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映画「ドリーム」をダシにした価値あるものを価値があると言い続ける話関連

 「ドリーム(原題はHidden Figures)」は、アメリカのNASAの宇宙開発計画の中にいた3人の非白人女性を描いた物語です。原作はノンフィクションで、それは、コンピュータという言葉の主たる意味が、現在のように計算機械のみではなく、まだ数値計算を行う人間のことも意味していた時代のお話です。彼女たち3人はそれぞれの立場で、NASAにおける宇宙ロケット計画に貢献しました。そんなノンフィクションを元にして、描かれた物語がこの映画です。

 

 この映画、すごくよかったですが、よかったところのひとつは、「価値があるものに価値があるということを認めさせるには、それに価値があると言い続けなければならない」ということを思ったことでした。これがなかなかできないわけですよ。これには価値があると認めるべきだと主張しても、こつこつ壁にあたって、気持ちが萎えていくものじゃないですか。少なくとも僕はすぐに諦めてしまうので、これは僕にとってはすごく価値のあるもので、僕は価値があるとすごく思うけれど…でも、世間ではそうでなくても別にいいやと諦めてしまったりしています。

 彼女たち3人は計画を遂行する上で価値のある女性でした。ロケットの軌道計算を行う上で力を発揮するキャサリン、エンジニアとして関わったメアリー、非白人の計算士たち(コンピュータ)を取りまとめIBMの計算機械(コンピュータ)を使えるようにしたドロシー、それぞれが非凡な役割を果たし、マーキュリー計画を成功に導くために尽力しました(もちろんその後も活躍するでしょう)。

 しかし、そんな非凡な彼女たちの前に立ちはだかるのが非白人であるという差別的障害です。その部署においてたった一人の非白人であるキャサリンは、重要な会議に出席させてもらえず、飲むコーヒーもトイレの場所も別。その能力を十分に発揮する環境をなかなか整えて貰えません。メアリーもエンジニアとしての資格を得るためには、白人専用の学校に通う必要があると突っぱねられます。ドロシーは管理職相当の仕事をしていながらも、管理職としてのの立場も報酬も得ることができません。

 彼女たちの前には白人か白人でないかということが立ちはだかってきます。それは彼女たちの仕事について関係のあることでしょうか?彼女たちが発揮した数学的、工学的、計算機科学的な能力に人種が関係したでしょうか?それらの区別は非人道的であり、意味がないということが理解され、共有されていく過程が物語の中で描かれます。そしてプロジェクトが成功したとき、その影に彼女たちの姿が不可欠であったということが示されます。

 それは彼女たちに価値があることを認めた人々がいたからこそ成し得たことでしょう。この映画が反人種差別の物語かと言えば、それを言い切るのはなかなか難しいところです。なぜなら、彼女たちが非凡な存在だからです。差別をなくすということは、たとえその人の能力が求められるものに対して低かったとしても、その人の人格が悪辣に見えるものであったとしても、それでもなくすということだと思うからです。被差別者であったとしても、有能ならば例外として扱われるということは、差別構造の撤廃という遠大な目標にはまだ遠いことです。

 その意味で、この映画ではまだ差別が解消された情景が描かれたわけではないでしょう。しかしながら、作中でも言及されているように、その最初の1人になったということの意義があるはずです。例えばメアリーは白人の学校に入学した初めての非白人となることを勝ち取りました。先例は次の例を、そしてさらに次の例を生み出し続けるための重要な一歩です。

 非白人に対する差別というものは、未だなくなったものであるとは言い難いでしょう。作中の舞台になった自体から半世紀以上が経っても、人間と人間が、同じ人間であるということだけで完全に平等になるということは難しい。「差別はいけないことだ」、そのお題目を誰しもが認識していたとしても、実際はそうはならなかったりするわけじゃないですか。

 

 結局いつの時代もどんな場所でも、何かに価値があるということになるためには、誰かがその何かに価値があるということを主張し続けなければならないのではないでしょうか?それをやり続ける人がいなければ、その価値は容易に世間から忘れられ、消え去ってしまったりするのではないかと思います。

 

 さて、話は変わりますが、ここしばらく劇画狼さんの動向を尊敬しながら見ているということがあります。僕はここ1年ぐらいで梶本レイカの漫画がすごく好きになったので今も連載を追いかけているのですが、梶本レイカは「コオリオニ」の出版後、一度漫画家を廃業しており、そこから復活したわけですよ。その裏に劇画狼さんの活動があったわけですよ。なぜ廃業したかというと単行本が売れなかったからだそうですが、僕が「コオリオニ」の単行本を手に取ったときには既に廃業宣言が出ており、それを知ってとてつもなく悲しくなったわけです。

 それはきっと面白いとか面白くないとか、それを判断される前に、十分な数の人に読まれる前に決着してしまったことです。僕は連載時には、単行本が出てからも、その存在すら知らなかったのですから。

 僕がその単行本を手に取ったのは、知り合いのおすすめからなのですが、おそらく劇画狼さんによる「コオリオニ」激プッシュの結果が巡り巡ったことだと思っていて、そして、そこからの梶本レイカの復帰と新連載の開始ですよ。「悪魔を憐れむ歌」ですよ。単行本も出るわけです(12月には2巻も出ます)。

 

 その漫画に価値があると、それが手遅れのようなタイミングであったとしても言い続けた人がいるわけでしょう。それがどれほどの価値がある行為かって話ですよ。なんせその結果、新しい漫画が読めるんですから。単行本も出るんですから。

 

 僕は物分りのいい人間で、それは裏返すとどうかというと、すぐ諦めてしまうような人間なんですよ。好きな漫画の単行本が途中でなくなっても、そもそも単行本化されなくても、悲しいなあと思いながら我慢してしまいます。

 例えば、3巻以降単行本が出なかった「69デナシ」や、そもそも単行本が出なかった「博打流雲ナグモ」です。これらはのちのちコンビニ本で出て、買って、嬉しくなってしまったりしましたが、その前に、そうなる前に、もっとこの漫画は面白いと価値があると言うべきだったし、それをもっと共有すべきだったんじゃないですか???って思うわけじゃないですか。

 

 劇画狼さんは現在、谷口トモオの「サイコ工場」を復刻中です。谷口トモオもまた漫画家を既に廃業しており、元原稿も処分されてしまっていたものを、掲載誌の方からスキャンして復刻されているそうです。

 梶本レイカ漫画と谷口トモオ漫画には劇画狼さん以外にも共通点があると思っていて、それぞれに強いファンがいたということです。梶本レイカにはコオリオニbotさんが、谷口トモオには山本ニューさんがいます。梶本レイカファンブック(同人誌)や、サイコ工場のあとがきにおける作品解説を読むと、まあ詳しい。ほんと詳しく網羅的にこれまでの作品を追っていることが分かります。これまであまり人知れなかったとしても、ずっと追ってきていた人がいるという事実があるわけじゃないですか。

 

 ものは残らないし、ことも残らない方が普通です。技術の分野でも会社は存続しているのにその中で失われた技術があったりします。その詳細がもう誰にも分からないものなんてのもあったりするんですよ。それは伝わらなかったわけです。それに価値があることを認め、引き継ぐということを誰もしなかったということです。

 世の中のほとんどのものはきっと残らないわけですよ。今残っているものはきっと、どこかの誰かがそれに価値があり、残すべきだと思った結果です。良いものだから残ったわけじゃないでしょう。それを良いものだと認めて、後世に残すべきだと思った人たちが、残すための活動をしたからこそかろうじて残っているに過ぎないのではないかと僕は感じています。

 それがなければ、仮に世の中のどこかに物理的には残っている本でも、ないことと同じじゃないでしょうか。

 

 僕が日々、何かを買った、読んだ、面白かったと言い続けているのは、そのための微力です。微力でも、それが面白かったということ、自分にとって価値があったという事実を、残しておくべきじゃないかと感じているがゆえのことですよ。もし、自分がこんなにも面白いと思っているものが、大して知られないままになくなってしまったりしたら、とても悲しいじゃないですか。

 僕が今している話は、「価値あるものを見つける目がない大衆どもが…」みたいな話ではないんですよ。漫画ひとつとっても世の中に無数にあり、毎日たくさんの新刊が出ています。僕が知らない漫画も無数にあって、それらが知られすらしないままに消えていくことだってきっとあるでしょう。

 僕もまた見る目がなく探す力もない人間のひとりなわけです。でも、せめて自分が面白いと思った漫画についてぐらい、これには価値があると言うしかないじゃないですか。それにどれほどの力があるか、いや、きっとほとんどないんでしょうけど、それでもやらなければ確実にゼロなんですから。

 

 価値があると自分が感じたものについては、価値があると言い続けていきたいなと、それをそうしている人を見て思ったし、自分もできるだけそうしていきたいと思っているという話でした。