漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「国民クイズ」と一億二千万人の独裁者

 人間は平等で、それぞれが持つ権利に格差があってはならない。その考えは、近代的価値観においてとても正しいものだろう。ある人間が別の人間と比較して権利が制限されないことを保証するということは、個人の尊厳を守るために有効に機能し、その社会の構成員全体がそれなりに悪くなく過ごすためのよい方法なのではないかと思うからだ。

 しかし、平等であるということにはデメリットもある。それは、全ての人間の持つ権利が均等であるならば、自分自身の持ち得る価値も全体分の一に稀釈されてしまうということだ。例えば、選挙で「あなたの一票が世の中を変える」と謳われたとしても、そんな一票の持つ力は自分以外のたった一人が、真逆の意見に一票を投じた時点で相殺されてしまう。自分が考え抜いた一票でも、他の人がサイコロを振って決めた一票でも、その判断をする人間の権利が等価値である以上、同じ一票である。十分大きな社会では、社会全体に対する自分の価値は限りなく薄くなる。

 ひとりひとりの人間の価値を等しくしようとする考えは、結果的に全ての人間に「平等に価値がない」という烙印を押してしまうようにも考えられる。そして、人間はそれを受け入れられるようにできているだろうか?人間は平等だと謳いながら、誰か他人を見下してはいないだろうか?自分よりも価値の低い人間だと思い込んではいないだろうか?もし、ひとりでも誰かを自分より価値がないと見下しているのなら、全ての人間を平等と考えることは自分自身の認識と矛盾するだろう。

 自分には他人よりも価値があると思っているのに、等しく他人と同じだけの価値しかないと扱われてしまう。その認識の差分は、場合によっては澱のように蓄積し、何かのきっかけで舞い上がっては水を濁らせるかもしれない。

 

 このように平等な世の中でにおいて、世の中を変えるのは自分の一票ではない。少なくともみんなの百票や千票が必要なのだろう。そして、その百票や千票や一万票を集めることができないような無力な少数派は、黙殺されてしまう。

 

 さて、僕の個人的な価値観では、それは正しいことだ。世の中はそうでなければいけないと思っている。仮に僕がごく少数派の意見を持っていたとして、僕個人の勝手な一票だけで世の中に動かれてしまったら困る!と思ってしまう。つまり、皆に関わる何かを変えたいならば、同じ意見に賛同する仲間を増やし、数の力とする手続きを踏む方がいいと感じているということだ。他人の賛同を十分に得ることすらできないなら、その意見に全体を付き従わせようとすることには、大きな副作用が伴うことが容易に想像できてしまう。そう想像してしまうかは人によるかもしれないんだけれども、少なくとも、僕はそんな感じに想像してしまうのだものしょうがない。

 

 さて、「国民クイズ」という漫画には国民クイズという制度が存在する。その制度が何であるかというと、あるひとつの観点では「議会制民主主義に対する代替案」である。つまりそれは人間を不平等に扱うということを宣言するということでもある。この漫画は、そのような不思議な制度を中心に据えた物語であり、それは、民主主義とは全く異なる制度であるとともに、なんと毎夜放送されるテレビ番組でもある。

 国民クイズに勝ち残りさえすれば、その勝ち残った一個人の欲望が、政府によって何でも叶えられる。国民クイズは、希望しさえすれば大人も子供もお姉さんも、国民の誰もが平等に参加可能なイベントあり、そして、毎夜テレビの中で踊り続く狂乱の宴なのであった。

 

 国民クイズは人間の欲望を肯定する。人間が欲望を公開することは、場合によっては悪と断じられるものだと思う。なぜならば、それら欲望は、他人の人権を蹂躙するものであるかもしれないからだ。それゆえ、平等で公正を謳う世の中では、ある種の欲望は胸の中に押し込める必要がある。しかし、国民クイズはそんな欲望を国家権力が全力で肯定してくれる。作中の言葉を使えばこうだ。

 

そう!それが国民クイズの画期的なところだ

恵まれない子のために養護施設を作りたいという奴…

双子の処女と3Pしてみたいという変態…

どっちの希望も同列に扱っている!


 それがどんなに下劣な欲望であろうとも肯定してくれるのが国民クイズだ。しかしながら同時に、国民クイズはその欲望がいかに醜悪であるかも世間に露わにしてしまう。なぜならば、国民クイズで叶えられたい欲望は、参加者が公言する必要があり、そしてテレビで全国の視聴者に向けて放映されてしまうからです。

 そして、国民クイズで決勝進出した人間は、勝ち残れず敗退してしまうと、その欲の内容やクイズの点数に応じて、ある種の犯罪者として刑罰を受けることになってしまう。なぜならば、その彼あるいは彼女は、未遂に終わったとはいえ、反社会的な欲望を国民クイズを使って実現しようと試みた人間であることが分かるからである。国民クイズを利用して、そんな反社会的な行為を実現しようとするだなんて、国民クイズに勝ち残らない限りは決して許されるべきことではありません。とんでもないことだ。ゆるせん。

 

 国民クイズの視聴者は、狭量で我欲にまみれた自分のことしか考えない参加者たちが、敗退していく様子をあざ笑い、同時に勝利した参加者が、そんな身勝手な欲を叶えられることに憧れる。この制度はつまり、ある種の独裁政治である。ただし、その決定者は国家の首長ではなく、一国民である。たった一人の主権在民は、リスクのあるチャレンジを越えたその場その時の一度だけしか決定権を認められない。

 しかし、そのとき、たった一度だけであったとしても、自分の願いが、欲望が、誰の邪魔もされずに叶えられるのだ。それは残りの国民からしてみれば不平等な話であるだろう。国民は平等なはずなのに。

 ただし、もしかすると、平等を謳う人間は「自分より他人が恵まれることを許せない」だけかもしれない。であるならば、自分ひとりだけが恵まれるのだとすれば全然アリな話だ。しかし、万人が万人に対して、恵まれることを許さなかったとき、互いに繋がれた綱引きの綱が張りつめた結果としての平等が実現する。この見方では、人間は生来平等ではない。全員が手元の綱を全力で引っ張った結果、一時的な平等が実現する、などという解釈となる。ただし、そこには綱を引っ張る権利が万人に認められていることも見逃せないが。

 

 国民クイズは、自分に絡みついた自分以外の万人からの綱を、一度だけ切ることができるチャンスだ。それは、どんなどん底にいる人々にも、蜘蛛の糸たる一筋の希望の光を与える制度である。

 自分ひとりだけが恵まれたい。その欲望を国民クイズだけが否定しないでいてくれる。国民クイズを存続させているのは、国会を占拠し、国民クイズ革命を起こした人々であろうか?いや、きっとそれは違う。たかだか数万人の占拠でひっくり返った政治体制は、再び数万人が集まればひっくり返されるはずだ。それをしないのは、国民クイズがあることを望む人々がいるからだろう。

 それは宝くじと同じである。期待値を考えれば買う意味がないのが宝くじだ。賭けたお金はほとんど損をする。それでも宝くじが続くのは、もしかしたら自分がひとりだけ恵まれるかもしれないという願いを捨てることができない人々がいるからだろう。この国から宝くじがなくなることがないように、あの世界では国民クイズ体制を止めることはできないのだ。

 

 そもそも人間を不平等に扱うのは、もしかすると実は効率がいいのではないだろうか?合議制では結論が出るのに時間がかかる。誰も不公平がないような競争環境を構築することは面倒な話だ。何かを選ぶとき、それが公正で妥当であることを常に証明し続けなければならない。不正をしていないという証拠を作る作業に、プロセスが正当であることを保つために、社会は大きな労力を割いている。

 もし、人間が不平等であれば、その手間はなくなる。面倒を嫌う人は心の底で望むかもしれない。世の中が不平等であればいいのにと。ただし、その不平等において、自分がいると想像するのは、恵まれている側だ。それは人間の欲のひとつである。

 

 人々は理由を求めているのではないだろうか?自分の欲望を他人に認めさせるのに足るだけの理由を。誰しも欲望を抱えているだろう。しかし、それは表には出せないはずだ。個人の欲望は醜悪であるからだ。それが醜悪であるかどうかは、公正で公平であるかどうかで判断される。不正に不平であるものは醜悪と断じられる。

 であるがゆえに、それらの欲望は、あたかも公正で公平であり、場合によっては自己犠牲であるかのように表面を糊塗されてごまかされる。見た目を欲望以外のものでラッピングしてリボンを括り付けてしまえば、外に出せると思うからであろう。

 例えば、不正をした議員が叫ぶ「自分は世のため人のために頑張っていたのだ」という言葉は、つまりそういう意味だろう。その不正は自分だけが恵まれようとした醜悪なものではない。みんなに利益のあることをしようとしたのだ。だから、それがいかに不正であったとしても、自分のためでなく皆のためであったのだから、ある種の公正でもある。だから、自分を赦せという要求だ。高い理想は、このように自分の狡さを肯定するために利用されることがある。

 「不正」を片側に乗せられて大きくバランスが崩れた天秤の、逆側に「大義」を乗せれば釣りあうと思っている。やましいことのある人間は、どんどん話を大きくする。小銭をごまかした話や、交通法規を違反した話を、社会制度の問題や、未来や宇宙の話にすることでごまかそうとする。逆側に大きな理由を乗せさえすれば、天秤の傾きが自分に有利に動くと思っている。

 理由とは武器である。自分の欲のために、他人を傷つけるに足る理由は、理由をでっちあげることができなければ起こらなかった数々の悲劇を起こしてしまう。

 

 「Q.E.D.  証明終了」に「巡礼」というタイトルの話がある。

(ネタバレあるので、気にする人は以下のパラグラフを飛ばしてください)

 

 そのお話は過去に起こったある事件の真相を追うものだ。ある気立ての良い男がいた。その男に起こった悲劇は妻を殺されたことである。そして、その妻を殺した相手が外国で掴まった。現地で行われる裁判の場に向かう途中、男は何故か列車を降り、1000kmの道を徒歩で現地に向かうことにする。男はなぜそんな行動をとったのだろうか?道もろくに整備されていない時代である。その男は、旅の途中に命を落とす可能性も十分あった。しかし、男は成し遂げた。生きて現地まで歩き切ったのだ。そして、出廷した裁判において、男が驚くべきことを口にする。自分の妻を殺した犯人を許すのである。男は犯人の死刑を望まない。そして、男は帰りの1500kmの道も徒歩で旅して帰った。

 その巡礼の旅が男の心にもたらしたものは何であろうか?

 ことの真相は、人々の予想に反するものであった。彼の巡礼の旅は、試練の旅であった。気立ての良い男である。復讐を考えても実行に出来そうにもない男である。だからこそ、男は自分に試練を課した。それがその旅である。男は、もし、この過酷な旅をもし成し遂げられたとしたら、自分の妻を殺した憎い犯人に、最も恐るべき復讐を実行する決意をしていた。

 巡礼の旅を乗り越えた男にはもはや十分な理由がある。復讐などできそうにもない男であった。しかし、彼は成し遂げてしまった。過酷な旅は、その男に、目を覆うような残酷な復讐を遂げるための十分な理由となった。男は自分の妻を殺した犯人にとって、最も大切な人を殺す。そして犯人はそれを知らなければならない。刑務所の中で何もできずに、自分の大切な人が殺されてしまったことを知らなければならないのだ。それが男の考えた復讐である。男の復讐とは、自分が味わったものと、同じ種類のものを犯人に与え返すというものであった。

 達成不可能とも思えた過酷なハードルが、達成できたことによってむしろ引き返すことができなくなる理由となってしまった。彼は魔道の巡礼者であったのだ。

 

 何かを成すにはそれに足るだけの理由が必要だ。国民クイズにおいては、それがクイズの形をしている。クイズは知識を計るものである。しかし、国民クイズで出題されるクイズは知識を計るものであるとは限らない。知りもしない人間の個人情報のような、普通の人間なら分かるはずもない問題が出題される。サイコロを振って出る目の数を当てるような運に任せた問題も出題される。国民クイズは知識のある人間だから勝てる種類のものではない。それはある種の儀式である。それは、独裁という権利を、一国民に全く理不尽に割り当てるために必要な理由を作りだす活動である。そのクイズは魔道である。

 もし、その独裁の権利が全く理由なくランダムに与えられたものだとしたらどうだろうか?人々はその事実を許せるだろうか?それが許されないのだとすれば、クイズが存在することには妥当性がある。リスクを抱え、困難を乗り越えた勇者であり、実力だけでは乗り越えられない幸運を得た者は、その異様な特権を乗せた天秤に、釣り合うだけの理由を獲得する。

 

 一見、理不尽なように見える国民クイズ体制は、そのような妥当性の上に成り立っているのではないだろうか?

 

 このような国民クイズ体制は、もちろん実際に成り立つことはないだろう。この制度は、世界一の経済力と、核による軍事力を得た、向かうところ敵なしの架空の日本だからこそ成り立つものだと思うからだ。国家が一個人のバカげた欲望を満たすために動いても問題のないほどに、無駄な豊かさがあるからこそ成り立っているものだ。ただ、その個人の欲望の背後には、頭の良い人間たちの思惑が隠れているのかもしれないが。

 独裁者はたったひとりでは成り立たず、その人物が独裁者であることで効率よく回る仕組みが用意されているものだろう。だからこそ、瓦解させ難い。その独裁者を殺せば終わるようなものではないからだ。そして、国民クイズでは、その独裁者が日ごとに変わる。

 国民クイズは架空の話だが、現行の体制よりも、ひとつ優れている点がある。それは前述のように個人の欲望を否定しないことだ。それは否定すべきものかもしれない。しかし、持っているだろう?誰しも、少しぐらいは、「自分だけが恵まれていたい」と。この物語は、国民クイズに少しでも憧れてしまった読者のそんな欲望の存在を暴いてしまう。

 

 しかし、それは表には出すべきではないものだ。出すべきではないが、ときおり世の中には見え隠れしてしまう。それは、それに足るだけの理由を見つけられた人たちから溢れ出る。充分な理由が見つかったとき、人は独裁者になってしまうのかもしれない。欲望を隠すだけの包装紙を手に入れたということだからだ。その規模の大小の様々であり、国家という規模となることは普通は考えられないが。ひとりひとりが独裁者候補である。それは欲望に釣り合う理由を見つけたときに分かることになるだろう。

 

 とまあ急に適当にまとめ始めたんですが、なぜ急に適当にまとめ始めたかというと、方向性も決めずに適当に書き始めて、「劇的ビフォーアフター」の録画を観終わるぐらいまで調子に乗ってだらだら書き続けてしまったせいで、落ち着きどころがみつからなくなってしまっているからです。僕はもう2000字ぐらい前に終わっておくべきだったなあと今思っています。

 何で書き続けてしまったかというと、なんか書き続けていると途中でうっかり立派なことを書けるんじゃないかなあと思ったからなんですが、全然そうでもないし、今こうやって言い訳を書いています。何故でしょうか?これもまた人の欲のなせるわざなのでは???などと思っていますが、今のこれも上手いことまとめようとして、まとめられなかった感じなので、最悪だ。

  おやすみなさい。