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僕が思う人間の脆弱性関連

 僕が人間の脆弱性と感じているものがあります。そして、これは認識していたとしても自分でもどうにもならないので、なかなか辛いことだと感じています。これとはつまり、「人間は主観的に判断して一番得をする選択肢しか選ぶことができない」ということです。

 

 例えば同じ商品が100円で売っているお店と、1000円で売っているお店があったとき、100円の方のお店で買うはずです。なぜなら安いからです。これが得をする選択肢しか選べないということです。しかしながら、1000円のお店で買う例外だってあるだろうと皆様お思いでしょう。当然あります。

 例えば100円で売っているお店がここから100km離れた場所にあり、1000円で売っているお店がすぐそばにあったとき、往復の手間を考えれば1000円で買うこともあるでしょう。それはその往復の手間が差額の900円以上の意味があると思うからすることです。得だからです。

 他には例えば、その商品は本来100円で売れるようなものではないので、値付けが安すぎて怪しいと感じるようなケースもあるかもしれません。そのときも怪しい商品を買うというリスクが差額の900円以上の意味があると考えたから1000円の方を買うのであって、これも得をするためです。

 結局のところ、たくさんの価値基準の中から総合的に判断し、自分が一番得をする選択をしているわけです。ただし、どの価値基準に寄り添う判断をするかは人それぞれというところはあります。

 

 この人間の特性は、仮に自覚していたとしてもどうしようもなく、場合によっては、自分の人生の価値観と立場と現在地によって、自動的に選ぶべき選択肢が確定してしまうことだってあります。そういうとき、自分で全てを判断したように見えて、実は誰かがお膳立てした選択肢を選ばされているだけのことだってあるわけです。

 条件を提示する側は、それを見越して、その選択肢を選ぶことこそが一番利益があるように見せます。ただし、それは本当に利益があって選んだ人も得をするものかもしれません。ここでは、結果的にその人が得をするか損をするかを考えることはしません。ただ、その場その時その人に、他の選択肢を選ぶ余地があったのかどうかという話です。それ以外に選べなかったのだとすれば、人間の生き方は不自由です。

 その不自由さは、いつの日にか、自分が破滅してしまうような選択肢を、一番得をするからという理由で選ばざるを得なくなる状況をもたらすかもしれません。

 

 人は自分が一番得をする選択をせざるを得ないと考えると、例えば、僕が先週に前々から入れていたお休みの予定をキャンセルし、働くことにしたのも僕が一番得をするための決断です。その理由としては、その日に急に入ってしまった打合せを、自分の休みのために延期するには、調整がめちゃくちゃめんどくさいタイプの複数人の予定がたまたま合致する日を再度選ばなければなかったことにあります。その日がすぐにあるのか、数週間先になるのかという問題があり、それを調整するのが非常に面倒くさいわけです。その日にやらなければ、ただ面倒くさいだけでなく、限りあるスケジュールを調整だけで食いつぶしてしまったりもするわけですよ。そうなると後々しんどくなるのは結局自分です。

 つまり、休む予定をキャンセルして働くことこそが、自分にとって一番得な選択肢であることがわかります。そうして、僕は自ら進んで、自分がとれるはずだったお休みをなくしてしまいました。しかし、果たしてこれは僕自身の意志でしょうか?それは、そうせざるを得なかっただけであり、自分で選べたわけじゃないんですよ。このようにして、権利を付与された休みを取らない(取れない)労働者が生まれます。

 

 世の中には往々にしてそういうことがあります。自分で選ぶことができない状況になります。なので、僕は他人の選択に対してなぜそれを選んだのかと怒ったりすることがあまりありません。なぜなら、その選択をした人は、その状況であればそうせざるを得なかっただけなのではないかとまず考えるからです。

 自分が同じ立場なら同じことをするだろうと思うこともありますし、自分が同じ立場だったとしても同じことはしないが、それでもその人の主観では、それが一番得な選択肢だったんだろうと想像したりもします。それはある程度仕方ないことだと思うんですよ。それを防ぎたければ、その人がそれをすることが一番得をしてしまうというような状況自体を解体する必要があると思っています。つまり、人間個人持つ意志や人間性のようなものに、何かを変える力があるというような期待を最初からしていないんです。自分に対しても他人に対しても。

 世の中の大半は、状況に合わせてあるべきようにあると思っていて、そこに生じる不幸とは、そのような状況となってしまったということそれ自体です。

 

 さて、この考え方によれば、誰かの選択を変えたい場合には、その選択がその人にとって一番得をするものでなくすことが必要です。そのための一番簡単で分かりやすい方法は、「それを選べば強い罰を与える」と脅すことだと思います。こちらに都合が悪い選択肢を選べば不利益があると相手に提示することで、自分が好まない選択を相手から奪うことができます。そのようにして、人間は人間の持ちうる選択肢を削り込もうとします。これは世の中のそこかしこにあることです。日常的にそこかしこで起こっていることです。僕はそれを悲しいことだと思っていますが、それにしたって、他人の選択肢を奪う人にはその選択しかできなかったのかもしれません。

 そして、それによって世の中が上手く回ることもあるでしょう。あるいは、それによって悲劇が起こることもあるでしょう。

 

 これは、人間の脆弱性だと思っています。それも決して修正することができないものです。客観的に見ればそうすべきではないことも、当事者としてそうすることが一番特になるという条件を揃えられてしまえばやってしまいます。それはつまり、自分自身をコントロールするすべを奪われてしまうということです。

 

 このようなことを常々思っており、自分自身の判断も、状況によっては信用なんてできないぞ!!と思いながら生活しています。それは冷静に判断しているように自己認識しながら、実際はその状況において、そうせざるを得ないということをただ現状追認しているだけかもしれないからです。

 それによって自分の生活が詰んでしまうことを危惧しているので、どのような状態でも、自分が取り得る選択肢にバリエーションが生まれやすいような条件を整えることにしています。そのため、僕はたまに怒ったりもしているわけです。それは自分の選択肢を減らすような力学が発生しているときにその反発として怒っている感じです。それは僕が危機管理のために自分自身に導入した価値基準のひとつであるわけですよ。それを選ぶことで、自分の次の選択肢が減らないかどうかは重要な基準です。

 何があっても、自分の取り得る選択肢がひとつに絞り込まれることを避けるため、ひとつに絞り込まれそうな状況になったら、反射で怒ってでもその状況を脱することが生存上有利と考えているのです。

 

 もうひとつやっていることは、あえて偶然に身を任せることです。サイコロを振って決めるというように、本当にただの偶然に身を任せて決断をすることもままあります。サイコロを振って決めたことについては、僕自身の意志の介在する余地がありませんから、何物にも制約を受けない結論を出せるかもしれません。この辺の気まぐれに自分の人生に混ぜ込んでいくことで、人生のバリエーションを確保し、決して、誰かの思う通りに動かされ過ぎないようにしていくみたいなのが、最近の考え方ですね。

 

 このように考えるようになって、最近は、子供がワガママ言って泣いたりするのは完璧に正しいなと思ったりします。そこに存在するのは非常にプリミティブな利害関係なわけですよ。自分が求めていることが、実際には起こらないことに対する拒絶を、泣くことで表現しているわけです。

 一方、大人は色んなことに縛られているので、泣いて拒絶するというようなことがどんどんできなくなります。ここで我慢しておけば、この先楽になるというようなことを思って、思い込まされて、貧乏くじを進んで引き受けたりもするわけですが、結局先は先で新たな何かが発生して、楽には全然ならなかったりして、延々同じような貧乏くじを引かされ続けたりもします。しかも、それを自分は正しく価値判断した結果だと思い込んでしまったりもするわけです。

 

 人は一番得だと感じる選択肢しか選べない。自分がそうであることも、他人がそうであることも、それが最適となる状況が整っているからそうせざるを得ないのであって、それを自分の意志の力でなんとかしようと思うことは、大火事を目の前にして、洗面器一杯の水をやっと汲んでこれたような状態ですよ。消すことは無理だと思います。自分がその水を被ってその中を突っ切ることぐらいしかできやしないじゃないですか。

 

 なので、お仕事などで何か問題が発生している場合には、人、それ自体にはあまり目を向けず、なぜその判断をしてしまうような状況が整っているのか?それを変えるにはどのようなことをすればいいのかということの方に優先的に手を加えるようにしている感じですね。

 今のところ、身の回りでは結構上手く行っている感じもするんですけど、状況に対するアプローチは大掛かりになることも多く、できることとできないことがあるので、何かが起こったときに、そこに変化を促すためにどれだけのことが自分にできるのかと不透明な状況を想像し、不安な状態で日々歩いています。

 

 そのように歩くことが、僕が今考える、人間の脆弱性に影響されにくい数少ない方法ではないかと思うからです。