合わせていれば、すぐに喧嘩をしてしまうような相手も、年に2回、盆と正月に会うぐらいであれば仲良くやれるかもしれません。あるいは、直接会うのではなく、インターネット越しに見ているだけならば大丈夫かもしれません。そんな適切な距離をとることが重要なわけです。

 

 僕は、他人に対して接触することによる悪い影響を避けるための念のために過大な何かを想像してしまいがちで、それに勝手にビビッて他人と近い距離では上手くやっていけないと思ってしまうので、インターネット越しに人を見ているぐらいが基本的にはちょうどよく感じています。

 ただ、インターネット越しだとしても、特に直接的なやりとりを頻繁に誰かとするわけでもなく、SNSで何となく繋がっている人たちの中にいて、それぞれが独り言として同じ話題の話をしているぐらいの雰囲気がとても心地よく感じます。あるいは、今このブログを書いているように、思ったことを虚空に向かって投げているぐらいが。

 

 このへんの感覚の話は、半年ぐらい前に同人誌の漫画にも物語として描いたんですが、僕はインターネットが「価値観の違う人たちを一足飛びで繋げてしまう」ことが、世の中に沢山の揉め事を増やしているんじゃないかなと思っています。

 何を良いと思って、何を悪いと思うかの価値観は、人それぞれ微妙に違っていて、それが真逆の人たちもいます。その差がある人々がたったひとつのリンクで繋がってしまうとすれば、人はその状態に傷ついてしまうんじゃないでしょうか?つまり、自分自身の大切な価値観が、相手にはないがしろにされていると感じてしまいやすくなるからです。

 世の中の価値観がひとつに統一されていない以上、その悲しい出来事は常に起こり得ることです。なぜ自分以外の人たちが、自分と同じ価値観を持ってくれないのか?という悲しみは、世界に自分ひとりしかいなくならなければ完全には消えないのではないでしょうか?

 

 人がそれで傷ついてしまうことは悪くないと思います。しかたないことですよ。だって、自分の中の価値観は大切でしょう?でも、他人にだって同じく大切な価値観があるわけです。それを相手に曲げさせることを認めることは、全ての人間が平等であるという前提に立てば、自分の価値観も相手に合わせて曲げなければならないということです。

 ただおそらく、多くの人は、全ての人間を平等だなんて思っていないので、自分の価値観を相手に受け入れさせつつ、他人の価値観は受け入れないということを正しいと思ってしまうのではないでしょうか?これも別に悪くはないと思います。自分を真に客観視できる人は、自分という人間は何十億分の一の価値しかないということを受け入れてしまうからです。自分に特別な価値がないと思うことは、それはそれで辛いことでしょう?そんなに辛くならなくていいんじゃないかなと思うんですよね。

 

 異なる価値観を持つ人たちが、お互いに傷つけずにやっていくコツは、あまり接触をしないように距離をとることだと思っています。上手くやっていけないから距離をとるのではなく、上手くやっていくために距離をとるということです。しかしながら、距離をとってしまえば傷つけあうことはなくなるかもしれませんが、協力し合うこともなくなってしまうのかもしれません。人がたくさんいるのに、それぞれが価値観の切れ目で分断されていることも非効率的なことのようにも思います。

 だから、互いに適切な距離をとりつつも、共通的に必要な目的に関しては協力をすることができればいいのになという気持ちがあり、それがデスストランディングのゲーム設計と一致するような気持ちがあって、それがとても良く感じました。僕がゲームと、自分が抱えているのと同じ価値観と繋がれたと感じたからです。

 

 インターネットによって急激に狭くなった世の中は、世の中から多様性を奪っているのではないか?という疑惑を僕は抱えています。

 価値観と価値観がぶつかることは争いも生み出しますが、一方で歩み寄りのきっかけともなるからです。歩み寄りは良いことかもしれません。しかしながらその歩み寄りの裏側には、双方が何らかの我慢をすることで成り立っているという側面もあるのではないでしょうか?多様な価値観を持っていた人たちがたくさん集まれば集まるほどに、最終的に場に出せるものは、その誰もが納得できるとても狭いものになってしまうのではないかと思っています。

 だから、全員が同じ価値観を共有する場にいるのではなく、それぞれの人がそれぞれ近しい価値観の人で集まりつつ、その集団同士が必要に応じて点で連携できるようになれればいいんじゃないかと思うんですよね。大前提としては、その集団と集団の間を人が自分の意志で移動できるものとして。

 だって、インターネットで異なる価値観の人と繋がることで生まれる苦しみもあれば、インターネットでようやく同じ価値観の人と繋がることができた喜びもあるわけじゃないですか。

 

 デスストランディングに見る他人との距離感は、インターネット以前には遠く見えなかった人たち、そして、インターネット後には近すぎて見えすぎてしまう人たちと、改めて適切な距離感を模索する様子があるように思えます。

 僕はひとまずそれがなんかいいなと思ったりしました。

実写映画「バクマン。」は実質、林羅山説

 実写映画の「バクマン。」を皆さんは見たでしょうか?最高と秋人の2人の高校生コンビが、週刊少年ジャンプでナンバーワンの漫画を描くこと(そしてアニメ化されて好きな女の子をその声優にすること)を目指す映画です。

 特に原作を読んでいた人に聞きたいのですが、あれは「バクマン。」でしたか?確かに登場人物や、置かれている状況は「バクマン。」だったでしょう。でも、本当にあれが「バクマン。」ということでよかったのかどうかに、僕は疑問があります。僕はあれが、「スラムダンク」であったように思えてならないからです。

 

 さて、林羅山という人物をご存知でしょうか?歴史の授業で出てきたと思うのでご存知と思います。林羅山は、朱子学派の儒学者であり、徳川家康から数えて4代の将軍に遣え、江戸幕府の在り方についての様々を定めた功績のある人物です。

 彼は儒学者でありながら、儒教ではなく、仏教の僧侶として出家しています。しかしながら、彼は仏教の僧侶としての立場を得つつも、儒学者でもあり続けた人物でした。朱子学とは、儒教から宗教性を取り除いた学問です。江戸幕府は、寺請制度により、人々をいずれかの寺院に所属することを義務付けました。つまり仏教を利用することで、宗教統制を行うとともに、民衆の管理を行う施策を進めたわけですが、一方で、江戸幕府の正学としては朱子学が採用されており、ここに林羅山の影響があると思われるわけです。

 

 宗教性を排除した朱子学と、形式を残した仏教による江戸幕府の統治は、その習合にも影響を与えたのではないでしょうか?曖昧に書いたのは、僕は適当な本の読みかじりなので、学問的には間違っているかもしれないという予防線です。

 

 さて、現代の寺院で見られる、日本の仏教と我々が思っているものの中には、様々な儒教的なものが残っています。例えば、位牌は儒教にその起源があるものです。お盆も、なんとなく仏教的に思えてしまいますが、先祖の霊が帰ってくるという思想は、仏教における輪廻転生の概念と矛盾しますし、一方で祖霊を祀ることを教える儒教とは親和性が高いものです。

 この辺も、僕には厳密な話はできませんが、我々が仏教という枠組みで捉えているものの中には、実は仏教由来ではなく、仏教が日本に根付く中で、様々な別の思想を取り込んだ結果であったりもするわけです。

 

 宗教は、このように外来したものが現地信仰などと結びつくことも多く、あるいは、布教のために土着の進行を悪神として取り込んだりなどして、地域によって変化をしがちなものです。その結果、開祖の思想はどこへやらとなってしまったり、最初の経典の思想に帰れ!と主張する人が出てきて揉めたりを繰り返していて、様々な地域での受け入れられ方なんかの本を読んでいると、非常に人間的で面白い話だなと思います。

 

 林羅山は仏教の顔をしながら、儒教由来の思想をその中にまんまと取り込ませることに成功した男という解釈をすることができます。

 これですよ!つまり僕が言いたいのは、「バクマン。」の実写映画を作るというていで、映画製作者たちが作りたかったのは「スラムダンク」であり、まんまと「スラムダンク」の映画を作ってやったのではないかと思うわけです。

 

 じゃあ、どこが「スラムダンク」なのかというと、終盤の展開です。

 

 映画の中で、最高は、ハードワークがたたって入院してしまい、せっかく上り調子な連載中の漫画を休載せざるを得ないことになってしまいます。しかし、最高は病院を抜け出し、原稿を完成させて、編集長に提示して、見事掲載する許可を得ることができます。そして、ついにはアンケートのナンバーワンを得ることができるのです。しかし、ここで全精力を使い果たした彼らの漫画は、その後人気を落とし、終わってしまうことになります。

 これは、映画の尺に物語を収めるための変更だと思いますが、原作とは異なる展開なんですよね。

 

 そして、一方でこれは「スラムダンク」の最後に酷似しています。バスケの試合中のアクシデントで背骨に痛みを感じた桜木花道は、選手生命にかかわると警告されながらも、自分の全盛期は今だと言って試合に出続け、最強のチームと名高い山王工業に勝つことができます。そして、その試合で力を使い果たした彼らは、次の試合でぼろ負けしたと書かれ、連載が終わるのです。

 

 実写映画の「バクマン。」でも、「スラムダンク」の話題は登場し、そして、なによりクライマックスのアンケート1位をとった場面で、最高と秋人がタッチをかわすのです。これは「スラムダンク」における流川と桜木のタッチをかわすシーンと同じでしょう。僕たちは、「バクマン。」の映画を見に来たつもりが、「スラムダンク」を見させられていたのだ!!とそのとき思いました。

 

 長々書いてきましたが、もちろん「スラムダンク」だけが描きたかったわけではなく、他の作品へのオマージュも沢山あり、あるいは、大槻ケンヂの「グミチョコレートパイン」を意識しているのかな?というような場面もあったのですが、基本的には、90年代のジャンプ漫画が好きだった人たちが、90年代のジャンプ漫画が好きだった気持ちを元に作った映画なんじゃないかなという風に感じました。

 そんな感じに、「バクマン。」の原作で描かれていたものをぐぐっと最小化して、90年代のジャンプ漫画が好きだったぞ!という気持ちをマシマシにしたら、結果、映画が面白かったので、なんかその状況が面白かったなという話でした。

昔、あずまんが大王が嫌いだった話

 今は、あずまんが大王は何も嫌いじゃないというか、本当は最初から別に嫌いなんかじゃぜんぜんなかったと思うけど、若い頃、あずまんが大王がすごく嫌いだと思っていた。嫌いだったというより、より正確には、これを面白いなどと思ってはいけないと思っていた時期がある。

 

 漫画は何も悪くなくて、こんな風に名前を出すこともよくないのかもしれない。僕がなぜあずまんが大王を嫌いと思っていたかというと、僕が嫌いだった奴が「世界で一番面白い漫画は、あずまんが大王だ」と言っていたからだ。ほんとうにしょうもない理由だ。

 僕が「あずまんが大王は面白い」と感じてしまうことは、「僕が嫌いなあいつの感性を肯定すること」だと思ってしまったのだと思う。そんなわけはないし、全く無意味なことを思っていたなと思うけど、当時はそう思わないでいられるような感覚がなかった。

 

 その嫌な相手は、ある繋がりでたまに一緒の空間にいなければならない人だった。

 

 僕が彼を嫌いになった理由は分かりやすくて、彼が僕が好きな漫画のことを「気持ち悪い」と表現したからだった。すごく嫌だなと思って、なんで人が面白く読んでいる漫画についてわざわざそんなことを言ってくるんだろう?と思った。それだけだ。それだけのしょうもない話なんだけど、たったそれだけで、その後何年もの間、あずまんが大王を面白い漫画とは思ってはいけないという感覚に囚われ続けてしまった。

 人間はしょうもない。一般化し過ぎた。僕はしょうもない。

 

 でも、もしかしたら今は頑張って切り離しているだけで、今でも同じ感覚はまだあるのかもしれない。

 

 例えば、SNSでの振る舞いが嫌な作者の描いた漫画を、面白いと思ってはいけないという感覚があったりはしないだろうか?SNSでの振る舞いを否定したいがために、相手の漫画をつまらないと表現しようしようとしてしまうとしたら、それは人間と人間の問題であって、漫画の問題ではないだろう。でも、そこを綺麗に切り分けることが本当に誰もに完璧にできるのだろうか?ということも思う。

 もしくは、他人が好きなものをこき下ろすことで、自分が相手より優位に立ったように感じてしまったりしないだろうか?それはひょっとしたら、嫌な相手が僕に向けてきた感覚の裏返しで、同じものなのかもしれない。

 

 オタクは、何かが好きとか嫌いとかで自分を語ってしまいがちなのではないかと思う。何かが好きとか嫌いとか言うことが、オタクにとって自分自身を記述する数少ない方法なのだとしたら、そこにはきっと優劣も生まれるのだろうと思う。人間は他人との優劣を気にしてしまう生き物だからだ。

 何かのことを好きな自分は、別のものを好きだと言っている他の誰かよりもいいセンスをしているとか。何かを嫌っている自分は、他の誰かよりいいセンスをしているとか。それは自分が属する集団の中の序列の話で、人間関係の話で、人の心の問題だろう。漫画は実はあんまり関係ない。

 でも、そういうことをしてしまうんじゃないかと思う。漫画そのものじゃなく、それを好きとか嫌いな自分の話をしてしまうんじゃないかと思う。何が嫌いかより、何を好きかで自分を語れなんて台詞があったけど、好きとか嫌いとかを感じてしまうことそのものは個人の感覚だから別にいいとして、好きだろうが嫌いだろうが、それを他人との序列を認識するために使うことには本当に自分に得があるんだろうか?と思う。実際は自分が楽しめる範囲をわざわざ狭くしているだけなんじゃないのかと思ったりする。

 

 こういう経験は、友達のオタクたちにも少なからずあるようで、「自分が好きな漫画を、他人に薦めるときに重要なことって何かな?」って話をしていたときに、最終的に大事なのは「薦めている自分の好感度」だなという結論に達した。

 僕が嫌な人間だと思われていれば、僕が薦める漫画をむしろ嫌う人の方が増えるだろう。僕があずまんが大王を嫌ってしまったように。

 もしくは、自分と自分が好きな漫画を一体化して、我こそがこの漫画の一番のファンであるぞ!!という顔をし始めても、その漫画を何のしがらみもなく楽しむことができる人は減るかもしれない。ファンコミュニティの序列の中で、自分は上で、お前は下だと言われ続けるかもしれないからだ。

 

 僕は自分が好きなものが、世の中でも広く好かれているといいなと思う。それは別に善良さではなく、個人的な利益の話だ。つまり、自分が好きなものが嫌われている光景を見ると傷ついてしまうからだ。そう、結局のところ完璧に切り離せてなんかいない。ただ、僕が好きなものを皆も好きであれば、そういうことは起こらない。自分の好きなもので世の中が満たされていさえすれば、僕も機嫌よく過ごすことができる。

 でも、実際の世の中は僕と同じ形をしていない。百人いれば百人の違った形が存在する。全ての人間にとって心地よい形を満たすようにすることは不可能なのかもしれない。だから、たまたまそうあってほしいと願うことぐらいしかできない。

 そして、自分が嫌いなものの感性で世の中が満たされてしまうことにも怯えてしまうのかもしれない。だから僕はそれを拒絶しようとして、面白い漫画を面白いとは思ってはいけないと、頑なになってしまっていたんじゃないかなと思う。

 

 そんなふうに色々思うところがあって、何かの特定のものが好きなオタクの集団には深く属さないでオタクをやろうという気持ちがある。なぜならそこにはどうしても序列が生まれてしまうだからだ。自分は他の誰かよりもこれが好きだとか、作者と仲がいいだとか、あんなものを喜んでいる奴らはレベルが低いだとか、そういう序列の話が生まれてしまう。

 そうじゃないんだよな。ひとりで読んでてなんとなく面白かったなとか、楽しかったなとか、救われた気持ちになったなとか、そういうことをしている時間が好きなだけなんだよな。

 だから、同じものが好きなオタクの集団に無理に属する必要はないし、ひとりで楽しくやってりゃいいんだと思う。

 

 僕は今、あずまんが大王を面白く読める。でも、かつて嫌いだと思っていたことに少しの後ろめたさがある。いまだに。

頭が暇になると何も続けられない関連

 何かを続けられないこと結構あるんですけど、そういうとき自分にどういうことが起こっているのかと思っていると、退屈をしているのではないかと思っています。

 

 じゃあ、退屈って何かなと思うんですけど、僕の考えでは脳みそのリソースが余っているということです。目の前にある情報を処理するのに、自分の能力のごく一部しか使わなくてもいい状態が続くと、脳みそが暇になってしまいます。暇になるともっと暇にならないことをしたいと思って別のことをしちゃうんじゃないかと思うんですよね。それが何かを続けられないときには起こっているんじゃないかと思っています。

 だから、何かを続けたいならそんなふうに退屈にならないことが重要じゃないかと思いました。

 

 退屈にならないためには、目の間に情報が十分あるようにすることです。例えば、静止画と動画では、動画の方が長時間見やすいのではないでしょうか?それは目の前に絶えず変化する情報があるからだと思うんですよね。

 一方で、同じ静止画でも「静止画の中に南原清隆が目立たないように仮装して隠れている」と言われたら、しばらく見続けることができるかもしれません。それはその静止画の持つ意味が変わるからです。人が隠れていると言われたら、木々や岩壁の模様を細かく見ていくことが必要になってきますし、その意味で見るべき情報が増えています。

 

 絵画やスポーツを長時間見れる人と見れない人がいます。それは例えば、絵を描く人であれば絵画の筆致を追ったり、全体のバランスを見たりと、自分がその絵から読み取るものを沢山探せたりして長時間見ることが退屈ではなく、スポーツが好きな人であれば、細かいプレーのひとつひとつから何かしら情報を感じることができて退屈ではないのではないでしょうか?

 スポーツが分からない人ならば、試合を見て分かるのは点数ぐらいです。点数だけに着目すると、例えばサッカーでは90分の試合の中で数回ぐらいしか注目ポイントしかありません。その何十分に1回しか来ないタイミングのために情報量が無の画面を見続けるのは退屈じゃないですか?退屈でしょう?

 そして、退屈になったら人はそれをやめて別のことをやりたくなってしまうんだと思います。

 

 歩きスマホもこの理屈で説明ができて、歩いているときには頭が暇なんだと思います。スマホを開けば情報が洪水のように出てきますから、何も見ずに歩くのはやめて、スマホを見て歩いた方が退屈をしませんね。だとすれば、歩きスマホをやめさせるためには、単純に「歩きスマホを止めろ!」というよりは、歩道をスマホを見ない方が情報量が多い環境にすれば自然に止めるように誘導できるのかもしれません。

 それがどういう方法なのかは分かりませんが。

 

 情報量を増やせば、人は退屈せずに離脱しないというのは、YouTuberの動画にも見て取ることができます。YouTuberの動画でワンカットを動作の最後ではなく途中で切り取って、次のカットに繋げるような編集がされているのをよく目にするからです。

 つまり、動作が終わるフォロースルー的な部分には情報量が少ないので、ざっくり切ってしまい、余韻を排除して常にサビみたいな感じにするというのは効果を狙った方法だと思います。

 他には同じ音楽でもテンポアップすれば単位時間あたりの情報量が増えますし、ニコニコ動画のように映像の上にテキストを流せば、テキストを読むことや、テキストの意味をとることで情報量が増え、退屈を減らすことができます。

 

 ただし、情報量をむやみやたらに増やせばいいわけでもありません。なぜなら処理できないほどの流速の情報を目にすると、最初から処理を諦めてしまうからです。諦めたら情報量はゼロです。それは退屈なので、離脱してしまいます。

 頑張ればギリギリ処理できるぐらいの情報量、目指すべきはきっとそれでしょう。そういう意味ではニコニコ動画弾幕と呼ばれる、文字が画面に大量に出過ぎてしまうものは、テキストとしての情報量はゼロに近くなる一方で、光景としての情報量が増えるというケースで、これは面白い現象ですね。

 

 何にどれだけの情報量を見いだすかは、その対象だけでなく、その主体となる人に依存する部分も多いです。例えば、何かが上達することで、より細かい情報を得られるようになって楽しくなることもあるでしょうし、逆に同じ情報しか読み取れないことが繰り返されることで、同じものを見てもだんだんと退屈していくかもしれません。

 歳をとって何かがつまらなくなってしまったと感じるのは、対象そのものがつまらなくなったというよりは、以前にも経験したパターンの繰り返しと捉えてしまうからかもしれません。

 

 一回目はストーリーを追うことで手一杯だった情報量の多い映画は、繰り返し見ても都度それまで気づかなかった別の細かい演技や演出などの情報に気づけるかもしれません。それはつまり何度見ても情報量が落ちずに楽しめるということですが、そのうち限界があります。そういうときに他の人の見方を参考にすれば、また別の情報に気づけるかもしれません(評論や批評に求められているのはこの部分なのかもませんね)。でも、それでもさらにそのうちその映画からはもう何かを得ることができなくなり、ついには見ても退屈になってしまうかもしれません。

 そういうとき、「かつてはあんなに好きだった映画が、今となってはつまらないものにしか見えなくなった」とか思ってしまうこともあると思います。でも、これはもう得られるものは十分得たということだと思うんですよね。だからきっと悪いことではなく、それらは既に自分の血肉になったので、他者としての魅力は感じられなくなっただけなのではないでしょうか?

 

 僕はこういう考え方なので、自分で漫画を描いたりするときにも、上手くできているかは別としてこういうことを考えています。読者に対して退屈をしない情報をページごとに提供できているか?ということを気にしていて、それは少なすぎてもいけませんし、多すぎてもいけないのではないかと思います。その情報は言葉で表現してもいいですし、絵で表現してもいいでしょう。あるいは、コマとコマの繋がりを補完して文脈を認識する読者の心の動きに求めてもいいはずです(ちなみに単位時間あたりの情報量は文、絵、文脈の順で大きくなりがちと思います)。

 それが上手くできれば、退屈せずに読める漫画が描けるのではないかという思想を持っています。でも上手くやるのは難しい。

 

 さて、なんでこういう話を書き始めたかというと、一昨日からリングフィットアドベンチャーという任天堂の筋トレゲームを始めたのですが、これが、退屈をなかなかさせないように気を配られているなと思ったからです。

 僕は子供の頃に器械体操とかをやっていて、その関連で筋トレとかもよくしていました。続けていると回数をこなせるようになってくるんですけど、同時に退屈してきます。なぜなら筋トレ中には数を数えるだけで頭が暇だからです。何の情報量もない状態でただただ運動だけするのに飽きてしまって、なかなか回数をこなしたくありません。頑張ればできるんですけど、頑張らないといけないんですよね。それは張り詰めた気持ちが切れたら止めてしまいます。

 

 一方で、リングフィットアドベンチャーは、多少ランダム性も感じられるRPG的なゲームが、自分の筋トレと連動して進んでいきます。これも、夢中になるほどに楽しいかというと今のところそこまで夢中ということもないのですが、でもかなり気がまぎれるんですよ。頭を暇にさせないことで、肉体のしんどいのを淡々と続けることの退屈も減ります。

 中でも実装として良く感じたのが、筋トレ攻撃をするときに、途中でペースアップするんですよね。これは繰り返しでだんだんと退屈してくるところを、速度を上げることで誤魔化して最後までやり切った気持ちになれてグッドだなと思いました。

 

 リングフィットアドベンチャーをやろうと思ったのはダイエットしようと思ったからなんですが、ダイエット何回かやって何回か成功して、そして継続できずにまた太る、みたいなことを繰り返しているんですけど、続けられないのは退屈しちゃうからだと思っていて、退屈しちゃう理由としては、体重の数字ってそんなにすぐに分かりやすく減らないんですよ。

 ゲームが楽しい理由も情報量の問題として解釈できて、ゲームでは自分の操作に即座にフィードバックがあることで常に新しい情報が出続けるというフローの中で夢中になってしまうということがあります。一方で、体重は運動してすぐに減るわけではないですから、結果が出るのに何週間もかける必要があったりします。ゲームのボタンを押したら、数週間後にパンチが出るゲームをやりたいでしょうか?つまり、沢山操作をしても、そのフィードバックが来るのがとても遅いダイエットは、ゲームとしては退屈だと思うんですよ。

 

 だから、ダイエットをゲームとして面白く続けたいなら、体重以外の数字を見ながらやった方がいいなと思っていて、そこにリングフィットアドベンチャーを頼りたい!!という強烈な気持ちがあるんですよ。ほんと。マジで。

 

 まあ、まだ2日やっただけなので、続けられるかどうかは分かりませんが…。

 

 ここまで書いたのは僕の行動原理のかなり根幹にあるので、かなり大切な話なんですけど、とにかく何かを続けたいときには、そこで退屈をしないようにしないといけなくて、あるいは取り扱えないほどの巨大な情報にそのまま立ち向かうことをやめないといけないと思っています。

 退屈なら何を情報として追加すれば夢中になれるのかを考えますし、情報が巨大だと、その流速をどれだけ搾って見れるように抑え込むかということを考えます。

 

 何かに退屈して止めていまうことは人間の基本的な性質だと思うので、それは根性の無さとかではないと思っています。ただ退屈しないぐらいに情報を増やせばいいのです。情報量がめちゃくちゃ多いときに何もできなくなるのは、やる気のなさではないと思っています。そういうときは、分かるレベルまで情報を砕いて細かくして、分かるものに取り組んでいけばいいじゃないですか。

 

 そういう感じに生きているという話です。ダイエットは成功してほしい。

「ファンタジウム」と人間の序列判定関連

 「ファンタジウム」はマジシャンの漫画で、主人公の長見良くんは14歳ながらめちゃくちゃ高度なマジックのスキルを持つ少年です。しかしながら、長見くんはもうひとつの抱えている事情があります。それは文字の読み書きをすることが難しいディスレクシアという障害を抱えていることです。

 

 この物語は、長見くんを取り巻く人間模様の変化を描いた物語です。しかしながら、長見くん自身の根っこのところは最初から最後まで大きくは変化していないように思います。ただ、長見くんを取り巻く周囲の状況は激変し、そして、長見くんはそのせいで起こる様々に直面することになります。

 

 この物語の特徴は、ディスレクシアとマジックという2つの物を同時に長見くんが抱えているところではないかと僕は思っています。この2つは一見何も関係ないようにも思えますが、同質のもののように思えるからです。

 

 あらゆる人間が根本的に抱えていることとして、人間は周囲の人間たちの序列を考えずにはいられないように思います。「そんなことはない、人間は皆平等なはずだ」と思ったりするかもしれません。でも、自分の周りを思い返してみてください。この人は、社会においてとても重要な価値ある人だと思う人は思い当たらないでしょうか?そして、この人は社会において害悪なだけの価値のない人だと思う人は思い当たらないでしょうか?

 普通は誰かしらそれに該当する人がいるはずです。人間と人間は平等なはずなのに、人はそこに価値のある者と価値のない者を見いだしてしまいます。僕はこれは別に悪徳ではないと思っています。しょうがないことです。でも、人間がそういう性質を抱えているからこそ、「人間は平等だ」というお題目が必要なのではないでしょうか?それによる歯止めがなければ、すぐに人間には価値とそれによる序列がつけられてしまうからです。

 

 人間は他人のことを完全に理解することができません。なぜならば、人間のコミュニケーションは不完全だからです。頭の中にあることを直接確認することはできず、他人の口から一度言葉になったものを読み取り、それを自分の頭の中で再生して想像することしかできません。もちろん言葉だけではなく、見た目や行動からも何かしらの情報を読み取っています。それは受動的なものだけとは限りません。能動的に言葉や何かしらを相手に投げかけ、そして返ってきた内容によって他人の中身を判定することも多々あります。

 雑談は日常の中に存在するその最たるもののひとつでしょう。相手に言葉を投げかけ、想定の範囲の内容が返ってくるかによって相手がコミュニケーション可能な存在かどうかを判定しています。何を話しかけても、理解できない内容が返ってくるならば、そのうちその相手はコミュニケーション不可能な存在として分類されてしまいます。

 この傾向は、コミュニティが小さければ小さいほどにより強くなっていくと思います。例えば、オタクは常に相手が自分の仲間かどうかを判定するための定型的なコミュニケーションを行ったりします。型を覚えているかどうかが、仲間かどうかの判定基準であるため、内輪ネタを発言してはそれに想定通りの反応が返ってくるかどうかを見ているように思います。

 例えばガンダムの話をしたとして、相手がガンダムのことを「ロボット」と発言すれば仲間ではないとされるかもしれません。なぜならガンダムは「モビルスーツ」だからです。想定している正解の答えを出すことで仲間として認められますが、そうでなければニワカオタクという判定をして仲間には入れて貰えないかもしれません。

 

 さて、文字の読み書きができない障害というものは、そんな状況において非常に不利になります。なぜならば、相手が投げかけてきた文字について、理解することができず、文字によって返答することもできなくなるからです。他人から投げかけられるその中身を品定めするようなコミュニケーションにおいて、相手が求める答えを返せないことで、その頭の中身そのものを劣ったものであると理解されるようになってしまいます。

 これは、母国語以外を拙く喋る人に対しても見られる傾向かもしれません。カタコトで拙く喋るということは、頭の中身の方も拙いのだろうと思われてしまうことがあるからです。

 もちろん、他人に劣っていると判定されたからいって、侮られることが正しいこととは全く思いません。でもそれはあるでしょう?今まで生きてきて、それがない場所を僕は見たことがありません。自分だってそれに加担していたこともあるはずです。

 

 障害を抱えていることで、周りが当たり前にやっていることを上手くできないということのもうひとつの辛いことは、それをする理由が「舐めている」と判定されてしまうことです。普通の人が当たり前にやっていることをお前はなぜできないんだ?と問われ、その理由は、やる気がないとか、舐めているとか、甘えているとか、そういう理解をされてしまいます。

 なぜならば、その判定する人はできる側だから。できないことの理由がそれぐらいしか思いつかないのです。それもある程度は仕方がないことですよ。人は当たり前に持っているものについて、その価値をなかなか知ることができません。水の中を潜ったり、宇宙にでも行かなければ、当たり前に呼吸ができる空気があることに感謝をすることはできません。

 

 相手の想定している答えを返せなければ、人はどんどん侮られていきます。劣った存在として、イジメにもあってしまうこともあります。そこで起こり得る何より怖いことは、そんな劣っていると侮られた存在が世間で評価されることでしょう。

 人間は序列を気にしてしまいます。そして、世間の序列が自分の中に存在する序列と異なるときに、パニックになってしまうのです。テレビにマジシャンとして出演する長見くんの世間の評価は上昇します。しかしながら、学校で彼を侮っていた人たちの中では、万年赤点で再試験を言い渡される劣った奴です。序列の下位の者が、序列の上位として紹介されることに、人はパニックになります。

 そしてこう主張したくなってしまうでしょう。「世間の評価は間違っている」と。それを世間に知らしめてやろうとする力は、自分が見下している何かが世間で評価されることでより強くなってしまいます。

 

 ネットなんかを見てもよく目にすることだと思います。人は自分が見下しているものが世間で評価されているときに、「そんなものは評価されるべきではない」と言い、自分が価値あると思っているものが世間で評価されていないときに、「もっと評価されるべき」と言います。同じことです。自分の中の評価と世間の評価が一致していないことに耐えられないからこそ出てくる言葉です。でも、そんなもの完全に一致するわけないじゃないですか。

 

 長見くんが抱えているのはそういう種類の過酷な環境です。「誰に見下されても、得意なことで評価されて見返してやればいい」ということだけでは抜け出ることができない環境です。そしてそれは、世を見渡してもそこかしこに存在する普遍的な過酷さだと思うんですよ。可哀想な誰かの問題ではなく、自分たちが加害側にも被害側にも多かれ少なかれなっている問題です。

 

 さて、長見くんをこんな状態にしてしまうディスレクシアと、マジックは同質のものであると最初に書きました(覚えてますか?)。僕の意図はつまり、マジックというものが、他人の不完全な認識による偏見を利用した娯楽だからです。

 例えば、右手にあったはずのコインが、左手に移動している。これは、マジックですが、マジシャンからすれば不思議なことではありません。なぜなら、お客さんが右手にまだ持っていると思っているコインは、とっくに右手にはなく、何も持っていないと思っている左手には最初からコインがあったりするからです。マジシャンにとっては当たり前のことを、お客さんは気が付くことができません。できないようにマジシャンに誘導されています。

 だからこそ、それが分かったときに辻褄が合わず驚いてしまうのです。

 

 これは、前述のコミュニケーションと同じではないでしょうか?言葉を投げかけた誰かが返す反応から、その人はこういう人だと解釈するように、マジシャンに見せられたものから、今コインがどこにあるかを解釈しています。そして、それは不完全な認識による誤認なのです。

 違いは、その後想定外の答えを見せられたとき、マジックでは驚きと賞賛があり、コミュニケーションでは驚きと拒絶があることでしょう。

 

 長見くんは、他人に対して想定外の答えを返してしまうことで拒絶され、想定外の答えを見せることで賞賛されます。これはここだけ比較するととても不思議なことですね。

 

 人は自分を基準のモノサシとして、他人を測ることを止められないのかもしれません。そして、自分のモノサシと世間のモノサシを比較して、それが合致しているとかしていないとかいう話をすごくしてしまいます。でも、それだけを考えていくと、人を取り巻く世界はどんどん狭くなっていってしまうのではないでしょうか?なぜならば、人間は全ての物事を完全に知ることはできないので、誤認があり、誤解があり、その歪みに周りの全てを合わせようとしてしまうということだからです。

 漫才でも、想定外の答えを出すボケと、その認識合わせをするツッコミは両輪です。それを人は楽しむことができます。それはマジックと同じではないでしょうか?ツッコミがあるからボケが楽しめる一方で、自分の認識に世の中を合わせるツッコミだけしかなければ、世の中のあるべき姿はどんどん狭くなるんじゃないかと思うからです。

 コインは右手にあるべきだと言っても、既に左手にしかないのです。

 

 漫才のボケもマジックも娯楽です。世間では特に必要なものではないと思われるかもしれません。でも、もしかすると、それが人の持つ世界を閉塞から開放に導くための潤滑剤になっているのかもしれません。

 この前の「ジョーカー」の感想文では、モノサシに合わない人を社会から分断し排除することに関する閉塞感について書きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ならば、こちらはそれに対する答えのひとつなのかもしれません。一見、生きる上で必要ではないマジックという存在が、世の中の在り方を少し広くすることができるものであるように思えるからです。

「金色のガッシュ」に見る、支配への抵抗関連

 金色のガッシュは、人間界に送り込まれた100人の魔物の子たちが、次の魔界の王となるために、最後の1人になるまで戦い合う漫画です。この戦いにはルールがあり、魔物の子たちにはそれぞれ、その才能を発揮するための呪文が書かれた本が存在します。魔物の子は、その呪文を人間に読んでもらうことで能力を発揮することができるのです。この戦いは、100人の魔物の子の戦いであり、その本の使い手として選ばれた100人の人間の戦いでもあります。彼らのうち99人(正確にはある経緯により+α)は、戦い、敗れ、パートナーとの別離を経験します。最後に勝ち残った1人もまた、王となるために別離を経験することになります。

 これは人と魔物の子の出会いの物語です。そして、人と魔物の子の別離の物語です。最後に別れがあるのであれば、その出会いは無意味でしょうか?違うのではないでしょうか?その出会ってから別れるまでには時間があったわけでしょう?

 

 人間の人生も、最後は死です。どうせ死ぬなら生きる意味などないでしょうか?そうではないからこそ、人は生きているのではないでしょうか?これはそんな意義ある過程の物語です。

 

 金色のガッシュに登場する構図の中で僕の心に一番響いたのは、「人が人を支配されることの辛さ」と「そこに抗う意志の発露の瞬間」です。次世代の王を決める戦いは、つまり、次の支配者を決める戦いです。勝者には他人を支配する権利があり、敗者はそれに従うしかなくなります。強ければ強いほどに人は誰かを支配することができ、弱ければ誰かに支配されて生きるしかなくなります。

 

 この物語には沢山の支配する者とされる者が登場します。

 戦いに向かない優しい性格の魔物の子は、その意志に反する凶暴な人格を無理矢理植え付けられました。心を操る能力のある魔物の子は、優しい人間の心を自分の好むように操作し、自分の思う通りに様々な非道な行為をさせるようになります。気高い心を持っていたはずの魔物の子は、強い痛みを与えられる恐怖から、より強い魔物の子に従属を強いられてしまいました。強い力を手に入れるために、特殊な細胞を受け入れた魔物の子は、その代わりにその支配者に逆らうと体が崩壊してしまうリスクを抱えました。ある人間は、自分のパートナーの魔物の子がより強い魔物の子に逆らわず、従うように言い聞かせます。その体には虐待の痕があり、かつて自分もまた強い力を持つ者に逆らおうとして敗北し、無意味であったことを心に刻まれた経験を抱えていることが示唆されます。

 

 この物語の中では、誰かに従属させられ、道具として機能のみを求められ、自分の生きたいように生きる道を塞がれることが何より悲しいこととして描かれます。そして、それに反逆する物語でもあるのです。

 

 王となる最後の勝者を除く他の全ての魔物の子たちは敗れて消えていきます。しかしながら、その敗北が悲しいことばかりとは限りません。彼らは支配から解き放たれ、一己の存在である自分を取り戻すことに成功していることもあるからです。何かに従属し、支配されて生きることしかないことが己という存在の死であるならば、彼らは自分として生きることを得ることができたわけです。それは悲しいことばかりではないでしょう。

 そして、そこにはパートナーとの関係性、人間と人間の関係性、魔物の子と魔物の子の関係性があるわけです。そこにとても胸を打たれるわけです。

 

 この物語のラスボスとして登場するクリア・ノートは力の権化です。クリアの人格そのものがその巨大な力に飲まれて消え失せ、ただ他人を支配し従属させること、その先には全てを消し去る虚無へと向かう巨大な力そのものと化してしまいます。

 この物語の中で存在する戦うべき相手は、個別の人格ではなく、他人を支配するという概念であるわけです。

 

 誰よりも弱い魔物の子であったキャンチョメは、強さそのものでは誰にも勝てず、自分の弱さを痛感させながらも強くおどけて生きてきました。しかし、物語の終盤、ついに手に入れた圧倒的な強い力に酔いしれてしまいます。今まで自分が屈辱的にされてきたように、圧倒的な強い力で他人を脅かすことができることに、飲まれてしまうのです。これはクリアとの相似形です。しかし、キャンチョメのパートナーのフォルゴレは、誰かを脅かし、恐れさせる先には何もないことをキャンチョメに説きます。自らもまたかつてそうであったことを悔い、誰かとともに生きることを選ぶことこそが生きる道であることを身を挺して示すわけです。

 キャンチョメにはそれがすぐに理解できます。なぜなら、それはフォルゴレとキャンチョメが今までともに過ごしてきた時間そのものだからです。

 

 クリア・ノートにはキャンチョメにとってのフォルゴレのような存在がいませんでした。彼のパートナーは天才的ではあれど、まだ無垢な赤子です。それゆえ、彼は純粋な力そのものと化していってしまうのです。

 

 この物語の主人公ガッシュは、凶暴な人格を無理矢理植え付けられ、力に無理矢理支配された少女コルルの姿を見て、この戦いを勝ち抜き、王になる道を目指すことを誓います。それは、もうこんな力に支配される悲しい戦いを生み出さない優しい王になるためです。

 ガッシュの戦いは、誰かを支配するための戦いではありません。誰かとともに生きるための戦いです。だからこそ、ガッシュの本はともに戦った魔物の子たちの力が流れ込んで金色に輝き、クリア・ノートに対抗するための大きな力となるわけです。

 その中にはコルルの力もあります。いつか目覚めるはずだった人を守る、優しい力を携えて。

 

 魔物の子ゾフィスに心を支配されていた少女ココは、それでも自分には意志があることを示し続けて戦いました。痛みの恐怖に怯えていた魔物の子チェリッシュは、自分のために戦う魔物の子テッドの姿に、自分自身の気高い意識を取り戻し、気の遠くなる強烈な痛みにやせがまんをして耐えながらも逆らうことを選択します。

 自分に命令する魔物の子ゼオンに逆らえば逆らうほどに自分の体が崩壊していく魔物の子ロデュウは、パートナーのチータに、それがどれだけの苦痛が伴っても自分の生きたいように生きることを説きます。チータは、顔にある傷の負い目から、他人の目を気にしてふさぎ込んで生きてきた少女です。ロデュウはチータになぜ、他人の目ばかりを気にして自分の生きたいように生きないのか?人の顔の傷を笑うような奴らために、自分の方を曲げる生き方に何の意味があるのか?と、他人に逆らおうとしたせいで崩壊しボロボロになった姿で、それでもその意志を説くわけです。

 

 空間を操る特異な能力を認められ、クリアの手下として行動していた孤独な魔物の子ゴームは、自分に初めて優しくしてくれたキャンチョメのため、クリアに逆らおうとします。パートナーのミールは前述のように大反対するわけです。大きな力を持つ悪いやつに逆らったってどうしようもないと。自分たちのような弱い人間はそれに従って生きるしかないのだと。自分のような大人は、お前のような子供とは違って、それを分かって受け入れているんだと。逆らうような奴はただの馬鹿なんだと、その身に刻まれた傷を背に悲鳴のように叫ぶわけです。

 ミールとゴームが再びガッシュたちのもとに現れたとき、それは戦って敗北した姿でした。彼女と彼は、それでも戦い抗ったわけです。たとえ敗北することが分かっていたとしても。そこには他人に支配されることが我慢ならない気持ちがきっとあったわけでしょう?

 

 この世の中は結構仕方がないです。理不尽だと思うことがあっても、結局のところ自分ひとりの力ではどうしようもないことも多いです。人はあまり他の人間を平等な存在だと思っていません。隙あらば、自分の思った通りに動かそうと、力や理屈を使ってきます。自分だってそうしているかもしれません。

 自分らしく生きるということは、まあ、今この瞬間から自分らしく生きればいい話ですけど、結局のところ、他人に押し着せられる「このように生きろ」ということへの無限の抵抗が必要な生き方です。あるいは、無人島でひとりで生きるかですが、それも現実的ではないですよね。

 なにより、誰しもが自分らしく生きるということは理想かもしれませんが、それでも、世の中は誰かが誰かを従属させることで効率よく回っている側面も少なからずあるわけです。

 

 だから、「誰かに支配されず、自分の思う通りに生きる」ということは、どこまで行っても達成することができない理想的な概念でしかないのかもしれません。少なくとも僕は社会の中でで生きるために、いくつかの不本意な生き方もしてきました。それでも、その「他人に支配されない自分らしさ」に対する憧れは強くあって、それがこの漫画を読む中で思い出させられるからこそ、こんなにも胸にくるのではないかと思ったりします。

 

 「金色のガッシュ」は支配されることへの抵抗の物語だと思います。そして、その物語は支配者である王となることで、支配に抵抗するものが支配者側に立つとき何をなすべきか?それらは全てそこに至る過程にこそ存在していたのではないかと思うわけです。