漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「知っている」の濃度について

 何かについて「知っている」と表現するときに、それが意味する情報量は状況によって結構違うんじゃないかと思います。多くの場合、知っているということは「実践的」に知っているということを意味していて、自分がその知識が必要とされる状況においては、必要十分な内容を知っているということです。

 例えば、洗濯機の使い方を知っているというとき、その全ての機能を網羅的に知っているわけではないと思います。自分が使う用途において必要な使い方を知っているだけなので、もしかすると、何か特殊な洗い方をしなければいけないときにはどのように設定すればよいのかが分からないかもしれません。でも、当人は知っていると思っていますし、それで不都合はないのです。

 これがより一般的な領域となってくると、「体系的」に知ることが重要になってきたりします。例えば学問を思い浮かべてもらえるとよいのですが、日本史を知っていると言った場合に、近代史だけに詳しくても、「日本史を知っている」とは言い難いと思います。一方、日常生活を送る上では、平安時代や鎌倉時代の知識が生きてくることはあまりありませんから、それらを知らなくても「実践的」には知っていると言えるかもしれません。利用頻度が高い分野も低い分野も、関連を含めて網羅することが、例えば専門家には必要であったりします。必要最低限の知識とされているものは、時代の流れによって変化しうるものであるため、実践的な知識だけでは変化への対応が後手に回るというのが理由のひとつです。

 ここまで、「知っている」ということには色々な捉え方があるという説明をしました。

 

 さて、「週刊少年ジャンプの漫画を知っているか?」と聞かれたとき、知っているという人は多いと思います。でも、実際は「ONE PIECE」などの有名な漫画を単行本ベースで読んでいて、雑誌自体は立ち読みで、半分以上は実は読んでいないということもあるのではないでしょうか。その場合、知っていると言えるのでしょうか。世代の違う人を交えてジャンプの思い出話をするとき思うのは、その人にとってのジャンプ黄金期というものは、一巻で打ち切られてしまった漫画も全部知っているということであるなあということを思ったりします。それはつまり、雑誌を隅から隅まで読んでいたということです。

 ジャンプで一巻で打ち切られてしまった漫画と思い出して、僕がパッと思い浮かべるのは「ファイアスノーの風」「惑星をつぐ者」あたりなので、少なくとも90年代の半ばあたりは、自分が本当に一生懸命ジャンプの漫画を読んでいたんだなあということが思い起こされます。あの頃は、誰か友達の家に行けばジャンプがあったので、何度もじっくり読んでいた気がしました。それから二十年経った今はどうかというと、打ち切られる漫画は打ち切られる前に既にしっかり読むのをやめてパラパラめくるだけになってしまっていることも多いです。なので、名前を聞いてああそんなのあったねと思うだけで、内容は忘れてしまっていたりします。

 このことから自分は90年代あたりであれば、ジャンプ漫画とはどんな感じであったのか比較的体系的に語れそうなんですけど、今では断片的なことしか分かっていないので、実際の漫画を読んでの感想というよりは印象論に終始してしまうような気がしました。「ジャンプを読む力」というものがあった場合、僕の全盛期は過ぎていますから、だからそれについて進んで話をすることはありません。正確な情報を欠き、妄想で補完したような、ちゃんと読んでもないような人間のたわ言にしかならないからです。

 

 このようなことは、自分が生まれる以前に関して、より明確に起こります。なぜならば連載で読むことなんて不可能ですから、あとから振り返って読むしかないですし、それはかなり意識的に行わなければいけないことであるからです。過去の情報について体系的に知ることはかなり難しいことで、自分が生まれる以前に出版された本は、有名なものしか読んでいないはずです。そして、有名な漫画ですら多くあり過ぎて、その中でもさらに有名なものであったり、名前は知っているけど中身は知らないなんてことになったりします。

 にもかかわらず、自分を省みて、不遜にも「知っている」なんてなんとなく思い込んでしまうのが、人間のいい加減なところであるなあと思うところであるのです。

 

 ちなみに僕は、漫画史の研究みたいな本はあまり読んだことがないので、実際どのような流れでどのような変化を遂げてきたのかということはきわめて断片的にしか知りません。それも、「まんが道」であったり、「ゲゲゲの女房」であったり、あとは「青春少年マガジン」や「ブラックジャック創作秘話」や「アオイホノオ」「劇画大噴火」「同人少女JB」であったりという、それぞれ作品の中で語られてきたことを断片的に繋げ合わせてなんとなく把握するという感じなので、ぼんやりと知っているような気はすれど、90年代のジャンプ的な知っているの濃度からすると、本当にすごく薄らぼんやりとしたなんとなくのことしか知りません。よしんばそれらのフィクションの中に事実とは異なるものが含まれていたとしても検証のしようもありません(正確には労力を割いてまでのやる気がありません)。だから、アオイホノオにあるように岡田斗司夫の家の玄関には二本足で立つ巨大な鹿の一刀彫りがあった!ということに僕の中ではなってしまっています(実際には違うらしいとの情報はつかみました)。

 

 なので昔のことはよく分からないなあと思いながらも、先日なんとなく読み始めた本に「新らしい漫画の描き方」「漫画学校」という本があります。リンクの通り、近代デジタルライブラリーを「漫画」というキーワードで検索して出てきた本なのですが、これらの本はその時代にその時代の人たちに向けて書かれているので、現代から過去を振り返って書かれた漫画の歴史の本と比べて、より当時における「漫画」というものの取り扱われ方が正確に記述されているのではないかと思って読み始めました。自分がその時代の漫画を把握するための材料にしようと思ったのです。

 「新らしい漫画の描き方」は昭和初期に発刊された本で、明治大正の漫画と漫画家について書かれています。この本に登場する「漫画」というのは、現代の人が思い浮かべる漫画とは少し異なるものです。この本の中では「漫画」は普通の美術絵を意味する「本画」に対抗する概念として存在していて、「漫画とは世態人情を穿つ絵を言ふ」と表現されています。絵そのものが美を追求する目的として描かれる本画と比較して、漫画にとって絵は手段であり、その絵が描かれた意味が別に存在します。本書の記述に倣うならば、世態人情を穿つことを目的としたものなのです。

 当時の漫画と現代の漫画はこの意味では共通しているように思います。コマに描かれた絵そのものの美しさではなく、そこで紡がれるストーリーにこそ目的があるのが現代でも漫画の主流であると思うからです。

 本書は岡本一平によって書かれたもので、彼は戦前(戦争を時代の物差しとして使うことは適切でない可能性がありますが)の代表的な漫画家の一人です。手塚治虫も、幼少期に彼の全集に影響を受けたと証言しており、本書を読むだけでも、彼が漫画というものをどのように捉え、漫画家というものが世とどう向き合うかについて強い意見を持ち表明してきた人物であることが見て取れます。p.259から始まる「漫画家の現状と将来の考察」において、

 「筆者の持論によれば、漫画家は全人格的に総ての人の上に超えて指導、愛憐を垂れる高級な社会批評家であり、自体が五得練達した宗教家乃至思想家であらねばならぬと思ってる」

 とあり、「漫画を描く」ということが、社会を捉え、絵を描くという手段で批評するという高級なものであるべしと考えていたようです。あるべしということは、当時の社会では、漫画がそうは受け取られていなかったと類推することもできるわけなのですが。

 このように、岡本一平が活躍した明治大正期の「漫画」、正確には「当時漫画と呼ばれていたもの」は、新聞漫画などの風刺や時評を担った、美術とは異なる目的の絵のことであり、現代の漫画とは根底には共通する部分はあるものの、異なるものであったのだなあということが僕の思った感想です。ちなみに、本筋には関係ないですが、岡本一平岡本太郎の父でもあるそうです。

 

 もうひとつの本、松山文雄の「漫画学校」なのですが、これは子供向けに書かれた漫画の歴史本(昭和25年刊)です。本書における「漫画」という概念も、岡本一平の本と同様に、現代のストーリー漫画とは概ね異なるものなのですが、この本では遠くはエジプトの壁画から、鳥獣戯画や絵巻物、北斎漫画、そして岡本一平らの新漫画を通じての歴史が解説されています。

 そして、本書の終盤において、漫画の種類が書かれているのですが、「こども漫画」という項目があり、そこには「フクチャン」や「ノラクロ」などの、現代的なストーリー漫画の祖にあたるような漫画も当時既に有名であるとして紹介されています。ちなみに、手塚治虫の「新宝島」は昭和22年に描かれたため、本書が発刊された頃にはもう存在していたはずなのですが、言及はされていません。ただし、前述のこども漫画の紹介において、続き物のストーリーを記述する冒険漫画の存在や、それらが映画方面に通じて映像化されていることなどへの言及があります。現代の漫画は、系統図を描くのであれば、これらの漫画の延長線上にあるように思いました。

 

 さて、2冊本を読んだだけですが、そこには僕がそれまで知らなかったことが沢山でてきました。近年、手塚治虫に関しては沢山のエピソードが語られますが、それに関しても僕が生まれる前の話なので、知っているのは繰り返し語られる有名なエピソードだけです。また、それがどれほどの信憑性があるものなのかも分かりません。さらに、手塚治虫より前となるとさらに手がかりが少なく、一体漫画とはそれらの時代にどのような存在で、どのように受け取られてきたのかということがまるっきり分からないわけです。そこで、これらの本を読んだわけなのですが、結果として僕が何を思ったかというと、

 「また分からないことが増えた」

 ということです。それまでは、何が分からないかすら分からない状態であったので、そこからは進歩したはずなのですが、視界が多少クリアになることで、自分が分からないことが多少分かるようになりました。多分、昔の本を読み進めれば進めるほどに、より分かることが増え、そして分からないこともまた増えていくのだと思います。分からないことが分かってしまったために、もはや僕は「知っている」なんていうことを言えなくなってしまいました。

 

 実際にその時代を生きてきたことと、資料をベースに後からその時代を振り返ることには何百倍もの情報の差があるような気がします。また、その時代を生きていたからといって、自分の立場から見える視界しかありませんから、その全てを把握しているとも言い難いです。

 なので、生きていく上で不都合がない最低限のことを「知っている」ということと、それについて体系的に語れるほどの「知っている」ということには、とても大きな濃度の差があって、自分がどの程度のことを「知っている」と表現しているかを把握しておかないと、コミュニケーション上の色んな齟齬をきたす可能性があるのではないかという、普通のことを思いました。


 散漫な感じですが、長くなったので今回はここまで。