漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

進撃の巨人の映画の後編を観た感想

 後編を観ました。

 

(以下、結末に関するネタバレがまざります。ご注意。)

 

僕の予想は外れました

mgkkk.hatenablog.com

 前編を観たときの予想では、「あの世界は未来の日本であり、あの場所はかつての函館の五稜郭を利用したものであり、オリジナルキャラクターのシキシマは壁の外である青森からやってきた男、何故ならリンゴを食べているから」というかなり核心をついたと思っていた発言をしていましたが、なんと外れでした。いや、語られなかっただけで厳密には外れていないかもしれません。ようやく目にしたあの壁の外には、荒廃した街とその先の海が広がっていたので、あの地が函館であった可能性は捨てきれないからです。

 しかし、どうやらリンゴが象徴していたのは、青森ではなくApple社である可能性が高い。なぜならば、巨人誕生の秘密の映像をシキシマがコントロールするために使用していたのが、AppleTVのリモコンであったからです。そして、本作のエンドロール後のラスト、人類を壁の中に囲っていた謎の存在たちが利用していたのもまたAppleTVのリモコンです。2回出てきたので、Apple社の製品がこの映画の重要な位置を占めていることは疑いようがないでしょう。


壁について

 この映画の中で象徴的にというにはあからさまに描かれているのは「壁」という存在です。壁の外側は「未知で危険」、壁の内側は「既知で安全」、そんな既知で安全な場所に未知の危険であるところの巨人がやってくるというのがこの物語の基本の構造だと思います。しかし、話が進むにつれて、既知で安全なはずの内側にも実は未知で危険な場所が存在していることが分かります。それはこの世界の構造を創りだした何者か、最後まで完全には姿を現さない政府の中枢です。そして、巨人化する能力を何故か持っている主人公のエレンの内面もまた未知の領域があるのでした。人類は壁の外にも壁の内にも未知の領域を持っており、それらに挟まれたドーナツ状の僅かな部分しか分かっていないのです。

 壁の外からやって来る未知の巨人に追い詰められた人々は、壁に開いてしまった危険な穴を閉じ、内側で囲われた安全を再び手に入れるか、壁を破壊してしまうことで自由ではあるが危険な未来を獲得するかの選択を迫られます。エレンたちが求めるのは、壁の中の安全を確保した上での、壁の外への憧憬です。謎の男シキシマが求めるのは、むしろ内側の壁をも破壊した上での混乱を含めた自由です。そして、壁を作った者たちは、人々から知識を奪い、壁の中に留めることを目的とし、そのために外敵としての巨人を利用した、管理社会を維持しようとします。

 その管理社会を築いた者と考えられる人たちが利用していたのがApple製品というのはある種のご意見であるように思えました。Apple製品で構成された不自由な管理社会の中でそれなりに幸福に生きるか、それを打ち壊して困難があろうとも自由な世界に飛び出るかということです。かつて1984のCMで自由を謳ったApple社が管理社会の象徴と描かれてしまうことは皮肉なものかもしれません。

 巨人化したエレンの目線をしてなお、見上げて巨大な壁の映像は、うおー、でけーと思ってすごく良いと思いました。壁は外と内を隔てて見えなくするものであり、乗り越えるものや乗り越えられないものであり、壊したり壊せなかったりするものだと思います。多くのドラマは壁のそばで起こります。進撃の巨人では、壁がそのまま物理的な姿をしているのが面白いところですね。

 

よかったところ

 さて、前編後編通して、僕がもっともよいと感じたところは、巨人同士の殴り合いのシーンです。殴られた人の顔面が吹き飛ぶような暴力表現というのは実写で観た覚えがありませんでした(僕が無知なのかもしれませんが)。こういう表現は、漫画だと比較的よくあるのですが、実写だと表現が難しく感じます。なぜならば、普通は殴っても人の顔面は吹き飛んだりしないからです。

 マイクタイソンとボクシングをした相手の首が吹っ飛んだというようなことは聞いたことがありません。当たり前ですが、人体を構成する物質は同じなので、相手の頭が粉々に吹っ飛ぶようなパンチを打てば、殴った人の拳も粉々に砕ける可能性が高いわけで、つまりこれは漫画的な誇張表現なのです。自分の体は特別に硬く、敵のの肉体は粉々に潰れてはじけてしまう、これは自分は他人と違い特別であるという、極端なまでなエゴを物理的に見せてくれるものでしょう。そのエネルギーが発散される様が大変気持ち良く感じました。

 願わくば、巨人の格闘シーンを延々と見ていたいぐらいの感じです。それはそうと、巨人化したエレンの髪はキューティクルが全然ありませんでしたね。リンスをした方がよい感じがします。


気になったところ

 一方、この映画で妙に気になったのは俳優陣の演技の演劇っぽさです。特にアルミンが顕著なのですが、自然な声というよりは作った声という感じであり、舞台演劇であるならばいいのですが、実写の映画でその発声は違和感がぬぐいきれませんでした。シキシマなどもそうですが、なぜこの人たちはいちいち喋ることが芝居がかっているのだろう?と思いました。その辺から、僕が読み取るのは、この人たちはそれぞれに目的を与えられた駒に過ぎないのではないかというような印象です。自由意志がある人間というよりは、何かしらの力によって意志の方向性が決定づけられているプログラムのような感じです。

 そのプログラムを構築している根源は「映画の都合」であり「脚本」という解釈もできるのですが、映画の中身に映画の外のことを持ち込むのは興ざめするので、そうは考えないことにします。

 エンドロールが終わったあと、最後に喋る何者かは、エレンとミカサの二人を実験体と呼びます。彼らの意図を越えて二人の実験体は壁の外を見てしまいました。謎の彼らが政府の中枢の存在であるかどうかは明示的には描かれませんが、少なくともあの壁を構築し、人類を閉じ込めることを仕組んだ人々ではあるようです。彼らが全ての黒幕であり、あそこで起こったことが実験であったのだとしたら、その目的は何でしょうか?もしかすると、登場人物たちにはそれぞれ役割が与えられていて、それをただただ果たしていただけなのかもしれません。彼らの怒りや悲しみも、生も死も、その枠組みである大きな循環の系の中での取るに足らない事象であったのかもしれません。

 

進撃の巨人(映画)=パックマン

 系の内に留まる者、系の外に出ようとする者、系を破壊しようとする者、系を維持し続けようとする者、それぞれの存在がそれぞれの意志の代行者として、戦いを繰り返す箱庭の中の出来事、壁の中で際限なく繰り返されるシミュレーション。そう考えるとこの映画はゲームのパックマンに似ているかもしれません。「オイカケ」「マチブセ」「キマグレ」「オトボケ」の四つの行動原理を持ったモンスターたちに追いかけ回されるパックマン。パワーエサをとることで(エレンが巨人化することで)力関係が逆転し、巨人を追いかけ回すことができるようになります。しかし、ゲームの壁を壊して外に出ることはできませんし、ゲームの中のパックマンは、画面の外のプレイヤーに干渉することもできません。

 映画の登場人物たちが、嘆き憤り叫べば叫ぶほどに、その虚しさがよりいっそう浮き彫りになるようにも思います。映画の中の彼らが成し遂げたことが実は無意味で虚しかったとしたとして、それにも関わらず、彼らが壁の外に見た風景の自由と広大さがとても美しくありました。虚しければ虚しいほどに、その風景の美しさが実は引き立つのではないかと思います。自由の象徴であるからこそ美しいのではなく、自由の象徴でなかったとしても美しいということだからです。ややっこしいことを考えながら観ていましたが、実際、最後にエレンとミカサが壁の外を臨むシーンは、とてもいいなあと思ったのでした。

 

まとめ

 総論としては、全編通して残り続ける違和感と不可思議さを含めて面白い映画という感じでした。ひっかかりは色々あったのですが、それは自分勝手に解釈して埋めました。この映画では、人を描くというよりは、世界観と状況を描いており、人はあくまで盤面上の駒としての役割を逸脱することができず、それゆえの駒であることの悲哀が流れているような感じに受け取ったというのが僕の感想です。そして物悲しいからこそ、浮き彫りになる美しさというものがあると思います。

 そういう意味で似た映画というならマトリックスの3作目という感じがします。異端分子の救世主としての役割を果たしながら、それも大きな系の中での出来事であり、それを完全に逸脱するほどのことにはならなかったのです(マトリックスのこの解釈が正しいかは自信がありませんが)。

 そんな感じです。