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完成された人間について

 ちょっと前から、「完成された人間」という概念について考えていて、全ての人間は完成に向かっているんじゃないかと思ったりしています。

 

 ここで言う完成された人間というのは、充分に成長しきってしまったがゆえに、それ以上変化する必要のなくなった人間です。人間は環境に合わせて自分を変えますから、ある程度環境が安定した現代社会において、日々の生活の中で接する情報が全て自明で、それに合わせて自分を変える必要がもはやなくなることを完成と呼んでいます。現在の状況に十分最適化された人間と言ってしまってもいいかもしれません。

 

 人間が完成されてしまうとどうなるかというと、あらゆるものを既に知っていることになってしまいますから、新しい本を読んでも、それは既に読んだあの本と同じことを書いているなと思うだけです。なにしろ完成していますから、もはや得るべき新しい情報なんて存在しません。客観的に見れば全てを知ることなんてできないかもしれませんが、主観的には全て知っていることになっているのです。なので、何かの本を読んでも、既に知っている何かと関連付けてそれで終了です。

 

 例えば若者は概ね完成されていませんから、何を見ても「新しい!」と思っていますが、それなりにおっさんであれば、それはもう○○が××年前にやってたよと思うだけかもしれません。そうなってくると、新しい本を読むことも、古い本を読み返すことも同じです。なぜならば、新しい情報をそこから得ることができないからです。それは刺激のない状態ですから、その現象の結果が「最近の○○はつまらない」という言葉として表れるように思います。繰り返しますが、完成されているがゆえに、目の前にある本や音楽やゲームから、新しい情報を得ることができないからです。

 

 完成された人間はパターンで解釈し、パターンで行動します。なぜなら全てを知っているので、外からの情報は例外なく知っている何かとして取り扱うことができますし、それに対する最適な行動も既に自分の中にありますから、それをいつもと同じように行うだけです。環境に合わせて自分を変える必要はもはやありませんから、苦痛が少なく、あるがままにふるまうだけで良くなりますし、気楽な話となります。完成された人間とは幸福です。ここで言う幸福とは、苦痛が最小限になっている状態のことを意味します。

 

 完成するということは幸福だと思うので、全然悪いことではないのだと思います。ちなみに僕自身も当然完成に向かっています。新しい漫画を読んで、載っているウンチクが別の漫画で読んだやつだなあと思ったり、この展開は前も見たことがあるとか、この漫画のシチュエーションは、あの漫画のシチュエーションに似ているなど、読めば読むほど他の何かと関連付けてしまいます。もし、全ての要素が他の何かと関連付けられてしまうならば、もはや、その漫画を読む意味はあまりなかったということになってしまうでしょう。

 それは例えば、漫画を読んだ感想に表れます。漫画の感想を今までの人生の中で何百本かは書いてきましたが、その中のある漫画を読んだ感想と、別のある漫画を読んだ感想がまるで同じであるケースを発見したりします。つまり、漫画から何かを得ることを重要視するならば、どちらか一つを読んだだけで、実は良かったということになるのです。そのうち、何を読んでも全て過去の何かと関連付けることに成功するほどに完成してしまえば、もはや漫画を読む必要は全くなくなってしまうのでした。

 

 こういうことを考えていると、僕はいつまで新しい漫画を読み続けたりすることができるのだろうかと思ったりします。少なくとも僕の主観において、「新しい漫画」と呼べるエリアは過去の名作がどんどん奪っていってしまうために、開拓可能なエリアが少なくなっているような気がするからです。しかしながら、毎年新しい漫画を読んでは、これは新しい漫画だと思える状態がずっと続いているので、漫画界は広大だなあと思ったりなんかするのですが、いずれ限界がくるのだと思います。ここでいう限界とは、僕の人間としての限界なわけなのですが、それが寿命よりも長ければ、ずっと楽しくて素晴らしいのになと思う限りだったりするのです。


 完成すると安心で幸福ですが刺激がなくてつまらなくなります。完成していないと楽しいですが同時に不安でしんどくもあるんじゃないかと思います。そして、全ての人間は進行度の差はあれ、その途上であるのではないかというのが、最近思っていることなのです。


 ちなみに、上で散漫に書いた完成された人間の特徴をもとに、ああ、この人は完成された人間だなあと他人を分類すること自体がまた、完成された人間の特徴であるという構造になっています。