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「ここは今から倫理です。」といつか来る読書にうってつけの日

 グランドジャンププレミアムで連載中の「ここは今から倫理です。」の第一巻が出ました。このお話は、学校の倫理の先生が、悩みを抱えた色んな生徒と倫理の話をするというもなんですが、それが本当にすごくよいわけなんですよ。

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 学生さんは若いので、なんというか不完全なことが多いじゃないですか。ここで言う不完全というのは、自分の抱えた何らかの不協和を、解決する方法を考えることすらまだできないということです。人間は経験とともに段々と完全に近づいていきがちですから、そうなると問題の解決方法も段々と分かってきます。どんな不協和が発生しても、解決方法が分かれば解決できますから、それはもう悩みではありませんね。面倒ごとではあるかもしれませんが。

 

 人間は解決できない問題に直面させられ続けると、どんどん魂の根が腐ってきてしまうんじゃないかと思っています。根が腐ると地面から栄養を吸い上げることができませんから、調子も悪くなると思います。そんな感じに調子が悪くなりがちなのが思春期じゃないかなと僕は思っていて、作中で先生がやるのはそこから脱する手助けです。そしてその方法は、倫理の教科書で取り上げられているような人々が残した言葉です。

 何百年前でも何千年前でも人間は人間です。人間関係の中で生まれるような悩みは、おそらくは時代も場所も超えて共通していることも多いのではないでしょうか?つまり、その問題は決して世界でたったひとり、自分だけにしか起こらなかったものではないでしょう。違う場所や違う時代、どこかに同じ問題に直面した人がいるはずです。そして中には、それを乗り越えるための言葉を残した人たちもいます。

 

 それがつまりは倫理の言葉で、先生は生徒にかける言葉の端々にそれらを引用します。

 

 読書には適切なタイミングがあると思います。それは読んだ本の意味が分かったと思えるタイミングです。読んでいるそばから分かっていくものもあれば、読み終わったあとに分かるものもあります。そして、読んでから何年も経ってから不意に意味が分かるものもあるはずです。その本の意味が分かるのは、その本の中で取り上げられている問題と、自分の体験が一致したときではないでしょうか?つまり、読書の最善のタイミングのひとつは、その本の中で取り上げられている問題と、自分の体験が一致したときだと思います。そのタイミングが人生のどこで来るかは人それぞれで分かりません。

 

 作中に登場する少年少女たちは、その意味で、読書にうってつけのタイミングとなった人たちです。しかしながら、悲しいかな、彼ら彼女らは自分にとって適切な本がまだ既読ではありません。そこに現れるのが倫理の先生で、先生は生徒に対して、自分が読んだ本の中から適切な言葉を選び、その間を繋げるわけです。

 あなたの抱えている問題は、あなただけが抱える孤独なものではないということ、その問題に取り組んできた人たちがいたということ。そして、その言葉が長く残っているということは、つまり、その言葉が尊ばれてきた歴史でしょう。それは、その言葉を頼りに生きることが出来た人たちの轍で、後進はその上を歩くことができるということですよ。

 

 この物語で僕が特に良く感じるところは、先生自身もまた不完全な存在だということです。多くの本を読み、多くの言葉を学んでも、先生もまだまだ途上、不完全な人間です。目の前にある問題にどのように接したらいいかが分からないことだってあります。本が頼りにならなければ自分の言葉を出すしかありません。それはまだ轍になっていない、個人の不安定な言葉かもしれませんが、でも黙らず、それを発することの誠実さがあるわけじゃないですか。

 昔からある言葉は、昔からあるだけあって、昔からある問題に取り組む上で適切な役割があるかもしれません。でも、それがずっとあるということは、その問題はまだまだ根絶されていないというわけじゃないですか。場合によっては何百年物間、人間は同じようなことで悩んだりしているわけですよ。

 同じような悩みを抱えていても、ひとりはひとりです。束で扱えるわけではありません。大きな枠では共通していても、個別にはそれぞれに差異があるでしょう。そこに接するためには、本に載っている倫理の言葉だけではきっと足りません。多くの人に響く言葉は、個別の人々に向けるにはきっとおおざっぱです。だから先生はひとりひとりの生徒のために自分の言葉も出しますし、それによって先生のまだまだ不安定な内面も出てきます。

 人間は他人から聞いた言葉は自信満々で断言できるというようなことが「子供はわかってあげない」に出てきました。だから、僕もこれを自信満々に言いますが、それを裏返すと、自分の中から出てきた言葉には、何かしら不安が含まれているわけですよ。それが本当であるということは自分自身で証明しないといけないことだからです。

 もしかすると、倫理の教科書に出てきた人たちも当時はそうだったのではないでしょうか?何かの問題に対して、それをどう解釈し、どのように解決するか、あるいは解決しないままでもどのように接するべきなのか、不安混じりで書かれてきた歴史があるのではないでしょうか?ならば、今の先生もまたそのひとりです。

 

 それは生きていく上で直面してしまう様々な不協和と、何らか折り合いをつけながら生きていくための言葉だと思うんですよ。それは正しいかもしれません、間違っているかもしれません、でも、それを発することで生きていく中での重圧につぶされずに抜け出そうとする意志の言葉なんじゃないでしょうか?

 

 第一巻に収録されている話の中でも、僕は第四話がとても好きで、雑誌掲載時から何度も何度も繰り返し読んでいます。この話では、ある悩みを抱えた生徒に対する先生の接し方がとても優しいところがすごくよいんですよ。その子が言うことは少々突飛なことであるのですが、その言葉に対する先生の接し方の距離感がすごくよいです。分かったようなことは言わないわけです。それを実感としては分からないということは曲げません、体感を曲げて、表面的な共感を示そうとはしないということです。でも、その子がなぜそういうことをするに至ったかということについては強く肯定するわけです。決して否定せず、それがその子が抑圧や重圧に溢れる日々の生活の中で、少しでもよく生きようとしているということだと理解するわけです。その子がそうしているということは決して間違ってなんかいないと示してあげるところがとても優しく誠実で感激してしまいました。

 

 生きていれば様々な問題に直面します。それに対して、物理的には何にも力がないような言葉が、なぜかそれを乗り越えて生きる上で強い力を発揮したりします。

 人間の歴史はきっとその積み重ねですし、それは現在進行形で行われ続けているはずです。ここは今から倫理です。はその最先端のひとつであって(この最先端とは過去を踏まえた現代の今であるという意味です)、そして、最先端であるがゆえに、また不安定さも抱えます。その不安定さの中で、問題が必ずしも単純に解決するとも限りませんが、何らかの行先を見つけて、目指して、前に進む様子がとてもよくて、今後も連載がすごく楽しみだなと思っています。