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自分が選ぶ側だと思っている人の持つ暴力性の話

 「PS羅生門」という漫画の中に「世の中に選ぶ人と選ばれる人がいるのだとしたら、私はそのどちらでもなかった」という感じの台詞があります(記憶で書いているので正確でないかもしれませんが)。この言葉が僕はとても好きです。それは「選べない人」や「選ばれない人」という、弱い人に向けられた視線があるからです。

 しかしながら、そもそもの「選ぶ人」や「選ばれる人」に対しても個人的になにかと思うところがあるなあと思いました。それは、自分が「選ぶ側」だと思い込んでいる人が周囲に向かって発する暴力性が、僕は苦手だからです。

 

 ちなみにここでいう「暴力」とは、「他人に意志を尊重しない」という意味です。

 

 自分が選ぶ側だと思っている人が発する言葉は、周囲に存在するものを「選ばれるもの」と「選ばれないもの」の型枠に押し込めようとするものだと思います。そして、選ばれたものに価値があり、選ばれなかったものに価値がなかったように振る舞います。

 ただし、それが不幸な関係性であるとは一概には限りません、選ぶ側と選ばれる側の需給がマッチすれば幸福な関係性であることもあるでしょう。例えば、本の賞なんかはそのひとつです。自発的に応募することがなくても、何らかの団体が勝手にその本に「価値がある」ということを認定して発表します。その場合、選ばれた本の著者や出版社は嬉しいかもしれません。

 また、読者の感想なんかもそうでしょう。数多くある選択肢の中からその本に価値があると思って選び、読んだのですから。しかしながら、そういった賞のようなものがあることで、そこで選ばれなかったものを作った人たちは何かしら思うところもあるかもしれません。

 

 「アオイホノオ」で主人公の炎尾燃が、ある映画を観たあとに、「自分は感動しなかったから、俺はあの映画の監督に勝った」という主張をします。そして、反対に一緒に観た友人は、「評判がいい映画なのに理解できなかった」ということを嘆きます。共通するのは「その映画を面白いとは感じなかった」ということでしょう。自分を選ぶ人だと思っている燃は、その映画を選ばなかったことを誇り、友人の方は、その映画を選べなかったこと、あるいはその映画に選ばれなかったことを嘆きます。

 こういうこと自体は誰にでもよくあることだと思います。心の中だけの話であればなおのことでしょう。ただし、相手側との合意なしに、この「自分が選ばなかったからそれに価値がない」ということを伝えることは、たいへん暴力的な話なのではないかと思います。なぜならば、頼まれてもいないのに、自分の中にだけある理屈で勝手に価値を決めつけ(それは多くの場合、世間一般の価値観との乖離も存在する)、貶める行為だからです。

 そこにあるのはおそらく、自分の持っている価値観に合致するものが世間一般には溢れているべきであるという主張だと考えられます。あるいは、自分の価値観を根拠に、何らかの理由でそれらを作った人を貶めたいという願望かもしれません。そして、人間が平等であるならば、それぞれの人が持つ価値観も平等なはずです。であるならば、他人を尊重しないそれらの行為は、暴力的であると僕は思っています。

 

 しかしながら、本や映画、あるいはゲームなどのような商業的に売られている作品については、例外的な条件もあると思います。なぜなら、それらを商品として世に出した以上、特定個人ではないものの、多くの別々の価値観を持った人々に対して、「これを選んでほしい」と主張していると考えられるからです。選んでほしいと主張する人に対して、選びたい人がそのような行為をとることは、大きく間違ってはいないかもしれません。

 このあたりの違いは、例えばゲームと楽器の操作性に見て取ることができると思っています。初めて触って上手く操作できないゲームに関しては、「このゲームは操作性が悪い」ということを理由に、「自分はこれを選ばない」という主張することのある程度の正当性が感じられます。なぜなら、ゲームはプレイヤーに「遊んでほしい」と思って作られると思うからです。

 しかし、これがギターならどうでしょう?ギターのFコードが押さえられない人が、「この楽器は操作性が悪い」と言ってギターの練習を止めてしまった場合、その行為は正当でしょうか?もしかすると格好悪いと思えるのではないでしょうか?なぜこのような感覚的な違いがあるかというと、ギターはその人に弾いてもらいたいとあまり主張していないからです。

 

 さて、自分が「選ぶ側」になることで、多くのものの価値を貶め、ことによると、自分が選ぶものを「レベルが高い」などと表現し、自分が選ばないものを「レベルが低い」などと表現したりしたりする人もいます。そういうのを見て、世間一般のレベルの高低を、てめえの自分勝手な価値観で決めつけてんじゃねえよ!お前はなんなんだ!?価値観を司る神なのか??などと僕は思いますが、それも商業的な分野ではある程度認めれられている行為だとも思うため、強く咎めようとは思いません(とはいえ、どこかに我慢ならない閾値はあります、なぜなら他人の感性は自分の感性と異なるからです)。

 

 このように、自分が「選んだ」ということをもってして相手を「選ばれた」あるいは「選ばれなかった」という枠組みに押し込めるという行為は、相手との合意がなければ、非常に失礼な行為だと僕は思っています。しかしながら、商業的に売られている作品に関しては、例外的に、全ての人を「選ぶ側」にしているものだとも考えられます。なので、そういうことを言う人がいても、ある程度はいいんじゃないかとも思います。

 ただし、個人が趣味のレベルでやっていることや、自分自身の存在に関して、特に「選んでほしい」というシグナルを出していないにも関わらず、頼んでもいない「選びたい」他人が、勝手に「選ぶ」あるいは「選ばない」と伝えるいうことはあります。僕はそれを、ほんと勘弁してほしいと思っていて、なぜなら、それは暴力的だし、対等な人間と思われていないことだと感じるからです。

 つまり、「お前に選ばれたい」とは微塵も思っていないということです。

 

 この文章は、ことあるごとに勝手に他人を評価しようとするようなタイプの人に対して、最近色々感じていることを整理しようと思って書きました。