漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

個人的な逃げなかった話と逃げ続けている話

 中学生の一時期いじめを受けていた。

 内容は悪口と暴力と性的な嫌がらせで、きっかけは、僕がクラスのある女の子と仲が良かったことだったそうだ。どうやら、その女の子のことを好きな別の男の子がいて、いつからか、その男の子と同じ部活の人たちからの僕に対するいじめが始まった。いじめが始まってからは、そこには関係なかった人たちからもなんとなく避けられるようになった。

 

 僕は小学校のときは上手くやっていた方だったと思う。いじめがない学校だったわけではないけれど(というか色々あったと思うけど)、僕はその対象になることはなかったので特に気にすることもなかった。僕はみんなと仲が良いつもりだったし、自分は誰とでも仲良くできる人間だと思っていた。ただ、中学生になって、事情でみんなとは違う学校に通うことになったことで、「誰とでも仲良くできる」というのは、その時その場でたまたまそうであっただけ、ということを理解する。

 新しく通うことになった中学校には、その地域の人間関係が既に存在していたので、僕はできあがった関係性の中に急に割り込む形となった。それまでのように当たり前のこととして周囲の人たちと仲良くしようとしたけれど、小学生のときのようには上手くいかなかった。当たり前のようにそうしようとしたことが一部の人たちとの間に軋轢を生んでしまい、排除しようという動きになったんじゃないかと思う。それは感情として分からない話でもないし、そうだったことを特に恨んでもいない。それは、どこにでもよくある話だから、気に留めるほどに大したことでもないと思う。

 

 いじめが始まってから僕がやったことは、単純でしょうもない話だけれど、ひたすら「良いやつ」で居続けることだった。学校生活のあらゆる側面で、他の人たちに当たり前のように親切に行動しまくった。日本は良い国だと思うので(外国がどうかはよく知らないけど)、自分に親切にしてくる人に酷いことをし続けられる人はそうはいない。いたとしても、ごく一部の変わった人だけだと思う。僕は良いやつでい続けることでどうにか学校の中に居場所を確保し、居場所が確保できればいじめもそのうちなくなった。

 

 なんだか個別具体の話を隠していい感じに終わった話として書いてしまったけど、そこに至るまで殴り合いとか、口喧嘩みたいなものも実際は色々あった。廊下でズボンとパンツを無理矢理下げられたりしたときは、別のクラスの女の子たちに見られて笑われたりして、結構ショックを受けたと思う。

 でも、僕はそれをなんでもないことのように強がって「5000円払え!払ったら許してやる!」みたいなことを言い返した。なぜ、これをよく覚えているかというと、前段のショックはもうどうでもいいけれど、その後、担任の教師に「お前がやったことは恐喝だぞ!」と僕だけ怒られたことに当時すごくムカついたからだ。これは思い出すと今でもムカついている。

 

 色々あったけれど、僕は毎日学校に通っていたし、学校に行かないという選択肢はなかったと思う。それが何故かは思い出せないけれど、ただそういうものだと思っていただけかもしれない。いじめを回避するために不登校になることを「逃げる」と表現するのだとしたら、僕は逃げなかった人だ。でも、当時「逃げるという選択肢もあるんだよ」とアドバイスされていたら、僕は逃げただろうか?

 

 人間に対する個人的な雑感だけれど、目の前に解決不可能な困難があったとして、その前で解決しろと言い続けられると壊れてしまうんじゃないかと思う。解決しないといけないのに、解決はできないからだ。矛盾を抱えたままで過ごすのはとてつもないストレスだし、そのうち解決できないようなことを解決できないという責任をとらされるような状況になってしまったりする。それはとても辛い。

 そういうとき、正面から向かってもしょうがないから、一旦後退して、何らかの違う条件のもとで解決可能な問題に作り変えたり、別の問題に向かうことで先に進んだりすると思う。これは見方によっては「逃げ」だけれど、このような解決できない問題に正面から挑むことをやめることを単純に「逃げ」と呼ぶのは違和感が拭えない。ただ、その道ではなく別の道を歩くことにするだけだ。結局はなんらかの手段で先に進んでいるのだから、逃げたのではなく、ただの方向転換だ(しかし、使い分けが面倒なので、以下は逃げると表現する)。

 

 僕が逃げずに済んだのは、僕が持っていた人間の強さなどではなく、ただ目の前の問題が、道を変えなくても解決できそうな程度の大きさだったというだけだろう。方向転換をすることの方がよほど面倒だという価値判断だったということだ。つまり運が良かった。

 人生のそこかしこで困難にはぶつかってきたけれど、だいたい方向転換をせずに、なんらかの方法で目の前にある壁を乗り越えたり、くぐったり、部分的に壊したりしながらやってこれた。それはとても幸運なことで、どこかで決して解決できないほど大きな困難にぶつかっていたら、そこで道が途切れていたかもしれない。

 

 僕は逃げなかったけれど、もしかすると逃げた方がよかったのかもしれない。逃げた方がいいのか、逃げない方がいいのか、それは時と場合による、としか僕の中に答えはない。ただ、逃げない方が色々な効率はよいと思う。踏み均された道の方が歩きやすいからだ。ただし、その踏み均された道の上で解決不可能な問題に遭遇しないで済むかどうかは運の問題だ。遭遇してしまったら、当たって砕けるか、道を変えるしかない。

 

 当時のいじめの中心人物であった男の子とは、のちのちその事実がなかったものであるかのように接するようになった。2年生の修学旅行では同じグループになったし、その頃の一時期は何故か気に入られているような雰囲気になって、晩ご飯を2人でテーブルを囲んで食べたりした。その子だって別に悪いだけの奴じゃないということが、話をしていれば分かってくる。あまり他人のプライバシーについては書かない方がいいと思うけれど、彼は父親があまり家に帰ってこない父子家庭で、妹のために晩ご飯を毎日作っているというような話を聞いた。彼には彼の良いところがあって、彼なりにしんどい状況の中で生きているんだなと思ったりした。

 いじめに加担していた別の男の子との場合は、当時「お前が学校のみんなに嫌われてるんだよ!」なんて言われたりもしていたけれど、いつからか学校から2人で帰ったりもするようになって、どういう流れだったかは忘れたけど、「将来、自分に子供ができたら、お前みたいに育ってほしい」なんてことも言われた。そのとき、僕も単純なので、彼も別に悪いやつじゃないなと思った。

 存在自体が全て悪のような人がいなくても、いじめのような悲しいことは起こるし、なんとなくの空気がそうさせるので、起こった事実の責任を誰もとらない。僕のいじめが終わったあとも別の人がいじめられているのも見たし、不登校になった子も同じ学年に2人ぐらいいたと思う。いじめの対象は生徒だけではなく、先生でもそうで、授業が崩壊していて、国語の先生が授業中に泣きだしたりしたこともあった。

 別に誰かに明確な悪気がなくてもそうなる。正しいことや楽しいことをやっているつもりでも、簡単に悲しいことは起こりうる。僕が受けたいじめも、彼らなりの正しさがあったから起こしたことだろう。それは、僕にとってはただ厄介なことでしかなかったけれど。

 

 中学生というのは、僕が初めて人間関係の困難さに接した時期で、自分なりの処世術を編み出した時期でもあると思う。自分に対してともすれば悪意を持っている人とも、なんとなく上手くやっていくような成功体験もあったし、それでも、どうしても仲良くなれない人もいた。

 ただ、この辺りから仲の良い人間関係を維持することがどんどんしんどく感じるようになっていき、ひとりで過ごす時間も増えた。もともとひとりで過ごすのは苦ではなかったけれど、より没入するようになったように思う。意識して他人と上手くやるには、その人のことを沢山考えなくてはいけない。そうしていると自分の中が色んな他人でいっぱいになってしまい、行き過ぎるとあらゆる価値判断から自分の意志が消えていってしまう。それはつまり、自分の行動を自分で決められなくなってしまうということだ。

 そんな中では僕自身がいじめの加害者にもなってしまうかもしれない。いや、明確に自覚していないだけで、きっと様々ないじめに僕自身が荷担していたこともあっただろう。それは正しかったことや、面白かったことや、他人に合わせるためにやっていたことのような形式で記憶されているけれど、視点を変えれば誰かにとってのいじめだったりするのだと思う。

 

 いや、ちょっと日和ったことを書いてしまった。自覚があるケースもある。僕は間違いなくいじめる側にも荷担していたことがあると思うし、前述の授業崩壊なんかも僕がそこに出席していた以上、関係はしている。なんで日和ったことを書いたかというと、いじめる側にいたとか書くとそこをどこかの誰かに責められるかな?とか思ったので、「自覚がなかった」とか言って自分に全く非がないように装い、適当にごまかそうとしていただけだ。よくないことだ。

 僕はいじめられたし、いじめを見過ごしたし、いじめたのだ。そこには自覚的でなければいけない。でなければ、非がないような顔をして、同じようなことに何度も荷担し続けてしまうと思う。

 

 さて、困難があっても、どうにか方向転換をせずに今までやってきたものの、僕が何かから逃げずにきたのか?と言えば、めちゃくちゃ逃げていることがある。僕はずっと密な人間関係から逃げている。

 中学生のときのいじめの経験は、自分のものごとの捉え方に少なからず影響を与えたと思っていて、僕は過剰に他人と上手くやろうと思ったりする。しかしながら、だからといって実際に上手くやれるとは限らなくて、それがどんどん自分自身を疲弊させてしまう。なので、ひとりになるとすごくホッとする。本を読んでいるときや、ゲームに没頭しているときもそうだ。自分の人生に他人が入り込む余地がないときがとても落ち着く。これをしたら目の前の他人にどう思われるだろうか?と沢山思ってしまうことがしんどいので、その状況から逃げて逃げて逃げまくっている。

 今まで生きてきた中で、この人にこう思われたらどうしようと、びくびくしないで済む人たちと出会うことには成功していて、その人たちのことを友達だと思っている。それはごく限られた人たちで、そんな僕の友達関係は数年に一人ぐらいのペースでしか広がっていない。ただ、インターネットを見ると、自分と同じような感性を持っている人が目に入ることも増えて、その人たちとも別に仲良くはできてないのだけれど、見ていると安心するような気持ちがある。

 

 人間関係においては逃げっぱなしでちっとも立ち向かっていないわけです。このまま老いていったとき、孤独な老人になるのでは?というようなアドバイスを貰うこともあり、そうなりそうな雰囲気もすごくしているけれど、じゃあだからといって、人との繋がりを求めて、どこかの輪に入っていこうとするかと言えば全然する気がないわけで、「逃げてばかりでいいんですか!?」と聞かれたら、ダメかもしれない…と思うけれど、やっぱり今のところは逃げっぱなしになっているのであった。

 逃げっぱなしの状態でいるときに考えてしまうのは、「本当に立ち向かわなくてもいいんですか?」ということで、そこでもし立ち向かって乗り越えられれば、今このように「立ち向かうべきではないのか??」というような迷いを時折考えなくても済むので、精神がすっきりする可能性がある。でも、もしかしたら正面からぶつかったことでぶっ壊れてしまうかもしれないじゃないですか。そこが曖昧なので、今のままが楽だということで、逃げたまま、楽なままで日々過ごしている。

 

 困難に遭遇したときに「逃げるべき」とか「立ち向かうべき」とかは一律には決まらないと思う。時と場合によるし、どうも逃げっぱなしでいると悪いことになりそうだと思っても、なかなか動けないものじゃないですか。一方、立ち向かってみても、場合によってはただただダメージだけを受けてぶっ倒れてしまったりもしますよ。そういうことをぐだぐだ言い訳つけながら、日々生きています。

 なんにせよ大切なのは、自分がどのような状態でいられれば調子よいかということだと思う。僕はこの先、寿命まで調子よく生きていきたいと思うので、そのために時と場合によって逃げたり立ち向かったりを使い分けていくつもりです。

 そんな感じで生きていきましょう、と思っています。

コミティア121参加報告

 以下、これの話です。

mgkkk.hatenablog.com

 

 寝坊しつつ、ギリギリに会場に着いたら、頼んでいた本が到着していたので嬉しくなってしまいました。デジタルの画面でしか見ていなかった絵が、物体に変換されていたので、印刷所の人に感謝の気持ちしかありません。あの人たちひょっとして魔法使いなんじゃないだろうか。

 

 

 人!人が来てくれました!来てくれた人に、1冊あたり400円頂いて本をお渡ししました。400円って言ったら少年誌の漫画が買えるに近い額なので、大したもんじゃないですか。漫画をお金を出してまでちゃんと読んでもらえることというのは、そこに至るがとても大変な世の中だと思います(今回描いた漫画にも、そういうことをちょびっと描きました)。

 まず目に留まらなければいけないし、興味を持ってもらわないといけないし、開いてみてもらわないといけないし、そこでなんらか引っかかるところがないといけないし、そこから中身を最初から最後まで読んでもらわないといけないじゃないですか。期待が高ければ読む前に買ってもらえるし、期待が低くても読んでもらって良いと思ってもらえれば買ってもらえます。そして、そうでなければそうでなかったということになります。

 

 僕はちょっとお得なところがあって、インターネットで活動してきたことによって得た信用力みたいなものを変換することで、内容関係なく手に取ってもらえることもあるんですよ。でも、であるからこそ、面白いと思ってもらえるものを渡せればいいなと思います。ただ、そこを上手くできるほどの器用さが少なくとも今はないので、同人活動は続けるつもりなのでおいおい頑張ります。

 

 印刷を頼んだ数のだいたい半分が里子に出ていってくれました。既刊を含めると新しく印刷を頼んだのと同じぐらいの数が里子に出て行ってくれたので、プラマイゼロになり、家に在庫が増えなかったので、刷る数を間違えなかった気がしてよかったです(じゃないと活動を続けるたびに、家に本の在庫が増えていってしまうので)。

 

 フルタイムで働いていて、残業も月40~50時間ぐらいはしているんですけど、そこからたくさんの漫画を読んでゲームをしてるのに、なんで漫画とかを描く時間まであるんですか?みたいなことを後輩に聞かれたんですが、答えは単純で、みんながしているようなことを僕が全然していないからです。それが何かというと「人付き合い」です。

 僕は人付き合いが嫌いか?というと、そういうことはなく普通に好きなんですが、人付き合いは楽しいので、頻繁に人と会っていると、それだけで時間が過ぎていってしまうじゃないですか。何年か前にちょっと病気したことがあって、その時にちょっと無理した生活をしているなと自分でも思ったので、人付き合いをごっそり減らして、自分が好きに過ごせる時間を作ったので、今はそういう状態になっています。人付き合いを減らすと言っても、誘われたらほぼ行くので、自分から誘って他の人を会うのをめったにしなくなっただけです。そうすると会う人が8割減るということが一般的に知られています。

 

 そういう感じなので、コミティアという人が沢山いるところに出てきてみると、人だー!!という気持ちになり、気持ちが大きく内面を広がり過ぎるので、まぎらわすためにスマホをいじったり3DSドラクエをしたりと外なのに引きこもっていました。

 そうしていると、たまに人が来てくれ、会話をし、お金と本の交換をしました。知っている人も来てくれますし、知らない人も来てくれます。前に参加したときに本を買ってくれた人がまた来てくれたり、ネットに告知したのを見てくれた人とか、このブログを読んでくれたとか、長年やってる漫画の話をするポッドキャストを聞いてくれている人とか、なんとも色んな人が来てくれました。

 僕は思いますが、普通は来てくれないので、来てもらえることは異常だし、嬉しく思いました。

 

 僕は、ネットで自分がやっていることを他の人がどう受け取っているかの反応をほぼ確認しないんですけど、それは興味がないとかそういうことではなくて、自分の他人に影響されやすい性質を知っているからなんですよ。自分がやりたいことよりも、求められたことをやってしまいがちになり、そのように生きてきてしまっているんですが、そうしていると、自分がそもそもやりたいことってなんだっけ?ということを頻繁に見失うので、とにかく自分自身だけを見て、そのときそのときでやりたいことだけに集中するために、他を見ないようにしている感じです。

 ただ、たまに他人の反応を確認すると、嬉しい気持ちになりました。ご丁寧な手書きのお手紙をくれた人もいて、いや、ほんと良かったなあと温かい気持ちになり、そして、ハレの時間が終わったので、またあまり外を見ないケの生活に戻ります。ありがとうございます。

 

 次回の参加は、これまでどおり半年に1回ペースなら、2月のコミティア123を目指すことになると思います。そうなったらまた告知させてもらいますので、よろしくおねがいいたします。

「HOTEL R.I.P.」と幸福の条件

 「HOTEL R.I.P.」はエレガンスイブで連載され、現在はチャンピオンタップで連載されている漫画で、この前第1巻が出ました。

 この物語は、生前に何らかの思いを残して理不尽に死んでしまった人たちが、この世とあの世の狭間に存在するホテル、レストインピースで成仏するまでの時間を過ごす物語です。このホテルに滞在している間に、自分自身で気持ちを解消できる人たちもいますが、どうしてもそれができずに長期滞在を続けてしまうような人たちもいます。

 ホテルとしては長期滞在者の増加は困ってしまいます。その中から現世の心残りに囚われたまま地縛霊になってしまう人たちが出るかもしれないからです。そこで、ホテルの支配人は、ある戦略をとることにしました。それが相部屋です。生前には面識のない2人の死者を同じ部屋に滞在させ、そのコミュニケーションの中での現世で抱えていた気持ちを解消させようとするのです。

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 これまで何回か書いたと思いますが、僕は「人間は別の人間に相対するときに、そのための新しい自分を作りだすものだ」という考えを持っているんですけど、そういう意味で言えば、この漫画はその考えと通じるところあるように思えて腑に落ちる感じがしました。1人でいては到達できなかったであろう、2人だからこそ到達できる場所への道筋を描いていると思うのです。

 独りで閉じこもっている状態は、自分と自分の付き合いしかありません。となれば、自分を相手に似たような自分を再生産するだけになってしまいがちです。そのような自分と自分だけの付き合いには、良さも悪さもあると思っています。それらは表裏一体でどちらかだけを選ぶことができません。

 どういうことかというと、独りでいると良くも悪くもその人の個性が強調されてしまうように思うのです。喩えるなら、同じ顔写真に目が大きくなるフィルタをかけ続けているようなものです。1回なら可愛くなり、2回でもまだ大丈夫かもしれません。でも5回も10回もかけてしまうと、きっと化け物のような顔になってしまうでしょう。それが自分だけと付き合うことだと思っていて、そこには極端な個性が生まれる可能性はありますが、その代わりにどうしても他の人との間の適切なバランスが崩れてしまいます。

 バランスが崩れてしまえば、社会の中で暮らすには軋轢を生むでしょう。それゆえに孤立してしまったり、同じ考えから抜け出せず、停滞してしまったりします。とはいえ、逆にあらゆる人に影響を受け過ぎ、上手くやるための無数の自分を作りだしてしまっても、ただあらゆる方向に平均的な、無個性な人間になってしまうだけかもしれません。そして、そうあり続けることは大変な努力がいることで、疲弊してしまうかもしれません。

 幸か不幸か、人の寿命は世の中のあらゆる人間との密な付き合いができるほどまでには長くないので、誰と付き合って人生を歩むかという選択肢があります。そして、それが実際に誰であるかによってその様相は多様に変化するのではないでしょうか?

 

 この物語に登場する人たちは、ある種の孤独を抱えていることが多いと思います。自分の中だけにある材料で物事に対応しようとしていたことで閉塞感のある状態に陥ってしまい、それゆえに、死してなお、その袋小路からなかなか出ることができません。彼ら彼女らに必要であったことは、他者とのつながりと、それによって新たに生まれる可能性なのだと思います。そしてそこには、自分の新しい側面が生まれるというある種の苦しみも伴います。場合によってはそれがむしろ悪い結果に繋がることだってあるかもしれません。

 ただ、それを乗り越え、その先に新たな自分を獲得できれば、今まで抜け出せなかった場所から抜け出す力を得ることだってできるでしょう。

 

 本作では、立場の違う様々な人々の交流を通じて、今までその人たちが個々に感じていた悩みや苦しみやわだかまりが解消されていく過程を追うことができます。そして、もしかしたら、それを読む読者とこの漫画自体もまたホテルの同じ一室にいるということかもしれません。本を読むことだって他者との交流です。それは本から自分への一方通行かもしれませんが、それによって人は変わったりするでしょう。

 実際のところ僕はこれまで色んな漫画を通して(漫画だけではないですけど)、自分の感覚や考えが変わることを体験しています。あるいは、自分が感じていることと同じ感覚を漫画の中に発見して涙が出るほど救われた気持ちになったりすることもあります。それらは全て他者との出会いによって生まれた新しい自分ではないかと思うのです。

 

 この漫画は、死者の物語で、その死自体は覆ることがありません。抗うことができない死が人に訪れ、そこに悠然とそびえ立ち続けるにもかかわらず、これは希望の物語だと感じます。

 

 「からくりサーカス」に登場する機械仕掛けの自動人形アルレッキーノは、人は死ぬからこそ美しいと評します。なぜなら、終わりがあるからこそ、世代を越えて連綿と伝えられるものが生まれ、遂には個人では到達できなかったであろう高みに到達するからです。しかし、その言葉に、人間である加藤鳴海こう答えます。

「死ぬから人間はきれいなんじゃねえ!死ぬほどの目にあっても…まだ自分が生きてるってコトを思い出して…にっこり笑えるから、人間はきれいなのさ」

 どんな不幸な状況にあったとしても、その先に自分の死を知っていたとしても、自分のその生を肯定できるからこそ、そこに人間の素晴らしさがあると鳴海は言います。

 幸福感とは、自分が今そうあるということをどこまで肯定的に捉えられるかということではないでしょうか?金さえあれば、家庭さえいれば、世間から認められさえすれば、そのように今の自分に足りないものばかりに目を向けてしまう状況があるとしたら、それはきっとそれ自体が不幸なんだと思うんですよ。しかしながら、人は、そこを抜け出し、勝ち取るために、他者と交わりながら新しい自分を獲得して生きるのかもしれません。

 仮にそれらの「幸福になるために満たされると良さそうな条件」がまるで達成されなかったとしても、過程のどこかで肯定できる自分になることができさえすれば、そこがきっと幸福な場所です。たとえ、そのとき肉体が死んでいたとしてもきっとそうでしょう?

 

 現世に思い残しがある死者はたぶん不幸です。しかし、不幸であった彼ら彼女らが不幸ではなくなる物語であるならば、そこが幸福な結末なのではないでしょうか?そこでは、肉体が生きているか死んでいるかはきっと些末な問題でしかないのだと思います。

 だからこれはきっと幸福な物語なのです。

 

 さて、まだまだ連載中でネットで読めるので、リンクを貼りますね。

tap.akitashoten.co.jp

○○が好きな自分が好き関連

 インターネットをぼんやり見ていると、「あなたは○○が好きなのではなく、○○が好きな自分が好きなだけでしょう?」みたいな言葉が、誰かを批判するために用いられているのを目にすることがあります。

 しかしながら、僕はこの言い回しにひっかかるところがあります。「何かを好きな自分が好きであることがよくない」ということにいまひとつ得心がいかないのです。なぜなら、僕は漫画が好きで、なおかつ、漫画が好きな自分もすごく好きだと思う側の人間だからです。これは本当に悪いことなのでしょうか?

 

 おそらく上記の批判は、「○○が好きなのではなく」という前置きが重要で、自己愛でしかないものを、ジャンル愛であるかのように見せかける行為が不誠実であるという主旨なのでしょう。ただし、実際には自己愛とジャンル愛は排他な概念ではないので、映画も好きだし、○○を好きな自分も好きというのはあると思うのです。

 この言い回しは、「○○が好きな自分が好き」ということ自体が、あたかも「本当は○○なんて好きでもないくせに」という考えと相補な感じの意味合いを匂わせているので、どうもよくないように感じてしまいます。

 

 ここからは、「○○が好きな自分が好き」ということについて、僕がどのように捉えているかという散漫な話をします。

 僕の考えでは、人間という概念は基本的にその人ひとりだけで成立するものではなく、その人がどこで何に接しているかによって違った様相を呈するものです。つまり人間とはある種の現象であり、それはある人間とその外部との相互作用の中で生まれる多義性をもったものではないでしょうか?

 僕自身の体感で言えば、今そのとき誰と話しているかによって自分の性格が変わることを感じます。それは微妙な変化からあからさまな変化までありますが、誰かに接しているときには、その人に応対するときだけの専用人格があると捉えているのです。

 例えば、他人を付き従えようとする暴力的な人の前では、従順に振る舞ったりします。場合によっては、逆に強い反発心を示したりするかもしれません。また、好きな人相手には優しくなるかもしれませんし、嫌いな相手にはそっけなくなるかもしれません。

 ひとりで電車に乗っているときには無表情でスマホなんかをいじっていたりしますが、それは果たして自分の本性でしょうか?例えば、友達が先に電車を降りたあとですぐに表情が消えたところで、その無表情こそが本来の人格なのに、他人の目の前では表情豊かに接していて嘘つきだ、とはならないわけじゃないですか。

 感情を表に出すのは、そうする必要があるとか、そうしたいとか、あるいは自然にそうなってしまうとか、何らかの理由で状況に応じた現象として人格や態度が生まれるものだと思っていて、どれが本当の自分かというと、きっと全部が本当でしょう。

 接するものの数だけ自分があり、その総体こそが自分なのだと思います。

 

 つまり、漫画を読んでいるときには、漫画を読んでいるときの自分になるわけです。ゲームを遊んでいるときは、ゲームを遊んでいるときの自分になるわけです。僕は漫画を読んでいるときの自分や、ゲームを遊んでいるときの自分が好きなので、時間があれば漫画を読んだり、ゲームを遊んだりしようとします。

 自分の存在が、自分の外にある何かにもよって規定されるのであれば、どのような状況に足場を置き、何と接するかを決断することによって、自分自身の在り方に干渉することが可能です。

 僕は漫画を読んでいるときの自分の在り方がとても好きなので、できるだけそうありたいと思います。漫画が好きだし、漫画が好きな自分が好きなのです。

 

 そもそも、好きとか嫌いとかいう気持ちは自分の意志で任意に制御するのが難しい領域じゃないですか。例えばピーマンが嫌いだったとして、好きになるぞ!と強く思ったとしても、実際に好きになれるものでもないじゃないですか。逆に嫌いになろうと思っても容易には嫌いになれないこともあって、その辺は自分の意志ではあまりどうにもならないことが多いと感じています。

 何かが好きとか嫌いとかは、変えることが難しい自分の特性であることが多く、それを無視してあるべき姿を考えてもしんどくなることが多いと感じているのです。

 嫌いな食べ物を、何らかの理由で好き好きと言わざるを得ないことで、結果的に嫌いな食べ物を食べさせられ続けるのは嫌でしょう?そこは無視しないほうがよいと思うわけです。そして、そんなどうしようもない自分の好き嫌いと付き合っていくしかないと思っているんですよ。好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いです。

 

 余談ですが、人間の好き嫌いと人間関係は、完全に一致しないものだと僕は感じていて、僕の個人的な感覚だと「その人は好きだけれど、その人と一緒にいるときの自分の状態が好きじゃない」ということがあります。

 劣等感や嫉妬心なんかが想像しやすいかもしれません。その人は一切悪くないのに、その人と自分を比べて辛くなってしまったりします。あるいは尽くしてしまうというようなものもあるかもしれません。その人のために何かをしてあげたいと思うあまりに、客観的に見れば損ばかりしてしまうことがあります。でもその場にいるとそうしたいんですよ。

 会えば金を貸してくれというろくでもない友人がいたとして、でもその人が好きで貸してあげたくなっちゃうと貸してしまいます。ただ、それを繰り返したせいで自分の貯金がどんどん減っていったとしたら辛くなるでしょう。そういうとき、その人は好きだけれど、自分はその人と一緒にいるべきではないなと思ったりもします。

 人間関係にも色々あるわけです。毎日会えば喧嘩をしそうだけれど、年間2回会うぐらいなら仲良くできる人もいます。逆に毎日会う状況でなければ、継続できない仲の良さというものもあると思います。人間関係には、人自体の好き嫌いだけではなく、そのときの自分の状態や、許容できる会う頻度、関係を維持するために必要な会う頻度など、色んな要素が関わってくるように感じています。

 僕は人を嫌いになることはあまりないですが(そもそも嫌いになるほど他人に深入りしないので)、このような意味で他人と接しているときの自分が好きではないことが多いので、ひとりで行動する頻度が高いです。

 

 さて、「○○が好きなのではなく、○○が好きな自分が好きなだけでしょう?」という言い回しに立ち戻りますが、僕は個人的にこの言い回しがしっくりこないだけで、そもそも言わんとしていることは分かるような気がします。つまりそれは、○○自体の話をしているように見えてそうではなく、実際は○○に関連するコミュニティの話をしているので気に食わない、ということではないでしょうか?

 具体的に言えば、「自分は○○が好きだ」と主張することの言外に、「自分はあいつらよりも○○が好きだ」などのような別の意味が読み取れるということです。それはつまり個人が○○に対して単純に感じている話をしているわけではないということなんですよ。その人がそういうことを言う目的は、その人が意識している○○に関するコミュニティの中で、自分こそが優越であるぞという主張したいのではないか?と読み取れるということです。

 そのように「○○が好き」と主張することで言いたいのが、「俺はお前らよりスゴイぞ」という話であったり、「優れた俺には価値があるだろう?」という話であったりするならば、ダシにされた○○は実は本質的にあまり関係ない話ですよね?ということを指摘したなるのは分かります。そして、そのために「○○が好きな自分が好きなだけでしょ?」という言葉が選択されているのではないでしょうか?

 

 こういうことは実際よくあり、自分が嫌いな人が褒めている作品を貶してやろうと思ったり、逆に自分が嫌いな人たちが貶している作品をむしろ褒めてやろうとしたりする事象が観測される場合があります。どちらも、作品そのものの話ではなくなっていて、実際は話者が意識しているコミュニティの中の立場や力関係を有利にするための話だと思います。古参ファンvs新参ファンの諍いみたいなのも、同じ部類かもしれません。

 それはそのコミュニティに属している人でなければ、どうでもいい話です。「地球の裏側のなんとかという村で、一番偉いのは俺だ!」という話を聞いても、特に興味ひかれることはなく、知らんがなと思うでしょう?それが地球の裏側のなんとかという村ではなく、なにかの作品のファンコミュニティなんかに置きかえられるだけです。その中にいる人にとっては重要な話題でしょうが、そうでない人にとってみればどうでもいい話です。

 

 作品の感想などにそのような人間関係的なアピール要素が盛り込まれてしまうことはよくあると思っていて、そういうものをうっかり読んでしまったとき、やられたーと思ってしまいます。だって、それは作品の感想などに見せかけて、文意は作品の感想ではないのですから。

 もう少し具体的に言えば、その人がある漫画を読んで何を感じたかという話ではなく、その漫画のファンコミュニティの中で、自分はこういう立ち位置であり、お前らよりもすごいぞ!と説明をしている文章であるということです。

 そして、僕はそういうコミュニティに属していないので、そういう文章をうっかり読んでしまったあと、自分には関係ない話を読んでしまったなあと感じてしまいます。

 

 インターネットの普及にともなって、何かを好きであったり嫌いであったりする人同士がお互いを観測しやすくなり、すぐにコミュニティが形成されたりします(ここでいうコミュニティとは、必ずしもお仲間で同好の士という意味ではなく、互いを観測し、その優劣の立ち位置が気になるぐらいの間柄という意味です)。そのため、作品の話をしているように見せて、実際はそのコミュニティ内の話が紛れ込んでいることも多くはないでしょうか?

 だからこそ、自分だけが好きなものの話よりも、みんなが注目しているものが話題に選ばれがちです。興味がなくてもいっちょかみしたいみたいな文章はだいたいそれのように思います。

 

 このように、「○○が好きなのではなく、○○が好きな自分が好きなだけでしょう?」とは、たぶん相手の言葉から、そういったコミュニティ内の人間関係に関する主張を読み取ったことに対する、拒否感的な反応なんじゃないでしょうか?(その読み取りが正しいかどうかは別として)つまり、「あなたがしている話は作品自体の話ではなく、あなたが意識しているコミュニティの中の力関係の話なので、作品の話がしたい私たちには関係ないですよね?」という確認です。

 そういう意味であるならば、僕も分かる気がします(本当にそういう意味かどうかはわからない)。

 

 そんでもって、漫画やゲームや映画を語ることに何らか別の意味を見出すようなコミュニティに僕は属してないので(ネットに一方的に書くか、ごく少数の友達と話すだけなので)、個人的にはやっぱりそれらは、地球の裏側の村で起こっているような話で、僕にはあまり関係のない話だなと思ったりするのでした。

30代漫画好きが、急に同人活動を始めるとこうなる

 8月20日(日)に東京ビッグサイトで開催されるコミティア121に出ます。スペース番号はQ30a、サークル名は七妖会です。

 

 1年半ぐらい前にふと漫画を描いてみようと思ってから、手探りで漫画を描き始め、とりあえず今回で3個目の漫画が出来たという経緯です。3回ぐらい描いてみたら描き方もこなれてくるかなあとなんとなく楽観的に思っていましたが、特にそういうこともなく、とはいえ予定通りに完成したのでよかったですね。5回ぐらい描いたらこなれてくるんじゃないでしょうかね?とにかく完成したという事実を祝っていきましょう!

 聞くところによるとFacebookのモットーに「Done is better than perfect」というものがあるそうです。その通りだよなあと僕も思いました。反省する部分があったとしても、今の漫画ではなく、次の漫画に生かしていくのがよいと考えていきましょう。

 

 さて、今回の漫画は、「誰ガ為ノ草枕」という題名で、漫画の著作権管理がテクノロジーの進歩により今よりも少し厳密になった近未来のパラレルワールドを舞台にしたお話です。

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 この世界では、商業出版も同人誌も、世に出す場合は、著作権管理システムへの登録が必須となり、その漫画が過去に影響を受けた漫画に対して著作権利用料を納めなければならないことになっています。

 そこに現れたのが、ある少女です。その少女の描く漫画は、著作権管理システムに異常に高いオリジナリティがある(つまり、他の漫画からの影響が異常に少ない)と判定されました。彼女はいったい何者なのでしょうか?

 そしてまた、その世界にはある伝説的な男が存在します。彼はあまりに数多くの漫画家に影響を与えたために、あらゆる漫画から著作権利用料が振り込まれるようになった男です。その収入は漫画出版市場全体の数パーセントにもあたるものとなっています。しかし、彼には秘密があります。果たしてそれはいかなる秘密なのでしょうか?

 はてさて。

 

 この漫画、僕は自分では面白いと思って描いたのですが、僕は自分自身のことをあまり冷静には見られないので、他の人にこの漫画をどう思われるかはよくわかりません(面白いと思って貰えればいいのですが…)。とりあえずpixivに8割ぐらいの内容をアップロードしてみました。 

 そのうち全部ネットにアップロードするつもりですが、とりあえずはコミティアの会場で頒布する本での公開となるので、お話に興味があったら来てみてください(よろしくおねがいします)。

 

 さて、漫画は子供の頃からずっと好きですが、読むのが好きなのであって、描くのは全然あんまりと思っていたんですけど(やり方もよく分からないし)、いざ真面目に取り組もうとしてみると、お話を作るのは面白いなあと感じていて、そんでもって、それの印刷を頼んで紙の本になったものを見ると、なんだかすごく嬉しくなっちゃうんですよね。

 数年前、文章の同人誌を初めて作ってみたとき、会場に届いた本を開けてみて、ほんとすっごい嬉しくなってしまったので、その感覚を何度も味わいたくて今はやっているようなところがあります。

 

 そういう意味でいうと、最後まで描いて、本が作られた時点で僕の目的は達成されているということになります。イベント参加を含めて、あとのことは全部オマケですが、欲しいと思ってくれる人が買ってくれたりすると、それはつまり製作費の一部を負担してもらえるということなので、たいへんありがたいことだと思っています。

 

 そんな感じなので、よろしければ来て下さい。どうぞよろしくお願いいたします。

漫画の中の恋愛に読者が第三者的な妥当性を求めてしまう関連

 漫画の主人公って、モテがちじゃないですか。色んな異性と付き合ったり結婚したりする可能性が提示されるわけです。ただ、可能性は沢山あれど、物語の結末はその中で1人だけが選ばれるものになりがちです。ここで気になるのは、では誰が選ばれるのか?という問題と、選ばれなかった人はどうなるのか?という問題です。

 

 これはゲームで言えばドラゴンクエスト5における、ビアンカとフローラのどちらと結婚するか問題と通じるところがあります。

 以下は、以前に話をしていて揉めた記憶です(ご参考まで)。

 

 

 このようなゲームやら漫画やら内の恋愛模様について、読者としては第三者目線での妥当性を求めてしまうことがあるんじゃないかと思います。つまり、「選ばれるのがその人でなければならない」という妥当性です。妥当性の根拠とされがちな代表的なものとしては、「最初に出会った相手である」というようなものがあります。

 例えば、「子供の頃に結婚の約束をした相手と遂に結ばれる」というような結論が「しっくりくる」というような理由で選ばれがちではありませんか?全30巻の漫画があったとして、29巻目で初めて登場したヒロインと主人公が幸せになり、それまで登場した数々のヒロインがないがしろにされる展開があった場合、読者は納得するでしょうか?

 人間と人間の間のことは、客観的に見てしっくりくるかどうかとはあまり関係ないと思うんですけど、こと物語においては、読者の視点から見てしっくりくる相手になってほしいというような気持ちになることがあると思います。

 頼まれてもいないのに作中の登場人物たちの保護者視点になってしまいます。まるで自分の息子や娘が、このような人間と結婚するのはまかりならんと意見するような気持ちを持ってしまったりはしないでしょうか?

 

 これだけならまだいいですが、より面倒くさい問題もあります。それは、最終的に選ばれなかった女の子たちや男の子たちのケアも必要ということです。なぜならば、その人たちが選ばれなかったことによって不幸になってしまえば、主人公は悪いことをした人になってしまうからです。選ばれなかった以上、なんらか傷つけてはしまうでしょうが、主人公が悪くなり過ぎないような形にならなければなりません。

 ここで非常に面倒くさいのは、選ばれなかった人々とはいえ、読者の中にはファンもおり、これもまたポッと出のキャラクターとくっついたりすると文句を言ってしまう人が出てくるということです。

 では、結局どうなるかというと、主人公の男の子と、最終的に付き合う女の子がいた場合、それらにそれぞれフラれた形の男の子と女の子同士が、あまりものをくっつけるというような形で付き合ったりすることもあるのです(「みゆき」とかで示唆されたやつですね)。

 これ、物語ではいいですけど、なんか理屈としては嫌じゃないですか?実際に自分が誰かにフラれたときに、別方向で同じ立場の異性がいたとして、余り者同士をくっつけたらしっくりくるよ?って言われたら最悪だなあと思ったりします。

 

 学生時代とかあるじゃないですか。そういうわけではなく仲良くしている異性との関係を、周囲が勝手に気をまわして付き合うようにもっていこうもっていこうとするやつ。あれ、やられるとそれまで仲良かった人とぎくしゃくしてしまったりしますし、ホント嫌だなっていう気持ちになるんですよね。

 

 とにかく、作中の誰と誰が付き合うか?といった場合、「誰だったらしっくりくるのか?」というような概念があり、それに見合わないとおそらくなんらか批判が生まれます。

 「あずみ」なんかでは、結局あずみというスーパーヒロインに対して妥当な男が見つからなかったのか、あずみのことを好きになった男たちが次々に死んで行きます。その後、続編の「AZUMI」では、坂本竜馬とその時代のあずみが惹かれあうという展開があり、「なるほど!あずみに匹敵できるのは、同じく小山ゆう作品の主人公であった竜馬か!」と膝を打ったものですが、竜馬も結局死ぬので(史実なので)、結局あずみに対する適切な伴侶という概念は定まらぬままです。

 

 男が主人公ならば、次々に浮名を流しても読者に許容されがちな気もしますが、女が主人公の場合はなかなか難しいことです。その主人公が完璧であれば完璧であるほどに、どんな男も妥当と判断されないかもしれません。

 ここに食い込むのは「ハッピーマニア」のシゲタだと思うのですが、シゲタは理想の恋人を探して、様々な男と付き合います。その傍らにはずっとタカハシというシゲタのことをずっと想っている男がいます。シゲタはなぜタカハシではダメなのだろう?と僕が高校生ぐらいのときには思っていました。それはきっとタカハシならしっくりくると当時は思っていたからです。

 しかしながら、シゲタはハッピーの探求者として、タカハシを選ぼうとせずに、他の男の方にばかり走り、そして失敗し続けます。で、最終的にはタカハシに行きつくわけじゃないですか。妥当なところですよ。でも、それに対する疑問を抱えたままお話は終わるわけじゃないですか。そして、この前描かれた「後ハッピーマニア」はそんなタカハシの浮気(というよりは本気)によって離婚するかどうかという話になります。

 しっくりくるかどうかなんて客観的な話でしかなく、主観的にはいかにそれが一時運命のように思えたとしても、いずれ破綻したりもするわけです(もちろんしないこともあります)。

 

 「運命の相手」の存在の否定ということは、青年誌では割と描かれがちな主題です。「シガテラ」では、主人公は高校生時代には恋人とゆくゆくは結婚し、一生添い遂げるような想像をしていましたが、最終話ではお互いに別々の相手を見つけ、別々の幸せを獲得しようとしています。

 「この人でなければならない」ということは、一時そう思うことはあったとしても、本当に永遠にそうであるかどうかとはきっと関係ないのではないでしょうか?やっぱり、そうでない!と思ったら別れればいい話ですし、そう思ったときにそうできない方が不幸であったりもすると思います。

 ハッピーマニアで言えば貴子の立場です。自分の人生には「正解の選択」が存在するものであり、やっと見つけたその選択に必死でしがみつかなければならないという幸せの獲得方法は、その時点で不幸の入り口なのではないでしょうか?

 

 それは正しい相手を選ぶ正しい恋愛です。「ボンボン坂高校演劇部」では終盤に差し掛かり、主人公を好きと言っていた女の子たちが次々に新しい相手を見つけだし、正ヒロイン然とした先輩が残ります。それが悪いわけじゃ全然ないんですよ。でも、正しさのある恋愛だなということを思います。

 一方、「いちご100%」では、一番の正ヒロインオーラを出していた東城ではなく、西野が選ばれました。この選ぶ選ばないという概念も、選ばれるとされてしまう側からすればよくないものだなとは思うのですが、今はそれはいいとして、この選択は、物語の「しっくりくる」という圧力から主人公が抜け出して、自分の意志を表明したようなところがよかったように感じました。

 先日掲載されたスピンオフ続編の「いちご100% EAST SIDE STORY」では、その後の東城が描かれるわけですが、安易に別の男と付き合わせるということも難しいのか、選ばれなかった側の立場と気持ちの供養が大変というようなものを読み取ってしまいました。

 

 読者としてしっくりくるかどうかというのは、何らか持ってしまうものではないかと思います。「究極!変態仮面」で主人公の狂介が、最終回で愛子ではなく春夏と結婚していたことに、なにかしっくりこないものを感じたりしませんでしたか?(なお、文庫版ではこの経緯が加筆されています)

 ただ、そのとき、胸のうちにあるのは、主人公たちがそれで幸せかどうかではなく、あれだけ色んなエピソードをやっておいて、結局違うんかい!?という妥当性の話でしかないんじゃないかと思います。

 

 現実の恋愛とかにそういう妥当性みたいなものを適用しようとすると、ホント気が重くなるような気持ちになるじゃないですか。個人の気持ちはないがしろにされ、第三者視点からの正しさで結論を導かれてしまうのはおそろしい話です。

 

 この辺の面倒くささを凝縮したのがビアンカ・フローラ問題だと思っていて、ビアンカは十分妥当な理由を持っていて、さらにビアンカを選ばなかった場合、ビアンカはひとりで生きることが示唆されます(一方、フローラにはアンディがいる)。誰を選ぶか?にも選ばなければどうなるのか?にも、ビアンカを選ぶのが妥当そうな条件がそろっているわけです(リメイク版では子供の頃にフローラと出会うエピソードの追加や、3人目としてデボラが追加があり、若干緩和されている向きもありますが)。

 自らの意志で好きな相手を選ぶなら、ビアンカを選んでも、フローラを選んでも、デボラを選んでも、全て正解だと思うんですけど、唯一、妥当性や同情心を根拠にビアンカを選ばざるを得ないということは間違いなんじゃないですか?というのが、冒頭のツイートで30代男性が3人(当時は既婚1人、独身2人)集まって揉めていた内容です。選ぶということも、自分と結婚しなければ不幸になるというような認識も、実は傲慢な話かもしれません。

 ちなみに僕は息子と娘の髪の色が金になるのがよかったので(スーパーサイヤ人みたいでカッコいいので)、ビアンカ一択という選択でしたが。

 

 漫画を読んでいて、お話の中で誰と誰が付き合ったり別れたりをしていると、色々思うところがあるんですよ。それは自然に思ってしまうことがあるんですけど、それはあくまでなんとなく、第三者視点で適当に妥当性を勘案して思っていることなので、お話の進行はそれに従わなくていいよなあという気持ちがあります。

 「モンキーターン」で波多野が、幼馴染で、家が隣で、窓を開けばお互いの部屋が見えるような正ヒロイン然とした澄ではなく、競艇の学校で出会った青島の方を一時選んでしまったとき、結局、最後は澄のところに戻ってくるものの、青島を選んだところで、好きになってしまったことそれ自体は悪かったわけではなかったと思うんですよ。それがばれたときに澄の目がめちゃくちゃ怖かったですが、だとしてもですよ。ただ、嘘をつくのはよくないですが…。

 

 「からくりサーカス」では、白銀と白金の兄弟の両方がフランシーヌを好きになりますが、白銀と惹かれあうフランシーヌを見た白金は、暴力的にフランシーヌをさらってしまうわけじゃないですか。そのときの理由を覚えていますか?「フランシーヌは僕が最初に好きになったんじゃないか、それを横からとるなんて、ダメだよ、兄さん」ですよ。ここが妥当性ですよ。

 先に好きになったかどうかということは、当人同士の恋愛には何の関係もないことです。白金の心の中だけにあるストーリーのしっくりくる感じだけに寄り添った感覚です。そこで、白金は自分の中だけにある正しさを優先させ、他人の気持ちをないがしろに扱ってしまったわけじゃないですか。そして、これをきっかけとして、とてつもない不幸を世に生み出してしまったわけじゃないですか。

 

 そういうことを思い返しつつ、漫画を読みながら、ようし、僕にも色々思うところはあるが、君たちは好きに恋愛をしろ!!と思ったという話でした。

続・漫画における天狗の抜け穴の話

 以前、ドラゴンボールの作劇のテンポの良さの影には「天狗の抜け穴」的なところがあると思うという話を書きました。

 

mgkkk.hatenablog.com


 「天狗の抜け穴」というのは僕の中だけの概念で、キテレツ大百科に出てきた発明品の名称を拝借しています。この発明品の説明として「紙の上に書かれたA地点とB地点を繋ぐ最短の方法は、その間を直線で繋ぐことと思わせて、実は紙を折り曲げてくっつけてしまうことだ」という考え方が登場します。

 つまり、物語における天狗の抜け穴とは、このようにA地点(原因)とB地点(結果)を、間をすっとばして直接繋げてしまう概念のことです。これを導入することによって、過程を省略して結果だけ得ることができるという便利な技法です。

 

 最近、漫画を描こうとするようになって、物語をつくる上でこの天狗の抜け穴という概念についてまた考えるようになったので、その話を書きます。

 

 おさらいですが、例えば、ドラゴンボールにおける「瞬間移動」の導入は、物語をテンポよく進めるための大発明だと思います。なぜならば宇宙や、あの世などに広がった物語の舞台を、「時間をかけて移動する」という過程を省略して、いきなり目的地に到達できるようになったからです。

 僕自身、漫画を描いてみようとしたことで、このすごさがより実感できるようになりました。なぜならば場面転換の描写は意外と手間がかかり、面倒くさいのです。

 移動するのには時間もかかりますし、手段も必要です。そしてわざわざ移動するための理由も必要しょう。加えて結構気になるのが、なんでこの話を移動中にせずに、移動完了して場面が変わってからするんだろう?と思ったりしてしまうということです。これらを妥当性あるように描こうとすると、すぐに何ページも費やしてしまいがちです。しかし瞬間移動なら、ちょっといってちょっと話して帰ってくるなんてことも可能ですし、時間が経っていませんから、会話も途切れずに継続することができます。これはめちゃくちゃ便利で欲しいギミックだと思いました(世界観が合わないと導入は無理)。

 ドラゴンボールの連載は他の連載よりもページ数が少なかったと思うのですが、にもかかわらず1話1話が物足りないということはなかったという実感があります。それは、無駄な描写を可能な限り減らし、物語の進行上必要不可欠な「実」の部分だけを描こうとするような姿勢があったからではないでしょうか?

 

 漫画の中にはこのような天狗の抜け穴(本来必要なはずの過程を省略して結果だけを得ることができるギミック)が存在することが多いです。例えば、ジョジョの奇妙な冒険における「スタンド能力」もその一種だと思います。

 ジョジョシリーズは、絵作りにこだわっている漫画だと僕は思っていて、作中にはタイトル通りの奇妙なシーンが沢山でてきます。普通に生活している上では見ることがないような奇妙な光景を、物語の中で描写するにはそうなる理由が必要です。それをこの物語の中では「そういうスタンド能力である」とすることで解決することができるようになりました。これと同じことを科学的に整合性のある理屈をつけ、そうなるべき理由から筋道立てて考えるやり方で実現するのは骨でしょうし、表現の幅も狭まるはずです。

 これは、ドラえもんの「ひみつ道具」に置き換えてもいいですし、魁!男塾の「民明書房」でも、HUNTER×HUNTERの「念能力」でもいいと思います。物語の中にはよくこのような都合のよいギミックが登場します。それらはなぜそうであるかという説明を代替し、過程を省略して結果を描写してもよいという言い訳を与えてくれます。

 

 ちなみに、全編に渡ってこの天狗の抜け穴を存分に発揮している漫画の代表的例がキン肉マンではないかと思います。作中で移動させたければ地面にいきなり穴が空いて地球の裏側にだって行けます。これはばかばかしい描写と思われるかもしれませんが、今の時代、このような豪胆なことはなかなかできないことです。

 例えば、あなたが物語の展開上、人をひとり地球の裏側に送りたいならどうします?飛行機の描写とかしてしまうのではないでしょうか?空港を描いて乗り込んで、機内で長時間を過ごす描写を入れて、乗り継ぎなんかも描いた方がいいかもしれません。着いた先ではまた移動です。乗り合いバスでやっと到着した勝負のリングに辿り着くのは少なくとも十何時間も経った後です。疲れているし、テンションも下がっているかもしれません。じゃあどうしますか?いきなり穴を開けて一瞬で移動させるしかないじゃないですか。

 

 自分で描いてみようとすれば、起承転結の「承」ばかり続けて描いてしまうことに気づいてしまうんですよ。それにはすごく反省ばかりしています。「承」は主にお話の整合性をとるために働きます。ある描写と別の描写を繋ぐ中間です。その存在自体は重要ですが、「承」ってあまり面白くはないと思うんですよね。であるならば、全体のページ数を考えれば、少々強引に思えてもできるだけ「承」を省略して「転」の描写を厚くとった方がいいはずです。それをどうやって減らせばいいかということに僕にはまだノウハウがなく、この先、身に着けていきたいと思っているんですよ。

 

 ただし、天狗の抜け穴は漫画を描写する上で非常に重要なテクニックだと思いますが、万能ではありません。例えば、推理小説を描く上で守るべきルールと提唱された「ノックスの十戒」には「中国人を登場させてはならない」というものがあります。ここでいう中国人とは、天狗の抜け穴的な役割を担ったものでしょう。謎の中国人のしわざとして論理の隙間を埋められてしまうことは、読者が謎の真相を推理する上で不誠実と考えられるからです。

 筋道立てて理屈を考えることは読者に対して誠実ということかもしれません。しかし、それは場合によっては不必要に冗長でテンポが悪いと感じられてしまう可能性もあります。一長一短あるわけです。

 

 「必要な部分を十分に描写するためにも、不必要な部分をできるだけ省略すること」、それはおそらく短いページで物語を展開させる上でとても大切な技法でしょう。しかしながら同時に、あまりそればかりやり過ぎると筋を追うことに虚しさを感じてしまうかもしれません。安易に使うのもリスクがあります。

 

 さて、料理漫画の「めしにしましょう」でも、回を重ねたことで天狗の抜け穴が登場し始めました。例えば、部屋に何故か存在する「穴の開いた謎の物体」からいきなり食材が出てくるのです。短いページで1話完結かつ、料理の工程を描くことが重要な本作において、これは「材料を入手する」という工程の描写を省くことが出来る強い天狗の抜け穴です。料理漫画を見れば、材料を入手する工程というのは、一般的に重要視されていることも多いはずです。特に変わった食材であればなおのことです。

 めしにしましょうは、そこに思い切った省略を入れることで、集中すべきポイント(料理の詳細な工程)を明確化しているように思います。その割り切りが素晴らしいなと思うのです。

 

 そう考えてみると、実は他の種類の漫画でも大胆に省略できる部分はあるのではないでしょうか?本来必須要件と思われているような要素を大胆に省略することで、節約されたページを別の部分の描写に集中させることができます。

 「哭きの竜」では麻雀漫画に大切思われる闘牌を大胆に省略してみせることで、麻雀卓の上と外に乗った人間の人生を強く描くことができました。何を描くか?ということを考えるには、もしかすると何を描かないかを考える必要があるのかもしれません。

 

 デスゲームものと呼ばれる、多人数が殺し合いをするタイプの漫画も、「何故」を説明する最初の説明が省略され、いきなり殺し合わなければならない描写から始まったりします。

 何故戦わなければならないかという動機を最初に丁寧に積み上げていくことよりも、命をかけて殺し合うという描写がまず大事だという省略の技法でしょう。殺し合わなければならない理由の部分にあるのが天狗の抜け穴です。それは実は最終的に何も説明がなくてもいいのかもしれません。事実、デスゲームに巻き込まれた人々に対する「何故」が、物語の最後の最後にようやく説明されるとき、そこでは実はあまりお話として盛り上がらなかったりすることもしばしばです。

 

 この文章は、今描いているの漫画に対する反省の意味があって、8月のコミティアに出す用の漫画が一応最後まで描けたので、あとは細かな修正をしたり、仕上げをしたりという工程に差し掛かったのですが、今考えればこの描写はいらなかったんじゃないだろうか?これは何を描きたかったお話で、そのためには何を描かなければよかったのか、ページの配分を考えてもっとこの描写を厚くしておけばよかったのでは?という反省会モードが既に始まっています。

 とりあえず印刷〆切のギリギリまで(まだ1週間以上ある)試行錯誤をしてみようと思ったりしている次第です。