漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

大きな本屋やホームセンターに行くと自分が平凡な人間だと思う話

 大きな本屋とホームセンターは似てるなあって思うことがあるんですけど、どういうことかというと、そこには実は自分にとって過不足ない品ぞろえがあるということ、そして、目的を持たないとその事実に気づけないということです。

 

 何か興味を持ったとき、それについての本を読みたいと思って本屋に行くと、棚を見ればちゃんとその関連の本があることが多いです。棚の数は有限で新しい本はどんどん入荷するので、必然的に古い本はどんどん本屋からなくなってしまうものだと思います。なので、探しているのがある特定の本である場合、その本がその本屋には既にないこともあるんですが、ただし、それに関連する別の本は見つかったりもします。本屋に行けば何かしらはあるんですよ。そういう感じの品揃えに保たれているのが大きな本屋なんだと思います。

 つまり、何かについて知りたいと思ったとき、なんとなく手ぶらでも、大きめの本屋に行って関連する本棚を見れば、何かしら参考になる本があるので助かります。これはすごくありがたいことです。そして同時に、自分が知りたいことというのは、ちゃんと既に網羅されている枠組みの中にあるんだなあと、お釈迦様の掌の上を自分が一歩も出ていないことに気づいてしまいます。

 

 ホームセンターも同じです。何かの作業がしたくて必要な工具などを探しにいくと、結構マニアックなことをしたいと思っていても、それに特化した便利な工具が売っていたりします。それを見つけた僕は、そうそうこれが欲しかった!と思ったりします。ありがてえありがてえと感謝しつつ、その便利な工具を手に入れるわけですが、ただ、その工具は僕が欲しいと思う前からずっとその店にあったんですよね。にもかかわらずそれまでは気にしなかったし、目に入らなかったんです。その工具を欲しいと思う状況になるまでは。

 

 気づいてみれば世の中は既に意外と至れり尽くせりで、自分の行動と発想は、だいたいその範囲に収まってしまっています。人間ですから個性はあるにはあるでしょうが、僕の個性はさほど特殊でも特別でもなく、既に存在する枠に収まっているんだと思います。つまりは、平凡な人間です。そうであることは別に嫌ではなく、よかったと思います。世の中は枠の中に収まっていれば大体生きやすいからです。

 

 もし仮に身長が5メートルあったら、特殊で特別で明らかに普通の枠に収まっていないですが、おかげで生きるのが大変になる気がします。家も特別に天井が高いものでなければ腰を曲げて生活しないといけませんし、自動車や電車にもとても乗りづらいでしょう。

 社会は、平均的な人からある程度のマージンをとった枠の中に収まる人(それが世の中の大勢を占める)にとって都合がよく作られがちなので、特殊で特別であれば、生活がしにくくなってしまう可能性が高まると思います。特殊で特別であるというメリットもあるでしょう。しかしながら、デメリットもあるということも無視できないのです。

 

 さて、僕のように平凡な人間が、とりたてて何かをしようなどと思っておらず普通の生活をしているとき、世の中に必要とされるものの範囲は極小になってしまう気がします。世の存在する多くの本や工具について、それが必要でないシチュエーションにいる場合には、無価値と判断してしまう可能性が高いです。無価値ということは、つまりなくてもいいということで、実際、何かについて知りたいとか、何かを作りたいとか思わなければ、それらの価値に僕はずっと気づかなかったかもしれません。あってもなくても同じであったかもしれません。

 自分にとって無価値のものを排除していっても、人はきっと気づかないでしょう。毎日通る道で何かの建物の解体工事をしている様子を見たとき、そこにそもそも何があったのかを上手く思い出せないことがあります。それは毎日見ていたものの、そこに通うでもなく、思い出もなく、ただ存在していただけで、自分にとって無価値だったからこそ思い出せないんだと思います。なくなったとして、「なくなったんだな」と思うだけで、だからどうということもありません。

 ただ、もし、何らかの目的を持ち、その価値に後から気づいたときに、それは手遅れになってしまっています。手遅れになったとき初めて、それがそこにあったということが豊かであったことに気づけるのではないでしょうか。そして、一生それに気づかずに終わるものの方が多そうです。

 

 僕が今書いている文章を読んで「自分が価値を見いだせないものでも、実は今気づけないだけで価値があるものだから頑張って残すべきだ!」という意味合いを読み取った人がいるとしたら、それは間違いです。もし、そう読まれてしまったのだとしたら多分僕の書き方が悪いですね。

 僕はそれらを残すべきだとは全く思っていません。ただ、なくなったものの価値にあとで気づいたとき、既になくなってしまっていて悲しいなあと思ってしまうということです。そして、世の中は色々なくなりつつも、意外と代替になる別の何かは残っていて、僕にとっては実はそれで過不足ないと思うということだけです。

 

 色んなものがなくなります。そして、なくなっても問題なく生きている自分がいます。なくなって悲しいなあと思うことはあります。でも、生きるのに問題はありません。代わりの何かが十分にあり、それで過不足ないからです。それは僕が平凡だからでしょう。平凡でよかった。

「BILLY BAT」の最終巻を読んで思ったことについて

 先週「BILLY BAT」の最終巻が出て読んだので(連載でも読んでましたが)、とりあえず今の時点で思っていることを書きます。

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 正直なところ浦沢直樹の「BILLY BAT」という漫画がどういう漫画なのかということをいまひとつ諒解できぬままに連載を読んでいました。物語の部分部分における登場人物たちの行動や感情、状況の展開には興味を引かれ、「ああ、面白いなあ」と思いながら読んではいたものの、では、この漫画がいったい何を描いているのか?今読んでいるこの展開は全体の物語の中で何の意味を持つのか?ということが上手く掴めないままにただただ連載を追っていくような感じだったのです。

 

 この物語の中心にはBILLY BATという漫画があります。それは様々な描き手の手を経て長い間描かれ続けた漫画で、その歴史の祖を辿れば、太古の昔にある一人の原始人が見たコウモリの姿に由来します。後にビリーバットと呼ばれるその存在は、物語の描き手を始めとする様々な人々の元に姿を現し、様々な意味ありげなことを伝えては、人々を惑わします。ビリーバットの登場する漫画は、さながら予言書のように、その後に起こることを言い当ててしまったりします。果たしてビリーバットという存在とはいったい何なのでしょうか?ビリーバットは人の歴史と共にあり、そしてどこへ向かうものなのでしょうか?

 

 さて、最終巻を読み終わって思ったことは、この漫画は「漫画を描くということ」、そして「その漫画を誰かが読むということ」そのものを物語にしたものではないか?ということです。

 ビリーバットの描き手は、ビリーバットにせかされるように漫画を描き、そして、その内容が現実になってしまいます。その力は過去にすらおよび、ビリーバットの力は過去を描きかえることもできてしまいます。なぜビリーバットにはそんな力があるのでしょう?その謎は作中では明確には描かれませんが、僕の解釈では、それはこれが「漫画だから」です。

 当たり前だろうと言われればその通りなのですが、漫画だからこそ、そこには現実とは異なる独特の時空の観念があると思うのです。漫画では基本的に「過去とは現在よりも後に生まれるもの」です。つまりどういうことかというと、物語の冒頭、第一巻の最初こそが漫画の時空の上では最も古いものであり、その後に冒頭以前の過去が描かれたところで、それは時系列では過去だったとしても新しく生まれたものと考えられるということです。

 そのように過去が新しく描かれることで、より古い現在が別の意味を持つことがあります。これはモンタージュの技法のようなものです。同じシーンであったとしても、その前に何を見たかによって解釈が変わってしまうかもしれません。新しい過去が付け加えられたことで、古い現在が初読のときと異なる解釈ができるようになるかもしれません。それは作者によって予め決められていたことかもしれませんが、場合によっては後付の設定かもしれません。

 でも、それは読者には関係ないのです。作者が空白にしておいた過去を、途中でようやく具体的に埋めたとしても、それは読者からは不可知の領域で、最初からあったことと同じになってしまうでしょう。もしかすると、それは設定に矛盾を持つようなもので、辻褄が合わないことから、新しく作られた過去と気づいてしまうものかもしれません。でも、それは間違っているのでしょうか?

 設定の矛盾があったとして、それは過去が現在よりも昔にあるはず、つまり変えられないものであると思い込んでいるからそうなのであって、漫画の時空において過去が現在よりも新しいものであるとするならば、それは矛盾ではなく、過去が変わったということと捉えられるかもしれません。もしかすると「BILLY BAT」が描いているのはそのようなことではないかと思いました。

 

 人の歴史と寄り添うビリーバットは「人間が生き残っているのはもうこの時空だけだ」というようなことを言います。他の並行世界では人間は絶滅してしまい、この世界だけが最期に残ったものであるというのです。これが「漫画」であるという解釈をした場合、それが意味することは、漫画家・浦沢直樹がこの物語を描いているということに他ならないのではないでしょうか?

 この漫画を原稿にする前であるならば、そこには無数の可能性があったはずです。どのような登場人物が、どのように行動し、どのような結果を招くか、そこには無限の選択肢があったはずです。しかし、実際に描かれたものはひとつです。それが、この物語であり、この時空です。他の無数のありえたかもしれない世界は、作者・浦沢直樹がそちら展開を選ばず、こちら展開を選び取ったということから、消えてなくなってしまいました。描かれたものが全てなのです。他はあったかもしれませんが、もうないのです。

 

 では、ビリーバットとは何でしょうか?それはこの物語の大まかな行先を指し示すインスピレーション、あるいはプロットとも言えるものではないでしょうか?「BILLY BAT」が最初に描きはじめられたとき、この物語はどこに向かいどのように終わるべきか、大まかにでもそのプロットがあったはずです(漫画によってはない場合もあるでしょうが)。行く先を指し示す水先案内人がビリーバットだとして、漫画家はその通りに漫画を描こうとするはずです。しかし、漫画は必ずしもプロット通りに進むものではないかもしれません。

 

 僕はこの前、頑張って漫画を描いてみたのですが、その作業は完全に難航してしまい、最終的に最初に考えた話に到達することができませんでした。それはろくに漫画を描いたことのない僕の実力不足ではありますが、同時に自分自身の描く漫画の読者としての、納得できないという感情の結果でもあります。物語の筋を立て、キャラクターを作ってお話を進めていったとき、プロットとしてはこちらの方向に舵を切るべきですが、どう読んでもキャラクターの感情としてその方向に行くという下地が整っていないように思えて描けなくなってしまったのです。なので、そうせざるを得ないように状況や言葉を後付けで重ねてみるのですが、そうすれば辻褄は合うものの、思ったように話が進めることができません。

 このキャラクターはなぜここでこのようなことを言うのか、そしてその結果、別のキャラクターは何を思うのか、読者としてみれば、その辻褄が合わなければ気持ち悪く感じます。話の筋だけを優先させ、無理矢理に舵を切れば、そのためにキャラクターたちが支離滅裂な行動をとるように読めてしまうからです。描く前は空白であったキャラクターたちに何かを喋らせ行動させようとすると、描いたことで立ち位置が安定する代わりに自由度が失われ、僕には上手いこと制御できなくなりました。とはいえ、なんとか描き上げ、最終的に自分の中でなんとか辻褄は合わせましたが、結果的に物語は最初考えていたところと全然違うところに到達してしまいました。

 これを「キャラが勝手に動いた」と言うかというと、全然そんな高等なものではなく、もっとレベルが低いそれ以前の話で、最初にもっとちゃんとキャラクターを含めてお話を考えておけよというだけのただただ拙い話です。そして、プロの漫画家さんはこの、「キャラクターとして破綻させずにプロット通りに話を進行させる」ということをちゃんとやっているのだなあと僕自身の技術なさを痛感したという話です。

 どうでもいいですが、そのとき描いた漫画はコミティアに出したあと、ネットにもアップしてみました。

www.pixiv.net

 

 複数の漫画家さんのインタビューなどを読む限り、長期連載の漫画では、しばしば、当初の予定とは異なった話の進行が生まれるということがあると思います。あるいは、当初はもっと短くするはずだった話が、非常に長くなってしまったりしたという話も目にします。

 ビリーバットがプロットだとするならば、作中の漫画家たちはそれに沿いつつも、新しい何かを生み出している存在と言えるかもしれません。ビリーバットの指示に従っているように見えて、実際にこの物語を紡いでいるのは、各々のキャラクターたちなのです。彼らは物語に動かされる立場でありつつ、その物語を作っている当事者たちなのです。

 

 ビリーバットの結末は、物語の途中で既に作中漫画として示されていたものに沿っています。到達すべきとろこは既に示されており、後はどのように到達するかです。ビリーバットには「白いビリーバット」や「黒いビリーバット」がいて、それぞれが別々の人を動かすための指示を与えていると話されます。しかし、最終巻ではそれは元々ひとつであるとも語られます。

 物語の登場人物たちが異なる意図のもとに動かされつつも、その実、それはひとつ所に向かうためのものであるということは、物語を作るということそのものかもしれません。こうあるべきとして示されたビリーバット託宣に従い、それに沿うべきか、沿うのだとするとどのように沿うべきなのか?あるいは、そこから外れた道を選ぶこともまた必要なのではないか?そのような葛藤が、「BILLY BAT」の物語の中にはそのまま描かれているのではないかと思いました。

 

 これは漫画です。漫画とは、作者が描き、読者が読み、連載というその相互作用の中で、予め綺麗に完成されていたものだけではなく、作者自身にもどこへ向かうのかが分からないものもあり、そして、分からないのに最終的になぜか綺麗に収まってしまったりもする不思議な物語であったりすると思います。連載という荒波の中を何年も泳ぎ、最後までたどり着いたのがこの「BILLY BAT」であり、それはその結末だけではなく、何年もの間、作者と一緒に泳いできた読者の体験そのものでもあるかもしれません。

 

 この物語は、作中漫画のBILLY BATが人に影響を与え、未来を変える力を持つという結末を迎えます。作中では特に「紙の本」に対するこだわりが描かれ、それを反映するように実際の「BILLY BAT」は電子書籍上での展開を行っていません(浦沢直樹作品は電子書籍になっていません)。作中の描写を読む限り、それは、少なくとも今現在の本としての届く範囲の広さへの意識があるのではないでしょうか?

 つまり、ネットに接続し電子版を読める人々と、それ以外であれば、今のところはまだまだ後者が多いということです。読むための電子機器を持ち、ネットに接続して決済をすることができる人は実はまだまだ少なく、そして、電子媒体で購入した本は気軽に他人と貸し借りもできません。そして、スマホでは単ページの表示になりがちで、見開きのページを作者の意図通りに読むこともできません。

 漫画というものが描く作者と読む読者の関係性によって作られるものであるならば、今現在の電子書籍はまだまだ狭い世界です。その意味で、紙にこだわるということは、より広いところに到達し得るものとしての本に対する、何かしらの感情があるのではないでしょうか?その試みが上手くいくかは分かりませんが、僕には理解できるものだと思います。

 

 漫画が人に対して影響を与えるということは、自分が描いた漫画がいかに人に届いたかということを元にして、漫画を描く行為にもフィードバックされるというような、相互影響があるものではないかと思います。「BILLY BAT」が描いているものは、そのような「漫画」そのものの在り方、「漫画が生み出されること」と「漫画を読むということ」によって生み出されるもののことなのではないかと思いました。そこにあるのは描いて描いて描きまくることで切り開くという漫画家のこと、そしてそれを一生懸命に読んで自分自身の一部とする読者のことなのではないかと思います。

 

 もちろん、これらの解釈は僕が勝手になんとなく思ったので、「これが正解だし、こう読むべきだ」というようなものでは全くありません。ただ、僕は漫画を読んでこういうことを思ったということは事実なので、こう思ったということを書きました。

 最終巻を読んだ後、まだ最初から通読もしてはいないのですが、近々NHKの番組の「漫勉」の10月6日放送回で、「BILLY BAT」の最終回が描かれた執筆作業が流れるということで、それを見た後だと、影響を受けて今と解釈を変えてしまうような気がしたので、取り急ぎ、今の自分がこの時点で読者として何を読んだか(それはとても個人的なことです)を記録しておこうと思ってこの文を慌てて書いた感じです。

 

 とても面白い漫画でした。

 

(追記)もうちょっと細かいことの話も書きました。

mgkkk.hatenablog.co

左向きと右向きの顔の描きやすさの差について

 絵を描く人なら陥ったことのあるだろう、顔の向きによる描きやすさ問題というやつがあると思います。左側を向いている絵は描きやすいですが、右側を向いている絵は描きにくいのです。

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 さすがに全く描けないわけではないですが、描きにくいと感じるので、できるだけ左側を向いた絵を描いてしまいますし、逆に僕は右向きも描きますよ!というアピールを込めてあえて右向きを描いたりします。とはいえ描きにくく、上の絵も左右反転してみると、左向きよりも右向きの方が破綻していることがわかります(ただし、特に反転して見なくて良いです、恥ずかしいので)。

 

 本件について、先日の「漫勉」というテレビ番組で、池上遼一氏が左向きの顔の絵を、パソコンで反転して右向きにしているというのを見て、また考えていました。取り急ぎ、池上遼一氏ほどの、絵がめちゃ上手い人でも、やはり右向きの顔の絵には苦手意識があるのかーと思って許された気持ちになりました。なら、僕のような絵の上手くない人間が苦手でも当たり前だし、反転したり色んな技をつかってごまかしても許されるはず!という気持ちになってよかったです。

 ただ、池上遼一氏はめちゃ絵が上手い人なので、右向きの顔の絵も僕なんかからすると十分問題ないと思えるほど上手いのだと思いますが、番組でおっしゃってたかぎり「左向きの方が絶対的な自信がある」とのことなので、読者に最高のものを届けるには、その方がよいとの判断なのでしょう。

 ちなみに、池上遼一氏がどのように漫画原稿を仕上げているかは、「ワイルド&ビューティーの描き方 池上遼一」という本でも解説されており、非常にありがたいものとして読んでおります。

 

 さて、漫勉の中でも言及されていましたが、左右の描きやすさの違いに、手の動きの制約が関係しているのではないかと僕も思っています。それはつまり、方向によって描きやすい線と描きにくい線があるということです。

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 この絵は、それを描いてみたものですが、(1)の右上から左下に向かって線を引くパターンでは、手首を支点として、指の形は固定したままでリズミカルに、同じペースで整った線を描くことがやりやすいですが、(2)の左上から右下に向かって線を引く場合は指を曲げて描くことで、どうしても線が歪になってしまうという事象が発生します。

 であるため、人の顔の陰影をいれる際の斜線は、右利きの人であれば、右上から左下に向かって描いたものが大半のはずです。なぜなら、それが描きやすいからです。この辺の話は、漫画でいうと「ギャラリーフェイク」や「オークションハウス」などの絵の贋作を取り扱ったものにも登場し、贋作を作る人は、元となる絵を描いた人が右利きであるか左利きであるかを考慮して、両方の手で絵を描けなければならないというような話が出て来ます。

 

 利き手によって描きやすい線の方向に制約があるとどのようなことになるでしょうか?

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 この絵の赤で上塗りした部分のように、左向きの顔の絵は、右利きの人にとって描きやすい方向の線で大まかな形をとることができるということが分かります。右向きの顔の絵はそれが反転してしまいますから、形をとる際に、描きにくい線を上手く制御しながら描く必要があり、それは疲れますから、できれば描きたくないと思ってしまいます。

 それゆえに、できれば左向きの顔を描きたくて、左向きの顔の絵ばかり描いてしまうことで、余計に左向きは上達するものの、右向きは上達しないままという悪循環となってしまい、それは自由が狭まりますからよくないなと思ってしまいます。

 

 僕はここにはもう少し問題が眠っているのではないかと思っていて、それは人間は人間の顔を描くとき、凹凸のある立体物としてそのまま描くのではなく、パーツごとに個別に認識して、概念的に描いているのではないかとの疑惑です。

 

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 つまり、右向きの顔の絵を描くときは、描きやすい線をできるだけ使って描けばいいと思うのですが、なぜか、左向きの顔の絵を反転させた線の使い方をしてしまいがちがということです。これは一般的なことなのか、僕個人の傾向だけなのかが判別がついていませんが、とにかく僕にはそういう傾向があります。そこそこ熟練した左向きの顔を描く為の方法を、そのまま右向きの顔を描く為に使っていて、頭の中で左右反転させればいいと考えてしまっているのではないかということです。

 人間の顔を線でどのように表現するかということはノウハウですから、左右で描きにくさが変わったとしても、左右の両方で新しく線に落とし込む方法を考えるよりは共通化した方が楽という気持ちになります。でも、左向きの顔を上手く描く為のノウハウは、当然線の使い方が左向きの描きやすさに則っているために、逆に使うとしんどくなってしまうのです。

 また、前述のように特に顔は記号的に捉えてしまっていますから、その傾向が強く、自分の中の「目というのはこう描く」「鼻というのはこう描く」ということが固定化してしまっています。これが首から下の体であれば、影響が小さくなります。つまり、左手と右手で描きやすさが異なるかというと、意外とそんなことはないという実感があるということです。

 

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 人間の顔はデフォルメが効きやすいので、目や鼻や口をパターンとして捉えて、それを福笑いのように当てはめれば顔ということにできます。しかし、首から下は、筋肉であれば、肉と肉が変形しやすいので、記号的というよりはもう少し立体物として捉える割合が大きく、そのために左右に違いをあまり意識しないでもよいのかもしれません。

 昔見たことがある実験で、人間の顔写真を上下逆さまにしてそれを見て絵を描くとき、右向きの顔でも左向きの顔でも描きやすさに違いが見られない、というものがありました。それはつまり、顔を見て⇒既知のパターンに変換して⇒そのパターンを描くという通常のやり方ではなく、顔を見て⇒それをパターンに変換できないので、そのまま立体物として描くというようなプロセスになるということではないでしょうか?

 

 デフォルメされた絵は、実物を写実的に捉えたものとは異なりますが、人間が認識するには十分かそれ以上の効果があるように作られたノウハウの塊のようなものだと思います。ただし、であるがゆえに、そのパターンで表現しにくいものを描こうとすると破綻しやすいものでもあるかもしれません。それゆえ、新しいデフォルメの方法が開発されたときには、それが即座に絵を描く人の間に広がっていくのだと思います。なぜなら、その新しいパターンを取り入れることで、これまでのパターンでは表現できなかったものが表現できるようになるからです。

 

 美術的な下地のある絵を描く人は、そのような下地がない人と比べて、実物を見て絵に落とし込むという訓練をより多くやってきているものだと思います。であるために、その人独自のデフォルメパターンを持っていることが多いかもしれません。それは、表現の幅を広げられる可能性をより多く持っているということだと思います。そして、もしかすると同時に独自の方法であるために、読者が上手く読み取れない可能性もあるかもしれません。

 

 僕が思うには、漫画は模倣の文化が色濃くあるので、その絵には模倣共有された何らかの時代性が存在するのだと思います。つまり、昔の漫画がその時代であれば通じたパターンを、今の読者は読み取れないかもしれませんし、逆に、今一般的な表現パターンを、過去に持って行っても読み取れないかもしれません。そこには作者と読者の共通認識として共有されたものがあり、それゆえに理解可能となっています。ただし逆に、時代性を感じない独特の絵を描く人には、それゆえに逆にびっくりして夢中になってしまうかもしれません。

 

 話が脱線しましたが、顔の向きの左右で描きやすさが異なるということが気になっていて、それは、手の構造上の線の引きやすさだけではなく、顔の絵は描く人の中にあるパターンを利用して描く割合が多いということが関係しているのではないかと思っているということです。そのパターンを左右の両面で持っていない場合、左向きの顔で描きやすいパターンを作り込んでしまい、それを右向きの顔に単純に反転して適用しようとすると、非常に描きにくくなってしまうのではないでしょうか?それは例えば、「あ」という文字は上手く書けても、その鏡文字は上手く書けないというようなものなんじゃないかと思います。

 であれば、右向きの顔の絵を今よりも上手く描くにはどうすればいいか?というと、右向きでも描きやすいパターンを作り込むことを意識して、量を描くという正攻法と、そもそもパソコンで左右反転しつつ描けばいいのでは??という方法があり、僕は怠け者なので後者かなーと思っている感じです。

 みなさんも好きにしましょう。

「将太の寿司」の寿司はなぜ美味いか?

 寿司職人の漫画「将太の寿司」がすごく好きなのですが、読んでいると作中に登場する寿司が美味いということが分かります。ではなぜ将太の寿司に登場する寿司を美味いと思うのでしょうか?

 

1.見た目が美味い

 料理を美味しそうに描くのは難しく、しかも白黒の紙面です。難しいことに、写真を単純にトレスした料理の絵は、元になった実物の料理がいかに美味しそうだったとしても、それだけではイマイチ美味しそうに見えないことも多いです。いや、そもそも、写真を白黒にしただけで美味しそう感は減ってしまうのではないでしょうか?実物そのままだからといって美味しそうに見えるとは限らないのだとしたら、美味しそうな絵とはいったいなんなのでしょう?

 そこにはやはり描く人による寿司の美味しそうさの解釈が、線として現れているはずです。艶やかさや瑞々しさ、油の乗りなど、表現すべきことはたくさんあります。人間は目から何かを読み取って、その美味しそうさを判断しています。それを絵にする過程で、つまり人は何を手がかりにして美味しそうと思うかを判断する描き手の解釈が存在するわけです。

 そして、なにより絵であることでしかできない表現もあります。シャリが口のなかでほどけていく様子や、歯ごたえのあるものを噛み切る様子など、それは実写では撮ることが難しく、絵であるからこそできることです。

 

 料理漫画において、色が制限されていることは美味しさを表現する上で本当に難しいところだなあと思うのですが、表紙などでは色鮮やかな寿司が見られるので、そっちを見て頭の中で補完するのもいいかもしれません。また、この辺については違う漫画の話ですが、「ちひろさん」では雑誌ではカラーページも多く、そこで美味しそうな料理の絵が載ることがよくあるのですが、単行本に収録されるときには白黒になってしまい残念ということがあります。白黒でも十分美味しそうですが、でもカラーページではさらに美味しそうだったんだよなあと思ったりするからです。

 

2.理屈が美味い

 寿司で勝負すると、そこに勝ち負けがついてしまいます。しかし、美味さに勝ち負けをつけるのはなかなか難しいことです。なぜなら、人にはそれぞれ好みがあるので、あっちよりこっちが美味しいと判断されたとして、その理由が審査員の好みでしかないという雰囲気になると、納得しにくいからです(もちろん、お客さんに合わせて作り分けるということは重要ですが)。そのため、料理勝負漫画には、勝者と敗者に明確な理屈がつけられることが多いです。

 例えば、マグロステーキ勝負では、将太くんはマグロの哲と戦うことになりますが、そこに鉄板二枚重ねの工夫が出現します。冷たいマグロを焼くわけですから、鉄板に乗せた瞬間にその部分の熱は下がってしまいます。そうなると一気に焼き切れずマグロの旨味が外に出てしまうんですね。だからこそ、鉄板を二枚重ねにして(分厚い鉄板でもいいですが、準備する余裕がなかったため)より多くの熱を鉄板に蓄えることで、それを回避しようとします。一方、マグロの哲の鉄板は一枚だけ。そこではわずかながら、魚の旨味が外に出てしまっています。

 では、この勝負は将太くんの勝ちなのでしょうか?残念ながらそれは違います。なぜなら、将太くんはネタには十分工夫をしたものの、シャリが手つかずだったからです。マグロの哲はシャリにも赤酢を使った工夫を入れてきました。強烈な旨味のあるマグロのステーキに対して、それを受け止めるだけの力がシャリにもなければならなかったのです。

 寿司とは、シャリとネタから職人の握りによって生み出されるものです。ネタだけではなく、シャリだけでもありません。その合わせ技としての寿司を見たとき、ネタにしか注意がいかず、シャリを見落としてしまった将太くんは惜敗を期してしまいます。

 将太の寿司の寿司勝負には、勝者と敗者を明確に切り分けてくれる読者に納得できる理屈が存在します。

 

3.リアクションが美味い

 将太の寿司の中盤以降は寿司を食べた人のリアクションが加速します。中でも印象的なのは「柏手(かしわで)」でしょう。心底美味しいと思うものを食べてしまうと、思わず柏手を打ってしまうという審査員が登場するのです。これもとても分かりやすいですね。柏手が出る寿司と、柏手が出ない寿司という明確に分かりやすい基準が生まれました。

 「美味い寿司が登場しては柏手が打たれる」ということが続けば、そのうち価値観が逆転して「柏手が出る寿司だからこそ美味い」という話になります。これはノーベル賞と同じです。そもそもは、素晴らしい発明・発見にノーベル賞が授与されていたはずなのに、いつの間にかノーベル賞が授与されるからこそ、その発明・発見がすごいということに価値観が逆転してしまいます。それはノーベル賞が授与されないからこそ、それには大した価値がないという乱暴な認識が生まれてしまうほどに、世の中にはよくあることです。

 そして将太の寿司のニクいところは、だんだんと柏手のヤスが、その寿司に柏手を打つか打たないかに注目が移ってきた段階で、あまりの美味さに、美味いものを食べると自分の意思とは関係なく柏手を打ってしまうあの柏手のヤスが、柏手を打つのを忘れてしまうというところに到達してしまいます。あの柏手のヤスが柏手を打つことすらできないなんて、なんて美味しそうな寿司なのでしょう。

 

 さて、もちろん将太の寿司におけるリアクションは、このような記号的に分かりやすいものだけではありません(とはいえ、美味しい物を食べると眉毛が動くおじいさんや、サブイボが立つ人などもその後でてきますが)。同作者の「ミスター味っ子」の、漫画とアニメが相乗効果で作り上げた、イマジネーションの世界、食べた人の頭の中で広がる宇宙や広大な海などが描写され、美味しさのスケールを表現してくれます。美味しいということは、寿司単体では存在せず、寿司を食べる人がいてこそです。食べた人のリアクションは、寿司の美味さを表現する上で不可欠な要素でしょう。

 

4.人生が美味い

  将太の寿司の醍醐味といえば、この人生の話であることが疑いようがありません。ひとつひとつの寿司に、その寿司職人が今まで生きてきた人生が乗ってきたりします。

 例えば、僕の好きな話で言えば、奥万倉さんのイカの寿司でしょう。イカを炙ってカボスをかけたお寿司です。工夫で言えば大きくなく、包丁の巧者である奥万倉さんからすれば、地味めの飾り包丁しか入っていません。しかし、これが美味いんです。美味くなければいけないのです。なぜなら、それは奥万倉さんの人生の寿司だからです。

 早くに親を亡くした奥万倉さんには、養父母に育てられていた時期がありました。裕福ではない家庭です。自分を育ててくれる養父母に感謝をしていました。しかし、養母が一度だけ自分を間違った名前で呼んだことがあったのです。それは、その夫婦が亡くした子供の名前でした。奥万倉さんはショックを受けてしまいます。養父母から受けた愛情は、それは亡くなった別の子供に向けられるはずだったものなのかと。自分はその子の代わりでしかないのかと。そこからギクシャクし始めてしまった養父母の関係は、奥万倉さんが家を出ることでついには解決をしないままとなります。

 寿司職人コンクールの会場に、その養父母がやってきていました。立派になった自分の息子を見るために。奥万倉さんは素直にそれを喜べません。あの時できた亀裂を、なかったことにはできないのです。しかし、心の底では感謝をしていました。確かに、亡くなった子供はいたかもしれない。でも、裕福ではない家庭です。養父は奥万倉さんを引き取ったために、好きなお酒も飲みにいけなくなりました。それでも、養父母は奥万倉さんを育ててくれたのです。そこに愛情はあったのです。外に飲みに行けなくなった養父が、家で飲むお酒のつまみはそう、炙ったイカにカボスをかけたもの。あの味です。この寿司の味です。

 言葉では上手く伝えられない奥万倉さんが、寿司にその思いを込めて、かけてもらった愛情への応えとして作った寿司です。アンサー寿司です。この寿司が美味くなかったらどうします??そんな可能性考えられないに決まっているでしょう。その寿司は、美味いに決まっているでしょう。だって、それには奥万倉さんの人生が詰まっているのですから。

 

 このように将太の寿司に登場する寿司には様々な人々の人生が乗っています。将太くんもまた、多くに人に助けられて寿司を握ります。将太くんが握るのも、その思いに応えるアンサー寿司です。それが美味くないわけがない。

 

 将太の寿司にはこんな言葉がでてきます。「寿司とは心だ」と。将太くんがお世話になる鳳寿司の親方には、かつて腕のいい兄弟子がいました。しかし、その兄弟子はその寿司職人としての技術にも関わらず、鳳寿司を継ぐことができませんでした。なぜか?と。なぜ技術では勝る自分がその名店を継ぐことができないのかと。

 彼は自分の店を出します。しかし、その店には最初こそ多くの客がきたものの、だんだんと閑古鳥が鳴くようになります。なぜか?と。それは、技術に頼り心がなかったのだと。鳳寿司の親方は、お客さんを見て、お客さんに合った寿司を握っていました。しかし、彼が握っていたのは自分の技術を誇示するための寿司。お客さんが喜ぶのはどちらの寿司でしょうか?

 技術はもちろん必要です。しかし、技術だけではないんです。では、寿司とはなんでしょうか?寿司とは、「心」なのではないでしょうか?病の床に臥せるかつての腕利きの寿司職人は、ようやくそのことに気づきます。「寿司とは心だ」と。

 将太くんもまた、鳳寿司の弟子として、心の寿司を握ります。そして、生きるための寿司、将太の寿司を握るのです。

 

本題、そして5番目の理由

 さて、長い前振りが終わりましたが、先週末に「将太の寿司」に登場した寿司を実際に食べることができるイベントに行ってきました。

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 左上から右下にかけて、生マグロのヅケ、イワシの黄身酢乗せ、ボタンエビの沖ヅケ、芽ネギの寿司、牛肉の昆布締め、アワビのすりおろし軍艦、煮ハマグリ、古米と玉子焼きの巻き物です。名前は記憶で書いているので正確ではないと思います。あと、上で書いた将太の寿司情報も記憶だけで確認せずに書いているので、間違っているところもあるかもしれません。

 

 今回は、各回20人ほどの参加者がいたため、寿司はその場で握られたものを即食べられるのではなく、作り置きされたものでした。しかし、それでもすごく美味しかったので、これを握りたてで食べたいなあという気持ちにすごくなってしまいました。例えば、芽ネギの寿司は握りたてであれば原作通りに海苔なしで握れるそうです。また、煮ハマグリは、煮るというよりは、ごく短時間湯がいたものを再仕込み醤油に漬け込んだものだそうで、作り立てはめちゃくちゃ美味いそうです。作り置きでも美味しかったので、こりゃ相当のものだなと思いました。

 

 上で4つの理由を挙げたように、漫画の寿司は「概念として美味い」というのが、その美味しそうさの多くを占めていると思います。連載で読んでいた当時も、漫画で描かれていた情報から、今まで食べたことがある寿司の味を思い出しはしていたものの、自分自身の寿司体験が、小中学生のときではそれほど豊かでもなく、今までは情報と味の感覚が上手く滑らかには繋がっていなかったと思います。しかし、今回のイベントに参加して具体的に味わったことで僕には特別な5番目の理由、「味が美味い」が加わってしまったので、今後読み返すときには、今回の味を思い出すことができるという特権が得られたということになりました。

 

 その意味でも、今回参加したイベントはすごく満足度が高かったのですが、ひとつ大きな不満があって、それは「寿司は食べるとなくなる」ということです。なんで、ずっと食べ続けられないんだろう?なんで寿司は食べたらなくなってしまうんだろう?と思って、目の前の寿司について、食べたいけど食べたくないような気持ちを抱えつつ、ゆっくり大事に食べました。

 

寺沢大介原画展

 今回僕が参加したイベントは、銀座のチーパズギャラリーで行われている寺沢大介原画展にて行われていたものです。

ajikko-shota30.grinship.com

 ギャラリー自体はそう大きなものではありませんが、原画の展示だけではなく、インタビュー動画や、デビュー当時の読切漫画など単行本化されていない(と思います)漫画を読むことなどもでき、料理を再現した食品サンプルなどもあります。

 

 

 

 会場でびっくりしたのは、「ミスター味っ子」と「将太の寿司」の、本物の原画が一枚千円で販売されているということです。この先、いつか処分されるよりは、大事にしてくれる人の手元に置いておいて欲しいとのことのようですが、びっくりしたので思わずとりあえず5枚買ってしまいました。

 

 

 そして、5枚買うと(物販で5千円以上買うと)サイン会のチケットを頂けてしまいました。今日はそのサイン会(日程のうちの1日)だったのですが、原画展内のサイン会場で待つ間に、さらに欲しい原画を8枚買い足すことになりました。

 

 

 完全にヤバいですし、まだまだ好きなシーンが沢山あるので、開催期間中にまだまだ何回か足を運びたいと思っています。原画は、印刷では見えない筆致まで分かるので、感動度が高いですし、僕は完全に岸部露伴の原画を見た広瀬康一くんのような状態になっています。そういえば、今日原画を買った際にも、さらにサイン会のチケットを貰えてしまいそうになり、無限に参加可能??と思ってしまいましたが、おひとりさま1枚限りだと思いますので辞退した感じです。

 

 ちなみに寺沢大介先生のサインですが、リクエストに応えてもらえるとのことで、すごく迷ったのですが、僕がめっちゃ好きなシーンであるところの、「大和寿司の親方が将太くんに貰ったネクタイを締めているところ」という細かいリクエストしてしまい、案の定すごく困らせてしまいました(こんな機会は二度とないと思ったので…)。

 大和寿司の親方は、戦後に満州から引き上げる際、子供と別れ別れになってしまいます。しかし、残留孤児となった息子がいつ日本に帰ってきてもいいように、高齢ながら寿司屋を続けている人なんです。将太くんはそんな大和寿司の親方に、父の日にネクタイをプレゼントするんですね。そのプレゼントにいたく感激した大和寿司の親方は、休日に普段は着ない背広を引っ張りだして、そのネクタイを締めるわけです。見てくれ!みんな!このネクタイは、私の息子がくれたものなのだ!と。そう胸を張って街を歩くわけです。そんな気持ちを胸に、大和寿司の親方は将太くんの勝負の手助けとなるために、魚を釣ろうとするんですよ。本当に良い話なんですよ。

 ともあれ、その絵をお願いするのは、たいへん申し訳なかったのですが、ちょうどサインの前に大和寿司の親方の登場する原画を購入していたので、それをお見せしつつ描いてもらってしまいました。僕の名前隠しに置いてある小さいサインは、寿司イベントの際に頂いたものです。

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 このサイン会のために、今日のお仕事は力技で無理矢理終わらせて銀座に急いだので、無理矢理力技でお仕事を終わらせるのもよいものだなあと思いました。

 10月10日まで銀座チーパズギャラリーで開催の寺沢大介原画展、めっちゃいいので、みなさんも行ってみてはどうでしょうか?と思いつつ、目当ての原画の競争率が高まらないで欲しい!というような矛盾したような心境ですが、めっちゃいいので、「将太の寿司」や「ミスター味っ子」が大好きな人なら足を運んでみて損はないと思いますよ!!

他人の言うことをできるだけ聞かずに生活する話

 僕は他人の言うことを聞くのがあまり好きではないので、できるだけ他人の言うことを聞かないで生活したいと思っています。ただ、僕は一人で生きているわけではなく社会で生きているので、生活を送る上で逆に自分の言うことを他人に聞いてもらったりも全然しています。だから、僕も条件次第では他人の言うことを聞くことには問題はありません。というか普通に聞いています。

 でも、やっぱりワガママな人間なので、できるだけ聞きたくないですし、「この人は何を理由に僕に言うことを聞かせようとしているのか?」ということが常に気になってしまったりします。

 

 他人に言うことを聞かせるための代表的な方法は、「お金を払うこと」でしょう。お金を払うという行為はとても素晴らしく、見ず知らずの人間にお金を払うだけで、食べ物を作ってくれたり、車を運転してくれたりします。

 もし、お金がなかったらどうでしょうか?他人の家に入って「僕のお昼ご飯を作ってください」と依頼するとします。お金を払わずにです。相手は「なぜ?」と思うでしょう。見ず知らずの人の車に乗り込んで、「駅まで走ってください」とお願いするとします。乗せてくれる人もいるかもしれません。でも、多くの人は「はあ?なぜ?」と思うでしょう。しかし、お金が介在するとなんとそれと同等のことができてしまうので、とても素晴らしいと思います。

 そういえば以前、ラーメン屋はすごいよ!!って思ったのですが、なぜなら僕がいつ行くかも分からないのに、急に夜中にやってきて、「ラーメンを作ってください」と頼んでも嫌な顔をしないからです。そして、その雑なお願いを笑顔で聞いてくれてラーメンを作ってくれます。さらには、後片づけもせず、最悪挨拶すらしないで、帰っても何も言われません。にもかかわらず「また来てください」なんて言ってくれます。次にいつくるかも分からないのにです。ただし、600円ぐらいのお金を払っています。しかし高々600円です。

 仮に僕が一番仲が良いと思っている友達の家に夜中に突然現れて、「ラーメンを作ってください」って頼んだとしたら、友達はきっと嫌な顔をするでしょう。そして、後片付けもせず、感謝の言葉も言わず、600円ぐらいだけおいて帰ったとしたら、たぶん友情に亀裂が入ってしまうのではないでしょうか?ですが、ラーメン屋はそうではありません。なので、少しのお金でそのようなことができてしまうラーメン屋というお店があってよかったなあと思いました。

 

 仮に人間が平等だとしたら、それぞれの人間の意思は同じように尊重されるべきです。ある人の意思が、別の人の意思を妨げるということは公正ではありません。なぜなら、一部の人の意思だけを尊重するということは、それ以外の人の意思を尊重しないということだからです。これは人間が平等であるという前提と矛盾します。

 しかし、全ての人の意思が平等に尊重されつつ、あらゆる物事が円滑に動くということは、何十億もの連立方程式を一意に解くこととも言えるのでほとんど無理でしょう。なので、人間は平等なのに、その意志が平等には尊重されないという現実があります。

 であるために、その間に潤滑油が必要とされています。そのひとつがお金です。全ての人間の意思が同時に尊重されることが難しいために、お金という数字を使って、あるときに尊重されなかった人に別のときに尊重される権利を与えることができます。他人の言うことを聞いてもらったお金を使って、今度は別の他人に言うことを聞かせることができます。これによってある種の問題が解決されました。ああ、なんとお金とは素晴らしいものでしょう。

 

 さて、僕は他人の言うことを基本的には聞きたくないので、僕に言うことを聞かせようとする人に対しては、「この人は何を根拠に僕に言うことを聞かせられると思っているのか?」ということを常に考えています。

 その意味で「仕事」は分かりやすく、上司やクライアントの指示がありますが、それは僕が仕事で貰っているお金と繋がっているので根拠として理解可能です。直接ではないにせよ、この人の言うことを聞くことが僕が貰っているお金の根拠になっているからです。そしてお金があれば僕の言うことを他人が聞いてくれるので快適に生きるためには仕事をするのはやぶさかではありません。

 僕は親の言うことをよく聞く子供だった(と思う)んですが、その理由はこの人たち(親)が稼いだお金で僕は住む場所があり、食べるものがあると思っていたからです。生育環境における諸事情により、小学校低学年ぐらいからずっとそう思っていました。なので、それ以後、親の判断に逆らったこともほとんどありません。ただし、このような考え方であるために、独り立ちしてからは、言うことを聞くことがほとんどなくなりました。別に親と仲が悪いわけでは全然ないのです。ただ、この人たち(親)の言う通りに生きるという理由を僕は全く持ち合わせていないなと思うので、そのようにしています。

 

 「法律」や「ルール」や「マナー」は、お金以外の他人に言うことを聞かせられるよくある方法です。これらは社会や、もう少し小さいある種の集団に属するために前提として守らなければならないものです。これら「法律」や「ルール」や「マナー」は、人間の自由を束縛するものです。

 例えば、全裸で往来を歩きたいと思ったとします。しかし、それは咎められてしまいます。なぜならそうしてはいけないという法律があるからです。他人が自分に対して、法律という根拠を元に、全裸で往来を歩きたいという意思を否定してきます。これは守るべきでしょうか?

 少なくとも、その社会の中で生活したいならその法律を守るということが必要となるのが現代では一般的な考え方でしょう。つまり、社会の外に出てしまえば守る必要はありません。無人島にひとりで暮らしているなら、全裸で外を歩き回っていても問題がないのです。自分が今属している社会に居座りたいならば法律を守る必要があります。そして、それでも不満なら、法律を変えるように働きかけるという方法もあります。それが実際に通るかどうかは別として。

 「ルール」や「マナー」は、法律よりももう少し小さいものなので、「守りたくないのでその集団を抜ける」という選択も現実的なものとしてあります。僕が昔読んだ本によると、ラグビーという競技は、サッカーをやっていたある人が急にボールを抱えて走り出したことから始まったのだそうです。これはもちろんサッカーという競技においてはルール違反ですが、このボールを抱えて走ることを許容するラグビーという競技が生まれました。ボールを持って走りたい人はサッカーをやめてラグビーをすることができます。

 

 「マナー」というものはルールよりもっと曖昧です。それらは明示されているものではないことも多いので、「マナー違反」ということを根拠に他人に言うことを聞かせられるかどうかは不明瞭です。

 個人的な経験で言うと、以前電車に乗っていたときに花粉の季節で鼻水をずるずる言わせてしまっていたら、隣の席に座っていたご婦人に「鼻水をすするなんてマナー違反ですよ」と言われたので、「なるほど、そういうマナーがあるんですね」と思いました。そしてそのご婦人はポケットティッシュをくれたので、僕はそれで鼻をかむことでしばらくの間はずるずる言わせることはなくなったのですが、それはそうと、そのご婦人がその後お弁当箱を開けてご飯を食べ始めたので、「おっ、この人の中では普通の電車の中でお弁当を食べ始めるのはマナー違反ではないんだなあ」と思ったということがありました。

 ただし、僕は別に電車の中でお弁当を食べてはいけない!というマナー意識を持っていなかったので、特に何もいうことはありませんでした。そのご婦人のお弁当を今食べたいという意思を否定する根拠を何も持っていなかったということです。

 

 この辺りが、すりあわせの難しいところです。「マナー」というものは明文化されていないことも多いので、ある行動が個々人が持っているマナーに合致しているかどうかが共有されておらず、なんでもいいから「それがマナーだ!」と言い張った人が、そう言い張ることで無根拠に他人に言うことを聞かせることができるという道具となり得ます。

 なので、「マナーにうるさい人」というのは、僕の認識では「他人に自分の言うことを聞かせたい人」というイメージがあります。その行為が良いか悪いかは場合によると思います。なぜなら、一部の人にある種のマナーを厳守させることで、その集団の残りの人々が快適に過ごせるようになるかもしれないからです。もし、マナー違反が多発し、その集団に属する人々が不愉快な思いをすることが多くなっていたら、その集団自体が瓦解してしまったかもしれません。

 一方、そのマナーを強要されること自体が不愉快な人もいるかもしれません。その場合、その場所を去ることができますし、マナーを守ることにして属し続けることもできます。

 

 僕はあまり集団に属することを好まないですが、それは前述のように他人の言うことを聞くことをあまり好まないからです。誰の言うこともできるだけ聞きたくないですし、その代わりに自分の言うことを他人に聞かせたいともあまり思いません。皆好きにすればよく、他人に何かを聞いてもらうときには、他人であれば基本的にお金を払うことにしており、あるいは、身内であれば互いに持ちつ持たれつであることなどを重要視します。

 今思いましたが、これもある種のマナーですね。僕と接する人は、「僕に何かを強要するということをしない場合のみ一緒にいられる」というマナーを他人に強要しているのかもしれません。結局そのくびきからは逃れられていませんね。

 

 そういえば、インターネットで何かをしていると、「あなたはもっとこうしたほうがいい」というアドバイスをくれる人がいます。それ自体は別にいいんですが、その人のアドバイス通りにすると何がよいのかが僕はあまりよくわからず考え込んでしまうことがあります。たぶんこの人の言うことを聞けば、この人が好ましいと思っているものに僕が近づくことになるんだろうな?と想像しているのですが、僕がその人が思う好ましいものに近づくことに何の意味があるんだろう?とも思います。

 例えばこのブログでいうと「文章が長い」って言われることがあるんですが、僕は長い文章を書きたいと思って、誰に乞われるわけでもなく勝手に勝手に書いているので、短くしたらその人に「読みやすくなった!」と評価されるとして、僕が長い文章を書きたいことを我慢して短くすること、つまりその人にとって読みやすくなることに何の意味があるのだろう?と思います。

 ネット以外でも、そういうことは今までよくあって「私に評価されたければこのようにした方がいいですよ?」というようなことを言ってくる人がいるんですが、そういうときはだいたい、「この人はなぜ、僕がこの人に評価されたいと思い込んでいるんだろう?」という疑問が頭をもたげます。ただ実際、僕がその人のことがすごく好きで、この人に好かれたい!と思っている場合もあるので、そのときはそのようにしますが、そうでなければ、まったく意味不明な行為だと思います。僕は僕が良い感じに思うようにやっているので、何かを自分が思う通りにやっている時点で完全に目的は達成しているのです。

 

 こういうことを考えていると、不特定多数の他人の評価を受けたい人というのは大変だろうなあと想像します。無数の「私に評価されたければこうしろ」という人の意見に向き合わなければならないからです。それがお金を貰えるものだとしたら、その分、自分が好きにできる余地が増えるためまだ理解可能ですが、そうでなければ自分の望む良い行動ではなく、他人が望む良い行動をとり続けなければなりません。

 そして、もしかすると、その「他人が望む良い行動をとり続けること」が、その人にとって何らかの拠り所になる集団に属し続けるための前提条件とされているのかもしれません。他人の目を気にして、自分だけが望む良い行動をとれないということが、その人にとってどれぐらいしんどいことなのかは人によるかもしれませんが、それでしんどくなるなら止められるようにした方がしんどさは減るのではないでしょうか?

 

 僕はできるだけ集団に属さないので、そんな集団に属するのはやめればいいのにと、そういうものについて感想としては思いますが、それも僕の考える僕の考え方でしかないので、それを他人に強要するということはしないように思っています。

 結局言えることなど何もなく、僕はただ外から眺めているだけなのです。この行為が正しいことだとも思いません。ただ、個人的に楽だからやっているだけです。楽でないと生活がしんどくなるので、しんどく生活するのが本当に嫌なのです。個人のワガママです。

 

 さて、こういう風に振る舞っていると、「この人は本当に何の根拠で僕の行動を縛ろうとしてきているのかが意味不明」という人に時折出会います。その理由がまるで把握できないので、僕はとりあえず、この人の中には「人間が平等である」という前提が全くないのかな?と想像しています。平等でなければ今まで長々と書いてきた話は茶番でしかありません。自分は他人より偉いのだから、自分より偉くない他人たちは自分の言うことを聞くべきであるという前提の構築だってあり得るからです。

 じゃあ、僕がなぜ人間は平等だと思うのかというと、それも別にとりたてて大きな根拠があるわけではなく、ただそう思っているだけなので、そんななんとなく思っただけのモノサシで世界を測ること自体に無理があるのかもしれません。難しい世の中です。

 

 僕はこの「なんとなくそう思った」というのはすごく強い感覚だと思っているのですが、なぜなら、それは根拠のない確信なので、反論を寄せ付けないからです。人は目の前にいる相手を自分と同じ考えに誘導しようとして、論理や倫理や正義などを使うものだと思いますが(なぜならそれは従うべきものという暗黙の前提が共有されがちだからです)、根拠のない確信は、それらのどれひとつにも依拠しないので、それらをどれだけ用意して物量で攻め立てても籠絡の糸口がないのです。

 例えば、自身の考えがもし、正義を根拠にした論理に基づいていれば困ったことになります。相手が自分の正義を貶め、論理の矛盾を指摘すれば、そこに根拠がなくなるので、考えを取り下げざるを得ないかもしれないからです。であるからこそ、僕が思うに、どうしても守りたい一点に関しては、理論武装などむしろ不要、ただただ確信だけを携えておけば他人の理屈に従わずに済むことになります。相手が提示するあらゆる理屈に対して、「でもなんとなくそう思ったんです」と言い続ければ、相手が根負けして諦めてくれます(ただし大抵バカと罵られます)。

 そうすることで自分の大切なやつは守ることが可能ですが、その集団には居場所がなくなる可能性も高いので、居場所が欲しい人はやるべきではないかもしれませんね。しかしながら、そのような結果、僕の人と密な交流はあまりしないものの、一人で本を読んではきゃっきゃする生活が守られているのです。

 

 今はこれが楽しいのでそうしていますが、どこかのタイミングで感覚が代わったら、他人の言うことを聞く代わりにまた何らかの集団に属するようになるかもしれません。それが起こったとき、その理由はおそらく「なんとなく」だと思います。

漫画に見る、逃げた人の話、立ち向かう人の話

 漫画を読むにつけ「逃げないで立ち向かう」という価値観の方が「逃げ出した」という価値観よりも肯定される頻度が高いように思います。それはおそらく漫画では最終的に主人公側が勝つ物語になる場合が多いからでしょう。逃げ出したということを理由に勝つということはあまり考えられず、逃げ出した人が結果的に得るものは、生き延びたという事実ではないかと思います。つまり、そこで逃げ出さなければ死んでいた(かも)ということです。ただし、中には最終的に生き延びたものが勝ちという価値観もありますね(勝ちと価値がかかっていますね!)。

 

 生き延びた者が勝ちという価値観の代表的な漫画の人物は「バキ」郭海皇です。彼は齢百歳を超えるよぼよぼのお爺さんで、中国拳法における理合の力を象徴するような存在です。

 年齢と修行によって、単純な力を象徴する筋肉が完璧にこそげ落ち、箸と茶碗を持つのにも重さを感じてしまいます。そんな彼が、力の象徴である範馬勇次郎と戦います。その結末は郭海皇の敗北、それも戦う最中における老衰による死によって終わります。しかし、それは擬態の死であり、範馬勇次郎は死んだ郭海皇をそれ以上攻撃することはありませんでした。

 郭海皇は、強大な力の前にある種の技術で生き延びたことに武の勝ちを宣言します。しかし、それを手放しで肯定する人は他に一人もいません。ただし、彼は生き延びた、それは事実なのです。はたして、皆さんは郭海皇を行為をどのように捉えるでしょうか?

 

 逃げることを肯定する人といえば「道士郎でござる」の健助くんもそうです。アメリカ帰りの武士である道士郎から殿と呼ばれるようになった普通の高校生の健助くんは、道士郎の起こすトラブルに何度も巻き込まれて、なぜだかヤンキーたちに尊敬される人物となっていきます。そんな中、健助くんは巻き込まれたトラブルにおいて、適当に負けておいて、その後の平和な日常を満喫しようとヤンキーたちに提案します。しかし、ヤンキーたちが選んだのは、平和な日常よりも最後までボロボロになるまで戦うこと。そこに美学を見出しているのでしょうが、普通の高校生の健助くんは、いや、絶対平和な日常でしょうよ!と思います。しかし、それは叶わないので、戦う羽目になってしまいました。

 そうはいっても健助くんは逃げない子です。正確に言えば、逃げることを是としながらも、決して逃げてはいけないときを知っている子です。だから、普段はいきがっているヤンキーの子でさえ、逃げてしまうようなシチュエーションでも、力が弱くて勝てないことが分かっていても、どんなに格好悪い戦い方をしたとしても、立ち向かうことができる子です。それは逃げて無傷で生き延びることよりも、戦うことで守りたい大切な何かがあるということでしょう。その感情に非常にグッとくるわけですが、そう読んでいるとやはり、逃げることよりも立ち向かうことこそが是という価値観に辿り着いてしまいますね。

 

 「ベルセルク」のロストチルドレンの章では、小さな村の小さな世界から逃げ出そうとする少女が登場します。そんな彼女が足を踏み入れたのは、人にあらざるものの世界、そしてそこは、かつて彼女と同じ世界にいた別の少女が、化け物となることで足を踏み入れた世界でした。主人公のガッツは化け物となってしまった少女を殺し、逃げ出したかった少女は、また元の村に帰ってきます。ガッツは言います。逃げ出した世界もまた戦場だと。楽園なんてどこにもありはしないのだと。

 逃げること自体は否定されていないと思います。しかし、逃げ出したからといって、そこにあった辛さが全くない楽園もまた望めないということです。どこにいったところで、そこに立ち向かうということからは逃れられないと描かれているのかもしれません。

 

 一度は逃げ出した人が、それでも立ち向かうことを決意する物語といえば「ダイの大冒険」でしょう。へたれの魔法使いポップは、強大な魔王の手先を前に、勝てるはずがないと逃げ出してしまいます。その場に残った仲間たちを置いて逃げ出してしまいます。逃げ出した先でポップは、まぞっほに出会います。まぞっほは偽物の勇者のパーティの魔法使いの老人で、彼は逃げ出してばかりだった自分の人生についてポップに話します。逃げ出してしまったポップの姿に、まぞっほはかつての自分を見出してしまったからです。

 ポップは、一度は逃げ出した戦場に、踵を返して再び向かいます。そんなポップがいなければ、ダイたち勇者のパーティは負けてしまっていたでしょう。ポップは勇気の象徴です。逃げ出したいような状況で、それでも逃げ出さないと決意することは、最初から戦うつもりであった人々が戦うことよりも、もしかすると困難なことかもしれません。

 そして、大魔王との苛烈する戦いの中、まぞっほまた、その逃げてばかりだった人生の中で、ようやく力を発揮することになるのです。それは世界を破滅させるような絶望的な状況において、力はなくとも立ち向かうということです。そんな平凡で弱き人々の結束が、あまりにも強い大魔王に一矢報いることになるのです。

 

 「皇国の守護者」で描かれるのは撤退戦です(元は小説ですが漫画版があるのでよいことにしてください)。戦力差のある勝ち目のない戦の中で、自軍の主力を逃がすために、戦うのが新城直衛の率いる大隊です。ここには、逃げる戦いと逃げない戦いが同時に存在します。

 生き延びるために逃げ、彼らを逃がすために戦う者がいます。その戦う者の中でも、その場に留まって戦う者と、敵軍を迎え撃つために出撃する者がいます。留まり、守り抜いた人々は全滅し、出撃した人々は最後には降伏をします。彼らは生き延びるために、負けを選びます。そして、それは主力を逃がすという彼らの目的を達成したと思った後のことでした。死んだとしても最後まで戦うことには意味がないということでしょう。

 

 このように逃げることは時に重要ですが、逃げてばかりでは後悔ばかりが残るということが、多くの漫画では描かれているように思います。そういえば「逃げるは恥だが役に立つ」という漫画もありますね。どこかで戦わなければならない、逃げるだけではダメなのではないか?そういう罪悪感のようなものを持っている人が多いのかもしれません。

 そこに留まって死ぬ(肉体的に死ぬという意味だけではなく、もう少し広い意味で)ぐらいなら、逃げ出したっていいということも言いたくなります。しかし、泥沼化するのは逃げたくても逃げられないときです。逃げられないときには、それなりの理由があるでしょう。

 

 僕は自分でも無茶な仕事のスケジュールを組んでしまうことがあるのですが、もうちょっと楽にすればいいのにと自分で思いつつ、できないことがあります。それは、実はその無茶なスケジュールこそが、もう少し長期の期間を見ると一番楽なスケジュールだと気づいてしまったときです。

 短期的には無茶になりますが、その後の仕事の繋がりを見ると、このタイミングでそれをやり終えておかないと、のちのち余計に忙しくなってしまうことが見えているため、肉体的に楽にするために肉体的にしんどいことをしてしまうという矛盾するようなことをしてしまいます。それは傍から見れば、自ら望んで自分を追い詰めているように見えるでしょう。そして、事実そうです。合理的な理由を元に、自分にとってある程度不利なことをしてしまうという、恐ろしさがここにあると思います。

 そういう無茶をしてこの場に留まるということが、最も合理的であると考えてしまったとき、自分自身をじわじわ削り取っていくような状況なってしまうのかもしれません。逃げるためには、逃げる場所と逃げる経路の確保が必要です。その場に留まることである程度利益がある状態では、逃げ出すということは、その状態を壊して再構築をするということを考えないといけないのです。それはときに困難です。

 逃げることは留まることよりも、大変なことかもしれません。そして、そんな状況に揉まれている間に、逃げ出す体力をも失ってしまうこともあるかもしれません。

 

 逃げ出すということに合理性を確保できないときに、留まることでじわじわとダメージを蓄積してしまう状況は、とても危険なことだと思います。ただ、留まって戦うことで、活路を見いだせることもあるかもしれません。でも、逃げ出すことしか生き延びるすべがないかもしれません。その分水嶺は、明確な線引きがされているものではなく、当事者それぞれに判断を求められてしまうことので、とても難しい状況なのではないかと思ったりします。

 

 世間は、逃げる人に対して残酷なことも多いと思います。なぜならば、逃げるということは多かれ少なかれ現場放棄による責任の放棄とも捉えられるからです。それは他人に不利益を与えることですから、不利益を与えられた人々は正当な権利として抗議をします。そんな抗議に応えることよりも、自分の生存の方が重要であるという考え方もあるでしょう。そして、それに同意する人も多いでしょう。しかし、漫画で言えば、そういうキャラクターに強い嫌悪の表明がされることもあります。

 

 それは例えば、「3月のライオン」において、妻子捨男と揶揄された名前で呼ばれる男性のことです。彼は主人公の零くんがお世話になる川本家の人々の父親で、とっくの昔に妻子を捨てて家を出て行った男です。色んな仕事をしては嫌なことがあるとすぐに辞める。浮気をして家を出ていき、都合がいい理由があると帰って来る。体面を気にして、接する人には平気で嘘をついて、自分がヒーローであるように振る舞い、その実、しんどいところは他人に丸投げして、自分は知らんふり。そして、それをすることが正しいことだと思い込んでいる。そのような人物です。

 彼は何とも戦わず、ただ逃げ回っているような人物です。彼は作中の登場人物と、そして読者に嫌悪の目線を向けられているのではないでしょうか?責任を放棄し、逃げ出す人に対する目線から、それを排除することは果たして可能なのでしょうか?彼の心が、少しのストレスで壊れてしまうような形をしていたとき、それでも責任をもって戦えと言えるでしょうか?言えるのだとしたら、それは彼以外の人々に向けられるということとどう違うのでしょうか?

 

 違う理由はいくらでも考えられると思います。しかし、僕が思うにそれはどこかに線引きをしているだけで地続きです。ここまでは許そう、これ以上は許さない、そのようにそれぞれの人が決めたというだけのことです。人から逃げ場を失わせていることに、自分が全く荷担していないとは言えないのではないでしょうか?それは自分自身を省みても思うことです。

 

 逃げたっていいですし逃げなかってもいいと思いますが、逃げたい状況と逃げられない状況もあり、それは自分自身で作り上げていることも他人から強いられていることもあると思います。それらは物語の中で、肯定的にも否定的にも描かれ、しかし、「逃げない」ということの方が圧力としてはやはり強いのではないでしょうか?

 

 「新世紀エヴァンゲリオン」のシンジくんは「逃げちゃだめだ」と自分自身に言い続けます。それは逃げた方が余計に辛いと思っているからだとも言います。つまり、長期的な辛いことから逃げるせいで、短期的な辛いことから逃げられないという典型的な雁字搦めの状態でしょう。それで潰れてしまうなら、逃げた方がいいんじゃないかと思いますが、逃げないことで道が開けたとき、それを称えてしまうということもあるでしょう。

 シンジくんが逃げ続けていたエヴァンゲリオンの物語において、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」では、ついに逃げずに積極的に立ち向かう姿を見せてくれます。そして、それを視聴者である僕はとても肯定的に捉えてしまいました。しかし、それは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・Q」において、いじわるなことに全く逆転的に描かれてしまいます。逃げてばかりであったシンジくんが、ついに逃げずに立ち向かい、それを人々が肯定的に捉えたとき、その逃げなかった事実が大きな災厄を引き起こし、たくさんの人々に不利益を与え、そして、その責任をとれと迫ってくるような物語となっています。はたして、シンジくんは逃げればよかったのでしょうか?逃げなかった方がよかったのでしょうか?

 それはどちらかに言い切れるようなものなのでしょうか?

 

 さて、「漫画の」ってタイトルをつけて書きはじめたのに、最後アニメの話になったので、タイトルを間違えたのでは??と思いました。

 あと、「からくりサーカス」の「逃げる」「逃げない」の選択肢の話も入れようと思ってたのを書き終わってから思い出しました。

「ガンバ!fly high」を久しぶりに読み直した話

 ガンバ!fly highは、中学生の藤巻駿が、全くの初心者であるにもかかわらず、「オリンピックの金メダルをとりたいんです」などと無茶な宣言して体操部に入部、最終的には金メダルをとるというお話です。リオオリンピックの体操の中継を観ていて、すごく良かったので、思い出して漫画を読み直したりしたんですが、こっちもほんと良かったです。

 

 なんというかこう、僕は時間の流れが感じられる漫画が好きで、最後の方の巻を読んでいるときに、最初の方の巻のことを思い出して、「ああ、あそこからここまでやってきたんだなあ」という道のりのことを思ってしまうと感極まってしまうんですが、丸1日で34巻プラス外伝1巻を読み直して、実時間ではたった1日前に読んだところなのに、その道程を考えると、とてつもなく前だったような気がして、色々あった、色々あったんだよと思い、じんわりとした気持ちが心の中に広がりました。

 

 主人公の藤巻駿は体操の初心者なので、最初はろくな演技もできないんですが、なんと、そんな状態で大会に参加するはめになります。そこではとてもとても恥ずかしいことになってしまいます。なぜなら、ろくな演技もできないのに、沢山の人が見ている中で、何かをしなければならないからです。そんな中、駿は自分にできることをやってみます。でも、それは評価されるために最低限必要な要素も満たしていなかったりして、笑われてしまいます。点数も最低です。そこが駿の原点です。全てはそこから始まりました。

 

 体操、だけには限りませんがこの種の競技の面白いところは、点数がつくというところだと思います。それはつまり、その競技が成り立つためには、演技者だけでなく採点者が必要だということです。

 このような採点競技ではもちろん、感情の入る領域をできるだけ排し、誰が付けても同じような点数になるように採点基準が明確化されているものでしょう。そうでなければ、結果に人間同士の間の好き嫌いが採点結果に強く関わり過ぎてしまうからです。でも、それでも人間がやることです。人間がやるということは、そこからシステマチックに感情を排したとしても、それでも残る感情的な何かがあるはずです。ガンバ!fly highでは、また、その領域についても描かれていると思います。

 

 良いか悪いかが点数によって判断されるということは、面白い状況だと思います。なぜそれを面白いと思うかというと、何かに点数がつけられる際には、しばしばその主従が逆転することがあるように思えるからです。つまり、良いものだから点数が高くなるということが、いつの間にか、点数が高いから良いものであるということになってしまったりします。でも、つけられた点数と良し悪しは本来は別々のことではないでしょうか?点数が高いのは、採点基準に照らし合わせればそうというだけで、その演技を見た人が感動したかどうかとは必ずしも一致しません(もちろん、一致する場合も多々あります)。

 ガンバ!fly highでは、ある技に失敗した人が、同じ技をもう一度やり直すという描写が繰り返し登場します。そして、そのたびに「同じ演技をやり直して成功したからといって、点数評価からは除外されてしまう」という事実と、「だから大会で勝つためには意味がない」という視点が登場します。

 事実そうでしょう。点数を追うだけなら、意味がありません。最後までやったところで、その点数は切り捨てになるだけかもしれません。価値観が点数だけならそうかもしれません。でも、そうじゃないものがあるということが繰り返し描かれます。

 念のため書いておくと点数をつけることが悪いと描いてあるわけでもないと思います。そこに「点数以外の価値観が登場しない」という状態に疑問を呈しているということなのではないでしょうか?なぜなら、体操選手の演技を見たとき、そこには、点数化とは必ずしも繋がっていないある種の感動が存在するからです。それが「ある」ということを描いているのだと思います。

 

 この物語は、素人ながら「金メダルをとる」という大それたことを言った少年が、その時点では誰もそれが叶うことを信じなかったのに、ついに成し遂げてみせるというものです。誰もが笑ったその夢を実現することは、笑った人たちを見返してやる物語とも読めるかもしれません。だとしても、駿の心の中には、そういう要素はなかったのではないでしょうか?

 駿はロシア人コーチのアンドレアノフに体操を教わります。アンドレアノフが説いたのは「楽しい体操」です。その「楽しい体操」というものは、誰かを見返して「ざまあみろ」と思うようなものではなかったからです。体操は他人に見せて評価を受けるものではあるものの、それ以前に自分との戦いであると説かれます。

 

 同じ技をやり直すことはその象徴的なものでしょう。失敗は人の心を縛ります。それまで一度も失敗をしたことがなかった人が、ある印象的な失敗をたった一度してしまっただけで、その後、今までは意識せずともできていたことをできなくなってしまったりします。それを乗り越えなければなりません。それは他人が代わってやってくれるものではありません。自分が乗り越えなければならないものです。誰しもそれを乗り越えて前に進むものなのではないでしょうか?

 

 自分との戦いを乗り越えて、他人を感動させる演技に繋がります。しかし、そこにある他人の目とは、採点基準という他人に決められた価値観に合わせることだけなのでしょうか?点数上は同じでも、よりよく見える演技について物語の中では語られます。誰もやっていない技は、基準がないために個性がありますが、だからといって、誰もやっていないということだけを追い求めても仕方がありません。自分と戦い、他人を魅了する演技、そして、それでいて点数も勝ち取るというなんとも欲張りなものです。

 様々な価値観が絡み合い、舞台が大きくなればなるほどに強烈なプレッシャーが襲ってきます。その中で、プレッシャーと戦いながら演技し、失敗したとしても立ち上がり、克服し続けること、その根本には「楽しい体操」があったように思います。

 チャレンジをし続けた先が金メダルです。これは物語ですから、作り事です。でも、作り事とはいえ、色々あったわけです。それが辿り着いた果てから見れば、金メダルに至る、感慨深くなるほどの道のりがあるわけです。その道のりを思うとき、胸の内に湧く感情があるわけです。

 

 この物語はシドニー五輪で結末を迎えますが、連載終了後に描かれた外伝があります。その外伝の主人公は、岬コーチとアンドレアノフの息子ミハイルです。彼は、伝説的な存在となった藤巻駿の技を、自分もやってみるために、彼の補助であった上野のもとを訪れます。体操選手としての壁にぶちあたっていたミハイルは、そこを抜け出す術を駿の体操に求めたのです。それは、ミハイルが子供の頃、ビデオで見た、彼の原点です。藤巻駿の楽しい体操が、次世代の体操選手の種を蒔いていたということです。それは駿がアンドレアノフに教わったように。駿の偉業は簡単には真似できないことですが、続く人がいるということです。時代はその担い手の手によって先に進んでいるのです。

 さて、この外伝のエピソードの時代設定が2016年なのですが、後書きを読むと15年も先のスゴイ未来世界のことと書かれていて、しかしながら、もうそこに辿り着いてしまいました。この15年のことを思うわけです。物語の中で時間は経過し、現実の日本の体操はオリンピックで金メダルを取りました。

 ちなみに僕は体操は小学生のときでやめてしまいましたが(実はやってたんです)、体操ではないにせよ、連載完結から15年という時間の流れを思い出したら、色々あったなあと思います。15年前にこの漫画をリアルタイムに読んでいて良かったなあと、15年後の今読み返して思いました。