漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

2017年のお気持ち振り返り

 なんとなく時間が空いたので、早々と今年一年感じたこととかを振り返ってみるかという気持ちになったので、なんとなく書きます。

 

 僕はあまり人間の意志の力というものを信じていない。なぜなら僕自身がとても意志の弱い人間だからだ。今日だって朝早くに起きて仕事場に行こうと思っていた。なぜなら、他の人が来ると色々お仕事を頼まれ始めてしまうからだ。だから、誰も来ないうちに雑務をさっさと片づけておこうと思ったのにできなかった。早く起きはしたけど、コタツに入ってボーっとテレビを見ながら、行かないとなあと思いながらもなかなか家を出ず、結局いつもより15分早く来ただけだ。パソコンを立ち上げたりコーヒーを淹れたりしていたら他の人たちが来てしまった。やろうと思ったことができない。これでも昨日寝る前は絶対そうしようという固い決意があったわけなんですよ。

 

 強い意志の力で何かを成し遂げることは僕には困難だ。僕の行動原理はすごくシンプルで単純な利害によるものです。朝早く仕事場に行って、溜まってる雑用を片づけることで得る利益よりも、寒い日の朝にコタツに入ってぬくぬくしている時間が一秒でも続くことの方が自分には利益が大きかったという話で、そりゃそうだと思うしかない。ただこれが例えば、朝7時に仕事場に集まるように他の人と約束をしていたとしたら結果は違ったかもしれない。遅刻すれば相手を待たせてしまうという申し訳なさから、ちゃんと早く行けたかもしれない。それはだって、そういう利害だから。

 やりたいことはやりたいし、やりたくないことはやりたくない。それは立派な大人の態度ではないかもしれないけど、じゃあ僕は立派な大人ではないですよってことです。そしてそのような意味で大人でいることはよいことなんでしょうか?

 

 意志の力に期待しなければ、世の中で起こる多くのことは意志の力で成し遂げられたことではないんじゃないかと認識するようになる。どんなに杜撰に見えることも、悪辣に見えることも、そういう利害を当事者が持っていただけかもしれないと思うようになる。例えば人を殴るという決断とした人がいたとして、その人にとっては殴らないよりも、殴る方が利益があるということだったのだろうと思ったりする。

 殴ることによる得が、殴らないことによる損よりも大きいと感じたのだろう。僕はそういうとき、殴らない方が得になるようになっていればよかったのになと思う。そうすれば、誰も痛い思いをしなくて済んだと思うので。

 人がそう思ってしまうのは、その人のそれまでの環境や経験、そして、事が起きたときの環境や体験によるもので、その場所がそういう力場であったということじゃないかと思う。坂道にボールを落とせば、低い方に転がるものだ。なぜなら、そういう形をした場所なのだから。坂道に落としたボールが上に這い上がってきたらびっくりするだろう。時折そういうこともある。人間にはすごい人もいる。

 どんな不作為を目にしても、僕が同様の環境において同様の経験や体験を与えられたら、それをしないでいられたか?と聞かれれば、絶対しないと断言できないことも多い。自分にできなさそうなことを他人に強いるのはよくないことだなと思う。

 

 最近は他人のよくないと思う行動を見たときに怒りよりも、悲しみの方を感じることの方が多くなった。

 

 他人をバカと罵る人が本当に言いたかったことは、自分の方が賢いということなんじゃないかと想像してしまう。自分が賢いと主張するための方法が、他人をバカと罵ることしか見つからなかったのだとしたら、それはきっととても悲しいことだと思う。なぜならその人は、自分が賢いと説明し理解してもらうよりも、他人をバカと罵ることの方が、自分が賢いと思われるためには近道だと思えるような場所にいてそういう経験をしてきたのだろう思うからだ。

 真っ当なやり方が理解されないならば、真っ当ではない道を歩むしかなくなってしまう。ただ、その真っ当でない道も目的地に続いているかは依然として不透明だ。

 

 他人にファッションセンスがないと言う人はファッションセンスがある人なんだろうか?他人を間違っていると指摘する人は正しい人なんだろうか?何かの漫画や映画やゲームがつまらないと言う人は、面白さとは何かを知っている人だろうか?

 いや、おそらく本人の中では知っていて、それを定義できていると思っていることも多いだろう。そして、自分の中にある「面白い」という定義に反しているものを「つまらない」とするのだろう。

 でも、その面白いの定義は、果たしてその人本人以外と共有できるようなものだろうか?例えば、いがみ合っていた男女が段々と惹かれあい最後にキスをするのが面白いお話であるという定義があったとして、それに反するような人の理解しあえなさを描いたお話は必ずつまらないお話なのだろうか?

 これは良いこと、これは悪いことという根拠が自分の中で確固としてくればするほど、それ基準で物事を見てしまったりすると思う。そして、それはしばしばとても窮屈だ。自分の中にある良し悪しのチェックリストから、悪いポイントに沢山丸が付いたのでこれは悪くてつまらないものですという結論を出すのは分かりやすいやり方だ(もちろんその逆も)。でも、じゃあ、もし、あまりにも悪いポイントばかりなのに、強烈に惹かれてしまうものが出てきたらどうするんだよと思う。

 それでも自分が今まで主張していた悪いポイントを持っているので、これはやっぱり悪くてつまらないと言ってしまうのだろうか?もしくは今までそれを根拠にして否定してきた数々をなかったことにして良くて面白いと言うのだろうか。自分の中で長年かけて作り上げてきた良いとか悪いのチェックリストが間違っている可能性を考えるはめになったとき、人はそれを作り直そうと思うことができるのだろうか?

 

 生まれてから何十年もかけて作り上げてきた良いと悪いを選り分けるためのチェックリストとは、言い変えれば価値観や常識なんて呼ばれてしまうものだと思う。それを捨ててしまうのはおそらく誰にだって困難だ。だって、どうにかこうにか作り上げてすがりついてきたものを捨て、全く新しい価値観に作り直すということはかなりしんどいと思うし、なかなかやれるものではないだろう。

 

 世の中は全てを知るには広すぎるし、全てを理解するには複雑すぎる。そこに真摯であろうとすればするほど、一歩も先へ進めなくなったりする。だから、普通は分かってないことも分かったことにして先に進むだろう。

 何日か前にニュースで見た、数学のなんだかすごい証明なんかも、僕にはひとつも理解できなかったけれど、なんだか分からないがすごいことなんだろうと思った。学識のありそうな人を含めたみんなが、すごいと言っていたからだ。それは全く科学的な態度ではないし、それはただ信じるために信じるという信仰に近いものだと思う。僕は科学に関して、自分で実験検証できない大半の領域については信仰のように取り扱わざるを得ない。そうするしか選択肢がない。しかしながら、同時に全てをわずかずつ疑ってもいる。それが自分の中に最後に残る良心だと思うからだ。だって、本当は分かってないじゃないか。それらを、僕は、全部。

 信じるために何かを信じるとき、じゃあなぜそれを信じることにしたのかが分からなく思う。それはやっぱり、自分の意志の力によるものなんかではないことが多いと思う。なんとなくだ。なんとなくというのは、自分の周囲やこれまでの経験から作り上げた価値観にただ寄り添うということだ。そして、その価値観が正しいことは誰かが証明してくれることでもない。みんなが正しいと言っているからといって、それが本当に正しいとは限らない。ただ、間違うときはみんなで一斉に間違うということだけが確かだ。もし、それが実は間違いだったと発覚したとして、その間違いを信じてしまった罪の責任は誰がとるのだろうか?誰も責任をとらないかもしれない。あるいは、誰かを戦犯として生贄に差し出すかもしれない。

 

 僕は結局自分の意志でどうにかなる領域なんてごく限られていると思っていて、それぞれの人は普通はそれぞれの人の領域で経てきた体験をベースに、自分が得になりそうな選択をなんとなくしているだけのように思う。だから、間違ったことをした個々人に間違ったということで罰を与えたとしても、大局的には何も変わらないんじゃないかと思う。変えたいならば、その間違っていた人が寄り添っていた価値観自体に手が入る必要がある。その間違った価値観に寄り添うことが一番得になるという状況が変わらなければ、それが消えることはないんじゃないかと思うからだ。その人が罰せられたとしても、また別の人が同じことをする。

 でも、そもそも絶対的な正しさなんてないでしょう?いや、仮にあるとしても、僕がそれを認識できているなんて主張するのは、きっとひどく傲慢な話だ。そして、僕がその正しさを標榜すれば、それに反するあらゆるものを間違ったものに押し込めてしまう。それはとても暴力的だろう。だから不完全な僕には何も言えることはない。

 ただ、誰かが自分の得になる行動をすることで、誰かが損になるようなことがあると嫌だなと思う。何かを奪わなくても何かが得られるぐらいに、人間社会はそれぐらいの豊かさを持っていてほしいと願う。

 

 阿部共実の「ちーちゃんはちょっと足りない」で、ちーちゃんとナツはやってはいけないこと(窃盗)をする。なぜそんなことをしてしまうかというと、足りないと思うからだ。つまり、自分たちが持っていないから、みんなが当たり前に持っているものを自分たちだけが持っていないということを根拠に、やってはいけないことをしてしまう。それは悪いことだ。やってはいけないことだ。でも何より悲しいことは、そうしてもいいと思ってしまうほどに、自分にはあるべきものが足りないと思って生きていることだと思う。

 満たされていさえすれば、やらなくて済んだことを、満たされないがゆえに求めてしまう。そのためにしでかしたことが、自分をさらに追い詰めたりする。誰にだってある話ですよ。私は皆と比べてこんなに恵まれていないのだから、すこしぐらいズルをしたっていいと思ってしまう。それでようやく人並みだと思ってしまう。人がそうだと思ってしまうことが何より悲しい。

 「闇金ウシジマくん」でもウシジマくんも言っていた。自分に金を借りに来る人たちは、孤独に耐えられない人たちだと。その孤独を解消するために一番安易な方法をとってしまう人たちだと。つまり、自分と人を繋ぐために使うのがお金で、お金でしか人と繋がれないと思うからこそ、さらにお金ばかりを求めてしまう。本当は、他人と幸せに生きたかっただけなのに、そのための一番簡単に思えた方法が借金で、そのせいでよくない結果を招いてしまう。

 

 そういうお話を読んで、ああ、悲しいなと思う。具体的に書きはしないけれど、お話の中だけじゃなく、現実にも起こっているのも目にしてしまう。人の力は無限じゃないし、人生はだいたいどうしようもないけれど、そのどうしようもないの行く着く先が不幸にならないような感じにならないとダメだよなと、色々な出来事を振り返り、ただただ思ったりしています。

 2017年も終わりが近づいている。2018という数字にまだ馴染みはないけれど、あんなに珍奇に見えた2017という数字も今では別れが惜しまれる。2018にもきっとすぐ慣れるだろう。そして2016のことはもう忘れてしまった。