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「BILLY BAT」の最終巻を読んで思ったことについて

 先週「BILLY BAT」の最終巻が出て読んだので(連載でも読んでましたが)、とりあえず今の時点で思っていることを書きます。

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 正直なところ浦沢直樹の「BILLY BAT」という漫画がどういう漫画なのかということをいまひとつ諒解できぬままに連載を読んでいました。物語の部分部分における登場人物たちの行動や感情、状況の展開には興味を引かれ、「ああ、面白いなあ」と思いながら読んではいたものの、では、この漫画がいったい何を描いているのか?今読んでいるこの展開は全体の物語の中で何の意味を持つのか?ということが上手く掴めないままにただただ連載を追っていくような感じだったのです。

 

 この物語の中心にはBILLY BATという漫画があります。それは様々な描き手の手を経て長い間描かれ続けた漫画で、その歴史の祖を辿れば、太古の昔にある一人の原始人が見たコウモリの姿に由来します。後にビリーバットと呼ばれるその存在は、物語の描き手を始めとする様々な人々の元に姿を現し、様々な意味ありげなことを伝えては、人々を惑わします。ビリーバットの登場する漫画は、さながら予言書のように、その後に起こることを言い当ててしまったりします。果たしてビリーバットという存在とはいったい何なのでしょうか?ビリーバットは人の歴史と共にあり、そしてどこへ向かうものなのでしょうか?

 

 さて、最終巻を読み終わって思ったことは、この漫画は「漫画を描くということ」、そして「その漫画を誰かが読むということ」そのものを物語にしたものではないか?ということです。

 ビリーバットの描き手は、ビリーバットにせかされるように漫画を描き、そして、その内容が現実になってしまいます。その力は過去にすらおよび、ビリーバットの力は過去を描きかえることもできてしまいます。なぜビリーバットにはそんな力があるのでしょう?その謎は作中では明確には描かれませんが、僕の解釈では、それはこれが「漫画だから」です。

 当たり前だろうと言われればその通りなのですが、漫画だからこそ、そこには現実とは異なる独特の時空の観念があると思うのです。漫画では基本的に「過去とは現在よりも後に生まれるもの」です。つまりどういうことかというと、物語の冒頭、第一巻の最初こそが漫画の時空の上では最も古いものであり、その後に冒頭以前の過去が描かれたところで、それは時系列では過去だったとしても新しく生まれたものと考えられるということです。

 そのように過去が新しく描かれることで、より古い現在が別の意味を持つことがあります。これはモンタージュの技法のようなものです。同じシーンであったとしても、その前に何を見たかによって解釈が変わってしまうかもしれません。新しい過去が付け加えられたことで、古い現在が初読のときと異なる解釈ができるようになるかもしれません。それは作者によって予め決められていたことかもしれませんが、場合によっては後付の設定かもしれません。

 でも、それは読者には関係ないのです。作者が空白にしておいた過去を、途中でようやく具体的に埋めたとしても、それは読者からは不可知の領域で、最初からあったことと同じになってしまうでしょう。もしかすると、それは設定に矛盾を持つようなもので、辻褄が合わないことから、新しく作られた過去と気づいてしまうものかもしれません。でも、それは間違っているのでしょうか?

 設定の矛盾があったとして、それは過去が現在よりも昔にあるはず、つまり変えられないものであると思い込んでいるからそうなのであって、漫画の時空において過去が現在よりも新しいものであるとするならば、それは矛盾ではなく、過去が変わったということと捉えられるかもしれません。もしかすると「BILLY BAT」が描いているのはそのようなことではないかと思いました。

 

 人の歴史と寄り添うビリーバットは「人間が生き残っているのはもうこの時空だけだ」というようなことを言います。他の並行世界では人間は絶滅してしまい、この世界だけが最期に残ったものであるというのです。これが「漫画」であるという解釈をした場合、それが意味することは、漫画家・浦沢直樹がこの物語を描いているということに他ならないのではないでしょうか?

 この漫画を原稿にする前であるならば、そこには無数の可能性があったはずです。どのような登場人物が、どのように行動し、どのような結果を招くか、そこには無限の選択肢があったはずです。しかし、実際に描かれたものはひとつです。それが、この物語であり、この時空です。他の無数のありえたかもしれない世界は、作者・浦沢直樹がそちら展開を選ばず、こちら展開を選び取ったということから、消えてなくなってしまいました。描かれたものが全てなのです。他はあったかもしれませんが、もうないのです。

 

 では、ビリーバットとは何でしょうか?それはこの物語の大まかな行先を指し示すインスピレーション、あるいはプロットとも言えるものではないでしょうか?「BILLY BAT」が最初に描きはじめられたとき、この物語はどこに向かいどのように終わるべきか、大まかにでもそのプロットがあったはずです(漫画によってはない場合もあるでしょうが)。行く先を指し示す水先案内人がビリーバットだとして、漫画家はその通りに漫画を描こうとするはずです。しかし、漫画は必ずしもプロット通りに進むものではないかもしれません。

 

 僕はこの前、頑張って漫画を描いてみたのですが、その作業は完全に難航してしまい、最終的に最初に考えた話に到達することができませんでした。それはろくに漫画を描いたことのない僕の実力不足ではありますが、同時に自分自身の描く漫画の読者としての、納得できないという感情の結果でもあります。物語の筋を立て、キャラクターを作ってお話を進めていったとき、プロットとしてはこちらの方向に舵を切るべきですが、どう読んでもキャラクターの感情としてその方向に行くという下地が整っていないように思えて描けなくなってしまったのです。なので、そうせざるを得ないように状況や言葉を後付けで重ねてみるのですが、そうすれば辻褄は合うものの、思ったように話が進めることができません。

 このキャラクターはなぜここでこのようなことを言うのか、そしてその結果、別のキャラクターは何を思うのか、読者としてみれば、その辻褄が合わなければ気持ち悪く感じます。話の筋だけを優先させ、無理矢理に舵を切れば、そのためにキャラクターたちが支離滅裂な行動をとるように読めてしまうからです。描く前は空白であったキャラクターたちに何かを喋らせ行動させようとすると、描いたことで立ち位置が安定する代わりに自由度が失われ、僕には上手いこと制御できなくなりました。とはいえ、なんとか描き上げ、最終的に自分の中でなんとか辻褄は合わせましたが、結果的に物語は最初考えていたところと全然違うところに到達してしまいました。

 これを「キャラが勝手に動いた」と言うかというと、全然そんな高等なものではなく、もっとレベルが低いそれ以前の話で、最初にもっとちゃんとキャラクターを含めてお話を考えておけよというだけのただただ拙い話です。そして、プロの漫画家さんはこの、「キャラクターとして破綻させずにプロット通りに話を進行させる」ということをちゃんとやっているのだなあと僕自身の技術なさを痛感したという話です。

 どうでもいいですが、そのとき描いた漫画はコミティアに出したあと、ネットにもアップしてみました。

www.pixiv.net

 

 複数の漫画家さんのインタビューなどを読む限り、長期連載の漫画では、しばしば、当初の予定とは異なった話の進行が生まれるということがあると思います。あるいは、当初はもっと短くするはずだった話が、非常に長くなってしまったりしたという話も目にします。

 ビリーバットがプロットだとするならば、作中の漫画家たちはそれに沿いつつも、新しい何かを生み出している存在と言えるかもしれません。ビリーバットの指示に従っているように見えて、実際にこの物語を紡いでいるのは、各々のキャラクターたちなのです。彼らは物語に動かされる立場でありつつ、その物語を作っている当事者たちなのです。

 

 ビリーバットの結末は、物語の途中で既に作中漫画として示されていたものに沿っています。到達すべきとろこは既に示されており、後はどのように到達するかです。ビリーバットには「白いビリーバット」や「黒いビリーバット」がいて、それぞれが別々の人を動かすための指示を与えていると話されます。しかし、最終巻ではそれは元々ひとつであるとも語られます。

 物語の登場人物たちが異なる意図のもとに動かされつつも、その実、それはひとつ所に向かうためのものであるということは、物語を作るということそのものかもしれません。こうあるべきとして示されたビリーバット託宣に従い、それに沿うべきか、沿うのだとするとどのように沿うべきなのか?あるいは、そこから外れた道を選ぶこともまた必要なのではないか?そのような葛藤が、「BILLY BAT」の物語の中にはそのまま描かれているのではないかと思いました。

 

 これは漫画です。漫画とは、作者が描き、読者が読み、連載というその相互作用の中で、予め綺麗に完成されていたものだけではなく、作者自身にもどこへ向かうのかが分からないものもあり、そして、分からないのに最終的になぜか綺麗に収まってしまったりもする不思議な物語であったりすると思います。連載という荒波の中を何年も泳ぎ、最後までたどり着いたのがこの「BILLY BAT」であり、それはその結末だけではなく、何年もの間、作者と一緒に泳いできた読者の体験そのものでもあるかもしれません。

 

 この物語は、作中漫画のBILLY BATが人に影響を与え、未来を変える力を持つという結末を迎えます。作中では特に「紙の本」に対するこだわりが描かれ、それを反映するように実際の「BILLY BAT」は電子書籍上での展開を行っていません(浦沢直樹作品は電子書籍になっていません)。作中の描写を読む限り、それは、少なくとも今現在の本としての届く範囲の広さへの意識があるのではないでしょうか?

 つまり、ネットに接続し電子版を読める人々と、それ以外であれば、今のところはまだまだ後者が多いということです。読むための電子機器を持ち、ネットに接続して決済をすることができる人は実はまだまだ少なく、そして、電子媒体で購入した本は気軽に他人と貸し借りもできません。そして、スマホでは単ページの表示になりがちで、見開きのページを作者の意図通りに読むこともできません。

 漫画というものが描く作者と読む読者の関係性によって作られるものであるならば、今現在の電子書籍はまだまだ狭い世界です。その意味で、紙にこだわるということは、より広いところに到達し得るものとしての本に対する、何かしらの感情があるのではないでしょうか?その試みが上手くいくかは分かりませんが、僕には理解できるものだと思います。

 

 漫画が人に対して影響を与えるということは、自分が描いた漫画がいかに人に届いたかということを元にして、漫画を描く行為にもフィードバックされるというような、相互影響があるものではないかと思います。「BILLY BAT」が描いているものは、そのような「漫画」そのものの在り方、「漫画が生み出されること」と「漫画を読むということ」によって生み出されるもののことなのではないかと思いました。そこにあるのは描いて描いて描きまくることで切り開くという漫画家のこと、そしてそれを一生懸命に読んで自分自身の一部とする読者のことなのではないかと思います。

 

 もちろん、これらの解釈は僕が勝手になんとなく思ったので、「これが正解だし、こう読むべきだ」というようなものでは全くありません。ただ、僕は漫画を読んでこういうことを思ったということは事実なので、こう思ったということを書きました。

 最終巻を読んだ後、まだ最初から通読もしてはいないのですが、近々NHKの番組の「漫勉」の10月6日放送回で、「BILLY BAT」の最終回が描かれた執筆作業が流れるということで、それを見た後だと、影響を受けて今と解釈を変えてしまうような気がしたので、取り急ぎ、今の自分がこの時点で読者として何を読んだか(それはとても個人的なことです)を記録しておこうと思ってこの文を慌てて書いた感じです。

 

 とても面白い漫画でした。

 

(追記)もうちょっと細かいことの話も書きました。

mgkkk.hatenablog.co