漫画皇国

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インターネットの嘘情報との付き合い方関連

 インターネットには無数の嘘情報があります(ほんとの情報もあります)。それらを完璧に見分ける方法はあるでしょうか?僕の現時点の結論としては「ない」です。インターネットの情報をインターネットを見ているだけで本当か嘘か見分けるための確実な方法はありません。もちろん手掛かりはありますが、それをもって確実に断言できるかどうかはあやしいことが多いです。

 

 なぜなら、どう見てもあり得なさそうなことでも、まれに起こることはあり得るからです。そして、過去に嘘をつきまくってきた人でも、本当のことを言うことだってあるでしょう。もし例えば、その情報の中に細かな矛盾が存在することが分かっても、人間の語りには往々にして勘違いが含まれることがあるので、それだけで起こったこと全てが事実でないと断じることもできません。

 インターネットで目にした情報が、正しいとか間違っているとか言い切るには、インターネット以外を含めて手間暇をかけてちゃんと調べないと判断できないことです。いや、ちゃんと調べたところで結局分からない部分が残ることだって多々あります。だって事実関係を争う裁判でも、本当のことは確実には分からなかったりすることが多々あるじゃないですか。

 

 そして、そもそも事実とは何か?ということを考える必要もあると思います。これはとても重要な話で、なぜなら、何かの出来事があった場合、出来事自体は同じでも、それを見た人によって多面的な解釈が存在し得るからです。

 例えば、笑った人がいたとして、その笑いの持つ意味の解釈は、その様子を見た人によって変化してしまう可能性があります。ある人が笑ったのが誰かを嘲笑するための笑いであったのか、むしろ自嘲的な笑いであったのか、あるいは深い意味のない反射的な笑いであったのかどうかは、他人の内心が見えない以上、正確に判断することは困難です。いや、もしかすると、笑った自分自身ですらその意味は正確には分からないかもしれません。なので、彼が笑ったのは悪意ゆえだと感じる人もいるかもしれませんし、自信のなさゆえだと感じる人もいるかもしれません。もしくは、周囲が笑ったので、反射的に合わせて笑っただけだと感じる人もいるかもしれないのです。事実は笑ったということだけで、それがどのような意味をもつのかは語り手によって好きなように解釈され、それが事実に成り代わって流通してしまうこともしばしばです。

 僕の経験で言えば、小学生の頃、世話になっていた曾祖母がなくなったことで泣きはらし、泣いてばかりは格好悪いと次の日は精一杯の作り笑顔で学校に行って、曾祖母が亡くなった話を口にしたら、担任の先生に人の死を笑いながら言うとは何事だとめちゃくちゃ怒られたことがあります。内心のことなんてめったに伝わることではないですし、当時の担任にとってみれば、僕は人の生死の価値も全く理解しない愚かな子供のように見えたのでしょう。

 

 事実には大体解釈が付きまといます。それらは明確に区別されず、ごちゃまぜの情報として発信されてしまいがちなものではないでしょうか?ならば、事実を伝えたつもりの言葉であったとしても、そこには嘘と呼べるものが少しは混ざってしまうのかもしれません。

 

 さて、何かの情報が事実であるか事実でないかを見分けることは難しいことだという話をしました。ひとつ目の理由のそれを判断するために十分な情報が簡単に手に入るとは限らないというもので、もうひとつの理由は事実というものが多面的な解釈が可能なものであるために、そのひとつを知ったところで全てを語ることは難しいというものです。

 

 しかし、そもそもの話として、インターネットで日々目にするような情報を都度都度嘘と本当に見分ける必要はあるのでしょうか?嘘と本当の2つにばっさりと切り分けなければならないという思い込むことが、むしろ拙速な間違った選択に繋がってしまうことがあると僕は感じています。

 「本当だという証拠もないが、嘘だという証拠もない」、それぐらいの曖昧な状態にとどめたままで頭の中に置いておくことができれば、多くの場合、それはそれでいいような気もしていて、なぜなら、インターネットで日々目にするようなことは、自分の生活には直接関係ないことが多いからです。

 早く答えを出さないといけないという気持ちが強いと、判断に十分な材料が出そろったり、調べたりするまえに本当か嘘かという判断をしなければならなくなります。でも、判断に十分な材料がそろっていないのだから間違ってしまうことも多くなるでしょう。その即時の態度表明はそのリスクを背負ってまでやらないといけないことでしょうか?(もちろん、やらないといけない緊急性を抱えた場合もあるとは思いますが)

 

 インターネットで新しい情報にいち早く反応して、何らかの結論を出すというゲームに参加すること自体が、間違った情報を世の中に蔓延させるための一助になりやすいのではないかと僕は感じていて、なので、大体の場合は、即座に反応はせずにまずはぼちぼち調べたり、続報を待ったりするようにしています。

 

 ただし、本当か嘘か分からない情報が無数に流れてくるような状態で、それを無視ばかりもできず、根気よく調べるほどの労力もかけたくないというのはわかる話です。うっとうしいし、面倒くさいからです。なのでそこには、僕が個人的に持っている指針もあります。

 

 それは、「もしそれが嘘だった場合、誰かに不利益を与える可能性があるか」を考えることです。

 

 例えば、ある人が悪い人であるという情報を得たとして、その悪いと聞いた人を言葉の暴力や物理的な暴力で殴ったとします。その後、それが嘘情報だったと分かった場合に、間違いで殴ったという事実は撤回できるものでしょうか?殴られた側からすれば、謝られたところでそのとき殴られた痛みは消えません。代わりに自分を殴れとか言われたとしても、殴り返したところで別に自分が殴られた痛みは消えないわけです。つまり、取り返しはつかないという話です。

 そのような可能性がある以上、悪い人だと聞いただけで殴ることはあまり良くないのではないでしょうか?(ちなみに本当に悪い人だったとしても殴っていいわけでもない)

 間違いで殴った人は、正義の人として行動したつもりが、結果として悪い人になってしまうという意図と真逆のことになってしまいます。それは困ったことですから、その間違った情報を伝えた人が悪いとか、本当に悪かったなら先手を打たなければならなかったとか、その他色々な理由をつけて、自分が殴ったことは悪いことではないという理由付けをする場合もあります。

 でも、そもそも殴るなって話ですよ。その殴る理由が正しい情報かどうかの判断もつかないうちに。

 

 また、センセーショナルな嘘情報はすぐに周知されてもその訂正情報は嘘情報ほどには周知されにくいために、嘘が嘘と知られないままに流通し続けてしまうという問題があります。さらには、いかにそれが嘘だと周知されたとしても、「いや実は嘘じゃないんじゃないの?」と疑い続ける人も出てきます(疑うことそれ自体は悪いわけではないですが)。何かを発信してしまうということは多くの場合、発信しなかった場合にまで完全に戻すことはできません。

 であるならば、自分が発信した情報は、それが他の人から聞いたものを転送しただけだったとしても、発信は発信としてその責任はつきまとうでしょう?

 

 自分がその情報を信じて何かを言うときや何かを行動するとき、その言ったことや行動することの責任をとらなければならないという意識があります。それが些細なことであればいいですが、誰かを強く傷つける可能性があったりすると、気後れが生じます。それをしていいほどに、その情報は信用できるものなのかと考える必要があるのではないかと感じています。

 それがしたくないのならば、自分はシェアしただけで責任はないと主張する人になるか、なんらかの方法で正当化し、よく目にする「謝らない人」になってしまうのではないでしょうか?

 

 間違ってしまうことはあるわけですよ。ただし、そこに反省がないのであれば、何度も同じ間違いをし続けてしまうでしょう。その間違いで殴られている人たちは、同じ仕組みで殴られ続けてしまったりするわけですよ。

 それがなんかしんどいなと思うので、自分は何かの情報を目にしたとしても、不用意に誰かに当たりがある発言はしないように心掛け、ある程度情報が出そろうまでは、ただ動向を見守るような感じになってしまう感じにやっています。

「レディプレイヤー1」をさっき観て来た関連

 1時間ぐらい前に「レディプレイヤー1」を観たので、感想を書きます。

 

 「バーチャルリアリティ」という言葉は日本では「仮想現実」と訳されますが、これは誤訳とは言わないまでも不適切ではないかという話があって、バーチャルという言葉を辞書で引いてみると「事実上の」とか「実質上の」というような訳語が出て来ます。

 つまり、日本語におけるバーチャルは「あるようでない」ですが、英語におけるバーチャルは「ないようである」というような意味なのでニュアンスが異なります。

 この訳し方の違いが日米でのバーチャリリアリティの受け取り方に差を生んでいるというような話を聞いたことがあるのですが、レディプレイヤー1を観る限り、それはあるのかもしれないですけど、そんなに大した差ではなくて、アメリカでもバーチャルリアリティは現実ではないのに、それにのめり込んでしまう人間に対する危惧という日本と変わらぬ認識が全然あるんだなと思いました。

 

 レディプレイヤー1は、「OASIS」という仮想現実空間をプラットフォームとして、様々なゲームをやれるようになった近未来のお話で、人々はときに現実の生活をおろそかにしつつゲームにのめり込んだりしています。

 この状況をさらにややこしくするのはOASISを作り上げた人物、ハリデーの遺言です。ハリデーはゲームの中に3つのイースターエッグを埋め込み、それを全て手に入れた人物にOASISの所有権を譲渡すると言ったのです。OASISの資産価値は天文学的な数字であり、人々は宝探しのために、よりいっそうゲームにのめり込んでしまうのでした。

 

 この映画を観ていて、なんだか大変満たされた気分になっていたのですが、それは、この映画の中にたくさんの「好き」が詰め込まれているからじゃないかと思います。この映画の中には多数の実在のキャラクターやアイテムが借用されて登場し、それらはおそらくはユーザがOASIS上で使うために自分で作ったり誰かに作ってもらったりしたものでしょう。なぜ、そんなことをするかといえば、そのキャラクターやアイテムが好きだからでしょう。

 それが後半に物量でおしよせてくる場面があります。これは未来の話ですから、僕が知っているようなキャラクターたちは作中の彼ら彼女らにとってとても古いものでしょう。しかしながら、それをなお愛して手間ひまかけて作ってまで使いたいと思う人たちがいるというあの状況が、とてもいいなと思ったわけです。

 

 この物語は虚構と現実の境目のまたぎ方についても描いているように思いました。ハリデーがOASISを作ったのは、社会が苦手だったからだと語られます。だから、他人と触れ合わなくてもいいゲームの世界に耽溺していたのだと。それはとてもよくわかる話です。なぜなら僕もまた同じような人間だからです。

 しかしながら、自分の死期を悟ったハリデーは少し考えを変えます。それが彼がOASISに仕込んだイースターエッグであり、彼がそのとき何を思ったのかが、ゲームの中で語られるわけです。

 

 それはつまり、リアルとリアリティの話です。僕たちが生きるこの世界はリアル(現実)で、ゲームの中はアンリアル(虚構)です。ではリアリティ(現実感)とは何かと言えば、それはどちらもそうなのだというわけです。リアルの中にもアンリアルの中にもリアリティはあり、大事なのはそれが現実なのか虚構ではなく、そこにリアリティがあるかどうかだというわけです。

 これは個人的にとても得心がいく話で、大切なのがリアリティだとするならば、虚構も現実も同じです。虚構というのは現実の代替ではなく地続きであって、その中で生きて来た作中の人々も、同じように生きて来た僕も、そしてゲームを一切せずに生きて来たような人々も、同じリアリティの中で生きているということです。

 現実に生きる中で虚構が無意味と言えないように、虚構で生きていたとしても現実は無意味とは言えません。虚構があれば現実は要らないのではなく、現実があれば虚構が要らないのではなく、どちらも同じリアリティの中の話であって、その両方を生きることをしているのだなと思いました。

 

 とはいえ、映画の中の人たちはゲームでも立派にコミュニケーションしているように思えて、ネットゲームを向こうに人がいるという事実に辛くなってしまって続けられないような自分のような人間はどうすればいいのか…と思ってしまうということもあります。

 そういえば昔、友達に誘われてウルティマオンラインを始めたとき、友達に導かれるままに高価な装備を融通してもらい、他のプレイヤーを狩ったりしてなんとなくやっていたら、友達の友達に、「君はよくない人のせいでよくないプレイをしている」と諭されたことがあり、ああ、少年兵とかってこんな感じなのかなとか思って、その後、なんか辛くなってやめてしまったりしたこととかがありましたね。

 

 あと、僕といえば漫画ばっかり読んでいて、他の人たちがちゃんと人付き合いして社会に参入しているときに、ひとりで物語の世界に潜り続けて育ってきたわけじゃないですか。これが悪いのかというと悪いのかもなと思っていましたが、前述の考え方で言えば、これでもちゃんとリアリティの中で生きて来たようにも思うんですよ。

 僕は漫画もコミュニケーションの一形態だと思っていて、描いている人は、何らかを他人に伝えようと思ってそれを描いているわけでしょう。それは、言葉で直接やりとりするのと比べれば回りくどくてややこしいのかもしれませんが、本質的には言葉を交わすことと漫画を読むことにはあまり差がないのではないかと思っていて、そういうリアルタイム性も単純な双方向性もない、ゆるやかなコミュニケーションをすることが、自分にとっては大切だったんだなとか思うわけですよ。そこにもリアリティはあったと思うからです。

 

 そして、ゆるやかながらも社会に参画するようにもなり、自分自身の経験が増えてくると、描かれていたのに読み取れていなかったものにも気づけるようになってきます。

 このように現実と虚構は補完関係にもあるという感覚は個人的にすごくあって、現実があるから虚構はいらないとか、虚構があるから現実はいらないとかは極端な考えであって、両方とも地続きで同じリアリティのあるものという中で生きて来たんだなと思ったりします。そして、この映画はそんな人が数多くいるということを示してくれているようにも思えて、それがすげえよかったような気がしました。

漫画を描いたのでコミティア124にでます

 漫画を描いたのでコミティア124に出ます。

  • 日時:5/5(土)11:00〜16:00
  • 場所:東京ビッグサイト 東4・5・6ホール
  • スペース番号:し35b
  • サークル名:七妖会

  今回の新刊は、以下のエントリでも書いた全部消えてしまったやつを、イチから描き直したものです。描き直せてよかったですね(…3週間かかりました)。

mgkkk.hatenablog.com

 

 タイトルは「千年幸福論」。例によってamazarashiの曲からタイトルをとったヤクザ漫画です。以下に途中まで上げました。

 この漫画がどういう漫画かというと、僕の頭の中の漫画です。自分を外から見ると明白な判断をしていても、自分の中としてはぐちゃぐちゃに迷っていたりすることも多々あります。例えばAとBという対立する結論があったとき、Aを選ぶかBを選ぶかの決断はできるじゃないですか。でも、仮にAを選んだとしても、自分の頭の中ではAが100のBが0というわけではなく、場合によってはAが55のBが45みたいなことだってあります。

 このようなときに、自分の頭の中のAを選ぶ人と、Bを選ぶ人を別々のキャラクターとして分離してみて、言い争いをさせてみたらどのような結論に至るんだろう?ということを考えながらやってみたのが今回の漫画なのです。なので、漫画としての出来はともかく、僕の日記としては描けたと思っていて、たぶん何年かあとに読み直したら、このときはこういうことを考えていたんだなということが封じ込められた感じだなと思います。

 

 入稿も振込も終わったので、僕が5秒後に死んでも本はでます(…印刷所が爆発したらでないかもしれない)。よかったら、5/5(土)に東京ビッグサイトまで来て下さいよ。な?

「好き」と「嫌い」は等価な裏表かどうか問題

 何かが好きという感情を僕が大事にしていて、同時に何かが嫌いという感情も大事にしています。自分には好きなものとか嫌いなものとかあるわけですが、嫌いなのに好きと言わないといけないとか、好きなのに嫌いと言わないといけないことが多いとストレスがあるので、それをできるだけしないようにしたいと思っています。

 

 これはハンターハンターにおける念能力の系統のようなもので、自分の特性とは異なる系統の能力を身に着けようとすると、自分の容量を無駄遣いしてしまい、そのように居続けるだけで手一杯となってしまい、疲弊してしまうのではないかと思っているのです。なので、自分が対外的に発揮する能力は、できるだけ自分の特性と一致させておきたい気がしています。

 つまり、好きなものを嫌いと言ったり、嫌いなものを好きといったりしたくないわけです。

 

 それは別にそれでいい話じゃないですか。好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言うだけのことです。しかしながら、そこに他人が関わってくると厄介なことが起きる可能性があります。なぜなら、自分の好きと他人の好き、自分の嫌いと他人の嫌いが一致する保証はないからです。

 

 自分の嫌いが他人の好きの否定ととられてしまったり、自分の好きが他人の嫌いの否定ととられてしまったりするとそこに摩擦が生じます。人は別に他人と一緒である必要はないので、それぞれの人が別々の何かを好きだったり何かを嫌いだったりすることはしょうがないじゃないですか。でも、そこで摩擦が生じてしまうことは実際には多々あって、お互いに相手に「わたしの感性をあなたは否定するのか?」と言ってしまったりすることもあります。

 

 自分の好きなものを嫌いな人と一緒にいたり、自分の嫌いなものを好きな人と一緒にいることが苦痛と感じてしまうなら、一緒にいること自体が苦痛になってしまいます。そういうとき、相手に自分が好きなものを好きになり、自分が嫌いなものを嫌いになってほしいと思ってしまうことは、悪とまでは言い切れないでしょう。でも、それが結果的に相手に、自分の本心とは異なる態度を強いるのであれば、それは何かしら暴力として捉えられるのではないでしょうか?なぜなら、その行為は、自分の感性を曲げたくないからという理由で生じ、相手の感性を曲げさせるという行為となるからです。

 つまり、相手と自分が対等ではありません。自分が主であり、相手は従であるという考え方です。

 

 このように考えたとき、ひとつ気づくことがあります。自分の中で「好き」と「嫌い」は等価な概念でしょうか?何かを好きということと何かを嫌いということが同等ではない場合、他人の「好き」と「嫌い」との接し方にも歪さが生まれてしまうのではないかと危惧します。

 例えば「好き」が100万パワーで「嫌い」も100万パワーだとすれば、相手の「好き」と自分の「嫌い」は相殺されるものですが、「好き」が1200万パワー(両手に好き、2倍のジャンプ、3倍の回転)で「嫌い」が100万パワーだったとしたら、相手の嫌いが自分の好きの12倍の熱量でない限りは、自分の「好き」で相手の「嫌い」を塗りつぶしてしまうでしょう。

 

 こういうことを具体例を挙げて考えてみると、自分の中の「好き」と「嫌い」が等価の概念ではなさそうだということに気づきます。

 

 自分が何かを「好き」と表明したときに他人に「えー、俺はそれ嫌い」と言われたら、すごく嫌な人だなって思ってしまいませんか?少なくとも僕は思ってしまうんですけど、一方、他人が何かを「嫌い」って表明したときに「えー、僕はそれ好きだけど…」って言ってしまうことがあります。でも、これ、「好き」と「嫌い」を等価な概念だとしたら、同じ行為じゃないですか?でも、片方は嫌だと思って、もう片方がやってしまうのだとしたら、つまりきっと自分の中では「好き」と「嫌い」は等価じゃないんだなって思うんですよね。

 

 このように自分の感覚として、「好き」の方が「嫌い」より強い概念だとすると、これを利用したハラスメントを意識せずにしてしまうかもしれません。自分がそういうことをしていることに気づかないと、反省するきっかけがありませんから、歯止めが効かず、やり過ぎてしまったりするじゃないですか。

 

 前述のようなシチュエーションでは、他人の「嫌い」に対して「好き」で反論をしているわけですが、こういうときの意図としては、自分が好きなものについて、嫌いという話題で場が盛り上がったりする状況にいるのが耐えられないという気持ちがあるからです。そのために釘をさしてしまうような行動をとっているわけですが、じゃあ、逆に何かが好きで盛り上がっているときに、それが嫌いでたまらない人もまた耐えられないんじゃないかと思うわけですよ。

 何だか嫌だなと思う行為も、自分の感覚を逆転させて考えてみたらその人も辛いのかもなあと思ってしまうわけです。

 

 好きと嫌いがそれぞれ人にとってどれぐらいの重みを持ってるかとか分からないじゃないですか。自分の感覚を正解にしてしまうと、無意識に他人にそれを強いてしまうというおそれがあるわけですよ。もちろん、自分が他人に強いられるのも嫌です。

 

 でも、じゃあ、そのときの正解ってなんなんでしょうね?自分の感性と異なる話題で盛り上がっていたら、水を差すのも無粋だとその場を立ち去ればいいのかもしれませんが、実際そういう感じのことも多いんですけど、それは仕方なくそうしているだけであって、満場一致で選べる正解じゃないような気がするんですよね。

 

 こういうことを考えながら、僕はだんだんとオタク集団のようなものから遠ざかるようになり(何故なら他のオタクと感性が完全に一致するということはないから)、一人で好きな漫画読んで一人で好きなように漫画の話をネットに書いたりしてりゃいいやという気持ちになって暮らしています…。

 どうですか?これは正解ですか?全然正解じゃないと思うんですけど、これが一番ましだと思ってそういう感じになっています。

メタルギアサヴァイブはいいゲームだった

 この前、「メタルギアサヴァイブ」をクリアしました。既に買うことを決めていた「北斗が如く」の発売までのつなぎで何かゲームをしようと思って買ったんですけど、買う前は「メタルギアソリッドV」で使われたゲームエンジンであるFOX ENGINEや各種素材を再利用して作られたゾンビゲームという2つの印象だけしか持っていませんでした。

 

 思ったよりも難しいゲームだったので(僕にとっては)、なかなかクリアまで行かず、結局北斗が如くが発売してからもそちらに移らずにしばらく遊んでいたのですが、クリアしたときに、いい思い出がたくさんできたなと思ったので、これはいいゲームだったと思います。

 

 最近、僕がゲームに求めているのは思い出という感じがしています。以前、探偵ナイトスクープかなんかのテレビ番組にゲームが大好きなおじいちゃんが出ていました。そのおじいちゃんがゲームの話をするとき、ゲームの中であった出来事について、あんなことがあった、こんなことがあったと嬉しそうに思い出として語るのがすごくよくて、僕もそういう感じに遊ぶようにできるといいなと常々思っています。そういう意味で、メタルギアサヴァイブは、いい思い出がたくさんできたのでいいゲームだと思ったんですよ。

 

 メタルギアサヴァイブは、その名の通りサバイバルのゲームです。ワームホールに吸い込まれてやってきた謎の土地で、なんとか生き延びながら元の世界に帰るために奮闘するゲームです。このゲームの緊張するところは、装備を選んだり、クラフトをしたり、拠点を開発したりと、ゲームを操作しているあらゆる時間の中で、腹が減り、喉が渇いていくということでしょう。常に落ち着きません。そしてそれはゲームを開始してすぐが一番落ち着きません。

 なぜなら、ゲームを開始してすぐは、安定して食料を調達する方法も、安全な飲み水を用意する方法もまだ持ち得ていないからです。

 拠点の近くで仕留めた羊の肉を加工した数少ない食料を頼りに、飲めば嘔吐を繰り返す汚れた水を飲みながら周辺地域を探索します。そのうち、まともに呼吸できない塵の中を探索する必要があり、そこでは酸素すらも絶えず減少するリソースです。あらゆるものが減っていく中で、目的のものに辿り着き、入手し、加工し、生き延びなければなりません。塵の中では最初は地図も役に立ちません。なので、遠くに見えるわずかな明かりなどを目印に歩き回るしかないのです。留まることはそのままの死を意味します。であれば、先の見えない状況でも待ち続けるわけにはいきません。進むしかありません。これは、明確に設計されたゲームの作りでしょう。生き延びるためには、進み続けなければならないのです。

 

 空腹とのどの渇き、それに伴って落ちる体力、武器も損耗し、道具は消耗し、探索の中で戦う力はどんどんなくなっていきます。方角も分からず、迷ってしまい、なんとかその塵の海を抜け出そうと無作為に歩き回る時間、塵の海の中を徘徊し、見つかれば襲ってくるゾンビのような存在たち。その中で生き延びるということ、それは大変辛い時間でした。でも、なぜか、終わってみるとその時間のことをよく思い出すわけです。あれはとても楽しかったと。

 

 このゲームは最近のゲームにしては不親切です。探索先で死んでしまえば、近隣からすぐにやり直せるわけではなく、旅立つ前の拠点まで戻されてしまいます。これが辛いわけですよ。同じミッションに何度も失敗したときには、またそこに辿り着き、資源を回収しつつ深く潜るまでの同じ行動を何度も繰り返さなくてはいけません。にもかかわらず、初めて探索する場所には未知の仕掛けがあり、うっかり死んでしまうこともしばしばです。

 僕はゲームが下手なので、このゲームの上手い進め方を習得できるまで、何度も何度も死んでしまったりしており、これがかなり辛かったんですけど、これも今思い返せば、あれが面白かったと思っていることに気づきます。

 また、実は救済策はちゃんとあり、その場で復活できる蘇生薬がログインボーナスなどでまれに手に入るので、それに気づいてからはかなり気持ちが楽になりました。

 

 あと資源が足りない系の問題はシングルプレイと並行して、マルチプレイの方にも行くことで報酬として手に入ったりします。

 

 水を浄化する設備や、安定して食料を供給できる設備は、ゲームをそこそこ進めなければ手に入りません。それまでは、ずっと食糧の不安に苛まれ、走り回るネズミを見つけては嬉々として捕まえて焼き、リスクのある水を飲んでしまってトシャトシャしながら、健康不良優良傭兵として元気に探索して、地図を埋め、設備を発見し、資源を集めて拠点を強化していきます。新しい武器レシピを発見し、レベルを上げてスキルを開放して、どんどん効率よくゾンビのような生物を倒していけるようになります。

 進めていけば仲間も見つかります。でも、増えた仲間と生きていくには、さらなる食料や水の確保、医療品の確保なども必要です。

 

 メタルギアサヴァイブの遊びはその繰り返しです。だんだんとできることが増え、ある問題が気にならなくなると新たな問題が発生し、段階的に悩みが変化していきます。新たな武器の入手やスキルの開放で自分のも強くなりますが、敵の種類もだんだん増え、新しい戦い方を考える必要があります。また、強い武器は修繕にレアな資源が必要だったりするので、その考慮も必要です。ゲームの中に仕込まれている全部の要素が開放され、悩みがなくなってくる頃には、ストーリーは終了になります(クリア後にはさらなる能力開放や、強く巨大な敵と戦えるミッションもあります)。

 

 このゲームに何か他のゲームにはない特別な特徴があったか?というと、正直「これだ!」とは結構言いにくいんですが、でも、遊んでいた時間を今思い出すと、面白かったなという思い出がたくさんあるんですよ。

 食料資源を確保して生き延び続けるというループと、少しずつ探索して活動範囲を広げるというループ、スキルやレシピで段々と出来ることが増えるというループに、それに対応した新たな課題が出てくるというループが重なり合って生まれるハーモニーが心地よく、浸っている時間が良かったなと思う感じです。

 色んな失敗をして、からがら生き延びたこともあれば、死んで台無しになったりもしました。何度もチャレンジして前に進み、それを繰り返してエンディングまで辿り着くわけですよ。そこからこれまで歩いた道のりを振り返ったとき、その時の気持ちこそが、ある種のゲームの良さだと思うわけですよ。ゲームは思い出です。

 

 ワームホールに飲み込まれて別の世界に来たというトンデモナイ始まり方の物語も、このトンデモなさと従来のメタルギアシリーズに整合をとる形での終結を見ます。メタルギアソリッドVで登場したマップも廃墟として登場し、あれやそれやも登場し、メタルギアソリッドVを遊んでいたときの思い出もそこに重畳されます。

 

 メインストーリー上の最後の戦いは、結局5回ぐらいチャレンジしてやっと勝つことができました。大量にやってくるゾンビ的な存在を、たったひとりで殲滅しなくてはなりません。

 一体一体の敵はそんなに強くありませんが、大量にやってくると脅威となります。それをワームホール技術で金網を転送して足止めし、停滞させ、ダッシュで後ろから回り込んで槍の回転斬りで一気に攻撃するのが僕は好きで、大量に迫りくる敵を走り回りながら分断し、個別撃破し、大きなうねりになることをさせないようにします。それでも一人では無理な量が来ます。大量の資源を投入して機関銃で掃討したり、グレネードで爆破したりを繰り返し、拠点を防衛するわけです。弾は枯渇し、使えるものは何でも使ってひたすら敵を倒し続けます。

 最後の戦いは時間表示もなく、自分がいつまで戦い続けなければいけないのかもわかりません。これまで蓄えてきた資源と能力を全て使い、ボーナス的に与えられた資源も総動員して、とにかく大量の敵を倒す。一人で倒す。一人で殲滅します。でも、それは孤独ではありません。これまで歩んできた道で様々な人たちの協力を得て、獲得してきた力です。

 

 それを全部総動員するような形で倒し切り、物語も終わりました。かつてビッグボスとともに戦った名も知れぬ一人の兵士が、あるかもしれず、なかったことになった物語を生き延びていくゲーム体験でした。されど、クリア後もゲームはまだ続きます。

 

 とりあえず一旦やめて今は次のゲームを遊んでいる状況ですが、マルチプレイも楽しいので、まだまだちょくちょくやっていこうと思っています。

刃牙シリーズのこれまでのテーマとこれからへの勝手な期待

 板垣恵介刃牙シリーズは、「グラップラー刃牙「バキ」範馬刃牙」「刃牙道」と四シリーズ続いており、昨日第五シリーズの開始が示唆されつつ「刃牙道」が完結しました。

 では次に描かれるものは何であるか?ということの期待をしつつ、これまでのそれぞれのシリーズでは描いているものが明確に違うのではないか?と感じているので、その話をします。

 

 グラップラー刃牙は、地下格闘場でチャンピオンとして君臨する少年である範馬刃牙が、様々な格闘家と戦いつつ話が進み、最終的に世界中から様々な種類の格闘家を集めた最大トーナメントに繋がっていきます。このシリーズで描かれているのは、「誰が一番強いのか?」ということではないかと思いました。そしてそれは「勝った奴が強い」ということを裏付けとします。

 様々な勝利があり、様々な敗北があります。そしてトーナメントを勝ち進み、優勝者となった男が一番強いという結末です。ただし、それはトーナメントに参加した男の中では、という条件つきではありますが。

 もちろん優勝者は範馬刃牙、様々な格闘家の様々な強さが、プライドが描かれ、勝者の、そして敗者の美学が描かれました。

 

 これが次のバキになると、新しいテーマに移っていると思います。僕が思うに、そのテーマとは「勝利とは(あるいは敗北とは)何か?」というものです。試合形式で勝ちと負けがはっきりつく戦いと異なり、いつ始まりいつ終わるかも分からない戦いでは、勝利と敗北の条件が曖昧です。その日負けても、次の日に仕返しをして勝てば、それは勝ちでしょうか?あるいは負けや引き分けでしょうか?では、その次の日にまた負けてしまってはどうなるでしょうか?

 ここで、これまであった試合という形式は、格闘家たちにルールと明確な勝利条件という強い制約を与えたことで、物事の捉え方を分かりやすくするという特殊な状況であったことが分かります。本シリーズでは、とにかく勝ちと負けが分かりにくく、あるとき勝ったものも、そのあとで負けたりします。そして、あるとき負けたものも、その後勝ったりもします。強さは単純な不等号で表せるものでもなくなってしまいます。

 ずっと勝ち続けていたように見えたものが、実は負けを認めていなかっただけということが分かったりします。むしろ、負けることの方が勝ちよりも価値があるということが分かることだってあります。勝負で負けても、その際に与えた毒で相手が衰弱してしまえば、それは勝ちでしょうか?勝負に負けても、明らかに死ぬようなシチュエーションで、死なずに生き延びることができればそれは何らか勝ちなのでしょうか?

 勝ちと負けというのは、ある条件から見た判定に過ぎません。ルールが異なれば、勝ち負けの解釈は変わるかもしれません。同じ人々を見ても、誰が見るかによって勝ちと負けの解釈が反転することだってあるでしょう?強さを求め、勝ちを求めますが、ではそもそも勝ちとは何かと真面目に向き合ったとき、その勝ちという概念が意外と曖昧なものであることに気づきます。

 それゆえ、このシリーズは難しいシリーズだなと思いました。

 

 その点、次の範馬刃牙のテーマは、もう少しシンプルです。それはつまり「強さとは何か?」です。このテーマは、刃牙が父親である範馬勇次郎と戦うことを物語の到達地点として設定していることから来ていると思います。範馬勇次郎は本作の中で例外的に強い存在であり、その強さは本作でさらに加速しています。本来縮めなければ勝てないはずの勇次郎と刃牙の差は、むしろ開いているかのように表現され、とてもではありませんが、勝てる道筋が見えないままに最後の戦いに雪崩れ込みました。

 そこで出てくるのは「強さとは何か?」という問いです。何をどうすれば刃牙は勇次郎よりも強くあることができるのか?作中では「強さの最小単位」、つまり強さからできるだけ多くのものを剥ぎ取って、それでも最後に残るもの、それは「我が儘を通す力」であると語られます。相手よりも腕力が弱くてもいい、何度倒されてもいい、それでも自分の我が儘を相手に飲ませることができさえすれば、それは何らかの意味で強いわけです。

 刃牙は勇次郎に我が儘を通して見せ、そして、地上最強の称号を名乗ることを許されました。

 

 さて、ひとまずの終わりを迎えた刃牙シリーズが、さらに刃牙道として再開します。この物語は、クローンの技術と霊媒の技術により、現代に宮本武蔵が甦ったというところから話が始まりました。ある種の史上最強の存在である宮本武蔵が、現代の世の中で何をするのか?この物語のテーマは「強さの先に何があるのか?」ではないかと僕は思いました。

 現代の世の中の価値観に沿わない宮本武蔵がその強さ、つまり、我が儘を通す力を発揮したとき、その先に何があるのか?ということではないかと思います。

 武蔵はその強さゆえに、現代社会に様々な我が儘を通します。それにより人が死にました。そして、人を死なせないために守護(まも)ろうとするものもいました。

 この物語の結末について、僕はまだ整理がついていないのですが、結局のところ、人を殺す力に秀でた宮本武蔵は、現代の平和な日本では生きる場所がないということなのではないかと思いました。なので刃牙は、宮本武蔵をまた現代日本から追放します。

 

 人は強さを求めますが、強いことにどれほどの意味があるのでしょうか?強すぎることで何でも我が儘が通ってしまうということは本当に幸せでしょうか?そして、その周辺にいる人たちはどうでしょうか?刃牙道の宮本武蔵が強かったことには、何か意味があったのでしょうか?ひょっとするとこれは、とても悲しい話だったのかもしれません。

 

 さて、次のシリーズの鍵となるのは二代目野見宿禰だそうです。神話的な存在である野見宿禰を長い世代の果てに襲名できるほどの力を持った存在です。もしかすると、次のシリーズでは、「強くある」ということの意味を野見宿禰が見せてくれるのかもしれません。武蔵のときのような悲劇ではなく、今度は別の結末に辿りつくことを期待してしまいます。

 力があるということが、周囲に悲劇をもたらすのではないのだとしたら、そこには何があるのか?例えば範馬勇次郎は、世界中の強きものたちと戦うことで、ある種の神格化をされていました。勇次郎は弱きものを守ろうとしたわけではありません。しかし、強きものが弱きものを蹂躙しようとするとき、その強きものと戦う勇次郎の背中を弱きものが見ることになります。それはひとつの強さの在り方でしょう。

 しかしながらそれは、力が強いが悪いものたちとの対比でなければ証明できない種類のものでもあります。「ただ強くある」ということがもたらすポジティブな何かがそこに存在しているのならば見てみたい、僕はそういう期待をしてしまったりしていますが、全然そういう話ではないかもしれません…。

内輪ウケは世の中で最も面白いことのひとつという話

 何かの話をするときに内輪ウケの話をするっていうのは、嫌がられることが多い感じがするんですけど、僕が思うに内輪ウケは世の中で最も面白いことのひとつなので、やっちゃうことも多いです。

 

 僕の感覚として、興味を惹かれてしまうものは「ぎりぎり分かるもの」という気がしていて、明らかに分かるものや、全然分からないものはあまり夢中になれません。

 リンゴが目の前にあるときに「これはリンゴです」というのは明らかに分かるものですし、「これはバルモッサ(僕が今考えた意味不明の言葉)です」と言われても何がなんだかわからないというだけですが、「これはアダムとイブが食べたというリンゴと同じ品種なんですよ」とか言われたら、ちょっと興味を持ってしまったりしませんか?なんとなく聞いたことがあるけれど、自分はまだよく知らないぐらいのものがちょうどよく感じてしまったりします。

 

 つまり、興味を惹くためには、知り過ぎずか知らな過ぎずのギリギリの線を攻めることが重要になりますが、何を知っていて、何を知らないかというのは人それぞれなので、この辺りを攻めていくとしたら、必然的に内輪ウケに近くなっていくんじゃないでしょうか?なぜなら、ある集団に属していれば、ちょっとは聞いたことがあるぐらいのものというのを選びやすくなるからです。そのある集団とは、例えばオタクであったり、何らかの漫画やゲームなんかが好きであったり、というようなものです。

 

 内輪ウケはその内輪が狭くなればなるほど、ピンポイントでそのラインを突くことができるので、おもしろくなっていくと思います。しかしながら、内輪が小さくなれば、逆に内輪の外にいる人の割合もどんどん増えていきます。内輪の外の人が内輪ウケを見ると、ちっとも聞いたことないことなので、理解できないし、わけが分からないし、おもしろさはまるで伝わらないと思うんですよ。つまりバルモッサ(意味不明の言葉)ということです。

 

 内輪ウケがつまらないと思うのは、つまり内輪の外にいるときで、それは当たり前です。なぜなら意味が分からないのですから。意味が分からないのに、内輪の中にいる人達だけが面白がっているので、それは奇妙に思えるでしょう。こんな面白くないものを喜んでいる人たちはどこかおかしいとさえ思ってしまうかもしれません。

 

 では、そんな内輪ウケのものを楽しめるようになるとしたら、どのような方法があるかというと、これはもう内輪の中に入るしかありません。内輪の中で、その内輪の中だけで通用することを知っていけば、それまで意味不明だったものの意味が分かりますし、意味が分かれば面白くなってくるかもしれません。

 例えば、パロディにはそういう部分があると思っていて、分かる人には分かるんですけど、分からない人には分からないわけじゃないですか。それは知っているか知っていないかというだけの話なので、知っているから偉いとか、そんなものを知る必要があるのか?とかそういう話ではないと思うんですよ。ただ、たまたま知っていれば面白いし、知らなければ面白くないものだったりするというだけです。もちろん、別にそれを面白いと感じる必要もないわけですから、内輪の外にいてもいいはずです。その辺は人それぞれ好きな内輪に入ったり入らなかったりすればいいと思うんですよね。

 で、そういうことを考えると、世の中には入りたい内輪と入りたくない内輪というものがあると思います。その内輪の中にいる人たちが楽しそうで、自分も同じように楽しくなりたいと思えば入っていくでしょうし、その内輪が非常に排他的で、外から入ってくる人に冷たければ入りたくないと思ってしまうかもしれません。

 

 例えば最近では「ポプテピピック」なんかはすごく内輪ウケなものだなと思っていて、作中に登場するパロディにせよ、特に説明なくいきなり分かっているものとして出てきたりするわけじゃないですか。漫画やゲームならまだしも、インターネットで一瞬だけ流行ったもののパロディなんかは、同じ時期に同じものを見ていなければ、何年か経てば、何が元ネタであったかも分からなくなってしまうかもしれません。

 これも、内輪に入れば楽しいけれど、内輪に入らなければ意味不明、そういうものだと思っていて、それが楽しめるのは内輪にいるからだと思うわけです。なので、内輪の外にいる人たちが面白くないといってもそりゃそうだな、バルモッサだなと思う感じです。

 

 バルモッサ、適当に出した適当な言葉を繰り返し使っているものの、別に皆さんは面白くもないと思いますが、同じ文章の中で繰り返し見ていると、僕が適当な言葉に何かの意味を固着させて繰り返したら面白いと思っているんじゃないかということぐらいは伝わりますよね?これも小さな内輪です。

 そういえば、西原理恵子の「できるかな」シリーズのどれかで(鳥頭紀行の間違いでした)、「くそげろでばっこし」というギャグを漫画に入れたら、編集者から「意味不明」という校正コメントが入ったということがありましたね。でも、実際、ここだけ見たら誰にとっても意味不明ではあると思います。つまりそれは内輪の外にいるからで、内輪の中に入りさえすれば楽しかったりするんですよ。これが内輪ウケだと思います。

 

 内輪ウケの話、しちゃいけないみたいな雰囲気もあるとは思いますが、それはもちろん内輪の外から見たら明確につまらないからじゃないかなと思います。でも、一方、皆が入りたいと思える内輪を作れるなら勝利だなと思えるところもあり、どうにかコミュニケーションをとっている相手を共犯関係に持ち込んで内輪に引き込み、内輪ウケの話ばっかりしてやりたいなというような気持ちがあったりします。