漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「ジョーカー」と分断と排除関連

 映画の「ジョーカー」を観て来ました。何を描くかが明確で、そのために必要なものしかない映画だと思ったので、偉い映画だなあと思いました。それは、「広く世に出すなら、これも描いておいた方がいいんじゃない?」という考えを全てちゃんと排除しないとできないことだと思うからです。

 

 僕がこの映画から排除されていたと感じたことは「悪いことは悪い」という概念です。物語の中で悪を描くためのやりやすい方法は、正義を描くことだと思います。物語の中で正義が悪を懲らしめることによって、映画全体が「悪いことは悪い」という合意をとることができます。この合意は、刑法に代表される社会の合意と同じだと思うので、人に受け入れられやすくなります。

 

 しかし、この映画では違いました。普通の人が悪いことをすることを、苦しみからの解放のように描いているように感じました。悪くならないでいることで、苦しみに苛まれていた人間が、悪くなることでその苦しみから解放されるということ、それは悲しい光景です。しかし、その苦しみの中で生きてゆけ、あるいは善良なままに人知れず死んでゆけと押し付けられることは悪くはないのでしょうか?

 善良な人が苦しみの中で死んだとして、彼ら彼女らのような善良な人こそ救われるべき人であったと死後に語られることがあります。しかし、彼ら彼女らがその苦しみから解放されようとして罪を犯したらどうでしょうか?犯罪者なのだから、救われるべきではないと語られてしまうのではないでしょうか?であるならば、善人というのは誰にも迷惑をかけずに死ぬから善人でいられます。生きようとして足掻く中で罪を犯してしまえば、それはもう悪人だからです。

 

 少年漫画の類型のひとつは「いじめられっ子の仕返し」ではないかと思います。物語の最初に理不尽にいじめられた少年が、何らかの強い力を得て仕返しを図る物語です。その意味で、ジョーカーは類型的で分かりやすい物語であるとも言えます。自分たちをじわじわと脅かす存在を強力に脅かし返すことに成功するからです。

 しかしながら、ジョーカーではその手段が言い逃れ用のない犯罪です。犯罪は社会通念として忌避されるべきものですから、このジョーカーの行為は褒められたものではないと思ってしまいます。でも、よくよく考えてみれば、少年漫画でも同じではないでしょうか?例えば法で裁けない悪を罰するヒーローは違法行為をしたりはしていないでしょうか?悪を殺したとき、それは殺人罪ではないのでしょうか?そう考えると、少年漫画では、その行為が「悪い」と認識されないように文脈が作られていると思います。

 そして、ジョーカーでもその閾値と位相が異なるだけで同じではないかと思います。彼はその行為に至るだけに十分な言い訳を抱えており、彼の視点に立てば、その犯罪行為は肯定され得るかもしれません。そして、何が犯罪行為であるかを決めるのは法です。法とはその社会に属するものが守るべきルールです。社会の中で行きたければそのルールを守る必要があります。それは国が定める方でもそうですし、例えばアウトローな集団の中にも法はあります。誰かと社会を作るならば、そこには何らかの法があるはずです。そして、その法は、その社会の外には何の効力も持ちません。

 

 人喰い熊に、殺人は犯罪だと説いても何の意味もないわけです。

 

 この物語が描いていると思ったのは、孤立と排除です。社会の中で排除され孤立したとしても、それでも社会の中で生きたければ法を守るしかありません。でも、ある瞬間、その外に足を踏み出したらどうでしょうか?社会に属することを止めるだけで、それまで自分を苦しめていた正しい正しい法が、全く無意味なものに見えてくるはずです。

 これは犯罪行為に走る人だけについての話ではありません。抑圧的な親による家族のルールを強要されていた人にだってそうでしょう。法は呪いとも言えます。人が社会を作るならば、同じ呪いに呪われていなければならないわけです。呪いを解くことは、解放を意味しますが、同時にその社会からの追放も意味します。同じように呪われもしないくせに、同じ社会を築こうとすることはできないのではないかと僕は思っています。ただ、その社会が何に呪われるべきかは変えることはできるかもしれませんが。

 

 だから、法が効力を持つのは、相手が仲間であるときだけだと思っています。ならば、誰かのとってその法の力を失わせるには、その誰かを「我々の仲間ではない」と分断することです。分断された人間は、別の法に則って行動することになるでしょう。その行動は我々の法に照らせば間違っていることかもしれませんが、彼らの法では正しいことかもしれません。それを食い止めるため、同じ法に呪われ続けてもらうためには、仲間として迎え入れるしかないのではないかと僕は思います。いや、その存在を駆逐するという暴力的な方法もあるのかもしれません。

 自分たちを同じように呪われていない人間を、自分たちの安全と安心のために駆逐する暴力は正義でしょう?でも、逆側の視点からすれば、暴力は暴力、一方的で理不尽な暴力です。こういうことは多かれ少なかれ幾重にも重なる大小の社会の中で毎日起きていることです。自分たちは法に則って正しくやっているという正しいことが、別の視点から見れば、誰かを分断し追い詰めて排除していることだってあるわけです。

 

 最初に書いた「悪いことは悪い」というのは、こちら側の法です。そして、あちら側には無意味な概念かもしれません。

 

 「ハンターハンター」でも、善良に生きてきたジャイロが、ある日、虐げられた生活の中で、自分は「人間」という枠組みに入れて貰えていないということに気づいた瞬間に、「人間の社会」からの視点では悪と解釈される道を歩み始めます。「コオリオニ」では、「正常な人間」という枠組みにしがみつきたかった男が、歪んだ警察組織の中の法に過剰に適応しようとし過ぎたために起きた悲劇が描かれています。「寄生獣」の新一は、寄生生物との肉体的な入り混じりと母殺しのトラウマによって、人間という大きなくくりから半歩踏み出し、人間らしいとされる情動や涙を失います。しかしながら、寄生生物が遺伝子的に何の繋がりもない自分の子を守る姿から、繋がりを取り戻し、再び涙を獲得するようになります。

 自分たちはあちら側なのか?こちら側なのか?その立場の違いによって何に寄り添うべきなのか?それは、物語の中で繰り返し語られてきたことです。ジョーカーの物語は、あちら側に行ってしまう人の物語だと思います。そして、それは別に特殊な話ではありません。自分たちの身の回りでも日々起こっていることです。そのきっかけは、誰かが「自分はあいつらの仲間ではないんだ」と思ったことです。

 排除した人たちを責める意図はなく、排除されたと思ってしまった人を責める意図はなく、僕はそれはそういうものだと思うんですよね。仲間でなければ、同じ法に呪われる必要はないのだから。ただ、それだけです。

 

 「ジョーカー」という映画の反響に、この映画に影響されて罪を犯す人が出てくるかもしれないというものがありました。その語り口は、「自分たちとは違うあいつらの話」だなと思いました。自分たちとは違うあいつらが罪を犯すかもしれないぞ!という話です。それは分断だと思い、排除だろうなと思いました。

 日々起きていることだなと思いました。

仕事で英語を使うはめになるおじさんの気持ち関連

 何年ぶりかにTOEICを受けてきました。社での立場的に現場仕事ばかりしているわけにもいかなくなってきたので、そろそろ観念して正式にマネージャーになるかと思ったら、昇格のためには点数の報告が必要だと言われたのが理由です。

 

 何点ぐらいとれればいいんですか?って聞いたら、最近の新入社員は900点以上の人たちも多いので、彼らの上司になった場合に恥ずかしく点数を取ってくださいとのことでしたが、僕がTOEICでとったことのある最高の点数って確か840点弱なので、上回れる可能性ゼロじゃん…って思いました。最近は英語を使う業務をしていないので上達しているはずがないからです。

 とりあえず付け焼き刃もせず、今の自分がどれぐらい取れるのかなと思って受けましたが、手応えとしては、なんというか「英語ができる若者に対して恥ずかしくない」という意味だと、羞恥心を捨て、低い点数でも強気で誇っていくということでもすればいいかなと思う感じでした(ダメじゃん…)。

 

 社の話では、TOEICの点数が高いことは英語ができることは意味しないけれど、英語ができないひとはTOEICで点数がとれないので、足切りで使っているとのこと。足切られたらやばいので、ふるえて結果を待ちます。

 

 日本人といえば英語が苦手でお馴染みですが、僕も日本人として例外ではなく英語が苦手なんですけど、苦手だからといってやらなくていいわけじゃないというか、前の前の仕事場では、国際標準化の仕事とかに放り込まれていたので、英語を使わざるを得なくてめちゃくちゃ弱りました。

 でも、その当時、仕事で年間5、6回海外に出張する生活をしていた中で思ったのは、仕事で英語を使うのは、語学力というよりはコミュニケーションをとるための意志の問題だなと思うところもあって、特に空港でのトラブルとか、タクシーでのトラブルとか、ホテルでのトラブルとかになると、自分、意外と結構英語でガンガン喋るな…と思ったということで、目の前の人とコミュニケーションをとれる可能性の高い手段が拙い英語しかないなら、拙い英語でガンガン話すしかないんですよね。

 日本語でも知らない人とあまり積極的に話したくない僕が、拙くとも英語でガンガン喋っているの、人間は追い込まれるまではやらないことがたくさんあるんだなと思いました。おそらく日本人が英語が苦手なの、英語をわからなくてもなんとかなる状況にいがちだからで、追い込まれるたらといけるんじゃないかなと楽観的に思ったりします。

 

 他に、英語を使う仕事をしていたときに思ったことは、学校で勉強した英語が、英語を聞いたり喋ったりするときにはむしろ邪魔になるということです。これは教え方が悪いのか?というとそうでもなくて、方向性の違いというか、つまり、学校で習った英語は「読む」という要素がとても強かったと思うんですよ。

 とはいえ結局英語を読むということが、一番使うことだったりもしがちなので、役に立ってるんですけど、英語を「読む」ときと「聞く」ときでは大きく違うことがあります。それは、「遡れない」と「繰り返せない」ということです。

 英語を読むときには、文法を用いて文を分解し、構造を把握しながら文章を理解することができます。でも、聞くときには、来た言葉をそのままの順番に処理して意味を理解しなければなりません。つまり、言葉の処理の仕方が根本的に違うのに、読むときのやり方で聞くときも処理しようとしてしまうことが、自分の中で足を引っ張っていて、相手の言葉を聞き終わってから構造的に処理しようとして、間に合わないわ不正確だわで黙ってしまうということがありました。

 

 今は来た言葉をそのままの順序で聞いて理解し、頭の中で日本語にも直さないで喋るようにしています。そうでないとリアルタイムのコミュニケーションには間に合わないからです。一方で、文章でやりとりするのであれば、文法構造で読んだり、書くときも構造から作って、何度も言葉を見直して書けるので、喋るときよりは頭が良さそうにコミュニケーションがとれるかもしれません。

 これは日本語で書く場合でも同じかもしれません。文章は比較的頭良く見えるじゃないですか。それは何回も見直したり、自分で読んでおかしいところを修正してから外に出せるからです。僕は自分が喋っているところを録音して聞くことが結構あるんですけど、本当頭悪そうなんですよね。その場その場でストリーミングで出てくる言葉は、自分の頭の中を上手く表現できていないことが多いです。

 こういうことを思うと、何かの専門分野について喋っていてこの人は自分と同じぐらい分かっていると思った相手は、本当は僕の何倍も分かっている人の可能性があるなと思ったりします。リアルタイムで出てくる言葉が不完全なら、その頭の中には言葉以上にもっとすごいものが詰まっている可能性があるからです。

 

 僕は大人と子供に、純な思考力の差はないんじゃないかと思っていて、違うのは、自分の頭の中を整理するための概念や語彙や表現力が大人の方が豊富なだけなのではないかと思っています。例えば、僕が英語でものを考えようとすると、日本語で考えるときよりもずっと単純なことしか考えることができないことから、そういうことを思うようになりました。英語で考えようとして5年なら、5歳の子供と同レベルのことしか考えられないかもしれません。日本語で考えれば自分はもっと頭がよく振る舞えるのに、英語で喋るとそうできなくなるということにはもどかしさがあります。

 でも、そうであるならば、リアルタイム化はできなくても、日本語で考えた結果を英語に翻訳することとか、どうにか英語の語彙を増やしながら英語で考える経験を増やして英語年齢を重ねていくしかないような気がするんですよね。

 

 そういうことを英語をガンガン使う必要があるときには思っていましたが、最近ないので、完全に英語年齢の加齢がストップしているどころか、退化していることを実感した今日でした。

 とりあえず来月は海外出張もありますし、今後、仕事内容が変わるとまた必要とされる頻度が上がってくる可能性があるので、映画を英語字幕で見るなどして、語彙や表現力を少しは増やしていこうかなあと思っています。

RPG的世界観とメタ視点からの解釈の時代性関連

 ちょっと前に、えんどコイチの「オリジナルクエスト」の電子版を買って久々に読み直してました。これは90年代の前半に描かれた漫画で、「ついでにとんちんかん」のキャラクターたちがRPGの世界を舞台に、その世界にツッコミを入れまくるような漫画です。

 ゲームはゲームとして面白くするための整合性が存在するので、それを無視して現実に置き換えたときに不自然になる要素が存在します。それに何故なんだ??と疑問を投げかけツッコミながら、さらわれた姫を助けるために魔王を倒す旅に出る漫画です。

 

 これは25年以上前の漫画なので、今読むと既にやりつくされていると思ってしまうような内容でもあるのですが、当時の僕にはとても新鮮な内容でした。この時期にはこれ以外にも似た種類の色んな漫画が生まれてきていたように思います。例えば「魔法陣グルグル」であったり、「レベルE」のRPG惑星の話であたり、ゲーム的お約束の不自然さを逆手にとってギャグにするようなお話が沢山生まれていました。

 

 それはつまり、「家庭用ゲームでRPGを遊ぶ」ということが、世間的に十分に一般化が済んでいたということではないかと思います。だからこそ、皆が知っているそれの不自然さを指摘することがギャグとして成立するようになったのではないでしょうか?

 結構前に聞いた話ですが、お笑い芸人のショーレースを予選から沢山見ている人が言うには、「ドラえもん」や「サザエさん」のネタをやる組が必ずいるとのことでした。それはつまり、誰でもドラえもんサザエさんは知っているという前提があるからこそ、ネタとして成立するということです。RPGにメタにツッコむことが成立するということは、RPGがある程度その領域まで広まったということで、だからこそ、その遊びが楽しかったんだろうなあと思いました。

 

 RPGへのメタ視点は、例えばゲームのアニメ化や実写化のような別媒体展開のときにも必要になってきます。なぜならば、モンスターを倒せばお金が手に入るというゲーム的に当たり前のことを映像として再現しようとするとき、モンスターのどこからどのようにお金が生じるのかを描かなければならなくなるからです。例えば、ドラゴンクエストのアニメでは、宝石モンスターという概念が導入され、ゲームの中のモンスターは宝石から生み出されており、倒せばまた宝石に戻るので、換金可能という説明がつけられます。

 そして、そんなメタ視点は、その後、ゲーム自体にも反映されていくようになります。分かりやすいところでは勇者という概念を主観ではなく客観で見せるゲーム「MOON」があります。RPGの勇者という存在が現実に存在したらと考えたときに、その行動の珍奇さはゲームの中では儀礼的に無視されますが、それを無視しないのがこのゲームでした。

 そして、ゲームの表現力がデフォルメからリアルに変わってきたときに、それまで無視できていた不自然さにプレイヤーも開発者も向き合っていく必要が生じていたように思います。とはいえ、いたずらに不自然さを排除し、現実に則した表現に置き換えるだけでは、ゲームとして不便となってしまうこともあるでしょう。

 

 例えば、「バイオハザード」のアイテムボックスは、どの場所で道具を入れても、別のどの場所でも取り出せる不自然な存在ですが、あれがないとゲームそのものがとても不便になってしまいます。「バイオハザード0」では、アイテムボックスを廃し、床に物を置ける仕組みが導入されていて、あれはあれで制約として楽しかったですが、不便は不便でした。

 ゲームをする上でゲームを面白くする以外の不要なストレスは排除する方向になりがちですから、「ドラクエ」でも物は無限に持ち歩けるようになりましたし、オープンワールドのゲームでもワープで移動できるファストトラベルが存在して、常に歩くことは求められません。「シェンムー」では待ち合わせの時間までゲーム内時間を待たなければならないなどの要素がありましたが、「シェンムー2」では時間の進み方を早める措置がとられました。

 リアルにすれば、リアルですが、それがゲーム的な便利さや楽しさに寄与するとも限らないわけです。

 

 そんな時代を経てきた結果、現在は、ゲームのゲーム的な不自然な部分を様式美としてあえて受け入れる割り切り方や、上手いこと整合性のとれた解釈を行う方法が色々とられているように思います。具体例を挙げようかと思いましたが、書くのが面倒くさくなったので、自分でそれっぽいものを思い浮かべてください。

 

 RPGの不自然さの隙間を埋める試みは色んな作品で行われていて、例えば「ダンジョン飯」では、ゲームのお約束であったはずの設定に、上手く説明付けられる解釈が与えられています。異世界転生ものについても、僕はあまり詳しくはありませんが、RPG的世界観の中で、なぜそれがそうであるのかの解釈が描かれているものが沢山あるはずです。そういえば、「ドラゴンクエストユアストーリー」では、懐かしの宝石モンスター概念が導入されていて、戦闘描写は様々な工夫があって面白かったですね。

 

 ゲームの不自然さにツッコむという遊びは、二十年以上の時間の中で、ツッコむだけではなく、それを整合性がとれるように上手く解釈するというような方向性にも変化しているように思います。それだけでなく、ゲームの不自然さを何らかの理屈を立てて受け入れることもできるようになっていますし、かなり柔軟になっているような気持ちにもなりました。

 そうやって、色んなことがあったなと思い出したりするんですけど、今ゲームの不自然さにツッコむタイプの漫画を読み返してみて、まあ、昔の漫画だなとは思うんですけど、でもこれが面白かったんだよな。今でもその気持ちを思い出せば十分面白いしと思ったんですけど、この面白さを今他人に、特に若い人に伝えようとしたとき、うわ、全然伝わらねえ…というような気持になったので、なんかこれもその時代を生きてきた人間にだけ感じられるものなのかもしれない…と選民意識を感じたりしました。

他人の感想と攻略Wiki関連

 僕は、自分が好きな漫画について、他の人は読んでどのようなことを思ったのかな?と思って感想を検索したりします。そして、他の人の色々な感想を見ていると、時折潮目のようなものが見えることがあります。それはつまり、「ある人の感想を起点として、同じような感想が一気に増える」というということです。

 

 このような状況が発生すると、対象作品を「良い」とか「悪い」と表現する語り口として同じようなものばかりを目にするようになります。なので、あまり個別に読む必要がなくなってくるなーと思って読み飛ばし始めてしまうんですけど、でも、僕はこれをとても良いことだと思っています。

 なぜならそれは、それまでどのように該当作品を楽しめばいいかが分からなかった人にとって、分かりやすい楽しみ方が提示され、そのように楽しむことができるように変化したということだと思うからです。

 

 つまりこれは、ゲームにおける攻略本みたいなものだと思います。いや、今の世間では攻略本というよりは攻略Wikiの方がメジャーかもしれませんね。

 

 僕はゲームが特に上手くないので、誰かが考えた上手い進め方を知ることでようやくゲームをちゃんと遊べるというようなことがあります。つまり、攻略Wikiを読んだりしないと何一つ上手くいかなくて、どうしたらいいかが分からなくなってしまったりすることがあるのです。なにも見ないでいた場合、ゲームの進捗が停滞してしまうと、そのゲームを止めてしまうこともあります。

 何一つゲームの素養がない人間が、上手くプレイできるところに辿り着くには、結構な手間とその過程の試行錯誤が必要です。そして、自力ではそこに辿り着くほどの労力をかけられないと思ったら、そのゲームを止めてしまうなんてことなんて全然あり得ると思うんですよね。

 実際、子供の頃やっていたファミコンのゲームでは、クリアすることができなくて、同じところをぐるぐるずっとして、そのうち止めてしまうことの方が多かったです。当時の僕にとってゲームは基本的に最後までクリアできないものでした。その中でも数少なくクリアできたゲームが、ドラクエやFFのような、放っておいても攻略情報を友達が教えてくれたりするゲームだったように思います。

 つまり、自力ではゲームを遊べていなかったわけです。

 

 漫画を読むことにも似たようなものがあるかもしれません。子供の頃には読んでも分からなかったことが、大人になって読み返すと分かると思えることもよくあります。子供の頃は子供の頃なりに楽しく読んではいたんですけど、今思い返せば、描かれている色んなことがちゃんと読めてはなかったなと思ったりもします。だから、誰か既に読めている人が、上手い読み方を教えてくれるというのは、その「読めてないために楽しめない」という状況を回避できるので、僕は良いことなんだと思うんです。

 

 一方で、あまりにもそればかりだとしんどくなることもあると思っています。攻略Wikiを見ながら、収集要素を延々集めていたりすると、これはひょっとして苦役なのではないか?と思うこともありますし、他人に教えてもらったう上手い攻略法をやっていると、自分は他人が考えたそれをただ再現するだけの装置だ…と思ってしまうこともあります。

 「正解」を他人から導入してしまうことが当たり前だと、最初から「正解」が存在してしまうために、「正解」ではないことをすることが無意味に思えてしまい、結果的に、自分自身で試行錯誤することができなくなってしまったりします。

 なので、その状態が続くと、何かを見ても、自分でそれに対してどのように取り組むかを試行錯誤するより、誰かがそれらしい「正解」を出してくれるのを待ってしまうようになってしまったりするんじゃないかと思うんですよね。

 

 それが一概に悪い話とは思わないんですし、そもそもそれがあることで楽しみ方を得られるのだからめちゃくちゃ良いことでもあるよなと思います。でも、自分で考えて自分の楽しみ方を見つけるということは、漫画を読むうえでもゲームをする上でもとても楽しい領域のひとつだとも思っていて、その試行錯誤を自分自身で上手くできるようでないと、いずれは新しい作品に向き合うことがしんどくなってしまうような気もしているのです。

 

 なので、僕は少なくとも漫画については、自分がそれを読んでどう思ったかということばかりを気にしていて、それを上手く言葉に変換したいなと思って、そういう気持ちでいつもこのブログを書いています。

 僕の感想を読んで、今まで読んでいた漫画の別の読み方が分かったと言ってくれる人がいることもあって、その人にとってそれまで持っていなかった視点が生まれたのならいい話だなと思ったりする一方で、僕がその本をどう読んだかという、とても個人的な僕自身のことが、うっかり人の読み方に影響を与えてしまうことの危惧もあるわけですよ。

 

 まあ、別に各人が好きにすりゃいいという話ですが、他人に正解の読み方を教えてもらうのは、最初のとっかかりとしては良くても、長期的にはそれだけだとしんどくなるんじゃないかな?という想像があって、老いからオタクを続けられなくなるというような話も、ついに同年代から耳にするようになっていますが、それは、自分自身では楽しみ方を見つけられなかったせいもあるんじゃないかなと思ったという話でした(え?そういう話だったの??)。

 

 何かの作品に接して生まれる感想は、作品そのものとそれを読んだ自分との共同作業だと思っていて、だから、そのひとつひとつの読書体験が我が子のように大切だなと感じます。

 そういうことを自分はやっているように思うわけですが、感想には僕の自分語りの要素が大きいので、作者側からすると全く想定外の感想だと思われることもありそうです。そんなこと書いてないよ…みたいな。でも、感想は読者の個人の話だから…だから、なんか、かんべんな…。

「夢中さ、きみに。」と内向的な人間を浮き彫りにする人間関係関連

 和山やまの「夢中さ、きみに。」は、先月単行本が出た漫画で、気を抜いていたら紙の本が売り切れていたので電子版を買ったものの、先週ぐらいに紙の本が重版されたようなので、そっちでも結局買いました。以下、具体的ではないですがほんのりとネタバレが含まれます。

 

 この漫画は大きく、林くんを取り巻く複数のお話と、二階堂くんを取り巻く複数のお話で構成されます。この2人の共通点は、2人とも何を考えているんだかパッと見、よく分からないところだと思います。

 

 林くんは、本当に何を考えているんだか分かりませんが、でも、彼の中では何らかの考えがあってそういうことをしているんだろうなと思えます。周囲は、林くんが林くんであることに困惑しますが、一方で、林くんが何なんだか分からないことで、林くんに興味を持ち、林くんが何を考えているかを探ろうとしたりします。

 そうすると、浮き彫りになってくることがあるわけです。彼が言い出す突飛な言動は、全くランダムに出てきたものではなく、彼なりに色々考えて出てきた言葉なんだなと思える瞬間があるわけです。ただ、その過程が表に出て来ず、ただ結論だけを与えられると困惑したりします。無数の「分からない」の間に、ときおり「分かる」が発生することが林くんの魅力じゃないかと思っていて、人間には「分からないものが分かりたい」という根源的な欲求があると思うんですよ。だから、林くんを分かりたいと思う人が沢山現れるのではないかと思います。漫画の中にも、漫画の外の読者にも。

 

 二階堂くんの方は、意図的に自分の周囲を混乱させるメッセージを出している子です。人間は結局、その人が出してくれたメッセージを読み取ることでしか、人を解釈することができません。それは言葉だけではなく、表情やしぐさもそうですし、服装や髪形など、見た目が発するメッセージ性もあります。そのように目に入った断片を繋ぎ合わせて、この人はこんな人ではないか?と類推するわけです。

 では、人が、わざと誤解されるように振る舞ったとしたらどうでしょうか?狂人のまねとて、大路を走らばすなわち狂人なりです。周囲の人間には分からない理屈で、周囲の人間の分からない行動をとるならば、それはきっと狂人なのかもしれません。どんな狂人でも、その行動には、その人なりの理屈があるのではないかと思っています。そして、それが理解できたときに、理解できた人にとってその人は狂人ではなくなりますが、どんなに理路整然とした理屈があったとしても、他人に理解されなければ、狂人として扱われてしまうのです。

 

 二階堂くんは、他人を遠ざけるために、わざとそのような行動をとる普通の人です。でも、普通の人がそんなまねまでして、人を遠ざけなければならないのは異常です。彼をその異常に走らせたのは、周囲の人間からの誤解でしょう。狂人のまねをせずとも誤解は発生します。

 人は他人を見たいようにしか見ません。運が悪ければ、他人が見たいように見た人物像に、当人のありのままの姿が合致していないことで怒られたりもします。二階堂くんは、そういった不幸を避けるために必死で自分を偽り、でも、そこに気づく人も出ました。

 

 自分の中だけで完結した理屈で動きがちな内向的な人間の内面は、その人をひとりにしていただけでは何も読み取ることができません。僕自身その傾向があります。子供の頃はもっとそうでした。

 子供の頃は、他人から言われたことをブラックホールのように吸い込んで、相手が予想したリアクションを返さないので、何を考えているのか皆はよく分からなかったようで、周囲を混乱させてきたこともしばしばでした。それは、周囲の人間にどのようなリアクションを返せばどのように受け取られるかにビビッていて、上手くいかなくて失敗も繰り返すので、それならいっそ何も返さない方が安全だと思い込んでいたためではないかと思います。

 

 だから僕の人間関係は、周囲の僕の人間性にぐいぐい踏み込んでくる友達がいたことで何とか成り立っていました。僕自身はできるだけ何も発さないように決め込んでいましたが、ずかずか踏み込んでくる友達へのリアクションが面白がられて、僕という人間の人間性が周囲に受け入れられていた部分が多分にあったと思うからです。だから、僕が一番仲が良かった友達は友達で、周りには変な人だと思われていたことも多かったです。距離感がぶっ壊れていたので、0から100に距離を縮めてきたりしましたけど、それが運よく、常に周囲との距離をとりまくってしまう僕との相性が良かったんでしょうね。

 僕は、他の友達に何であんな変なのと仲良くしているのか分からないなんて言われたこともありますけど、でも僕には彼ら彼女らのその態度がありがたかったとも思うわけなんですよ。

 

 「夢中さ、きみに。」で描かれていることもそこに通底することがあるような気がしていて、ひとりで存在していれば何も読み取れないような内向的な人間について、周囲の人間との関係性が発生することで、見えてくるものがあります。それがなんか嬉しい感じがしました。僕はこの漫画を読んでいて、なんか嬉しい感じがすごくしたんですよ。

 

 それは内向的に生きてきていた自分が、周囲の人間関係が存在することで内面が開示されたことで、何かしら救われてきたというような自覚があって、そして、それが面白く肯定的に描かれているように思ったからです。

 

 に…人間と人間の関係性~!!僕はそれをすごく良いものだなと思っています。

仕事のために獲得しつつあるコミュニケーション能力関連

 コミュニケーション能力、もうほんと無く生きてきて、自分が発した言葉が他人にどう受け止められるかに過剰にビビり過ぎてしまって口数が少なくなったり、自分が他人とコミュニケーションをとったときの悲観的な想像をし過ぎてしまうために、人とあまり接さないようにしたりして生きてきたところがあります。

 こうなったのは、実際にはコミュニケーションの失敗がその前に沢山あって、それは必ずしも僕自身の問題ではない部分もあるとも思うのですが、結局自分がそうなってしまったということは事実で、それを何とかしようと思う人間は僕自身しかいないなあと思うので、なんとかどうにかそこから抜け出そうと色々考えているところがあります。

 

 前に、病院に行ったとき、めちゃくちゃ痛いところがあって、めちゃくちゃ痛いんですよって言ったけど、お医者さんは僕の様子からあんまり痛いと感じていないと想像したようで、色々検査をした結果、これで痛くないんですか??と聞き返されたことがあり、いや最初からめちゃくちゃ痛いと言っていますよと申し添えたというようなことがありました。僕の表情や振る舞いからは、そんなに痛がっているように思わなかったんでしょうね。僕は自分が抱えている痛みとかを、他の人に察することができないように押し殺す癖がついてしまっていたりします。

 その理由を思い出すと、やっぱり自分が痛いということを訴えても、むしろ怒られるというか、それを理由にして何かをやらないことを叱責された経験があるからかなと思うわけです。痛みを訴えてむしろ損をするならば、最初から察することができないように押し殺した方が得です。なので、それをずっとやってきたみたいなところがあるんじゃないかと思うわけです。

 

 なので、僕はコミュニケーション能力がむちゃくちゃダメな状態で育ってきたわけですよ。自分が考えていることができるだけ他人に分からないように振る舞い、人との接触を避けることで、他人の考えを想像したり、求められることを察して応えることなんかからも逃げてきました。周囲との情報伝達をわざとおかしくすることが、自分を守る方法だと思っていたわけです。でも、そのせいで得られなかったものも多々あると思います。

 でも、近年仕事をしていて、やっていることの半分以上はコミュニケーションになってきました。なぜ自分がそんなことに??と思ってしまいますが、生きていくためにはしなければなりません。

 

 仕事で発生するコミュニケーションとは、例えば、何かを作るときに、それが利用者にどのように求められているかを調べることです。利用者は自分が使いたいものの具体的なビジョンを持っていないことが多いですから、今何に困っていて、それがどうなるとどうよくなるのかを、色々な人に聞いて、彼らがまだ明確には持っていない答えを具体化する必要があります。

 コミュニケーションなしにこれをやろうとすると、参照できる人が僕自身しかいませんから、それは多くの場合とても独りよがりなものになってしまうと思います。若い頃はこれで失敗したこともあります。一生懸命作ったのに、誰も使ってくれないのです。僕の態度はつまり、必要だと自分が考えるものは入れたので、思うものと違っても我慢してこれを使えと利用者に押し付けたということになります。それは、僕自身に強い権力でもない限り、だいたい上手くいかないですよね。

 

 そして、そうやって決まった作るべきものの規模はだんだんと大きくなり、自分ひとりで作れることはなくなりました。集団での作業になります。だから、自分がそのリーダーになるとき、自分の考えていることをできるだけ正確に色んな人に伝える必要があります。これもコミュニケーションです。そのために文書を作りますし、対面で説明もします。それでも、違って伝わることはあって、ひょっとして僕の言うことが上手く伝わってないんじゃないか?と気が付くのもまたコミュニケーションです。

 あるいは、自分の考えが実際は間違いを含んでいることに気づくのもコミュニケーションではないかと思います。色んな人が関わってくれるということは、自分が考えて頭の中で整理したものに欠けているものや、想定していない前提なんかを他人の頭を使って補うことができるようになります。

 誰かのために、誰かと何かを作る作業では、大量のコミュニケーションが必要で、そのためのコミュニケーション能力を持たないといけないわけです。

 

 最初から正解を出せるとは限りません。でも、正解に向かう意志があるなら、色んな人の意見を聞いて、少しでもそこに近づくようにはできるわけです。ジョジョの5部ですよ。そのためのコミュニケーションの意志で、そのためのコミュニケーション能力です。

 そういうのを何とかやっています。なんとかやれるようになってきました。

 

 で、この辺がなんとかやれるようになってきた過程を思い返していたんですけど、それは他人と自分の間に発生するものに対して、どのように接するかが変化してきた過程のように思います。つまり、自分が他人に投げかけた言葉がどのように解釈されるか?という話と、相手が自分にどのような意図で言葉を投げかけてきているのか?という話です。

 

 僕が人間を見るときに注目しているポイントのひとつは、その人が自分の考えていることを他人にやらせようとするときに、どのような方法をとるのか?ということです。

 よくない現場では、それが叱責による恐怖になっていることがあります。つまり、「それをしなければ、アナタの精神に強い負荷をかけるぞ」というメッセージです。負荷をかけられたくない人は、そうなることを逃れるために逃げるように何かをしますが、僕の認識では、それはそもそも結構おかしな方法だと思うわけです。

 なぜなら、人の行動を促すのは、その行動に良い評価を与えることだと思っていて、その逆の悪い評価を与えることは、人の行動を抑止することに繋がると思っているからです。

 

 何かをやってほしいときに、その行動を褒めるのではなく、行動しないことを叱責するという方法は、行動をしないことを止めさせることはできるかもしれませんが、何をすれば良いとされるのかというメッセージ性が欠けています。

 「人の悪いところを叱り続ければ、良い人になる」という考えの信用できないことは、その発想の中には「良い」という概念が一度も出てきていないからです。悪いところを全てなくせば、それは本当に「良い」ということなのでしょうか?それはただ「悪くない」というだけなのではないでしょうか?

 

 僕がやっている方法は、まずは何が「良い」かを共有することです。でも、その「良い」というのは、本当に良いかどうかは分かりません。良いというのは絶対不変の概念としてあるわけではなく、「誰にとってどのように良いのか?」という文脈があるからです。ある人にとって良いものは、別の人にとっては良くないかもしれません。だから、最初に何を良いとするかを共有する段階で、それを見定めることをします。そして、一度決めたら、それは基本的に変えるべきではありません。

 なぜなら、何かの判断に迷ったとき、その「良い」ことに対して、利するものであるかどうかを判断するモノサシとして使うためです。そのモノサシさえ確固として存在していれば、最終的に落ち着くべき価値観が一致するので、別々に動いている人の意志を統一しやすくなりますし、話し合いになったときにも、落としどころが見つかりやすくなります。

 これが完璧な方法とはまだ思いませんが、良いと悪いを適切にフィードバックすることで、集団で何かを作る際のコミュニケーションを円滑にして、成果物の品質や、構成員のモチベーション維持をしていこうとしています。上手くいっているかは分かんないですよ。もっといい方法がるかもしれません。でも、少なくとも迷走はしていないので、ましな方法です。

 

 僕は人格的に色々欠けているので、それを補うために方法論を頼っています。人間力で対応しようとすると、めちゃくちゃになってしまうと想像して怯えてしまうからです。

 それで、色んな方法を考えては実際に試して、上手く行く方法を模索していて、今後もアップデートしていこうと思うんですけど、今の実感として思うのは、良いものを作るために必要なことは、「良いものを作るために行動すること」で、迷走するときには、その逆だという実感があります。つまり、「何も行動せずに悪いところだけを指摘し続ければいい」ということです。何が良いかも示されない中で、とにかく今が間違いだと指摘され続けると、その仕事の担当者の考える範囲は無限に広がりますし、そして、誰も手伝ってくれないので、その広がったものを全て個人が抱え込まなくてはいけなくなります。

 

 僕が思うに、人は自分で解決できない問題の前から逃げることを許されないと、そのうち狂ってしまうんですよ。だから、そんな感じの現場がまだ回っているとするならば、まだ担当者が狂っていないというだけで、いずれはヤバくなるタイミングがくる可能性が高いと思います。

 

 何が良いと思うかを考えて、それを実際に行動して実現していくことです。悪いところを指摘したりするのは、その過程で副次的に存在することはあっても、それしかない現場は、人間の精神を沢山すりつぶしていくようなものにしかならないんじゃないかと思います。

 これはもちろん、僕自身がそんな現場に長時間いて、自分の精神をすり減らしていたから思うことで、自分が管理できる権限を持ちえた今になっては、それを繰り返してはならないなと思っているというだけなのですが。

 

 他人に対して、無理めな目標を与えて、何か上手く行かないことがあれば、「なぜできないんだ?」「できるようにしろ」「上手く行かないのはお前が仕事を舐めているからじゃないのか?」をグルグル言い方を変えて繰り返し、10個の課題を抱えて相談に行くと、帰りには15個の課題を抱えることになるみたいな中で、仕事をする現場は結構あると思っています。僕自身の経験から具体的に言うと、学生の頃の研究室はそんな感じで、同期が何人も中退してしまいましたが…。

 

 でもなんか、そういうのが世間一般では楽で便利で良い方法だと思われているんじゃないか?とビビッてしまうことがあります。自分たちが何を良いと思い、それを実現するために動いているかということではなく、「あいつらは間違っている」とか「あいつらはアホばかりだ」という声だけを人にぶつけているだけの光景をネットでよく目にするからです。自分たちの正しさを示さず、自分たちと違う側の悪辣さを糾弾することの先に何かがあるのでしょうか?今僕が書いていることもそれに抵触するので、多少落ち込んでもいるわけですが…。

 他人の悪いところを指摘し続けるというのは、人を壊すための方法ですよ。自分が嫌悪しているはずの、そういうことをして、人の精神をすり潰すことでしか何かを実現することができない人に、それに与するのであれば、なってしまうじゃないですか。

 

 だから、なんというか、自分は自分が良いと思うことは何かを考えて、そして、それを自分で実現するように、やっていくしかないと思うんですよね。そういうことをするしかないと思っています。

 僕が良いと思っているその方法を、周囲の人たちも同じように思ってくれるようになるように行動していくこともまたコミュニケーション能力なんじゃないかと思っていたりするのです。

コミティア129で買った「カラオケ行こ!」について

 昨日のコミティアで、どうしても欲しかったので、サークル参加している初動の早さを利用して、開場すぐに並んで買ってきました。以下が感想ですが、ネタバレも多少は含んでしまうので、皆さんはまずどうにか本を手に入れて読んでください。

 以下にサンプルが公開されていました。

 

www.pixiv.net

 

 この漫画は、合唱コンクールに出場していた中学生に、ヤクザの若頭補佐の成田さんが目を付けたことから始まる物語です。

 その組の組長は大のカラオケ好きで、定期的にカラオケ大会を開催しては、一番下手だった組員に罰として自分の手で刺青を掘ります。組長の下手な刺青を入れられたくない組員たちは、必死でカラオケを練習し、自分が一番下手にならないように死に物狂いになるのでした。そこで、成田さんが目を付けたのがこの物語の主人公の岡くんです。彼は合唱コンクールの中で一番歌が上手い学校の一番歌が上手い少年です。若頭補佐の成田さんは中学生の岡くんを毎週カラオケに誘っては、指導を頼む関係性になるのでした。

 

 この物語から僕が読み取ったのは、「変わってしまうもの」と「変わらないもの」です。世の中は諸行無常なので、あらゆるものは時間の経過とともに少なからず変わってしまいます。子供にとっては特にそうでしょう。肉体の成長も精神の成長もとても早く、今のままでいることはできません。

 

 岡くんにとっては声がその象徴です。避けられない声変わりがあることで、これまで出せていた声が出せなくなるからです。歌が上手かった少年は、かつて出ていた声がでなくなり、歌は上手くあることはできても、今までと同じ上手さではいられなくなります。物事は変わっていくのです。その場に留まることはできない。

 成田さんが歌を上手くなって逃げようとしているのは、「変わらないもの」からです。組長の一時の思い付きで、消せない刺青がその身に刻まれてしまうかもしれないことから逃げたいということです。だから変わらなければなりません。歌が上手くなるように変わることで、変わらないものの恐怖から逃げることができます。

 

 この物語は、そんな変わりたくない岡くんと、変わりたい成田さんの関係性で紡がれる物語です。

 

 変わることは、良いことでしょうか?悪いことでしょうか?では、変わらないことはどっちでしょうか?ヤクザの介入によって自分の生活を変えられてしまった岡くんは、最初はそれを迷惑だと思いながらも、徐々に、その変わったことを受け入れていくようになります。

 成田さんは、岡くんの指導で、歌を上手く歌うコツを獲得していきます。好きな曲よりも上手く歌える曲を教えてもらい、それを練習していきます。でも、毎回のカラオケで好きな曲を、X JAPAN「紅」を、歌い続けるわけですよ。変わらずに。だって好きだから。

 

 変わってしまいそうだけど変わりたくなかったり、変えなければならないのに変えたくないことがあります。変わらない何かを受け入れることが嫌だったり、変わることが心地よかったりします。物語の後半で、決して変わってほしくなかったことが起こるわけじゃないですか。あり続けて欲しかったものはいつかなくなってしまうかもしれないわけです。

 自分にとって大切で心地の良い時間は、永遠には続きはしないかもしれないということに気づいてしまいます。それが自分ではどうにもできないかもしれなくても、その中で生きるしかないわけです。

 

 変わりたくなかった少年は、自分の人生に暴力的に介入してきたヤクザによって、たくさんのことが変わってしまいました。でも、それが今度は変わってしまったことが、変わらないでいて欲しく思ったりしてしまうわけです。世の中はそういうことの連続じゃないですか?

 永遠に続くものはないです。でも、すぐになくなってしまうものもあれば、少しは長く続くものもあるじゃないですか。そういうことのごちゃまぜになったものが人生じゃないですか。だったら、それを瞬間瞬間で切り取って、変わることも変わらないこともあるでしょう。変わってほしいことも変わってほしくないこともあるでしょう?だったら、自分の中で、何がそれぞれに当たるかということが分かることに、意味があるんじゃないでしょうか?

 

 この物語の最後は、変わらないもので締められます。でも、それは決定的に変わったものでもあります。それが変わらなかったことと、それが変わったことが、なんだかとてもいいなあと思いました。

 みんなもどうにかして手に入れた方がいいよ??