漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

本屋が減っている件について(実感編)

 今月の頭から働く場所が変わりました。これまでは都心で働いていたので、通勤の導線上に複数の大きな本屋さんがあり、欲しい本はそこにいけば何でも買えるという恵まれた状況でしたが、それが一変してしまいました。本屋がないのです。

 正確にはあるにはあるのですが、欲しい本が全部置いてある本屋が通勤の導線上にありません。あるのは駅中の本屋とコンビニの本のコーナーぐらいで、マイナーめの月刊漫画雑誌やマイナーめの出版社の新刊単行本が入荷しなかったりするのです。仮にあっても1冊ぐらいで、僕が買うとなくなってしまいます。

 

 僕がこれまで大きな本屋の近くで生活をしていて、まあ何でも買えるしと思っていたことはとても贅沢なことで、それを失って初めてちゃんと実感しました。欲しい本がすぐに買えません。うわー、めんどくせえ。

 これを機に、月刊誌の購読については電子書籍へ本格的に移行をするかという感じなのですが、単行本は紙でほしいことの方が多いので、それをどうするかといった感じです。一旦家に帰ったあと、家からちょっと離れた大き目の本屋までバイクで行くか、通販か、あるいは、仕事で都心に行くとき(週に一回以上はある)に買ってくるかというところです。

 

 本屋の数はどんどん減っていますね。調べてみたら、今の仕事場の近所にあった本屋は数年前に潰れてしまっていて、この駅の近辺にはもはや本屋がほぼない状況です。僕は毎日のように本屋に行くタイプの人間なので、うそー、まじかよという気持ちなのですが、世間がこちらのほうがもはや当たり前なのだとしたら、こいつはしんどいなという気持ちにもなります。

 思い返せば、僕が地元でよく行っていた本屋も、かなりなくなっているんですよね。駅前にあった本屋を、毎日3件以上はしごするのが日課だった僕からすると思い出の場所の消失ですよ。もう小山助学館の本店も漫画専門館も、ブックセンタービルも、アダムと島書房もありません。当時はお小遣いという概念の存在しない家庭にいたので、一年間お年玉の切り崩しだけで生きていて、お金がないのでひたすら雑誌の立ち読みをしていました(迷惑すぎる)。単行本をたまに買うぐらいでひたすら立ち読みをして過ごした本屋がなくなってしまったことに、何かしら思うところはあるわけですよ。そんな中、南海ブックスがまだ強く生き残っていることには、とても心強さを感じます(ローカル話題)。

 

 僕が本にそこそこお金を使っているとはいえ、年間百万円には決して届かないぐらいだと思います。使う側からすればそこそこの額ですけど、使われる側からすれば大した額ではないわけですよ。それをひとつの本屋につぎ込んだところで、バイトをひとり雇うための年間の人件費にもなりやしません。つまり、僕個人がいくら頑張ったところで本屋は営業を継続できないし、本屋がなくなっていくのを指をくわえて見ていることしかできません。

 

 こういう話をすると「時代の流れについていけない業態は潰れてもやむなし」みたいな話をする人がいるじゃないですか。いないかもしれません。いや、いるとしましょう。仮定してみてください。僕はその架空の人に対しての文句を言いますが、それは正しい物言いかもしれませんけど、現実問題として僕は家の近所に何でも買える本屋があると嬉しくて、そんな本屋がないとしんどいんですよね。本を手に入れるためにひと手間加える必要があるからです。その正しい物言いが僕を楽にしてくれるならいいですけど、全然そんな力はないわけじゃないですか。それはつまり、これは時代の流れなのだから、お前は不便でも受け入れろ、それが正しい考え方だって言われているだけじゃないですか。なんなんだよてめえはよう!!って思うじゃないですか。

 ただでさえ買えなくて不便なのに、それに追い打ちをかけるような「これは時流に乗れなかった者に対する罰だ!」みたいな言葉はなんなんですかね。ただいたずらに他人を傷つけたいだけじゃんじゃないですか?人間が腐っているんじゃないですか??

 

 架空の存在にめっちゃ腹を立ててしまいましたが、現実はどうにもならないので、その中でどうにかやっていくしかありません。

 

 買う気が割とある僕のような人間でも、めんどうくささと向き合って2勝3敗で負け越しているような現実が目の前にあるわけなのですが、買う気がない人間からすると、もはやどうにもならんのだろうなと想像するところがあります。おそらくここから数年かけて、月刊漫画雑誌は紙で出すのが割にあわなくなって、Webに移行していくんじゃないかと想像していますが、でも、紙には電子にはない利便性(机の上に放置しておくと他の誰かが読むなど)があったり、どうしても電子では届かないタイプの人たちもいるわけです。電子で事足りるというのは近年増えてきたものの、それでもまだまだ人口の3割行ってればいい方で、残りの7割を捨てるかどうかって感じなんじゃないかって思うんですけど、そのバランスが電子の方が多数派に切り替わるあたりで、何か変わるんじゃないかなとは思います。

 変わったあとにあるのは、従来の月刊漫画雑誌が電子化したものではなく、それらはなくなってしまい、新しくWeb漫画雑誌が同じ場所に座るというのが実際なのかもしれませんが。

 

 お金が回らなければ何も続けられません。だから本屋も出版社もお金を儲けなければなりません。そこに貢献しない人間に対して、漫画を読むのがタダだと思っているのか?みたいなことを思うのも、正しい認識だと思います。僕もそう思って、欲しい本はお金を軽率に出して買っていますけど、でも後ろめたいことに、子供の頃に無限に立ち読みしていた時期があるわけじゃないですか。

 じゃあ、昔はなんでそれでもよかったのかな?って話があるわけですよ。それはきっと僕以外の人がたくさん本を買っていたからなんでしょうね。その豊かさの隅っこで、金も払わずに一部を享受できたのが僕の幸運で、同時に罪深さです。

 

 あー、本屋なくなってほしくないなあとすごく思います。池袋のジュンク堂なんかに行って、異常な数のレジとその前の長蛇の列を見たりするとき、「ああ、こんなにも本を買いたい人がいる!!」って思うわけですよ。本、欲しいわけじゃないですか。それでも、そういう人がそこそこいたとしても、なくなるときはなくなるもんだなと思いますし、それが悲しくてやりきれません。

 

 そういう感じのことを、発売日に買いにこれなかった本を大きな本屋までやってきて十数冊買いこみながら思いました。

インターネットvs著作権関連雑感

 「インターネット」というものが何であるかというと、その解釈のひとつは「コピー」なのではないかと思います。サーバに存在している情報を手元のクライアントにコピーすることができるのがネットワークの機能のひとつだからです。インターネットは世界中のたくさんのサーバが相互接続するという仕組みです。そこに参加する世界中の誰もが情報をコピーすることができるようになります。

 あまり遠くにあるサーバに問い合わせに行ったり、同じ情報に何度もアクセスする場合には、サーバとクライアントの間にその情報を一時的に置いておく場所が作られたりもします。それを「キャッシュ」と呼びますが、それもつまりはコピーです。キャッシュはサーバの情報をコピーし、クライアントはそのコピーのコピーを作ります。場合によってはサーバの情報が既になくなったのに、キャッシュだけが残っていることもあります。オリジナルは消失し、コピーだけが残っているのです。そのコピーをまた誰かがコピーし、世の中にはその大元が何であったかも忘れ去られてしまったコピーだけが残っていることもあります。

 

 著作権という言葉は、英語ではコピーライトと言います。コピーの権利です。つまり、ある人が何かを作ったときに、それをコピーしていいかどうかを決める権利が、作った人にあるという仕組みです。

 どうですか?インターネットとは相性が悪いとは思いませんか?インターネットはコピーの仕組みで、著作権は勝手なコピーを差し止める仕組みです。インターネットの歴史はその軋轢の歴史でもあります。インターネット的な考え方は、あるひとつのものから無数のコピーを生み出します。そして、著作権の意味は、勝手にコピーを作られてしまうことで毀損されてしまいます。

 著作権には、海賊版のような勝手なコピーを作られない権利の他に、著作隣接権などもあります。それは例えば同一性保持権、つまり、自分が作ったものを他人に勝手に改変されないようにするという仕組みです。これもまたインターネットの仕組みとは相性の悪いものです。例えば、コピーとはどこまでがコピーなのかということを考えなければなりません。

 例えば、高精細に描きこまれた絵があったとして、それを低品質設定のjpegで小さく保存したとき、それは同一と考えられるでしょうか?劣化した画像では、作者が精緻に描きこんだ線を見ることはできないかもしれません。あるいは意図した色が出ていないかもしれません。それを同一として考えることができれば問題ありませんし、同一として考えることができなければ問題があります。例えば、画像の上に何か文字が載ればどうでしょうか?例えば、複数の画像が組み合わされて表示されたときに別の意図を読み取ることができるようになればどうでしょうか?ある作品が同一であると考えることができる根拠とは何でしょうか?

 例えば、ある画像をキャッシュするときに、サーバの保存容量削減や通信容量の削減などを意図して、上記のような何らかの変換が行われることがあります。それが同一でないならば、作者の意図した作品の価値を毀損してしまいます。良いか悪いかといえば良くないことのように思います。でも、実際にはそれが行われています。このような細々とした軋轢が、様々な人の議論によって何となく問題ないように運用されているのが今のインターネットです。でも、このような問題は今なお完全に解決されたわけではありません。

 

 インターネットはコピーの文化です。それは作者の意図からすれば、劣化コピーの文化と言えるかもしれません。あるいは、別の人の視点からすれば、コピーに加えられた手が新しい価値を生み出す文化と捉えることもできるかもしれません。僕は両方を理解することができ、そしてそれらが対立することも理解できます。

 

 インターネットと著作権が対立するのだとしたら、そして、そのどちらかの立場に足を置き、その正義を唱えるならば、どちらかが勝利し、あるいは敗北するでしょう。そして、勝者は喜び、敗者は不満を抱える結末になるでしょう。でも、そういうことなのかな?という気持ちがあります。するべきなのは、正義の話ではなく、利害の話なのではないかとずっと思っています。正義は悪(とみなしたもの)と戦い、ときに勝利ときに敗北をしますが、利害には勝敗以外の結末があります。どこまでは譲ることができ、どこからは我慢できないのか?その場に参加した人たちの中で、線を引く場所を決めるための利害関係の交渉が行われます。とはいえ、その交渉の結果に不満が残ることも多々ありますが。

 著作権を強く守ろうとすれば、インターネットの上での流通を阻害することは間違いありません。コピーをするために手続きが必要であれば、その手続きをちゃんとする人相手にしか流通しないからです。そして、それらの手続きをちゃんとする人というのはおそらく少数派です。その手続きを通さずにコピーされ、そのコピーのコピーが手続きなしに流通しやすいのがインターネットです。それはインターネットがインターネットである限り、排除はできないものなのかもしれません。

 

 でも、じゃあ、それでいいのかな?という気持ちはずっとあるわけなんですよ。

 

 著作権の思想から言えばインターネット的なものと折り合いをつけつつ、以下の2点を守ればいいのかもしれません。

  • ある作品を作った人がそれを勝手にコピーした人よりも利益を得られること
  • 自分の作った作品が意図しない使われ方をしたときにそれを差し止める権利があること

 このような考えに通じる発想であれば、例えば米国パロアルト研究所が提唱したContent-Centric Networkなどがあります。従来のインターネットがIPアドレスというサーバの住所をベースに繋がっていたのに対し、こちらは、コンテンツ自体がその中心にあり、それがどこのサーバにあるのかということは意識せず、何のコンテンツが欲しいのかということをベースに繋がることが企図されています。そこではコンテンツの同一性が従来以上に意識されるはずです。クライアントが手にするコンテンツが、誰かが作ったどこかの何かではなく、どのコンテンツであるかという素性が重要視されるからです。

 ただ、これが一般的になるというのはハードルが高いように思いますが。

 

 世の中には、インターネットと著作権という矛盾しそうなものを両方に満たそうとするために、色々考えている試みが他にも色々存在しています。それが遠くない未来に現実化することを期待していて、そうでなければ、インターネット的なコピーに著作権という思想は負けてしまうのではないかと思うからです。

 だって悔しくないですか?インターネット上でのある種の勝ちパターンが、他人が作ったものを大量に集めて、それを二束三文のものとして扱うことで小金を稼ぐというようなものになっていることが。

 価値ある情報を流通させるという仕事にも大変重要な意味があることは理解しますが、もう少し、その価値ある情報を作った人が報われてもいいというのが僕の感覚で、そのための利害関係の調整がもう少しあってもいいだろうと思っているわけです。

 

 ちなみに月額料金を払って聞き放題、見放題、読み放題なんかのサブスクリプション型はひとつの解ではあると思いますが、これも結局二束三文で売り払うものの亜種とも考えることができて(海賊版にやられるぐらいなら二束三文にでもなるほうがましという感じの)、それが最終的な到達点なのだとすればあんまり希望のない世の中だなと個人的に思っています。

ダメな労働環境と足りないお金関連

 漫画家のアシスタントの労働環境が悪いという話題を目にして、思ったことを書きます。

 

 僕は漫画家のアシスタントをしたこともないですし、漫画家だったこともありません。出版関係の仕事もしていません。なので、ここで思うのは、漫画家のアシスタントの労働環境に関して聞きかじった話から想起した自分がこれまで関わってきたビジネスの話です。

 

 労働環境が悪いということの問題は主に3点に分類できると思います。ひとつは報酬が低いということ、もうひとつは労働の内容がよくない、つまり例えば、過酷な環境で長時間労働が必要であること、最後のひとつは保険や手当などの待遇がないというようなことです。

 

 これは、漫画家のアシスタントに限らず、社会のそこかしこにある問題だと思います。

 僕の見識の範囲で、これはお金が儲かっていない事業においてよく目にするものです。報酬が低いということは、事業収入の中から人に振り分けられるお金が少ないということですし、過酷な労働環境は、労働量に対して労働者数が少ないときに起こったりします。そしてなぜ人が少ないかというと、結局は同じくお金の話で、多くの人数を雇えるほど儲かっていないということです。保険や手当などがないことだってそうです。そのために出せるお金がないことや、十分な手続きをするための人手を雇うお金がないということです。金金金、金の話です。お金がないのが悪いので、これらの問題をわかりやすく解決する方法はその事業で十分なお金を儲けることです。

 

 もちろんお金が儲かっている事業でも現場が過酷でひどいことはあります。でも、儲かっていなければ、それを改善する余地すらなくて虚しくなります。

 

 お金が儲かっていない事業を、お金が儲からないままで無理に継続しようとするときにこれらの問題は起こりがちです。ここで、段々とお金が儲かるようになるならば光もありますが、世の中の事業は時代の流れに流されて右肩下がりで収入が減ることも多いでしょう。

 その事業の上手くいってなさが、継続するメリットがもうないと判断され、廃される直前あたりにしんどさのピークがあり、そのあたりの現場はとてもひどいことになったりします。

 金もない人もいない、それらが今後増える可能性もない。でも、現場の人が身を粉にして頑張ってしまっているために、ぎりぎり採算性があってしまい、その辛い状況が破綻せずに継続してしまったりします。そういうときには、本当はもう頑張ったらダメなのかもしれません。でも、それによって誰かが困ると知ったとき、頑張ってしまう人もいるじゃないですか。

 

 僕は近年システム開発の仕事をよくしていて、それは人がやっていた仕事を機械の仕組みに置き換える仕事です。ある事業について、人に支払うべき報酬が枯渇しているとき、それでも仕事量が減らないのならば、それを機械に置き換えるというのが進歩的な解決方法です。僕は、自分がやる仕事も、他人がやる仕事も、たくさんの仕事を機械に置き換えてきました。

 素晴らしいと思うじゃないですか。実際、すごく楽になったことも多々あります。でも、実際はいいことばかりではありません。なぜならば、より少ない人数で、より多くの仕事ができるようになったため、一人の人間が担当する仕事の範囲が非常に広くなってしまったりするからです。何年か前であれば、専任が複数人いたような仕事を、いくつもまとめてたったひとりで担当しなければならないというような辛さが生まれたりしている事例もあります。なぜそうなるかといえば、関わる人数が減ることによってランニングコストが下げられるからです。そうすれば、その事業をより低価格でお客様に提供することができるからです。そうしなければ、競合他社に劣後したりしてしまうからです。

 世の中は残酷なものです。皆さん労働者の権利を大切にすべきと思いながらも、一方で平気で一番安いものを手にとってしまったりします。実は裏で働いている人がより過酷な労働環境に追い込まれることでできたより安いものをが選ばれてしまいます。十分な人員と報酬と労働環境を守りながら作ったそれよりも高いものではなく、です。

 それは別に悪くはないですよ。そういうものです。そして、それが過当競争を招き、人間を追い込んでいたりもするというだけの話です。

 ひとりの受け持つ責任の範囲が広くなれば、普段は回せても複数のトラブルが重なるとすぐに稼働が限界になります。それで体や心を壊した人も目にしました。そんな思いをして安くしたのに、「今までがぼったくりだった」と怒られたことが皆さんはありますか?僕は何度もあります。

 

 さて、漫画の話ですが、アシスタントに支払われる報酬の原資は基本的に漫画の原稿料でしょう。つまり、この問題が、今まで触れてきた世の中によくあるしんどいもの同質であれば、そもそもその原稿料が上がらなければ問題の解決はできるようなものではないということだと思います。

 そして、原稿料が上がればどうなるか?漫画雑誌を作るために必要なコストが上昇します。雑誌の部数が同じの場合、同じ値段で提供し続けるならば、原稿料を増やす代わりにそれまでお金をもらっていたどこかの誰かの報酬が削られるはずです。その方法は様々でしょうが、結局アシスタントの低待遇が別の人の低待遇に置き換わっただけで、もぐら叩きのようにいつまでたっても叩き続け、そして、全員が報われる状態は訪れないのかもしれません。

 ならば、原稿料の原資を稼ぐには雑誌の値段を上げるか、雑誌の部数を伸ばすしかありません。でも、それらは背反します。値段を上げてもそれによって部数が落ちれば結局意味がないかもしれません。単純に部数が伸びればいいですが、じゃあ、皆さんは漫画雑誌を買いますか?って話ですよ。僕は割と買ってますけど(月に40冊ぐらい)、これを読んでいる皆さんの多くはおそらくあまり買ってないんじゃないか?と睨んでいます。特に、マイナーな月刊誌なんかはどうでしょうか?買ってない場合、自分がそれらの雑誌を毎月買う状況を想像できますか?できないなら、それはつまりそういうことです。

 無からお金は生まれません。ならば、全ては繋がっている話です。誰もが被害者であり同時に加害者でしょう。

 

 それが紙の雑誌ではなくWeb連載であったとしても構造的には同じことです。儲からない事業では、儲からないがゆえにそれを支える人間が毀損されていきます。解決方法は儲けるしかありません。儲けられないなら、そんな事業はやめてしまうというのもひとつの判断です。

 

 僕がやってきた機械化のお仕事は、漫画に置き換えるならばコンピュータで漫画を描くということに読み替えられるでしょう。実際そういう人もいます。となれば、コンピュータを使って一人で漫画を描けるようになったのでアシスタントは使わないというのはひとつの解決策ではないでしょうか?そして、同様に同じことが以前より楽にできるようになったために、あらゆることを自分でしなければならなくなってしまいます。それでいいという人もいるでしょう。そして、それがしんどいと思う人もいるでしょう。

 また、漫画を描くということだけでなく、今まで出版社がやっていた役割も個人で代替可能な部分が出てきています。それを個人でやれれば採算性は向上するかもしれません。しかしそれは、今までは他人に頼めていたあらゆる仕事を自分自身でしなければならないということです。

 生産者と消費者を直接繋げば効率が良くなるというのはインターネットで語られることが多い神話ですが、これは実際はケースバイケースです。なぜなら、間に人が入ることで効率が良くなることも多いからです。大量かつ多品種の商品を扱う市場では、とりわけその傾向が強いでしょう。自分ひとりが食べるカレーを作るより、クラスのみんなが食べるカレーの方が、一杯あたりのコストを安くしやすいのと同じです。

 

 一方、そういうのとはもはや関係なく、紙とペンでひとりで描くタイプの漫画家さんもいます。それはそれでひとつの良い在り方だと思います。しかしながら、それができる人は限られているでしょう。例えば、絵柄などもかかわってきます。緻密な背景作画が要求されるような漫画を描くならば、ひとりで描くのは週刊連載はおろか、月刊連載もあやういかもしれません。例えば岩明均の「ヒストリエ」はひとりで描かれているそうですが、隔月の連載ですし、ペン入れされないままに鉛筆描きで雑誌掲載されることも頻繁です。怠けているわけではないでしょう。それぐらい大変なことなのだと思います。

 

 僕が思うに、誰かが不当に悪いことをしているわけではなくとも、きつくてしんどい労働の状況は訪れます。これらは根本的にビジネスモデルとそれがうまく回っているかの問題だと思います。ちゃんとできるほどには儲かっていないところは、やはりちゃんとできていないことも多いです。そのちゃんとできていないことを見過ごすべきだと思っているわけではありません。なら、もうそれはやめるしかないんじゃないかというような気持でいるのです(諦念)。

 

 ですが、ちゃんとできるほどに儲かっている働く場所というのは、世の中にどれぐらいあるのでしょうか?それはどうすれば増やせるのでしょうか?そして、それを実行するのは誰の役割なのでしょうか?

 

 現場がよくないのは、管理職の責任です。ただし、予算を増やすことも、スケジュールを伸ばすことも、人を増やすことも権限を与えられていない管理職は、精神論を唱えるぐらいしか手立てがありません。そしてそんな待遇の管理職の人もすごく多いと思います。実務能力のある人は足りない部分を自分の労働時間で補って、職場の環境改善のために、異様な長時間労働を担ったりします。そうなってしまうのはどこが悪いのでしょうか?経営者でしょうか?しかしながら、経営者とて無からお金を生み出すことはできません。

 事業が儲かっていようが儲かっていなかろうが、人を雇っている以上お金を出す必要があります。事業が上手くいっていなければ、予算を増やすことも、スケジュールを伸ばすことも、人を雇うこともできないでしょう。なぜならそれをしてしまうと赤字になってしまうからです。赤字を継続すれば倒産してしまうからです。そんな会社は潰れてしまったほうがいいのでしょうか?また、その数多の潰れてしまった会社のあとに、ちゃんと儲かる会社が生まれてくるということは期待できるのでしょうか?ただ、焼け野原になるかもしれません。いや、それも正しいような気もします。

 

 僕は労働環境の問題は根本的にはお金の流れの問題が大きいと思っていて、お金の流れという意味では社会にいるあらゆる人が当事者です。被害者であり加害者です。その割合は様々だとしても。どこかの一面的に悪い誰かがいて、その人たちを倒せば問題が解決するというような種類のものではないのではないかというのが僕の感じるところです。

 

 さて、今月から全く新しい仕事に従事することになりました。僕には世の中のどうこういった部分を変えるほどの力はありませんが、少なくとも自分の目端の届く範囲では、お金をちゃんと儲けて、それによって皆にちゃんとお金を流していくことが重要だぞと年始の思いを新たにしているところです。

2017年のお気持ち振り返り

 なんとなく時間が空いたので、早々と今年一年感じたこととかを振り返ってみるかという気持ちになったので、なんとなく書きます。

 

 僕はあまり人間の意志の力というものを信じていない。なぜなら僕自身がとても意志の弱い人間だからだ。今日だって朝早くに起きて仕事場に行こうと思っていた。なぜなら、他の人が来ると色々お仕事を頼まれ始めてしまうからだ。だから、誰も来ないうちに雑務をさっさと片づけておこうと思ったのにできなかった。早く起きはしたけど、コタツに入ってボーっとテレビを見ながら、行かないとなあと思いながらもなかなか家を出ず、結局いつもより15分早く来ただけだ。パソコンを立ち上げたりコーヒーを淹れたりしていたら他の人たちが来てしまった。やろうと思ったことができない。これでも昨日寝る前は絶対そうしようという固い決意があったわけなんですよ。

 

 強い意志の力で何かを成し遂げることは僕には困難だ。僕の行動原理はすごくシンプルで単純な利害によるものです。朝早く仕事場に行って、溜まってる雑用を片づけることで得る利益よりも、寒い日の朝にコタツに入ってぬくぬくしている時間が一秒でも続くことの方が自分には利益が大きかったという話で、そりゃそうだと思うしかない。ただこれが例えば、朝7時に仕事場に集まるように他の人と約束をしていたとしたら結果は違ったかもしれない。遅刻すれば相手を待たせてしまうという申し訳なさから、ちゃんと早く行けたかもしれない。それはだって、そういう利害だから。

 やりたいことはやりたいし、やりたくないことはやりたくない。それは立派な大人の態度ではないかもしれないけど、じゃあ僕は立派な大人ではないですよってことです。そしてそのような意味で大人でいることはよいことなんでしょうか?

 

 意志の力に期待しなければ、世の中で起こる多くのことは意志の力で成し遂げられたことではないんじゃないかと認識するようになる。どんなに杜撰に見えることも、悪辣に見えることも、そういう利害を当事者が持っていただけかもしれないと思うようになる。例えば人を殴るという決断とした人がいたとして、その人にとっては殴らないよりも、殴る方が利益があるということだったのだろうと思ったりする。

 殴ることによる得が、殴らないことによる損よりも大きいと感じたのだろう。僕はそういうとき、殴らない方が得になるようになっていればよかったのになと思う。そうすれば、誰も痛い思いをしなくて済んだと思うので。

 人がそう思ってしまうのは、その人のそれまでの環境や経験、そして、事が起きたときの環境や体験によるもので、その場所がそういう力場であったということじゃないかと思う。坂道にボールを落とせば、低い方に転がるものだ。なぜなら、そういう形をした場所なのだから。坂道に落としたボールが上に這い上がってきたらびっくりするだろう。時折そういうこともある。人間にはすごい人もいる。

 どんな不作為を目にしても、僕が同様の環境において同様の経験や体験を与えられたら、それをしないでいられたか?と聞かれれば、絶対しないと断言できないことも多い。自分にできなさそうなことを他人に強いるのはよくないことだなと思う。

 

 最近は他人のよくないと思う行動を見たときに怒りよりも、悲しみの方を感じることの方が多くなった。

 

 他人をバカと罵る人が本当に言いたかったことは、自分の方が賢いということなんじゃないかと想像してしまう。自分が賢いと主張するための方法が、他人をバカと罵ることしか見つからなかったのだとしたら、それはきっととても悲しいことだと思う。なぜならその人は、自分が賢いと説明し理解してもらうよりも、他人をバカと罵ることの方が、自分が賢いと思われるためには近道だと思えるような場所にいてそういう経験をしてきたのだろう思うからだ。

 真っ当なやり方が理解されないならば、真っ当ではない道を歩むしかなくなってしまう。ただ、その真っ当でない道も目的地に続いているかは依然として不透明だ。

 

 他人にファッションセンスがないと言う人はファッションセンスがある人なんだろうか?他人を間違っていると指摘する人は正しい人なんだろうか?何かの漫画や映画やゲームがつまらないと言う人は、面白さとは何かを知っている人だろうか?

 いや、おそらく本人の中では知っていて、それを定義できていると思っていることも多いだろう。そして、自分の中にある「面白い」という定義に反しているものを「つまらない」とするのだろう。

 でも、その面白いの定義は、果たしてその人本人以外と共有できるようなものだろうか?例えば、いがみ合っていた男女が段々と惹かれあい最後にキスをするのが面白いお話であるという定義があったとして、それに反するような人の理解しあえなさを描いたお話は必ずつまらないお話なのだろうか?

 これは良いこと、これは悪いことという根拠が自分の中で確固としてくればするほど、それ基準で物事を見てしまったりすると思う。そして、それはしばしばとても窮屈だ。自分の中にある良し悪しのチェックリストから、悪いポイントに沢山丸が付いたのでこれは悪くてつまらないものですという結論を出すのは分かりやすいやり方だ(もちろんその逆も)。でも、じゃあ、もし、あまりにも悪いポイントばかりなのに、強烈に惹かれてしまうものが出てきたらどうするんだよと思う。

 それでも自分が今まで主張していた悪いポイントを持っているので、これはやっぱり悪くてつまらないと言ってしまうのだろうか?もしくは今までそれを根拠にして否定してきた数々をなかったことにして良くて面白いと言うのだろうか。自分の中で長年かけて作り上げてきた良いとか悪いのチェックリストが間違っている可能性を考えるはめになったとき、人はそれを作り直そうと思うことができるのだろうか?

 

 生まれてから何十年もかけて作り上げてきた良いと悪いを選り分けるためのチェックリストとは、言い変えれば価値観や常識なんて呼ばれてしまうものだと思う。それを捨ててしまうのはおそらく誰にだって困難だ。だって、どうにかこうにか作り上げてすがりついてきたものを捨て、全く新しい価値観に作り直すということはかなりしんどいと思うし、なかなかやれるものではないだろう。

 

 世の中は全てを知るには広すぎるし、全てを理解するには複雑すぎる。そこに真摯であろうとすればするほど、一歩も先へ進めなくなったりする。だから、普通は分かってないことも分かったことにして先に進むだろう。

 何日か前にニュースで見た、数学のなんだかすごい証明なんかも、僕にはひとつも理解できなかったけれど、なんだか分からないがすごいことなんだろうと思った。学識のありそうな人を含めたみんなが、すごいと言っていたからだ。それは全く科学的な態度ではないし、それはただ信じるために信じるという信仰に近いものだと思う。僕は科学に関して、自分で実験検証できない大半の領域については信仰のように取り扱わざるを得ない。そうするしか選択肢がない。しかしながら、同時に全てをわずかずつ疑ってもいる。それが自分の中に最後に残る良心だと思うからだ。だって、本当は分かってないじゃないか。それらを、僕は、全部。

 信じるために何かを信じるとき、じゃあなぜそれを信じることにしたのかが分からなく思う。それはやっぱり、自分の意志の力によるものなんかではないことが多いと思う。なんとなくだ。なんとなくというのは、自分の周囲やこれまでの経験から作り上げた価値観にただ寄り添うということだ。そして、その価値観が正しいことは誰かが証明してくれることでもない。みんなが正しいと言っているからといって、それが本当に正しいとは限らない。ただ、間違うときはみんなで一斉に間違うということだけが確かだ。もし、それが実は間違いだったと発覚したとして、その間違いを信じてしまった罪の責任は誰がとるのだろうか?誰も責任をとらないかもしれない。あるいは、誰かを戦犯として生贄に差し出すかもしれない。

 

 僕は結局自分の意志でどうにかなる領域なんてごく限られていると思っていて、それぞれの人は普通はそれぞれの人の領域で経てきた体験をベースに、自分が得になりそうな選択をなんとなくしているだけのように思う。だから、間違ったことをした個々人に間違ったということで罰を与えたとしても、大局的には何も変わらないんじゃないかと思う。変えたいならば、その間違っていた人が寄り添っていた価値観自体に手が入る必要がある。その間違った価値観に寄り添うことが一番得になるという状況が変わらなければ、それが消えることはないんじゃないかと思うからだ。その人が罰せられたとしても、また別の人が同じことをする。

 でも、そもそも絶対的な正しさなんてないでしょう?いや、仮にあるとしても、僕がそれを認識できているなんて主張するのは、きっとひどく傲慢な話だ。そして、僕がその正しさを標榜すれば、それに反するあらゆるものを間違ったものに押し込めてしまう。それはとても暴力的だろう。だから不完全な僕には何も言えることはない。

 ただ、誰かが自分の得になる行動をすることで、誰かが損になるようなことがあると嫌だなと思う。何かを奪わなくても何かが得られるぐらいに、人間社会はそれぐらいの豊かさを持っていてほしいと願う。

 

 阿部共実の「ちーちゃんはちょっと足りない」で、ちーちゃんとナツはやってはいけないこと(窃盗)をする。なぜそんなことをしてしまうかというと、足りないと思うからだ。つまり、自分たちが持っていないから、みんなが当たり前に持っているものを自分たちだけが持っていないということを根拠に、やってはいけないことをしてしまう。それは悪いことだ。やってはいけないことだ。でも何より悲しいことは、そうしてもいいと思ってしまうほどに、自分にはあるべきものが足りないと思って生きていることだと思う。

 満たされていさえすれば、やらなくて済んだことを、満たされないがゆえに求めてしまう。そのためにしでかしたことが、自分をさらに追い詰めたりする。誰にだってある話ですよ。私は皆と比べてこんなに恵まれていないのだから、すこしぐらいズルをしたっていいと思ってしまう。それでようやく人並みだと思ってしまう。人がそうだと思ってしまうことが何より悲しい。

 「闇金ウシジマくん」でもウシジマくんも言っていた。自分に金を借りに来る人たちは、孤独に耐えられない人たちだと。その孤独を解消するために一番安易な方法をとってしまう人たちだと。つまり、自分と人を繋ぐために使うのがお金で、お金でしか人と繋がれないと思うからこそ、さらにお金ばかりを求めてしまう。本当は、他人と幸せに生きたかっただけなのに、そのための一番簡単に思えた方法が借金で、そのせいでよくない結果を招いてしまう。

 

 そういうお話を読んで、ああ、悲しいなと思う。具体的に書きはしないけれど、お話の中だけじゃなく、現実にも起こっているのも目にしてしまう。人の力は無限じゃないし、人生はだいたいどうしようもないけれど、そのどうしようもないの行く着く先が不幸にならないような感じにならないとダメだよなと、色々な出来事を振り返り、ただただ思ったりしています。

 2017年も終わりが近づいている。2018という数字にまだ馴染みはないけれど、あんなに珍奇に見えた2017という数字も今では別れが惜しまれる。2018にもきっとすぐ慣れるだろう。そして2016のことはもう忘れてしまった。

メンタルへの二重の極みについて

 二重の極み(ふたえのきわみ)とは、「るろうに剣心」に登場する技で、拳を指の第三関節を曲げない状態で一撃を加え、そしてその後の刹那のタイミングで第三関節を曲げてもう一撃を加えるという技です。厳密に言えば、刹那の二連撃さえ満たせばいいので、やり方は問いません。

 この技は、最初の一撃が物質の抵抗と戦っている間に、もう一撃を加えることで、無抵抗な物質に完全に威力が伝達させることができ、その物質を破壊してしまうというすごい技なのです。原理に疑問がないでもないですが、実際漫画の中では物質が粉々に破壊されているため、実験実証されていることから効果を信じるしかありません。効果があるということは、原理の疑問を押し流すほどに強固なものなのです。

 さて、僕も中学生の頃に漫画の説明を読み、現実に二重の極みの殴り方を試してみたことがあります。しかし、これが難しい。一撃目が抵抗と戦っている刹那の二撃目というタイミングが全く掴めず、未だかつて一度も成功したことがありません。ただし、この二重の極みと同じ原理が成功するのを体感したことはあります。それは物理的なものではなく精神的なもの、フィジカルではなくメンタルに効く二重の極みです。

 

 仕事や生活をしていると、メンタルに負荷のかかるシチュエーションが存在し、場合によっては、そこで心が粉々に破壊されてしまうようなこともあります。しかしながら、そのきっかけの一撃が、必ずしも強い一撃であるとは限りません。他人からのほんの些細な一言で人間の心はボッキリと折れてしまったりもするのです。それがおそらく二重の極みのタイミングでしょう。

 人間が何らかの一撃目と戦っている瞬間に、そのタイミングを突いた軽い追加の一撃が人のメンタルに抵抗なしに伝達してしまい、破壊することがあります。

 

 僕の偏見ですが、人間はなんというか、大きな結果には大きな原因があるはずと思いたい生物なのではないかと思います。それはもしかすると物理現象に由来する物の見方ではないでしょうか?エネルギーは保存します。質量も保存します。一般的には無から有は生まれないと考えて問題ありません。小さな力で大きな結果を生み出すとき、物理の話であれば、それは実際には小さい力の無数の積み重ねであったり、あるいはその力以外の別の力を借りていたりします。総量の辻褄は合わなければならないのです。

 しかしながら、メンタルの世界はそうではありません。ゼロから無限が生まれますし、無限がゼロになることもあり得ます。誰かが嫌な思いをしたとき、その分、他の誰かが嬉しい思いをする…ということもあるにはあるでしょう。しかし、誰も嬉しくなくただただその場にいる全員が嫌な思いをすることだってあります。もちろん、その場にいる全員が嬉しくなっちゃったりすることもあります。メンタルの世界はゼロサムではないわけです。

 

 メンタルの世界においては保存則が成り立たないのだとすれば、小さな力で大きな結果を生み出すことができます。だとすれば、それはどのような状況でしょうか?二重の極みの原理で考えれば、それは、一撃目に相当する何かがその人の持つ抵抗の全てを使い切っているタイミングということでしょう。

 僕の仕事の経験で言えば、開発中のものについて何らかの仕様変更依頼を受け、その修正プランと各所へのスケジュール調整をやっと終えたタイミングで、「やっぱりこれも」と追加の変更を軽く言われて、再び変更プランの検討と各所の調整を全てやり直さなければならなくなったときなどが挙げられます。追加で言う当人からすれば、ほんの些細な変更でしょう?と思うかもしれませんが、どうにか調整をやりきったタイミングでそれを言われると、かなりの大ダメージです。

 実際このような依頼をされたとき、いつもは大体なんでも請け負う僕ですら、「やりたくないです!」と反射的に返事をしてしまいました。なぜならなんとか調整が終わったと思ったばかりのそれをまたやりたくなかったからです(ちなみに、色々悶着があったと結局やりましたが)。

 

 何かをやりきったと思った瞬間に追撃をかけるのは非常に効果的な二重の極みだと思います。他にも僕の経験を挙げるなら、昨年度のことがあります。色々なしがらみで、3月末までにやるはずだった仕事を、無理矢理1月末で終わらせたということがあり、大変しんどい思いをしました。これが一撃目です。年度の目標を早々と全部達成したので、それをいいことに2月3月は休みまくりでだらだら過ごそうと思っていたんですけど、昨今の人手不足の中、手が空いている人がいるぞ!!ということで、新しく立ち上げないといけなかったプロジェクトの主幹に急に割り当てられてしまい、結果的に2月3月はめちゃくちゃ激務となってしまいました。これが二撃目になりました。これが最近僕が受けた二重の極みで、あの時はだいぶ心が折れてしまいました。

 おかげで利用可能だった有給休暇を使うタイミングもなくなり、最終的に35日余ったことで、ブルゾンちえみのモノマネで「35日」と言いながら上層部に文句を言ったのを覚えています。一応休暇は年度を越えて繰り越せる制度なんですけど、日数制限があるので、かなりの休暇が消失してしまいましたね(その代わりに夏の賞与をすんごいもらったので許してはいます)。

 

 もう少し一般的な話にするならば、例えば想像してみてください。マンションの上層階から一階まで下りてゴミ出しをしに行ってきたあと、部屋に戻ると「あ、忘れてたからこれも」ともう一つのゴミ袋を渡されることを。一階までまた出しに行くのはそこまで大変なことではないですよ。でも、終わったと思って帰ってきたタイミングでそれを言われると、すごくしんどくなるじゃないですか。

 でも一方、言う側からすれば大したことじゃないよねという気持ちもあるでしょう。それで言われた人が傷ついたとして、そんなささいなことで傷つかなくてもと思う気持ちも分かります。でも、タイミングなんですよ。それが二重の極みでさえなければ、そんなに傷つかなかったのになということもあるじゃないですか。

 

 これは、自分が他人に言葉を投げかけるとき、相手が一撃目に抵抗しているかどうかを見極めないと大惨事になってしまうという戒めであり、あるいは、自分も変なタイミングで二撃目を受けてしまうと意外と脆いぞというような認識が必要ではないかということです。

 どんな状態でも一撃はあり得ます。人生が順風満帆で、あらゆることが上手く行っていて、大変幸福と思える状態だったとしても、まだしばらく駅に止まらない電車の中で急にお腹が痛くなってしまうだけで、自分は世界で一番不幸な人間なんじゃないか??思ってしまうような生き物が人間じゃないですか。そこでさらに追撃を食らうと、大変みじめな思いをしてしまったりするでしょう。誰にだっていつだって起こり得ることです。

 

 逆説的に言えば、メンタルにダメージを負いにくくなる方法もあるということです。それは、「極み外し」と呼ばれています。これはるろうに剣心の作中で二重の極みの使い手同士の戦いで使われていたもので、一撃目と二撃目の刹那の拍子のタイミングが破壊力を生み出すのならば、そのタイミングをずらしてやるだけで、耐えられる攻撃に変化します(結局痛いのは痛い)。

 そのずらし方は実際やってみると色々あって、一撃目を受けているときには、意図的に二撃目が当たらない場所に逃げておくとか、二撃目を受けても、とりあえず耳の右から左に流しておいて、ちゃんと受け止めるのは後にするとか、そもそも一撃目で抵抗を使い切らないように立ち回るとか、やりようはあります。

 メンタルが無抵抗で破壊されてしまうのは避けなければなりませんから、どうにか極み外しによって抵抗力を発揮して対策を打たなければなりません。

 

 僕は割とそういうのが得意なので、色々無茶な要求をされても、のらりくらりとタイミングを外しつつ、致命傷にならないように立ち回っているのですが、いつ何時、それすらできないタイミングで一撃を食らわされることになるかということも危惧しています。それは容易に抵抗できるものではないわけですよ。なぜなら、抵抗できるエネルギーを別で使ってしまったタイミングで来るからです。

 そして、ほんの些細なことで強く傷ついたり、怒ってしまうような他の誰かにも、それがその人にとってたまたま二重の極みのタイミングだったのかもしれないという想像もあります。たまたまであっても、何らかの意図的な悪意であっても、そういうタイミングで一撃を受けてしまうと、人間はとても脆いと思っておくのがよいのかもしれません。それは避けた方がいいですけど、それを狙ってくる人もいるので困ったものですね。

 

 ちなみに、今現在も僕はお仕事上の色々と無茶な要求を受けて続けているわけですけど、とりあえず極み外しでもするかと、ご飯を食べに外に出てきたタイミングでこの文章はなんとなく書かれています。なんとか上手く立ち回ることで、無抵抗な状態でダメージを受けたりしないよう心を守っていきたいですね。

「ここは今から倫理です。」といつか来る読書にうってつけの日

 グランドジャンププレミアムで連載中の「ここは今から倫理です。」の第一巻が出ました。このお話は、学校の倫理の先生が、悩みを抱えた色んな生徒と倫理の話をするというもなんですが、それが本当にすごくよいわけなんですよ。

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 学生さんは若いので、なんというか不完全なことが多いじゃないですか。ここで言う不完全というのは、自分の抱えた何らかの不協和を、解決する方法を考えることすらまだできないということです。人間は経験とともに段々と完全に近づいていきがちですから、そうなると問題の解決方法も段々と分かってきます。どんな不協和が発生しても、解決方法が分かれば解決できますから、それはもう悩みではありませんね。面倒ごとではあるかもしれませんが。

 

 人間は解決できない問題に直面させられ続けると、どんどん魂の根が腐ってきてしまうんじゃないかと思っています。根が腐ると地面から栄養を吸い上げることができませんから、調子も悪くなると思います。そんな感じに調子が悪くなりがちなのが思春期じゃないかなと僕は思っていて、作中で先生がやるのはそこから脱する手助けです。そしてその方法は、倫理の教科書で取り上げられているような人々が残した言葉です。

 何百年前でも何千年前でも人間は人間です。人間関係の中で生まれるような悩みは、おそらくは時代も場所も超えて共通していることも多いのではないでしょうか?つまり、その問題は決して世界でたったひとり、自分だけにしか起こらなかったものではないでしょう。違う場所や違う時代、どこかに同じ問題に直面した人がいるはずです。そして中には、それを乗り越えるための言葉を残した人たちもいます。

 

 それがつまりは倫理の言葉で、先生は生徒にかける言葉の端々にそれらを引用します。

 

 読書には適切なタイミングがあると思います。それは読んだ本の意味が分かったと思えるタイミングです。読んでいるそばから分かっていくものもあれば、読み終わったあとに分かるものもあります。そして、読んでから何年も経ってから不意に意味が分かるものもあるはずです。その本の意味が分かるのは、その本の中で取り上げられている問題と、自分の体験が一致したときではないでしょうか?つまり、読書の最善のタイミングのひとつは、その本の中で取り上げられている問題と、自分の体験が一致したときだと思います。そのタイミングが人生のどこで来るかは人それぞれで分かりません。

 

 作中に登場する少年少女たちは、その意味で、読書にうってつけのタイミングとなった人たちです。しかしながら、悲しいかな、彼ら彼女らは自分にとって適切な本がまだ既読ではありません。そこに現れるのが倫理の先生で、先生は生徒に対して、自分が読んだ本の中から適切な言葉を選び、その間を繋げるわけです。

 あなたの抱えている問題は、あなただけが抱える孤独なものではないということ、その問題に取り組んできた人たちがいたということ。そして、その言葉が長く残っているということは、つまり、その言葉が尊ばれてきた歴史でしょう。それは、その言葉を頼りに生きることが出来た人たちの轍で、後進はその上を歩くことができるということですよ。

 

 この物語で僕が特に良く感じるところは、先生自身もまた不完全な存在だということです。多くの本を読み、多くの言葉を学んでも、先生もまだまだ途上、不完全な人間です。目の前にある問題にどのように接したらいいかが分からないことだってあります。本が頼りにならなければ自分の言葉を出すしかありません。それはまだ轍になっていない、個人の不安定な言葉かもしれませんが、でも黙らず、それを発することの誠実さがあるわけじゃないですか。

 昔からある言葉は、昔からあるだけあって、昔からある問題に取り組む上で適切な役割があるかもしれません。でも、それがずっとあるということは、その問題はまだまだ根絶されていないというわけじゃないですか。場合によっては何百年物間、人間は同じようなことで悩んだりしているわけですよ。

 同じような悩みを抱えていても、ひとりはひとりです。束で扱えるわけではありません。大きな枠では共通していても、個別にはそれぞれに差異があるでしょう。そこに接するためには、本に載っている倫理の言葉だけではきっと足りません。多くの人に響く言葉は、個別の人々に向けるにはきっとおおざっぱです。だから先生はひとりひとりの生徒のために自分の言葉も出しますし、それによって先生のまだまだ不安定な内面も出てきます。

 人間は他人から聞いた言葉は自信満々で断言できるというようなことが「子供はわかってあげない」に出てきました。だから、僕もこれを自信満々に言いますが、それを裏返すと、自分の中から出てきた言葉には、何かしら不安が含まれているわけですよ。それが本当であるということは自分自身で証明しないといけないことだからです。

 もしかすると、倫理の教科書に出てきた人たちも当時はそうだったのではないでしょうか?何かの問題に対して、それをどう解釈し、どのように解決するか、あるいは解決しないままでもどのように接するべきなのか、不安混じりで書かれてきた歴史があるのではないでしょうか?ならば、今の先生もまたそのひとりです。

 

 それは生きていく上で直面してしまう様々な不協和と、何らか折り合いをつけながら生きていくための言葉だと思うんですよ。それは正しいかもしれません、間違っているかもしれません、でも、それを発することで生きていく中での重圧につぶされずに抜け出そうとする意志の言葉なんじゃないでしょうか?

 

 第一巻に収録されている話の中でも、僕は第四話がとても好きで、雑誌掲載時から何度も何度も繰り返し読んでいます。この話では、ある悩みを抱えた生徒に対する先生の接し方がとても優しいところがすごくよいんですよ。その子が言うことは少々突飛なことであるのですが、その言葉に対する先生の接し方の距離感がすごくよいです。分かったようなことは言わないわけです。それを実感としては分からないということは曲げません、体感を曲げて、表面的な共感を示そうとはしないということです。でも、その子がなぜそういうことをするに至ったかということについては強く肯定するわけです。決して否定せず、それがその子が抑圧や重圧に溢れる日々の生活の中で、少しでもよく生きようとしているということだと理解するわけです。その子がそうしているということは決して間違ってなんかいないと示してあげるところがとても優しく誠実で感激してしまいました。

 

 生きていれば様々な問題に直面します。それに対して、物理的には何にも力がないような言葉が、なぜかそれを乗り越えて生きる上で強い力を発揮したりします。

 人間の歴史はきっとその積み重ねですし、それは現在進行形で行われ続けているはずです。ここは今から倫理です。はその最先端のひとつであって(この最先端とは過去を踏まえた現代の今であるという意味です)、そして、最先端であるがゆえに、また不安定さも抱えます。その不安定さの中で、問題が必ずしも単純に解決するとも限りませんが、何らかの行先を見つけて、目指して、前に進む様子がとてもよくて、今後も連載がすごく楽しみだなと思っています。

蝶のように漫画を読み、蜂のように絵をパクる話

 僕は絵を描くのが好きなんですけど、ほんとすぐに他人の影響を受けた絵を描きます。つまり、良いと感じた絵を容赦なくパクりまくっています。

 

 そもそも僕は絵を見るのが好きなんですけど、世の中のほとんどの絵は僕個人に向けては描かれていないじゃないですか。でも、唯一僕に対して気軽に絵を描いてくれる存在がいます。それが自分です。なので、僕は自分が喜ぶ絵を描くんですよ。そんでもって自分を喜ばす絵というのは、きっと自分が好きなものだけが山ほど詰まった絵じゃないですか。そして、自分がどんな絵が好きかというのは、他人が描いた絵を見て気づくことが多いのです。なので、僕はそれらをパクることにしています。つまり、色んな好きな絵を描く人の好きな部分を勝手にパクリまくるわけです。それらを僕の下手くそな画力でつぎはぎにして誕生した、フランケンシュタインの怪物こそが僕の絵です。

 例えば目の描き方、鼻の描き方、口の描き方、全身の筋肉の描き方、他にもそれぞれ元ネタがあります。ただし、それぞれ元ネタが複数あるために、混ぜ合わされてぐちゃぐちゃになっています。僕はそれらを意識的にパクっているので、僕自身にはそれぞれの元ネタが具体的に何か分かります。ただし、分からない人にはオリジナルと誤解されるかもしれません。もしそういう人がいた場合、その人たちの目は節穴です。

 

 僕がこういうことになっているのは、基本的に漫画を見て、漫画の絵を描いているからで、実在の対象物を見て、漫画の絵に落とし込むというようなことをちっともしていないからかもしれません。漫画を読むのが好きの延長で絵を描いているんですよ。絵を描いてはいるんですけど、それは創作というよりは、実質漫画を読んでいることに近い。

 

 僕が描く絵が他の人から見て良い絵かどうかは分かりません。僕の好きなもの全部のっけ丼みたいなものなので、僕からしてみれば全部好きなんですけど、他の人がどうだかは知ったこっちゃないのです。そして、それでいいじゃないですか。だって、僕は絵を描いてご飯を食べているわけではないので、他の人を喜ばせる必要なんてまったくないですし、描いている僕自身が楽しければ、他に何の問題があるって話ですよ。

 

 さて、僕は好きな漫画のファンアートをよく描いているんですけど、それって何のために描いているかというと、その漫画の絵柄の好きな部分と自分の絵を混ぜる実験みたいな側面があります。自分の絵柄をベースにその漫画の絵を描くことによって、その漫画の絵の好きなエッセンスが自分の絵の中に取り込まれるわけじゃないですか。もちろんそれは不完全ですよ。なぜなら僕は絵が上手くないですし、漫画家さんはみんな絵が上手いからです。下手なのに上手いのを完全に再現できるわけがないじゃないですか。でも、その一要素みたいなものを少しでも自分の中に取り込むことができれば成功です。
 僕が好きな漫画は晴れて僕の絵の一部になるわけですよ。それは歪かもしれませんが、好きという気持ちの表明の一形態ではないでしょうか?

 

 好きなものにはすぐに影響を受けてしまうことこそが、僕の全力の好きの表現なんですけど、絵に限った話ではなく、面白いなあと思った人の語り口とか、好きな人の口調とか、めっちゃいい文章を書くひとの文体とかをすぐに真似してしまいます。小中学生の頃に、日曜日の夜に見たダウンタウンのごっつええ感じのコントを月曜日に学校で再現していた頃となんら変わりがありません。おっさんになった今でも、好きな芸人のネタのモノマネとかを友達との会話の端々に盛り込んでいっています。なぜならめちゃくちゃ好きだからです。好きなものの好きな部分を自分で再現するのって、僕はめちゃ満たされる感じがするんですよ。

 

 ただ、他人に真似されるのって、真似される側からするとストレスになるみたいなところもあると思うので、そういうところを気にしないでもないですが。

 

 色んな好きなものを容赦なくパクりまくって、自分のものであるかのように使うじゃないですか。そんな感じに使いまくっていると、色んなところからパクってきたせいで初めはバラバラだったはずの要素が、自分の中でだんだん馴染んできたりもします。そういうところもいいところじゃないかと思います。十分馴染んでくれば、もはや自分のものと区別がつかなくなってきます。好きなものが自分自身になってきます。

 ひとりの人から全力でパクれば、すぐにパクリとバレるかもしれませんが、100人の人から全力でパクって自分の中で馴染ませれば、ひとつひとつの要素は100分の1ぐらいしか出てこないので、これがバレにくくなる可能性があります。

 おかげでオリジナルと誤解してもらえることもあるので、オリジナリティがありますね?って言われるとありがとうござます!(節穴ですね)と思いますが、実はそもそも世の中で認められるオリジナリティというのはそういうものも多いのかもしれません。

 オリジナリティとは、無から何かを作りだしたということだけではなく、その人が好きな様々な何かからどれだけの割合で影響を受けたかというバランスそれ自体もまた、オリジナリティと呼べるものであるかもしれないからです。なので、僕にオリジナリティを認めてくれた人は、節穴などではなくそのパクリ方のバランスに価値を見い出してくれた素晴らしい人かもしれません。

 

 独創性を保ちたいためにできるだけ何も見ずに何にも影響を受けないように絵を描くという話もたまに耳にします。それはそれでひとつの考え方なのでいいと思うんですけど、実はあらゆるものにあえて影響を受けまくることでむしろ独創性を感じてもらえるということもあるのかもしれません。

 

 さて、ここからは僕が最近すごく影響を受けようとしている梶本レイカ漫画のファンアートをご覧ください。

 梶本レイカの新刊、悪魔を憐れむ歌の第2巻は12月9日(土)発売です!!!

www.comicbunch.com