漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画を読むパワーの全盛期について

 高校生ぐらいのときにBSマンガ夜話を見ていて、僕が思ったのは「ここで喋っている人たち、大して漫画読んでないなー」という気持ちでした。これは大きく間違っていて、多少合っていると思うんですけど、何が間違っているかというと、僕はまだ知識も少なく視野の狭い子供であったため、自分が知っていることを知らない人を、不遜にも「物を知らない」と評価し、同時に、その人が自分が知らないことを知っているという当たり前のことにも考えが至らなかったのです。

 BSマンガ夜話に出ていた人たちはきっと当時の僕が読んでいなかった漫画を沢山読んでいたことでしょう。そして一方、当時90年代後半頃に雑誌連載されていた漫画については、絶対に僕の方が沢山読んでいたと思っています。なぜなら、当時の僕は学生の暇に任せて、本屋にあって目に入った少年・青年漫画雑誌を軒並み毎号読んでいたからです。

 

 現在では、僕自身も漫画を網羅的に読めなくなっています。これは老でしょう。漫画雑誌自体はずっと読んでいるんですけど、漫画というものの進出するエリアがネットを使って広がっており、Web連載やスマホアプリで連載しているもの、Webで個人が描いていたものの書籍化などについてはまるで網羅的には読めていません。おかげで、書店の新刊コーナーを見ても、初めて見る漫画が沢山あるようになりました。中高生の頃はそうではなかったんですよ。少年誌青年誌の新刊コーナーになる単行本はほぼすべて雑誌で読んだことのあるもので、そうでないものがあると逆にどこで連載されているんだろう?と驚いて手に取ったものでした。

 

 さて、漫画を読むことについての人の全盛期についてですが、不完全ではあるものの簡単に調べる方法があります。それはジャンプで連載されていた1巻~3巻程度で打ち切られて終わってしまった漫画の内容を説明できる時期がいつかということです。それが漫画を読むことの全盛期である可能性が高い。それ以後は老です。これはつまり、読む漫画を最初から絞っているか絞っていないかということで、絞ってしまうということは、何らかの理由で読む数を減らそうとしているということだと思うからです。

 そこにあるものをあるだけ読みたいと思って、それを自然にそうしてしまっていた時期が「読む」ということについては最もパワーのある全盛期でしょう。単行本派になるにはその発売までの空白の時間に耐えられず、一秒でも早く続きを読みたくて雑誌を読むしかない時期です。漫画のみでは飽き足らず、作者コメントや読者投稿まで隅々読んでいた時期です。僕にとっては90年代から2000年代初頭あたりがそれにあたり、それ以後は老になってしまったので、雑誌を読んでも、ちゃんと読む連載と読まない連載が分かれてしまいました。タイミングとしては就職と重なりますが、しかしその裏には老による衰えがあるでしょう。忙しかろうが、それでも読みたいという気持ちがないからそうなるわけです。

 

 こういう話をすると、いやいや、目が肥えてきたので、読むべき連載と読む必要のない連載を分けるようになったのだという説明をされたりしますが、それは現状追認にもっともらしい理屈を選んでいるに過ぎないんじゃないかと僕は思います。漫画は大体ちゃんと読めば面白いんですよ。面白くないのはちゃんと読んでないからです。ちゃんと読んでないのは、ちゃんと読めないからです。ちゃんと読めないのは、読むための気力のようなものがないからでしょう。それは老であり衰です。「漫画を読む」という行為の全盛期を過ぎてしまったということです。

 あればあるだけ読むような時期を過ぎてしまったことに対して、今の漫画は昔の漫画より面白くないとか、適当なことをうそぶくようになるのが老のサインです。でも、それは悪いことじゃないですよ。人生の中で限られた全盛期はそれに気づくか気づかないかは別にして誰にでもあり、それを過ぎれば、もうそうではいられません。きっとそういうものです。そして、人間は適当に理屈をつけて自分を正当化するものじゃないですか。それは仕方ありません。

 聞いている側がそういうもの(老のたわごと)だと思って無視すればいいだけの話です。

 

 今の僕だって完全に老です。昔は買えばその日のうちに3回は読んでいた単行本を、今では1回読んで、その後しばらく読み返さないということだってざらです。読む力が衰えているからです。

 集中力も完全に衰えましたから、昔なら、我を忘れて本をめくって読むことだけに集中し、気が付けば5,6時間ぐらい経っていることがざらだったのに、今ではそういうことが最後にできた記憶すらもう遠くなってしまいました。今では一冊読むとスマホを見たりします。

 自我を失って漫画だけを何時間も読んでいられるとどうなるかわかりますか?自分が自分であることに現実感がなくなってしまうんです。そうだったそうだった自分は自分だったと受験を控えた高校生だったなどと確認しながら、ブックオフからの帰り道で自転車のペダルを漕いだりします。あの頃の充実感を今の肉体で再現することはもう難しいように思います。

 

 老は誰にでも訪れるものでしょう。あらゆる分野に対して時期はズレてもどこかで起こるはずです。それは仕方ないですし、全盛期が特別だっただけで、それ以外の特別でない時間の方が基本でしょう。なので、老によって対象との付き合い方が変化してしまうのも構わないと思っています。

 今は今で、今こそが全盛期の若者がいるのだろうなと思いますし、そういう子が僕なんかよりもずっと今の漫画には詳しいのだろうと思います。それはいいことだなと思いますし、僕は僕で自分が全盛期だった頃の記憶を古老のように急に語り出したりしていこうと思ったりもします。

 なんせ、そのときの自分はきっと世界でもトップクラスにその時期の漫画について一生懸命読んでいたと思うからです。

僕が思う人間の脆弱性関連

 僕が人間の脆弱性と感じているものがあります。そして、これは認識していたとしても自分でもどうにもならないので、なかなか辛いことだと感じています。これとはつまり、「人間は主観的に判断して一番得をする選択肢しか選ぶことができない」ということです。

 

 例えば同じ商品が100円で売っているお店と、1000円で売っているお店があったとき、100円の方のお店で買うはずです。なぜなら安いからです。これが得をする選択肢しか選べないということです。しかしながら、1000円のお店で買う例外だってあるだろうと皆様お思いでしょう。当然あります。

 例えば100円で売っているお店がここから100km離れた場所にあり、1000円で売っているお店がすぐそばにあったとき、往復の手間を考えれば1000円で買うこともあるでしょう。それはその往復の手間が差額の900円以上の意味があると思うからすることです。得だからです。

 他には例えば、その商品は本来100円で売れるようなものではないので、値付けが安すぎて怪しいと感じるようなケースもあるかもしれません。そのときも怪しい商品を買うというリスクが差額の900円以上の意味があると考えたから1000円の方を買うのであって、これも得をするためです。

 結局のところ、たくさんの価値基準の中から総合的に判断し、自分が一番得をする選択をしているわけです。ただし、どの価値基準に寄り添う判断をするかは人それぞれというところはあります。

 

 この人間の特性は、仮に自覚していたとしてもどうしようもなく、場合によっては、自分の人生の価値観と立場と現在地によって、自動的に選ぶべき選択肢が確定してしまうことだってあります。そういうとき、自分で全てを判断したように見えて、実は誰かがお膳立てした選択肢を選ばされているだけのことだってあるわけです。

 条件を提示する側は、それを見越して、その選択肢を選ぶことこそが一番利益があるように見せます。ただし、それは本当に利益があって選んだ人も得をするものかもしれません。ここでは、結果的にその人が得をするか損をするかを考えることはしません。ただ、その場その時その人に、他の選択肢を選ぶ余地があったのかどうかという話です。それ以外に選べなかったのだとすれば、人間の生き方は不自由です。

 その不自由さは、いつの日にか、自分が破滅してしまうような選択肢を、一番得をするからという理由で選ばざるを得なくなる状況をもたらすかもしれません。

 

 人は自分が一番得をする選択をせざるを得ないと考えると、例えば、僕が先週に前々から入れていたお休みの予定をキャンセルし、働くことにしたのも僕が一番得をするための決断です。その理由としては、その日に急に入ってしまった打合せを、自分の休みのために延期するには、調整がめちゃくちゃめんどくさいタイプの複数人の予定がたまたま合致する日を再度選ばなければなかったことにあります。その日がすぐにあるのか、数週間先になるのかという問題があり、それを調整するのが非常に面倒くさいわけです。その日にやらなければ、ただ面倒くさいだけでなく、限りあるスケジュールを調整だけで食いつぶしてしまったりもするわけですよ。そうなると後々しんどくなるのは結局自分です。

 つまり、休む予定をキャンセルして働くことこそが、自分にとって一番得な選択肢であることがわかります。そうして、僕は自ら進んで、自分がとれるはずだったお休みをなくしてしまいました。しかし、果たしてこれは僕自身の意志でしょうか?それは、そうせざるを得なかっただけであり、自分で選べたわけじゃないんですよ。このようにして、権利を付与された休みを取らない(取れない)労働者が生まれます。

 

 世の中には往々にしてそういうことがあります。自分で選ぶことができない状況になります。なので、僕は他人の選択に対してなぜそれを選んだのかと怒ったりすることがあまりありません。なぜなら、その選択をした人は、その状況であればそうせざるを得なかっただけなのではないかとまず考えるからです。

 自分が同じ立場なら同じことをするだろうと思うこともありますし、自分が同じ立場だったとしても同じことはしないが、それでもその人の主観では、それが一番得な選択肢だったんだろうと想像したりもします。それはある程度仕方ないことだと思うんですよ。それを防ぎたければ、その人がそれをすることが一番得をしてしまうというような状況自体を解体する必要があると思っています。つまり、人間個人持つ意志や人間性のようなものに、何かを変える力があるというような期待を最初からしていないんです。自分に対しても他人に対しても。

 世の中の大半は、状況に合わせてあるべきようにあると思っていて、そこに生じる不幸とは、そのような状況となってしまったということそれ自体です。

 

 さて、この考え方によれば、誰かの選択を変えたい場合には、その選択がその人にとって一番得をするものでなくすことが必要です。そのための一番簡単で分かりやすい方法は、「それを選べば強い罰を与える」と脅すことだと思います。こちらに都合が悪い選択肢を選べば不利益があると相手に提示することで、自分が好まない選択を相手から奪うことができます。そのようにして、人間は人間の持ちうる選択肢を削り込もうとします。これは世の中のそこかしこにあることです。日常的にそこかしこで起こっていることです。僕はそれを悲しいことだと思っていますが、それにしたって、他人の選択肢を奪う人にはその選択しかできなかったのかもしれません。

 そして、それによって世の中が上手く回ることもあるでしょう。あるいは、それによって悲劇が起こることもあるでしょう。

 

 これは、人間の脆弱性だと思っています。それも決して修正することができないものです。客観的に見ればそうすべきではないことも、当事者としてそうすることが一番特になるという条件を揃えられてしまえばやってしまいます。それはつまり、自分自身をコントロールするすべを奪われてしまうということです。

 

 このようなことを常々思っており、自分自身の判断も、状況によっては信用なんてできないぞ!!と思いながら生活しています。それは冷静に判断しているように自己認識しながら、実際はその状況において、そうせざるを得ないということをただ現状追認しているだけかもしれないからです。

 それによって自分の生活が詰んでしまうことを危惧しているので、どのような状態でも、自分が取り得る選択肢にバリエーションが生まれやすいような条件を整えることにしています。そのため、僕はたまに怒ったりもしているわけです。それは自分の選択肢を減らすような力学が発生しているときにその反発として怒っている感じです。それは僕が危機管理のために自分自身に導入した価値基準のひとつであるわけですよ。それを選ぶことで、自分の次の選択肢が減らないかどうかは重要な基準です。

 何があっても、自分の取り得る選択肢がひとつに絞り込まれることを避けるため、ひとつに絞り込まれそうな状況になったら、反射で怒ってでもその状況を脱することが生存上有利と考えているのです。

 

 もうひとつやっていることは、あえて偶然に身を任せることです。サイコロを振って決めるというように、本当にただの偶然に身を任せて決断をすることもままあります。サイコロを振って決めたことについては、僕自身の意志の介在する余地がありませんから、何物にも制約を受けない結論を出せるかもしれません。この辺の気まぐれに自分の人生に混ぜ込んでいくことで、人生のバリエーションを確保し、決して、誰かの思う通りに動かされ過ぎないようにしていくみたいなのが、最近の考え方ですね。

 

 このように考えるようになって、最近は、子供がワガママ言って泣いたりするのは完璧に正しいなと思ったりします。そこに存在するのは非常にプリミティブな利害関係なわけですよ。自分が求めていることが、実際には起こらないことに対する拒絶を、泣くことで表現しているわけです。

 一方、大人は色んなことに縛られているので、泣いて拒絶するというようなことがどんどんできなくなります。ここで我慢しておけば、この先楽になるというようなことを思って、思い込まされて、貧乏くじを進んで引き受けたりもするわけですが、結局先は先で新たな何かが発生して、楽には全然ならなかったりして、延々同じような貧乏くじを引かされ続けたりもします。しかも、それを自分は正しく価値判断した結果だと思い込んでしまったりもするわけです。

 

 人は一番得だと感じる選択肢しか選べない。自分がそうであることも、他人がそうであることも、それが最適となる状況が整っているからそうせざるを得ないのであって、それを自分の意志の力でなんとかしようと思うことは、大火事を目の前にして、洗面器一杯の水をやっと汲んでこれたような状態ですよ。消すことは無理だと思います。自分がその水を被ってその中を突っ切ることぐらいしかできやしないじゃないですか。

 

 なので、お仕事などで何か問題が発生している場合には、人、それ自体にはあまり目を向けず、なぜその判断をしてしまうような状況が整っているのか?それを変えるにはどのようなことをすればいいのかということの方に優先的に手を加えるようにしている感じですね。

 今のところ、身の回りでは結構上手く行っている感じもするんですけど、状況に対するアプローチは大掛かりになることも多く、できることとできないことがあるので、何かが起こったときに、そこに変化を促すためにどれだけのことが自分にできるのかと不透明な状況を想像し、不安な状態で日々歩いています。

 

 そのように歩くことが、僕が今考える、人間の脆弱性に影響されにくい数少ない方法ではないかと思うからです。

怖いゲームがやりたいが怖いからできない問題

 バイオハザード7をやりたいなあと思い続けて随分と時間が経ちました。

 思ってないで買って遊べばいいじゃないかと皆さんおっしゃるでしょうが、できないんです。怖いんです。怖いから遊びたくないんです。でも遊びたいんです。

 

 このように「遊びたい」と「遊びたくない」の間をマンボNo.5に合わせて行ったり来たりしている時間が続いています。

 

 バイオハザードシリーズは結構やっている方だと思っているのですが、6と7はまだやってません。

 4までは大学の部室でやっていたんですよ。GCのリメイク版とかも部室でやりました。部室でやっていたのがありがたかったのは周囲に他の人がいるわけです。これは他の人がいると安心というわけではなく、他の人がいると、怖がってばかりもいられないぞという精神のスイッチが入るので、その気持ちによって少しは耐えることができます。怖がっているのが恥ずかしいという気持ちによって、怖い気持ちを鈍化させているわけです。

 そしてまた、僕がそれでも怖がっている様子をみんなが笑ってくれるので、皆が楽しんでくれるならいいかなとか思ったり、本当にどうしてもできないところは代わってもらえるとか、そういうことがありました。部室のおかげで怖いゲームができてよかったです。

 

 うちは家系的に皆怖がりな気がするんですが、怖がりを恥ずかしいと思う性質も共通するようで、妹が小学生のときに一緒にお化け屋敷に行ったんですが、列に並んでいる間、妹が「私はこんなもの全然怖くない」という話をするんですよ。友達の○○ちゃんは怖がるけど、自分は全然怖くないんだ!って僕にすごくアピールするんですけど、それを聞いていて、ああ、怖いんだなと思いました。それを否定するための言葉をわざわざ出しているからです。

 僕はお兄ちゃんとして、こんな子供だまし全然怖くないですよみたいな顔をしていましたが、実際はめちゃめちゃ怖かったので(当時二十代半ばぐらい)、なんでこんなアトラクションに入るはめに!!とめちゃくちゃ弱っていました。しかし、そこは妹の手前、表面上は全く怖がっていないふりをしていました。なんでこの怖がり兄妹が、入りたくねえと思いながらも、それをお互いに言い出せないために列に並んでいるのか…。大変理不尽でしたが、そうなってしまったのだから仕方がありません。

 お化け屋敷の入り口には、カメラがあり、列を並んでいる人にその映像が中継されています。色んな人が怖がる様子が中継され、それを見て妹は「○○は全然怖くないよ!」と繰り返しますが、兄はめちゃくちゃ怖がっているし、扉が開いたあと、妹は僕に「先に行って」と言ってきました。怖がっていました。その後も大変怖かったです。

 

 怖いんですよ。闇の中に何かを想像してしまうわけです。想定していないものが急に目の前に出てきたら驚いて失神してしまいそうになります。妹とのお化け屋敷は、最後まで平静を装いきれたと自分では思っていますが、もう絶対行きたくないという気持ちでいっぱいになりました。それはそうと、そのときの思い出を、今嬉々として書いている自分もいます。面白かったんですよ。その体験が。

 

 以前、友達から夜に電話がかかってきて、「夜道を一人で歩いていて怖いから、このまま通話させて」という内容だったのですが、僕はてっきりお化けが怖いのだと思い、「そうだね…お化けは怖いものね…」と言ったら「お化けが怖いからなわけがないでしょ!!」ってすごい言われてしまい、え…僕はめちゃくちゃお化けが怖いが…と思ったということがありました(防犯的な意味合いだそうです)。

 子供の頃は、シャンプーのときに目をつぶるのも怖かったです。その瞬間に後ろに何かがいるかもしれないじゃないですか。部屋を真っ暗にして寝るのも怖かったです。明け方にカーテンの裏に見える影が怖くて、震えていたこともありました(洗濯物の影でした)。

 こんなに怖がりなのに、なぜ怖いゲームをやりたいと思ってしまうのか。世の中には永遠の謎があります。

 

 バイオハザード5も怖かったです。ただ、怖かったものの、未知の恐怖というよりは、自分を襲ってくる大量の敵が怖いみたいな感じだったので、多少ましでした。あと、CO-OPによってネットの向こうの知らない人が手伝ってくれたこともあり、クリアできたように思います。しかし僕は部屋にひとりです。怖がっても誰もそれを笑ってくれる人がいませんし、誰かを気にして怖くないふりをする必要もありません。5はなんとかクリアしたものの、6はまごまごしていたら、遊び機会を逸してしまいました。

 

 そして、7です。絶対怖いじゃないですか。PSVRも買ったので、それでやってみようかなとは思ってみるわけですよ。きっと今まで体験したことのないような恐怖がそこにあるのは確実じゃないですか。体験してみたい気持ちもあるじゃないですか。でも、できないんですよ。なぜなら怖いからです。怖いから絶対やりたくないんですよ。でもやりたいんですよ!!!

 

 怖いゲームの怖さには未知の恐怖というか、常に何が起こるか分からないという緊張状態を保つことによる疲弊のようなものがあります。なので、同じゲームでも、何度もプレイしていると恐怖は減ってきます。事実、バイオハザード4なんかでは、最初の村を体験版でプレイしまくったおかげで、だんだんと敵を淡々と殲滅していくことができるようになり、そこからは恐怖は失われました。

 「知る」ということは恐怖を減少させる効果があります。であれば、ゲーム実況動画なんかを見て、あらかじめある程度備えていれば、ネタバレはしてしまいますが、怖い気持ちは抑えられるかもしれません。あらかじめ何が起こるかわかることは、それに適切に備えておけばいいという話になるからです。

 

 そう思って昨日、バイオハザード7を買う気持ちを高めるためにとゲーム序盤の実況動画の見てみたのですが、意図とは逆に完全に買えない気持ちになりました。…怖すぎる。他人がプレイして、自分は見ているだけで済み映像だけなのに、怖すぎて辛いので、これをPSVRでやった日にはショック死するのでは???という気持ちになったので、無理です。むーりー。ぜったいにむーりー…。

 

 絶対やりたくないです、でもやっぱりやりたいんです(BGM:マンボNo.5)。だから、どうにか恐怖を克服する方法が必要ですね。人間の恐怖心を抑える薬品とかないですか?病院で処方してもらえる感じの…。

インターネットの嘘情報との付き合い方関連

 インターネットには無数の嘘情報があります(ほんとの情報もあります)。それらを完璧に見分ける方法はあるでしょうか?僕の現時点の結論としては「ない」です。インターネットの情報をインターネットを見ているだけで本当か嘘か見分けるための確実な方法はありません。もちろん手掛かりはありますが、それをもって確実に断言できるかどうかはあやしいことが多いです。

 

 なぜなら、どう見てもあり得なさそうなことでも、まれに起こることはあり得るからです。そして、過去に嘘をつきまくってきた人でも、本当のことを言うことだってあるでしょう。もし例えば、その情報の中に細かな矛盾が存在することが分かっても、人間の語りには往々にして勘違いが含まれることがあるので、それだけで起こったこと全てが事実でないと断じることもできません。

 インターネットで目にした情報が、正しいとか間違っているとか言い切るには、インターネット以外を含めて手間暇をかけてちゃんと調べないと判断できないことです。いや、ちゃんと調べたところで結局分からない部分が残ることだって多々あります。だって事実関係を争う裁判でも、本当のことは確実には分からなかったりすることが多々あるじゃないですか。

 

 そして、そもそも事実とは何か?ということを考える必要もあると思います。これはとても重要な話で、なぜなら、何かの出来事があった場合、出来事自体は同じでも、それを見た人によって多面的な解釈が存在し得るからです。

 例えば、笑った人がいたとして、その笑いの持つ意味の解釈は、その様子を見た人によって変化してしまう可能性があります。ある人が笑ったのが誰かを嘲笑するための笑いであったのか、むしろ自嘲的な笑いであったのか、あるいは深い意味のない反射的な笑いであったのかどうかは、他人の内心が見えない以上、正確に判断することは困難です。いや、もしかすると、笑った自分自身ですらその意味は正確には分からないかもしれません。なので、彼が笑ったのは悪意ゆえだと感じる人もいるかもしれませんし、自信のなさゆえだと感じる人もいるかもしれません。もしくは、周囲が笑ったので、反射的に合わせて笑っただけだと感じる人もいるかもしれないのです。事実は笑ったということだけで、それがどのような意味をもつのかは語り手によって好きなように解釈され、それが事実に成り代わって流通してしまうこともしばしばです。

 僕の経験で言えば、小学生の頃、世話になっていた曾祖母がなくなったことで泣きはらし、泣いてばかりは格好悪いと次の日は精一杯の作り笑顔で学校に行って、曾祖母が亡くなった話を口にしたら、担任の先生に人の死を笑いながら言うとは何事だとめちゃくちゃ怒られたことがあります。内心のことなんてめったに伝わることではないですし、当時の担任にとってみれば、僕は人の生死の価値も全く理解しない愚かな子供のように見えたのでしょう。

 

 事実には大体解釈が付きまといます。それらは明確に区別されず、ごちゃまぜの情報として発信されてしまいがちなものではないでしょうか?ならば、事実を伝えたつもりの言葉であったとしても、そこには嘘と呼べるものが少しは混ざってしまうのかもしれません。

 

 さて、何かの情報が事実であるか事実でないかを見分けることは難しいことだという話をしました。ひとつ目の理由のそれを判断するために十分な情報が簡単に手に入るとは限らないというもので、もうひとつの理由は事実というものが多面的な解釈が可能なものであるために、そのひとつを知ったところで全てを語ることは難しいというものです。

 

 しかし、そもそもの話として、インターネットで日々目にするような情報を都度都度嘘と本当に見分ける必要はあるのでしょうか?嘘と本当の2つにばっさりと切り分けなければならないという思い込むことが、むしろ拙速な間違った選択に繋がってしまうことがあると僕は感じています。

 「本当だという証拠もないが、嘘だという証拠もない」、それぐらいの曖昧な状態にとどめたままで頭の中に置いておくことができれば、多くの場合、それはそれでいいような気もしていて、なぜなら、インターネットで日々目にするようなことは、自分の生活には直接関係ないことが多いからです。

 早く答えを出さないといけないという気持ちが強いと、判断に十分な材料が出そろったり、調べたりするまえに本当か嘘かという判断をしなければならなくなります。でも、判断に十分な材料がそろっていないのだから間違ってしまうことも多くなるでしょう。その即時の態度表明はそのリスクを背負ってまでやらないといけないことでしょうか?(もちろん、やらないといけない緊急性を抱えた場合もあるとは思いますが)

 

 インターネットで新しい情報にいち早く反応して、何らかの結論を出すというゲームに参加すること自体が、間違った情報を世の中に蔓延させるための一助になりやすいのではないかと僕は感じていて、なので、大体の場合は、即座に反応はせずにまずはぼちぼち調べたり、続報を待ったりするようにしています。

 

 ただし、本当か嘘か分からない情報が無数に流れてくるような状態で、それを無視ばかりもできず、根気よく調べるほどの労力もかけたくないというのはわかる話です。うっとうしいし、面倒くさいからです。なのでそこには、僕が個人的に持っている指針もあります。

 

 それは、「もしそれが嘘だった場合、誰かに不利益を与える可能性があるか」を考えることです。

 

 例えば、ある人が悪い人であるという情報を得たとして、その悪いと聞いた人を言葉の暴力や物理的な暴力で殴ったとします。その後、それが嘘情報だったと分かった場合に、間違いで殴ったという事実は撤回できるものでしょうか?殴られた側からすれば、謝られたところでそのとき殴られた痛みは消えません。代わりに自分を殴れとか言われたとしても、殴り返したところで別に自分が殴られた痛みは消えないわけです。つまり、取り返しはつかないという話です。

 そのような可能性がある以上、悪い人だと聞いただけで殴ることはあまり良くないのではないでしょうか?(ちなみに本当に悪い人だったとしても殴っていいわけでもない)

 間違いで殴った人は、正義の人として行動したつもりが、結果として悪い人になってしまうという意図と真逆のことになってしまいます。それは困ったことですから、その間違った情報を伝えた人が悪いとか、本当に悪かったなら先手を打たなければならなかったとか、その他色々な理由をつけて、自分が殴ったことは悪いことではないという理由付けをする場合もあります。

 でも、そもそも殴るなって話ですよ。その殴る理由が正しい情報かどうかの判断もつかないうちに。

 

 また、センセーショナルな嘘情報はすぐに周知されてもその訂正情報は嘘情報ほどには周知されにくいために、嘘が嘘と知られないままに流通し続けてしまうという問題があります。さらには、いかにそれが嘘だと周知されたとしても、「いや実は嘘じゃないんじゃないの?」と疑い続ける人も出てきます(疑うことそれ自体は悪いわけではないですが)。何かを発信してしまうということは多くの場合、発信しなかった場合にまで完全に戻すことはできません。

 であるならば、自分が発信した情報は、それが他の人から聞いたものを転送しただけだったとしても、発信は発信としてその責任はつきまとうでしょう?

 

 自分がその情報を信じて何かを言うときや何かを行動するとき、その言ったことや行動することの責任をとらなければならないという意識があります。それが些細なことであればいいですが、誰かを強く傷つける可能性があったりすると、気後れが生じます。それをしていいほどに、その情報は信用できるものなのかと考える必要があるのではないかと感じています。

 それがしたくないのならば、自分はシェアしただけで責任はないと主張する人になるか、なんらかの方法で正当化し、よく目にする「謝らない人」になってしまうのではないでしょうか?

 

 間違ってしまうことはあるわけですよ。ただし、そこに反省がないのであれば、何度も同じ間違いをし続けてしまうでしょう。その間違いで殴られている人たちは、同じ仕組みで殴られ続けてしまったりするわけですよ。

 それがなんかしんどいなと思うので、自分は何かの情報を目にしたとしても、不用意に誰かに当たりがある発言はしないように心掛け、ある程度情報が出そろうまでは、ただ動向を見守るような感じになってしまう感じにやっています。

「レディプレイヤー1」をさっき観て来た関連

 1時間ぐらい前に「レディプレイヤー1」を観たので、感想を書きます。

 

 「バーチャルリアリティ」という言葉は日本では「仮想現実」と訳されますが、これは誤訳とは言わないまでも不適切ではないかという話があって、バーチャルという言葉を辞書で引いてみると「事実上の」とか「実質上の」というような訳語が出て来ます。

 つまり、日本語におけるバーチャルは「あるようでない」ですが、英語におけるバーチャルは「ないようである」というような意味なのでニュアンスが異なります。

 この訳し方の違いが日米でのバーチャリリアリティの受け取り方に差を生んでいるというような話を聞いたことがあるのですが、レディプレイヤー1を観る限り、それはあるのかもしれないですけど、そんなに大した差ではなくて、アメリカでもバーチャルリアリティは現実ではないのに、それにのめり込んでしまう人間に対する危惧という日本と変わらぬ認識が全然あるんだなと思いました。

 

 レディプレイヤー1は、「OASIS」という仮想現実空間をプラットフォームとして、様々なゲームをやれるようになった近未来のお話で、人々はときに現実の生活をおろそかにしつつゲームにのめり込んだりしています。

 この状況をさらにややこしくするのはOASISを作り上げた人物、ハリデーの遺言です。ハリデーはゲームの中に3つのイースターエッグを埋め込み、それを全て手に入れた人物にOASISの所有権を譲渡すると言ったのです。OASISの資産価値は天文学的な数字であり、人々は宝探しのために、よりいっそうゲームにのめり込んでしまうのでした。

 

 この映画を観ていて、なんだか大変満たされた気分になっていたのですが、それは、この映画の中にたくさんの「好き」が詰め込まれているからじゃないかと思います。この映画の中には多数の実在のキャラクターやアイテムが借用されて登場し、それらはおそらくはユーザがOASIS上で使うために自分で作ったり誰かに作ってもらったりしたものでしょう。なぜ、そんなことをするかといえば、そのキャラクターやアイテムが好きだからでしょう。

 それが後半に物量でおしよせてくる場面があります。これは未来の話ですから、僕が知っているようなキャラクターたちは作中の彼ら彼女らにとってとても古いものでしょう。しかしながら、それをなお愛して手間ひまかけて作ってまで使いたいと思う人たちがいるというあの状況が、とてもいいなと思ったわけです。

 

 この物語は虚構と現実の境目のまたぎ方についても描いているように思いました。ハリデーがOASISを作ったのは、社会が苦手だったからだと語られます。だから、他人と触れ合わなくてもいいゲームの世界に耽溺していたのだと。それはとてもよくわかる話です。なぜなら僕もまた同じような人間だからです。

 しかしながら、自分の死期を悟ったハリデーは少し考えを変えます。それが彼がOASISに仕込んだイースターエッグであり、彼がそのとき何を思ったのかが、ゲームの中で語られるわけです。

 

 それはつまり、リアルとリアリティの話です。僕たちが生きるこの世界はリアル(現実)で、ゲームの中はアンリアル(虚構)です。ではリアリティ(現実感)とは何かと言えば、それはどちらもそうなのだというわけです。リアルの中にもアンリアルの中にもリアリティはあり、大事なのはそれが現実なのか虚構ではなく、そこにリアリティがあるかどうかだというわけです。

 これは個人的にとても得心がいく話で、大切なのがリアリティだとするならば、虚構も現実も同じです。虚構というのは現実の代替ではなく地続きであって、その中で生きて来た作中の人々も、同じように生きて来た僕も、そしてゲームを一切せずに生きて来たような人々も、同じリアリティの中で生きているということです。

 現実に生きる中で虚構が無意味と言えないように、虚構で生きていたとしても現実は無意味とは言えません。虚構があれば現実は要らないのではなく、現実があれば虚構が要らないのではなく、どちらも同じリアリティの中の話であって、その両方を生きることをしているのだなと思いました。

 

 とはいえ、映画の中の人たちはゲームでも立派にコミュニケーションしているように思えて、ネットゲームを向こうに人がいるという事実に辛くなってしまって続けられないような自分のような人間はどうすればいいのか…と思ってしまうということもあります。

 そういえば昔、友達に誘われてウルティマオンラインを始めたとき、友達に導かれるままに高価な装備を融通してもらい、他のプレイヤーを狩ったりしてなんとなくやっていたら、友達の友達に、「君はよくない人のせいでよくないプレイをしている」と諭されたことがあり、ああ、少年兵とかってこんな感じなのかなとか思って、その後、なんか辛くなってやめてしまったりしたこととかがありましたね。

 

 あと、僕といえば漫画ばっかり読んでいて、他の人たちがちゃんと人付き合いして社会に参入しているときに、ひとりで物語の世界に潜り続けて育ってきたわけじゃないですか。これが悪いのかというと悪いのかもなと思っていましたが、前述の考え方で言えば、これでもちゃんとリアリティの中で生きて来たようにも思うんですよ。

 僕は漫画もコミュニケーションの一形態だと思っていて、描いている人は、何らかを他人に伝えようと思ってそれを描いているわけでしょう。それは、言葉で直接やりとりするのと比べれば回りくどくてややこしいのかもしれませんが、本質的には言葉を交わすことと漫画を読むことにはあまり差がないのではないかと思っていて、そういうリアルタイム性も単純な双方向性もない、ゆるやかなコミュニケーションをすることが、自分にとっては大切だったんだなとか思うわけですよ。そこにもリアリティはあったと思うからです。

 

 そして、ゆるやかながらも社会に参画するようにもなり、自分自身の経験が増えてくると、描かれていたのに読み取れていなかったものにも気づけるようになってきます。

 このように現実と虚構は補完関係にもあるという感覚は個人的にすごくあって、現実があるから虚構はいらないとか、虚構があるから現実はいらないとかは極端な考えであって、両方とも地続きで同じリアリティのあるものという中で生きて来たんだなと思ったりします。そして、この映画はそんな人が数多くいるということを示してくれているようにも思えて、それがすげえよかったような気がしました。

漫画を描いたのでコミティア124にでます

 漫画を描いたのでコミティア124に出ます。

  • 日時:5/5(土)11:00〜16:00
  • 場所:東京ビッグサイト 東4・5・6ホール
  • スペース番号:し35b
  • サークル名:七妖会

  今回の新刊は、以下のエントリでも書いた全部消えてしまったやつを、イチから描き直したものです。描き直せてよかったですね(…3週間かかりました)。

mgkkk.hatenablog.com

 

 タイトルは「千年幸福論」。例によってamazarashiの曲からタイトルをとったヤクザ漫画です。以下に途中まで上げました。

 この漫画がどういう漫画かというと、僕の頭の中の漫画です。自分を外から見ると明白な判断をしていても、自分の中としてはぐちゃぐちゃに迷っていたりすることも多々あります。例えばAとBという対立する結論があったとき、Aを選ぶかBを選ぶかの決断はできるじゃないですか。でも、仮にAを選んだとしても、自分の頭の中ではAが100のBが0というわけではなく、場合によってはAが55のBが45みたいなことだってあります。

 このようなときに、自分の頭の中のAを選ぶ人と、Bを選ぶ人を別々のキャラクターとして分離してみて、言い争いをさせてみたらどのような結論に至るんだろう?ということを考えながらやってみたのが今回の漫画なのです。なので、漫画としての出来はともかく、僕の日記としては描けたと思っていて、たぶん何年かあとに読み直したら、このときはこういうことを考えていたんだなということが封じ込められた感じだなと思います。

 

 入稿も振込も終わったので、僕が5秒後に死んでも本はでます(…印刷所が爆発したらでないかもしれない)。よかったら、5/5(土)に東京ビッグサイトまで来て下さいよ。な?

「好き」と「嫌い」は等価な裏表かどうか問題

 何かが好きという感情を僕が大事にしていて、同時に何かが嫌いという感情も大事にしています。自分には好きなものとか嫌いなものとかあるわけですが、嫌いなのに好きと言わないといけないとか、好きなのに嫌いと言わないといけないことが多いとストレスがあるので、それをできるだけしないようにしたいと思っています。

 

 これはハンターハンターにおける念能力の系統のようなもので、自分の特性とは異なる系統の能力を身に着けようとすると、自分の容量を無駄遣いしてしまい、そのように居続けるだけで手一杯となってしまい、疲弊してしまうのではないかと思っているのです。なので、自分が対外的に発揮する能力は、できるだけ自分の特性と一致させておきたい気がしています。

 つまり、好きなものを嫌いと言ったり、嫌いなものを好きといったりしたくないわけです。

 

 それは別にそれでいい話じゃないですか。好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言うだけのことです。しかしながら、そこに他人が関わってくると厄介なことが起きる可能性があります。なぜなら、自分の好きと他人の好き、自分の嫌いと他人の嫌いが一致する保証はないからです。

 

 自分の嫌いが他人の好きの否定ととられてしまったり、自分の好きが他人の嫌いの否定ととられてしまったりするとそこに摩擦が生じます。人は別に他人と一緒である必要はないので、それぞれの人が別々の何かを好きだったり何かを嫌いだったりすることはしょうがないじゃないですか。でも、そこで摩擦が生じてしまうことは実際には多々あって、お互いに相手に「わたしの感性をあなたは否定するのか?」と言ってしまったりすることもあります。

 

 自分の好きなものを嫌いな人と一緒にいたり、自分の嫌いなものを好きな人と一緒にいることが苦痛と感じてしまうなら、一緒にいること自体が苦痛になってしまいます。そういうとき、相手に自分が好きなものを好きになり、自分が嫌いなものを嫌いになってほしいと思ってしまうことは、悪とまでは言い切れないでしょう。でも、それが結果的に相手に、自分の本心とは異なる態度を強いるのであれば、それは何かしら暴力として捉えられるのではないでしょうか?なぜなら、その行為は、自分の感性を曲げたくないからという理由で生じ、相手の感性を曲げさせるという行為となるからです。

 つまり、相手と自分が対等ではありません。自分が主であり、相手は従であるという考え方です。

 

 このように考えたとき、ひとつ気づくことがあります。自分の中で「好き」と「嫌い」は等価な概念でしょうか?何かを好きということと何かを嫌いということが同等ではない場合、他人の「好き」と「嫌い」との接し方にも歪さが生まれてしまうのではないかと危惧します。

 例えば「好き」が100万パワーで「嫌い」も100万パワーだとすれば、相手の「好き」と自分の「嫌い」は相殺されるものですが、「好き」が1200万パワー(両手に好き、2倍のジャンプ、3倍の回転)で「嫌い」が100万パワーだったとしたら、相手の嫌いが自分の好きの12倍の熱量でない限りは、自分の「好き」で相手の「嫌い」を塗りつぶしてしまうでしょう。

 

 こういうことを具体例を挙げて考えてみると、自分の中の「好き」と「嫌い」が等価の概念ではなさそうだということに気づきます。

 

 自分が何かを「好き」と表明したときに他人に「えー、俺はそれ嫌い」と言われたら、すごく嫌な人だなって思ってしまいませんか?少なくとも僕は思ってしまうんですけど、一方、他人が何かを「嫌い」って表明したときに「えー、僕はそれ好きだけど…」って言ってしまうことがあります。でも、これ、「好き」と「嫌い」を等価な概念だとしたら、同じ行為じゃないですか?でも、片方は嫌だと思って、もう片方がやってしまうのだとしたら、つまりきっと自分の中では「好き」と「嫌い」は等価じゃないんだなって思うんですよね。

 

 このように自分の感覚として、「好き」の方が「嫌い」より強い概念だとすると、これを利用したハラスメントを意識せずにしてしまうかもしれません。自分がそういうことをしていることに気づかないと、反省するきっかけがありませんから、歯止めが効かず、やり過ぎてしまったりするじゃないですか。

 

 前述のようなシチュエーションでは、他人の「嫌い」に対して「好き」で反論をしているわけですが、こういうときの意図としては、自分が好きなものについて、嫌いという話題で場が盛り上がったりする状況にいるのが耐えられないという気持ちがあるからです。そのために釘をさしてしまうような行動をとっているわけですが、じゃあ、逆に何かが好きで盛り上がっているときに、それが嫌いでたまらない人もまた耐えられないんじゃないかと思うわけですよ。

 何だか嫌だなと思う行為も、自分の感覚を逆転させて考えてみたらその人も辛いのかもなあと思ってしまうわけです。

 

 好きと嫌いがそれぞれ人にとってどれぐらいの重みを持ってるかとか分からないじゃないですか。自分の感覚を正解にしてしまうと、無意識に他人にそれを強いてしまうというおそれがあるわけですよ。もちろん、自分が他人に強いられるのも嫌です。

 

 でも、じゃあ、そのときの正解ってなんなんでしょうね?自分の感性と異なる話題で盛り上がっていたら、水を差すのも無粋だとその場を立ち去ればいいのかもしれませんが、実際そういう感じのことも多いんですけど、それは仕方なくそうしているだけであって、満場一致で選べる正解じゃないような気がするんですよね。

 

 こういうことを考えながら、僕はだんだんとオタク集団のようなものから遠ざかるようになり(何故なら他のオタクと感性が完全に一致するということはないから)、一人で好きな漫画読んで一人で好きなように漫画の話をネットに書いたりしてりゃいいやという気持ちになって暮らしています…。

 どうですか?これは正解ですか?全然正解じゃないと思うんですけど、これが一番ましだと思ってそういう感じになっています。