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秋葉流はなぜうしおととらを裏切らなければならなかったのか

 ある男がいた。彼は、凡百の人間が長い鍛錬と研鑽を重ねてようやく到達する高みに、一足飛びに駆け登ることができるような男だった。つまり、彼は天才だった。そんな彼を多くの人は羨む。そして、そんな羨みは、いずれ不平不満に変わるだろう。なぜならそれはある種の不公平だからである。

 なぜ、彼だけが特別な天才であり我々はそうではないのか?なぜ普通の人ならば要求されるだろうほどの対価もなしに、天才は結果の果実を手に入れることができるのか?人間が平等であるならば、それはおかしな話だ。普通の人々が100の労力をかけて手に入れる能力を、彼はたったの1の労力で手に入れてしまう。誰にも100円で品物を売っているお店が、彼にだけ1円で売っていればそれは不公平だろう。人間は平等であるべきという考えは、そんな不平等さを是正しようとする。

 結果として、彼は天才であるがゆえに、天才ではない人々によって足を引っ張られることになる。それが彼だけを対象としていればまだ良かったかもしれない。しかし、その矛先は彼の家族にも向けられた。そして、彼の母はその圧力に耐えられるほどに強くはなかった。そんな中、彼はひとつの結論に至る。

 

 「オレは…本気を出しちゃいけねえんだ…」

 

 恵まれた男は、自分が恵まれているという事実をを隠さなければならなくなった。彼は自分が望んで才能に恵まれていたわけではないのに。ただ、そのような星のもとに生まれたというだけなのに。

 その男の名前は秋葉流と言った。

 

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 秋葉流は、その後、光覇明宗の法力僧となる。法力僧として妖怪と戦うという使命は、彼の持て余す能力に対して良い暇つぶしとなった。天才である彼は、妖怪と戦う能力にも非凡な才能を認められた。彼は、たった4人の獣の槍の伝承候補者にも選ばれることになる。

 獣の槍とは白面の者を唯一打ち倒せる武器である。白面の者とは九つの尾を持つ巨妖である。そして、生き物の恐怖を喰らって成長する存在である。白面の者とは、数千年の昔から、全ての人間の、そしてまた全ての妖怪たちの敵である。

 

 「うしおととら」の物語の終盤、彼、秋葉流はうしおととらを裏切ることになる。つまり、秋葉流は人間側ではなく、白面の者の側についたのだ。それはあまりに不可解であった。なぜなら、それまで流はそんなそぶりを一切見せていなかったからだ。読者である僕は、作中のうしおのように、彼の正気を疑った。他の人間たちのように白面の者に記憶を奪われているのではないかと。あるいは、白面の者に洗脳され、操られているのではないのかと。それらの疑問を秋葉流は明確に否定する。彼は自らの意志で、うしおととらに敵対したのだ。

 彼の裏切りが本心であったのなら、今までの流は嘘だったのであろうか?もし、嘘だったのだとしたら、どこからどこまでが嘘だったのであろうか?それに対しても彼は明確に否定する。「本気だったさ…」と。流は何一つ嘘をついていなかった。そして、嘘をつけなかったからこそ、彼は裏切らなければならなくなったのではないだろうか?

 

 秋葉流はなぜ、うしおととらを裏切らなければならなかったのか?

 秋葉流の口から語られるひとつの理由は、「とらと戦いたかったから」だという。とらは、獣の槍に何百年も壁に縛り付けられていた最強の妖怪である。うしおととらが、白面の者との最終決戦に向かうさなか、彼はとらとの二人だけの決闘を望む。それもひとつの本心だろう。なぜなら、秋葉流は天才であるがゆえに本気を出す機会を奪われていたからだ。彼には彼が全力を出せる相手が必要だったのだ。そして、とらと戦うことにはもうひとつの目的がある。そうすればうしおが流を、もう「信じきった目」で見なくなると思ったからだ。

 そんな流の心情について、とらは責め立て嘲笑する。流はうしおの真っ直ぐな目が怖かったんだろう?と。自分を信頼しきった真っ直ぐな目に耐えられなかったんだろう?と。自分はうしおに信頼されるような上等な人間ではないと流は思っていたのだ。そして、それを証明するためにこそ、白面の者の側についたのだと。

 

 蒼月潮(あおつきうしお)とは、運命に選ばれてしまった少年である。白面の者を封じる運命を背負った母を持ち、その父は、かつて獣の槍を使い、魂を削って獣になりかけた男を先祖に持つ。うしおはまた時空を遡り、獣の槍の誕生にも立ち会うことにもなった。獣の槍は白面の者を打ち倒せる唯一の希望である。であるがゆえに、光覇明宗がその使い手を育てようとしてきた。しかし、封印されていたその槍を抜いたのは、光覇明宗の法力僧ではなく、何の特別な修行もしていない少年、うしおなのであった。

 なぜなら、うしおは、長きにわたる白面の者との戦いを終わらせる運命を背負った少年だからである。しかしながら、それを分からない法力僧たちはうしおに対して怒りを燃やす。なぜ獣の槍の使い手が厳しい修行に耐えた我々の中からではなく、たまたま槍を抜いたうしおであるのか?と。伝承候補の別のひとり、キリオの物語において、一部の法力僧たちは獣の槍を壊そうとすらする。なぜなら、獣の槍はうしおにしか使えない武器だからである。この反乱もまた白面の者の罠であったが、ある名もなき法力僧は騙され死ぬ間際こんな言葉を残した。「我々も…白面の者と…戦いたかった…」と。

 

 

 うしおと流の境遇はある観点からは似ていると言えるだろう。うしおは、獣の槍を使い、白面の者と戦うという運命を背負わされている。そして、流は何でもできる天性の才能を背負わされている。どちらも、本人が特別望んだことではない。そして、本人が望んだわけでもないことについて、周囲の人々から、不公平を叫ばれる。

 しかし、彼らは決定的に異なる。なぜならば、うしおはそんな与えられた運命の中でも獣の槍を使い続け、「人を助ける」ことで味方を増やしていくからだ。そして、一方、流はその自身の溢れる才能を「他人を傷つける」ものとして隠すことにした。同じ、天から与えられた特別な運命を背負った二人は、残酷なほどにくっきりとその差を見せつけられた。

 流にとってより残酷なのは、流自身にそのうしおの魅力を理解できるからであろう。うしおが誰にも認められていく理由が分かれば分かるほどに、自分が認められない理由もまた自覚してしまう。それまでは、自分に敵対する凡人に対して、「才能のないやつが才能のある人間に嫉妬している」、そう思えばよかったかもしれない。自嘲気味に本気を出さないことで自分自身を守れたかもしれない。しかし、自分とは違った意味での才能にあふれた人間を見たとき、自分が周囲に認められない理由は、「才能がある人間に愚劣な弱者が嫉妬しているだけ」と思うことはもはやできなくなる。なぜなら、似た境遇でも、そうはならないという実例をまざまざと見せつけられてしまうからだ。

 そのときになって初めて流は、凡人たちが天才である自分に対して持っていた目線と同じものを、自分の中に発見することになるだろう。その目線とはつまり「嫉妬」である。なぜ、同じような抗えない運命を背負った人間が、あちらは認められたのに、こちらは認められないのか?と。不公平であると。

 

 うしおを認めることは、それまでの流自身を否定することである。流はうしおを認めるわけにはいかない。しかし、悲しいことに流はうしおの価値をとっくに認めてしまっていた。自分にはできないことをやってのけるうしおの存在を誰よりも認めてしまっていたのだ。そんな自分の気持ちに嘘をつけない流が、それでも自分を保つためには、もはやうしおに敵対することしかできなくなる。そうでなければ今まで自分を支えてきたものが反転して自分に襲ってきてしまうからだ。天才ではない人々が天才に向けた嫉妬の眼差し、自分を苦しめてきたものと同じ眼差しを、自分もまた持ち得てしまうことになるからだ。それはうしおの真っすぐな目の前で、よりはっきりとした姿を持ちうる。それは流にとって、とても残酷で、とても悲しい話だ。

 

 流はとても強いが、とらはそれ以上に強かった。とらに敗れた流は「オレはもうちょっと早く、戦っときゃよかったんだなァ…おめえとよ」と言い残した。それはつまり、自分より上がいることを認識し、自分が特別な天才であるという認識をもっと早く打ち砕かれていればよかったということだろう。自分が特別でないと思えば、そもそもの苦しみはなかったかもしれないということだろう。

 しかし、残念ながらそれは起こらなかったことだ。結局のところ、うしおととらの物語の中では、秋葉流が秋葉流でいるためには、うしおを裏切り、とらと戦うしかなかったのだ。

 

 もし、別の可能性があったのだとしたら、流はどうするべきだったのだろうか?

 この話題の一部は藤田和日郎の次の連載、「からくりサーカス」で引き継がれて語られている。主人公のひとり、中国拳法の使い手の鳴海は、その師匠に「強くなったから、どうだというのか?」という空虚さを抱えていることを指摘される。虚弱体質で泣き虫だった鳴海は、弟が生まれてくることを知り、お兄ちゃんになるからには強くなければならないと中国拳法の門を叩く。しかし、不幸なことに弟はこの世に生まれてこなかった。鳴海は理由を喪失したままに、ただひたすらに強くなる。しかし、鳴海の胸中には、その力の使いどころがないがゆえの空虚な風が吹いていた。師匠はこう続ける。「その風は、いろいろな英傑の心にも吹いていた風だが…結局その風を止める方法は各人が見つけるしかなかったのだ」と。強い力を持つ者は、その力を使うべき場所と理由を自分で見つけなければならない。

 秋葉流の最期の言葉は、「ああ…なんだ…風が…やんだじゃねえか…」である。とらと全力で戦い、敗北することで、彼の胸の中にも吹いていた風は止まったのだ。それはもしかすると、もう少し早ければ、死ぬ以外の結末を迎えられたかもしれない。しかし、ともあれ、秋葉流は使いどころの分からないその溢れる才能を、最大限ぶつける相手を見つけ、満足して散って行ったのだろう。それは悲しい話だが、不幸な話ではなかったかもしれない。

 

 白面の者との最期の戦いにおいて、死した流の魂は、うしおととらの元に駆けつける。彼の心にはもう風は吹いていないだろう。彼は、その力を使うべき場所をもう知っているからである。それは少し遅かったかもしれないが。

 

 秋葉流は、大きな才能に恵まれながら、その強い力の使い所を見つけられなかった悲しい男である。秋葉流は、うしおになりたくて、なれないことも知っていた男である。しかし、とらが他の字伏たちのように憎しみに飲まれなかったように、秋葉流もまた、うしおと出会い、とらと出会うことで、自分自身を取り戻した男かもしれない。

 何でもできた秋葉流は、不器用なことに、うしおととらを裏切らなければそれができなかったのだ。