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インターネットvs著作権関連雑感

 「インターネット」というものが何であるかというと、その解釈のひとつは「コピー」なのではないかと思います。サーバに存在している情報を手元のクライアントにコピーすることができるのがネットワークの機能のひとつだからです。インターネットは世界中のたくさんのサーバが相互接続するという仕組みです。そこに参加する世界中の誰もが情報をコピーすることができるようになります。

 あまり遠くにあるサーバに問い合わせに行ったり、同じ情報に何度もアクセスする場合には、サーバとクライアントの間にその情報を一時的に置いておく場所が作られたりもします。それを「キャッシュ」と呼びますが、それもつまりはコピーです。キャッシュはサーバの情報をコピーし、クライアントはそのコピーのコピーを作ります。場合によってはサーバの情報が既になくなったのに、キャッシュだけが残っていることもあります。オリジナルは消失し、コピーだけが残っているのです。そのコピーをまた誰かがコピーし、世の中にはその大元が何であったかも忘れ去られてしまったコピーだけが残っていることもあります。

 

 著作権という言葉は、英語ではコピーライトと言います。コピーの権利です。つまり、ある人が何かを作ったときに、それをコピーしていいかどうかを決める権利が、作った人にあるという仕組みです。

 どうですか?インターネットとは相性が悪いとは思いませんか?インターネットはコピーの仕組みで、著作権は勝手なコピーを差し止める仕組みです。インターネットの歴史はその軋轢の歴史でもあります。インターネット的な考え方は、あるひとつのものから無数のコピーを生み出します。そして、著作権の意味は、勝手にコピーを作られてしまうことで毀損されてしまいます。

 著作権には、海賊版のような勝手なコピーを作られない権利の他に、著作隣接権などもあります。それは例えば同一性保持権、つまり、自分が作ったものを他人に勝手に改変されないようにするという仕組みです。これもまたインターネットの仕組みとは相性の悪いものです。例えば、コピーとはどこまでがコピーなのかということを考えなければなりません。

 例えば、高精細に描きこまれた絵があったとして、それを低品質設定のjpegで小さく保存したとき、それは同一と考えられるでしょうか?劣化した画像では、作者が精緻に描きこんだ線を見ることはできないかもしれません。あるいは意図した色が出ていないかもしれません。それを同一として考えることができれば問題ありませんし、同一として考えることができなければ問題があります。例えば、画像の上に何か文字が載ればどうでしょうか?例えば、複数の画像が組み合わされて表示されたときに別の意図を読み取ることができるようになればどうでしょうか?ある作品が同一であると考えることができる根拠とは何でしょうか?

 例えば、ある画像をキャッシュするときに、サーバの保存容量削減や通信容量の削減などを意図して、上記のような何らかの変換が行われることがあります。それが同一でないならば、作者の意図した作品の価値を毀損してしまいます。良いか悪いかといえば良くないことのように思います。でも、実際にはそれが行われています。このような細々とした軋轢が、様々な人の議論によって何となく問題ないように運用されているのが今のインターネットです。でも、このような問題は今なお完全に解決されたわけではありません。

 

 インターネットはコピーの文化です。それは作者の意図からすれば、劣化コピーの文化と言えるかもしれません。あるいは、別の人の視点からすれば、コピーに加えられた手が新しい価値を生み出す文化と捉えることもできるかもしれません。僕は両方を理解することができ、そしてそれらが対立することも理解できます。

 

 インターネットと著作権が対立するのだとしたら、そして、そのどちらかの立場に足を置き、その正義を唱えるならば、どちらかが勝利し、あるいは敗北するでしょう。そして、勝者は喜び、敗者は不満を抱える結末になるでしょう。でも、そういうことなのかな?という気持ちがあります。するべきなのは、正義の話ではなく、利害の話なのではないかとずっと思っています。正義は悪(とみなしたもの)と戦い、ときに勝利ときに敗北をしますが、利害には勝敗以外の結末があります。どこまでは譲ることができ、どこからは我慢できないのか?その場に参加した人たちの中で、線を引く場所を決めるための利害関係の交渉が行われます。とはいえ、その交渉の結果に不満が残ることも多々ありますが。

 著作権を強く守ろうとすれば、インターネットの上での流通を阻害することは間違いありません。コピーをするために手続きが必要であれば、その手続きをちゃんとする人相手にしか流通しないからです。そして、それらの手続きをちゃんとする人というのはおそらく少数派です。その手続きを通さずにコピーされ、そのコピーのコピーが手続きなしに流通しやすいのがインターネットです。それはインターネットがインターネットである限り、排除はできないものなのかもしれません。

 

 でも、じゃあ、それでいいのかな?という気持ちはずっとあるわけなんですよ。

 

 著作権の思想から言えばインターネット的なものと折り合いをつけつつ、以下の2点を守ればいいのかもしれません。

  • ある作品を作った人がそれを勝手にコピーした人よりも利益を得られること
  • 自分の作った作品が意図しない使われ方をしたときにそれを差し止める権利があること

 このような考えに通じる発想であれば、例えば米国パロアルト研究所が提唱したContent-Centric Networkなどがあります。従来のインターネットがIPアドレスというサーバの住所をベースに繋がっていたのに対し、こちらは、コンテンツ自体がその中心にあり、それがどこのサーバにあるのかということは意識せず、何のコンテンツが欲しいのかということをベースに繋がることが企図されています。そこではコンテンツの同一性が従来以上に意識されるはずです。クライアントが手にするコンテンツが、誰かが作ったどこかの何かではなく、どのコンテンツであるかという素性が重要視されるからです。

 ただ、これが一般的になるというのはハードルが高いように思いますが。

 

 世の中には、インターネットと著作権という矛盾しそうなものを両方に満たそうとするために、色々考えている試みが他にも色々存在しています。それが遠くない未来に現実化することを期待していて、そうでなければ、インターネット的なコピーに著作権という思想は負けてしまうのではないかと思うからです。

 だって悔しくないですか?インターネット上でのある種の勝ちパターンが、他人が作ったものを大量に集めて、それを二束三文のものとして扱うことで小金を稼ぐというようなものになっていることが。

 価値ある情報を流通させるという仕事にも大変重要な意味があることは理解しますが、もう少し、その価値ある情報を作った人が報われてもいいというのが僕の感覚で、そのための利害関係の調整がもう少しあってもいいだろうと思っているわけです。

 

 ちなみに月額料金を払って聞き放題、見放題、読み放題なんかのサブスクリプション型はひとつの解ではあると思いますが、これも結局二束三文で売り払うものの亜種とも考えることができて(海賊版にやられるぐらいなら二束三文にでもなるほうがましという感じの)、それが最終的な到達点なのだとすればあんまり希望のない世の中だなと個人的に思っています。