漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「国民クイズ」と一億二千万人の独裁者

 人間は平等で、それぞれが持つ権利に格差があってはならない。その考えは、近代的価値観においてとても正しいものだろう。ある人間が別の人間と比較して権利が制限されないことを保証するということは、個人の尊厳を守るために有効に機能し、その社会の構成員全体がそれなりに悪くなく過ごすためのよい方法なのではないかと思うからだ。

 しかし、平等であるということにはデメリットもある。それは、全ての人間の持つ権利が均等であるならば、自分自身の持ち得る価値も全体分の一に稀釈されてしまうということだ。例えば、選挙で「あなたの一票が世の中を変える」と謳われたとしても、そんな一票の持つ力は自分以外のたった一人が、真逆の意見に一票を投じた時点で相殺されてしまう。自分が考え抜いた一票でも、他の人がサイコロを振って決めた一票でも、その判断をする人間の権利が等価値である以上、同じ一票である。十分大きな社会では、社会全体に対する自分の価値は限りなく薄くなる。

 ひとりひとりの人間の価値を等しくしようとする考えは、結果的に全ての人間に「平等に価値がない」という烙印を押してしまうようにも考えられる。そして、人間はそれを受け入れられるようにできているだろうか?人間は平等だと謳いながら、誰か他人を見下してはいないだろうか?自分よりも価値の低い人間だと思い込んではいないだろうか?もし、ひとりでも誰かを自分より価値がないと見下しているのなら、全ての人間を平等と考えることは自分自身の認識と矛盾するだろう。

 自分には他人よりも価値があると思っているのに、等しく他人と同じだけの価値しかないと扱われてしまう。その認識の差分は、場合によっては澱のように蓄積し、何かのきっかけで舞い上がっては水を濁らせるかもしれない。

 

 このように平等な世の中でにおいて、世の中を変えるのは自分の一票ではない。少なくともみんなの百票や千票が必要なのだろう。そして、その百票や千票や一万票を集めることができないような無力な少数派は、黙殺されてしまう。

 

 さて、僕の個人的な価値観では、それは正しいことだ。世の中はそうでなければいけないと思っている。仮に僕がごく少数派の意見を持っていたとして、僕個人の勝手な一票だけで世の中に動かれてしまったら困る!と思ってしまう。つまり、皆に関わる何かを変えたいならば、同じ意見に賛同する仲間を増やし、数の力とする手続きを踏む方がいいと感じているということだ。他人の賛同を十分に得ることすらできないなら、その意見に全体を付き従わせようとすることには、大きな副作用が伴うことが容易に想像できてしまう。そう想像してしまうかは人によるかもしれないんだけれども、少なくとも、僕はそんな感じに想像してしまうのだものしょうがない。

 

 さて、「国民クイズ」という漫画には国民クイズという制度が存在する。その制度が何であるかというと、あるひとつの観点では「議会制民主主義に対する代替案」である。つまりそれは人間を不平等に扱うということを宣言するということでもある。この漫画は、そのような不思議な制度を中心に据えた物語であり、それは、民主主義とは全く異なる制度であるとともに、なんと毎夜放送されるテレビ番組でもある。

 国民クイズに勝ち残りさえすれば、その勝ち残った一個人の欲望が、政府によって何でも叶えられる。国民クイズは、希望しさえすれば大人も子供もお姉さんも、国民の誰もが平等に参加可能なイベントあり、そして、毎夜テレビの中で踊り続く狂乱の宴なのであった。

 

 国民クイズは人間の欲望を肯定する。人間が欲望を公開することは、場合によっては悪と断じられるものだと思う。なぜならば、それら欲望は、他人の人権を蹂躙するものであるかもしれないからだ。それゆえ、平等で公正を謳う世の中では、ある種の欲望は胸の中に押し込める必要がある。しかし、国民クイズはそんな欲望を国家権力が全力で肯定してくれる。作中の言葉を使えばこうだ。

 

そう!それが国民クイズの画期的なところだ

恵まれない子のために養護施設を作りたいという奴…

双子の処女と3Pしてみたいという変態…

どっちの希望も同列に扱っている!


 それがどんなに下劣な欲望であろうとも肯定してくれるのが国民クイズだ。しかしながら同時に、国民クイズはその欲望がいかに醜悪であるかも世間に露わにしてしまう。なぜならば、国民クイズで叶えられたい欲望は、参加者が公言する必要があり、そしてテレビで全国の視聴者に向けて放映されてしまうからです。

 そして、国民クイズで決勝進出した人間は、勝ち残れず敗退してしまうと、その欲の内容やクイズの点数に応じて、ある種の犯罪者として刑罰を受けることになってしまう。なぜならば、その彼あるいは彼女は、未遂に終わったとはいえ、反社会的な欲望を国民クイズを使って実現しようと試みた人間であることが分かるからである。国民クイズを利用して、そんな反社会的な行為を実現しようとするだなんて、国民クイズに勝ち残らない限りは決して許されるべきことではありません。とんでもないことだ。ゆるせん。

 

 国民クイズの視聴者は、狭量で我欲にまみれた自分のことしか考えない参加者たちが、敗退していく様子をあざ笑い、同時に勝利した参加者が、そんな身勝手な欲を叶えられることに憧れる。この制度はつまり、ある種の独裁政治である。ただし、その決定者は国家の首長ではなく、一国民である。たった一人の主権在民は、リスクのあるチャレンジを越えたその場その時の一度だけしか決定権を認められない。

 しかし、そのとき、たった一度だけであったとしても、自分の願いが、欲望が、誰の邪魔もされずに叶えられるのだ。それは残りの国民からしてみれば不平等な話であるだろう。国民は平等なはずなのに。

 ただし、もしかすると、平等を謳う人間は「自分より他人が恵まれることを許せない」だけかもしれない。であるならば、自分ひとりだけが恵まれるのだとすれば全然アリな話だ。しかし、万人が万人に対して、恵まれることを許さなかったとき、互いに繋がれた綱引きの綱が張りつめた結果としての平等が実現する。この見方では、人間は生来平等ではない。全員が手元の綱を全力で引っ張った結果、一時的な平等が実現する、などという解釈となる。ただし、そこには綱を引っ張る権利が万人に認められていることも見逃せないが。

 

 国民クイズは、自分に絡みついた自分以外の万人からの綱を、一度だけ切ることができるチャンスだ。それは、どんなどん底にいる人々にも、蜘蛛の糸たる一筋の希望の光を与える制度である。

 自分ひとりだけが恵まれたい。その欲望を国民クイズだけが否定しないでいてくれる。国民クイズを存続させているのは、国会を占拠し、国民クイズ革命を起こした人々であろうか?いや、きっとそれは違う。たかだか数万人の占拠でひっくり返った政治体制は、再び数万人が集まればひっくり返されるはずだ。それをしないのは、国民クイズがあることを望む人々がいるからだろう。

 それは宝くじと同じである。期待値を考えれば買う意味がないのが宝くじだ。賭けたお金はほとんど損をする。それでも宝くじが続くのは、もしかしたら自分がひとりだけ恵まれるかもしれないという願いを捨てることができない人々がいるからだろう。この国から宝くじがなくなることがないように、あの世界では国民クイズ体制を止めることはできないのだ。

 

 そもそも人間を不平等に扱うのは、もしかすると実は効率がいいのではないだろうか?合議制では結論が出るのに時間がかかる。誰も不公平がないような競争環境を構築することは面倒な話だ。何かを選ぶとき、それが公正で妥当であることを常に証明し続けなければならない。不正をしていないという証拠を作る作業に、プロセスが正当であることを保つために、社会は大きな労力を割いている。

 もし、人間が不平等であれば、その手間はなくなる。面倒を嫌う人は心の底で望むかもしれない。世の中が不平等であればいいのにと。ただし、その不平等において、自分がいると想像するのは、恵まれている側だ。それは人間の欲のひとつである。

 

 人々は理由を求めているのではないだろうか?自分の欲望を他人に認めさせるのに足るだけの理由を。誰しも欲望を抱えているだろう。しかし、それは表には出せないはずだ。個人の欲望は醜悪であるからだ。それが醜悪であるかどうかは、公正で公平であるかどうかで判断される。不正に不平であるものは醜悪と断じられる。

 であるがゆえに、それらの欲望は、あたかも公正で公平であり、場合によっては自己犠牲であるかのように表面を糊塗されてごまかされる。見た目を欲望以外のものでラッピングしてリボンを括り付けてしまえば、外に出せると思うからであろう。

 例えば、不正をした議員が叫ぶ「自分は世のため人のために頑張っていたのだ」という言葉は、つまりそういう意味だろう。その不正は自分だけが恵まれようとした醜悪なものではない。みんなに利益のあることをしようとしたのだ。だから、それがいかに不正であったとしても、自分のためでなく皆のためであったのだから、ある種の公正でもある。だから、自分を赦せという要求だ。高い理想は、このように自分の狡さを肯定するために利用されることがある。

 「不正」を片側に乗せられて大きくバランスが崩れた天秤の、逆側に「大義」を乗せれば釣りあうと思っている。やましいことのある人間は、どんどん話を大きくする。小銭をごまかした話や、交通法規を違反した話を、社会制度の問題や、未来や宇宙の話にすることでごまかそうとする。逆側に大きな理由を乗せさえすれば、天秤の傾きが自分に有利に動くと思っている。

 理由とは武器である。自分の欲のために、他人を傷つけるに足る理由は、理由をでっちあげることができなければ起こらなかった数々の悲劇を起こしてしまう。

 

 「Q.E.D.  証明終了」に「巡礼」というタイトルの話がある。

(ネタバレあるので、気にする人は以下のパラグラフを飛ばしてください)

 

 そのお話は過去に起こったある事件の真相を追うものだ。ある気立ての良い男がいた。その男に起こった悲劇は妻を殺されたことである。そして、その妻を殺した相手が外国で掴まった。現地で行われる裁判の場に向かう途中、男は何故か列車を降り、1000kmの道を徒歩で現地に向かうことにする。男はなぜそんな行動をとったのだろうか?道もろくに整備されていない時代である。その男は、旅の途中に命を落とす可能性も十分あった。しかし、男は成し遂げた。生きて現地まで歩き切ったのだ。そして、出廷した裁判において、男が驚くべきことを口にする。自分の妻を殺した犯人を許すのである。男は犯人の死刑を望まない。そして、男は帰りの1500kmの道も徒歩で旅して帰った。

 その巡礼の旅が男の心にもたらしたものは何であろうか?

 ことの真相は、人々の予想に反するものであった。彼の巡礼の旅は、試練の旅であった。気立ての良い男である。復讐を考えても実行に出来そうにもない男である。だからこそ、男は自分に試練を課した。それがその旅である。男は、もし、この過酷な旅をもし成し遂げられたとしたら、自分の妻を殺した憎い犯人に、最も恐るべき復讐を実行する決意をしていた。

 巡礼の旅を乗り越えた男にはもはや十分な理由がある。復讐などできそうにもない男であった。しかし、彼は成し遂げてしまった。過酷な旅は、その男に、目を覆うような残酷な復讐を遂げるための十分な理由となった。男は自分の妻を殺した犯人にとって、最も大切な人を殺す。そして犯人はそれを知らなければならない。刑務所の中で何もできずに、自分の大切な人が殺されてしまったことを知らなければならないのだ。それが男の考えた復讐である。男の復讐とは、自分が味わったものと、同じ種類のものを犯人に与え返すというものであった。

 達成不可能とも思えた過酷なハードルが、達成できたことによってむしろ引き返すことができなくなる理由となってしまった。彼は魔道の巡礼者であったのだ。

 

 何かを成すにはそれに足るだけの理由が必要だ。国民クイズにおいては、それがクイズの形をしている。クイズは知識を計るものである。しかし、国民クイズで出題されるクイズは知識を計るものであるとは限らない。知りもしない人間の個人情報のような、普通の人間なら分かるはずもない問題が出題される。サイコロを振って出る目の数を当てるような運に任せた問題も出題される。国民クイズは知識のある人間だから勝てる種類のものではない。それはある種の儀式である。それは、独裁という権利を、一国民に全く理不尽に割り当てるために必要な理由を作りだす活動である。そのクイズは魔道である。

 もし、その独裁の権利が全く理由なくランダムに与えられたものだとしたらどうだろうか?人々はその事実を許せるだろうか?それが許されないのだとすれば、クイズが存在することには妥当性がある。リスクを抱え、困難を乗り越えた勇者であり、実力だけでは乗り越えられない幸運を得た者は、その異様な特権を乗せた天秤に、釣り合うだけの理由を獲得する。

 

 一見、理不尽なように見える国民クイズ体制は、そのような妥当性の上に成り立っているのではないだろうか?

 

 このような国民クイズ体制は、もちろん実際に成り立つことはないだろう。この制度は、世界一の経済力と、核による軍事力を得た、向かうところ敵なしの架空の日本だからこそ成り立つものだと思うからだ。国家が一個人のバカげた欲望を満たすために動いても問題のないほどに、無駄な豊かさがあるからこそ成り立っているものだ。ただ、その個人の欲望の背後には、頭の良い人間たちの思惑が隠れているのかもしれないが。

 独裁者はたったひとりでは成り立たず、その人物が独裁者であることで効率よく回る仕組みが用意されているものだろう。だからこそ、瓦解させ難い。その独裁者を殺せば終わるようなものではないからだ。そして、国民クイズでは、その独裁者が日ごとに変わる。

 国民クイズは架空の話だが、現行の体制よりも、ひとつ優れている点がある。それは前述のように個人の欲望を否定しないことだ。それは否定すべきものかもしれない。しかし、持っているだろう?誰しも、少しぐらいは、「自分だけが恵まれていたい」と。この物語は、国民クイズに少しでも憧れてしまった読者のそんな欲望の存在を暴いてしまう。

 

 しかし、それは表には出すべきではないものだ。出すべきではないが、ときおり世の中には見え隠れしてしまう。それは、それに足るだけの理由を見つけられた人たちから溢れ出る。充分な理由が見つかったとき、人は独裁者になってしまうのかもしれない。欲望を隠すだけの包装紙を手に入れたということだからだ。その規模の大小の様々であり、国家という規模となることは普通は考えられないが。ひとりひとりが独裁者候補である。それは欲望に釣り合う理由を見つけたときに分かることになるだろう。

 

 とまあ急に適当にまとめ始めたんですが、なぜ急に適当にまとめ始めたかというと、方向性も決めずに適当に書き始めて、「劇的ビフォーアフター」の録画を観終わるぐらいまで調子に乗ってだらだら書き続けてしまったせいで、落ち着きどころがみつからなくなってしまっているからです。僕はもう2000字ぐらい前に終わっておくべきだったなあと今思っています。

 何で書き続けてしまったかというと、なんか書き続けていると途中でうっかり立派なことを書けるんじゃないかなあと思ったからなんですが、全然そうでもないし、今こうやって言い訳を書いています。何故でしょうか?これもまた人の欲のなせるわざなのでは???などと思っていますが、今のこれも上手いことまとめようとして、まとめられなかった感じなので、最悪だ。

  おやすみなさい。

かつて僕にとってゲームとは雑誌のことだった

 僕は割と時間を自由にできる生活なので、結構ゲームをやっていて、据え置きゲームも携帯ゲームも、スマホのゲームも、それぞれ別のゲームを空き時間にもくもくとやっていたりする。なんでゲームをするかというと、ゲームが好きだからです。

 攻略法を考えて、リソースの制約条件と限られた選択肢を勘案して戦略的に進めるゲームも好きだし、同じ動作を繰り返して自分の運動神経にその動作を覚え込ませ、覚えたパターンと反射神経の、とめどない繰り返しの流れに浸るゲームも好きだ。プレイを通じて、そのストーリーをじっくりと味わえるゲームも良い。また、全く無意味な苦行のようなことを繰り返し、遂に何かを達成するゲーム、喩えるなら、白い紙を端っこからただ黒く塗りつぶしていくだけのようなゲームも好きだ。なぜなら、それを終えたときの、無意味であるがゆえの強く晴れ晴れとした達成感と解放感がクセになってしまうからだ。

 ゲームの面白いところは、ゲームパッドやタッチパネルを使ったこちらの入力に、何らかの反応が返ってくることだと思う。僕は返ってきた反応を見て、それに応じて、また別の入力をする。ゲームに「最小単位」と言うものがあるとしたら、これのことだと感じている。ゲームに入力すると、ゲームから何らかの反応が返ってくる。それが楽しくて、楽しいから延々とやってしまう。

 

 今はとんでもない時代になったと思う。世にゲームが溢れている。安いゲームも無料のゲームも山ほどあって、フルプライスのゲームも、昔と同じような値段で、こんなに盛りだくさんでいいんだろうかと思うぐらいに絢爛豪華だ。時間はあってもあっても足りないし、無限に時間を使えてしまう。ただ、やり過ぎると生活が崩れるので、時間は区切って、やれるときにやれるだけをやっている。

 

 昔はそうではなかったと思う。僕が子供の頃、ゲームは年に2本ぐらい買えればいい方で、あとは友達に借りてやっていた。ゲームボーイ以外のゲームはテレビを占領するので、家族がテレビを見ている時間にはあまりできないし、夜中に起きて、こっそりやっていた時期もある。買うお金もないし、遊んでいい時間もあまりない。ゲームはやりたいけど、やれないものだった。だけど、時間だけはあったので、何をしていたかというと、僕は本屋でゲーム雑誌を読んでいたのです。

 

 ゲーム雑誌には毎週のようにゲーム情報が載っていて、新しいゲームを見ては面白そうだと思って胸を躍らせ、待ち望んでいるゲームの続報を見ては、やりたいなあと思った。沢山のゲームの情報を読んで、沢山のゲームについて知る。でも、僕はそんなに沢山のゲームをやってはいないんです。

 なので、中学生や高校生の頃、ゲームというのは雑誌で読むのが大半で、自分で遊ぶのはごくごく限られたものだけに限定されていた。本で読んだけど、自分では遊んでいないゲーム、ゲーム屋でパッケージだけ見かけたゲーム。その箱やケースの裏に書いてある文章を熟読したものの、買うこともできないゲーム。世の中にはそんなゲームが大半で、僕が遊んだのはその中のごくごく一握りだった。

 

 それは90年代の思い出。ファミ通も電撃もマル勝も、載っているゲーム情報自体にはさほど違いはないのに全部読んでいて、ゲームラボゲーム批評も読んでいた。あとなんだっけ?巻末に野村哲也のコラムがあった、一般情報誌とのあいのこみたいな雑誌も読んでいたな。変わり種としては光栄が出していたダ・ガマなんてのも読んでいて、格闘ゲームだった頃の三国無双の製作レポートや、技募集なんかの記事を見てワクワクしていた(三国無双はのちに買って、休みの日の友達の家で朝から晩まで遊びまくりました)。

 ゲームクリエイターの人たちは僕にとってはヒーローで、雑誌に載っているインタビューを沢山読んでいたし、週刊少年マガジンでやっていたゲームクリエイター列伝も、中身が嘘くさいと思いながらも毎回読んでいた。憧れて、学校に置いてあったMacintoshHyperCardで、見よう見まねでゲームを作ってみたりもした。この辺の経験が、大学で情報系に進む切っ掛けだったし、今の仕事にも繋がっている。

 

 その頃の僕にとって、ゲームとは大半が雑誌のことを意味していた。読者投稿のコーナーのゲームネタでしか知らないゲームも沢山あった。でもいつか、その名前だけ知っているゲームをやるんだと思っていた。ゲーメスト関連の漫画や、ファミ通PSでやっていた聖学電脳研や、電撃少年や電撃セガサターンでやっていた裏ワザえもんなんかも毎回楽しみに読んでいた。ファミ通でやっていた柴田亜美の漫画も好きだったな。Gセン場のアーミンとかも。あと、ドラクエ四コマも。

 

 こんな風に色んなメディアを巻き込み、ゲームはどんどん進化を遂げる。新しいゲーム機が登場し、それで遊べる新しいゲームが登場する。ただ、僕には遊べないものの方が多かったけれど。それを考えると、僕にとってゲームとはつまり新しい情報のことだったんじゃないかと思う。スラムダンク安西先生が、どんどん良くなる桜木花道のプレイを見ていたかったように、僕も新しいゲームの情報が見たくて見たくて仕方がなかったのだ。

 当時はネット環境がウチになかったので、他の情報源はテレビぐらいだ。伊集院光が深夜にやっていたゲーム番組を見たり(ダンディ坂野が当時プレハブみたいなところに移転したコンパイルに潜入したりなどしていた)、山崎まさよしゲームクリエイターとして主演のドラマを見たりした。そのドラマでは、人を殺しまくる残虐なゲームでなく、イルカが海を泳ぐような優しいゲームを作る男が素晴らしいみたいな始まり方をしていて、その考えは気に食わなかったし、登場していたゲームも買わなかったが、主題歌の「僕はここにいる」は大変良かったのでCDを買った。

 あとは、江戸家小猫が司会の朝のゲーム番組を見たり、渡辺徹が司会のマリオの番組内のゲーム大会で勝って、ゲームを貰っている子供を見て羨ましくて歯ぎしりした。あと、Mrちんとオナペッツがやっていたゲーム番組もよく見ていたな。ゲーム王だっけ?

 

 手に入る情報をかきあつめた。遊んでもいないゲームの攻略本を読んだ。友達の家で少しだけ遊び、ゲーム用のテレビが自分の部屋にある友達をただただ羨んだ。

 今思い出していたら、友達の家で延々ゲームをやっていた記憶は多くある。それらの友達のおかげで、色んなゲーム機に触れたし、64のパワプロで友達内ペナントレースをやっていた思い出は、今でも大切なもののひとつだ。ある友達の家には、複数台のMacがあって、ケーブルでつないでBungieのMarathon Infinityの対戦を狂ったようにやった。MarathonにはForgeとAnvilというマップやキャラエディタがあって、僕はそれを使ってオリジナルのマップを作ったり、友達の似顔絵を敵にしたりして、無限に遊び続けた。ひとつのMac信長の野望を交代でやりながら、自分の手番以外は本宮ひろ志の「夢幻の如く」などを読んでいたこともあったな。

 

 そういえば小学生のときの友達で、親が離婚してからは一切自宅で喋らなくなった(らしい)やつがいたんだけど、僕はそいつの家にPCエンジンがあると聞いて、どうしても、一度PCエンジンで遊んでみたいと思って押しかけ、夜まで遊んでいたことがあった。夜になってそこの家のお父さんが帰ってきたんだけれど、楽しげに遊ぶ息子の姿を久しぶりに見て何か思うところがあったのか、僕を手招きして呼び寄せ、僕に千円札を握らせると、「これからもアイツと仲良くしてやってくれ」と言われた。ゲームを遊びに来ただけで、千円ももらえるだなんて、この家は素晴らしい家だと思ったので、それからもちょくちょく遊びに行った覚えがある。

 

 どんどん話が脱線しそうになるが、ゲームの思い出を思い出していくと、どんどん思い出が溢れてくる。書きはじめるとまだまだ無限に思い出が出てくる。だって、僕が遊ぶ金もないくせに毎日行っていたゲーセンの話もまだ書いてない。友達がバーチャロンを遊んでいるのを見ていたら、このゲームは「エンダーのゲーム」という小説が元になっているんだよと、聞いてもいないのに教えてくれた全く知らない謎のおじさんのことも書いていない。僕は、近所の図書館でその小説を探したが、その図書館には置いておらずがっかりして、ただそれはそうと、そこの司書のお姉さんとなんでか仲良くなったので、その後いっしょに花火大会に行ったりした。

 

 その頃と比べると今では全然変わってしまった。ゲームは依然として情報でもある。ネットのおかげで雑誌のとき以上に大量のゲーム情報が流れ込んでくる。動画も観れる。しかし、ゲームは僕にとって情報というよりは、遊ぶもの、遊べるものになった。なぜなら、僕は専有できるテレビや、持ち歩ける各種ゲーム機、そして、スマホも持っている。ゲームを買うぐらいのお金にも全然困っていないんだ。

 

 ゲームがありすぎてむしろ困るぐらいだ。なぜなら、このゲームをクリアしたら、次にやるゲームももう決まっているから。終わったゲームを延々繰り返すことをせず、新しいゲームをやってしまう。一本のゲームをしゃぶりつくすように遊ぶことが減ってしまった。昔は、テレビに背を向け、画面を見ないで友達の実況だけを頼りにスーパーマリオブラザーズを遊んだりもした。ゲームを作った人が用意した遊び方だけでは飽き足らず、それを使って遊べることは何でもしてしまうぐらい、今目の前にあるゲームだけを遊び続けていた。終わったドラクエのレベル上げも、今ではもうしない。

 そういえば、ビートマニアのコントローラで真三国無双をプレイしたこともあった。ターンテーブルを右に回すと前に進み、左に回すと後ろに戻る。鍵盤を叩けば攻撃はできるが、左右に自由に動かすことが出来ないという制約に気づく。しかし、ターンテーブルを小刻みにスクラッチすると、前後の転回の際にわずかに左右の角度を変えることができるのが心憎い。僕はDJの気分でターンテーブルを駆使し、黄巾党を狩り尽くした。刻んだビートは張角の体力を削り、高まるグルーヴは、無双乱舞として解放される。ビートマニアのコントローラは、戦場をライブハウスに変えた。「お前こそ真の三国無双よ!」、一騎当千を成し得るDJ関羽に、賞賛のコールがかかる。戦場の怒号と喧騒の中、「佞言断つべし」、僕は静かにそう思ったのであった(誇張があります)。

 

 遊べるゲームがあり過ぎる。おそらく遊びたいゲームの平均クリア時間を積み上げたら、僕がゲームに使っていいと思っている時間を勘案すると、既に寿命を超えているんじゃないだろうか?かつてはお金とリソースが足りず、ただ情報を見ているだけであったゲームが、お金もリソースも手に入れても、その押し寄せる物量により、再び遊びきれないものに回帰した。それらのゲームに対する態度は今も昔も同じだ。知っているが遊んだことがない。いずれ遊びたいと思っているが、その時がくるのかは分からない。

 

 僕にとって、ゲームというものが覆っている領域の大半は、今も昔も遊んでいないゲームの話だ。その全てを遊びつくすには人生は短く、しかし、遊ばずに語るだけでは人生はどうにも長い。遊んだものが、遊んでないものよりも優れたゲームであるかどうかは分からない。なぜなら、遊んでいないものは遊んでいないから分かりようがない。遊んだものには、ただ縁があった。そういうことだろう。

 

 遊んだゲームの話をしよう。遊んでないゲームの話もしよう。かつて、僕にとってゲームとはほとんど雑誌のことだった。今ではほとんどネットのことかもしれない。それでも、そのほとんど以外のところに、わずかながらの遊んでいるゲームがある。そして、そのわずかがとても大切なものだ。僕はまだまだゲームを遊ぶ。そして、そのわずかを誤差程度に広げることに成功するだろう。

水木しげるの「目に見えない世界を信じる」という話について

 水木しげるの「幸福の七カ条」にこんな項目があります。

  • 目に見えない世界を信じる

 水木しげる氏が何を思ってこの項目を挙げたのかを、僕はちゃんと理解できているか自信がありませんが、僕はこの言葉が好きで、自分勝手に適当に解釈して座右の銘としています。

 そのいい加減な解釈とは、つまり「今目に見えている世界を全てだとは思わない」ということです。何かが起こったとき、ついついそれを手持ちの材料だけでその説明をしようと試みてしまいますが、それはときに、自分の頭に合わせて現実を歪める行為となってしまうのではないではないか?と危惧しています。僕の考えでは、それは世界を無理矢理自分の頭のサイズに小さくしてしまう行為なので、そうなれば世界が説明可能なものだけで満たされるため分かりやすくなりますが、実体との乖離が発生してしまうのではないかとも思います。それを恐れているのです。

 僕は「人間が全てのことを知ることはできない」と思っていて、世界には見たことのないものや、読み切れない情報、そしてまだ明らかになっていない科学的法則が無数にあります。それらは自分の頭の中にはないものです。それらを少しでも多く自分の頭の中に取り込むことが、生きているということなのかもしれません。しかしながら、どれだけ長く生きたとしても、自分の頭も世界の一部でしかない以上、世界の全ては自分の頭の中には納まり得ないと思います。

 そんな納まり得ない大量の情報を、単純に分解できる法則を発見することで圧縮し、少しでも効率よく頭の中に納めようとするのも学問のひとつの役割ではないかと思います。学問をするということは、自分の頭と世界の大きさを効率よく縮めようとする試みなのかもしれません。

 

 このように分からないものがあることを前提として物事をみることにすると、少なくとも良いことがひとつあります。それは、「分かっていることと分かっていないことを頭の中で混在させずに済む」ということです。

 目の前で起こっていることを検証する際に、何が分かっていて、何が分かっていないかを分けて考えることは、知覚できない地雷を、踏まずに避けるための安全なやり方です。でも、分かってないことがあるということは、手持ちの分かっていることと分かっていることの間に隙間ができてしまいます。隙間があると、解釈できませんから、それが何であるかを認識できません。

 そこで出てくるのが仮説です。仮説とはつまり僕が勝手に想像したことです。事実であるかどうかは全く保証されていませんが、そうであれば辻褄が合うという非常に便利な部品です。

 

 観念的な話になってきたので、少し具体的に落とし込んでみると、「目の前にいる動物の名前は何か?」を考えるとき、「四足の獣」で「毛の色は白と黒」ということが事実として分かっていたとします。これだけでは何の動物かを特定することは難しいです。それを「これはパンダだ!」と言い切ることもできます。でも、もしかしたら「シマウマ」かもしれません。

 どちらであるかを断言するには情報が全然足りません。この分かっていない部分が隙間です。そして、そこを埋めるのが仮説です。ここで「奇蹄目の動物である」という仮説が登場すると、それは「シマウマである」という可能性が高くなります。

 

 分かっていることと仮説を組み合わせると、目の前のことが解釈できるようになります。そして、それは自分が勝手に隙間を埋めた無根拠の仮説のおかげでかろうじて成り立っていることであるということも分かります。それは決して、事実と混同してはならないものです。もし、それ全体が事実であるかどうかを確認したいのであれば、その仮説の部分に根拠を探し始めなければなりません。根拠が見つかれば、それもまた事実になりますし、見つからなければ仮説のまま、そして、仮説が間違っている証拠が見つかってしまったら、最初の解釈は全くの間違いであることが分かります。

 

 仮説は、自分で考えるものだけとは限りません。他人から与えられることもあります。その場合、取り扱い方がもう少し難しくなります。なぜなら、その仮説が「提唱した人によってどこまで検証されているか」を確認しなければ正当性を把握できないからです。

 そして、さらにやっかいなのは、仮説を又聞きで伝わってきたときです。そうなれば、それがどれだけ検証されていることかを提唱者に確認することすらできません。自分で同じように試してみるか、あるいは無根拠に「信じる」か「信じない」かの2択を迫られることになります。

 世の中に流通するいい加減な話は「友達の友達の話」として伝わりがちです。

 

 このように検証できない仮説が蔓延している状態では、何を信じればいいかを判断することが難しくなります。それぞれの情報を自分自身で事細かに検証しようとするには、手間がかかりますから、それを実際にやる人はまれでしょう。かといって、全く無根拠に情報を信じていれば、間違った認識を持ったままになってしまいます。パンダだと言われて間違ってシマウマを買ってしまったとき、事前に準備しておいた大量の笹は無駄になってしまうかもしれません。

 方法は色々あります。学者のような判断に責任を持つ必要がある人間が、沢山集まって検証された情報のみを信じるとか、そこまででなくても、自分が信頼できる人が言っていたから信じるという方法もあるでしょう。あるいは、複数の情報筋から手に入れた情報を突き合わせて信じるに足るかを考える方法もあります。人によっては、それが事実だった場合、自分にとって都合がよいなら信じ、自分にとって都合が悪いなら信じないなんてこともあるかもしれません。人それぞれで、それが有効な場合も、そうでない場合もあるでしょう。

 僕が一番信頼できると思っているのは科学的な方法に則った検証を経て確認することです。論文を読むこと、そして可能なら再現実験をすることです。なぜならば、科学的な方法というものは「疑う」ということがその根本にあると思うからです。疑って疑って、それでも疑い切れなかったものが当座の事実となります。

 

 ただし、困ったことにそのような態度をいつ何時でもとれるとは限りません。

 

 さて、では僕がどのようにしているかというと、前述のように僕はあらゆる情報を厳密に解釈して事実かどうかを検証することは難しいという立場なので、分からないものは分からないと思っています。しかし、分からないでは済まないことも多いため、仮説を仮説として認識しておくことにします。そして、他人から聞いた仮説は、その聞いた経路とセットで憶えておくことにしています。

 例えば、「太陽系には太陽を中心として地球と点対称の位置に第十惑星バルカンがあるらしいよ(なぜなら学研ムーで読んだから)」というような感じです。

 このように、ある不確かな情報があったとき、それが何を根拠にして伝わってきたかをセットで考えることにすると、日々目にする大量の情報の中に「ネットでそう書かれているのを見たから」以外に流通経路がないものがあることが分かります。その中にはもちろん事実も含まれているでしょうが、間違いも含まれているでしょう。それらは検証しなければ判別ができないことですが、労力に見合わないので、ほとんどやっていません。なので、それらの多くは自分の中で「検証されていない仮説」として保持されています。

 それらの「検証されていない仮説」を根拠に判断したことは、根拠がいい加減な意見なので、冗談として触れることはあったとしても、それをベースに自分が何かを主張しようとすることはありません。いや、今まで全くなかったかというと自信がないので、少なくとも今はそれを心がけています、という言い方にしておきます。

 

 今日、人と話していて、「あんまりインターネットの嘘情報に騙されてるのを見たことないね?」って言われたんですが、それは別に僕に嘘を見抜く目があるとかそういうことではまるでなく、ただ、信じるに足る根拠が薄弱と思ったことについては、それを事実として言及しないというルールがあるだけです。

 僕が思うに、目に見えない世界を信じるということは、どこまでが目に見えているかを把握するということに繋がっているのではないでしょうか?何が見えていて、何が見えていないか、そして、世界は見えるものと見えないものの両方で満たされているのだと考えることが、根拠の薄い情報に不用意に踊らされず、幸福に生きるための便利な手段なのかもしれません。

 

 最後にクイズですが、冒頭に挙げた、水木しげるの「幸福の七カ条」、僕が今適当にでっちあげたものではなく、本当に水木しげるが言ったことだと信じますか?もし、そう信じるなら、その根拠は何でしょうか?

 そして、第二問。ググれば、「水木サンの幸福論」という本が出典として出てきます。では、ググって出てきただけで、その本を実際には読まずに、それが本の中に実際に書かれていると信じた根拠は何でしょうか?

 正解は自分で確認するか、根拠のない仮説として持ち合わせておくといいのではないかと思います。

「レヴェナント」を観たあとに思った自然と人間の話

 先週、なんとなくレヴェナントを観たんですが、めっちゃ面白かったです。いや、面白かったというのは少し違う気がしていて、ただ、とにかく感情というかなんというか、精神の背骨のあたりにあるものを揺さぶられた感じがしていて、観た後しばらくポーっとなっていました。

 

 何がそんなに良かったかというと、この物語の背後にずっと見えている自然について感じ入るところがあったからです。この物語は、出先で負った大怪我から、仲間に見捨てられたひとりの男が、そこからボロボロの体で奇跡的に生き抜き、生還することと、それに付随する復讐譚を描いたものですが、それらの物語自体を覆いつくしてしまうほどの雄大な自然の情景がこの映画の中では描かれています。そして、その自然の情景がとにかく良かったのです。そこに見て取る自然の偉大な力は、その自然がただありのままにあるということではなく、その中で必死で生きようとする人間の姿と並べられることで、より強く理解可能になります。

 自然は厳しく、人間はその猛威を調伏する術をなかなか持ち得ません。ただ耐えることのみを強いられることが大半です。一方で、自然は豊かな恵みもまた人間に与えてくれます。そして、雄大な自然の風景は、あまりにも荘厳で、時として目にするだけで意味の分からない涙を溢れされるようなものです。自然は好悪様々な側面を人間に見せます。それはつまり、自然とは「人間を全く意に介していない高次の存在である」ということではないでしょうか?恐ろしさも優しさも偉大さも、それは人間が自然に勝手に見出していることです。自然はただあるがままにあるだけです。自然は人間の意志で完全にコントロールできるようなものではありません。つまり、人間の意志が疎通できる対象ではないのだと思います(スプリガンのラストみたいですね)。

 

 人間の歴史は、自然を克服する歴史だと思います。かつては、暑さ寒さや、食料の確保、川の流れや海の波、様々な困難が命に関わるレベルで人間の目の前に広がっていたはずです。しかし、現代の都会に住んでいる以上、それらを命に響くほどに強く実感することはほぼありません。建物の中に限れば気温は調節され、食料はいつでも気軽に手に入ります。道は固められ、遠くへ行くのも、高いところへ登るのも、電気やガソリンの力で速く楽にできます。機能した都会に生活している間は、自然が人を殺す率は、人間が人間を殺す(過失を含む)ことよりもずっと少ないことかもしれません。しかし、それは現代の都会に住む人々が、この文明にラリって一時忘れてしまっているだけで、姿を隠しながらもその背後に確実にいるものだと思います。

 

 レヴェナントに登場する自然は、その多くが困難の形をしています。寒さの中で体温を保つのも難しく、ろくな食料もありません。そんな中で、道具を使って火をおこせるということのありがたさを強く実感します。怪我や病気に対して、薬もなく、医者もいなければ、頼りになるのは人間の自然治癒力です。この物語の中では主人公は奇跡的な超生命力で生き延びますが、そこで立ち向かった困難の内容自体はおおよそ生き延びることができなさそうなものばかりです。それを目にするたび、自分の周りにある便利な道具や仕組みを思い出し、あれさえあればこんな困難に挑む必要はないのに…と思いました。今自分の周りに当たり前にある道具や仕組みが、人間の長い歴史の中で困難に立ち向かってきた人々の残してくれた偉大な財産であることに思い至ります。

 

 今の自分を省みるに、自然環境は過酷であり、そこに1人で放り出されたら生き延びることが困難ではないかと思います。しかし、今自分が何も問題なく生きていること、死の危険が遠ざかっていること、それは文明に囲まれた一時だけ、考えなくてよくなっているだけで、決してなくなったわけではないことなどを思い出したような気持ちになりました。子供の頃は、田舎の山野を駆け回って過ごしていたので、今に比べればもっと実感があったことが、都会の土地と水に慣れてくるとどんどんぼんやりとしてきます。それは基本的にはいいことなんでしょうが、たまに思い出しておいた方がいいとも思っていて、それがこの映画を観て思い出されたような気がしました。

 

 強い意志がなくとも生き延びることが出来る世の中では、必要が生きているということが希薄になってきます。しかしながら、誰だって生きることが必死な世の中では、利害関係の異なる他人を思いやるような余裕は生まれにくいものです。生きている実感など希薄なぐらいが幸福なのかもしれません。そうであることに気づきさえすれば。

 この物語の中では同じレベル同士である、人間と人間の争いもエグいほどに描かれますが、それ以上に、その背後にある争いにすらならないほど一方的に尊大な自然と人間の関係性強くが描かれていると思います。そんな自然と、それに抗う人間の姿をを見ているだけで、二時間半以上あるこの映画は全く退屈することなく、息を飲み、そして、登場人物達の息づかいを聞き続けて終わってしまいました。

 そうだ、生きている。生きているんだなあと思いました。

「金色のガッシュ」のコルルについて

 今週のマガジンから雷句誠の新連載が始まりました。僕は雷句誠の「金色のガッシュ」がめっちゃ好きなので、本作に登場するコルルという少女について書きます。

 

 金色のガッシュは、魔界の王を決めるため、千年に一度開催される100人の魔物の子による戦いを描いた漫画です。魔物の子たちは、人間界に送り込まれ、人間のパートナーを得て、その戦いに臨みます。人間と魔物の子の絆となるのは一冊の本です。その本に書かれた呪文は、魔物の子の成長に合わせてその数を増やす、魔物の子の持つ才能の結晶です。しかし、その呪文はパートナーである人間の口で唱えられない限り、その力を発揮することができません。

 人間と魔物、そのタッグがともに成長することでしか、この戦いを勝ち残ることはできないのです。この漫画の主人公、高嶺清麿もまた、魔物の子ガッシュと出会い、パートナーとなって、辛く厳しい戦いに身を投じることになります。

 

(以下、金色のガッシュのネタバレが含まれますのでご了承ください)

 

 コルルはそんな100人の魔物の子のひとりです。彼女もまた、その秘めたる才能を認められて、100人のうちのひとりに選ばれました。しかし、コルルは戦うことを望まない、優しい心を持った少女でした。しかし、この戦いでは「戦わない」という選択肢を選ぶことが認められません。戦いに不向きな性格の子供には、別の人格を与えられ、呪文をきっかけに凶暴な性格へと変えられてしまいます。そして、そんな凶暴な別人格は、あらゆるものを壊し傷つけようとし、その結果は、元の優しい人格をより深く傷つけてしまいます。なんと残酷なことでしょう。

 ガッシュは過去の記憶を奪われて魔物の子供です。それゆえ、ガッシュは自分が何のために戦わなければならないかが分かりません。しかし、コルルとの戦いを通じて、彼女が深く傷ついていく様子を見て、ガッシュははっきりと自分の目指すべき場所を見つけます。本を焼かれて、消えて行く彼女は「魔界にやさしい王様がいてくれたら…こんなつらい戦いはしなくてよかったのかな…?」と呟きました。コルルはそんな願いをガッシュに託し、魔界へと還って行くことになります。

 「やさしい王様」。ガッシュは自分が王様になり、こんな残酷な戦いを二度と起こさせないことを心に誓うのです。そしてガッシュは、同じくやさしい王様を目指す仲間を増やし、戦うのです。たとえ自分が負けたとしても、誰かがその意志を継いでくれるように。

 

 ココという人間の少女がいました。貧乏ながらも優しい少女です。貧乏を理由に盗人の冤罪をかけられても、必死で耐え、頑張って勉強し、奨学生として大学への入学も決まっていました。彼女はシェリーという少女を助け、そして助けられ、強く生きていました。自分たちは頑張って幸せになるのだと信じていました。

 ゾフィス。これはココをパートナーに選んだ魔物の子の名前です。ゾフィスには人間の心を操る能力があります。ゾフィスは、ココの心をいじりました。彼女の中にあった憎しみを増やし、彼女が大切に思っていた沢山のことを忘れさせます。

 自分を蔑んだ人々の暮らす町を、火の海に沈めたココは、にこやかな笑顔でシェリーにこう言いました。

 

 「凄いでしょ?私、こんな力を持ってたの」

 

 もちろん、ココの本心ではないでしょう。しかし、それはもしかすると、ココの心には種として植わっていたものかもしれません。彼女が無力であり、貧乏であり、それゆえに理不尽に蔑まれていたことは事実なのですから。そして、それは彼女の優しい心の中では発芽しないままに一生を終えるはずだったものかもしれません。ココはゾフィスとともに町を去り、残されたシェリーはブラゴという魔物のパートナーを得て、後に戦うことになります。次の魔界の王を決める戦いは、魔物も人間も、その意志を関係なく巻き込み、その心を踏みにじってまで続けられるのです。

 

 「金色のガッシュ」には多くの人間と魔物の子が登場します。彼ら彼女らには、それぞれ大切なものがあり、そのために力を合わせて戦います。その願いは叶ったり、叶わなかったりします。人間界と魔界、本来隔てられた場所にいるはずのパートナーは、強くなり、勝ち残るために絆を深めます。しかし、負ければ待っているのは別れです。多くの戦いがあり、多くの別れがあります。

 別れ寂しく悲しいことですが、それでも、隔てられた向こう側で元気に暮らす相手を想像できればまだ和らぐかもしれません。しかし、物語の終盤、ある事実が分かります。魔界の王とは、つまり、全ての魔物の生殺与奪を握った存在であるということが分かるのです。王の気に入らない魔物は、次の時代には全て排除されることになります。

 そして、強大な力を持つ最も王に近い魔物の子が登場しました。彼の名はクリア、消滅の力を司り、王になった暁には、全ての魔物を消し去り、自分も死ぬことを望む、破滅の権化です。

 ガッシュの物語は、それまで出会った仲間達の力を合わせてクリアを倒す、最期の戦いに収束していきます。

 

 クリアとの戦いでガッシュの仲間たちは、ひとりまたひとりと消えてゆき、100人いた魔物も残りはたった3人だけになります。それは、クリアと、それに相対するガッシュとブラゴです。クリアの力は強力で、その消滅の力は、ガッシュとブラゴの力を奪い去ります。しかし、ガッシュは立ち上がるのです。立つこともままならない状態で、仲間達のために立ち上がるのです。その胸にあるのは「やさしい王様になる」というコルルや、他のみんなたちとの約束です。

 打つ手がなくなったと思ったそのとき、ガッシュの願いに呼応して、清麿の持つ赤い本が、金色の輝きを放ち始めました。そこに現れた呪文は「ジオルク」、それはガッシュの力ではありません。かつて消えていった魔物の子のひとり、ダニーの呪文です。守るべきものを守るため、自分の本が燃えて消えることも辞さなかったダニーは、ガッシュと心を通じ合わせたひとりでした。彼の術はガッシュの体を癒します。

 ガッシュの本の下に、消えて行った仲間たちの力が集まるのです。魔界で魂だけの姿のなっていた彼らの力が、最期の戦いを見守る彼らの想いが、届くのです。ウォンレイの呪文「シン・ゴライオウ・ディバウレン」は、巨大な虎の姿となり、クリアの放った攻撃を引き裂いて防ぎます。レインの呪文、「シン・ガルバドス・アボロディオ」は、幾本もの巨大な腕となり、その爪でクリアに襲いかかります。

 ガッシュの本の金色の輝きは、消えて行った魔物の子たちの才能を最大限に引き出し、次々と繰り出される連撃としてクリアに襲いかかります。勝つことが不可能かに思えた強固な防御力と、全てを消し去る強大な攻撃力を兼ね備えたクリアが、その鎧を破壊され、その攻撃は跳ね返されます。不利を知ったクリアは逃げるのです。ガッシュたちの力が及ばないほど高く、成層圏を越え、宇宙に。その安全圏から一気に地球を撃ち滅ぼすために。

 

 せっかくの形勢逆転にも、打つ手がなくなったと思われたそのとき、新しい呪文が届きました。「シン・ライフォジオ」、それはたとえ宇宙でもどこでも、包んだ生命を守ってくれる優しい光です。そして、その力を持っていた者こそがコルル、それは人間界の戦いでは、まだ未熟で発揮できなかった、彼女に眠っていた才能です。

 

 「ガッシュ…私、人を傷つける術だけじゃなく、こんな力も持ってたわ」

 

 そう呟くコルルに対して、ガッシュは「ウヌ、素晴らしいのだ、コルル。優しい術だな」と応えます。そうです。みんな知っていたわけですよ。彼女が優しいことを。そして、それに見合う才能があったであろうことを。それが強大な的であるクリアを追いつめるときにようやく明らかになります。

 魔物の子、ティオが「チャージル・サイフォドン」という、自分の受けた痛みを攻撃力に変える力に目覚めた時、同時に目覚めていた「チャージル・セシルドン」という呪文がありました。しかし、その力は、ガッシュたちのピンチになるまで使うことができませんでした。「チャージル・セシルドン」は守りの力です。傷ついた仲間たちを目の前に「守りたい」という気持ちに比例するように盾の力が高まります。それはティオの才能です。怒りに任せて生まれたサイフォドンとは異なり、彼女の「守りたい」という気持ちが高まって初めて使えるようになった、彼女の本来の特性が純粋に現れた強力な力です。それは他の術とは比べ物にならない力を発揮します。

 

  コルルも同じでしょう。彼女には、生命を壊すのではなく、守るための強い力が眠っていました。その力は、別の人格に操られた発揮した凶悪な力とは比べ物にならない、強い優しさを秘めています。

  「金色のガッシュ」で発揮される強さは皆そういうものです。心の力を媒介にして発揮される数々の術は、人と魔物の心の成長に合わせて、その力が発揮されます。術の強さは心の強さです。自分がやるべきことを見つけ、そのために引き出された力はとても強いものです。そして、それは素晴らしいものです。

 

  物語の冒頭、記憶を奪われていたガッシュは、自分に電撃の能力があることを知り、それが危険な能力であることを清麿に指摘されて傷つきました。人と違う能力があること、それを持ってして化け物呼ばわりされることに。そして、それをせめて前向きに「人より優れている」と誇ろうとしたことを「危険」と指摘されたことに傷ついてしまうのです。自分は人と違い、それゆえひとりであると。

 清麿はそれを知り、自分もまた孤立していたところをガッシュに助けられたことを思い出し、その力を肯定し、戦うことを心に決めます。自分の運命と戦うために。その後、叫ばれた呪文「ザケル」は、それまでとは比べ物にならない強い力を帯びていました。ガッシュは、自分を取り戻すため、そして、誰も悲しいことにならない世の中を作る「やさしい王様」になるために、その心を成長させるのです。その偉大な目標は、ひとりの力では成し遂げられませんでした。数多くの仲間の力を借りなければ成し遂げられなかったことです。その中にはもちろんコルルの力も含まれています。

 

 困難に立ち向かい、みんなの笑顔を取り戻すために、皆が心を成長させる、「金色のガッシュ」はそういう物語だと思いました。めっちゃ面白いです。新連載の今後も楽しみです。

 

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獣性と神性の中間にある人間性について(ズートピアの感想にかえて)

 ディズニーの映画、「ズートピア」が公開になったので観て来たんですが、めっちゃ良かったです。

 

「ズートピア」とは 

 「ズートピア」は、文明を獲得した動物たちが暮らす都市を舞台にした物語です。そこではかつては食べる側だった肉食獣と、食べられる側だった草食獣が、もはやそういった関係性を遠い過去のものとし、同じ言葉を喋って同じ社会の中で暮らしています。

 この動物たちの楽園において、平等であるということを実現することは人間社会以上にとても難しい問題です。なぜならば、動物たちは体の大きさや形や性質がまちまちだからです。体が異なれば最適解も異なります。体の大きな動物用に作られた大きな扉を、体の小さな動物は開けられません。体の小さな動物用に作られたものを、体の大きな動物が使うことは難しいことです。それらは合理性から区別されることになりますが、では、差別と区別の違いはどこにあるでしょう?世の中で最も解決が難しい差別は、ある種の合理的を伴っているものだと思います。

 一見合理的な理由が見つけられることであるからこそ、ある人と別の人の持つ権利に差があっても「仕方ない」とされてしまったりします。しかし、それらは本当に仕方ないことなのでしょうか?

 

 さて、ズートピアについての直接的な感想は、公開間もないこともあり、また後日気が向いたらということにします。そして今日は、それに微妙に関連しているようなしていないような感じのことについて思っていることについて書こうと思います。

 

 ズートピアにおいて動物たちは、野生を捨て、人間性を獲得して社会を構築しました。ではそこに生まれた「人間性」とはつまり何なのでしょうか?かつてと今では何が変わったというのでしょうか?

 

amazarashiの「多数決」とジョージ秋山の「アシュラ


amazarashi 『多数決』Music Video

 最近買った、amazarashiのアルバムに収録されている「多数決」という曲に、以下のような歌詞があります。

その実、知恵のある振りをした獣だから

空腹もこれ以上無い動機になりえた 

  この部分の歌詞を聞いたときに、この曲の主題とは別に連想ゲームで思い出した漫画がありました。それはジョージ秋山の「アシュラ」です。「アシュラ」は、人間が獣に立ち戻り跋扈する悲惨な世の中において、人間であろうとすることの苦しみを描いた漫画だと思います。つまり、「人間性とは何か?」ということを問うているのです。

 「アシュラ」において、人間がなぜ獣に立ち戻ってしまうかというと、それは生きるために必要だからです。時は平安時代の末期、飢饉によって食べ物がない時代は人間から人間性を奪いました。この漫画に登場する多くの人は、生きる為に他人の肉を食べるという選択をしてしまいます。

 アシュラは、そんな世の中で、人肉を食べて生き延びたある女性の子供です。そして、その女性は人を殺し、あるいは腐肉を喰らってまで生んだ実の子供であるアシュラすら、火にくべて食べようとしてしまいます。なぜならば空腹であるからです。食べなければ生きていけないからです。実の親に食べられそうになったアシュラは、全身を大やけどしながら、人間社会の外で、人の情を知らずに育つ子供です。アシュラは生きるために人を殺し、生きるためにその肉を喰らうのです。

  人が獣として生きる世の中で、人間であろうすることは苦痛を伴います。なぜならば、心は人間であろうとするのに、その身は獣に落とさざるを得ないからです。矛盾を抱えてしまうことは、人を苦しめます。

 「生まれてこない方が良かった」、アシュラはそう嘆きます。人間であれと諭す坊主に、アシュラは自分は獣であり、みんなも獣であると返します。「おれが生きていくのに 人間らしさがなんの役にたつんだ」と主張します。坊主は、誰しもが獣の本性を持つことを認めながらも、人間らしく生きることが必要だと説きます。そして、人間はどんなに人間らしくあろうとしても、獣の本性をさらしてしまうことがあるというのです。それが、人間のあわれさです。坊主は、獣と化した両親を、アシュラに何もしてくれなかったどころか、殺して喰おうとした両親をゆるしてやれと言います。そして、アシュラにその言葉は届かないのでした。まだ。

 

人間性について

 僕が思うに、人間の感性の中には獣性と神性と分類できるものがあり、人間性はその中間にあるんじゃないかと思います(ここで出て来る言葉は全部、僕が便宜上、適当に定めた言葉です)。

 獣性とは、言うなれば個人主義です。自分の生存のために、他人をないがしろにするということです。神性とは、全体主義です。個人の利益を追求するのではなく、全体として上手く回るように考える感性です。一見、神性であれば良さそうに思いますが、より強い暴力を発揮し得るのは神性の方だと思います。なぜならば、獣性の暴力は自身の生存のために発揮される個人レベルのものですが、神性の暴力は全体のために不利益な「それぞれの個人の持つ獣性」を許容せず、弾圧する方向に作用し得るからです。

 人間が自分の生存を望む生物である以上、獣性を切り離すことはできません。切り離せないものを弾圧する暴力は、抵抗に応じてより強く、そして広範囲にばらまかれる可能性があるでしょう。それは、場合によっては社会構築の障害にすら成り得ます。かといって獣性しかなければ、社会を作ることができません。なので、獣から人間となり、社会を構築する根源となる「人間性」は、その間にある「いい感じの部分」のことではないかと思っています。

 

 自分の利益を追求する獣の部分と、全体の利益を考える神の部分のその両方を兼ね備え、バランスをとることが人間性であり、そのバランスは時代や場所や各人によって微妙に異なるものだと思います。それは言うなれば危うく、言うなれば柔軟です。

 

神と獣、理想と現実

 僕の感覚では人間は神には成り得ないですし、獣でなくなることもできないと思います。それは理想主義では生きていくことはできず、どこか現実に足場を置かなければならないというという感じの意味です。

 自分から獣の部分を切り離せると思っている人と、そうでない人がいると思うんですが、僕は切り離せない派で、なぜかというと、金に困ったことがあるからです。その結果、食うものに困ったことがあるからです。食うものに困ったとき、他人に対する攻撃性がある自分の中の獣の部分を痛感しました。近年の自分は割と、全体のことを考えて理想的に行動できているような気もしますが、それは近年は金に困っておらず、その結果、食うものに困っていないからだと思いますし、また困るようになったら、今のような考え方でいることはきっとできないでしょう。きっと自分の食い扶持を稼ぐために、他人をないがしろにし始めると思います。

 「アシュラ」を昔、初めて読んだときに強く心を動かされたのは、自分の中のこういう部分に気づいているからだと思います。人間には豊かさからくる余裕がなければ、きっと獣の本性を隠すことができなくなります。そして、それは同時に、豊かささえ確保できれば、本性が獣であったとしても、人として社会を形作ることができるということでしょう。僕は、それが素晴らしいなと思います。そして、だからこそ、豊かさを失うということに対する不安があります。

 

 その本性が獣であることをやめることができない人間が、豊かさを前提にバランスよく他人と上手くやることを覚えたということが人間性ではないでしょうか?その背後に獣の部分が埋まっていることは、恥ずべきことではないと思っています。それを眠らせておき続けるだけの豊かさを確保し続けなければなりませんが。

 僕がより恐ろしいと感じるのは神の視点に成り代わり、獣の部分をなくそうとすることです。獣の部分は確実にあるのに、ないことにしようとすることは、つまり、獣の部分を出してしまった人を社会から排除するということによってのみ達成されると思うからです。あるいは、獣の部分があるかもしれないことを示唆するだけでもアウトかもしれません。それは実は誰しもが持ち合わせているはずなのに。

 それがより恐ろしいのは、その獣を排除しようとすることに、ある程度の合理性を感じられてしまうからです。合理的なことは肯定される力が強いですが、その結果、本当ならもっとよく考えるべきことが考えられないかもしれません。そして、それは人間が獲得した人間性をむしろ失わせる行為ではないかと思うのです。

 

 amazarashiの「多数決」では、正しさや間違いがその時代時代の人々の多数決で決まってしまうことについて歌われています。それはとても恐ろしく、そして合理的な行為であると思います。

秋葉流はなぜうしおととらを裏切らなければならなかったのか

 ある男がいた。彼は、凡百の人間が長い鍛錬と研鑽を重ねてようやく到達する高みに、一足飛びに駆け登ることができるような男だった。つまり、彼は天才だった。そんな彼を多くの人は羨む。そして、そんな羨みは、いずれ不平不満に変わるだろう。なぜならそれはある種の不公平だからである。

 なぜ、彼だけが特別な天才であり我々はそうではないのか?なぜ普通の人ならば要求されるだろうほどの対価もなしに、天才は結果の果実を手に入れることができるのか?人間が平等であるならば、それはおかしな話だ。普通の人々が100の労力をかけて手に入れる能力を、彼はたったの1の労力で手に入れてしまう。誰にも100円で品物を売っているお店が、彼にだけ1円で売っていればそれは不公平だろう。人間は平等であるべきという考えは、そんな不平等さを是正しようとする。

 結果として、彼は天才であるがゆえに、天才ではない人々によって足を引っ張られることになる。それが彼だけを対象としていればまだ良かったかもしれない。しかし、その矛先は彼の家族にも向けられた。そして、彼の母はその圧力に耐えられるほどに強くはなかった。そんな中、彼はひとつの結論に至る。

 

 「オレは…本気を出しちゃいけねえんだ…」

 

 恵まれた男は、自分が恵まれているという事実をを隠さなければならなくなった。彼は自分が望んで才能に恵まれていたわけではないのに。ただ、そのような星のもとに生まれたというだけなのに。

 その男の名前は秋葉流と言った。

 

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 秋葉流は、その後、光覇明宗の法力僧となる。法力僧として妖怪と戦うという使命は、彼の持て余す能力に対して良い暇つぶしとなった。天才である彼は、妖怪と戦う能力にも非凡な才能を認められた。彼は、たった4人の獣の槍の伝承候補者にも選ばれることになる。

 獣の槍とは白面の者を唯一打ち倒せる武器である。白面の者とは九つの尾を持つ巨妖である。そして、生き物の恐怖を喰らって成長する存在である。白面の者とは、数千年の昔から、全ての人間の、そしてまた全ての妖怪たちの敵である。

 

 「うしおととら」の物語の終盤、彼、秋葉流はうしおととらを裏切ることになる。つまり、秋葉流は人間側ではなく、白面の者の側についたのだ。それはあまりに不可解であった。なぜなら、それまで流はそんなそぶりを一切見せていなかったからだ。読者である僕は、作中のうしおのように、彼の正気を疑った。他の人間たちのように白面の者に記憶を奪われているのではないかと。あるいは、白面の者に洗脳され、操られているのではないのかと。それらの疑問を秋葉流は明確に否定する。彼は自らの意志で、うしおととらに敵対したのだ。

 彼の裏切りが本心であったのなら、今までの流は嘘だったのであろうか?もし、嘘だったのだとしたら、どこからどこまでが嘘だったのであろうか?それに対しても彼は明確に否定する。「本気だったさ…」と。流は何一つ嘘をついていなかった。そして、嘘をつけなかったからこそ、彼は裏切らなければならなくなったのではないだろうか?

 

 秋葉流はなぜ、うしおととらを裏切らなければならなかったのか?

 秋葉流の口から語られるひとつの理由は、「とらと戦いたかったから」だという。とらは、獣の槍に何百年も壁に縛り付けられていた最強の妖怪である。うしおととらが、白面の者との最終決戦に向かうさなか、彼はとらとの二人だけの決闘を望む。それもひとつの本心だろう。なぜなら、秋葉流は天才であるがゆえに本気を出す機会を奪われていたからだ。彼には彼が全力を出せる相手が必要だったのだ。そして、とらと戦うことにはもうひとつの目的がある。そうすればうしおが流を、もう「信じきった目」で見なくなると思ったからだ。

 そんな流の心情について、とらは責め立て嘲笑する。流はうしおの真っ直ぐな目が怖かったんだろう?と。自分を信頼しきった真っ直ぐな目に耐えられなかったんだろう?と。自分はうしおに信頼されるような上等な人間ではないと流は思っていたのだ。そして、それを証明するためにこそ、白面の者の側についたのだと。

 

 蒼月潮(あおつきうしお)とは、運命に選ばれてしまった少年である。白面の者を封じる運命を背負った母を持ち、その父は、かつて獣の槍を使い、魂を削って獣になりかけた男を先祖に持つ。うしおはまた時空を遡り、獣の槍の誕生にも立ち会うことにもなった。獣の槍は白面の者を打ち倒せる唯一の希望である。であるがゆえに、光覇明宗がその使い手を育てようとしてきた。しかし、封印されていたその槍を抜いたのは、光覇明宗の法力僧ではなく、何の特別な修行もしていない少年、うしおなのであった。

 なぜなら、うしおは、長きにわたる白面の者との戦いを終わらせる運命を背負った少年だからである。しかしながら、それを分からない法力僧たちはうしおに対して怒りを燃やす。なぜ獣の槍の使い手が厳しい修行に耐えた我々の中からではなく、たまたま槍を抜いたうしおであるのか?と。伝承候補の別のひとり、キリオの物語において、一部の法力僧たちは獣の槍を壊そうとすらする。なぜなら、獣の槍はうしおにしか使えない武器だからである。この反乱もまた白面の者の罠であったが、ある名もなき法力僧は騙され死ぬ間際こんな言葉を残した。「我々も…白面の者と…戦いたかった…」と。

 

 

 うしおと流の境遇はある観点からは似ていると言えるだろう。うしおは、獣の槍を使い、白面の者と戦うという運命を背負わされている。そして、流は何でもできる天性の才能を背負わされている。どちらも、本人が特別望んだことではない。そして、本人が望んだわけでもないことについて、周囲の人々から、不公平を叫ばれる。

 しかし、彼らは決定的に異なる。なぜならば、うしおはそんな与えられた運命の中でも獣の槍を使い続け、「人を助ける」ことで味方を増やしていくからだ。そして、一方、流はその自身の溢れる才能を「他人を傷つける」ものとして隠すことにした。同じ、天から与えられた特別な運命を背負った二人は、残酷なほどにくっきりとその差を見せつけられた。

 流にとってより残酷なのは、流自身にそのうしおの魅力を理解できるからであろう。うしおが誰にも認められていく理由が分かれば分かるほどに、自分が認められない理由もまた自覚してしまう。それまでは、自分に敵対する凡人に対して、「才能のないやつが才能のある人間に嫉妬している」、そう思えばよかったかもしれない。自嘲気味に本気を出さないことで自分自身を守れたかもしれない。しかし、自分とは違った意味での才能にあふれた人間を見たとき、自分が周囲に認められない理由は、「才能がある人間に愚劣な弱者が嫉妬しているだけ」と思うことはもはやできなくなる。なぜなら、似た境遇でも、そうはならないという実例をまざまざと見せつけられてしまうからだ。

 そのときになって初めて流は、凡人たちが天才である自分に対して持っていた目線と同じものを、自分の中に発見することになるだろう。その目線とはつまり「嫉妬」である。なぜ、同じような抗えない運命を背負った人間が、あちらは認められたのに、こちらは認められないのか?と。不公平であると。

 

 うしおを認めることは、それまでの流自身を否定することである。流はうしおを認めるわけにはいかない。しかし、悲しいことに流はうしおの価値をとっくに認めてしまっていた。自分にはできないことをやってのけるうしおの存在を誰よりも認めてしまっていたのだ。そんな自分の気持ちに嘘をつけない流が、それでも自分を保つためには、もはやうしおに敵対することしかできなくなる。そうでなければ今まで自分を支えてきたものが反転して自分に襲ってきてしまうからだ。天才ではない人々が天才に向けた嫉妬の眼差し、自分を苦しめてきたものと同じ眼差しを、自分もまた持ち得てしまうことになるからだ。それはうしおの真っすぐな目の前で、よりはっきりとした姿を持ちうる。それは流にとって、とても残酷で、とても悲しい話だ。

 

 流はとても強いが、とらはそれ以上に強かった。とらに敗れた流は「オレはもうちょっと早く、戦っときゃよかったんだなァ…おめえとよ」と言い残した。それはつまり、自分より上がいることを認識し、自分が特別な天才であるという認識をもっと早く打ち砕かれていればよかったということだろう。自分が特別でないと思えば、そもそもの苦しみはなかったかもしれないということだろう。

 しかし、残念ながらそれは起こらなかったことだ。結局のところ、うしおととらの物語の中では、秋葉流が秋葉流でいるためには、うしおを裏切り、とらと戦うしかなかったのだ。

 

 もし、別の可能性があったのだとしたら、流はどうするべきだったのだろうか?

 この話題の一部は藤田和日郎の次の連載、「からくりサーカス」で引き継がれて語られている。主人公のひとり、中国拳法の使い手の鳴海は、その師匠に「強くなったから、どうだというのか?」という空虚さを抱えていることを指摘される。虚弱体質で泣き虫だった鳴海は、弟が生まれてくることを知り、お兄ちゃんになるからには強くなければならないと中国拳法の門を叩く。しかし、不幸なことに弟はこの世に生まれてこなかった。鳴海は理由を喪失したままに、ただひたすらに強くなる。しかし、鳴海の胸中には、その力の使いどころがないがゆえの空虚な風が吹いていた。師匠はこう続ける。「その風は、いろいろな英傑の心にも吹いていた風だが…結局その風を止める方法は各人が見つけるしかなかったのだ」と。強い力を持つ者は、その力を使うべき場所と理由を自分で見つけなければならない。

 秋葉流の最期の言葉は、「ああ…なんだ…風が…やんだじゃねえか…」である。とらと全力で戦い、敗北することで、彼の胸の中にも吹いていた風は止まったのだ。それはもしかすると、もう少し早ければ、死ぬ以外の結末を迎えられたかもしれない。しかし、ともあれ、秋葉流は使いどころの分からないその溢れる才能を、最大限ぶつける相手を見つけ、満足して散って行ったのだろう。それは悲しい話だが、不幸な話ではなかったかもしれない。

 

 白面の者との最期の戦いにおいて、死した流の魂は、うしおととらの元に駆けつける。彼の心にはもう風は吹いていないだろう。彼は、その力を使うべき場所をもう知っているからである。それは少し遅かったかもしれないが。

 

 秋葉流は、大きな才能に恵まれながら、その強い力の使い所を見つけられなかった悲しい男である。秋葉流は、うしおになりたくて、なれないことも知っていた男である。しかし、とらが他の字伏たちのように憎しみに飲まれなかったように、秋葉流もまた、うしおと出会い、とらと出会うことで、自分自身を取り戻した男かもしれない。

 何でもできた秋葉流は、不器用なことに、うしおととらを裏切らなければそれができなかったのだ。