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水木しげるの「目に見えない世界を信じる」という話について

 水木しげるの「幸福の七カ条」にこんな項目があります。

  • 目に見えない世界を信じる

 水木しげる氏が何を思ってこの項目を挙げたのかを、僕はちゃんと理解できているか自信がありませんが、僕はこの言葉が好きで、自分勝手に適当に解釈して座右の銘としています。

 そのいい加減な解釈とは、つまり「今目に見えている世界を全てだとは思わない」ということです。何かが起こったとき、ついついそれを手持ちの材料だけでその説明をしようと試みてしまいますが、それはときに、自分の頭に合わせて現実を歪める行為となってしまうのではないではないか?と危惧しています。僕の考えでは、それは世界を無理矢理自分の頭のサイズに小さくしてしまう行為なので、そうなれば世界が説明可能なものだけで満たされるため分かりやすくなりますが、実体との乖離が発生してしまうのではないかとも思います。それを恐れているのです。

 僕は「人間が全てのことを知ることはできない」と思っていて、世界には見たことのないものや、読み切れない情報、そしてまだ明らかになっていない科学的法則が無数にあります。それらは自分の頭の中にはないものです。それらを少しでも多く自分の頭の中に取り込むことが、生きているということなのかもしれません。しかしながら、どれだけ長く生きたとしても、自分の頭も世界の一部でしかない以上、世界の全ては自分の頭の中には納まり得ないと思います。

 そんな納まり得ない大量の情報を、単純に分解できる法則を発見することで圧縮し、少しでも効率よく頭の中に納めようとするのも学問のひとつの役割ではないかと思います。学問をするということは、自分の頭と世界の大きさを効率よく縮めようとする試みなのかもしれません。

 

 このように分からないものがあることを前提として物事をみることにすると、少なくとも良いことがひとつあります。それは、「分かっていることと分かっていないことを頭の中で混在させずに済む」ということです。

 目の前で起こっていることを検証する際に、何が分かっていて、何が分かっていないかを分けて考えることは、知覚できない地雷を、踏まずに避けるための安全なやり方です。でも、分かってないことがあるということは、手持ちの分かっていることと分かっていることの間に隙間ができてしまいます。隙間があると、解釈できませんから、それが何であるかを認識できません。

 そこで出てくるのが仮説です。仮説とはつまり僕が勝手に想像したことです。事実であるかどうかは全く保証されていませんが、そうであれば辻褄が合うという非常に便利な部品です。

 

 観念的な話になってきたので、少し具体的に落とし込んでみると、「目の前にいる動物の名前は何か?」を考えるとき、「四足の獣」で「毛の色は白と黒」ということが事実として分かっていたとします。これだけでは何の動物かを特定することは難しいです。それを「これはパンダだ!」と言い切ることもできます。でも、もしかしたら「シマウマ」かもしれません。

 どちらであるかを断言するには情報が全然足りません。この分かっていない部分が隙間です。そして、そこを埋めるのが仮説です。ここで「奇蹄目の動物である」という仮説が登場すると、それは「シマウマである」という可能性が高くなります。

 

 分かっていることと仮説を組み合わせると、目の前のことが解釈できるようになります。そして、それは自分が勝手に隙間を埋めた無根拠の仮説のおかげでかろうじて成り立っていることであるということも分かります。それは決して、事実と混同してはならないものです。もし、それ全体が事実であるかどうかを確認したいのであれば、その仮説の部分に根拠を探し始めなければなりません。根拠が見つかれば、それもまた事実になりますし、見つからなければ仮説のまま、そして、仮説が間違っている証拠が見つかってしまったら、最初の解釈は全くの間違いであることが分かります。

 

 仮説は、自分で考えるものだけとは限りません。他人から与えられることもあります。その場合、取り扱い方がもう少し難しくなります。なぜなら、その仮説が「提唱した人によってどこまで検証されているか」を確認しなければ正当性を把握できないからです。

 そして、さらにやっかいなのは、仮説を又聞きで伝わってきたときです。そうなれば、それがどれだけ検証されていることかを提唱者に確認することすらできません。自分で同じように試してみるか、あるいは無根拠に「信じる」か「信じない」かの2択を迫られることになります。

 世の中に流通するいい加減な話は「友達の友達の話」として伝わりがちです。

 

 このように検証できない仮説が蔓延している状態では、何を信じればいいかを判断することが難しくなります。それぞれの情報を自分自身で事細かに検証しようとするには、手間がかかりますから、それを実際にやる人はまれでしょう。かといって、全く無根拠に情報を信じていれば、間違った認識を持ったままになってしまいます。パンダだと言われて間違ってシマウマを買ってしまったとき、事前に準備しておいた大量の笹は無駄になってしまうかもしれません。

 方法は色々あります。学者のような判断に責任を持つ必要がある人間が、沢山集まって検証された情報のみを信じるとか、そこまででなくても、自分が信頼できる人が言っていたから信じるという方法もあるでしょう。あるいは、複数の情報筋から手に入れた情報を突き合わせて信じるに足るかを考える方法もあります。人によっては、それが事実だった場合、自分にとって都合がよいなら信じ、自分にとって都合が悪いなら信じないなんてこともあるかもしれません。人それぞれで、それが有効な場合も、そうでない場合もあるでしょう。

 僕が一番信頼できると思っているのは科学的な方法に則った検証を経て確認することです。論文を読むこと、そして可能なら再現実験をすることです。なぜならば、科学的な方法というものは「疑う」ということがその根本にあると思うからです。疑って疑って、それでも疑い切れなかったものが当座の事実となります。

 

 ただし、困ったことにそのような態度をいつ何時でもとれるとは限りません。

 

 さて、では僕がどのようにしているかというと、前述のように僕はあらゆる情報を厳密に解釈して事実かどうかを検証することは難しいという立場なので、分からないものは分からないと思っています。しかし、分からないでは済まないことも多いため、仮説を仮説として認識しておくことにします。そして、他人から聞いた仮説は、その聞いた経路とセットで憶えておくことにしています。

 例えば、「太陽系には太陽を中心として地球と点対称の位置に第十惑星バルカンがあるらしいよ(なぜなら学研ムーで読んだから)」というような感じです。

 このように、ある不確かな情報があったとき、それが何を根拠にして伝わってきたかをセットで考えることにすると、日々目にする大量の情報の中に「ネットでそう書かれているのを見たから」以外に流通経路がないものがあることが分かります。その中にはもちろん事実も含まれているでしょうが、間違いも含まれているでしょう。それらは検証しなければ判別ができないことですが、労力に見合わないので、ほとんどやっていません。なので、それらの多くは自分の中で「検証されていない仮説」として保持されています。

 それらの「検証されていない仮説」を根拠に判断したことは、根拠がいい加減な意見なので、冗談として触れることはあったとしても、それをベースに自分が何かを主張しようとすることはありません。いや、今まで全くなかったかというと自信がないので、少なくとも今はそれを心がけています、という言い方にしておきます。

 

 今日、人と話していて、「あんまりインターネットの嘘情報に騙されてるのを見たことないね?」って言われたんですが、それは別に僕に嘘を見抜く目があるとかそういうことではまるでなく、ただ、信じるに足る根拠が薄弱と思ったことについては、それを事実として言及しないというルールがあるだけです。

 僕が思うに、目に見えない世界を信じるということは、どこまでが目に見えているかを把握するということに繋がっているのではないでしょうか?何が見えていて、何が見えていないか、そして、世界は見えるものと見えないものの両方で満たされているのだと考えることが、根拠の薄い情報に不用意に踊らされず、幸福に生きるための便利な手段なのかもしれません。

 

 最後にクイズですが、冒頭に挙げた、水木しげるの「幸福の七カ条」、僕が今適当にでっちあげたものではなく、本当に水木しげるが言ったことだと信じますか?もし、そう信じるなら、その根拠は何でしょうか?

 そして、第二問。ググれば、「水木サンの幸福論」という本が出典として出てきます。では、ググって出てきただけで、その本を実際には読まずに、それが本の中に実際に書かれていると信じた根拠は何でしょうか?

 正解は自分で確認するか、根拠のない仮説として持ち合わせておくといいのではないかと思います。