漫画皇国

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「HUNTER×HUNTER」のナニカの能力と責任の等価交換認識の類似幻視関連

 ハンターハンターに登場するゾルディック家には、アルカという子供がおり、そのアルカには「ナニカ」と呼ばれるもうひとつの人格が存在します。ナニカの正体はその後、暗黒大陸から持ち帰られた「ガス生命体アイ」という存在であると示されており、これからもっと新しい背景が描かれるのかもしれません。

 

 ナニカの能力は夢のようなものです。それは「何でも願いを叶えてくれる」というものだからです。しかしながら、そこには以下のようなルールがあります(記憶で書いてるので、もっとあったかもしれませんが)。

 

基本ルール

  • アルカのおねだりを3回聞くと、1つのお願いを叶えてもらえる
  • お願いの大きさには限界がなく、何でも実現できる
  • お願いが大きければ大きいほど、その等価交換として次に大きなおねだりをされる
  • おねだりを聞くことに3回失敗すると失敗した人、その最愛の人、失敗した人と長い時間を過ごした順に、それらが等価になる人数まで死ぬ
  • おねだりに失敗すると簡単なおねだりにリセットされる

条件的なルール

  • おねだりをしている途中で、別の誰かにおねだりをすることはない
  • 同じ人間が連続してナニカにお願いすることはできない

応用的なルール

  • 結果的に叶えられる願いがひとつなら、条件をつけて複数のお願いができる

隠されたルール

  • 何かを直すお願いを叶えるためにはナニカが対象に直接触れる必要がある
  • 直すお願いを叶えたあとには、残酷なおねだりをされることはない
  • キルアの「命令」であればノーリスクで願いを叶えることができる

 

 このルール、何か(ナニカ!!)に似ているなと思っていて、ひとつ思い当たったのは世の中の責任追及に対する態度です。念のため書きますが、ナニカの能力が世間のこれを暗喩していると言っているのではなく、僕がそこに勝手に共通点を見いだしたという話です。

 上記のルールから以下3点について話します。

  1. お願いとおねだりが等価交換であること
  2. 直すときには残酷な見返りを要求されないこと
  3. 命令はノーリスクであること

 

1. お願いとおねだりが等価交換であること

 大きな悲しい出来事が起こると、世の中にはその後、その悲しみに相当する責任を誰かに取らせようとする意見が生まれたりします。つまり等価交換です。このようなことは、人がしでかした出来事ではもちろんそうですが、人の力ではどうにもならなかったような自然災害でさえも起こります。例えば、それを防いだり、救助のためにために適切な対応をとれなかった人間が、自然災害が起こったことそのものに匹敵するぐらいに責められることもしばしばです。

 これはつまり、人格のない自然そのものには責任を問うことができませんから、起きてしまった出来事への責任の等価交換を求めるなら、その対象は人になってしまうということではないでしょうか?

 

 例えば凶悪な犯罪者がいた場合にも、その犯罪の責任はその人の親族や、その人を取り巻いていた環境を作り上げた人や、その人が抱えていた属性と同じものを抱えている人に広がって、「その責任をとれ」という言説が生まれることがあります。そうなってしまう理由は、その重大な犯罪と釣り合わせるには、たったひとりの人間の存在では全然足りないからなのではないでしょうか?

 そもそも因果関係の認識には、エネルギー保存則や質量の保存則と違って、必ずしも等価交換が認められるものではないと思います。つまり、ほんの軽微なことが、重大な結果を引き起こしてしまうこともあるわけです。しかしながら、そのようなところにまで等価交換を求めてしまう人間の思考が、結果に釣り合う大きさまで責任を取らせる範囲を広げ、沢山の人を責任の俎上に上げようとしてしまいます。

 僕はこのような状況と、ナニカの能力に類似を感じました。

 

 これは呪術的な側面のある行為の一種だと思っています。なぜなら、そこで問われる責任は、問題を真に解決するため(二度と起こらないようにするため)の行為というよりは、その大きな喪失に納得するための儀礼的な意味合いが強いように思うからです。

 何かの事故や事件を防ぐことを考えるときには、そこで語られる理由が、関係者を納得させるだけではなく、本当にそれの再発を防ぐために有効な施策かどうかを選り分けなければならないことが多いです。

 

 話は逸れますが、何かの事故の再発を防止するため、その原因に対して「なぜ」を繰り返すという方法が使われることがあります。この方法自体には、よい側面も多いのですが、悪い使われ方をすることもあります。何かが起きた原因として「人間の精神」が出てくると、僕が思うにもうそれは分析としてダメです。

 人間という概念は、「責任が取れすぎてしまう」のでマズいところがあって、それがどんなにリソース不足の中で強行された仕事であっても、それがどれだけ理不尽な周辺事情があったとしても、当事者が「私がちゃんとしていないのが悪かった」という説明をすることで周囲の納得が得られてしまうことがあります。この言葉は、その責任を取らされる人から自発的に出てくることもしばしばです。なぜなら、本当の原因を見つけられずに延々と話し続けられるよりも、もう自分が悪いことにしてこの場を収めてしまった方が楽だと思ってしまったりするからです。

 でも、この状況、たまに遭遇しますが、最悪だと思っているんですよね。

 

2. 直すときには残酷な見返りを要求されないこと

 さて、話を戻しますが、悪い行為に等価交換の責任を求められがちな一方で、何か素晴らしい行為が行われたとき、そこで等価交換を求める動きには抑制がかかりがちではないかと思います。例えば、素晴らしい行いをした人の親族や、同じ属性の人々が等価交換に釣り合うだけ褒めらえるということは、もちろんあるにはありますが、それを否定する考えも強いように思うからです。

 あなた方が素晴らしいのではなく、その素晴らしいことをした人だけが素晴らしいだけだと。それを我がことのように誇るのは、越権的ではないかという指摘が出てくるのをインターネットでは目にしたりします。

 

 こちらはナニカが直すときには残酷な見返りを求めないことと似ているような気もしたんですけど、でも、よくよく考えてみたら、同郷の有名人を誇ったりするのは世の中に全然あるような気はして、それは特に否定的には語られないような…。じゃあ、あんまり似てはいないですか…。

 いや、でも、そこに責任は求められてないですよね?素晴らしいことを成したときに、誰かにその責任をとらせるというようなことはないわけです。こっちの方向なら行けそうな気がしてきました。やっぱりナニカの能力から、色々類似を勝手に読み取ることができそうです。

 

3. 命令はノーリスクであること

 「命令はノーリスク」というのは、ハンターハンターの世界の根本を揺るがすような仕掛けなので、それが明らかになることを読んだときには衝撃に感じました。本当に何でも願いがノーリスクで叶うなら、この先起こる全てのことはそれで解決すればいいからです。ドラえもんにおける、ソノウソホントだけあればいいだろ理論です。

 この辺は、まだ何か裏があるんじゃないかと思っていて、まだ素直には受け取れません。クラピカのエンペラータイムも、後から強い制約と誓約が存在することが分かりましたしね。

 

 ハンターハンターの根本を揺るがすとは、作中の念能力自体が、リスクを抱えることによって大きなリターンを得るという等価交換の原則に準拠したものだからです。その中に、ナニカの能力のような、その認識を打ち破るようなものが出てきたということは矛盾するので、想像していませんでした。これは自分がいつの間にか発想の枠組みをいつの間にか狭めていたということにも気づけたので面白い体験でした。ナニカが暗黒大陸から来たものであるということは、これまでのルールが通用しない場所という引きとして興味を惹かれます。

 

 で、これも何かに無理矢理なぞらえて捉えるかって感じなんですけど、命令されるというのは、無責任になるということと似ていると思います。なぜそれをするのか?と問われたときに、「命令されたから」がそのまま理由になってしまったりするからです。

 命令された側が、無責任になって何かをしてしまうということは、割と楽な話だと思うんですよ。自分で考えて行動すれば責任を求められますが、他人に言われてやるなら、言った他人のせいにできます。

 

 僕自身、完璧に正しいリーダーの言うことを聞いて、言われたことだけやっていればいいというのなら気楽だなあと思いますし、完璧に正しいリーダーさえいてくれさえすればそうなりたいと思ってしまいます。ただ、結局そうならないのは、完璧に正しいリーダーというのが架空の存在だからだと思います。

 これまでの僕の経験上では、人間の認知にはやっぱり限りがあるので、ありとあらゆることに対して詳しく知ることはできません(知っているふりはできるとは思いますが)。めちゃめちゃ賢い人であったとしても、現場作業レベルの話になれば、現場の人よりもものを知らなかったりするのです。

 なので、大きな問題に取り組むときには、その大きな問題を適切な大きさに分割し、詳細で実践的な認識のある人が責任を持たなければならないと思っていますし、どれだけ能力のある人であったとしても、その隅々まで仔細に判断して指示することをしていては、時間がいくらあっても足りませんし、判断の根拠もあやふやです。その結果、スケジュールはどんどん遅れていきます。

 

 いやもう全然ナニカの話とは変わってきてしまいましため。何を隠そう、これは漫画の話ではなく、個人的に悩んでいたりすることについて、それが頭の中にいつまでもあるせいで、漫画を読んでもそれに結び付けたことばかりを思ってしまうという病気みたいなものなんですよ。

 

 プロジェクトのマネジメントだとか、課題の解決だとか、再発防止策だとか、そんなことが終わりなく延々とやってくるわけなんですけど、なんでこんなに仕事があるんでしょうね??目の前のことをやっているとすごい速さで毎日が終わって行きます。

 もう、何も分かりません。ああ、ハンターハンター早く連載再開してほしい(読みたい)。

将太の寿司Tシャツをめぐる冒険

 2019年7月29日、将太の寿司界隈を驚かせるビッグニュースが舞い込んだ。週刊少年マガジンの60周年記念を祝したユニクロとのコラボ商品のラインナップに、将太の寿司が含まれていたのである。

 

www.uniqlo.com

 

 他の作品と比べ、20年以上前に連載が終了した作品が取り上げられるのは異質に感じた我々は、ひとつのことが思い当たった。つまりは、昨年のネット上での将太の寿司ブームである(以下はそれを僕が勝手に総括した文です)。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ユニクロ講談社も粋なことをするじゃないか。昨年ぐっと増えた将太の寿司ファンに対して、公式のグッズ供給が行われない辛さに手を打ってきてくれたのだろう。漫画は時代を超えて読み継がれる。電子書籍の時代になればなおのことである。

 しかしながら、それはもう、とうの昔に終わった連載なのだ。時代を超えてファンにはなれるが、公式の供給は一定数のファンが集中している時代にしか行われない。好きになった人は、もう手の届かない場所に行ってしまっていた。そういうことの方が多いのだ。

 だが、我々には来てしまった。そのときが。今このときを逃しては、この先もうないかもしれないチャンスが到来してしまった。買うしかないだろう。買うしかないじゃないか。デザインもクソだせえなと思ったりはしたが、だがそれがいい気持ちになってきたじゃないか。

 

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 白Tシャツの絵はマグロづくしの寿司桶である。これはまだ小樽にいたころの将太くんが、父親の代わりに寿司の大会に出るために作った寿司である。笹寿司の嫌がらせにより、閉店に追い込まれそうになっている将太くんの実家、巴寿司の名前も入っている。父親は両手を怪我し、寿司ネタの仕入れも制限されているときに、仲間の尽力で唯一手に入ったのがこのマグロである。だから、マグロづくしなのだ。マグロしかないのだ。将太くんはこの寿司桶の中に、マグロの全てを詰め込んだのだ。多彩なネタを仕入れることすらできなかった逆境を、むしろ力に変えてその寿司は出来上がったのだ。

 この寿司にはドラマがある。むしろ将太の寿司のロゴすら不要かもしれない。マグロづくしであるからこそ、その寿司が赤だけに彩られていることの意味がある。白黒の紙面では見えなかった色がそこにある。

 ロゴがないほうがハイコンテクストでかっこいい気もしたけど、ロゴがないとわかる人にしかわからないので、ロゴはあってもいいです。

 

www.uniqlo.com

 グレーTシャツの絵は正面はワンポイントのマグロの寿司と将太の寿司のロゴである。これはさりげなくて嬉しい。気づく人だけが気付けばいいのだ。上に一枚羽織れば、ほとんどの人はそれが将太の寿司Tシャツだと気づかないかもしれない。でも、それは将太の寿司のTシャツなのだ。自分だけが分かっているのだ。おいお前ら!?お前らは気づいていないかもしれないが、僕はいま将太の寿司のTシャツを着ているんだぞ!!と胸を張って街を歩くのだ。

 そして羽織った上着を脱いだとき、その背中には小手返し一手(片手で一回で寿司を握る技法)のコマが入っている。擬音もかっこいい。「スパーン」だ。これは片手を怪我した将太くんが、それでも寿司を握ろうとしたコマなのだ。

 

 こう考えると、2つのTシャツには共通点があることが伺える。逆境の克服だ。父が両手を怪我しても、マグロしか手に入らなくても、自分の片手を怪我しても、それでも寿司を握るのだ。これは将太の寿司のテーマのひとつでもあるかもしれない。どれだけ笹寿司の嫌がらせにあったとしても、その逆境の中で自分にできることを掴み取り、道を切り開いていく物語なのだ。将太の寿司は、生きるための寿司なのだ。

 これは我々の状況とも似ている。公式グッズの追加供給など、とうに諦めていた我々に、唯一供給されたTシャツがこの2枚なのだ。少なく、選択肢のない、この逆境の中で生きることを掴み取ることこそが、将太の寿司のTシャツなのだ。

 

 2019年8月12日、その日は朝から落ち着かない空気が流れていた。

 僕は近所のユニクロがいつ開店するのかを調べ、そして、思っていた。

 「開店と同時に入って将太の寿司Tシャツだけを買って帰るのって、え、あの人、将太の寿司Tシャツが欲しすぎて、朝イチで来たの??って店員さんに思われはしないだろうか…」と。しかし、そんな他人の目を気にして遅く行って、売り切れていたらどうしようと不安になる。他人の目を気にしてしまったことで、入手できないなんてことはあってはならない。だから次に、僕はこう検索した。

 結論としては、ネットで検索する限り、将太の寿司Tシャツ欲しさに、開店前から並んでいる人はいなさそうだ。僕は少し考え、開店15分後あたりに着くことを目標に家を出た。

 

 現地に着くと、ひとつの杞憂が分かった。セルフレジの存在である。将太の寿司Tシャツだけを買っても、セルフレジなら他人の目は気にならない。いいじゃないか!と僕は思った。しかし、そんな少しの安心を完膚なきまでに破壊する出来事が起こる。

 ないのである。将太の寿司Tシャツはおろか、マガジンコラボのTシャツすらひとつも置いていない。住宅街の近くにある小型の店舗だからだろうか?なんということだ。最初からそこに希望などなかったのだ。

 

 

 大好きな幽遊白書のコラボTシャツの悪口を言いながらも、僕は次の行動に移っていた。比較的近くのショッピングモールの中には大型店舗がある。そこに向かえばいい。僕はバイクを走らせた。

 

 ショッピングモールの駐車場にバイクを止め、他の人の状況はどうだろうと、Twitterを開くとそこには笹寿司からの情報があった。

 そうなのだ。ユニクロのWebサイトには在庫検索の機能があったのだ。でも、ショッピングモールに来ちゃったし、ここで在庫ないの分かってそのまま帰るのもあれだから、検索せずに店舗を見にいっちゃおとなったので、とりあえず行った。

 ない。

 検索をしてみたら、そもそも埼玉県にはないっぽい??

 

 分かったよ!!だいたいわかったよ。将太の寿司をラインナップに入れてみたものの、でも、ネットで流行ったぐらいで、全国の店舗に供給しても、どうせ在庫がだぶつくだろうって思ったんでしょ?でしょでしょ??

 そして、流行ったのはネットだからオンラインショップからなら買うかもだし、超大型店舗でしか取り扱わなくっても、寿司のオタクなら買いにくるだろ??って思ってるんでしょ??

 

 そうだよ!!!!!!!買いに行くよ!!!!!!

 

 現実が、将太の寿司化してきました。寿司勝負のために最高の寿司ネタを探して走り回る将太くんと、寿司Tシャツを探して走り回る自分が一致してきました。

 

 この頃になると、全国各地の寿司のオタクたちも近所のユニクロ将太の寿司Tシャツが入荷されていないことに気づいてざわつき始めます。僕の、そして彼ら彼女らの、寿司のTシャツを求める動きが、静かなうねりのようにネット上に広がっていきます。

 誰に言われるでもなく、皆は「笹寿司の仕業だ」と思い始めました。

 

 夕方にユニクロ池袋東武店に到着した僕は、Tシャツを探してフロアを走り回りたい気持ちを押さえ込み、若干早足でキョロキョロしていたところ、ありました。

 

 ありました!!!!!

 

 よかった。これで最高の寿司が握れる。しかし、この店舗には罠があります。セルレジがないのです。将太の寿司のTシャツを2枚だけ持って行くのは、恥ずかしくないだろうか?そんな気持ちが胸で揺れました。

 でも、いいんですよ。欲しかったのだから。これだけ欲しかったという気持ちが何の恥になりましょう?欲しかったんだから、店員さんだって欲しかったんだなって思ってくれるんじゃないでしょうか?いや、そもそも客が何買ってるとか、全然興味ない気もしますね。

 

 

 ここからは、まだ寿司Tシャツが買えてない人に優越感を感じるフェイズに入ったので、そういう感じです。

 

 こうして、将太の寿司Tシャツをめぐって走り回る長い1日が終わった。たぶん正解は、オンラインで注文することだった。近所のユニクロで店舗受け取りにしていれば、朝の時点で終わっていたかもしれない。

 でも、いいんだ。僕には将太の寿司Tシャツがあるのだから。しかも、2枚も同時にだ(見てるか谷沢)(安西先生!)。

 

 あと、今さっき検索したら、オンラインももうあんまり在庫なさげなので、欲しい人は早めに買った方がよい。

 

 将太の寿司Tシャツをめぐる冒険(完)。

 

誰かが「正解」を作っている世の中に生きている関連

 大森靖子の「君と映画」という曲の歌詞に、以下のようなものがあります。

映画もいいよね 漫画もいいよね ついついお金を使ってしまうでしょ
知らない誰かに 財布を握られる 握られる
テレビもいいけど なんか怖いよね これが現実か なんか怖いよね
私のリモコン握られる 握ってる見えないヒットラー

 この歌詞は僕の認識では、自分の行動が誰かのレコメンドに制御されることへの抵抗感を歌った内容だと思います。他人によるレコメンドが氾濫する情報化社会で自分の価値観を持って生きることを歌ったものだと。

 

 「面白い漫画を教えて」と言われることがあります。僕はこの言葉の意味を考えるんですけど、きっと重要なのは「面白い漫画を読みたい」ということではなく、「つまらない漫画を読みたくない」んだと思うんですよ。失敗する選択をしたくないんじゃないかな?ということを相手から感じることがあります。

 わざわざ時間をかけたりお金を払ったものを結果的につまらないと感じると嫌だから、最初から面白いと誰かに保証されたものを読みたいわけでしょう?失敗を恐れるあまりに、自分の感性ではなく、他人の感性の中で高く評価されたものを踏み外さないように生きるわけでしょう?つまり、自分より他人の感性の方が正しいと思っちゃっているわけですよ。自己肯定感の欠如ですよ。

 そして、そんな状況に対する嫌だなという気持ちを歌っているのが「君と映画」だと僕は思っていて、僕はそこに共感するところが大きいです(僕が共感したいと思うあまりに勝手にそれを見いだしている可能性もある)。

 

 失敗をしたくないがために、自分の行動として、誰かが決めてくれた「正解」の上を歩くことしかできなくなるということ。何か出来事があっても、それに対する周囲の初期の反応を見て、肯定するのが「正解」なのか、否定するのが「正解」なのかを判断し、その「正解」の側を選ぶということ。

 あるいは逆の側から、他人の行動を採点し、百点の行動だとか0点の行動だとか言って、点数が低ければ攻撃的になり、自分の考える百点以外の行動は認めないということ。そんな、その人の中で0点であることが、勝手に採点された側に何の関係があるのでしょうか?

 

 「正解」が探されているように思います。それは、それ以外を「間違い」として、その上を歩くことを認めない人が出てくるという形で広がっているように思います。恐怖ですよ。誰かの中で「正解」であるかどうかということが、自分の人生に何の関係があるというのでしょうか?

 

 インターネットで誰しもが発信できることが、多様な世の中を作るというのは幻想で、実際には、ものすごい勢いでその場での「正解」とされるものが決まっていき、それ以外が「間違い」とされていくのを目にします。

 

 僕は今現代の話をしていますが、それは僕が今現代に生きているからなだけで、昔からもそうだったような気もします。昔聞いた、「巨人ファン」の話で、なぜ数ある野球チームの中で巨人を応援するのかの理由が「勝つ」からだというものがありました。これは同じことなんじゃないかと思います。つまり、自分が応援してるものが「負ける」ということのストレスから逃げたいっていうことなんじゃないかと思います。だから、より勝ちそうなものを応援するんじゃないでしょうか?

 自分が応援しているものが勝って欲しいという願望が、その裏には負けるなら応援したくないというものがあるんじゃないかと思うんですよね。

 

 だから面白いとされる正解の映画や漫画を選び、勝つとされる正解のチームを応援し、正しいとされる正解の言説を口にしてしまうのではないでしょうか?でも、それって結局全部自分の外の話じゃないですか。自分の人生から、わざわざ自分を追い出す行為じゃないですか。そんなふうに、他人によって外堀を埋められた、正しくあるべき自分像という隙間を、死ぬまで頑張ってくぐり抜けていくのかって話ですよ。

 

 でもまあ、自分で選択するのって結構辛い話ですよね。だって、もしそれで失敗するとしたら辛いじゃないですか。正解が選べるときに、わざわざ失敗をする必要なんてないわけですよ。誰かが完璧な正解を教えてくれて、それをやってりゃいいなら楽なことはありません。

 誰かに正解を決めて貰えるのでなければ、自分で選ばなければなりません。そして、その自分で選んだことはもしかすると失敗かもしれません。そして、それを誰かのせいにすることもできません。だって自分で選んだのだから。

 

 あらゆることを自分だけで決めていくこともまた非現実的なのかもしれません。個人にはそれだけの時間も余裕もないと思うからです。

 

 それでも僕が思うことは一点で、その「誰かが正解として目の前に設定してきたもの」が、本当に自分にとっての正解と一致しているのか?という疑念を持つことです。失敗を恐れるあまりに、むしろわざわざ誰かに仕組まれた失敗を掴まされているのではないか?ということへの恐怖からです。他人をめちゃくちゃ疑っているからです。

 でもって、自分にとっての正解って何なのかな?って話なんですけど、これは僕は簡単に設定していて、得になると思ったことが正解です。損得で考えるのが一番分かりやすいと思ってそうしているんですよね。

 

 僕の得って他人の損かもしれません。そして、僕の損が他人の得かもしれません。だから、全員が得の正解になることってまれだと思うんですよね。だから、自分の得になることを「正解」に見せかけることで他人に受け入れさせようとする人が出てくるんじゃないかなと思っています。他人が損するだけのことを、でもこれが「正解」だよと騙すことによって、自分が得をしたい話じゃないですか。他人が作った「正解」に依存し過ぎると、そういう人に引っかかって損ばかりしてしまうかもしれません。

 

 それって損じゃないですか。だって損させられるんだから損ですよ。損なのは嫌なんですよね。だから僕は、他人に設定された「正解」を疑いまくります。その結果どうなるかというと、友達の少ない孤独な中年になるわけですよ。

 

 でも、孤独な中年は元気やでっ!!(おしまい)

「ウサギ目社畜科」がめちゃ好き関連と僕の笑いの理論

 直近で、最近は何の漫画が好きですか?って聞かれたときに答えたのが「ウサギ目社畜科」です。今一番楽しみに連載を読んでいるギャグマンガです。

 

 ウサギ目社畜科は、月で労働していたウサギのふわみが、戦力外通告を受けたことで地球に落とされ、サラリーマンの主人公の家に飛び込んできたので、そこで働くことになった漫画です。

 ふわみは、月での無賃金の重労働を常識として感じており、地球にやってきても働かないことに不安を感じてしまいます。ふわみは、主人公を社長と呼び、月給1円の報酬で労働をすることになりますが、それすら非常に高収入と感じて日々生きているのです。そしてふわみの下には、同じく月から落ちてきて、ぶっ刺さった、もふこもやってきました。

 

 この漫画のどこが面白いかというと、とにかくふわみともふこの様子です。地球の働きたくない人類とは真逆の「ろうどうのよろこび」をビンビンに感じているふわみともふこは、彼女たちなりの常識で考えて沢山の労働をしますが、それらは、月の異常な常識に根付いているためにほとんどが的外れです。それに主人公は毎回のように怒ります。

 でも、ふわみともふこが一生懸命考えた結果なんですよね。面白いことをしようとしているわけではなく、その常識と常識のすれ違いが面白い話です。つまり、これは孫ですよ。孫を見るおじいちゃんの心境ではないかと思います。もしくは、インターネットで知り合いの子育てトラブルエピソードを読んでいる僕の気持ちともシンクロします。

 

 ただ、ふわみともふこが、人間の子供と違うのは、人間ではなく月からやってきたウサギであることです。その抱える常識だけでなく、生物としての生態も人間の常識ではない動きをします。つまり、僕はそれを知りません。だから、何が起こるかわかりません。とんでもない、めちゃくちゃな動きをしてしまい、それが異常なのに、ウサギ側からすると常識ですよいう雰囲気なのがたまらなくおかしいのです。

 

 笑いってどうやったら起きるのかなって僕は常日頃から思っています。なぜなら、僕は「自分が好きな人が自分の発言で笑ってくれる」ということがめちゃくちゃ嬉しいので、どうにかして、自分が好きな人たちを笑わせられないかな?ということばかり考えているからです。

 その試みは上手く行ったり行かなかったりしますが、僕の経験からの認識では、笑いは「不可解と可解の往復運動」の中で起きます。つまり、「分からなかったものが分かるようになった瞬間」と「分かっているつもりだったものが分からなくなる瞬間」が面白いわけです。

 

 なので、一見常識っぽいことを言ってそうで、話している内容をよくよく聞いてみると異常なことを言ってたりするのは面白いのでは??と思っていて、異常な内容を書くときには、できるだけ常識的で抑制的な文体で書くようにしてみたり、逆に、真面目な話を書いているときに、急に口調が変わった書き方をしてみたりします。

 その関連で言うと、「です・ます調」で書いている文章に、いきなり「だ・である調」の文章とか、さらにくだけた口語調の文章を混ぜたら面白いんじゃないのかな?と思ってそういうことも試しています。

 例えば、めちゃくちゃくだけた文体で書いていたのに、いきなり敬語になると笑える、みたいな感じがしていて、文の書き方では文体を統一するのが常識でしょ?みたいな感じかもしれませんけど、まぜこぜにした方が全然面白いんじゃないかと思うんですよね。

 

 あと、まったく無意味な言葉の繰り返しもしたりします。トートロジーとかも多用します。例えば「このパンはめちゃくちゃ美味いですよ!なぜなら、このパンは美味いので」みたいな文を僕って書きがちじゃないですか。

 これも、そういう理屈なんですけど、後段で理由が示されるかと思いきや、まったく示されないのが面白いんじゃないかなと思っていて、でもとはいえ、最初から「またいつもの無意味文章だろ?」と思われていたら、そうはならないですし、万人にウケるのは難しい。

 

 笑いがおもろうて、そして難しいのは、分かっているものがやってくるとそれはそれで面白いんですよね。「なんでも2回言ったらおもろい理論」です。これも、「不可解と可解」で説明はできて、つまりは「可解」を増やす理屈なんだと思っています。

 沢山の人を目の前にするとき、そのそれぞれの人が何を知っていて、何を知らないかを事前に全て理解することができません。なので、会話の中で最初に登場したものを、あとでもう一回言うと、それは知っているものとして処理できますから、「可解」を植え付けることができるんですね。そうすれば「不可解」に移動したときや、「不可解」から戻ってきたときに面白くなっちゃうわけです。

 プロの芸人さんとかはそういうコントロールがめちゃくちゃ上手いので、めちゃくちゃすごいなあと思って尊敬しています。

 

 いつもの仲間たちが話し相手であれば、それぞれの人が何を知っていて何を知らないかが分かるので、それに合わせて適度に不可解を混ぜていけばいいですけど、知らない人が相手だと、そもそも何を言えば相手にとって不可解か可解か分かりませんからね。だから、笑ってもらうのがめちゃくちゃ難しいわけですよ。

 

 往来で、いきなり大声で無意味なことを叫ぶ人がいたとします。これは笑いでしょうか?異常者ですよね?でも、相手のことを知っていて、常識で捉えていれば、いきなり異常な叫びをすることが笑いに感じられるかもしれません。でも、相手が知らない人でそもそも異常なのでは?と疑っていれば、その異常さを補強するだけなので、怖くなってしまいます。

 そのために、お笑いはコンビ芸の人も多くて、常識を担うツッコミの方の人が不可解にツッコミをして、可解に戻したりをしているわけですが。

 

 なんかそういうことを常々思っていると、「ウサギ目社畜科」のお話は、そういう僕が感じている面白理論に満ちているなと思っていて、人間の常識で捉えようとするとウサギだし、けなげなウサギたちを理解しようとうっかりしちゃうものの、あ、こいつら異常者やんけと引き戻される瞬間があって、分かるものと分からないものの狭間で、ぐわんぐわん揺らされるのがめっちゃおもろいんですよね。

 

 テレビ番組で言うと「あらびき団」のような…、僕は「あらびき団」がめちゃくちゃ好きなんですけど、あれはツッコミの番組だと思っていて、ライト東野とレフト藤井がツッコミ役として存在していることによって(あとはスタッフの悪意ある編集によって)、単体で見せられるとどうしたらいいのか分からない不可解なものだとしても、しっかり可解の方に引き寄せられて、行ったり来たりできるのが面白いです。

 常識人がいるからこそ、異常な存在が引き立ち、異常な存在があるからこそ、常識人の役割があります。そして、ふわみともふこがめちゃくちゃ可愛いので、うっかりそっちを理解したくなっちゃうところが、ポイントな気もするんですけど、でも、理解できないんですよ。だって人間じゃなくウサギなので。

 

 というようなことを書いてみましたが、僕が何を面白いと思っていて、どのような理屈で喋ったりしているかを書いてしまうと、今後僕が喋ったりするあらゆる不可解なことが、最初から可解になってしまってつまんなくなってしまうかもしれませんね。しかしながら、そこには隙があり、これが理解する対象なんだろと皆さんが思ったときに、それとは別の理屈を突き付けると笑えるわけでしょ?

 

 まあ、そんな感じに分かったり分からなかったりしてくださいよ。

「天気の子」が「甘い水」のオルタナティブっぽく感じた関連

 天気の子を公開初日に観たんですが、その物語の最後に至るにつれて僕の記憶の中からのっそり出てくる漫画がありました。それが松本剛の「甘い水」です。

 

 「甘い水」は、父親の命令で家族を支えるために体を売らされる少女と、閉塞感のある田舎町で外に出る自由を夢想する少年の物語です。

 この物語は、「しょうがない」と戦う物語でもあります。少女の心の中には諦めがあり、起こってしまったことを受け入れる「しょうがない」と、それがこの先も続いていくことを受け入れる「しょうがない」が存在します。体を売ることは嫌なことではあるけれど、それを、好きな男の子に知られてしまうこともとても嫌ではあるけれど、自分がその様々を「しょうがない」と我慢して受け入れることが、今を続けていくためには必要だと、少女は思ってしまいます。

 少女のそんな様子に、そして彼女をそう追いこむ様々に、少年は怒りを覚えます。しかしながら、少年は無力です。自活することもまだできない少年です。だから、好きな少女とその妹を養うこともできやしません。それでも、目の前に起き続けている悲劇的な状況が、そのままであり続けることを受け入れることができなかった少年は、少女を解放するために暴力を辞さない覚悟で動きます。それは成功し、そして失敗します。

 少女を助けることができた成功と、まだ無力な少年には彼女たちと伴に生きていくことができなかった失敗です。彼女たちは安全に生きる場所を得るために大人たちに連れられて遠くに行ってしまいます。それは少年時代の彼に淡く苦く、少しだけ甘い記憶として残る物語です。

 

 そういえば、「甘い水」というタイトルには「agua doce」とも書かれていて、これは調べるとポルトガル語です。「agua」は「水」、「doce」は「甘い」ですが、繋げると「淡水」という意味があるようです。この漫画が、なぜこのタイトルなのか、僕はイマイチ得心のいく答えを持っていませんが、淡水→混じり物の少ない純水に近い水という意味なのかもしれません。つまり、しがらみという混じり物を排除した、純粋な気持ちが存在するという意味として。終盤に登場する、逃げ出した先で少女の手から少年が水を飲むシーンがそれを象徴しているとも解釈することができますね。

 他の解釈では、「こっちの水は甘いぞ」というホタルを呼ぶわらべ歌も思い当たります。ホタルが光るのは求愛行動のためと聞きますから、これは少年と少女になぞらえられるかもしれません。その場合、甘い水とは、惹かれ合う2人が誘われる先ということになります。

 

 さて、「天気の子」ですが、僕は「甘い水」に通じる部分が沢山あると感じました。「天気の子」も少女と少年の物語です。少女には責任が存在し、それゆえの「しょうがない」があります。周りのみんなのためを思うならば選択肢などないのです。しかしながら、彼女がその責任を背負うことになったのはたまたまです。つまり、彼女でなくてはならないいわれはないのです。それでも、彼女はその責任を全うすることを選びました。でも、少年はそれに怒りを覚えるわけでしょう?当然ですよ、しょうがなくなんてないのだから。

 何の責任もいわれもなかったはずの人間が、それが一番いい選択だからと、他人の幸福の肥料として食いつぶされていく状況に、もしかすると人は普通は慣れてしまうのかもしれません。犠牲となる人数が少なく縁遠く、益を得る人数が多く近しければ、人間は簡単にそれを受け入れてしまったりするのではないでしょうか?

 

 例えば、自分たちが購入している商品が、あるいは日々利用しているサービスが、どこかの誰かの心をすりつぶすような犠牲によって支えられていたと知ったとしても、人は割と受け入れてしまうんじゃないでしょうか?全員を助けることはできないとか、そんな状況に至ったのは個人の努力の問題とか、ただ運が悪かったとか、何かしらの理屈をつけて正当化し、それらをしょうがないと受け入れていったりするじゃないでしょうか?それは他人にそう仕向ける側でもそうかもしれませんし、それを他人に仕向けられる側でさえもそうかもしれません。

 でも、少年は蛮勇です。まだ少年であるがゆえに蛮勇です。見える範囲が狭く、背負うものが少ないからかもしれません。でもだからこそ、皆のために人知れずその身を犠牲にしようとする少女の姿に対して、たったひとり明確なノーを突き付けることができます。

 

 「甘い水」では、その結果に至ったのは別離であり、その直前の一瞬の純粋な時間だけを抱えてその後の人生を生きていく結末となりました。でも、燻っているわけじゃないですか。少年が望んだものは、それだけじゃなかったと思うからです。力及ばずと納得して、記憶の中に埋もれていくことが最良の結末ではないんじゃないかという気持ちがそこにはなかったでしょうか?

 そして、「天気の子」では違います。少年は少女に会いに行きます。少し大人になって会いにいくわけですよ。ただ、「甘い水」の終わり方が悪いわけではなく、僕はあちらもとても好きです。でも、やっぱり燻りは燻りでそこにあったわけですよ。そうではない未来だってあってよかったのではないか?という燻りが。

 それを「しょうがない」と思わなかったのか?ということです。

 

 なので、「天気の子」の終盤にさしかかったあたりで、十何年も前に読んだ漫画のせいで自分の中にあったその燻りがひょっこり顔を出したように思いました。ああ、僕はこんな光景も見たかったんだなと思ったからです。

 

 これは、ヱヴァンゲリヲン新劇場版の破を見たときにも思った感情です。「私が死んでも代わりはいるもの」と言う綾波レイに、「違う、綾波はひとりしかいない」と口にした碇シンジを見たときに、最初にその「代わりはいる」という言葉を聞いて十何年も経ってから、ああ、これも見たかったなと思ったからです。

 そして、そうすることがその場の全員に共有できる正しいことではなかったということも、「天気の子」と通じているかもしれませんね。

 

 ネットの他の人の感想を見てみたところ、「天気の子」からはそれぞれの人が、過去の自分の経験から、色んなものを引っ張り出してあれと同じだとかあれと違うとかいう話をしています。それはひょっとすると、そこにある感情が、ある種の普遍的なものだからなのかもしれません。

 色んな人が、それぞれの経験の中で、同じ感情を別々の作品や自分自身の経験から得ていて知っているのかもしれないということです。そして、映画を観て、その感情を知っているよと言われているような気がしたのではないでしょうか?

 僕の場合はそれが「甘い水」だったということです。

 

 松本剛の「ロッタレイン」の1巻が発売されたとき、帯が新海誠でした。そして、「甘い水」に強く衝撃を受けたということも語られていました。その覚えもあったことから、ああ、仲間だなというような勝手なシンパシーがあったような気がします。

 十何年前の僕らは、胸を痛めて「甘い水」なんて読んでたわけじゃないですか。そのときに同じ気持ちになった人が、これを作ったんじゃないのかなと思ったからです。

 

 だから、なんか良かったな、と僕は思ったわけです。

せがわまさきの「ドロップランダーズ」の話数を毎月確認しています関連

 半年ぐらい前の月刊ヤングマガジンに、せがわまさきの「ドロップランダーズ」の「前編」が載りました。そして、その次の月に、僕は「後編」を読む気まんまんで雑誌を開くと「中編」が載っていたのです。

 なるほどー、と思いました。「前編」の後に「後編」ではなく「中編」があるのはたまにある話です。一話多く読めるので、これは儲けたもんだと思いました。

 

 人から聞いた話では、本の「上巻」と「下巻」をセットで買ってみたものの、話の繋がりが何かおかしいぞと思って確認したら、実は「中巻」があったことに気づかなかったというものもあります。世間でもよくあることなのかもしれません。

 

 これは先入観に囚われてしまっていたという話でしょう。「上」の次には「下」に違いない、「前」の次には「後」に違いないという思い込みが生んだ心の隙です。そのような隙を突かれてしまい、驚いてしまうということが人生にはあります。僕はこのような隙をもう見せることはないと思いました。なぜならもう気づいてしまったからです。気づいてしまったからには隙はもうないのです。

 

 そして、その次の月の雑誌に載っていたのは「中編2」でした。そして、「中編3」「中編4」と続き、今月号には「中編5」が載っています。

 

 もう騙されません。この調子で中編が続き、最後には後編が来て終わるのでしょうか?その考えもまだ先入観に囚われていると言っていいでしょう。なぜならば「後編2」が来る可能性があるからです。もう絶対騙されません。騙されたくない!!

 

 そんなわけで、ここのところ毎月、月刊ヤングマガジンを開いては、まずはドロップランダーズの話数を確認しています。

「双亡亭壊すべし」と「サユリ」と「パックマン」に見る、非対称な関係性が生む恐怖について

 「双亡亭壊すべし」の坂巻泥努さんがすごく好きなので、今週のサンデーなど、泥努さんがとても魅力的に描かれている回は、めちゃくちゃ楽しくなってしまいます。

 双亡亭壊すべしは、足を踏み入れたものを不幸に陥れる謎の建物「双亡亭」を巡るお話で、連載が進むにつれ、その正体が何であるかということが明らかになっていきます。

 

(ここからネタバレがあるので、未読の人は判断して読んでください)

 

 さて、双亡亭に巣食う者の正体は、遠い異星よりやってきた侵略者です。彼らはある星を食い尽くしたのちに、次のターゲットとして地球にやってきました。そのゲートとなる場所にたまたまあったのが双亡亭です。しかしながら、彼らにとって不幸であったのは、その風変りな建物に住んでいた絵描き、坂巻泥努という男が、人智を超える強大なエゴを持った存在であったことです。

 水で満たされた異星よりやってきた侵略者たちは、地球の空気に含まれる窒素を弱点とします。彼らは地面から染み出る水の中にその身を隠し、双亡亭に現れます。彼らは窒素からその身を守るために、人間の体も利用します。その心を恐怖によって破壊し、その隙間に入り込むことでその体を奪ってしまうのです。

 彼らは当然のように泥努の肉体も奪おうをしました。しかし、それは失敗してしまうのです。なぜならば、泥努の心はそんなことでは壊れなかったから。侵略者に支配されなかった泥努は、逆に侵略者たちを支配してしまいます。そして、彼らを自分の思った色を映す絵具として使い、時間の流れも曖昧になった双亡亭の中で、絵を描き続けているのです。

 

 人間の心を破壊するために恐怖の感情を使う、脅す側だったはずの侵略者が、凡百の人間たちがその恐怖に心を破壊され、思うがままに動かされ続ける哀れな人形に仕立てられてしまうにも関わらず、泥努に対しては、逆に脅されてしまうというところに、ある種の痛快さがあります。

 

 さて、この構図に思い当たる他の漫画として押切蓮介の「サユリ」があります。

 

 こちらは家に憑りついたサユリという霊が、そこに引っ越してきた家族を理不尽にも呪うという内容の漫画です。ホラーでありがちなように、家族は次々をサユリに呪い殺されます。そして、残るは主人公とボケた祖母だけになりました。しかしながら、次は自分たちかもしれないという恐怖の中、すっかりボケていたはずの祖母が突如として正気をとりもどすのです。それだけでなく、自分の家族を殺したサユリに対して復讐の宣戦布告をするのでした。

 祖母と主人公はサユリの抱える因縁を明らかにしながら、逆にサユリを精神的に追い詰めていきます。今までなすすべがなく、あちらからは攻撃できても、こちらからは攻撃も防御もできないような非対称な関係が逆転し、無理やりこじあけた隙間から、サユリに怒りのこもった攻撃を当てられるようになります。すると、それまであんなにも恐ろしい存在であったサユリは、弱々しく哀れな存在にも見えるようになってきました。

 サユリの強さは、自分には攻撃が当たらないという非対称なルールという虚飾に守られたものでしかなかったように思えるようになりました。対等に殴り合うならば、それほどではないのです。

 

 「サユリ」と「ばあちゃん」、「侵略者」と「坂巻泥努」の関係性は似ているように思います。一方的に殴られるだけだった非対称な関係性を、逆転し、こちらから殴ることができるように転換させられるほどの巨大なエネルギーを抱えた存在のすごさです。

 

 それはあるいはゲームの「パックマン」にも似ているかもしれません。敵に触れば死ぬ状況で、追われて逃げるしかないはずの関係性が、パワーエサをとることで逆転します。今度は今まで自分を追いかけてきた敵たちが逃げ回る番で、こちらが接触すれば食べることができるようになるのです。

 それは痛快な話だと理解できるでしょう。しかしながらそれは、自分を苦しめていたものと同じ感覚を自分が追体験してしまうという倒錯したものでもあるかもしれません。なぜなら、自分がその一方的な蹂躙を楽しいと感じるのであれば、自分がそれまで苦しめられてきたことも、相手からすればただ楽しかったのかもしれないと思えてしまうからです。

 

 いや、泥努やばあちゃんはそんなことを感じないかもしれませんが。

 

 もしかすると恐怖とは、それに対する抵抗不可能性と密接に関係しているのかもしれません。敵を殲滅できるほどの弾薬が供給されるようになった頃の「バイオハザード」では、弾薬の節約のためにゾンビから逃げるしかなかった頃よりも恐怖心を感じずにプレイできるようになっていたように思います。

 坂を下るとき、ちゃちなブレーキしかついていない自転車と、しっかり止まれるバイクでは、同じ速度で下っていても、感じる恐怖心が全然異なります。それは恐怖心の源泉が速度そのものではなく、止まれるか止まれないかと関係しているからではないでしょうか?

 

 人が恐怖と対峙するとき、それは、自分には抗うことができないかもしれないものと目を合わせることと似ていると思います。恐怖を克服するとは、それに抗えるようになったことを意味するのかもしれません。

 

 双亡亭壊すべしでは、泥努の存在によって、当初侵略者たちの持っていた恐怖は薄れてきたように思います。なぜなら、侵略者たちも無敵の存在ではなくなったからです。しかしながら、今度は泥努が、双亡亭を壊すべしと訪れる人々にとって、抗うことができない恐ろしい存在として立ちふさがります。そこに立ち向かえるのは、抗うことを諦めず戦うことを選ぶ「勇気」かもしれません。もしくは、相手を「理解」することで、自分を脅かす存在ではなくしてしまうことかもしれません。

 

 双亡亭壊すべしでは、絵描きの凧葉が、絵描きの言葉で会話するときだけは、泥努の持つ恐怖が薄れるような印象もあります。戦って打ち倒すことと相手を理解すること、どちらの先に、双亡亭壊すべしの結末があるこかは分かりませんが、僕はなんとなくそういうことを思いながら連載を読んでいます。