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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

コンテンツを自然と捉えている話

 最近、色々と考えていて、漫画やゲームや映画などのコンテンツを「人工物」と考えている人と「自然物」として考えている人がいるのではないかと思いました。そして、僕は自然物として考えている方だと思います。

 

 さて、また僕が適当に決めた抽象的な言葉が出てきたので、みなさんお困りのことでしょう。ちょっと具体的に言い換えてみると、「風が吹く」というコンテンツがあった場合(ないですが)、それを「大きな扇風機が起こしている」と考えるか、「低気圧によって台風が生じている」と考えるかの違いです。

 人工物である扇風機が起こしていると思うなら、その風の起こし方を誰かが設計していてコントロール可能だと思い、強弱やリズムを適切に調節できると思ってしまいますし、風が吹いてほしくないときには止めてほしいと思ったりするのではないでしょうか?そして、風が台風という自然物だと思えば、それらをコントロールしようと思うことは難しく、風が吹いて困るなら、その中で自分にできること、例えば、雨戸を打ち付けたり、吹いている間は外に出ないようにしたり、ことによると田畑が荒れてしまうことは仕方ないと諦めてしまったりしてしまうと思います。

 

 自然の猛威を克服しようとすることは人間の歴史そのものですが、同時に自然を完全に克服しようとすることも無理であることは分かっているはずです。一方、人工物は自由に作り替えられると思うかもしれません。このような自然物と人工物に対する態度の差が、各種コンテンツに対する態度の差と似ているのではないかと思いました。

 

 つまり、何かコンテンツ側に不満を持ったとき、人工物として捉えていれば、ここをこのように直してほしいと思ってしまいますし、自然物として捉えていれば、ここがこう不満なんだがそれがそうであることは仕方ないので、あえて無視したり解釈を変えたり我慢したりしようと思ってしまいます。

 僕は前述のように自然物として捉える派なので、何か不満があったとしても、それを自分の中で適当に折り合いをつけてしまい、特に直してほしいと思ったりしません。

 

 なぜ、こういうことを思ったかと言うと、何かのゲームや映画や漫画なんかについて、肯定的に捉えている僕と、否定的に捉えている友人がいたとき、お互いに全く逆の立場となってしまっていますが、細かい点を挙げていくと、実は部分部分はほとんど同じように感じているというようなことがよくあるからです。

 では、なぜ最終的な立場が異なるかというと、僕はひとつでもそれにしかない面白さが見つかれば、それをとても良いものだと思い、その友人はひとつでも不満点が見つかれば、それをダメなものだなんだと思うということのようなのです。

 このように、ほとんど同じことを言っていても、最終的に良い悪いを判断する基準が異なっていれば、全く逆の結論に至るというのが面白いと思いました。あと、どっちの立場がよいかというのはよく分かりません。ただ、僕にとっては「自然物として捉え、消費者として関わる以上は、その内容に干渉できない」と考えることの方が都合よかったので、そうするようになっているだけではないかと思います。

 

 この辺の立ち位置の取り方は、自分自身がコンテンツの作り手であるかどうかによるのではないかと思いました。なぜならば、作り手の人はそれをより良くするという立場を持っていますが、受け手でしかない人には、それがよくないものであれば、別に他のコンテンツに行けばいいからです。つまり、僕は完全に受け手の側の人間であるので、別にそれをどう直せばよくなるかということにはあまり興味がないのではないかということです。自然の恵みを厳しさをただただ享受するだけです。

 一方、作り手側の人たちは、何かのコンテンツを体験したとき、それをどのように作るべきかを再考する立場を持ち得ます。そして、その不満などを自身の作品に反映することで、自分の感性の正しさを証明していくのでしょう。

 

 ここで気になるのは、自然物として捉える受け手の気質の人がコンテンツを作る立場にたったときと、人工物として捉える作り手気質の人がコンテンツを作らない立場にたったときという、矛盾する状況です。

 前者はつまりは、受け手気質の僕がコンテンツを作ろうとするときなので、1つのケースは実感を伴って分かります。「完全にパクりまみれになる」ということです。僕はたまに気が向いて何かを作ったりしますが、そのほとんどが自分が今まで見てきた何かの元ネタの適当な継ぎはぎです。なぜなら、批判精神を持ちませんから、好きなものをピックアップして繋ぎ合わせることしかできません。そういう意味でオリジナリティは完全に欠如しているのですが、オリジナルっぽく見せかけるために、あまり知られていない元ネタを使ったり、多くの元ネタを混ぜ合わせ過ぎるために、原型をとどめなくするというようなごまかし方が存在します。

 後者の作り手気質の人が特に何も作らないという状況は想像するしかありませんが、目にしたものの悪いところ(と自分が認識したもの)を、改善して実証してみせるという手段を実際には行わないわけですから、仮説レベルのものを延々と積み上げていくことになるのだと思います。その仮説が本当に有効なのかどうかは、実際に目にすることができないので、なんだかよく分かりません。しかし、もし、その人の持っている仮説と合致する別のコンテンツが登場したとき、それは他人の手によって遂に実証されるわけですから、そういうことをするのではないかと思います。つまり自分の感性に合致する「良いコンテンツ」を引き合いにして、自分の感性に合致しない「悪いコンテンツ」がいかに悪いかを主張するということです。そう考えると、そういう知り合いはいるので、なんとなく納得したような気持ちになりました。

 

 さて、コンテンツを自然物と捉えるという立場と、人工物として捉えるという立場の2つを対立させるように書いてきましたが、実際はどちらかの立場に0か100かとなる人はまれで、20と80や、30と70のように、ある場合では自然、ある場合では人工というように使い分けている人が多いのではないかと思います。

 何かのコンテンツを良いとか悪いとか思ったとき、自分はそれをどのように捉えているのかを考えてみても面白いかもしれませんね(飽きたので雑に締めました)。