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映画「ドリーム」をダシにした価値あるものを価値があると言い続ける話関連

 「ドリーム(原題はHidden Figures)」は、アメリカのNASAの宇宙開発計画の中にいた3人の非白人女性を描いた物語です。原作はノンフィクションで、それは、コンピュータという言葉の主たる意味が、現在のように計算機械のみではなく、まだ数値計算を行う人間のことも意味していた時代のお話です。彼女たち3人はそれぞれの立場で、NASAにおける宇宙ロケット計画に貢献しました。そんなノンフィクションを元にして、描かれた物語がこの映画です。

 

 この映画、すごくよかったですが、よかったところのひとつは、「価値があるものに価値があるということを認めさせるには、それに価値があると言い続けなければならない」ということを思ったことでした。これがなかなかできないわけですよ。これには価値があると認めるべきだと主張しても、こつこつ壁にあたって、気持ちが萎えていくものじゃないですか。少なくとも僕はすぐに諦めてしまうので、これは僕にとってはすごく価値のあるもので、僕は価値があるとすごく思うけれど…でも、世間ではそうでなくても別にいいやと諦めてしまったりしています。

 彼女たち3人は計画を遂行する上で価値のある女性でした。ロケットの軌道計算を行う上で力を発揮するキャサリン、エンジニアとして関わったメアリー、非白人の計算士たち(コンピュータ)を取りまとめIBMの計算機械(コンピュータ)を使えるようにしたドロシー、それぞれが非凡な役割を果たし、マーキュリー計画を成功に導くために尽力しました(もちろんその後も活躍するでしょう)。

 しかし、そんな非凡な彼女たちの前に立ちはだかるのが非白人であるという差別的障害です。その部署においてたった一人の非白人であるキャサリンは、重要な会議に出席させてもらえず、飲むコーヒーもトイレの場所も別。その能力を十分に発揮する環境をなかなか整えて貰えません。メアリーもエンジニアとしての資格を得るためには、白人専用の学校に通う必要があると突っぱねられます。ドロシーは管理職相当の仕事をしていながらも、管理職としてのの立場も報酬も得ることができません。

 彼女たちの前には白人か白人でないかということが立ちはだかってきます。それは彼女たちの仕事について関係のあることでしょうか?彼女たちが発揮した数学的、工学的、計算機科学的な能力に人種が関係したでしょうか?それらの区別は非人道的であり、意味がないということが理解され、共有されていく過程が物語の中で描かれます。そしてプロジェクトが成功したとき、その影に彼女たちの姿が不可欠であったということが示されます。

 それは彼女たちに価値があることを認めた人々がいたからこそ成し得たことでしょう。この映画が反人種差別の物語かと言えば、それを言い切るのはなかなか難しいところです。なぜなら、彼女たちが非凡な存在だからです。差別をなくすということは、たとえその人の能力が求められるものに対して低かったとしても、その人の人格が悪辣に見えるものであったとしても、それでもなくすということだと思うからです。被差別者であったとしても、有能ならば例外として扱われるということは、差別構造の撤廃という遠大な目標にはまだ遠いことです。

 その意味で、この映画ではまだ差別が解消された情景が描かれたわけではないでしょう。しかしながら、作中でも言及されているように、その最初の1人になったということの意義があるはずです。例えばメアリーは白人の学校に入学した初めての非白人となることを勝ち取りました。先例は次の例を、そしてさらに次の例を生み出し続けるための重要な一歩です。

 非白人に対する差別というものは、未だなくなったものであるとは言い難いでしょう。作中の舞台になった自体から半世紀以上が経っても、人間と人間が、同じ人間であるということだけで完全に平等になるということは難しい。「差別はいけないことだ」、そのお題目を誰しもが認識していたとしても、実際はそうはならなかったりするわけじゃないですか。

 

 結局いつの時代もどんな場所でも、何かに価値があるということになるためには、誰かがその何かに価値があるということを主張し続けなければならないのではないでしょうか?それをやり続ける人がいなければ、その価値は容易に世間から忘れられ、消え去ってしまったりするのではないかと思います。

 

 さて、話は変わりますが、ここしばらく劇画狼さんの動向を尊敬しながら見ているということがあります。僕はここ1年ぐらいで梶本レイカの漫画がすごく好きになったので今も連載を追いかけているのですが、梶本レイカは「コオリオニ」の出版後、一度漫画家を廃業しており、そこから復活したわけですよ。その裏に劇画狼さんの活動があったわけですよ。なぜ廃業したかというと単行本が売れなかったからだそうですが、僕が「コオリオニ」の単行本を手に取ったときには既に廃業宣言が出ており、それを知ってとてつもなく悲しくなったわけです。

 それはきっと面白いとか面白くないとか、それを判断される前に、十分な数の人に読まれる前に決着してしまったことです。僕は連載時には、単行本が出てからも、その存在すら知らなかったのですから。

 僕がその単行本を手に取ったのは、知り合いのおすすめからなのですが、おそらく劇画狼さんによる「コオリオニ」激プッシュの結果が巡り巡ったことだと思っていて、そして、そこからの梶本レイカの復帰と新連載の開始ですよ。「悪魔を憐れむ歌」ですよ。単行本も出るわけです(12月には2巻も出ます)。

 

 その漫画に価値があると、それが手遅れのようなタイミングであったとしても言い続けた人がいるわけでしょう。それがどれほどの価値がある行為かって話ですよ。なんせその結果、新しい漫画が読めるんですから。単行本も出るんですから。

 

 僕は物分りのいい人間で、それは裏返すとどうかというと、すぐ諦めてしまうような人間なんですよ。好きな漫画の単行本が途中でなくなっても、そもそも単行本化されなくても、悲しいなあと思いながら我慢してしまいます。

 例えば、3巻以降単行本が出なかった「69デナシ」や、そもそも単行本が出なかった「博打流雲ナグモ」です。これらはのちのちコンビニ本で出て、買って、嬉しくなってしまったりしましたが、その前に、そうなる前に、もっとこの漫画は面白いと価値があると言うべきだったし、それをもっと共有すべきだったんじゃないですか???って思うわけじゃないですか。

 

 劇画狼さんは現在、谷口トモオの「サイコ工場」を復刻中です。谷口トモオもまた漫画家を既に廃業しており、元原稿も処分されてしまっていたものを、掲載誌の方からスキャンして復刻されているそうです。

 梶本レイカ漫画と谷口トモオ漫画には劇画狼さん以外にも共通点があると思っていて、それぞれに強いファンがいたということです。梶本レイカにはコオリオニbotさんが、谷口トモオには山本ニューさんがいます。梶本レイカファンブック(同人誌)や、サイコ工場のあとがきにおける作品解説を読むと、まあ詳しい。ほんと詳しく網羅的にこれまでの作品を追っていることが分かります。これまであまり人知れなかったとしても、ずっと追ってきていた人がいるという事実があるわけじゃないですか。

 

 ものは残らないし、ことも残らない方が普通です。技術の分野でも会社は存続しているのにその中で失われた技術があったりします。その詳細がもう誰にも分からないものなんてのもあったりするんですよ。それは伝わらなかったわけです。それに価値があることを認め、引き継ぐということを誰もしなかったということです。

 世の中のほとんどのものはきっと残らないわけですよ。今残っているものはきっと、どこかの誰かがそれに価値があり、残すべきだと思った結果です。良いものだから残ったわけじゃないでしょう。それを良いものだと認めて、後世に残すべきだと思った人たちが、残すための活動をしたからこそかろうじて残っているに過ぎないのではないかと僕は感じています。

 それがなければ、仮に世の中のどこかに物理的には残っている本でも、ないことと同じじゃないでしょうか。

 

 僕が日々、何かを買った、読んだ、面白かったと言い続けているのは、そのための微力です。微力でも、それが面白かったということ、自分にとって価値があったという事実を、残しておくべきじゃないかと感じているがゆえのことですよ。もし、自分がこんなにも面白いと思っているものが、大して知られないままになくなってしまったりしたら、とても悲しいじゃないですか。

 僕が今している話は、「価値あるものを見つける目がない大衆どもが…」みたいな話ではないんですよ。漫画ひとつとっても世の中に無数にあり、毎日たくさんの新刊が出ています。僕が知らない漫画も無数にあって、それらが知られすらしないままに消えていくことだってきっとあるでしょう。

 僕もまた見る目がなく探す力もない人間のひとりなわけです。でも、せめて自分が面白いと思った漫画についてぐらい、これには価値があると言うしかないじゃないですか。それにどれほどの力があるか、いや、きっとほとんどないんでしょうけど、それでもやらなければ確実にゼロなんですから。

 

 価値があると自分が感じたものについては、価値があると言い続けていきたいなと、それをそうしている人を見て思ったし、自分もできるだけそうしていきたいと思っているという話でした。

幽遊白書に隠された予言

 幽遊白書魔界の扉編において、主人公の幽助たちは、人間界と魔界を繋ぐ界境トンネルを開けようと目論む、仙水たちと戦うことになります。仙水たちは7人組で、それぞれにコードネームがついています。

 

 

 これらのコードネームは彼らの領域(テリトリー)という能力を示唆するものですが、妖怪である門番(ゲートキーパー)の樹と、暗黒天使(ダークエンジェル)の仙水は例外的に領域能力者ではありません。ただし、樹は闇撫という妖怪で、界境トンネルを開くのは彼の妖怪としての能力なので、門番という名前もふさわしいと思います。しかし、では仙水の暗黒天使とは、一体全体どういう意味なのでしょうか?

 

 仙水は聖光気という特別な気を操り、それによって自然と一体化するような力を発揮する、時代が時代なら天使と呼ばれたであろう存在です。なので、暗黒天使という名前はその能力を示していると解釈できますが、だからといって、自分で自分に暗黒天使というコードネームをつけますかね?もし自分で進んでつけたのなら、これはいよいよアレだなという感じになります。この仙水という男はきっとアレなヤツだぞ!ということになります。

 

 何を思ってこんな名前を付けたのかと、先日、識者と討議をしましたが、結論としては、樹が悪ふざけでつけたのでは?という推定となりました。

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 幼き頃から、その霊能力により妖怪に付け狙われ、当たり前のように襲いくる妖怪たちを殺し続けてきた仙水は、妖怪である樹がある種の人間臭さを見せたことにビックリしてしまいます。そして仙水がそんな樹に見せたのは、あまりに無垢な素顔でした。仙水は、意味も分からず命を狙ってくる妖怪と戦いながら、自分は正義の戦士で、人間を守るのが自分使命と考えてしまったような純粋な少年でした。樹は、そんな仙水が人間の汚い部分を見続けることで、次第に傷ついていく様子をただ見守ったそうです。

 樹はそういう男です。自分にとって大切な存在である無垢な仙水が、ただ傷ついていくことに下卑た快感を感じてしまうような男です。そんな樹は、暗黒天使というコードネームを自ら名乗るようになった仙水を見て、どう思ったのでしょうか?

 ひょっとしたらそれは、インターネットを使い始めたばかりの中学生が、きっといつかは後悔するであろうイキッた言動をしているのを、見守ってしまうおっさん(例えば僕たちのような)の気持ちと同じなのではないでしょうか?

 将来きっと後悔するから、と止めることだけが愛ではないでしょう?いつか気づいて後悔し、それでも生きていくことを含めて、その人の人生じゃあないですか。転ばないように手助けするのではなく、自分の足で立ちあがるまでを見守る姿勢だってあるはずです。あるいは、立ち上がれなかったとしても、そうであったということを悪とせず、ただ見守ることだっていいはずです。それらを含めて全てを愛するという立場だってあるはずです。

 

樹「オレは彼が傷つき汚れ堕ちていく様をただ見ていたかった」

 

 さて、以上は完全な想像ですが、識者との討議の中で、また別の完全な新説にも行き当たりました。それは幽遊白書という漫画がある種の予言書なのではないか?ということです。聖書に暗号として隠された予言があるという話のように、幽遊白書にも現代の「あるもの」が密かに予言されていた可能性があります。

 

 では、それは何か?

 

 暗黒天使とはすなわち、芸人の暗黒天使(東京NSC10期生)のことでしょう。芸人の暗黒天使といえば、ハンマミーヤの一木(東京NSC11期生)とともに、工藤静香石橋貴明による「A.S.A.P.」のモノマネをするネタでお馴染みです。ハンマミーヤの一木(いちき)、これはひょっとするとゲートキーパーの樹が暗示していた人物なのではないでしょうか?

 さらに、仙水が魔界と人間界の間に穴をあけようとしたのは、人間が嫌いな仙水は、魔界を訪れ、魔界で死にたかったからです。病魔に侵され、老いさき短いことが分かった仙水の中で、この欲望は爆発してしまいました。もはや時間がなかったのです。可能な限り早く、彼は魔界への穴をあけなければなりませんでした。可能な限り早く、つまりAs Soon As Possible⇒A.S.A.P.です。

 

 つまり、暗黒天使(ダークエンジェル)の仙水と、門番(ゲートキーパー)の樹が、可能な限り早く魔界への穴を開けようとすること自体が、暗黒天使とハンマミーヤの一木が「A.S.A.P」を歌うネタを暗示していた可能性があるということです。

 

 さあ、どうでしょうか???(なんとこれでおわりです)

ジョジョの奇妙な麻雀の思い出関連

 数日前になんとなくした思い出話がうっかり軽くバズってびっくりしてしまいましたが、ほとぼりも冷めたようなので、安心してもうちょっと細かい話を書きます。

 

 

 ジョジョの奇妙な麻雀というのは、学生の頃にたまにやっていた特殊なルールの麻雀です。一局始まる前にタロットカードを引き、そこに暗示されているスタンド能力を1回使うことができます。念のため書いておくと、スタンド能力とはジョジョの奇妙な冒険に登場する超能力のようなものですが、ここから先に書くことはジョジョの奇妙な冒険の第三部を読んでいないと意味が理解できないことが多々あると思います(免責)。

 

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 ルールは本当に単純に「一局始まる前にタロットカードを引いてスタンドを決める」と「スタンド能力と称したものを1回だけ使っていい」だけです。そして、各スタンド能力をどのように解釈して使うかは使用者の自由です。ただし、使い方に対しては場にいる人たちの合意を得る必要があり、あまりにも理解しがたい使い方をしようとするとチョンボ(罰符8000点)扱いになります。

 能力の使用前にどように使うか確認すればチョンボにならずに却下されるので安全ですが、いきなりやった方が笑えることも多々あるので難しいところです。

 

 このゲームの基本原則は「楽しいこと」です。楽しければ他はだいたいよいということをモットーにしているので、仮にめちゃくちゃな解釈をした使い方だとしても、面白いからオッケーとなったり、場合によっては適当な理由でダメになったりもします。

 そこにあるのはコミュニケーションで、勝ち負けよりも、どれだけ笑いながら遊び続けられるかが重要とされていました。この遊びに限らず、学生時分はどれだけ面白いかが最重要だったので、他のこと(例えば勝ち負けとか)は二の次三の次という感じでしたね。なので、各スタンド能力の使い方については厳密にルールで規定せず、その場その場にいる人の中でアリかナシかを都度判定しながら遊びました。

 

 また、このゲームをやるときに最低限必要な条件があります。それは、参加者全員がジョジョの奇妙な冒険が好きだということです。でなければ、楽しくはならないような気がします。あと、麻雀卓の近くにジョジョの単行本(ルールブック)が全巻あるとよいです。

 

 さて、僕がすごく好きだったスタンド能力は、最初のツイートにもあったように、「星」のカード、空条承太郎の「スタープラチナ」です。この能力では「スターフィンガー!!」と言いながら、盤面の好きなところから牌を引いてくるものが流行りました。

 これはある先輩がやり始めたやつで、僕らもやっていましたが、勢いがある無茶苦茶な動作かつ、解釈もめちゃくちゃなので、毎回笑ってしまいました。文字で読むだけだとあんまりかもしれませんが、実際に仲の良い友達とやってみたらいいと思います。僕はめっちゃ面白かったです。

 

 他に分かりやすく使えるのは「世界」のカードです。ディオの「ザ・ワールド」の能力によって時を止めることができます。この能力を使うときには、「今から時間を9秒止めます」などと宣言したりするのですが、場合によっては「まだ、君とジョナサンの肉体がそんなになじんでいるとは思えないからダメ」という主観的な言いがかりがついて5秒に短縮されたりしました。

 このように何秒止められるかはその場で適当に決められますが、この止まった時間の中では、相手の手牌を見たり、自分の手牌をすり変えたりできるようになります。強いです。でも、数秒レベルの時止めだと、できることはせいぜいひとつかふたつぐらいでしょう。

 なお、相手の手牌を確認したいときは例えば「隠者」のカード、ハーミットパープルを使うことで、相手の手牌を携帯のカメラで撮ったりすることの方が確実性が高かったです。

 

 スタンド能力には、麻雀の中で使いやすいものもあれば、使いにくいものもあります。それらをどのように麻雀に有利になるかを解釈して使うかに、ジョジョの奇妙な麻雀の一番楽しいところだと思います。

 ある人は「戦車」のカードを引いたことで、ポルナレフの「シルバーチャリオッツ」が使えることになり、椅子で反り返って「ブラボー!おお…ブラボー!!」と漫画の再現をしたということがありました。麻雀的には全く意味がありませんでしたが、面白かったのでアリとし、その人はその局でのスタンド能力を使用済みとして失ってしまいました。

 

 「法皇」のカード、ハイエロファントグリーンは使い勝手がよかったおぼえがあります。エメラルドスプラッシュと言えば、牌を色んなところに動かすことができるので、捨て牌を他家の河に流したり、次のツモ牌として送り込んだりすることが認められてたと思います。ただ、目の前の山をエメラルドスプラッシュと言いながらぐちゃぐちゃにして流局にしようとしたやつはチョンボになりました(楽しくないので)。

 麻雀として使いにくいスタンド能力も色々あります。しかし、それこそ、どのように使うかが試されるので、チャンスかもしれません。

 

 この遊びを実際にやってみる場合は、その場その場で自由に発想した方が面白いと思っていますが(使い方を提案して、協議されることも遊びの一部なので)、参考までに各カードをどのように使ったことがあるかを列挙しておきます。なお、使われ方をおぼえていないカードもいくつかあったので、今適当に足したりもしました。

 

■愚者(ザ・フール)

 ・ロンをされたときに牌を空を飛ばせて回避、手牌に戻す

 ・砂の鎧に身を隠し、手を1回飛ばす

■魔術師(マジシャンズレッド
 ・「モハメド・アブドゥル」と呼ばれると「Yes, I am」と答えてよい(麻雀的に意味なし)
 ・探知機の能力で、ダマテンを自己申告させることができる(無申告であがるとチョンボ

■女教皇(ハイプリエステス)
 ・変身能力で、白をオールマイティ牌扱いする

■女帝(エンプレス)
 ・食欲旺盛で、下家や対面からでもチーできる

■皇帝(エンペラー)
 ・ポルナレフの鼻の穴に指を突っ込むと1飜アップ

教皇ハイエロファントグリーン
 ・エメラルドスプラッシュと言いながら自分の捨て牌を他人の河などに置く

 ・「きさまこのゲームやりこんでいるなッ」にうっかり「答える必要はない」と返事をすると、タロット使用権を失う

■恋人(ラバーズ)
 ・自分が切った牌と同じ牌を残りの3人に切らせる

■戦車(シルバーチャリオッツ
 ・反り返って「おお、ブラボー」と言う(麻雀的に意味なし)
 ・鎧を脱いで素早くなり、2回連続でツモれる

■正義(ジャスティス)
 ・他家を操作し、何番目の牌を切るかを指定できる

■隠者(ハーミットパープル)
 ・念写として携帯で相手の手牌や裏ドラなどの写真を撮れる

■運命の輪(ホウイールオブフォーチュン)
 ・四筒を自動車(四輪)に見立ててドラ扱い
 ・大車輪(ローカル役)を鳴きありでも成立とする

■力(ストレングス)
 ・雀卓そのものが自分のスタンドと主張し、席順を変更させる

■吊るされた男(ハングドマン)
 ・誰か一人に目を瞑らせ、盲牌でのツモと牌を切らせることができる

 ・鏡で他家の手牌を覗き込む

■死神(デスサーティーン)
 ・捨て牌を鳴かれたりロンされたとき、夢だったことにして、一回やり直せる

■節制(イエローテンパランス
 ・捨て牌を鳴かれたりロンされたとき、別の牌に交換できる

■悪魔(エボニーデビル
 ・恨みを力にすることで点数の順位によって飜数を上乗せできる(1位ならなにもなし)
 ・他を切り刻まれてもキンタマだけは傷つけられることがない(麻雀的に意味なし)

■塔(タワーオブグレー
 ・舌を攻撃して、他家の鳴きを禁じることができる

■星(スタープラチナ
 ・スターフィンガーと言いながら卓の上のどの牌でもとれる
 ・時間を止めたことにして好きなことができる(秒数は要相談最大5秒)
 ・場に法皇のカードを持つ人がいる場合、「花京院の魂をかける」と言いリーチ棒を出させることができる

■月(ダークブルームーン
 ・「シブいねェ まったくおたくシブいぜ」と言う(麻雀的に意味なし)(でも言いたい)

 ・力を吸い取って特定の役を無効化できる

■太陽(ザ・サン
 ・一筒を太陽に見立ててドラ扱い
 ・本体が鏡を利用して隠れていたことに見立て、捨て牌を伏せて出せる
 ・懐中電灯を他家に向けて煽る(麻雀的に意味なし)(人間関係的に問題のおそれ)

■審判(ジャッジメント
 ・三つの願いを叶えてやることから、目の前の三人から当たり牌を聞き出せる

■世界(ザ・ワールド)
 ・時間を止めたことにして好きなことができる(秒数は要相談最大9秒)
 ・星あるいは隠者のカードを持つ人から鳴くと、ジョナサンの肉体が馴染んで1飜上がる

 

 妥当っぽい使われ方も、むちゃくちゃな使われ方もしていると思います。楽しかった思い出の断片です。みなさんも、仲の良いジョジョ好きの友達と、楽しく遊んでみるといいかもしれませんね。

人間が狂わないようにするためのやり方関連

 人間は狂うときがあると思っていて、ここで言う「狂う」という状態は、その人が狂っていないときには絶対しない判断を、狂っている状態ではしてしまったりするということです。それは例えば、精神的なあるいは肉体的な自傷行為であったり、他人に対する同様のものであったりです。そんなよくないことを、狂っているとしてしまったりするのです。よくないですね。よくないですよ。

 人間は誰しもそのように狂ってしまうことがあると思っていて、自分だって条件が揃えば狂うのだろうと思います。だから、人間はどうにかして狂わないようにしたほうがよい。僕はそういうふうに思っているんですよ。

 

 では、人間はどういうことになると狂うのかというと、その代表的なものが「解決できない問題の前から逃げ出せない状況」ではないかと思います。解決できないのに逃げ出せないと、その解決できないストレスフルな状態から決して抜け出すことができません。そういうときに、周囲の環境が決して変わらないならば自分を変えていくしかありません。状況によって無理矢理自分を変えざるをえない状態は、よくないものであることも多いです。そういうときに人は狂った状態になってしまったりします。

 

 そういう状態の人間を、僕は「哀れだ」と思ってしまいます。こう思うのはジョージ秋山の「アシュラ」の影響ですが、それは共感的な意味合いが強いものです。人は狂ってしまうと、狂っていないときにはしないようなことをしてしまうということが哀れです。そして、それによって周囲の人間との関係性に傷をつけてしまうことで、より深く狂ってしまったりするのです。それは誰しもに可能性があることだと思います。そこにハマってしまうことを、僕は哀れと思うのです。

 

 なので、人間がゴキゲンに生きていくためには、まず狂わないことが肝要です。狂わないためには、解決不可能な問題の前に居座らないことです。しかしながら、世の中には、仮にそれが解決不可能な問題であったとしても、向き合う姿勢を見せないと怒る人がいます。そういう人は、ある人を解決できない問題の前に縛りつけるので、人を狂わせてしまう人です。そういう人に対して従順な感じでいると、自分が狂ってしまう可能性が高まっていくので、よくないことだと思います。

 

 こういうことは仕事の現場などでよく目にします。例えば金がない、時間がない、人が足りない、スキルがないなどの理由により、容易には解決不可能となっている問題は多々あります。それに対して、「なぜできないんだ?やれ!」というだけの指示と、罰を提示することによる脅迫しかしない人がおり、そういう現場にいると、その場所にいる人たちが段々狂ってくることがあります。これは、上司や経営層の問題であることがありますし、お客さんの問題であることもあります。

 僕は「お客さんである自分には現場の事情なんて知ったことではない、どんな事情があろうともやれ!」という主張をする人にかなり嫌悪感がありますが、それはこういう理由です。そういう詰められ方をすると人が狂ってしまう可能性が高いからです。僕は人間はできるだけ狂わない方がよいと思っているのです。

 

 とはいえ、一見不可能そうな課題に取り組むこともお仕事では必要です。その前から逃げ出せないのであれば、重要なのは、解決できない問題を、解決可能な種類と大きさのものに分割してしまうことです。

 大きなお仕事はひとりではできませんから、チームで対応することになります。その際には、大きな仕事を小さな仕事に切り出すというお仕事が発生します。これがマネジメントのお仕事のひとつだと思います。上手くすると、解決不可能そうな問題を見事解決してしまい、それによってお金が貰えたりします。

 ただし、その切り出し方がマズいと、各メンバーに対して、その人では解決不可能な仕事を割り当ててしまう失策が生じる場合があります。そういうときにメンバーがだんだん狂った状態になってしまい、お仕事の進捗が悪くなったりします。

 

 メンバー側からの対応で言えば、この問題は自分だけでは解決できないと申告することが重要と思います。指示者の側からの対応で言えば、各人のお仕事の状況を見て、そういう状況になっていないかを把握し、適切に再配分することが重要と思います。これができないときに、そのお仕事全体が段々狂ってきてしまうと思っています。これは、僕が今まで参加したことがある狂った現場で得た経験則です。

 この条件を仮定すると、真面目な人、あるいは与えられた仕事が自分には出来ないと言いだせない気弱な人は狂ってしまう可能性が高いです。そして、管理者が各人がどういう状況かを把握しようとしない場合もそうなります。ただ、仮にそれぞれの人の特性を把握し、どのようにお仕事をしているかを把握できるたとしても、そこに適切な解決策が打てないとダメになります。人に合わせて仕事の種類を解決可能なものになるように分割してみたり、単純に分量が多い場合には分担してみたりをするというような対応をする必要があります。

 

 この考え方によれば、十分な人数がいない現場は狂う可能性が高いです。なぜなら、仮に自分にはできないと分かったお仕事でも、他にしてくれる人がそもそもいないからです。こういう状況はとても厳しい感じになります。そんな厳しい状況でも、人が狂うことを代償に、なんとか完了したりするのが、世の中の業の深いところだったりします。

 ここでややこしいのは、場合によっては、その厳しい状況の中で人間が適切に成長し、解決不可能と思われた問題を解決可能にしてしまうということもあり、これは割とよいことと思われることです。これは無視できないことだと思っていて、お仕事を割り当てるときは期待する伸び代を加味しないと効率が下がりますし、その見立てが間違っていると狂わせてしまったりするので、良い結果に繋がったり悪い結果に繋がったりが紙一重になることもしばしばです。

 人数が少ない現場で成長したと答える人も多いのはそういうことだと思っていて、人数が少なく、他を頼れず、解決不可能そうな問題に孤独に正面から向き合わないといけない場合、人は成長して乗り越えるか、狂ってしまうかの二択を迫られるのだと思います。成長するのはよいことかもしれません。ただ、僕の経験則では狂う人の方が多いような気がしますが。

 

 僕が人に指示したりをすることが増えてきて思うのは(対人恐怖症をテクニックで抑え込んでそれをやってるの、社会の中で生きる努力をしていて偉いと自分で自分を褒めています…)、人に対する適切な種類と分量の仕事を与えることの難しさと、それがその人に解決不可能そうだと気づいたときにどのように再配分するかの、方法とタイミングを判定することの難しさです。

 僕が関わっている現場は、あまり狂わないように頑張っていますが、なんにせよどこでもそうであるように、金がなければ時間もなく人もいません。今はどうやってそこの帳尻を合わせているかというと、僕があぶれたお仕事を一手に引き受けてやっているので、なんとかなっているという感じです。おかげで、僕自身が狂わないようにしなければならないというのが目下の課題です。

 

 思うに、お金は儲けなければなりません。金が儲からないと、人を十分雇えないからです。採算性の向上は年々目標が上がる世の中ですし、売り上げが伸びなければ、コストを削減するしかありません。コストを削減するということは、基本的に関わる人を減らすということです。人が減れば、お仕事の再分配の選択肢も狭まります。再分配ができなければ、メンバーの人にその能力を超えたお仕事を割り当てざるを得ない状況が生じますし、それによって人が狂ってしまう可能性が高まると思っています。

 人をなんとか狂わせないためにはお金を儲けなければなりません。なので、僕はそれをしようとし続けている感じです。

 

 ただ、世の中は、安いものの方を喜ぶでしょう?安いものの方を喜ぶだけならまだいいですけど、高いものを売ってる方をぼったくりとか言って冒涜的に侮辱する人だっていますよ。僕が目下のところ、乗り越えないといけないと思っているのは、そういうものです。胸を張って高い額で出しても、買ってもらえるものを提供し続けなければならないということです。

 それが、僕と、僕の周りにいる人が、狂わずにゴキゲンに日々生活できるための必要な条件だからです。

 

 というようなお気持ちの文章を、どうにも量の多い仕事が終わらず、突発的なトラブルもあり、それらをやってたら終電も逃したので、仕方なくそのまま働き続けていましたが、手元のお仕事が粗方終わったので、始発を待っている今書いているわけですが、色々大変な感じですがどうにか狂わずにやっていきましょう。

(結局始発では帰らず、他の人が仕事場に出て来たらすることも出来たので、昼前までお仕事をして、帰ってきて寝て、起きて、在宅でお仕事をして、今一段落したという状況です)

死んだイヌはイヌじゃない、イヌの形をした肉関連

 「死んだイヌはイヌじゃない、イヌの形をした肉だ」というのは、「寄生獣」の主人公である泉新一くんの言葉です。

 謎の寄生生物にその右腕を喰われてしまった新一くんは、その後、自分の右腕を模したその寄生生物、ミギーとの奇妙な同居生活を始めることになります。そんな同居生活を始めてからしばらくして、新一くんは、ある不幸な事件から命を落としかけます。ミギーによる命をかけた救護行為により、新一くんの命はどうにか繋ぎとめられるものの、その代償として、新一くんは寄生生物の細胞とより深い融合を果たしてしまうのでした。その出来事をきっかけとして新一くんは変わります。弱々しかったその姿は、寄生生物由来の運動能力の獲得も相まって、より強いものに変化していくのです。

 

 「死んだイヌはイヌじゃない、イヌの形をした肉だ」という台詞は、そんな新一くんの変化を象徴するような言葉です。交通事故で死につつある子犬の最期を看取る優しい姿を見せながらも、息絶えた直後のその子犬を、なんとゴミ箱に捨ててしまうのです。ガールフレンドの村野はそんな新一くんの様子を見て、とても驚いてしまいます。なぜなら、ついさっきまで、か細くとも生きていた命あった存在を、その命の炎が消えた瞬間に、もう物と同じように扱ってしまったからです。その切り替えの速さが理解できないからです。。

 人間的な感傷を持たず、合理的に行動するその姿はある種の強さと言えるかもしれません。しかし、それは多くの人間が持ち得ない、異様な強さです。そんな自分の行為を咎められた新一くんは、理由が分からずきょとんとしてしまいます。しかし、その後思い直し、犬の死体を木の根元に埋め直したのでした。

 

 この台詞は、とてもインパクトが強く、新一くんの異様な変化を表す重要なものです。しかしながら、新一くんはなぜそんなことを言ってしまったのでしょうか?寄生生物の細胞との融合や、長く続く寄生生物との同居生活、あるいは、寄生生物と神経レベルで繋がっているという影響もあるかもしれません。その結果、新一くんは人間でありながら、人間ではない別の存在になってしまったようにも思えます。

 ただ、僕はこの物語を読んでいて別の解釈もできるのでは?と思い至ったので、今回はその話を書きます。

 

 注目すべきは、新一くんがこの変化に至る前にどのような経験をしたかということでしょう。新一くんの母親は、不幸なことに旅先で、ある寄生生物に襲われ、殺されて頭を乗っ取られてしまいました。自宅に帰ってきたのは、母親と同じ顔をした寄生生物です。そして、その寄生生物に新一くんは殺されかけてしまいます。

 前述のように新一くんの命はからがらミギーに助けられました。生き延びた新一くんがすることは、残された父親を寄生生物の手(頭?)から守ること。そして、母を殺したその寄生生物への復讐です。ひょんなことから人間離れした運動能力を獲得してしまった新一くんは、母親の姿をした寄生生物と戦うことになります。

 寄生生物は、ゴムのように伸縮しながらも、鋼鉄のように硬くなることもできるような生物です。その肉体は、ちぎれても融合すればまた元通り、一見弱点は無いように思えます。そう、確かに寄生生物の細胞自体には分かりやすい弱点はないのです。あるのは、それ以外の部分、つまり、首から下の人間から奪った体の部分です。

 

 寄生生物は人間の内臓を利用して生きています。そこから得たエネルギーなしでは、単独で生存することができません。高度な知能を有する田村玲子という寄生生物は、自分たちを評してこう言いました。「我々はか弱い」。寄生生物は人間の肉体なしでは生きられません。つまり、寄生生物を倒すには、人間の肉体を破壊しさえすればいいのです。

 そして、新一くんの目の前にある憎い敵の弱点は、人間の肉体の部分であり、つまりは、彼の母親の肉体です。

 

 新一くんの母親は既に死んでいます。なぜなら、首を斬り落とされ、寄生生物に乗っ取られてしまったのですから。目の前にいる存在は、どんなに上手く母親の顔を擬態し、見た目が似ていたとしても別の存在です。それは戦う形態となった寄生生物のグロテスクな見た目によって、よりいっそう明らかになります。

 ただ、その肉体はどうでしょうか?それは母親の肉体なのです。頭はなくとも、体の細胞は生きています。それは頭を除けば、生きていた頃の母親と全く同じです。内臓は食べ物を消化し、心臓は動いて栄養を含んだ血液を体の隅々に送り届けます。その一部は寄生生物が消費しているかもしれません。でも、その手も、足も、頭を除く全身の全ての細胞はまだ生きているのです。

 

 新一くんの母親の腕にはやけどの跡があります。それは子供の頃の新一くんを助けようとしてできた傷跡です。母親は死んだかもしれません。じゃあ、その時、新一くんの目の前にあったそれは何なのでしょうか?その腕に刻まれた傷跡は、何を物語るのでしょうか?

 

 それは母親ではなく、母親の形をした肉なのでしょうか?

 

 結局、新一くんにはその肉体を破壊することができませんでした。内臓を破壊すれば勝てることが分かっているのに、そこを避けて、首と胴体を切り離すことにこだわります。そして、遂に止めを刺せるというタイミングで、目の前に掲げられた傷跡のくっきり刻まれた腕に、新一くんの目は留まってしまうのです。そして、その戦意を喪失してしまうのです。

 結局、新一くんに代わり止めを刺してくれたのは、宇田さんでした。宇田さんは、寄生生物にアゴに寄生されてしまった、新一くんと似た境遇の可哀想な男です。そんな宇田さんは言います。こいつは新一くんの母親ではないけれども、それでも、新一くんがやっちゃいけない気がすると。

 

 新一くんの変化が目に見えて現れるのはこの出来事の後のことです。死んだイヌを、イヌの形をした肉と言い放った新一くんは、果たして非人間的でしょうか?母親の形をした肉を、それがもう母親ではないと分かっているのに傷つけることができなかった新一くんの心が、果たして非人間的だったと言えるのでしょうか?それは実は、むしろあまりにも人間的な行為なのではないでしょうか?

 

 新一くんは母親の復讐のために、まだ血が通い生きている母親の肉体を、自分の手で殺さなければならないという状況に追い込まれました。それを乗り越えなければならなかったわけですよ。確かに、実際に止めを刺したのは宇田さんです。でも、新一くんは自分が殺したと思っていたのでしょう。なぜならば、思い悩む新一くんにある占い師が言った、その胸の穴を塞ぐためには、それをあけた相手にもう一度会わなければならないという言葉に対して、新一くんは「その相手ならもう殺したよ」と答えたのですから。

 そう考えれば、新一くんが殺したのは母親ではない方がよいのです。あれは母親の形をした肉でしかないのです。そう思うしかないでしょう。新一くんが手にかけたのが母親であっては辛いじゃないですか。あのとき、そう思い切れず、その肉を破壊できなかった自分を乗り越えなければ、前に進めないのではないでしょうか?

 そう考えるべきなのだとすれば、死んだイヌはなんでしょうか?それはもう、イヌの形をした肉でしかないのではないでしょうか?

 

 このように考えれば、新一くんのこの台詞は、母親の死というものを乗り越える過程における、心情の混乱と捉えることもできます。それは、胸の穴とも言えるかもしれません。強くなったように見えたのは、実は弱く傷ついた心を守る為のものであったのかもしれません。非人間的と思えたのは、むしろとても人間的な反応であったのかもしれません。

 もちろん、これはただの解釈のひとつです。正しい読み取り方ではないかもしれません。

 

 というような話を、数年前に僕が喋っていた録音データがあったのですが、最近聞き返してみて、僕自身そのときにこういうことを思ったことを完全に忘れていたので、僕が喋っているのに、僕が知らないことを喋っている!と思ってびっくりしてしまいました。

mgkkk.cocolog-nifty.com

 僕は喋るそばから思ったことを忘れていくので、録音データが残っていたり、こうやって文字にして残しておくと役に立つっぽいなと思った次第です。

「サンダーボルト」の感想と完結編が楽しみな話

 最近漫画を描いてコミティアに出たりもするようになったんですけど、そもそも僕がコミティアに毎回行くようになったのは、欲しい漫画がそこにあるという感じになったからです。なので、今回はその欲しい漫画について書きます。

 この人が新刊を描いたら絶対ゲットしたいと思っている人が色々いるのですが、その中のひとりがタオルまるめちゃおさんです。僕はタオルまるめちゃおさんの「サンダーボルト」というシリーズがすごく好きなので、その話をします。

 

 

 サンダーボルトは、自作の衣装を着て、自作の電撃の武器を手に仕込み、ヒーローになろうとする女の子のお話です。主人公のみっこちゃんは、子供の頃にダンボールで作った鎧を身にまとい、ごっこ遊びをしたイナズマ仮面を、高校生になった今リファインしてサンダーボルトとなり、現代の街にはびこる悪い奴らと戦います。

 

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 でも、このお話は、戦うべき悪とは何か?というお話なんじゃないかと思うんですよ。そして、そんな自分の正義とは何か?というお話なんだと思うんです。

 

 みっこちゃんの原点は小さい頃のヒーローごっこ遊びの最中に、友達が不良に襲われたことです。みっこちゃんは怖くて怖くて、戦えずに怯えて隠れてしまいます。それは決して悪いことではないと思うんです。小さな女の子が、年上の男たちとまともに喧嘩して勝てるはずがないんですから。

 でも、そこが原点なんです。大切な友達が暴力に晒されているときに、仮に負けることが分かっていたとしても、それを助けに行くことができずして、何が憧れた正義のヒーローだって話ですよ。その気持ちが、心の中に楔として残ってしまったみっこちゃんは密かに体を鍛え、武器を作り、衣装を作り、再び悪い奴の餌食になりそうになっている友達を救いに向かいます。

 かつて、立ち向かえなかった自分の乗り越え、今度は立ち向かう話です。それは簡単な道ではありません。殴られれば痛いし、殴るのだって痛いです。そんな思いをしてまで、なぜ戦うのか?っていうお話なんじゃないかと思います。

 

 世の中には暴力で解決できることはさほど多くありません。いや、厳密に言えば暴力で何かを解決しようと思えば色んなことができますが、暴力は基本的に振るった瞬間に悪と認定されてしまうものです。例えば、お金がなくて困っているから、暴力で他の人から奪ったとしたらどうでしょう?悪ですよね?つまり、そのような悪の汚名を着ることなく、暴力で物事を解決することはとても難しいということです。正義と認定される暴力には、逆説的に、ちょうどいい悪の存在が不可欠なのです。

 暴力が正しさを帯びることができるのは、別の暴力と相対するときだけでということです。悪いやつら、つまり自分たちの欲望を暴力的に満たそうとするやつらから、弱き者を守る、そんなシチュエーションでしか暴力行為を肯定することは難しいものです。正義であるためには、目の前にちょうどいい悪が、ちょうどよく弱者を蹂躙しようとしていることが都合がよいわけです。しかしながら、そんなシチュエーションがどれほどあるでしょうか?もしそれがなければ正義のヒーローになれないのだとしたら、果たして正義のヒーローとは何でしょうか?

 

 みっこちゃんのヒーロー活動は、そんな意味で多難です。彼女は戦う力を鍛えますが、世の中には戦う力では解決できないこともたくさんあるからです。特に最新の3話は、そんな話だと思っていて、目の前に確かな問題があることは分かっているのに、それを上手く解決するための方法が見つからないみっこちゃんの葛藤が描かれています。

 どうすればいいか分からない中で、行動し、空回り、それでも行動するみっこちゃんの姿は、最終的に優しく問題に寄り添い、完全な解決はできなくても緩和に導きます。ただし、それはサンダーボルトとしての活動ではありません。覆面をかぶらない、みっこちゃん本人としての活動です。

 ならば彼女にとってサンダーボルトとは何なのでしょう?彼女は何のためにサンダーボルトを続けようとするのでしょう?だからこそ、次の最終と予告されている4話において、彼女がいかなる結論に辿り着くのかをとても楽しみにしています。

 

 意地悪なのは、この「暴力を振るうことに対する葛藤」とは裏腹に、アクション描写はとても軽快かつ軽妙なんですよ。継ぎ目なくうねるように展開するバトルの様子が読んでいて本当に気持ちいいんですよね。

 そこにはある種の快楽もあるはずです。人体が動き、強い力を振るい、敵を倒す快楽です。でも、それが必ずしも正しくないという相反する状態の重みが、意地悪な感じで胸をざわつかせます。

 

 タオルまるめちゃおさんの漫画は、人物描写もまたすごくいいんですけど、3話ではメガネのテコンドー使いである黒沢さんがとてもよかったです。彼女の何を考えているのか分からない感じが、相対するみっこちゃんの素直さと対照的で、黒沢さんが何を思い、どうしてほしいのかが分からず、でも、言葉や行動の端々に、彼女が何かを投げかけていることだけは見て取ることができます。

 そのとっかかりに、よく分からないままでも手をかけようとするみっこちゃんと、その繰り返しによって変化が見える黒沢さんの態度がすごく良いわけなんですよ。ひとつ間違えれば、誰かを悪者として断罪できもしそうな人間関係において、人と人との心のぶつかり合いが、少しの変化をもたらし、そんな少しの変化が重なっていくことで、登場時に想像したものとはまるで異なる結末に心が転びます。その感じが、本当にすごく良かったんです。

 

 ということで黒沢さんの絵を描きました。

 

 本ですが、コミティアの会場に行けばゲットできるし、以下でもゲットできそうですが…今は購入不可になってるっぽいですね(2017/9/11現在)。

(2017/10/1追記)

 今は買えるっぽいですよ!!!

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ロールプレイングゲームとしてのドラクエ雑感

 ドラクエ11をクリアしました。すごくよかったです。感想を具体的に書くとネタバレの話になってしまいそうなので、今はまだその時ではないなと思っており(身近にもまだクリアしていない人がたくさんいる)、それはまた今度にします。今回はドラクエ11を遊びながら、ああ、ロールプレイングゲームをやっているなあと思った話を書きます。

 

 ロールプレイングゲームとは読んで字のごとく、役割を演じるゲームのことだと思います。この、「役割を演じる」ということがどういうことを意味するかというと、個人的な感覚では、ゲームの中に存在する役割が「現実の自分じゃない」ということが重要なんだと思うんですよね。自分ではない役割を演じる、そうであることがとてもいいんじゃないかと思っています。

 

 先日完結した「シャッフル学園」という漫画があります。この漫画はいわゆるデスゲームもので、閉鎖された空間に閉じ込められた少年少女たちが殺し合ってしまうという内容です。特徴的なのはタイトルにあるとおり、彼らの人格がシャッフルされてしまうということです。登場人物たちは人格と肉体が分けられシャッフルされることで、誰かの精神が別の誰かの肉体に入ってしまいます。そのような状況において、見た目だけでは中身が誰であるかを判別できない同士で、誰を信じればいいのかどうか?ということが試されたりします。

 このシャッフル学園で描かれていたことのひとつが、人間の精神の自由度はその肉体に強く束縛されてしまうということだと思います。例えば、ひらひらした可愛い格好をしたいと思っていても、ごつごつした男の肉体であれば、似合わないと感じてしまうかもしれません。ならば、他人の目や自分自身の目を気にすれば可愛い格好をしたいと思ってもできないわけです。それは自分の肉体がそうである以上、どうすることもできません。
 しかしながら、精神と肉体が分離してしまえば話は変わります。違う人の肉体に精神が入り込むことで、そのとき初めて解放される欲望なんかがあるのではないでしょうか?若くて可愛い女の子の肉体に入れば、好きなだけ可愛い格好をすることができます。それはもともとのごつい男の肉体であったとしたら、誰にも知られぬまま、死ぬまで抱え込んでしまっていたようなものかもしれません。

 その欲望を表に出せるか出せないかは肉体の在り方に左右されてしまいます。もちろん肉体だけではなく、社会的な立場や、金銭や技術などによる環境面の影響なども様々あるでしょう。人間の精神はそれらを乗り越えて、ただあるがままに自由でいられるほどまでには力強くはないわけです。

 

 さて、ロールプレイは、そのような不自由な精神が、普段は肉体や環境に抑え込まれている部分を解放することもでき得る遊びではないでしょうか?自分ではない誰かの中に入り込み、そこで与えられた役割を演じて完遂することで、初めて得られる感覚があるはずです。

 それはともすれば、普段の生活の中では決して生まれなかった感情であるかもしれません。例えば、ゲームの中では自分の力で世界を守ることができます。それは現実ではなかなかできないことでしょう?なぜならば、そんな立場も能力も、普通は持ち合わせていないからです。

 

 ドラクエロールプレイングゲームの中でも、あまり自由度が高くないゲームだと思います。これは「自由度」という概念をどのように解釈するかという話でもありますが、例えば、ドラクエでは決められた物語の筋を変えることができません(まあ、ドラクエ以外もそうであることが多いですが)。

 選択肢を与えられたように見える場面でも、「はい」か「いいえ」のどちらを選ぶことになるかは、ほとんどの場合ゲームの側に決められているのです。何度も「いいえ」を選択したところで、「はい」を押すまでは話が先に進まなかったりします。その場合、プレイヤーに自由があるとしたら、その時点でゲームを放棄してやめてしまうことぐらいしかありません。やめないならば、ゲームの作者が用意した選択肢を選ぶしかないのです。

 

 では、これは意味がないことでしょうか?少なくとも僕は意味がないと思いません。つまり、そのとき僕は「はい」と選ぶ役割を演じているわけですよ。現実の僕であれば「いいえ」と選ぶような判断をする場面であったとしても。

 

 自分の意志のままに様々な選択できるような高い自由度のロールプレイングゲームがあったとして、その高い自由度は逆説的に弱いロールプレイと言えるかもしれません。なぜならば、そこで行われるプレイヤーの判断は、ゲームの中であるのに、現実で行われるものと似通っていると思われるからです。

 一方、自由度の低いロールプレイングゲームでは、実質的に選択肢はなく、決まった道を歩むしかありません。目の前で起こる悲劇も、それを自分の力で変えるという選択は与えられません。変えられる場合は、予め変えられるという物語の道筋が敷かれているときだけです。つまり、プレイヤーはゲームに設定された誰かの人生を歩まざるを得ないというわけです。それはもしかすると、そうすることで初めて見えてくる自分の中の何かがあるのではないでしょうか?

 

 つまり、それはある種の不自由を強制されることで、現実に生きている中では決して動かない心の回路に通電される可能性があるのではないか?ということです。

 

 ドラクエのように、自分には物語の筋を変えることができないゲームプレイにもかかわらず、それでも選択を求められるということに僕は意味があると思っています。主人公が頑なに喋らないことにも意味があると思います。なぜならば、それはゲームの中の彼が、ゲームの中における僕の依り代であることを強く意味するからです。

 物語はゲームの中で起こっていて、僕がいるのは画面の前です。干渉する方法は手にもったコントローラだけです。画面を覗き込む僕の感情はゲームの中の人々に直接届くことがありません。僕の心が鎖国した江戸幕府だとするならば、画面の中の主人公は出島です。貿易をしたいじゃないですか!貿易をしたくてコントローラを動かすわけじゃないですか。

 ゲームの中で主人公という立場と特別な能力と人々からの期待を得たとき、現実の立場と能力と人々からの期待を得た場合とは、全く別の自分が生まれたりするんじゃないかと思います。彼は一生懸命強くなり、世界の各地で人々を助け、あるいは助けられない悲劇も経験し、遂には悪の親玉を倒して、世界に平和をもたらします。

 彼は勇敢なる者です。現実の僕は勇敢ではないにも関わらず、ゲームの助けを借りて、ゲームの中では勇敢なる者になるわけですよ。

 

 自分ではない者になることで、自分の中に実はあったのに、自分が自分である限り一生眠ったままであったかもしれない部分が開くことがあるんじゃないでしょうか?僕が感じているところでは、ドラクエはその部分をずっと大切にしているように思います。

 今回も最後のボスを倒し、世界に平和をもたらしたあとの気持ちは、普段の生活では味わえない種類のものだったように思いました(素晴らしいものだったんですよ)。

 

 ドラクエはパッと見た感じ、全く新しく画期的なゲームメカニズムが投入されたゲームというわけでは別にないと思います。しかしながら、遊んでいる間、このように自分の中に眠っている特別な部分を引き出して、すごく心地よい時間を過ごすことができるゲームだと思います。

 なので、僕は新作が出続ける限りやりたいなあという気持ちがあるのでした。